08 23(日) 兄弟会 |
08 24(月) ささゆり |
サ サ ユ リ ササユリ Lilium japonicum (ユリ科 ユリ属) ササユリは本州中部から九州に分布する多年草。山地の草原や明るい森林に生育する。地下に白い鱗茎(いわゆるユリ根)がある。小さなものは根生葉のみであるが、大きく育ったものは花茎をのばし、6月から7月にかけて美しい花を咲かせる。花は1つであることが多いが、複数咲くこともある。花の長さは10〜15cmで、淡紅色。雄しべは6本で葯は鮮やかな赤褐色。強い香りがある。葉は厚く、名前の由来になっているように、ササの葉によく似ている。ササに擬態しているわけではなかろうが、ササと混生していると、花が咲かないとわかりにくい。 近年、ササユリが減少しているとよく言われる。確かに咲いているのを見ることは少なく、ましてや摘んで持ち帰る気持ちになるほどの群生には久しくお目にかかっていない。ササユリの減少は、自然が壊れていることの証であるとの意見もある。そのように考えても良いのだろうか? ササユリは種子で繁殖する。種子から芽生えたササユリは1枚あるいは数枚の根生葉を出すだけで、茎はない。したがって、幼苗の時期には地表面にある程度の光が当たっている場所に侵入する必要がある。開花できるまでに生長するのに数年がかかるとすれば、少なくとも数年間は地面にまで光が当たる状態が継続されないと、生長して花を咲かせることができないことになる。森林の伐採は、このような状況を作り出す。薪炭林として定期的な伐採が行われたり、柴木を刈り取る作業はササユリの生育には都合の良い環境であったであろう。森林利用の減少と形態の変化がササユリの減少になっているに違いない。 ササユリを長期間栽培することは結構難しい。球根を採取してきた次の年は開花するのだが、やがて姿を消してしまう。同じ場所で栽培すると病気になって消滅するらしい。新鮮な土地に定着し、数年間で花を咲かせて移動するのが本来の姿なのであろう。ササユリも野に咲いてこそであり、庭でカサブランカと競わせることは慎みたい。 @ http://sasayuri.littlestar.jp/index.htmlからササユリ ササユリ(ささゆり・笹百合)栽培と自生地の保護管理、ホタルの養殖育成|ホタル・ユリの会(三重) A http://sasayuri.littlestar.jp/contents/sasayuri/index.html ササユリ(ささゆり・笹百合)の栽培・種まき、発芽、開花のようす|ホタル・ユリの会 B http://www.hi-ho.ne.jp/t-asai/sasayuri/ ササユリ栽培 C http://www.alpine-plants-jp.com/shitsumon/kaitou_42.htm 質問箱に対する回答42 ササユリの栽培と種子繁殖法について |
08 26(水) 天地人米沢市訪問 |
■ 直江状(原文) 2009. 1.10 今朔の尊書昨十三日下着具に拝見、多幸々々。 一、当国の儀其元に於て種々雑説申すに付、内府様御不審の由、尤も余儀なき儀に候、併して京・伏見の間に於てさへ、色々の沙汰止む時なく候、況んや遠国の景勝弱輩と云ひ似合いたる雑説と存じ候、苦しからざる儀に候、尊慮易かるべく候、定て連々聞召さるべ候事。 一、景勝上洛延引に付何かと申廻り候由不審に候、去々年国替程なく上洛、去年九月下国、当年正月時分上洛申され候ては、何の間に仕置等申付らるべく候、就中当国は雪国にて十月より三月迄は何事も罷成らず候間、当国の案内者に御尋ねあるべく候、然らば何者が景勝逆心具に存じ候て申成し候と推量せしめ候事。 一、景勝別心無きに於ては誓詞を以てなりとも申さるべき由、去年以来数通の起請文反古になり候由、重て入らざる事。 一、太閤以来景勝律儀の仁と思召し候由、今以て別儀あるべからず候、世上の朝変暮化には相違候事。 一、景勝心中毛頭別心これなく候へども、讒人の申成し御糾明なく、逆心と思召す処是非に及ばず候、兼て又御等閑なき様に候はば、讒者御引合せ是非御尋ね然るべく候、左様これなく候内府様御表裏と存ずべく候事。 一、北国肥前殿の儀思召のままに仰付られ候、御威光浅からざる事。 一、増右・大刑少御出頭の由委細承り及び候、珍重に候、自然用所の儀候へば申越すべく候、榊式太は景勝表向の取次にて候、然らば景勝逆心歴然に候へば、一往御意見に及んでこそ侍の筋目、内府様御為にも罷成るべく候処に、左様の分別こそ存届けず候へども、讒人の堀監物奏者を仕られ、種々の才覚を以て妨げ申さるべき事にはこれなく候(や)、忠信か、佞心か、御分別次第重て頼入るべく候事。 一、第一雑説ゆえ上洛延引候御断り、右に申宣べる如に候事。 一、第二武具集候こと、上方の武士は今焼・炭取・瓢べ以下人たらし道具御所持候、田舎武士は鉄砲弓箭の道具支度申し候、其国々の風俗と思召し御不審あるまじく候、不似合の道具を用意申され候へば、景勝不届の分際何程の事これあるべく候や、天下に不似合の御沙汰と存じ候事。 一、第三道作り、船橋申付られ、往還の煩なきようにと存ぜらるるは、国を持たるる役に候条此の如くに候、越国に於ても舟橋道作り候、然らば端々残ってこれあるべく候、淵底堀監物存ずべく候、当国へ罷り移られての仕置にこれなきことに候、本国と云ひ、久太郎踏みつぶし候に何の手間入るべく候や、道作までにも行立たず候、景勝領分会津の儀は申すに及ばず、上野・下野・岩城・相馬・正宗領・最上・由利・仙北に相境へ、何れも道作同前に候、自余の衆は何とも申されず候、堀監物ばかり道作に畏れ候て、色々申鳴らし候、よくよく弓箭を知らざる無分別者と思召さるべく候、縦とへ他国へ罷出で候とも、一方にて(こそ)景勝相当の出勢罷成るべく候へ、中々是非に及ばざるうつけ者と存じ候、景勝領分道作申付くる体たらく、江戸より切々御使者白河口の体御見分為すべく候、その外奥筋へも御使者上下致し候条、御尋ね尤もに候、御不審候はば御使者下され、所々境目を御見させ(候はば)、合点参るべく候事。 一、景勝事当年三月謙信追善に相当り候間、左様の隙を明け、夏中御見舞の為上洛仕らるべく内存に候、武具以下国の覚、仕置の為に候間、在国中きっと相調い候様にと用意申され候処、増右・大刑少より御使者申分され(候)は、景勝逆心不穏便に候間、別心なきに於ては上洛尤もの由、内府様御内証の由、迚も内府様御等間なく候はば、讒人申分有らまし仰せ越され、きっと御糾明候てこそ御懇切の験したるべき処に、意趣逆心なしと申唱へ候間、別心なきに於ては上洛候へなどと、乳呑子の会釈、是非に及ばず候、昨日まで逆心企てる者も、其行はずれ候へば、知らぬ顔にて上洛仕り、或は縁辺、或は新知行など取り、不足を顧みざる人と交り仕り候当世風は、景勝身上には不相応に候、心中別心なく候へども、逆心天下にその隠れなく候、妄りに上洛、累代弓箭の覚まで失い候条、讒人引合御糾明これなくんば、上洛罷成るまじく候、右の趣景勝理か否か、尊慮過すべからず候、就中景勝家中藤田能登守と申す者、七月半ばに当国を引切り、江戸へ罷移り、それより上洛候、万事は知れ申すべく候、景勝罷違い候か、内府様御表裏か、世上御沙汰次第に候事。 一、千言万句も入らず候、景勝毛頭別心これなく候、上洛の儀は罷成らざる様に御仕掛け候条、是非に及ばず候、内府様御分別次第上洛申さるべく候、たとえこのまま在国申され候とも、太閤様御置目に相背き、数通の起請文反故になり、御幼少の秀頼様へ首尾なく仕られ(なば)、此方より手出し候て天下の主になられ候ても、悪人の名逃れず候条、末代の恥辱と為すべく候、此処の遠慮なく此事を仕られ候や、御心易かるべく候、但し讒人の儀を思召し、不義の御扱に於ては是非に及ばず候間、誓言も堅約も入るまじき事。 一、爰許に於て景勝逆心と申唱え候間、燐国に於て、会津働とて触れ廻り、或は人数、或は兵粮を支度候へども、無分別者の仕事に候条、聞くも入らず候事。 一、内府様へ使者を以てなりとも申宣ぶべく候へども、燐国より讒人打ち詰め種々申成し、家中よりも藤田能登守引切候条、表裏第一の御沙汰あるべく候事、右条々御糾明なくんば申上られまじき由に存じ候、全く疎意なく通じ、折ふし御取成し、我らに於て畏入るべきこと。 一、何事も遠国ながら校量仕り候有様も、嘘のように罷成り候、申すまでもなく候へども、御目にかけられ候上申入れ候、天下に於て黒白御存知の儀に候間、仰越され候へば実儀と存ずべく候、御心安きまま、むさと書き進じ候、慮外少なからず候へども、愚慮申述べ候、尊慮を得べきためその憚りを顧みず候由、侍者奏達、恐惶謹言。 慶長五年 四月十四日 直江山城守兼続 |
直江状 天下人である豊臣秀吉の死後、後釜を狙う徳川家康は有力大名の討伐を企みます。まず槍玉に挙げられたのが、利家亡き後の前田家でした。加賀100万石を有し利家股肱の勇士を抱える前田家は家康にとって最大の敵でした。しゃにむに言いがかりをつけて討伐しようとします。しかし前田家は家を存続させるため当主の母(利家の妻)を人質として差し出し、釈明をします。 完全に前田家を屈服させた家康が次に狙ったのは謙信以来武門の家柄、会津120万石の上杉家でした。家康は前田家の時と同じく様々な言いがかりを付け、景勝に京へ来て弁解するよう求めます。 それに対する執政・直江山城守兼続の返答がこれです。 「たった三里しか離れていない京と伏見の間でさえ色々な風説が飛びかうのに、京と会津は非常に遠く、どんな誤った噂がたっても不思議はない。また、誓紙を出せといわれるが、太閤に出した誓紙を一年もたたずに踏みにじり、諸大名と婚姻を結んだのはどこの誰であろう。景勝には謀反の気持ちなど一切ない。上方では茶の湯などにうつつを抜かしておられるようだが、我が上杉家は田舎武士につき、茶道具の替わりに武具をととのえ、人材を揃えることこそ武家の本道と心得ている。道路を整備し河川を修復するのは領民のため、領主として当然のことではないか。それとも家康公は上杉家が今後の邪魔になるとでもお考えか?前田家に仕置きをされたそうだが、大層なご威光をお持ちなことだ。我々は心ない人間の讒言にいちいち会津から京へ行って言い訳するほど暇ではない。このような理不尽なことで上杉家を咎められるつもりならばそうされよ。いつでもお相手をいたそう」 最後の「そうなされよ、いつでもお相手いたそう」の原文が「是非に及ばず候」です。 どうです、気持ち良いでしょう。 |
[翻譯]直江状(連原文) << 作成日時 : 2008/11/22 22:58 >> 直江状 近日在網上看到不少中文網站把有名的直江?翻譯,但用字及文意都有不妥之處,故現參考各資料把直江?連同豐光寺承兌寫給直江兼續的書信一併翻譯,並附上原文,讓有興趣者相互比對。 首先是豐光寺承兌受家康之命寫給直江兼續的書信,要求兼續勸景勝早日上洛。 原文如下(《上杉家譜》所收): 態以飛札申達候,然者景勝卿上洛遅滞付而,内府様御不審候儀不少候。上方雑説穏便無之候付,伊奈図書、河村長門被差下候,此段使者口上可申達候得共,多年申通上者,愚僧笑止存如此候,香指原新地被取立,越後川口道橋被作改,何篇不可然候。中納言殿分別相違候共,貴殿御異見油断存候。内府様御不審無拠廉存候事 一、 景勝卿御別心無之候旨,以霊社之起請文御申開可被成旨,内府公御内存而候事 一、 景勝卿律儀之御心入者,太閤様以来内府公御存知之事候得者,被仰分之品々相立候者,異儀不可有之事 一、 近国堀監物一々申上候間,御陳謝堅無之候者,御申分相達申間敷哉。何篇可有御心中事 一、 当春北国肥前守利長異儀之処,内府公須路成思食而,無別儀思之侭静謐仕候。是皆前車之誡而候間,其元兼而御覚悟可為尤歟之事 一、 京都而揄E、大刑部少万事内府公江被申合候間,御申分候者,御申越可有之候,榊式部太茂被仰越候而,可然歟之事 一、 千万不入,中納言殿御上洛遅引候付如此候間,一刻茂早御上洛候様,取沙汰可被為計事 一、 於上方,専取沙汰之事者,会津而武具被集候歟,道橋被作候之事而候,内府公一入中納言殿上洛御待被成候事者,高麗江御使者遣候間,各降参被仕候者,来年歟来々年歟御人数可被遣候間,御入洛近々可然候,其上而無疎意被仰分候様少茂早御上洛尤候事 一、 愚僧與貴殿数箇年無等閑申通候得者,何事茂笑止存如此候,其地之存亡,上杉之興廃之境候条,被廻思案之外他事有間布候,万端使者申含口上候。頓首 卯月朔日 直江山城守殿 譯文 特遣此信傳達,有關景勝卿上洛遲滯之事,?府大人甚覺可疑,加上在上方(京洛)的不利傳聞,故已派遣伊奈図書(昭綱)、河村長門守前來了。此次雖已託使者代為口傳,然而以我倆多年交信,此事貧僧實感困惑。於香指原建新城,於越後川口改建橋?,甚為不好。即使中納言(景勝)大人的判斷有誤,貧僧以為閣下實在疏於提諫,而?府大人的疑慮也並不是沒有根據的。 一、 ?府大人認為,景勝大人若然沒有疑心,必須於神社立一誓詞以作證明 一、 景勝大人為人規矩實誠,自太閤在世以來,?府大人都熟知非常,對此評價?無懷疑 一、 就鄰國(越後)堀監物(直政)所申訴之事,貴方毫不陳謝,然則貴方無意作出辯解??(貴方)到底有何想法? 一、 今年春天北國(前田)肥前守利長異動之事,?府大人認為無不當之處,故已無事解決了。這乃前車之鑑,貴方當先作準備為要? 一、 於京都搏c右衛門尉(長盛)及大谷刑部少輔(吉繼)諸事皆向?府談議仲介,故貴方如有想申訴的話,可(對兩人)提出來。榊原式部大輔(康政)也受(?府之)命協同此事了,貧僧認為這亦是好事 一、 當然,如今中納言大人上洛遲滯之事至此,(景勝)盡早上洛之事,還請閣下居中?導。 一、 於上方(京坂)流傳至盛的流言,便是「會津(指上杉家)是否儲集武器?」、「(領?)建架起橋來了」之事。?府大人其中一個想中納言大人快快上洛之原因,乃因為已向高麗(朝鮮)派遣使節,若對方投降我朝的話,明年或後年會派軍出征,故上洛還是盡早為尚。而且(貴方)為表達?無疏遠之意,應盡早上洛為要。 一、 貧僧與閣下數年來以真誠交信,以上之事皆甚覺遺憾。事關其地(上杉領)之存亡,上杉之興衰,只望閣下多加思量,詳情已囑咐給使者了。頓首 四月一日 直江山城守殿 收到這信的兼續便作出回應,便是後世有名的直江?。由於直江?原紙已不存,只有幾?抄寫本,故各寫本的?容都有出入,故在校對翻譯時,筆者把文意最通順的選出。 原文如下(《上杉家譜》、《古今消息集》等): 今朔の尊書昨十三日下着具に拝見、多幸々々。 一、当国の儀其元に於て種々雑説申すに付、内府様御不審の由、尤も余儀なき儀に候、併して京・伏見の間に於てさへ、色々の沙汰止む時なく候、況んや遠国の景勝若輩と云ひ、似合いたる雑説と存じ候、苦しからざる儀に候、尊慮易かるべく候、重而連々聞召さるべく候事。 一、景勝上洛延引に付何かと申廻り候由不審に候、去々年国替程なく上洛、去年九月下国、当年正月時分上洛申され候ては、何の間に仕置等申付らるべく候哉、就中当国は雪国にて十月より三月迄は何事も罷成らず候間、当国の案内者に御尋ねあるべく候、然らば何者が景勝逆心具に存じ候て申成し候と推量せしめ候事。 一、景勝別心無きに於ては誓詞を以てなりとも申さるべき由、去年以来数通の起請文反古になり候由、重て入らざる事。 一、太閤以来景勝律儀の仁と思召し候由、今以て別儀あるべからず候、世上の朝変暮化には相違候事。 一、景勝心中毛頭別心これなく候へども、讒人の申成し御糾明なく、逆心と思召す処是非に及ばず候、兼て又御等閑なき様に候はば、讒者御引合せ是非御尋ね然るべく候、左様これなく候内府様御表裏と存ずべく候事。 一、北国肥前殿の儀思召のままに仰付られ候、御威光浅からざる事。 一、増右・大刑少御出頭の由委細承り及び候、珍重に候、自然用所の儀候へば申越すべく候、榊式太は景勝表向の取次にて候、然らば景勝逆心歴然に候へば、一往御意見に及んでこそ侍の筋目、内府様御為にも罷成るべく候処に、左様の分別こそ存届けず候へども、讒人の堀監物奏者を仕られ、種々の才覚を以て妨げ申さるべき事にはこれなく候(や)、忠信か、佞心か、御分別次第重て頼入るべく候事。 一、第一雑説ゆえ上洛延引候御断り、右に申宣べる如に候事。 一、第二武具集候こと、上方の武士は今焼・炭取・瓢べ以下人たらし道具御所持候、田舎武士は鉄砲弓箭の道具支度申し候、其国々の風俗と思召し御不審あるまじく候、不似合の道具を用意申され候へば、景勝不届の分際何程の事これあるべく候や、天下に不似合の御沙汰と存じ候事。 一、第三道作り、船橋申付られ、往還の煩なきようにと存ぜらるるは、国を持たるる役に候条此の如くに候、越国に於ても舟橋道作り候、然らば端々残ってこれあるべく候、淵底堀監物存ずべく候、当国へ罷り移られての仕置にこれなきことに候、本国と云ひ、久太郎踏みつぶし候に何の手間入るべく候や、道作までにも行立たず候、景勝領分会津の儀は申すに及ばず、上野・下野・岩城・相馬・正宗領・最上・由利・仙北に相境へ、何れも道作同前に候、自余の衆は何とも申されず候、堀監物ばかり道作に畏れ候て、色々申鳴らし候、よくよく弓箭を知らざる無分別者と思召さるべく候、縦とへ他国へ罷出で候とも、一方にて(こそ)景勝相当の出勢罷成るべく候へ、中々是非に及ばざるうつけ者と存じ候、景勝領分道作申付くる体たらく、江戸より切々御使者白河口の体御見分為すべく候、その外奥筋へも御使者上下致し候条、御尋ね尤もに候、御不審候はば御使者下され、所々境目を御見させ(候はば)、合点参るべく候事。 一、景勝事当年三月謙信追善に相当り候間、左様の隙を明け、夏中御見舞の為上洛仕らるべく内存に候、武具以下国の覚、仕置の為に候間、在国中きっと相調い候様にと用意申され候処、増右・大刑少より御使者申分され(候)は、景勝逆心不穏便に候間、別心なきに於ては上洛尤もの由、内府様御内証の由、迚も内府様御等間なく候はば、讒人申分有らまし仰せ越され、きっと御糾明候てこそ御懇切の験したるべき処に、意趣逆心なしと申唱へ候間、別心なきに於ては上洛候へなどと、乳呑子の会釈、是非に及ばず候、昨日まで逆心企てる者も、其行はずれ候へば、知らぬ顔にて上洛仕り、或は縁辺、或は新知行など取り、不足を顧みざる人と交り仕り候当世風は、景勝身上には不相応に候、心中別心なく候へども、逆心天下にその隠れなく候、妄りに上洛、累代弓箭の覚まで失い候条、讒人引合御糾明これなくんば、上洛罷成るまじく候、右の趣景勝理か否か、尊慮過すべからず候、就中景勝家中藤田能登守と申す者、七月半ばに当国を引切り、江戸へ罷移り、それより上洛候、万事は知れ申すべく候、景勝罷違い候か、内府様御表裏か、世上御沙汰次第に候事。 一、千言万句も入らず候、景勝毛頭別心これなく候、上洛の儀は罷成らざる様に御仕掛け候条、是非に及ばず候、内府様御分別次第上洛申さるべく候、たとえこのまま在国申され候とも、太閤様御置目に相背き、数通の起請文反故になり、御幼少の秀頼様へ首尾なく仕られ(なば)、此方より手出し候て天下の主になられ候ても、悪人の名逃れず候条、末代の恥辱と為すべく候、此処の遠慮なく此事を仕られ候や、御心易かるべく候、但し讒人の儀を思召し、不義の御扱に於ては是非に及ばず候間、誓言も堅約も入るまじき事。 一、爰許に於て景勝逆心と申唱え候間、燐国に於て、会津働とて触れ廻り、或は人数、或は兵粮を支度候へども、無分別者の仕事に候条、聞くも入らず候事。 一、内府様へ使者を以てなりとも申宣ぶべく候へども、燐国より讒人打ち詰め種々申成し、家中よりも藤田能登守引切候条、表裏第一の御沙汰あるべく候事、右条々御糾明なくんば申上られまじき由に存じ候、全く疎意なく通じ、折ふし御取成し、我らに於て畏入るべきこと。 一、何事も遠国ながら校量仕り候有様も、嘘のように罷成り候、申すまでもなく候へども、御目にかけられ候上申入れ候、天下に於て黒白御存知の儀に候間、仰越され候へば実儀と存ずべく候、御心安きまま、むさと書き進じ候、慮外少なからず候へども、愚慮申述べ候、尊慮を得べきためその憚りを顧みず候由、侍者奏達、恐惶謹言。 慶長五年 四月十四日 直江山城守 兼続(花押) 譯文: 今月一日之尊函,已於昨天十三日到達,並詳細拜讀了,幸甚幸甚 一、 就當國(上杉家/上杉領)之事,於其地(上方=京坂)流傳各種流言,?府大人感到可疑之事,對此我等實在感到遺憾非常。然而,既然京都伏見,種種的流言都已是無法制止的事,更何況景勝乃年紀輕輕之輩,有這樣的流言亦不需大驚少怪的。請閣下放心,這樣的事閣下今後肯定都會聽到的。 一、 有關景勝上洛延遲之事,引來種種?法,實在匪夷所思。前年改封不久便上洛,去年九月回國,今年正月時又被命上洛。這樣的話,何時才可處理領國?政??再者本國乃雪國,十月至三月之間什麼事都做不了,閣下可找熟知我國的人詢問一下。那麼,若仍覺得景勝乃心存異心的話,煩請?出來讓我等參詳一下。 一、 有?「如景勝沒有異心的話,請交出誓詞以作證明」,這樣的話,去年以來提出的數張誓詞也等同作廢了。 一、 太閤在世之時,常?景勝為規矩實誠之人,至今亦絲毫沒有改變,與現今朝令夕改的世代盡是不同。 一、 雖然景勝?無異心,可是誣告者之讒言既沒有受到處罰,甚至直接信以為真,認定景勝有異心之舉,實在遺憾萬分。若非草率行事的話,請把誣告者找出來,?清當中的是非曲直。如不?妥,可想像?府大人乃表裡不一之徒了。 一、 北國(前田)肥前守(利長)之事,?府大人任一己之意將之處理,實在威光不淺? 一、 搏c(長盛)、大谷(吉繼)兩位大人代為仲介之事,實在難得。固然相關之事可由兩位大人代為辯解,榊原(康政)大人作為本家的仲介擔當者,如景勝異心已昭然若?的話,自然會向我家提出異議。這樣才是符合武士之道,同時也是為?府大人盡力。可是,現今卻竟成為誣告者堀監物的代辯者,更沒有制止此人胡?八道。是忠臣,是佞人,還有ョ閣下自己判斷。 一、 以上乃有關流言的第一點,上洛延遲之事 一、 第二,有關儲集武器之事,上方的武士大都收集今燒、炭取、瓢等迷惑人心的東西。而?下武士則會收集長槍、鐵砲、弓箭等武器。若考慮到?國(地方)的風俗,自然不會有可疑了。縱使因為沒有收藏這些東西(今燒、炭取、瓢),而要去準備也好,那景勝要有多少財富才???以此大作文章,於天下實在是不適當的舉動。 一、 第三,有關鋪路、架舟橋,是為了交通往來暢行無阻而做的,乃一國之主的任務。於越後亦有設路、架舟橋,而且至今仍然架置於越後,此事堀監物都理應熟知才是。當我們轉封至本國(會津)之時,亦沒有把它們處理掉,?是本國,久太郎(堀秀治)要把所有路、橋都拆毀的話,那需要費多少人力物力才???竟然連設路也不做。景勝領(會津)?,不單是越後,通往上野、下野、岩城、相馬、(伊達)政宗領、最上、由利、仙北諸境都一如以往地鋪設道路,其他大名都沒有什麼不滿,就是只有堀監物(直政)懼怕鋪路而諸多投訴。相信閣下可以想像得到,此人乃何等不知兵事之輩?。若景勝果真對天下存有異心的話,則應在諸邊境?設乾堀,堵塞通路,這才算是防戰的準備工作。於十面鋪路的話,一旦有異心,自然將在諸路面對各路敵軍,這樣的話,單是一面的防禦都已不可能了,更遑論要防禦十面了。就算?要向境外出兵,若只有一個方面的話,景勝(這裡指上杉軍)還可以全力盡出,但若向兩個方面出兵的話,還可以傾?而出??(堀監物)真是一個叫人無奈非常的笨蛋?。景勝領?的道路、橋?,可請江?派使者經白河口進來巡視一下,通往奧州的邊境也可派使者來巡察,相信把各地邊境都看過後,使者定必能理解的。 一、 雖不想輕言犯上,然則?府大人曾言道自今以後都不妄??言,可是?高麗不降服,後年便出兵云云,不就是?言??可笑可笑! 一、 景勝今年三月正?謙信法忌,原本此事?好後,就打算上洛。正當要準備軍備、軍隊,以及處理?政之時,由搏c、大谷大人派來的使者便到來告知,景勝現存有異心,情況不好。?「如無異心就立即上洛」,又?「這是?府大人的想法」。本來,如非行事草率的話,理應先聽取誣告者的?辭,再?明其實,這樣才是誠懇的做法。可是,現在卻無端的宣稱(我家)存有異心,?什麼「如無異心就立即上洛」之類騙小孩的把戲來玩弄我們,真是十分遺憾。昨日還是心存異心之輩,其手段本已有違常理,卻又帶著不知羞恥之嘴臉上洛,或結親,或領取新封賞,或不知恥地與其他人打交道。世間如此的風氣實在與景勝的風格大相逕庭。即使從來沒有異心,卻在被世人指異心天下共知之時上洛的話,(景勝)向來的實誠之風評、作為武士的面目皆付諸流水。所以,除非找誣告者出來當面對質,?明其罪,否則我們都不會上洛。以上的立場,景勝有理與否,還望閣下能思考一二。家中藤田能登守(信吉)於七月中旬離開本家,走到江?後又上洛之事,相信閣下都已知道。是景勝有錯,還是?府大人表裡不一,就交給世人評論了。 一、 其實也不需要多?了,景勝本來就?無異心。現時卻已墮入無法上洛的圈套之中,叫人十分憤恨,是否上洛便視乎?府大人的判斷力了。即使就這樣留在本國,被指責違背了太閤的規定,使以前提交的誓詞作廢,捨棄秀ョ少主於不顧也好,與?府大人僵持對立的話,就算成了天下霸主,也難逃罵名。這是畢生的莫大恥辱,我等能不顧這後果而公然謀反??請閣下放心?。但是,把誣告者的讒言當成事實,陷無辜者於不義,實在使人無奈。既然這樣,誓詞、約定也是多餘的。 一、 於其地(京坂)把景勝?作叛逆,於(上杉領的)鄰國便?我家將有行動,故要準備動員,或?要加派人手駐城,或?要準備兵糧,或?要在邊境收押人質、設置關?之類種種的流言,都是愚昧之輩?的鬼,我家自然不予理會。 一、 雖然閣下?應秘密地派使者到?府大人處,然而從鄰國既有誣告者中傷我家,又有家臣.藤田能登守出走,更被?府大人懷疑有異心,如在這個時刻認錯道歉的話,世間定會?我家乃表裡不一之輩的。故此,以上的諸條在?明事實之前,將不會向上方申訴的。還望閣下代為調解,我家萬分感謝。 一、 雖身在遠國,以上都是我等推量後的想法,希望閣下把此情況代為傳達。現今乃使人苦悶之世代,本為事實的事情也變成?話,當然,我等相信閣下是能分清是非K白的,故一寫便寫了這麼多了。當中失禮之處甚多,但為了令閣下了解我等的心底話,也不顧得這麼多了。侍者奏達,恐惶敬白 四月十四日直江 山城守 直江兼續(花押) 註:直江?的存在與否一直是史家爭論的話題,否定派的史家指文中的用詞及文法既有問題,?裡的字詞與兼續一貫的風格亦有不同,故不能視此為兼續自筆寫的。何況?容過於激進大膽,大都認為直江兼續?不會主動向家康挑釁,使上杉家被包圍。可是存在派從コ川家的史料集《朝野旧聞褒藁》以及與上杉家無關的史料集《古今消息集》中找到直江?的其中一個寫本。?外,在家康與豐臣奉行之間就是否討伐上杉一事討論時,奉行稱「直江乃?下武士,不知規矩」諫止家康出兵,看來直江的書信?容的確是令家康震怒。再者,直江?的部分?容的確是回應了豐光寺承兌的來信,故不能盡稱此?是子?烏有。折衷地?的話,是有類似直江?的書信由兼續寫給家康的,但其?容是否一如通?,或者是否被改寫過,則無從稽考。這有待史家的研究了。 |