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続折々の記 2022 ①
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 01 】02/12
    5回転ハニュー  北京五輪
    4回転半、一番近づけた   「報われない努力だったかもしれないけど」
    鍵山父子、銀の結晶   「優真の夢が僕の夢」「親孝行できたかな」
    平野歩、さらに高く「金」  怒りと集中、3回目逆転
    無二の王道、平野は歩む  北京五輪

 2022/02/11 (天声人語)
5回転ハニュー      北京五輪

 明治維新からまもなく、北欧ノルウェーにアクセル・パウルゼンという若者がいた。1882年、スケートの国際大会に臨み、中空で身を回転させる新技を決める。ジャンプの大技「アクセル」は彼の名にちなむ
▼多くのスケーターが挑むが、回転数をなかなか増やせない。パウルゼンの1回転半が、2回転半まで伸びたのは66年後、3回転半に達するには実に96年を要した。6種類あるジャンプの中で、他のどれよりも難しく、どれよりも得点が高い
▼アクセルの誕生から今年で140年。羽生結弦選手が挑戦したのはクワッドアクセル(4回転半)である。世界のファンの視線が氷上に注がれる中、果敢に挑んだが、残念ながら氷の神様はほほえまなかった
▼陸上競技にたとえるなら、走り幅跳びをしながら同時に背面跳びも決めるような技だと専門家が解説している。まさに異次元の難度なのだろう。「(4回転半を)決めきりたい」という宣言通り、五輪の舞台で前人未到の技に挑んだ。その果敢な姿勢は世界中のアスリートの胸を熱くしたに違いない
▼北京で取材中の同僚によれば、きのうの演技は今大会屈指の注目度だった。各国の記者が詰めかけた。羽生選手がリンクに姿を現すと場内は静まり返り、スケート靴が氷を削る「サーッ」という音が場内に響いたという
▼50年後あるいは100年後の五輪会場を夢想した。「5回転ハニュー」「6回転ハニュー」。羽生選手の名を冠したまだ見ぬ超絶技が銀盤の上で花開いた。

 2022/02/11
4回転半、一番近づけた
「報われない努力だったかもしれないけど」
     

 演技を終えた羽生結弦は両手を上げたポーズのまま、6秒間宙を見上げた。

 「9歳の時に滑っていたプログラムの最後と同じなんです」

 フィギュアスケート男子フリーの冒頭で、前人未到のクワッドアクセル(4回転半)に挑んだ。
 「あの時の自分と重ね合わせながら」

 回転が足りず転倒したが、国際スケート連盟(ISU)公認大会で初めて4回転半を跳んだと認定された。「今までの中で一番、近かった」。得点を待つキス・アンド・クライでは、すがすがしい表情で深々と礼をした。

 平昌五輪で連覇した直後、次の目標を「4回転アクセル」と宣言した。理由をこう続けた。「恩師である都築章一郎先生が『アクセルは王様のジャンプ』と言っていたので」

 9歳のころ、少年は唯一、前を向いて跳ぶ優雅な技の「王様」というフレーズにワクワクした。跳べていたのは、まだ1回転半だったが、都築さんは「世界に羽ばたくんだよ」と何度も言ってくれた。

 2019年に、羽生はこんな話をした。「ずっと9歳の自分と戦っている」。何時間滑っても飽き足らない。どんどん新しい技に挑んでいた。

 「その時の自分に『お前、まだまだだろ』と言われている。心からスケートが好きで、自信があることに素直にいられた小さいころの自分と、今の自分が融合したら、理想の羽生結弦と言えます」

 勝利を義務づけられた。この2年はコロナ禍で拠点のカナダに渡れず、孤独に4回転半に向き合った。何千回も氷にたたきつけられ、「疲れたな、もうやめようって思った」。

 そんな時、9歳の時のプログラムを深夜のリンクで一人、舞った。すると、感じることができた。

 「やっぱり、スケート好きだな」

 3連覇よりも大きな価値があると信じ、「自分の限界に挑み続けたい」と4回転半にトライした。9歳の自分に、27歳の自分が負けるわけにはいかなかった。

 3度目の五輪は「いっぱいいっぱいでした」。「王様」を決められなかった。メダルにも届かなかった。

 「報われない努力だったかもしれないけど、うまくいかなかったことしかないけど。でも、一生懸命、これ以上ないくらい、頑張りました。自分のプライドを詰め込んだオリンピックだったと思います」

 9歳の自分に誇れる羽生結弦が、そこにはいた。(岩佐友)

 2022/02/11 北京五輪
鍵山父子、銀の結晶
「優真の夢が僕の夢」「親孝行できたかな」
     

写真・図版 写真・図版 【写真】演技後、鍵山優真(右)はコーチで父の正和さんとタッチを交わす。いずれも10日、北京・首都体育館

 得点が表示されると、18歳の高校3年生、鍵山優真は何度もガッツポーズした。隣に座る父の正和コーチ(50)は驚きの表情だ。満面の笑みで2人は右手を掲げ、ハイタッチした。銀メダル。優真は言った。

 「オリンピックを目指して、一緒に頑張って、一緒にいろいろなことを経験してきた。結果につながって、一緒に喜びをわかちあえたのはとてもいいことだと思います」

 正和さんは1992年アルベールビル、94年リレハンメルの両五輪代表。それぞれ13位、12位だった。優真は父が果たせなかった夢をかなえ、この競技の日本選手では2010年バンクーバー五輪銀メダルの浅田真央さんの19歳5カ月を更新し、男女通じて最年少のメダリストとなった。

 父子で師弟という関係になったのは5歳のころ。小さい頃は実績を残せなかったが、正和さんは「遅咲き」と見た指導者の視点で、厳しく接し続けた。

 父と子、2人で暮らしていた18年6月、大きな試練が訪れた。正和さんが病に倒れ、半年間入院した。優真は「不安で仕方がなかった」。正和さんは「生活の不安が多かった。スケートは崩れてもしょうがないと思った」と言う。

 だが、退院した正和さんは、一変した優真の姿に驚いた。「朝練のために起こさなければいけなかったのが、自分で起きて支度をしていた。それはスケートにもつながったと思います」

 優真は自ら練習メニューを組み立て、上達していた。自主性を身につけ、「遅咲き」の花が開いた。19年の全日本選手権で3位に。21年は世界選手権銀メダルに輝き、世界のトップスケーターになった。

 結果を出しても、変わらないルールがある。「自宅のドアを開いたら、スケートの話は持ち込まない」。どうしてもスケートの話をしたい時は、自宅の駐車場に止めた車の中で2時間話すこともある。家の中での会話はもっぱら、共通の趣味のアニメの話題。演技前にグータッチをして送り出すのもアニメの影響だ。

 正和さんは言う。「僕がこうしたい、というのは考えていない。指導者の立場からも、親の立場からも、彼が求めることが僕の目標だったり、夢だったりするんです。彼が求める夢に向かって一緒に歩んでいければと思います」

 試合後の記者会見。優真は「いい親孝行ができたんじゃないかなと」と言った。メダルをかけてあげたい?との質問には、「まあ、したいですね」。ちょっとはにかんだ。(岩佐友、吉永岳央)

下平評

北京五輪では、羽生結弦さんや鍵山優真さんの演技の映像を目にし、新聞記事も読んできた。 胸がグイグイと詰まりました。

慈母厳父、それは大事な大事なことでした。 鍵山君の父正和さんの心がけは、ちょうど読んでいた本に 《 真の子育てとは、ありのままの我が子を愛そうとする意識を持つこと……Ryu Juliusの言葉 》 の教えにぴったりでした。 私が感激したのもアスリートの人たちがみんな、真剣になって自分の方向へ進もうとしていたことでした。

それで寝床の中で考えるのです。 一軒の家というのは、その中核として愛に満ちていることであると。 どうしてか。 労働も子育ても努力の方向も、相互の愛があってこそ成り立つものであること。 愛の願いは争いがなく平和でお互いが相手のことを信じあい、ありがたい気持ちや感謝の気持ちに満ちた生活であること。 そんな風に考えて愛とは何だろうかを深く掘り下げてみると、愛とは口に出すものではなく黙ってお互いが行動することだと感心することになりました。

協力も、お手伝いも、互恵互助という言葉の通り、どんなに努力して所得を得たにしても自分のものではなく家中のものとして生活しているではありませんか。 自由とか、平等とか、そんな言葉は必要もなく、個性を伸ばすことにも皆で応援しているではありませんか。

そう考えてきますと、社会的なつながり、言いかえればいろいろの集団があっても、本来は家の者と同じような考えが通用していなければ不平や不満で不安定になるのです。 ですから自分と同じように他人を大事にしましょう、という心構えが宗教や倫理学でも説明しているのです。

黄金律(golden rule)にしても儒学のにしても、仏教でいう地涌菩薩にしても、家族の一員がすべてその源を授けられていると考えていいのだろうと思います。

つけ加えておきますが、私は創価学会の者ではありません。 もともと、般若心経の教えを奉じている者です。 そして、宿業の解釈を正して、と言ってもそれがいい解釈なのかどうかはわかりませんけれど、5~6才で子供たちが自意識をもって自立するまでは、まだ一人の人間として通用しないと思っています。 それで、自意識がない殊に2~3才か2~4才までの養育は、その子にとって、何十年にわたる生涯にも勝る、どの子にも仕組まれている猛烈な大脳能力開発の時期だと結論づけているのです。 そうした意味でも、家族の在り方がとてもとても大事なことだと思っているのです。

 2022/02/12 北京五輪
平野歩、さらに高く「金」 怒りと集中、3回目逆転      

写真・図版 【写真】男子ハーフパイプ決勝、平野歩夢の3回目の滑り=11日、中国・雲頂スノーパーク、細川卓撮影

 淡々とした表情の奥に、こみ上げる怒りがあった。

 スノーボード男子ハーフパイプ決勝。2回目の演技を終え、自身の得点が91・75点と知った平野歩夢(あゆむ)(23)は「イライラしていた」。

 回転軸を斜めにして3回転し、さらに横にも回る大技「トリプルコーク1440」を含む最高難度の演技を、決勝進出12人でただ一人決めた。1位を確信していたが、豪州のライバルが2回目に出した92・50点には届かず、2位に。「おかしいな……」。心が揺れた。

 逆転を懸けた最後の3回目。頭の中には二つの選択肢があった。

 2回目と同じ演技構成で挑むか、ひそかに練習してきた世界初の新技を一か八かで投入するのか――。

 「迷った」。それでも、冷静に気持ちを固めた。「新技はリスクが高すぎる。2回目の完成度を高めれば(トップを)上回れると。それを信じた」

 これまでも自分の決断を疑うことなく進んできた。

 2大会連続銀メダルに終わった2018年平昌五輪の後、スケートボードとの「二刀流」に挑んだ。うまくいかないだろうという周囲の予想を覆し、昨夏の東京五輪出場を果たした。「スノーボードとかけ離れた経験は、すごく大きな自信にもなった。さらに自分を強くしてくれた」

 あれから半年。未知への挑戦が成長を促した。最後の3回目を前に「怒りはあっても、集中できていた。普段とは違う、強い気持ちがあった」。

 冒頭のトリプルコーク1440は2回目よりも高く舞った。空中技の一つひとつが研ぎ澄まされていた。96・00点。村上大輔コーチは言い切った。「歩夢の中で、今までで一番の滑りだった」

 前回の平昌五輪では、2回目でトップに立ちながら3回目で逆転を許した。2大会続けての銀メダル。その顔は色を失っていた。

 自身3度目の冬季五輪。逆転で初の金メダルをつかんだ。「小さい頃から追いかけてきた夢が一つかなった。これからも自分だけのチャレンジをしていければ」。柔らかい笑みを浮かべた。(吉永岳央)

 ▼11頁 スノーボード・男子ハーフパイプ 北京五輪
無二の王道、平野は歩む

写真・図版 【写真】男子ハーフパイプ決勝、3回目で「トリプルコーク1440」を決めた平野歩夢の連続写真(17枚を合成)=藤原伸雄撮影

 ■(ハイライト)東京五輪スケボーから半年、度肝抜く練習量

 最終3回目の滑走を終えると、平野歩夢(あゆむ)は金メダルを確信し、右手を挙げて歓声に応えた。

 過去2大会はいずれも銀メダル。「長い道のりだった」

 スケートボードとの「二刀流」を表明したのは、2018年秋のことだ。

 両方の競技が中途半端になるリスクは承知の上。「誰も挑戦していないことにこだわり続けたい」という強い信念があった。言葉通り、昨夏の東京五輪に出場した。

 想定外だったのがコロナ禍だ。東京五輪の開催が1年延期になり、本来1年半の間隔があるはずだった北京五輪は半年後に迫っていた。

 それまでの練習は、ほとんどがスケートボードのためだった。コーチ陣も「普通では無理。さすがに間に合わない」とこぼしていた。

 スケートボードとスノーボードはともに板を操るスポーツだ。平野は「見た目は似ているけど、野球とバスケットボールくらい違う」と表現する。

 雪上での感覚を取り戻すための過程を、今回一緒に五輪代表となった弟・海祝(かいしゅう)は見てきた。「ギャップがあって、思うように滑れていないところがあった」

 ところが、「あっという間、1カ月でもう戻っていた」。海祝が目を見張ったのは、地味な反復練習だ。「僕はマット上で(技が)自分のやりたい形に1回なったら、(雪上で)やっちゃう。でも、兄ちゃんは違う。完璧になるまで徹底的にやる」

 「昨秋の欧州合宿で、誰よりも練習量が多かった」とは村上大輔コーチ。五輪直前に米国で行ったトレーニングでは、エアマットを敷いた施設で1日に最大69本ものジャンプを飛んだという。トップ選手でも1日30本台が限界だ。「ひたすら続けていた。(飛ぶたびに下から上へ)スノーモービルで運んで、最後は運転手が疲れきっていた。体力が本当にすごい。だから半年間で、上り詰めた」

 軸を斜めに3回転し、さらに横にも回る大技「トリプルコーク1440」の練習を始めたのも半年前だったという。北京五輪でこの大技を成功させたのは、平野だけだった。

 「経験してきたことの全てが、強さに大きく変わった」と平野。唯一無二の二刀流が、中国の地で結実した。(吉永岳央)

 ■6メートル宙へ、納得の弟・海祝

 記録より記憶に残る滑りを見せたのは初出場の19歳、平野海祝だ。回転はせずに空中で上半身をひねることで、飛び出した高さをアピールする空中技を演技冒頭に組み込んだ。

 高さ7.2メートルの壁から飛び出し、6メートル以上も宙へ。圧倒的な高さで会場を沸かせ、「誰よりも高く、一目見て『すげー』って思われる滑りができた。納得の五輪。楽しめました」。

 兄・歩夢に憧れてスノーボードを始めた。高回転の技で兄は金メダリストになったが、「兄弟で違うのも面白い。自分なりのスタイルを貫いていきたい」。笑顔で9位を誇った。

 ■ホワイト、万感ラストラン

 男子ハーフパイプで五輪3度の優勝を誇るホワイトが4位で現役最後のランを終えた。長年競技を牽引(けんいん)してきたスーパースターは「ページをめくる時間だ。もう十分やった」と自らに言い聞かせるように板を見つめた。

 代名詞の「ダブルマックツイスト1260」を決めるなど2回目に85.00点をマーク。3回目は攻めて転倒したが、会場は大きな拍手に包まれた。

 レース後は優勝した平野歩らメダリストを祝福。35歳のレジェンドはひざや腰に古傷を抱えながら果敢に戦った。「スノーボードよ、ありがとう。人生最愛のものだ」と、目を赤くしながら万感の思いを込めた。(共同)

 <10位の戸塚優斗> 逆転をかけた3本目で転倒し、「納得できる滑りをしたいと思っていたが、達成できなかった。何が足りないか、思い知らされた」。

 <12位の平野流佳> 3本とも転倒。「悔しい、しか出てこない。予選の方が緊張していて、決勝はやり切るだけだった。気持ちで負けてしまったかな」

 ■(中井孝治の目)異次元、歴史残る3回目

 難度の高い「トリプルコーク1440」を含むルーティンを滑りきった平野歩夢選手の2回目は、十分に金メダルに値するランだ。ところが91・75点で、トップには及ばなかった。なぜこんなに低い点数なのか? 正直、ジャッジに対してなんとも言えない気持ちになってしまった

 これまで、採点に不満を漏らす歩夢選手を見たことがなかった。そんな彼が、競技終了後に「怒り」という言葉を口にした。それほど、不可解な点数だったということだ。焦ってもおかしくない状況。それでも歩夢選手は冷静だった。3回目も、2回目と同じルーティンで、さらに高さと完成度をあげてきた。

 特に2発目のトリック(技)は、回転が終わっても着地まで時間が余るほど高さがあった。最後のトリック「ダブルコーク1440」では、回転しながらボードの後端をつかむ「テールグラブ」をしっかり入れてきた。彼ほど長いグラブを、私は見たことがない。

 他の選手は「相手の点数に勝ちたい」という闘争心があった一方、歩夢選手だけは、相手ではなく自分自身と競い合っているように見えた。一人だけ、次元が違ったと感じる

 五輪である以上、点数を競うのは当然のことだ。とは言え、格好良さを突き詰めるのがスノーボードの本質――。今日の歩夢選手はそれを体現してくれた。間違いなく、歴史に残るランだった。(プロスノーボーダー)

 ■難度や高さ、採点法は―

 ハーフパイプの採点は技の難度、高さ、着地や空中姿勢などを含めた完成度、技がバラエティーに富んでいるか、新技かどうかも評価される。「オーバーオールインプレッション方式」と呼ばれ、審判の主観によるところもある。1回の演技を、6人のジャッジがそれぞれ100点満点で採点。最高点と最低点を除いた4人の平均点が選手の得点となる。五輪決勝では選手は3回滑り、最も高い点数で争う。

下平評

観客すべてを魅了した演技でした。 驚くほかない。 立派な心掛けで感心しました。

 2022/02/13
小林陵侑、緊張がぶれを生んだか
完璧を超えた相手の直前大ジャンプ

写真・図版 【写真】ラージヒルのセレモニーで記念撮影に応じる(右から)銀メダルの小林陵侑、金メダルのマリウス・リンビク、銅メダルのカール・ガイガー=2022年2月12日、中国・国家スキージャンプセンター、藤原伸雄撮影

エキスパートの目 一戸剛(トリノ五輪代表)

 小林陵侑の2回目のジャンプは飛び出した直後、左右のスキー板がわずかにぶれた。約0.5秒、1、2センチほどのズレだった。左右の板がそろわないと風を逃がしてしまい、浮力は小さくなる。一瞬のぶれが1、2メートルの飛距離に響いた。1回目の142メートルに及ばず、138メートル。140メートルのジャンプを2本そろえたリンビク(ノルウェー)が金メダルを獲得した。

 陵侑は前日11日の予選前の練習ジャンプで、飛び出した後、スキー板が跳ね上がっていた。板の先が上がると推進力は失われる。こんな失敗は見たことがなかった。9位で通過した予選も、板の先は少し上がっていた。

 12日の決勝は試技から修正し、アプローチ、飛び出しのタイミング、空中姿勢、着地まで完璧だった。1回目は最長不倒のジャンプをした。

 ただ、2回目は直前にリンビクが大ジャンプをした。決勝は観客が多く、大歓声が上がった。「飛ばなくては」というプレッシャーと緊張が、わずかなぶれを生んだのかもしれない。

 2人の飛距離の差は2本合わせて、わずか50センチだった。飛型点は1回目で陵侑が0.5ポイント上回り、2回目は同じ。風は微風でも、リンビクは2回とも加点される追い風で飛び、陵侑の1回目は減点される向かい風だった。これらのわずかな差の積み重ねが、金メダルと銀メダルを分けた。

 男子のW杯では、ノーマルヒルの試合はほとんどない。主戦場のラージヒルの決勝はレベルの高い、面白い試合になった。多くの選手が飛んだ後、ガッツポーズをしていたことが象徴している。2回目に進んだ30人のうち、29人が1回目で130メートルを超えた。140メートル超までの10メートルほどの間に、30人がひしめき合った。ラージヒルの飛距離のポイントはノーマルヒルに比べて小さい1.8ポイント。その分、飛型点が順位を分けた。着地のテレマークのブレ一つで、順位が10も変わった。50センチでも遠くへ飛び、テレマークを決めなければ、上位に入れなかった。

 陵侑には、2回目で逆転された悔しさがあるかもしれない。しかし、北京五輪のノーマルヒルとラージヒルの両方で、メダルを獲得したのは陵侑しかいない。リンビクが完璧の先を行くジャンプをした。