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続折々の記 2022 ①
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【 02 】02/14
    小林陵侑の海外の反応  宇宙人と呼ばれる理由
    勘太郞月夜唄  
    藤井聡太竜王、10代で五冠達成  
    藤井聡太  

 2021/12/01
小林陵侑の海外の反応
宇宙人と呼ばれる理由や批判される原因も調査!

男子スキージャンプ界の若手エースと言われている、小林陵侑。 彼の技術は天才的で日本のみならず、海外でも大注目されているんです!

世界的に話題になる程の選手がいるとはびっくりですね…  小林陵侑の海外の反応はどうなんでしょうか?

スキージャンプの本場・ヨーロッパで有名選手になるレベルですから、実力を持った選手であることは間違いないですよね。 今回は、小林陵侑の海外の反応がヤバい!宇宙人と呼ばれる理由や批判される原因も調査しましたのでご紹介していきます。

   目次
 1 小林陵侑の海外の反応まとめ
 2 小林陵侑が海外の反応で宇宙人と呼ばれる理由は?
 3 小林陵侑が海外の反応で批判される原因は?
 4 まとめ

1 小林陵侑の海外の反応まとめ

スキージャンプは日本ではまだまだマイナーなスポーツです。 名前を聞いてピンとくる選手は少ないですよね。 しかし日本ではあまり名前を知られていなくても、世界では有名選手というパターンがあるんですよ。 その1人が小林陵侑です。

小林陵侑の海外の反応についてまとめました。 2018年~2019年シーズンはまさに絶好調そのもので、多くの偉業を達成しています。 スキージャンプワールドカップ優勝、スキージャンプ週間総合優勝などその勢いは止まりませんでした。 スキージャンプ週間の総合優勝は、日本人初でなんと史上3人目なのです! 海外メディアは盛大にこのことを祝福しました。

Ryoyu Kobayashi dołączył do Svena Hannawalda i Kamila Stocha!#TCS https://t.co/kPpBO4mr1Z — Eurosport Polska (@Eurosport_PL) January 6, 2019

ポーランドでは、「小林陵侑がスヴェン・ハンナヴァルドとカミル・ストッフに加わった!」と投稿しています。 これはこの2人に続いて、総合優勝の仲間入りしたという意味でしょう。 またドイツのスキージャンプ選手リヒャルト・フライタークは、「彼が成し遂げた事は素晴らしい事だ。まるで一瞬の出来事だった」とライバル関係でありながら、称賛していました。

Kobayashi postawił w Bischofshofen kropkę nad i. ZOBACZ materiał:https://t.co/Zai1qRnsnp — Fakty TVN (@FaktyTVN) January 6, 2019

こちらのニュースでは「小林はビショフスホーフェンで完全に成し遂げました」と伝えています。  ビショフスホーフェンは大会が開催されたオーストリアの市を指します。 小林陵侑の海外の反応はこのようにたくさん投稿されているんですよ。 メディアだけではなく、海外の選手も称賛する程のレベルの高い選手だと言えますね!

2 小林陵侑が海外の反応で宇宙人と呼ばれる理由は?

小林陵侑の海外の反応の中に気になるものがありました。 それは、宇宙人と呼ばれていることです。

【小林陵を欧州メディア称賛=「鳥人」や「宇宙人」も】 史上3人目の4戦全勝と、1997~98年の船木和喜以来、日本選手2人目の総合優勝を果たした男子の小林陵侑(土屋ホーム)を本場欧州のメディアが称賛しています。詳しくは

⇒https://t.co/ZZqGcI6Rik pic.twitter.com/h9MoYFfVNq — 時事ドットコム(時事通信ニュース) (@jijicom) January 7, 2019

このニックネームは日本でも話題になり、取り上げられました。 宇宙人と呼ばれる理由は一体何でしょうか? 前述したように、2018年~2019年のワールドカップで総合優勝しています。 その時魅せたダイナミックなジャンプが理由なんですよ! 大ジャンプを見たオーストリアのキャスターは、驚愕しこう言ったのです。

「一体どこの惑星から来たんだ小林!君は宇宙人か」と。

この絶叫とも言える言葉に多くのメディアが注目し、新聞や記事の見出しに宇宙人と記載されたのです。 圧倒的なジャンプでとんでもない飛距離をたたき出したのですから、そんなニックネームが付くのも納得ですね。 それほど高い技術と実力を海外で見せつけたということでしょう。 スキージャンプの本場であるヨーロッパでは、大人気競技ですのでメディアの数は日本の倍以上なのです。  そんな中で日本人が驚異的なジャンプを魅せてきた訳ですから、有名選手になるのも無理はないですね。 本人は宇宙人と呼ばれている事に対してTwitterにこんな投稿をしています。

「別の惑星の人ってなんなん?」
https://t.co/khqRgR80l2— 小林陵侑 Ryoyu kobayashi (@RyoKoba8118) February 19, 2019

確かにそう言いたくなるでしょうね… 小林陵侑の海外の反応は面白いです。 なかなかこんな言葉出てこないですよね。 それくらい圧倒されるジャンプだったということでしょう。

3 小林陵侑が海外の反応で批判される原因は?

小林陵侑の海外の反応のほどんどが称賛しているものでした。 では、批判の声はあるのでしょうか?

調べてみましたが、ネガティブな意見はありませんでした。 これだけの好成績を残していながら批判の声が無いのは凄いですよね。 先ほど触れたようにライバル選手も称賛する実力がありますから、メディアでは批判的な記事は無いのでしょう。 2020年~2021年の前半は悔しい試合が続き、調子が上がらない日々があったと語っています。 海外メディアも「ベストシーズンでは無かった」とその時期については指摘していました。

しかし今年の10月に行われた日本選手権では、優勝しているのです! この勝利は海外でも話題になり、「恐怖を覚える程の勝利。より強くなる」と称賛しています。

やはり、小林陵侑の海外の反応は良い意見が多いです。 今シーズンはまだ始まったばかりですから、今後の活躍が期待できますよね! 海外でも「最高の状態を迎えた時、どのような事が起きるのか」と期待の声が挙がっています。

技術面だけではなく、精神面の成長も遂げているんですよ。 前を向いて戦い続ける大切さを学んだと語っています。 プレッシャーを力に変えて、美しい大ジャンプを魅せてくれることでしょう。

4 まとめ

小林陵侑の海外の反応がヤバい!宇宙人と呼ばれる理由や批判される原因も調査し、ご紹介していきました。

小林陵侑の海外の反応は称賛の声ばかりでした。 批判的な反応はなく、ヨーロッパでも人気選手なのだという事が伝わってきます。 常にトップを走り続ける事は難しく、成績が伸び悩むこともあったでしょう。
それを糧に、今後より成長し好成績を残してくれると思います。 海外メディアもそこに注目していますから、期待が高まりますね! これからどんな偉業を達成してくれるのか楽しみです。

小林陵侑の幼少期からの生い立ちや経歴!

北京五輪が開幕しましたね!中国・北京での開催ということもあり、リアルタイムで観戦できる方も多いのではないでしょうか。しっかりと日程を確認、スケジューリングして観戦したいところですね。そしてせっかく見るのであれば、日本人選手の金メダル獲得を見たいですよね!

日本人選手で金メダルの期待がかかる一人が、これからご紹介するスキージャンプの小林陵侑選手です。今シーズンのワールドカップでも抜群の安定感を見せてくれている小林選手は、個人ノーマルヒル、ラージヒル、男子団体、新種目の男女混合の4種目での出場、メダル獲得が期待されています!

小林陵侑とは?
小林陵侑(こばやしりょうゆう)選手は、1996年11月8日生まれ、岩手県岩手郡松尾村(現:八幡平市)出身です。家の前に雪とミニスキーがある環境だったため、3歳頃から自然とスキーを始めたそうです。

小林陵侑の幼少期

スポーツ万能だった少年時代
五輪代表クラスで活躍するジャンパーと言えば北海道出身が当たり前というなか、小林は岩手県松尾村に生まれ育った。2002年のソルトレイクシティから14年のソチまでの4大会を振り返っても、北海道勢以外では、長野県出身者が3大会で各1人、それに青森県と新潟県の出身者がそれぞれ1大会に名を連ねるだけだ。

傍流とも言える地で小林はジャンプを始めた。幼い頃、陵侑とともに日本代表メンバーである兄の潤志郎が、家の庭に小さなジャンプ台を作って遊んだのがきっかけだったという。

ジャンプ、そしてクロスカントリーを合わせたノルディック複合も始めた小林は、早くからその身体能力に注目されていた。

小学5年生のとき、県がトップアスリート育成のために実施している「いわてスーパーキッズ発掘・育成事業」の1期生に選ばれた。ここでさまざまなスポーツを体験したが、俊敏性に秀でていることなどから、レスリングやラグビーへの適性があると評価されたという。加えて小学生時代は野球、中学校ではサッカー部でも活躍していた。いわゆる「スポーツ万能」であったことがうかがえる。

また、育成事業では2年にわたり毎月、体力トレーニングを受講したが、プログラムはどの競技に進んでも役立つような内容であった。そうした環境のもと、アスリートとしての基礎も養われていった。

最終的に小林はジャンプとノルディック複合に絞り、打ち込むようになった。ただ、高校時代には、今日を思わせるような傑出した成績を残していない。むしろ、同じく両種目に挑んでいた潤志郎は、高校1年で高校総体で優勝、3年生のときは全国大会で成年組を抑えて優勝するなど注目されることが多かった。

今シーズンは安定したジャンプを披露する小林。コロナ禍によりテスト大会に参加できず、北京のジャンプ台はぶっつけ本番となる(2022年1月6日、オーストリア・ビショフスホーフェン)AFP=時事
今シーズン前半、安定したジャンプを披露してランキング首位に立った小林。コロナ禍によりテスト大会に参加できず、北京のジャンプ台はぶっつけ本番となる(2022年1月6日、オーストリア・ビショフスホーフェン)AFP=時事

「レジェンド」との出会い
だが、そのとき、小林の運命を変える「出会い」があった。葛西紀明にジャンプの能力を見出されたのである。史上最多計8回の冬季五輪に出場し、日本はむろんのこと、欧州でも「レジェンド」として広く知られる名ジャンパーである葛西は、小林の飛ぶ姿を見て、「ヨーロッパの強い選手に似ている」と感じた。その直感をもとに、葛西は自身が監督も務める土屋ホームに勧誘した。
【legend】伝説。また、伝説上の人物。
       [補説]近年では、競技ですぐれた記録を残すなど、この先
       長く語り伝えられるであろう人物についてもいう。「棋界の―」

小林陵侑「メダルやっぱり特別」
  「師匠」葛西紀明の首にも

   2022/02/08 22:28 共同通信社

【写真】ノルディックスキー・ジャンプ男子個人ノーマルヒルのメダルセレモニーで、金メダルを手にする小林陵侑=8日、張家口(共同)

 【北京共同】ノルディックスキー・ジャンプ男子個人ノーマルヒルで優勝し、今大会の日本勢金メダル第1号となった小林陵侑が8日、メダル授与式に出席し、金メダルを受け取った。自ら首にかけ、誇らしげな表情を浮かべた25歳の日本のエースは「やっぱり特別。またメダルを目指して頑張りたい」と喜びを語った。

 実際に手にした感想は「重い」。所属先で選手兼任監督を務め、現地にいる“師匠”葛西紀明の首にもかけたそうで「ずっと一緒にやってきたので、うれしい」と声を弾ませた。


誘いを受けて土屋ホームへ入社し、ジャンプに専念することを決めた小林に、葛西は「企業秘密です」と詳細をぼかすが、踏み切りでの力の伝え方をはじめとした技術、緊張の抑え方などを教えた。49歳の葛西は監督である一方、現役の選手でもあり、小林は競い合う相手となる。それでも惜しみなく技術を伝えてくれる葛西を、小林は「師匠」と呼んで敬愛を示した。

良好なる師弟関係は少しずつ実を結んでいった。小林は入社1年目の2015−2016シーズンの途中でW杯に初出場。翌シーズンは開幕戦からW杯にフル参戦し世界選手権にも出場した。

迎えた2017−2018シーズン、小林は平昌五輪代表に選ばれる。大会前は注目を集める存在ではなかったが、ノーマルヒルで日本勢最高の7位入賞を果たし、団体戦でも最終飛躍者を任されるなどエース格の活躍を見せ、脚光を浴びた。

21歳で挑んだ平昌五輪のノーマルヒルでは7位入賞に終わったが、日本勢最高位で脚光を浴びた(2018年2月10日、韓国・平昌)AFP=時事

それを機に小林は一足飛びに成長する。2018−2019シーズン、W杯で歴代2位の計13勝をあげ、総合優勝を果たしたのである。欧州以外の国の選手では史上初のことであった。

「助走が安定してきたことが大きいと思います」
小林はブレイクした理由を挙げた。技術を培う下支えをした葛西は、小林の活躍に対しこう語った。
「最初はうれしかったですけれど、だんだん腹が立ってきて、この野郎、と(笑)」
現役選手としての思いを含ませつつも、愛情のこもった表現で弟子の活躍を喜んだ。

天候の運をも打ち破る強さ
今の小林は、もともとの身体能力、少年期のトレーニングで育んだアスリートとしての土台、そこに葛西から伝承された技術が融合し、華々しい活躍を見せている。ただ、3度出場した世界選手権では、団体戦を除きメダルを手にしていない。

そこには、どれだけ実力があっても気象条件に左右されるジャンプという競技特有の難しさがある。北京五輪もまた、気象条件は成績を左右する要因となる。小林が飛ぶとき、どのようなコンディションになるだろうか。だが、いかなる状況であっても打ち破ってくれるはず。今の小林には、そんな期待を寄せたくなる勢いがある。

ジャンプは2月5日のノーマルヒル予選で幕を開ける。小林はノーマルヒル、今大会から採用された混合団体、ラージヒル、男子団体と4種目に出場する可能性が高い。

悲願の個人種目での世界一を目指しつつ団体戦でのエースとしての活躍を期し、小林は2度目の大舞台へ挑む。

 2022/02/13
勘太郞月夜唄      

 勘太郞月夜唄  作詞:佐伯孝夫、作曲:清水保雄、唄:小畑 実・藤原亮子

  1(女)
    影か柳か 勘太郎さんか
    伊那は七谷(ななたに) 糸ひく煙り
    棄てて別れた 故郷の月に
    偲ぶ今宵の ほととぎす
  2(男)
    形(なり)はやくざに やつれていても
    月よ見てくれ 心の錦
    生まれ変わって 天龍の水に
    うつす男の 晴れ姿
  3(男女)
    菊は栄える 葵は枯れる
    桑を摘む頃 逢おうじゃないか
    霧に消え行く 一本刀
    泣いて見送る 紅つつじ

《蛇足》 太平洋戦争まっただ中の昭和18年(1943)に公開された東宝映画『伊那の勘太郞』の主題歌。
 映画は幕末の動乱期を舞台に、天狗党の乱に加担し、やがて故郷の伊那に帰ってくるヤクザの物語です。
 国策映画や軍国歌謡一色の世相では異色の股旅もので、情緒的なものに飢えていた世人に迎えられ、映画・歌とも大ヒットしました。
 大ヒットを記念して「伊那の勘太郎顕彰碑」が建てられました(写真)。場所は伊那市の春日公園。勘太郎の事跡もれいれいしく刻まれています。ある世代以下には、勘太郎を実在の人物と思う人もいるかもしれませんね。
 小畑実は朝鮮半島出身で、本名は康永喆(カン・ヨンチョル)。秋田県大館出身の小畑イクに面倒を見てもらったところから、小畑実と名乗るようになりました。
 戦時中に『湯島の白梅』『勘太郞月夜唄』という2つのヒットを飛ばしましたが、最も活躍したのは敗戦後の昭和20年代で、『小判鮫の唄』『薔薇を召しませ』『アメリカ通いの白い船』『長崎のザボン売り』『ロンドンの街角で』『星影の小径』『高原の駅よさようなら』など、多くの人々の記憶に残るヒットを連発しました。 (二木紘三)

コメント

  信州 伊那の 谷は
  行ってみたいところです
  飯田 高遠 
  天狗党とは 思いよりませんでした
  吉村昭 の 小説はまだ読んでません。
投稿: 二宮 博 | 2007年11月 7日 (水) 22時46分

二宮さんへ
敦賀に天狗等を祀っている松原神社がありますが、高校へ通うときよくこの境内を通りました。墓の中には「茂作」など、名前だけのものもあり、一行の中には武士以外のものも含まれてたことがわかります。2番の歌詞「菊は栄える葵は枯れる」から、幕末の話だとは理解していましたが、天狗等の乱に伊那の勘太郎が加担したとはねー。フィクションだとしても興味ある話ですね。懐メロの薀蓄で自慢できそうです。映画を見ていないのでわかりませんが、天狗等が高崎から和田峠を抜けるあたりで、勘太郎が合流したんでしょうね。その後どうやって天狗等を抜け出て故郷に帰ってきたのか知りたいものですね。それと、吉村さんの小説「天狗騒乱」は面白かったです。
もちろん「天狗争乱」は読みました。とても面白かった!しかし「勘太郎」との関係は知りませんでした。武田耕雲齋の像も敦賀で見ました。
「影は柳か勘太郎さんか・・・・」ひょうひょうとした感じの勘太郎に会ってみたいものです。
投稿: hazuki | 2008年1月20日 (日) 10時43分

二木先生、勘太郎月夜歌のアップをお願いしてお聞き届けありがとうございます。一昨年老いたる同窓の会が伊那の谷であり彼の地でこの曲で踊りが振付けられ人気が高いようです。歌詞の
  形(なり)はやくざにやつれていても
  月を見てくれ心の錦
  生まれ変って故郷の水に
  映す今宵の晴れ姿 
ここのところが大好きです。勿論戦前映画も昭和19年旧満州の地で中学1年生でしたが見ています。
投稿: 三宅 | 2008年6月 3日 (火) 16時20分

今晩は。
只今、マイアルバム(歌の)を整理中です。股旅もの 二十二曲ほどを ユーチューブからすでにダウンロードしているので CDに焼き付けています。 当然この唄も入れています。
今頃 股旅もの なんて流行らないですよね(笑)
でも、氷川きよしや島津亜矢が活躍していますから。
古いのは 音源が ほとんどモノラルです。別の歌手がステレオで吹き込んでいる、或いは本人の再録音物がリリ-スされているのでそれをダウンロードしてます。
股旅ものでは 決まって こんな台詞が出てきます …
「お母っさん」 「丁度今から三年まえ」 「三年三月(みつき)」 「あばよ(=幼児語でさよなら)」 などなど。
股旅ものの歌の舞台は、関東、信州当たりがダントツですね。 信州ならば佐久と伊那谷が有名かな。
関東ならば、日光街道、ご存知赤城山、また利根川あたり、そして甲州街道などなど。
小学校の高学年から中学に掛けて ドサ回りの旅役者一座に 憧れました。
旅役者一座も 梅沢富美雄(字体不明)で 見直されましたね。 遥か昔、秋の刈り入れが終わる頃 すぐ近くの神社の祭りで 旅役者一座の くさい芝居(失礼)を見た覚えです。
役者は神社近くの民家に分散して 投宿します。 我が家にも 親子連れが 泊まった記憶です。 同年代の 男の子だったと思います、話してみると 自分とさして変わらない 普通の子だった。(多少はおませだったかも)
何か自分達とは 違った世界の子を期待していたかもしれません。
また、ある年には今で言うハ-フの少年(19歳ぐらいと記憶)が来ていました。
スペインと日本の混血と言っていました。今でもはっきりと記憶していますが、その子の名を「ボ-イ・モリシマ」と名乗っていました。
本名は「セバスチャンかセルバンテスかも知れません、田舎の人たちにわかりやすく「ボ-イ」と名乗ったのでしょうね。今でも日本で住んでいるのだろうか?。
もう、70歳ぐらいのはずです ・・・
投稿: グ・グロリア | 2010年5月16日 (日) 21時50分

先般東海北陸自動車道が全線開通したのを機に、久しぶりに飛騨の高山までドライブに行ってきました。富山県西部の我家からは片道一時間あまりですが、ハンドルを握っている間ずっとこの唄が耳の底に流れていました。今回訪れたのは高山市郊外にある飛騨一ノ宮、水無(みなし)神社というところです。ここは嘗て小説『夜明け前』の主人公青山半蔵こと島崎正樹(島崎藤村の父)が、維新後失意を胸に秘めて明治7年から4年余りの間宮司を務めていた神社ですね。境内には彼の詠んだ歌碑があります。
 伊那の勘太郎が加勢した(??)水戸の天狗党という名前を私が知ったのは、学生時代にこの『夜明け前』を読んだのがきっかけでした。幕末の伊那・木曽地方から美濃にかけては半蔵のような平田篤胤の信奉者が多かったこと、武田耕雲斎たちが「勘太郎の案内で」伊那から無事に木曾谷まで抜けて宿泊したのが半蔵の家(馬籠本陣)であったこと、奇しくもそこは以前天狗党など勤王党にとって目の敵であった井伊直弼も宿泊した本陣であったことなども、この小説で知りました。『夜明け前』は浦賀にやってきたペリーが、軍艦の威力を見せつけながら日本に国交を迫るあたりから始まりますが、あれから約170年たった今日の日本では、ペリーの子孫たちが普天間に佐世保に、あるいは横須賀、三沢にと縦横に活躍しています。
この勘太郎月夜唄が発表された昭和18年というのは、島崎藤村が日本の行く末を案じながら世を去った年でもありますね。偶然の一致とはいえ何かしら感慨にさそわれます。
投稿: くまさん | 2010年6月10日 (木) 21時41分

86歳の男性です。私はこの勘太郎月夜歌が大好きで、学生当時によく口ずさみ、またいつも携帯していた手帳にその歌詞を記入していました。
 昭和19年学徒出陣で豊橋予備士官学校に入隊することになり、名古屋から豊橋に行く電車の窓から、ちょうど渡っていた鉄橋の上で、この手帳を投げ捨てました。パラパラとめくりあがって私の大事な手帳は、大きな川の中へ吸い込まれて行きました。
 (軍隊に入れば、生還は期しがたい、さらば、世間よ、青春よ・・)という若者特有の悲壮な、また多少センチメンタルな気持ちからでした。あれは確か「矢作川・やはぎがわ」だったと思います。  軍歌ばかりの戦時中に青春を過ごした私にとって、伊那の勘太郎の歌は数少ない青春の歌でした。 (紫蘭)
投稿: 紫蘭 | 2010年7月19日 (月) 22時24分

横浜という土地は、幕末明治の新開地であり、それが原因かは知りませんが、いろんないわくの人の子孫が住んでいます。勘太郎は架空の人物といわれていますが、自称子孫だという人を知っております。父君は旧制木更津中学の校長で、光クラブ事件の山崎は教え子、3代続いての東大家族です。学歴で事の真偽を判断はできませんが、人格、識見ともに優れたご本人を見ると本当かなーと思ってしまいます。それにしても、有名なやくざの子孫という人を何人か知っていますが、皆とんでもない高学歴なのには驚きます。余談ですが、曲を聞きながら、
投稿: bunbun | 2013年10月10日 (木) 21時12分

bunbunさんのお話おもしろいですね。
ヤクザの親分は、みんな頭が良かったと思います。昔、官軍が江戸をめざして進んでいたとき、大久保一蔵が清水の次郎長に会いたがったそうですね。どうして大勢のならずものを統率できるのか、その要諦は?と聞きたかった。
 ヤクザの親分は、キリストや釈迦と一緒で、大学出てなくても、頭はめちゃくちゃ良いです。修羅場くぐってますから。いわゆる地頭(ヂアタマ)が良いというやつです。いってみれば大学を作る側の人間、福沢、大隈みたいな存在です。
 架空の人物、勘太郎の子孫というのは、格別おもしろいですね。
 先の話の次郎長の答えです。ある人間を叱る時には、必ず人のいないところで叱る、1対1で叱る、でした。
自尊心の尊重ですね。今聞いても、すごい話です。
投稿: 方解石 | 2013年10月10日 (木) 23時18分

 天狗党を書いた山田風太郎の『魔群の通過』という小説に、薄井督太郎という人物が登場します。その人の記事を概略してみます。
 飯田の貧しい商家に生まれ、志を立てて江戸で佐久間象山に入門、また、京で頼三樹三郎の弟子になったりしてあっぱれ天下の志士となった。
 筑波の義挙には最初から参加して、以来一党の参謀の一人となっていた。
 一党は和田峠の戦いに勝利し下諏訪まで下りますが、ここで問題がおこります。この先の進路に伊那路をとるか木曽路にするか。
 薄井は伊那路を通ることに猛反対します。故郷の飯田が焼け野原になるおそれがあるからです。しかし彼の意見はいれられず、その夜のうちに彼は姿を消しました。天狗党の幹部の脱走はこれがはじめてです。
 「伊那の勘太郎」にまつわる皆さんのコメントを読んでいて勘太郎さんはこの人だと直感しました。
 その後、彼はまんまと生きのびます。維新後、薄井龍之と名を改め、北海道開拓使の役人となって札幌建設にかかわり、町の一角に自分の姓の一字をとって薄野とつけた。
 勘太郎さんですよね。
投稿: 颱風人 | 2014年9月15日 (月) 16時36分

この勘太郎月夜唄については特別な思い出があります。というのは私の義兄が長野県伊那市の出身で、義兄は優しくて豪放磊落、心の大きな人でした。その彼が酔うと必ず出てくるのがこの勘太郎月夜唄でした。その義兄も先週、17回忌を迎えました。先夜、わが家の仏壇の前で義兄のことを祈りながら、義兄の好きだったこの歌を歌い、生前の在りし日の義兄を偲びました。♪影か柳か 勘太郎さんか… きっとこの歌声は天国に届いたと思います。
投稿: 光男 | 2018年7月15日 (日) 14時36分

下平評

最近のことです。 健康のために眠りにつく前に独特だと思う呼吸法をしています。 肺呼吸を正常にして新鮮な酸素を血液に取り入れたり、大脳を整理して休ませたり、

 2022/02/12
藤井聡太竜王、10代で五冠達成
正確な指し手は「初めての生き物」

写真・図版 【写真】第71期王将戦七番勝負第4局で渡辺明王将(手前)に勝利し、感想戦で対局を振り返る藤井聡太竜王=2022年2月12日午後7時3分、東京都立川市、代表撮影

 将棋の藤井聡太竜王(19)=王位・叡王・棋聖と合わせ四冠=が史上最年少で五冠を成し遂げた。名人と棋王と合わせ三冠の渡辺明王将(37)との頂上決戦だったが、改めて藤井竜王の強さが際立つ結果となった。他の棋士たちが驚く斬新な構想を見せる場面もあり、さらなる進化を印象づけるシリーズとなった。

 東京都立川市で11、12の両日に指された第71期王将戦七番勝負第4局は、36手目まで両者が戦った昨年の棋聖戦第3局と同じ進行をたどった。渡辺前王将がその対局とは別の進行を選んだが的確に対応した藤井竜王が勝ち、対戦成績4勝0敗でタイトルを奪取した。

 終局直後、藤井竜王は「(1日目夕の)封じ手のあたりは自信がなかった。歴史のあるタイトルなので取れてうれしい」、渡辺前王将は「(3連敗でタイトル奪取に失敗した昨年の棋聖戦に続き)またストレートで負けてしまった。もうちょっと何とかしたかった」と話した。

 19歳6カ月での五冠は史上最年少記録。記者会見で藤井竜王は「過去に五冠となられた方は時代を築いた棋士ばかり。光栄に思う。立場に見合った実力が足りない。今後実力をつける必要がある」と話した。

 両者がタイトル戦で顔を合わせたのは3回目だが、2日制は初めて。スコアは一方的になったが、第1局と第3局は終盤まで接戦だった。渡辺前王将の戦いぶりについて、第3局で立会人を務めた深浦康市九段(49)はこう分析する。

 「藤井さんの直線的な読みが生きないように、盤面全体を使った複雑な戦いになることを意識していたのではないか。あれだけ長い時間、藤井さんと互角の形勢を保てるのは、渡辺さんだからできる芸当だと思う」。ただ、藤井竜王の指し手は終始正確無比だった。「これほどミスをしない棋士はいない。私にとって『初めての生き物』と言える存在。棋士はみんな驚いています」

 戦術面での進化も顕著だ。先手番の時、藤井竜王は以前は「角換わり」を得意としていたが、昨年2月以降は「相懸かり」を多用している。先手番だった第1局と第3局でも相懸かりを採用し、かつては「悪い形」とみなされていた斬新な手法を披露。AI研究に裏打ちされた構想力に磨きがかかっている。相懸かりを得意としている飯島栄治八段(42)は「従来の相懸かりは序盤から激しい戦いになることが多かったが、藤井竜王はじっくり駒組みを進めるタイプ。指し方が複雑で相手は研究がやりにくい。シフトチェンジは大成功だった」と言う。

 将棋界の八つのタイトルは、五冠の藤井竜王が半分以上を保持することになった。他のタイトル保持者は、名人と棋王の二冠に後退した渡辺前王将と永瀬拓矢王座(29)。

 藤井竜王の次の対局は、3月9日にある第80期名人戦・B級1組順位戦の最終13回戦になる見込み。現在9勝2敗の成績で単独首位に立ち、A級への昇級を視野に入れている。4月以降、保持するタイトルの防衛戦も始まる。将棋界は昨年以上に、藤井竜王を中心に回ることになりそうだ。(村瀬信也)

藤井聡太
ウィキペディア(Wikipedia)

幼少時代
5歳であった2007年の夏、母方の祖父母から将棋の手ほどきを受けた。 藤井の祖母は、3人の娘のところに生まれた孫たちに囲碁と将棋のルールを順番に教えていた(祖母自身はルールを知る程度)。 藤井は瞬く間に将棋のルールを覚え、将棋を指せる祖父が相手をしたが、秋になると、祖父は藤井に歯が立たなくなった。

同年の12月、瀬戸市内の将棋教室に入会。 入会時に師範から渡された、500ページ近い厚さの所司和晴『駒落ち定跡』(日本将棋連盟、ISBN 4819702092)を、まだ読み書きができない藤井は符号を頼りに読み進め、1年後には完全に理解・記憶した。 将棋教室塾長の文本氏によると、教室では1回3時間の授業を週3回行っているが、教室に通い出した藤井が週4回の授業を希望したことから彼のために追加授業をした時期があるという。