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続折々の記 2022 ①
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 04 】02/21
    いのちとは何か  
        聖路加国際病院 理事長  日野原 重明
        東京大学名誉教授 養老 孟司
        聖書・キリスト教字典
        「いのちって何?」子どもを亡くして気づいたこと

 2022/02/21
いのちとは何か      今ここにいる自分

検索語 いのちとは何か

その一
しかし,いのちとは何かの説明がなく,目に見えないいのちの取り扱い方が誰にも分からなくなってしまっているのです。 私は物心のついた小学校の四年生,10歳の子どもに「いのちとは何か」をこう説明しています。 いのちは見えないもの。 それは風のように,その影としての梢のゆらぎや,雲の流れていることの本体は頭では分かるが,その本体を心で感じることは難しいものです。
  さらに詳しく探す  開いてみて、参考になると思ったら読んで ……
  命を大切にするとは、どういうことなの ...
     東洋哲学では、「命の目的は、人格を高めること」と断言。
     「思いやりと智慧と意志力の3つの心を高める」ことです。
  「いのち」とは「時間」のことなんです ...
  忘れるな。たったひとつの「命」がどれ ...
  命とは - コトバンク

検索語 命の大切さ「命の大切さ」

聖路加国際病院 理事長  日野原 重明
2006年は,いじめや子どもや大人の自殺,他殺が続き,この年の後半からは新聞やテレビには悲惨なニュースが重ね重ね報道され,一方,また米国の対イラクへの対応で,平和の夢が完全に崩れた中に年を閉じました。
何とか,この2007年という新しい年こそは平和への扉が開く年としたいと考えています。

さて,いのちを大切にすることは人間の歴史が始まってからの大切な命題でしたが,物質文明が高速度で展開され,文明生活の中で人間の心がないがしろにされるようになったのです。
人間の生命は有限で,いくら医学が進歩しても,死は必ず来ます。死をどうよく迎えるか,最後に自分が生まれてきたこと,皆さんと一緒に生活できたことは感謝ですと,一言でも「ありがとう」の言葉で別れの手を差し出すことができれば,それは死んで行くその人だけでなく,遺される人がそれから力を得ることができ,別れの悲嘆から早く解放されることができるのです。
シェ―クスピアのいう「終わりよければすべてよし」となるのです。

ところで,いのちの大切さについては,昨年は方々で語られ,いのちの重要性が説かれました。しかし,いのちとは何かの説明がなく,目に見えないいのちの取り扱い方が誰にも分からなくなってしまっているのです。 私は物心のついた小学校の四年生,10歳の子どもに「いのちとは何か」をこう説明しています。
いのちは見えないもの。それは風のように,その影としての梢のゆらぎや,雲の流れていることの本体は頭では分かるが,その本体を心で感じることは難しいものです。

しかし,いのちは君たちがいつも持っている,今も持っていて,そしてそれを自分のために使っているのではないかと。
心臓はいのちを保つために,脳に酸素と栄養を血液によって送って人間が考えることができるようにさせ,同じく手足に血液を送って動かせるようにしています。いのちを支えるのに心臓はポンプの働きをしています。しかし,心臓がいのちではありません。

いのちは自分でどうにでも使える自分が持っている時間なのです。そう10歳の子どもへ語り,今日は朝から何をしてきたかを尋ねます。彼らの言うことを聞くと,それは全て自分のために使った時間で,自分のために勉強し,自分のために遊び,自分のために食べ,眠っているのではないかと話すのです。
自分の持っている時間が,君たちのいのち,それをどう自分以外のために使うかを考えて作文を書いて私に送って下さいと言います。
10歳の子どもたちには時間としてのいのちが実感され,そうかと同意してくれ,そのいのち,草木のいのち,動物のいのち,人のいのちを大切にして生きていくように私は勧めるのです。

私はいのちの大切さを多くの人々に知ってもらうとともに,自分に与えられたいのちという時間を,どのように自分でプランをして実行するかということの重要性を,日本だけでなく外国でも説いてきました。
私は老人にも若い人にも,いのちの重要さとその使い方を話してきましたが,老人は,その長い人生の中で,いくつもの失敗をしてきているので,その反省を,若い人に伝えて,同じ過ちを若い人にさせないようにする使命があると思うのです。

人のいのちを大切にするとは全く反対に,日本は第二次世界大戦には,ドイツ,イタリアと組んで,英米,オーストラリアなどに対して戦争を始めたのです。
日本は昭和12年に盧溝橋事件をきっかけに中国で戦線を拡大したり,また,昭和16年にはハワイの真珠湾に停泊中のアメリカの軍艦を抜き打ち的に爆破したりして太平洋戦争を始めたのです。
日本軍は,戦線を東南アジアやオーストラリア近くにまで拡大し,遂には米軍により,日本国内各地に大空襲を受け,最後には,広島や長崎への原子爆弾の投下を受けて,日本は完全に敗退して終戦となったのです。この戦争を体験した老人,つまり75歳以上の高齢者は,戦争についての正しい知識の全くない子どもや孫に戦争の悪について正しく伝える義務があるのだと思います。

第二次世界大戦を最後に,21世紀は平和の世紀となることが世界中の人々により望まれていたのに,21世紀になっても世界各国で戦争やテロが引き続き行われ,数え切れぬほどの人々が死んでいます。
日本やその他の国が冒した罪をもっと悔い改め,人間のいのちの大切さをよく理解した上で,このような戦争やテロが行われない世界を作ることが,これからの子どもや孫の時代に期待されるのです。

そのようなわけで,戦争を経験した日本の老人は,もっともっと子どもや孫に接近して,戦争を避け,平和をもたらす精神を伝えるべきです。
いのちの大切さとその使い方を次の世代の人々に伝えるために,私は,5年前に「新老人の会」を計画し,今日本中だけでなく,米国,オーストラリア,さらにはメキシコ,韓国などにこの運動を広めようとしています。
いのちを愛する精神は,人間の生命だけでなく,地球上の自然を愛する,つまり草木を愛する,そして動物を愛する心が,人を愛する心と共に,めいめいの心に養われなくてはなりません。
このいのちを愛する運動が広がれば,いじめもなくなり,戦争もなくなることが期待されるのです。 私は愛の運動をますます世界に拡げるために95歳を過ぎてからも許されるいのちを精一杯に使って前進したいと思います。

いのちの大切さとその使い方を次の世代の人々に伝えるために,私は,5年前に「新老人の会」を計画し,今日本中だけでなく,米国,オーストラリア,さらにはメキシコ,韓国などにこの運動を広めようとしています。

検索語 命の大切さ「命の大切さ」

東京大学名誉教授 養老 孟司
いのちの大切さ,と人々はいう。私はいのちという言葉を使わない。代わりに「生きもの」という。生きもののほうが具体的で,なにを指すか,はっきりしている。いのちという言葉はもっと広い意味を持っていて,いのちの源というように,生きている活力のようなものを含んでも使われる。文部科学省が「生きる力」といったのも,いのちと関係するのかもしれない。

私がこの言葉を使わないのは,この言葉が自分の議論に適切ではないと感じるからである。いのちは概念的な言葉で,概念を大切にするのは危険である。「生きものを大切に」といえば,具体的だからすぐに反論が出るであろう。そんなこといっても,人はウシを食べ,ニワトリを食べるじゃないか。反論が出るからこそ,生きものと表現したほうがいい。いのちと概念的に表現すると,そこをごまかすことになりやすい。でもいまはそこをごまかして済む時代ではない。生きものが大切だということを,子どもにきちんと教えられるようでなければ,「いのちを大切に」などといえない。

われわれはウシを殺して食べ,ニワトリを殺して食べる。それどころではない。日本人は魚を好んで食べる。それが健康食だというので,いまや欧米人も魚を多く食べはじめている。日本の商社よりも,ノルウェーの会社のほうが,魚を高く買い付ける。そういう記事が新聞に出る。マグロは絶滅に瀕しているという。将来マグロの絶滅は日本人のせいにされるであろう。

いのちを大切に,と呑気にいっている段階ではない。生きものを大切にしなければならないのである。ところがそういうと,昆虫採集は残酷だ,禁止だという。困ったものである。こういう目立たない生きものは,捕まえて調べていなければ,いなくなったのかどうかすら,わからないではないか。生きものを大切にするには,生きものについて,よく知らなければならないのである。ウシを飼い,ニワトリを飼い,魚について知らなければならない。沖合いで網を入れ,魚を取る。魚を食べている人たちが,魚ではないどれだけの生きものが,網にかかって殺されているか,ご存知であろうか。それでも人々は「いのちを大切に」という。それをいっておけば,あとは私のせいじゃない。そう思っているのではないか。そう疑う私は,意地が悪すぎるのであろうか。

見えないところに,どれだけの生きものがいるか。それをお考えになったことがあるだろうか。考えているはずがない。私はそう思う。見えない世界の生きものについて,考えたことがあるなら,日本中がこれだけコンクリート詰めになるはずがない。どれだけのミミズを殺し,モグラの住居を奪い,セミやオケラの世界を潰しているか。そういう目に見える生き物がじつは問題なのではない。土中の細菌,カビ,菌類の世界について,われわれはほとんどなにも知らないといって過言ではなかろう。その土に化学肥料をまき,除草剤をまき,殺虫剤をまき,挙句の果てにコンクリート詰めにする。それで「いのちを大切に」という。そりゃ聞こえませんは。

いのちを大切にしていないのは,子どもではなく,大人である。子どもはそれに影響されているだけである。その子どもが三十万円出すから,母親を殺してくれと頼む。頼むほうも頼むほうだが,引き受けるほうも引き受けるほうである。大人の鑑ですな。本気で考えると,背筋が寒くなる。国土の一割をゴルフ場にしようとしたのはだれか。ホリエモンを生み出したのはだれか。金さえあれば,できないことはない。そう思わせたのは,だれか。少なくとも子どもに責任がないことは明らかであろう。

いのちの大切さ,と聞くたびに,じつは腹が立つ。自分がやってもいないことを,標語にするんじゃない。この問題を解決するには,どうすればいいか。モノに即して具体的にいうなら,答えは簡単である。世界が石油切れになればいいのである。石油が切れれば,物流が不自由になる。物流が不自由になれば,自給自足しかない。地産地消をしようと思ったとたんに,生きものの大切さがわかるであろう。工場による分業は,運搬の費用が安くつくから可能なのである。物流が高価になれば,安くて重いものは運べなくなる。相対的に値上がりがひどいからである。食料はその典型であろう。それなら人は食料のあるほうに移動するしかない。食料とはなにか。植物を含めた「生きもの」ではないか。その生きものが栄えている土地こそ,食料が豊かな土地である。

都会の人が生きものを大切にしなくなるのは,一種の必然である。頭で考えることしかしないからである。頭で考えること,つまり意識には,どれだけの歴史があるか。人類が現在のような意識を持ってから,たかだか五万年であろう。それに対して,生きものの歴史は,多細胞の生物が生じてから五億年以上になるはずである。それなら意識なんて,とんでもない新参者である。新参者に偉そうなことが可能なのは,石油エネルギーがタダ同然の値段で使えるあいだに過ぎない。

個人的には,まず田舎に行くことであろう。いまは田舎が田舎ではない。それなら頭のなかに田舎を取り戻すことである。そんな説教をしなくたって,じつはだれでもわかっていることであろう。身体を使って自然のなかで働けば,外からのエネルギーなしに,人にはどの程度のことが可能か,それがわかるはずである。それを体験すれば,人々はいまよりはるかに謙虚になるであろう。それをしないのは,怠けているだけのことである。怠けることを続けるなら,石油切れを待つしかない。

検索語 《じっくり解説》いのちとは?

聖書・キリスト教字典  <https://www.wordoflife.jp/bible-959/>より
一般的には生き物を生かしている根源的な力を言う.
いのちとは何かという問題は,生物学・医学・化学・物理学,そして文学・哲学・宗教にとっての一大テーマである.「生とは死に抵抗する力の総和である」とのM・F・X・ビシャのことばに代表されるように,「死」あるいは「非存在」との対比において「いのち」を考えるのが一般的な理解であるが,それはまた,「いのちとは何か」を定義することが極めて難しいことを物語っている.

日本語の「いのち」ということばの語源には諸説あるが,一般的には「息の道(あるいは,内,霊,力,続)」だとされ,「息」と関連付けられている.そして「息」は「生きる」から来ていることばだと言われる.また,一説に「胃(あるいは,胆)の気(あるいは,霊もしくは血)」だとするものがある(古語では「霊」は「ち」と読まれ,「血」に通じる).息と血が「いのち」ということばに関連することは,後に述べるように,興味深い点である.
この「いのち」という日本語に訳される聖書の言語のうち,重要なものは[ヘブル語]ハッイーム,[ヘブル語]ネフェシュ,[ギリシャ語]プシュケー,[ギリシャ語]ゾーエーであり,聖書における「いのち」の考察は,これらのことばの使われ方の多面的な分析を経て,統合的になし得るであろう.

1.旧約におけるいのち. [ヘブル語]ハッイームは「存在する,生きる」ということばから来ており,自然的生命,肉体的生命を表す(申命28:66).いのちを脅かすものが病気であり,死であり(詩篇18:5,6,116:8),いのちとは,それらに負けることなく健康であり,活動することであり,自由や成功を得ることであり,幸福で長生きすることと同義的である(箴言3:2,伝道者9:9,マラキ2:5).
しかし,箴言12:28ではこの語は単なる肉体的生命以上のいのち,永遠のいのちを指し示している可能性がある. [ヘブル語]ネフェシュは,生命の基本原理,体を生かしている生命力であり,さらには,生きた存在としての人間,「生命活動」をしている人間を表す.

この語の原義が「息」である(ヨブ41:21.同語源の動詞[ヘブル語]ナーファシュを参照→出エジプト23:12).「息」はいのちの根源と考えられ,生きているものは「息あるもの」([ヘブル語]ネシャーマー.ヨシュア11:11,詩篇150:6)であり,息の停止はいのちの終息である(創世35:18,Ⅰ列王17:17,21,22).この語は,息をする器官「のど」(エレミヤ4:10,ハバクク2:5),その器官が切望する「生への欲求」(箴言23:2,伝道者6:7),さらに,その欲求に伴う感情の座である「心」(出エジプト23:9,伝道者6:9)や「たましい」(ヨブ30:25)を意味する.
こうしてこの語はより広義の意味を得,「いのち」それ自体を表し,「死」の反対語[ヘブル語]ハッイームの同義語として用いられる(出エジプト21:23,箴言8:35[ヘブル語]ハッイーム,8:36[ヘブル語]ネフェシュ).<復> さらには,息をする「人間」そのもの(創世12:13,レビ17:10),時には息が出て行ってしまった「死体」(民数19:11)さえも意味する.

以上のような「いのち」を指す語の持つ意味の多様性それ自体,「いのち」の複雑さを示していると言えよう. 「いのちは血で(血に)ある」と言われている章句がある(創世9:4,5,レビ17:11,14,申命12:23,箴言1:18).これは血が生命力の座であると見なされていたことを示している.とりわけ人間の血を流すことは「神のかたち」を破壊するものとして厳しく弾劾される(創世9:6).

聖書における人間のいのちの尊厳は,人間が神のかたちに造られたことに基づくものである(→本辞典「生命倫理」の項). [ヘブル語]ネフェシュに[ヘブル語]ハッイームの同語源語[ヘブル語]ハッヤーを結び合せたことばが,「生き物」を表すことばとして用いられている(創世1:30,2:19).創世2:7によれば,神が土地のちりで人(の肉体)を形造り,「いのち([ヘブル語]ハッイーム)の息」を吹き込まれた結果,初めて人は「生きものとなった」.

ここから魂と体の実体二元論を引き出すことは誤りで,生ける人間にとって体が霊にとっての足かせや牢獄であるというような思想は旧約にはない.人間は一つの統一体として神に創造されたのである.この聖句において,他の「生き物」と人間という「生きもの」との違いが明瞭にされる.
すなわち,人間だけが神から「いのちの息」を吹き込まれた独自の「生きもの」なのである.従って,人間の「いのち」,人間の全存在は,神に由来し,神に依存する(詩篇104:29,30).いのちの主は「いのちの泉」なる神であり(詩篇36:9),人間ではない(申命32:39,Ⅰサムエル2:6).詩篇139:13‐16は胎児のいのちの尊厳を考える上で重要である(参照ルカ1:41‐44).
注目すべきは「生ける神」[ヘブル語]エローヒーム・ハッイーム(エール・ハイ)という表現である(申命5:26,Ⅰサムエル17:36,詩篇42:2,ホセア1:10).主の御名[ヘブル語]ヤハウェは,「存在する」意味の語[ヘブル語]ハーヤーと密接な関係があり,主が永遠の存在であり生ける神であることをあかしするものと思われる(出エジプト3:14,15).神は永遠なるがゆえに生ける神であり(エレミヤ10:10,ダニエル6:26),いのちを創造し(創世1章),いのちを与え,あるいは取り去られる(ヨブ1:21).

被造世界のすべてのいのちは神から出ている.神はいのちの主であり,すべての「生ける者」の「生ける神」なのである. 旧約におけるいのちの本質は,生ける神との交わりに存する.いのちの秘密また根源は,神との交わりなのである.
この神との交わりを破壊するのが死である.
旧約における死とは,ギリシヤ思想に見られるような神意による自然なもの,完全至福を与える解放ではなく,人間の罪によりこの世に侵入してきた,神とは対立的・非自然的・異常なものであり,神と人との敵,「いのちの敵」である.死は人を,いのちの創造者なる神から引き離す.死とは神からの離反,神との関係喪失である(詩篇88:5,115:17).
また,死後,よみ([ヘブル語]シェオール)の世界で,無色の存在,影のようなものとして生き続けるというようなあり方も,真のいのちのあり方ではない.よみは主なる神の統治権外にあると見なされるからである.また,単に生存し続けることも,「生きている」ことにはならない.いのちとは,神の恵みと交わりのうちに存するいのちだからである(詩篇16:11,30:5,63:3,ハバクク2:4).この交わりは,肉体の死によっても壊されることはない(詩篇73:23‐28).神は終末的「その日」に,永久に死を滅ぼし,真のいのち・永遠のいのちを与えて下さる(イザヤ25:8,9,26:19,ダニエル12:2).

生ける神との交わり,神と人との間のいのちの結び付き,それが「いのち」なのである.
2.新約におけるいのち. 新約においても,旧約のいのち観は基本的に受け継がれ,さらに深められている. [ギリシャ語]ビオスは,いのちを表す主要な古典ギリシヤ語で,生物学的いのち・時間的いのち・いのちの具体的現れを指す.しかしこの語は,新約聖書にはまれにしか見られず,主として地上的いのち,いのちの現世的な性質を述べる場合に用いられ,「いのち」と訳されている箇所はない(Ⅰテモテ2:2「一生」,Ⅰヨハネ2:16「暮らし向き」,同3:17「富」).
[ギリシャ語]プシュケーは,70人訳聖書が[ヘブル語]ネフェシュの訳語にあてた語で,ネフェシュと同様,肉体的いのち(マタイ2:20),人間(使徒2:41,ローマ13:1),人格的主体たる我,思い,欲求,心,精神,知情意の座・人間精神の本質的部分としての「たましい」(Ⅰテサロニケ5:23),内的生命の主体(Ⅰペテロ1:9)など,多様な意味を持っている.
[ギリシャ語]ゾーエーは,存在を生きたものにしている根源的エネルギーを言い表す語で,肉体的・地上的いのち(使徒17:25,ヘブル7:3),より高次ないのち・霊的いのち(ローマ6:4),死と対立するいのち(ローマ8:38,Ⅰコリント3:22),永遠のいのち(Ⅰヨハネ5:11,12),復活のいのち(ヨハネ5:29),神のいのち(エペソ4:18)を表す,非常な広がりと深みを持つ語である.

(1) 共観福音書と「使徒の働き」において,人のいのちは,全世界をもってしても買うことのできないほどに尊いものであり(マルコ8:36,37),イエスは人のいのちを助けるために,しばしば御自分の力を用いられた(マルコ5:23,41,ルカ7:12‐15).それゆえ,いのちを支える食物・衣服などは,軽視されることなく,神の賜物として感謝して受け取られる(マタイ6:25以下).
しかし,真のいのちはパンのみによるのでなく,神のみことばに依存する(マタイ4:4,ルカ12:15).神から離れて生きることは,死んだ状態と同じであり(ルカ15:24,32),そのいのちは「神のいのち」から遠く離れている(参照エペソ4:18).

いのちは地上的いのちだけでなく,来るべき世のいのち・永遠のいのちへと連なるいのちである(マルコ10:17,30).そこで「いのちに入る」とは,「永遠のいのちを得る」「神の国に入る」「救われる」と同義である(マタイ18:3,8,19:16,24,29,マルコ10:17,23,26).
生かすことも殺すこともできる神は(マタイ10:28),いのちの創造者・賦与者(使徒17:25),いのちの主(ルカ12:20,使徒10:42)である.神はいのちそのものであり,「生ける神」であり(マタイ16:16,26:63,使徒14:15),かつ「生きている者の神」である(マタイ22:32,マルコ12:27,ルカ20:38).
(2) パウロ書簡において,いのちは,キリストの死からの復活という光の下で考察されている(ローマ14:9,Ⅰコリント15:20‐22).パウロは,いのちとそれが包む一切のものがことごとく死の支配下にある,と死の本質を見極めた.その死の力ゆえに人間は滅びゆく存在となっているが(Ⅱコリント4:11),キリストが死を滅ぼし,いのちと不滅を明らかにされた(Ⅱテモテ1:10).
復活を通して,キリストは新しいいのちの創始者,復活のいのち・永遠のいのちの賦与者となられた(ローマ5:12‐21,Ⅰコリント15:22).キリストはキリスト者のうちに生き(Ⅱコリント13:5,ガラテヤ2:20,エペソ3:17),キリスト者はキリストのうちにあって(Ⅱコリント5:17),キリストのいのちを生きる(Ⅱコリント4:10).そのことは,彼が神とキリストのために生き(ローマ14:8,Ⅱコリント5:15,ピリピ1:21),他者への愛に生きることによって具現化される(ローマ13:10,ガラテヤ5:6,13,22).

キリストのいのちは,いのちのことばによって(ピリピ2:16),御霊の創造的力によって(ローマ8:2,6,11,Ⅰコリント15:45),信仰によって(エペソ3:17),キリスト者に賦与される.
パウロにとって真の「いのち」とは,生死を超えていつまでも「主とともに生きる」ことなのである(ローマ14:8,ピリピ1:23,Ⅰテサロニケ5:10).

(3) ヨハネ文書においては,信仰者に与えられるいのちに焦点が当てられている.永遠のことば([ギリシャ語]ロゴス)は,永遠のいのちであり,永遠に神とともにあり,人の世にイエスとして受肉された(ヨハネ1:1‐18,Ⅰヨハネ1:1,2).それゆえ,イエスのうちにいのちがあり(Ⅰヨハネ5:11),イエスが永遠のいのちの「ことば」を持っておられる(ヨハネ6:68).
それだけでなく,イエス御自身が真のいのちそのものであり(ヨハネ6:35,14:6),永遠のいのちにほかならない(ヨハネ11:25,Ⅰヨハネ5:20).
神は,イエスを通し,イエスのみことばと人格を通して,人々にいのちをお与えになる(ヨハネ3:16,6:33,63,10:10,20:31,Ⅰヨハネ4:9).

ヨハネ文書における永遠のいのちとは,必ずしも死後のいのちを言うのでないことは,以上のことからも明らかである.神と御子を信じる者のうちに,すでに永遠のいのちは現存するのである(ヨハネ17:3).
ヨハネの黙示録においては,もはや死のない完全ないのちが示され(21:3,4),新しい神の都における「いのちの木といのちの水」の表象を用いて,神にある永遠のいのちの完全さが強調される(21:6,22:1‐14,19).

→永遠のいのち,生命倫理,死,死後の状態,復活,終末論.
〔参考文献〕H・W・ヴォルフ『旧約聖書の人間論』日本基督教団出版局,1983;Link, H. G., “Life,” The New International Dictionary of New Testament Theology (Brown, C.〔ed.〕),Zondervan, 1975 ; McDonald, H. D., “Life,” Evangelical Dictionary of Theology (Elwell, W. A.〔ed.〕),Baker, 1984.(熊谷 徹)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

検索語 「いのちって何?」

「いのちって何?」子どもを亡くして気づいたこと
    <https://wedge.ismedia.jp/articles/-/563>
鈴木中人(すずき・なかと)【写真】
1957年生まれ。81年にデンソー入社。92年に長女が小児がんを発病し、95年に死去。それを機に「いのちの授業」を始め、2004年に会社を早期退職して翌年「いのちをバトンタッチする会」を設立。学校・行政・企業等での講演や研修には、これまでに約9万人が参加。(撮影:田渕睦深)

 「生き方も働き方も多様化し、自分はどう生きたらいいか、どう働いたらいいかを見失っている人がたくさんいます。目先のことを考えがちですが、自分にとって大切なものは何かという原点が重要だと、私は思います。何が大切かは、いのちという言葉から見えてくる。でも今、いのちを見つめる感性が薄れてきています」

 いのちは大事なものだと頭でわかっていても、実感しながら生きているかと言われると心もとない人は多いだろう。いのちという言葉から感じとれることが失われつつあるから、自分はどう生きるかが見えなくなり、生きること自体が軽くなっている。いのちをバトンタッチする会の代表の鈴木中人は、そう考えている。

 鈴木は、小中学生や企業人らに「いのちって何だろう」と問いかけ、そこから何が大切か、どう生きるかを考えてほしいと、「いのちの授業」を続けている。大手自動車部品メーカーに勤めていた鈴木は、企画部門の次長だった2004年、46歳で会社を辞めて翌年に会を設立した。小児がんで亡くした長女のことを伝えようと考えたからだ。
いのちからくるキーワードを感じ取ると、生きることが肯定的になる
 いのちを見つめると、どう生きるかを考えることにつながるのは、なぜですか?

 「いのちには、『つながっている』『支えられている』『限りある』といったキーワードがくっついています。そこから『尊厳を持つ』『感謝する』『一生懸命』など、人と関わって生きる上で大事なことに気づきます。例えば、自分のいのちは自分だけのものじゃないという感覚を持つのと持たないのでは、生き方がまったく違う。いのちからくるキーワードを感じ取ると、生きることが肯定的になると思います」

 「ただ、『いのちは、つながっている』って、筆記試験でも書けますよね。いのちを、頭で理解しようとする前に、体験からくる実感によって、いのちを大切にする感性が育まれることが大事で、そのカギとなるのは家族です」

 いのちや、それに連なる言葉を、知識として蓄えているだけでは生き方に反映されない。例えば、いのちは限りあるものだと気づき、だから今を懸命に生きようと行動するエネルギーは、『いのちは有限だ』という机上の知識ではなく、誰かの死に接した体験から『限りあるいのちを大切にしたい』という感性が宿っていることによって、生まれるものだ。感性は、日々の生活における実践でしか育めないからこそ、家族の役割が大きいと鈴木は言う。
 「私が保育園に通っていたころ、祖母とお墓参りに行きました。祖母はお墓の前で『このお墓には、ばあちゃんの子どもが3人いるんだよ。みんな病気で、かわいそうなことをした。でも、お墓の中で、みんなのことを守っているんだよ。ばあちゃんももうじきお墓に入るけど、みんなのことを守るからね』と言って涙を流すんです。私は祖母を見て『お墓、大切にしなきゃ』って思いました。それは理屈じゃなくて、誰かが亡くなると寂しそうに涙を流すんだ、いのちや家族はつながっているんだという実感でした」
 「家族は、祖父母、両親という世代的な縦のつながりと、いま生きている人との横のつながりがクロスする場所です。家族との生活の中で、自分のいのちが多くの人に愛され、支えられ、つながっているという実感を持つことが、いのちの感性を育みます。子どもは、その感性を持って社会へ出ていくのです」
 しかし今、親から子どもへの愛情は、家を建てよう、教育費を稼ごうといった、外形的なものへ傾斜している。鈴木も、それは個々の家庭の価値観だからと認めつつも、家族だからこそ生活の中で伝えられること─いのちの感性を伝えること─を、一人ひとりが考えなければならないと、強く感じている。そのきっかけを提供したいというのが、「いのちの授業」だ。
 鈴木も「私も、子どもが小児がんになるまでは、『家族は大事』と言いながら、家や出世が先でした」と笑う。鈴木の長女の景子は、1992年、3歳で発病し、6歳で亡くなった。

自分がいただいたものをバトンタッチすることが、人生のテーマだ

 「闘病中は不条理への怒り、諦めや絶望が繰り返され、亡くなったときは罪悪感に苛まれました。悲嘆に暮れ、後悔が募り、がむしゃらに仕事に打ち込みました。体験を自費出版しようとしたのですが、最初の原稿は怒りばかり。それを書き直しながら内観し、死別から5年経ったとき、本で『子どもの供養とは、親が生まれ変わること、子どもの分まで生きること』という言葉に出会って、どっと涙が出ました」
 「じゃあ、私は何をしたらいいんだろう。そう思ってアンテナを立てたら、それまでつらかったことばかり覚えていたのに、台風の中を子どものためにハンバーガーを買いに行ってくれた先生、下の子どもを預かってくれた近所のおばさんなど、自分たちが支えられていたことを思い出すようになったんです」

 それで鈴木は、「自分がいただいたものをバトンタッチすることが、人生のテーマだ」と、会社に勤めながら、休日に「いのちの授業」を始めた。3年ほどしたある日、介護施設を訪れた鈴木は、「いま体が動くうちに大切にしたい思いに生きよう! 人生二度なし」と会社を辞めて「いのちの授業」に専念。「長男は中学生でしたし、『いのちで飯が食えるか』とも思いましたが、子どもの分まで生きるんだから、やるだけやってダメならいいじゃないかと」

 鈴木が「いただいたもの」とは何だろうか。それは、先生や周囲の人に支えられて家族がやってこられたという思いであり、何より、生き抜こうとする景子から受け取ったメッセージだろう。人に尊厳を感じることも、感謝することも、懸命に生きることもすべて、いのちを媒介としたものだ。 鈴木は、景子の発病、闘病、そして死を、言葉と写真で伝えながら、この「いただいたもの」をつないでいる。

 鈴木の授業が、いのちの感性を取り戻させるのは、空気のように存在しているのが普通だと思っていたいのちが、そうではないと気づくからではないか。 いのちに連なるキーワードをあらためて実感することで、そこから何を大切にして生きるかを考え始めるのだろう。

 経験が経験だけに、鈴木は使命感に駆り立てられ、悲愴感を漂わせているのかと想像していた。しかし、時間とともに自らを内観したためか、知的で穏やかで笑みも交えた話しぶりは、もとの人柄が滲み出てきているのだろう。肩に力が入っていないから、話に引き込まれていく。

 「初めは、『鈴木さん、あのころ怖かった』って言われるくらい、力が入っていたんですよ。でも会を設立して2年目くらいに、ある限界を感じたんです。小学校で『いのちの授業』をしたとき、薄ら笑いして聞いている子がいた。気になって、あとで校長先生に尋ねると、虐待された経験のある子でした」

 「子どものために親が涙を流す姿は、虐待された子どもには遠い世界の話なんだと気づきました。だから、私の話では届かない人もいる、いつか感じてくれるだけかもしれないんだなって。でも一方で、そういう子どもたちの心を開くには、地域の人や周りの人が、もう一回つながりを持たなくちゃいけないから、学校の先生とか医療福祉職とかカウンセラーを目指す人たちに向けて、いのちを考えるきっかけとなるような講座を、大学で試行しはじめています」

 心の土台に、いのちの感性が宿っていないなら、授業で気づかせることはむずかしいだろう。それが少数事例ではなくなってきている世の中だからこそ、鈴木は活動の幅を広げている。
 「私は景子ちゃんを救えなかった。そんな自分が救われる思いなんです」。授業を続ける気持ちを、鈴木はこう語った。それとともに、みんなの中で景子が生き続けることがうれしいのではないかと、筆者は思う。中西進・奈良県立万葉文化館長から、『万葉人は、いのちとは生きていること自体ではなく、生命が輝いている状態と考えた』と学んだことがある。鈴木が話すことで、死してなお景子の生命は人々の中で輝いているはずである。(文中敬称略)

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下平指摘】ウクライナ問題については、田中宇の国際ニュース解説「 https://tanakanews.com/220214ukraine.htmロシアがウクライナ東部2州を併合しそう」を見ていると、この現象は正しいものと考えたい。 朝日の社説は、アメリカの傀儡勢力がロシア敵視を扇動しているニュースそのままの鵜呑みの姿勢ではないのかと疑う。 マスコミもアメリカ追従には抵抗できないのか。