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続折々の記 2022 ①
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【 06 】02/24
① 満三歳ころから誰でも日本語を話しています
② 自分のすべては3~6才の環境如何による
③ 乳幼児期ではなく、なぜ宿業期か
2022/02/24
宿業期とは何か 新たな発想
① 満三歳ころから誰でも日本語を話しています
あなたは日本語を話し始めたころを覚えていますか? おむつを替えてくれたことを覚えていますか? ウンチをしたくなった時を覚えていますか?
いつからシャベリはじめたか覚えていますか? 歩き始めた時を覚えていますか?
… … … なんでこんなことを聞くんですか?
ほとんどの人は覚えていないことを第一に確かめたいのです。 人によって違う答えも出てくるでしょうが、5才ころからのことから記憶ははっきりしてくるのです。
牛や山羊は生まれてから少したって、立ち上がり歩きはじめます。 オッパイも自分で乳房を探して飲み始めるのです。
人間は未熟児で生まれてしまうので、ほかの動物とは違うようになりました。 言葉を使いほかの人と連絡しあって生活するように進化したからです。 その進化は、希望の実現という生きるため細胞に備わっている仕組みによって、大脳がどんどん発達したからです。 どんどん発達したと書きましたが、何千年のことをちじめて表現しただけなのです。
ほかの動物も植物も、人間と同じように進化するように いのち に仕組まれているのです。 いのちは細胞に支えられていますから、この細胞の遺伝子DNAには進化できる仕組みが備(ソナ)えられていたのです。 だから生き物はすべて進化してきているのです。 近代科学の研究によってこのことが明らかにされてきたのです。
人間は他の人との話し合いの必要に迫られて言葉を使うように進化してきたのです。 そのため大脳の記憶細胞その他の機能が進化して頭が大きくなりました。 このために母親は赤ちゃんの頭がまだ小さいうちお産するように進化してきたのです。 他の動物のように生まれてすぐに立ち上がりオッパイを飲むことが不可能になって、未熟児で生まれるようになったのです。
このことは、人間が他の動物とは大きく違う特徴になりました。 このことを私たちは認識しなければならないのです。
未熟児の期間を、私は新しい言葉で宿業期(シュクゴウキ)と言うことにしました。 その期間は生まれてからほぼ3~6年と考えます。大脳は旧皮質という部分と新皮質という二つの部分があります。 旧皮質は、赤ちゃんのいのちの発生から生後3~6才までの進化の過程を進めるまでの働きをになっています。 生後3~6才頃の間に大脳の記憶活動は新皮質の記憶活動に移行していくのです。
このことをよく理解しておいてほしい。
赤ちゃんが自分の記憶活動を始めるのは胎児期からということも今では科学的にも明らかにされています。
大脳旧皮質活動の記憶能力最後までの活動は物凄(モノスゴ)いものです。
ですから生まれてから3~6才の “宿業期の輝かしい記憶活動期に何をどう養ない育だてていくか” を親をはじめ家中の者はよく理解して実践しなければならないのです。
これは一人の赤ちゃんの養育指導だけでなく、地域ぐるみの理念や活動にしていくことが望ましいのです。
② 自分のすべては3~6才の環境如何による
①では大脳の記憶細胞能力の活躍時代を主として考えました。 ②では宿業期の環境によって知的能力、集中力や技能能力、喜怒哀楽の情緒、社会生活の態度、くせ、これらすべてが赤ちゃんの中に築き上げられるるものであることを親は理解していなければなりません。
これは後々それぞれの人の自分の価値観として定着してくるからです。 自分のとらえる価値観は他の人の価値観とは違うものであり、自分が高齢者になってから間違いなく認識できることなのです。
この価値観の意識は人それぞれ固有のものであり、誰でも自己価値観を固持しているのです。
違うだろうか?
細かな価値観の共有は大切なことなのです。 だが人格とか、道義とか、平和とか、自由とか、平等とか、そうした観点で見る限り、各自の価値観は同じではないことに気づくのです。
逆説で言えば、共通の自由や平等や平和や道義や人格においては、その定義は成立し得ないということです。
自分が受けてきた環境は独自のものであり、同じ意識での対処方法はないのです。
わかりますか?
自分が受けてきた環境の下(モト)での自己意識と、他人が受けてきた環境の下での自己意識とは違うのは、当然のことなのです。 けれどもどんな環境の下でいろいろな影響を受けたにしても、その人にとってはいやだなぁと思うことがあったにしても、自分の固有自己価値観をもっているのです。
親からの虐待が多くてとうとう自殺した女の子がいましたが、「ご免なさい、今までありがとうございました」とメモを残しているのです。 このニュースを目にしたとき、涙をこらえれなかったりです。 なんでこんなことになったのかよくよく考えてみると、親子の絆と、人の固有の自己意識価値観の実態の相違が、こんな結果になったと理解しなければなりませんでした。
こうした悲しい相克(ソウコク=ぶっかり合い)はナンダモンデか?
親子の絆はくずれても、人は生まれながらに “より良く生きようという” いのち本来の願いがインプットされているからと私は考えています。
これは私が考え出したものではなく、創世記(口語訳)の 第1章 27 に
“神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された”
と出ているから人はみな神様の子の考えなのです。 もう一つには ………
親鸞の「歎異抄」三章一節に、善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。とあり親鸞の心からの願いは、“人は誰もみんな煩悩の塊だからそれを離れて本願に依(ヨ)ることがいいのですよ”と説いたのだと言えるのです。
しかるを世の人つねにいわく、
「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」。
この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり。
そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる間、
弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、
真実報土の往生を遂ぐるなり。
煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざる
を憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、
他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候いき。
『本願に依る』の本願の意味が問題なのです。 仏教者のいう本願とは、親鸞はまさに「創世記」が願っていた人は神によるものと同じく、「歎異抄」が願ったのは人は弥陀の願いに依る仏性のことだと私は理解しているのです。
創世記は人は本来神の子孫だと考え、親鸞は人は本来仏が宿っていると考えたに相違ないのです。
どうしてそう考えるのか?
いのちの願いは、いのちの伝承にあるからです。 いのちの伝承をよく考えてみれば、親が子を産み守り育てる姿であり、人間だけでなくあの小さな小鳥が外敵に対してはいのちをかけて立ち向かう姿ではありませんか。 それはすべての動物の親が子に対する素晴らしい愛情であり、心からのいのちの伝承だと言えると考えるのです。 いのちの願いというのは、ただ子供を産みその子を育てるだけの意味とは違うのです。
この願いは、生活そのものに活(イ)かしたいと考えるのは正しい論理に違いないと思います。
③ 乳幼児期ではなく、なぜ宿業期か
①のほうで未熟児の時期を宿業期という言葉にしたと書きました。 どうして仏教用語を使うのか簡単に説明します。
もともとは乳幼児期という言葉を使って幼児教育を考えてきました。 ところがある時に宿業の言葉に出会いどうしてなのか調べていたのです。 幼児教育に宿業という言葉は不合理だと感じたし、妙に引っかかっていたのですが、とうとう分かりました。 解(ワカ)ったとき、それならこの言葉のほうがいいと思い乳幼児期を宿業期の言葉を使うようにしたのです。
だからこの言葉は私の勝手な言い方です。
まずJK(ジャパンナレッジ)ではこう説明しています。1. しく‐ごう[‥ゴフ]【宿業】日本国語大辞典一つは 宿世、過去世、前世、今生、現世、来世 に見られる時の系列(過去→現在→未来)が使われ、もう一つは 原因、果報、応報、報い に見られる因縁の系列(原因→結果)が使われています。 それで、(前世・現世・来世=三世)をJKで調べてみると ………
〔名〕「しゅくごう(宿業)」に同じ。*易林本節用集〔1597〕
「宿業 シクゴフ」易林【宿業】易林
2. しゅく‐ごう【宿業】デジタル大辞泉
仏語。現世で報いとしてこうむる、前世に行った善悪の行為。すくごう。
3. しゅく‐ごう[‥ゴフ]【宿業】日本国語大辞典
〔名〕(1)仏語。前世につくった業(ごう)。現世に応報を招く原因と
なった前世の善悪の行為。すくごう。*家伝〔760頃〕下(寧楽遺文)
「吾因〓宿業〓、為〓神国〓久
4. 【宿業】しゅくごう角川類語新辞典
この病いは前世の宿業かも知れない ○前世の行為。その報い(仏教)
5. しゅく‐ごう【宿業】仏教語大辞典
「しゅうごう」「すくごう」とも 1 過去世につくった善悪の行為。現世、
または来世に応報を招くもととなった前世の善悪の行為。 唯信抄 「宿業
の善悪は今生のありさ
6. しゅく-ごふ【宿業】全文全訳古語辞典
〔名詞〕《仏教語》前世からの報い。宿世の業因。現世の果報の原因とし
ての前世の善悪の行為。 「たちまちに宿業滅して必ず富饒を得べし」
〈今昔・4・38〉(前世の悪業
7. すく‐ごう【宿業】デジタル大辞泉
⇒しゅくごう(宿業)
8. すく‐ごう[‥ゴフ]【宿業】日本国語大辞典
〔名〕「しゅくごう(宿業)」に同じ。
9. すく‐ごう【宿業】仏教語大辞典
「 しゅくごう【宿業】 」に同じ。 霊異記 上・八 「宿業所招非但現報」
10. 【宿業】しゅくごう(ごふ)新選漢和辞典Web版
《仏教》前世のむくい。過去の応報。
ちょっと長いが時の系列( 三 世 (クリック))の解説ではここで大事なのは、仏教用語であり殊に赤文字にしたところをはっきり理解していなくてはなりません。ここで宿業(宿業とは今息をしている以前のことすべてだったのです。その意味で赤ちゃん時代を宿業期と考えることが合理的と言える)の意味が明らかになりはっきりするのです。
「三世」は、過去世、現在世、未来世のことです。
「過去世」といいますのは、私たちが生まれる以前のすべての過去をいいます。「現在世」とは、この世に生を受けてから死ぬまでのことです。「未来世」とは、永遠の死後をいいます。私たち一人一人に、この悠久の過去と永遠の未来があると仏教では教えられます。過去・現在・未来の三世を貫く生命があると説かれています。
地球上、69億の人はあっても、生まれた時も所も、容姿も才能も、同じ人は一人もいません。
現在を見れば過去も未来も、みな分かる、悠久の過去と永遠の未来を包含しているのが現在であるからだと、教えられたものです。この釈尊の教えによれば、一人一人の生まれた結果が異なるのは、69億の各人各様に生まれる前の、各人各様、異なった原因があったからに違いありません。
「善因善果、悪因悪果、自因自果」の厳粛な因果の道理に従って、私たちの過去世の行為が現在世の私たちの境界を生み出したのです。
当然、「過去世」があるように、私たちには「未来世」があります。もし「未来世」がないとすれば、因果の道理に例外を認めねばならなくなるでしょう。
原因が変われば結果が変わるのが、因果の道理です。
原因が変わっても結果は同じだという主張は、三世十方を貫く「因果の道理」を知らない妄言です。 現在世の行為の結果が、たとえ現在世で現れなくても、必ず「未来世」に現れますから、「三世因果」は三世十方を貫く真理であると教えられているのです。
仏教の「三世因果」の道理が正しく理解されますと、いかに「現在」が大切かが知らされます。
「過去世」とは、とりつめれば去年であり、昨日であり、前の1時間であり、吐いた息が過去になります。
「現在世」も、とりつめれば今年であり、今日であり、今の1時間であり、今の一息が現在の当体となります。
「未来世」も、これも叩けば来年となり、明日となり、1時間先となり、吸う息が未来となります。
ですから、仏教の三世とは、吸う息、吐く息の中にあると教えられているのです。
今の一念を徹見すれば、曠劫の間、流転してきた自己も明らかになるし、未来の一大事も知らされることになります。
『因果経』には、「汝ら、過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ、未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」 と説かれています。
これは、過去を知りたければ現在を見よ、未来を知りたければ同じく現在を見よ、現在とは悠久の過去と永遠の未来とを包含しているものだと教えられたものです。
続いて業の意味も見てみます。
業 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この項目では、インド発祥の宗教における業(ごう、カルマ)について説明しています。
業(ごう)とは、カルマ(梵: कर्मन् karman])に由来し、行為、所作、意志による身心の活動、意志による身心の生活を意味する語。原義においては単なる行為(action)という意味であり、「良い」「悪い」といった色はなく、暗いニュアンスもない。
インド哲学正統派、および異端派の一部(仏教など)の説では、善または悪の業を作ると、因果の道理によってそれ相応の楽または苦の報い(果報)が生じるとされる。業は果報と対になる語だが、業の果報そのものを業という場合もある。仏教はすべての結果について………「偶然による事物の発生」「(原因なく)事物が突然、生じること」「神による創造」などを否定し、………その原因を説くのである。
業の思想はインド発祥の宗教(とりわけヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シーク教)と道教において、輪廻と強く結びつく概念である。これらの多くの説では、善意と善行は良いカルマと幸福な転生をもたらし、悪意と悪行は悪いカルマと悪い再生をもたらすとされる(善因善果、悪因悪果)。
さてここで、宿業を業と過去→現在→未来の三世の考え方をインドのヒンズー教と仏教でみていくと、三蔵法師で知られる玄奘が漢文で表現した仏典をさらに日本人が中国から取り入れたものであります。
そうだとしますと、インドの言語を中国語で表現し、私たちはさらにそれを日本語で理解していたことになるのです。
‘日本 では近代以前から、 般若心経 など、サンスクリットの原文を漢字で翻訳したものなどを通して梵語という呼称が使われてきた。 梵語とは、サンスクリットの起源を造物神 梵天 ( ブラフマー )とするインドの伝承を基にした言葉である’
と言いますから、宿業の意味もサンスクリットの原文から理解するのが基本になるのです。 そうしてみると、人間の胎児期や幼児期はサンスクリットで理解すれば日本語で言う前世であり過去を意味するとも理解できるのです。
私はこの論理を大事にして、三世の理解により過去のすべてが今現在の結果として理解したいのです。生まれてから3~4才までは誰でも自分だけの意思で活動してはいませんから、誰にしてもこの時期を大事にしなければならないと思うのです。
業の思想善因善果は間違いなく正しい言葉なのです。 因縁という考え方は幼児期でなくとも昔から私たちは使ってきました。 これも間違えなく正しい言葉だと信じています。
私たちはこの真理と言えるような言葉の意味を理解して、それぞれ人の生活を進めなくてはならないと思います。