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【 03 】02/15
地涌の菩薩の生命とは何か 親鸞の教え
2022/02/15 Japan Business Press
日本のスポーツ報道、メダル獲得になぜ「悲願の」を連発するのか
作家・ジャーナリスト:青沼 陽一郎
2月4日に開幕した北京冬季オリンピックは、日程の半分を終えた。政治とスポーツは別物とはいうが、中国の覇権主義や民族迫害、ロシアのウクライナ侵攻など差し迫る国際的政治問題が渦巻く一方で、オリンピック競技は盛り上がっている。日本人選手の活躍も目立つ。
日本と中国の時差は1時間。決勝種目が夕方から夜にかけて多いことや、大会期間中に日本の三連休が入ったこともあって、ライブ中継でのテレビ観戦を楽しむ機会にも恵まれ、日本人選手の活躍を楽しみ、歓喜しているのは私も例外ではない。
だが、そこに水を差すのが、実況や解説者の表現であり、結果を伝える報道の有り様だ。これは半年前の東京オリンピックもそうだったが、そこから発せられる言葉が、あまりにも的外れで、陳腐で、本質を見失った見かけ倒しのスポーツ報道になっていることにがっかりさせられているのは、私だけではないはずだ。今回は特に気になる3つのワードについて触れてみたい。
なぜ報じる側が勝手に「悲願」にしてしまうのか
まずは、金メダルを獲得すれば、やたらと「悲願」という言葉を連呼することだ。
日本の祝日にあたる11日、スノーボード男子ハーフパイプで平野歩夢選手が金メダルを獲得した。これに日本のほとんどのメディアが「悲願の金メダル」という表現を使った。実況でも連呼していたし、スポーツ紙などはほぼ横並びで「悲願」の文字が踊った。
しかし、「悲願」というからには、文字通り悲壮感が漂い、その妨げとなった「悲劇」があるはずだ。金メダルを獲得するまでの平野選手に悲壮感はあっただろうか。
優勝直後のインタビューで平野選手は、「あまり実感がない」とした上で、「ようやく小さい頃からの夢がひとつかなった」と述べている。この言葉を前提にするのなら、23歳の平野選手が金メダルを獲りたいという「悲願」は小さい頃から抱えていて、そのひとつが叶っただけになる。幼少期から「悲願」を複数抱えているのだとしたら、これほど不幸な生い立ちもない。
選手はもっと競技人生を楽しんでいる
他方で平野選手は、前回の平昌大会、前々回のソチ大会と2大会続けての銀メダルだった。金メダルの獲得が積年の念願となっていたことは間違いない。
しかし、そこには2大会連続で金メダルを獲得した米国のショーン・ホワイト選手という世界の第一人者が君臨していたことが大きい。同選手は今大会での引退を表明していて、結果も4位だった。平野選手の努力や実力に勝るものはないが、同種目の世代交代が起きていたこともまた否定はできない。
平野選手は昨夏の東京オリンピックではじめて採用されたスケートボードにも出場している。なにか避けがたい事情で夏のオリンピックに出場したわけでもなく、むしろ積極的に自らの競技人生を楽しんでいる。その段階で、どこに悲壮感や悲劇が潜んでいるのだろうか。
【写真】昨年8月5日、東京五輪スケートボード男子パークの予選に出場した平野歩夢選手がアイシングしてもらっているときに見せた笑顔JBpress 提供 昨年8月5日、東京五輪スケートボード男子パークの予選に出場した平野歩夢選手がアイシングしてもらっているときに見せた笑顔(写真:千葉 格/アフロ)ここへ取り入れたかったがどうしてもコピーできなかった。 それで<ここ>をクリックし「読み込みを続ける」もクリックして笑顔をみてほしい。
そもそも、オリンピックに出場する選手は全員が勝つことを望んでいる。優勝を目指して戦っている。それで金メダルを追い求めることを「悲願」というのなら、オリンピック会場は悲願だらけになってしまう。
日本のスポーツ報道が、やたらに「悲願」の言葉を使いたがるのは、かつて昭和の時代に圧倒的な支持を得た「スポ根漫画」の影響が残っているからだろう。
その代表的な『巨人の星』にあるように、父親からのスパルタ指導(というより、いまでは虐待)に耐えながら、超一流の選手にのし上がる。そこには競技以外の場所でも不運や不幸が押し寄せながら、これを克服して栄光を掴む、その筋書きに見ている者を涙させ、喜ばせる。加えて戦後の経済復興と“モーレツ社員”に揶揄される根性主義が相乗効果を生み出す。悲願の道筋こそが美しいとスポーツマスコミがいまだに思い込んで、あるいはそう書くことが本流と伝統であるとでも錯覚して、「悲願」の連発に疑問を持たない。
しかし、Z世代が主役となりつつある現役アスリートたちが、そんなマゾヒスティック的な境遇を望むだろうか。それでも、こんな調子で、スキージャンプ男子ノーマルヒルで金メダルを獲得した小林陵侑選手にも「悲願」の文字がついてまわった。
「まだ17歳」に続けて何が言いたかったのか
次に耳障りなのは、すぐに選手の年齢に言及することだ。
6日に行われたフリースタイルスキー女子モーグル決勝。この種目には、今季ワールドカップランキング1位の川村あんり選手が出場し、金メダルが期待されていた。しかも、川村選手は17歳。メダル獲得となれば、2010年のバンクーバー大会でフィギュアスケート女子の銀メダルに輝いた浅田真央選手の19歳5カ月を上回って、冬季オリンピック日本女子史上最年少記録となる。
しかし、結果は5位だった。そこで報道は17歳の少女にかかった期待が重圧になったと説く。たまたまその日の夜に私が見ていたNHKのハイライト番組では、ことさらに男性MCが惜しみない同情を込めて「まだ、17歳ですからねぇ・・・」と語尾を明確にしない発言を繰り返しては、解説者に話を振っていた。
いったい、このMCは「まだ17歳ですから」のあとにどんな言葉をつなぎたかったのか。まだ17歳だから「勝てなくても仕方がない」とか、「重圧に負けて当然だ」とでもいいたかったのか。勝手に期待をかけておいて、よく言ったものだ。あるいは、20歳を越えていれば、こんな重圧ははね除けていた、とでもいいたいのか。論理性に欠け、その場しのぎの言い訳にしか聞こえない。
オリンピック選手に年齢は関係ないはずだ。17歳でも、それ以下でも、優勝する選手、金メダルを獲得した選手はいる。逆にベテランと呼ばれる選手でも、勝てない選手は勝てない。精神力も含めての実力だ。勝てないことを「悲劇」と呼ぶのなら、オリンピックは悲劇の宝庫になる。
「常套句」ばかりが目立つスポーツ報道
年齢にこだわる報道は、日本の特徴のひとつだ。新聞記事でも必ず氏名のあとに( )で年齢を記載する。そのために取材現場でも、平気で女性の取材対象者に年齢を尋ねる。欧米で女性に年齢を尋ねることは失礼にあたる。しかも紙面で女性の年齢を表記することは、異例でしかない。
年齢にこだわる日本の独自性は、年功序列型の日本の雇用制度が見直されつつあるように、世界から取り残され、もはや時代遅れとなりつつある。にもかかわらず、全国放送のオリンピック報道でここまで若輩にこだわることは、昭和の時代から思考が止まっていることを意味する。そういっておけば済まされるという、浅はかさすら漂う。
川村選手は4年後のオリンピックでは21歳。だから優勝できるという確証もない。
それに関連して、やたらに実況の担当者が選手紹介で常套句に用いるのが、「はじめてのオリンピック」という言葉。「はじめて」だから、なんだというのか。緊張のあまり実力が発揮できない、というあらかじめの言い訳のつもりか。2回目、3回目のオリンピックならば、場慣れして、緊張もしないで勝てるというのか。
報道陣は思考停止していないか
「参加することに意義がある」とは、近代オリンピックの生みの親であるピエール・クーベルタンの言葉だが、オリンピックに出場することは、とても難しいことであり、名誉であり、はじめてで終わる選手もいれば、出たくても出られない選手は圧倒的に多い。「はじめてのオリンピック」という言葉には、また出てくる、ということが前提となっていて、強烈な違和感を覚える。再度の出場はもっと難しいことであるし、むしろ同じ選手が何回もオリンピック選手として選出されているとなると、その競技団体は新しい選手の育成、強化に失敗しているのではないかと疑いたくもなる。
そのアンチテーゼが、ロシアの女子フィギュアスケート。ROCとしての出場だが、前回の平昌大会で金メダルを獲得したアリーナ・ザギトワ選手は、当時15歳ではじめてのオリンピックだった。だが、今大会にその姿はすでにない。
オリンピックに限らず、日本のスポーツ報道は、枠にはまった横並びの画一的で、真意も理解しないままに響きのいいフレーズを繰り返して、固定化、硬直化している。自分たちに都合のいい言葉で、価値観を押しつけている。思考が止まっている。
その典型が、野球の報道でいまだに使われている「主砲」という言葉だ。プロ野球でも打線の主力となるクリーンナップの選手を「○○(チーム)の主砲」という言い方で表現している。
では、「主砲」となにか。戦闘艦艇で最大の火砲のことを指す。かつての日本海軍の旗艦だった戦艦大和の46センチ主砲は世界一の射程42キロを誇っていた。だが、それでも戦争には敗れ、大和も鹿児島県の沖合に沈んだ。戦争は艦隊決戦の時代から、戦闘機が戦局を左右する時代に変わっているのに、「大艦巨砲主義」にこだわり時代を見誤った象徴だった。にもかかわらず、「主砲」の言葉は戦後の野球報道のなかに生き残り、ドローンやAIが実戦配備され、北朝鮮が開発する極超音速兵器への対応が迫られる令和の現代になっても、当たり前のように使われている。それこそ、創造性に欠け、時代錯誤もいいところだ。
それでもプロ野球の世界には、日本ハムファイターズに新庄剛志新監督が誕生して、これまでにない新風が吹きはじめている。新たな時代への期待感と同時に、オリンピック報道の過去のしがらみと固定観念にがんじがらめになった言葉繰りに、稚拙ささえ覚えている。
2022/02/15
地涌の菩薩の生命とは何か <親鸞の教え>
『末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆 地涌の菩薩の
出現に非ずんば唱へがたき題目なり』(御書一三六〇ページ)
話すほどに、山本伸一の言葉には力がこもり、熱を帯びていった。
「末法にあって、題目を唱え、広宣流布の戦いを起こせるのは、地涌の菩薩だからです。
ゆえに、大聖人は『末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり』(御書一三六〇ページ)と仰せなんです。
私たちは、どんな宿業に悩んでいようが、本来、地涌の菩薩です。
宿業も、末法に出現して広宣流布するために、自ら願って背負ってきたものなんです。
でも、誰を見ても、経済苦や病苦など、苦しみばかりが目立ち、地涌の菩薩のようには見えないかもしれない。事実、みんな、日々悩み、悶々としている。
しかし、広宣流布の使命を自覚し、その戦いを起こす時、自らの胸中に、地涌の菩薩の生命が、仏の大生命が厳然と涌現するんです。
不幸や悩みに負けている仏などいません。
苦悩は必ず歓喜に変わり、境涯は大きく開かれ、人間革命がなされていく。そして、そこに宿命の転換があるんです。
では、地涌の菩薩の生命とは何か」
ここで伸一は、地涌の菩薩の生命について言及していった。
地涌の菩薩の上首は、上行菩薩をはじめとする無辺行、浄行、安立行の四菩薩である。四大士とも言い、これは、勇気をもって大衆の先頭に立つとの意味でもある。
日蓮大聖人は「御義口伝」に法華文句輔正記を引いて、四菩薩が、仏の生命に具わる四徳である「常楽我浄」に配せることを示されている。
また、東洋思想で宇宙の万物を構成する四つの元素とされる、「地水火風」の四大にも関連させながら論じられている。
① 上行菩薩
上行菩薩は「我」を表し、「火」の働きをなす。
「我」とは、自らが仏であることを覚知し、何事にも動じない、強い主体性と信念を確立した境涯といえる。
また、「火」には物を焼く作用があるが、苦しみの元であるはずの煩悩を焼いて智慧の光へと転じ、世間の闇を照らす働きをいう。
つまり、周囲の人びとを熱き慈悲の一念で包み、勇気を与えゆく大リーダーの生命である。
② 無辺行菩薩
無辺行菩薩は「常楽我浄」の「常」を表し、また、「地水火風」の「風」の働きをなす。
「常」とは、生命は三世常住であることを覚知した境涯である。
生命が永遠であることがわからず、死に怯え、苦悩に縛られた自己を脱して、三世にわたる因果律に立った、広々とした自由自在の境地を会得することである。
この境地に立つならば、風が塵や埃を吹き払うように、いかなる苦悩も吹き飛ばしていくことができる。
大聖人は、種々の大難も、「風の前の塵なるべし」(御書二三二ページ)と仰せである。
③ 浄行菩薩
さらに、浄行菩薩は「浄」を表し、「水」の働きをなす。
これは、常に仏の清浄なる生命を涌現し、決して現実の汚濁に染まることなく、清らかな水のように、万物を清めていく働きである。
清らかな心には、豊かな感受性が宿り、感謝があり、感動がある。そこに美しき人間性の花が咲き薫るのだ。
④ 安立行菩薩
安立行菩薩は、「楽」を表し、「地」の働きをなす。いわば安心立命の境地にも通じよう。
つまり、何があっても紛動されることなく、豊かな生命力をもって、人生を楽しみきっていける境涯ということである。
また、大地が草木を育むように、人びとを、支え守る働きといってよい。
法華経の会座において、末法の広宣流布を託されたのが地涌の菩薩である。
したがって、私たちは広宣流布の使命に生きる時、その本来の生命が現れ、四菩薩の四徳、四大が顕現されるのである。それによって、境涯革命、人間革命、宿命の転換がなされていくのだ。
一人ひとりが、凡夫の姿のままで自分を輝かせ、病苦や経済苦、人間関係の悩みなど、自身のかかえる一切の苦悩を克服し、正法の功力を実証していくことができるのである。
その実証を示すための宿業でもあるのだ。
ベートーベンは、こう叫びを放った。
「どんなことがあっても運命に打ち負かされきりになってはやらない。――おお、生命を千倍生きることはまったくすばらしい!」(注)
その道こそが、われらの信仰なのだ。 (19巻・宝塔)
⑤ 妙法蓮華経とは何か
南無はサンスクリット語で、「私は帰依します」の意味です。妙法蓮華経は、法華経の御教えの意味で、法華経の教えを信じるという意味になります。
妙法蓮華経の妙は「正しい」法は「釈迦の教え」蓮華は白い蓮華の花の意味です。白は真実、正義の色で法蓮華教のことでもあります。
お題目とも言われる南無妙法蓮華経を連続して唱える行は、教えを信じ、自分が大宇宙の一点であることを宣言することを意味します。
同時に、大宇宙の一生命体である小宇宙が自分で、宇宙本来の流れや力を自分の肉体に呼び戻す回帰や覚醒の修行にもなります。
南無妙法蓮華経の実際
題目宗と言われる日蓮宗、法華宗の元祖日蓮が正行として始めたものとされていますが、日蓮以前の天台宗、天台寺門宗にも、題目として登場し、修行僧が唱えていたといいます。
題目は「なむみょうほうれんげきょう」と発音したり、「なんみょうほうれんげきょう」とも唱えられ、題目の唱え方は団体によってさまざまです。
<関連する用語>:蓮華 南無阿弥陀仏 念仏 踊り念仏 数珠 日蓮宗 親鸞 法然 六道 輪廻転生 成仏 南無釈迦牟尼仏 南無大師遍照金剛
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