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続折々の記 2022 ⑥
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 02 】07/07~
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【 04 】07/10~
【 05 】07/13~
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【 07 】07/18~
【 08 】07/20~
【 09 】07/22~
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【 02】07/07
学問のすすめ 明治5年2月発行
母なる川で循環していく命 サケ 生きものの死にざま
空が見えない最後 セミ 生きものの死にざま
2022/07/07
「学問のすすめ」福沢諭吉 1872(明治5)年2月初編発行
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り初編、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。
されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥(どろ)との相違あるに似たるはなんぞや。
その次第はなはだ明らかなり。『実語教(じつごきょう)』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。
また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役(りきえき)はやすし。
ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし
身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々(しもじも)の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本(もと)を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。
諺(ことわざ)にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人(げにん)となるなり。
学問とは、ただむずかしき字を知り、解(げ)し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦(よろこ)ばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴(とうと)むべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟(ひっきょう)その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。
されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬(たと)えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言(もんごん)、帳合いの仕方、算盤(そろばん)の稽古、天秤(てんびん)の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。
地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土(ふうど)道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。
これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事につきその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。
右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。
学問をするには分限を知ること肝要なり。人の天然生まれつきは、繋(つなが)れず縛られず、一人前(いちにんまえ)の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限(ぶんげん)を知らざればわがまま放蕩に陥ること多し。すなわちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずしてわが一身の自由を達することなり。
自由とわがままとの界さかいは、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。譬(たと)えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、たとい酒色に耽ふけり放蕩を尽くすも自由自在なるべきに似たれども、けっして然しからず、一人の放蕩は諸人の手本となり、ついに世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりとも、その罪許すべからず。
また自由独立のことは人の一身にあるのみならず、一国の上にもあることなり。わが日本はアジヤ州の東に離れたる一個の島国にて、古来外国と交わりを結ばず、ひとり自国の産物のみを衣食して不足と思いしこともなかりしが、嘉永年中アメリカ人渡来せしより外国交易(こうえき)のこと始まり、今日の有様に及びしことにて、開港の後もいろいろと議論多く、鎖国攘夷(じょうい)などとやかましく言いし者もありしかども、その見るところはなはだ狭く、諺(ことわざ)に言う「井の底の蛙(かわず)」にて、その議論とるに足らず。日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海をともにし、空気をともにし、情合い相同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互いに相教え互いに相学び、恥ずることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いにその幸いを祈り、天理人道に従いて互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴(こくど)にも恐れ入り、道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄すてて国の威光を落とさざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。
しかるを支那人などのごとく、わが国よりほかに国なきごとく、外国の人を見ればひとくちに夷狄(いてき)夷狄と唱え、四足にてあるく畜類のようにこれを賤(いや)しめこれを嫌(きら)い、自国の力をも計らずしてみだりに外国人を追い払わんとし、かえってその夷狄に窘(くる)しめらるるなどの始末は、実に国の分限を知らず、一人の身の上にて言えば天然の自由を達せずしてわがまま放蕩に陥る者と言うべし。
王制一度ひとたび新たなりしより以来、わが日本の政風大いに改まり、外は万国の公法をもって外国に交わり、内は人民に自由独立の趣旨を示し、すでに平民へ苗字(みょうじ)・乗馬を許せしがごときは開闢(かいびゃく)以来の一美事(びじ)、士農工商四民の位を一様にするの基(もと)いここに定まりたりと言うべきなり。
されば今より後は日本国中の人民に、生まれながらその身につきたる位などと申すはまずなき姿にて、ただその人の才徳とその居処(きょしょ)とによりて位もあるものなり。たとえば政府の官吏を粗略にせざるは当然のことなれども、こはその人の身の貴きにあらず、その人の才徳をもってその役儀を勤め、国民のために貴き国法を取り扱うがゆえにこれを貴ぶのみ。人の貴きにあらず、国法の貴きなり。
旧幕府の時代、東海道にお茶壺の通行せしは、みな人の知るところなり。そのほか御用の鷹(たか)は人よりも貴く、御用の馬には往来の旅人も路を避くる等、すべて御用の二字を付くれば、石にても瓦かわらにても恐ろしく貴きもののように見え、世の中の人も数千百年の古(いにしえ)よりこれを嫌いながらまた自然にその仕来(しきたり)に慣れ、上下互いに見苦しき風俗を成せしことなれども、畢竟これらはみな法の貴きにもあらず、品物の貴きにもあらず、ただいたずらに政府の威光を張り人を畏(おど)して人の自由を妨げんとする卑怯なる仕方にて、実なき虚威というものなり。今日に至りてはもはや全日本国内にかかる浅ましき制度、風俗は絶えてなきはずなれば、人々安心いたし、かりそめにも政府に対して不平をいだくことあらば、これを包みかくして暗に上(かみ)を怨(うら)むることなく、その路を求め、その筋により静かにこれを訴えて遠慮なく議論すべし。天理人情にさえ叶うことならば、一命をも抛(なげう)ちて争うべきなり。これすなわち一国人民たる者の分限と申すものなり。
前条に言えるとおり、人の一身も一国も、天の道理に基づきて不覊(ふき)自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚(はばか)るに足らず。ましてこのごろは四民同等の基本も立ちしことなれば、いずれも安心いたし、ただ天理に従いて存分に事をなすべしとは申しながら、およそ人たる者はそれぞれの身分あれば、またその身分に従い相応の才徳なかるべからず。身に才徳を備えんとするには物事の理を知らざるべからず。物事の理を知らんとするには字を学ばざるべからず。これすなわち学問の急務なるわけなり。
昨今の有様を見るに、農工商の三民はその身分以前に百倍し、やがて士族と肩を並ぶるの勢いに至り、今日にても三民のうちに人物あれば政府の上に採用せらるべき道すでに開けたることなれば、よくその身分を顧み、わが身分を重きものと思い、卑劣の所行あるべからず。およそ世の中に無知文盲の民ほど憐(あわ)れむべくまた悪(にく)むべきものはあらず。智恵なきの極(きわ)みは恥を知らざるに至り、己(おの)が無智をもって貧窮に陥り飢寒に迫るときは、己が身を罪せずしてみだりに傍(かたわら)の富める人を怨み、はなはだしきは徒党を結び強訴(ごうそ)・一揆(いっき)などとて乱暴に及ぶことあり。恥を知らざるとや言わん、法を恐れずとや言わん。天下の法度(ほうど)を頼みてその身の安全を保ち、その家の渡世をいたしながら、その頼むところのみを頼みて、己が私欲のためにはまたこれを破る、前後不都合の次第ならずや。あるいはたまたま身本(みもと)慥(たし)かにして相応の身代ある者も、金銭を貯(たくわ)うることを知りて子孫を教うることを知らず。教えざる子孫なればその愚なるもまた怪しむに足らず。ついには遊惰放蕩に流れ、先祖の家督をも一朝の煙となす者少なからず。
かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭(さと)すべき方便なければ、ただ威をもって畏(お)どすのみ。西洋の諺ことわざに「愚民の上に苛(から)き政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災(わざわい)なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり。
仮りに人民の徳義今日よりも衰えてなお無学文盲に沈むことあらば、政府の法も今一段厳重になるべく、もしまた、人民みな学問に志して、物事の理を知り、文明の風に赴(おもむ)くことあらば、政府の法もなおまた寛仁大度の場合に及ぶべし。
法の苛(から)きと寛(ゆる)やかなるとは、ただ人民の徳不徳によりておのずから加減あるのみ。人誰か苛政を好みて良政を悪(にく)む者あらん、誰か本国の富強を祈らざる者あらん、誰か外国の侮りを甘んずる者あらん、これすなわち人たる者の常の情なり。今の世に生まれ報国の心あらん者は、必ずしも身を苦しめ思いを焦がすほどの心配あるにあらず。ただその大切なる目当ては、この人情に基づきてまず一身の行ないを正し、厚く学に志し、博ひろく事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、政府はその政まつりごとを施すに易(や)すく、諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、互いにその所を得てともに全国の太平を護らんとするの一事のみ。今余輩の勧むる学問ももっぱらこの一事をもって趣旨とせり。
端書はしがき
このたび余輩の故郷中津に学校を開くにつき、学問の趣意を記して旧(ふる)く交わりたる同郷の友人へ示さんがため一冊を綴りしかば、或る人これを見ていわく、「この冊子をひとり中津の人へのみ示さんより、広く世間に布告せばその益もまた広かるべし」との勧めにより、すなわち慶応義塾の活字版をもってこれを摺(す)り、同志の一覧に供うるなり。
明治四年未(ひつじ)十二月 福沢諭吉
※ 福沢 諭吉(天保5年12月12日〈1835年1月10日〉 - 明治34年〈1901年〉2月3日)は、幕末から明治の日本の、武士、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾の創設者。
この初編に続いて明治9年までに十七編まで出版されています。
このほか参考として次のものもあります。
青空文庫の作家別作品リスト、公開中の作品
学問のすすめwikipedia
福沢諭吉wikipedia
福沢諭吉👉検索の最初のデータ、読み応(ごた)えがある
「生きものの死にざま」稲垣栄洋著 草思社
限られた命を懸命に生きる姿が胸を打つ
サケは、生まれ育ったふるさとの川へと戻ってくると言われている。
彼らにとっては、長い長い旅路であったことだろう。
川で生まれたサケの稚魚は川を下り、やがて外洋で旅をつづける。 日本の川で生まれたサケは、オホーツク海からベーリング海へすすみ、そこからさらにアラスカ湾を旅する。
大海原を移動しながら暮らすサケの生態は十分には明らかにされておらず、謎に満ちている。 しかし、川に遡上(ソジョウ)してくるサケは四年目の個体が多いことから、サケたちは海で数年間暮らし、成熟して大人になったサケたちが生まれた場所を目指して最後の旅に出ると考えられている。
故郷の川を旅立ってから、再び故郷に戻ってくるまでの行程は1万6000キロメートルにも及ぶと言われている。 この距離は、地球の円周の半分にも達しそうな距離だ。 その旅は危険に満ちた壮絶なものだったことだろう。
それにしても……サケたちは、どうして故郷の川を目指すのだろう。
人間も、年齢を経ると故郷が恋しくなるという。 サケたちも、あるときふと故郷のことを思い出すのだろうか。もちろんサケたちが故郷を目指すのには理由がある。 サケたちは故郷の川に遡上して卵を産む。 そして新しい命を宿すと、自らは死んでゆく宿命があるのだ。
サケたちにとって、故郷ヘの出発は、死出の旅である。
彼らはその旅の終わりを知っているのだろうか。 もし、そうだとすれば、彼らを危険に満ちた死出の旅に誘うものは何なのだろう。
サケたちのとって次の世代を残すことは重要な仕事である。 しかし、何も卵を産むのは故郷の川でなくてもよさそうなものだ。
どうしてこんなに困難な旅をしてまで、故郷の川を目指すのか。 そして、いつからサケたちはそんな一生を送るようになったのか。 残念ながら、その理由は明確にはなっていない。
生物の進化をたどると、かつてすべり魚類は海洋を棲みかとしていた。 やがて、魚類は多種多様な進化を遂げて、海は食うものと食われるものという厳しい弱肉強食の世界となっていった。 そして、捕食者から逃れるために、食われるものであった弱い魚の一部は、住みやすい海から逃れて、魚にとっては未知の環境である河口へと移り住んだのである。
河口は海水と淡水が混ざる汽水域と呼ばれる場所である。 海の塩分濃度に適応した魚たちにとって、そこは命を落としかねない危険な場所である。 それでも、迫害を受けた競争に弱い魚たちは、そこに住むしかなかった。
しかし、やがて餌を求める捕食者たちも汽水域に適応して侵出してくる。 すると、弱い魚たちは逃れるようにさらに塩分濃度の低い川へと向かい生息地を見つけていったのである。 現在、川や池に住む淡水魚は、こうした弱い魚たちの子孫であると考えられている。
ところが、こうした淡水魚たちの中には、再び広い海に向かうことを選択したものもいる。 サケやマスなどのサケ科の仲間たちがそり例である。
サケやマスなどのサケ科の仲間の魚は寒い地域の川に分布している。 このような水温の低い川では十分な餌がない。 そのため、一部のサケ科の魚たちは餌を求めて再び、海洋に出るようになったと考えられている。 そして、餌の豊富な海で育つことによって、たくさんの卵を産むことのできる巨大な体を手に入れるようになったのである。
それでは、どうして、餌の豊富な海へ向かったサケ科の魚たちは、卵を産むときには、川をさかのぼるのだろうか。
海は天敵が多く、危険に満ちた場所である事実は、現代でも何一つ変わらない。 進化したサケたちにとっても海は危険な場所なのだ。
たくさんの卵を産むとは言っても、無防備な卵を海にばらまけば、大切な卵は恐ろしい魚の餌食になるだけだ。そのため、サケは大切な卵の生存率を高めようと、自らの危険を顧みずに川に戻るのである。
母なる川を目指すサケたちの死出の旅。
それにしても遠く離れた故郷の川に、どのようにして迷わずたどりつくことができるのだろう。 サケたちは川の水の匂いで、故郷の川がわかるとも言われているが、そんなことだけで故郷がわかるのだろうか。 本当に不思議である。
長く危険な旅の末に、なつかしい川を探し当てたとしても、まったく安心することはできない。
故郷の川とはいえ、海水で育ったサケたちにとって、塩分の少ない川の水は思いのほか危険なものでもある。 そのため、サケたちは自分たちの体が川の水になれるまで、しばらくは河口で過ごさなければならないのだ。
このとき、サケたちは姿を変えていく。 その体は美しく光沢し、赤い線が浮かび上がる。 まるで、成人の儀式を祝う鮮やかな民族衣装である。
オスたちの背中は盛り上がって筋肉隆々だ。 下あごは曲がって、何とも男らしい姿になる。 故郷の川を目指す最後の旅を控えて、鋭い目は自信に満ちあふれているように見える。 メスたちは、体全体が美しく丸みを帯びて、まばゆいほどに魅力的だ。 どのサケも、川を下った稚魚の時とは見違えるほどに立派に成長している。
準備が整いサケの遡上が見られるのは、秋から冬にかけてである。
サケたちはいよいよ群れとなって川へと進入する。 なつかしい故郷を目指す旅とはいえ、もうここからは自分たちの暮らしてきた海ではない。 故郷を目指すサケたちには、容赦なく困難が襲いかかる。
河口では、川を上るサケを待ち受けて、漁師たちが網を打つ。 網につかまっては、一巻の終わりだ。
何とか魚網をかいくぐったかと思えば、次はクマの爪が水の中へと襲いかかってくる。 川を上りきる前に命を落とすサケも多い。
しかし、困難は終わらない。
川と海とはつながっているから、さかのぼれば上流にたどりつけると思うかもしれないが、それは昔の
話である。
現在では、水の水量を調節したり、土砂の流出を防ぐための堰(セキ)や、水資源を確保するためのダムなどの人工物が河川のあらゆる場所に作られて、サケの針路を阻(ハバ)む。
巨大な建造物を目の前にしてサケたちは何度もジャンプを試みる。 何度、失敗しても、何度、打ちのめされても、サケたちは挑戦をやめようとはしない。 これが祖先たちの克服してきた自然の滝であれば、祖先がそうしたように滝を超えていくこともできるのであろう。 しかし、サケたちの前にあるのは、先人たちは経験したことのない巨大なコンクリートの壁である。
多くのサケたちは、これを乗りこえることができず、故郷を見ることなく力尽き、死んでしまう。
最近では、「魚道(ギョドウ)」と呼ばれる遡上(ソジョウ)する魚たちのための通り道が設けられることもあるが、必死なサケたちにそんなことはわかるはずもない。 偶然に魚道に出くわした一部の魚が、そこを遡上していくだけで、魚道を利用する魚は人間が思うほど多くないと言われている。 多くのサケは魚道に気がつかないまま、志半ばにして旅を終わることになる。
上流部に進めば川は浅くなり、ごつごつとした川底の石が行く手を阻(ハバ)む。 それでもサケたちは、体を左右にゆすりながら、必死に川を上っていく。 それはもはや泳いでいるというより、のたうちまわっているようにしか見えない。 美しかったサケの体は、傷つき、ひれも尾もボロボロになる。 それでも、彼らは少しずつ、しかし確実に上流を目指していく。
何が彼らを、ここまでかきたてるのだろう。
川の上流部にたどりつき、卵を残したサケたちは、やがて死にゆく運命にある。
彼らは、この度のゴールに死が待っていることを知っているのだろうか。
サケたちは、河口から川に進入すると、もはや餌をとることはない。 海を棲みかとしてきた彼らにとって、川には適当な餌がないという事情もあるだろう。 しかし、彼らはどんなに空腹になっても、どんなに疲労がたまろうと、上流を目指して、川を上り続ける。 時間を惜しむかのように、残された時間と戦うかのように、彼らはただ、ひたすらに上流を目指し続けるのである。
まるで、死が近づいていることを知っているかのように、彼らは他のものには目もくれずに、ただ上り続けるのである。
サケたちは死に向かって川をさかのぼる。 そして、川をさかのぼる力こそが、彼らの生の力なのだ。
そして……ついに、と言うべきだろう。 彼らは故郷である川の上流にたどりつく。 迎えてくれるのは、なつかしい川の匂いだ。
サケたちはここで愛すべきパートナーを選び、卵を残す。 この瞬間。 この時のために、彼らは長く苦しい旅を続けてきたのだ。
サケのメスは川底を掘って卵を産むと、オスのサケは精子をかける。 そして、オスに守られながらメスは尾びれでやさしく卵に砂利をかけて産卵床を作るのである。
サケは繁殖行動が終わると死ぬようにプログラムされている。 最初の繁殖を行なった後、サケのオスも死へのカウントダウンが始まるが、彼らは自らの命が続く限り、メスを探し続け、自らの体力の続く限り、繁殖行動を繰り返す。 こうして、オスのサケの命は尽きてゆく。
卵を産み終えたメスのほうは、しばらくの間、卵に覆いかぶさって卵を守っている。 しかし、やがて彼女もまた力尽き、横たわる。
過酷な旅の末に体力が消耗したわけではない。 大仕事を終えたという安堵感に力が抜けてしまったわけでもない。
メスのサケもまた、繁殖行動を終えると死を迎えるようにプログラムされているのだ。 そして、無事に繁殖行動を終えたとき、その運命を知っていたかのように、サケたちは静かに横たわるのである。
人は死ぬ間際に、生まれてからの一生を走馬灯のように思い返すという。 サケたちはどうだろう。 彼らの脳裏に浮かぶ思いは何だろう。
苦しそうに、しかし満足げに彼らは横たわる。 もはや体を支える力もない。 できることは、ただ、口をパクパクと動かすことだけだ。
そして、彼らは静かに死を受けいれる。 故郷の川の匂いに包まれて、彼らはその生涯を終えるのである。
次々と息絶えたサケたちを、せせらぎが優しくなでていく。
この小さな川の流れが、次第に集まって、大河となる。 そして、その流れは大いなる海原へとつながっているのだ。
季節はめぐり、春になると、産み落とされた卵たちはかえり、小さな稚魚たちが次々に現れる。
川の上流は大きな魚もいないので、子どもたちにとっては安心な場所である。 しかし、水が湧き出したばかりの上流部には、栄養が少なく、子どもたちの餌になるプランクトンが少ない。
ところが、である。
サケが卵を産んだ場所には、不思議とプランクトンが豊富に湧き上がるという。
息絶えたサケたちの死骸は、多くの生きものの餌となる。 そして、生きものたちの営みによって分解された有機物が餌となり、プランクトンが発生するのである。 このブラントンが、生まれたばかりのか弱い稚魚たちの最初の餌となる。 まさに、親たちが子どもたちに最後に残した贈り物だ。
やがて、サケの子どもたちが、川を下る日が来ることだろう。 そして、海で成長した彼らは、この故郷の川を思い、帰郷の旅に出る日も来るのだろう。
父もその父も、母もその母も、誰もがこの旅を経験してきた。 子どもたちもその子どもたちにも、この旅は受け継がれていくことだろう。
こうして、サケの命は循環しているのだ。
しかし現代、サケたちが直面する現実は厳しい。
堰やダムによって川の上流部の多くは海と直接つながっていない。
さらに、人々はサケを好んで食べる。 メスのサケが腹に宿したイクラも人間の好物だ。
そのため、ほとんどのサケたちが河口で人間に一網打尽(イチモウダジン)にされる。 もちろん、すべて食べてしまってはサケがいなくなってしまうから、サケを守るために腹からは卵を取り出され、人工的に孵化が行われる。 そして、生まれた稚魚が川に放流されるのである。
サケの命はつながっている。
しかし、もはやサケにとっては自らの力で卵を産むことも、故郷の川で死ぬことも果たせぬ遠い夢なのである。
「生きものの死にざま」稲垣栄洋著 草思社
限られた命を懸命に生きる姿が胸を打つ
セミの死体が道路に落ちている。
セミは必ず上を向いて死ぬ。 昆虫は硬直すると脚が縮まり関節が曲がる。 そのため、地面に体を支えることができなくなり、ひっくり返ってしまうのだ。
実は「セミの一生は長い!?」。そのワケとは?
参照:
tenki.jp/suppl/y_kogen/2017/08/26/25261.html
まだまだ蒸し暑い気候が続く日々。そんな夏の暑さを助長するのが、セミの鳴き声ではないでしょうか。「ミーンミーン」という独特な鳴き声は数匹いるだけでも、かなりの大音量! セミの声で目覚めてしまうなんてこともあるほどです。あれだけ大きな鳴き声を響かせるセミですが、その生き様ははかないもの……。道端でひっくり返り、儚い一生を終えたセミの姿を、この時季になるとよく見かけますが、実は「セミの一生は長い!?」ともいわれています。そのワケとは?
長い長い地下生活
セミというと、夏になるといつの間にか現れて、あっという間に消えていく……、そんな儚い存在のイメージを抱いている人も多いと思いますが、みなさんはセミがどのように生まれているかをご存じですか?
アブラゼミは夏の成虫の間に木の幹に卵を産みます。その卵が孵化するのは翌年の梅雨どき。
孵化した幼虫は土の中へ潜っていきます。セミの一生の大半は土の中で過ごすことになります。なんとその長さは3~17年にもおよぶのだとか! セミの種類にもよりますが、3年も土の中にいるとは驚きですよね。成虫になるまでにかなりの時間を要しているのです。
地中で長い時期を過ごすことはよく知られていますが、地上に出てきてからのセミの寿命は、なかには1カ月の場合も!
とはいえ、地上に出てきてから短命な理由はなんなのでしょうか。
下積みを経て地上デビュー
羽化したばかりは体の色も違います 羽化したばかりは体の色も違います
長い長い地下生活を経て、羽化のタイミングで再び木に登っていきます。ようやく羽の生えた成虫になるわけですが、最初のうちは体も白っぽく、鳴き声も小さいといいます。
セミが成虫になってからは、1週間くらいの寿命といわれていますが、環境さえ整えば1カ月くらいは生きられるともいわれています。人間をはじめ、外敵&天敵が多いため外で長期間生きるのはセミにとって、かなり難しいことなのです。例えば外敵&天敵には、人間、カラス、猫、鳥、肉食の蜂・蟻とさまざまなのです。
セミが死ぬまでにすること
セミが成虫になってからの期間は限られた短い時間しかありません。その間にセミにはしなければいけないことがあります。それは、子孫を残すこと。成虫の間にしか、卵を産むことができませんので、子孫繁栄のために地上に出てきたといっても過言ではありません。
ちなみに鳴き声を発することができるのはオスのみ。メスに合図を出すために、オスはあのような鳴き声を発しているのです。あの鳴き声のおかげで、他の昆虫に比べてオスとメスが出会う確率が高いといわれています。子孫繁栄のために、生きているわずかの時間で自らの使命を果たします。
―― 私たちが目に触れる期間はわずかですが、満を持して地上に登場してくるセミ。儚くも強い一生といえるかもしれませんね。
セミの最期は澄んだ空を見ることさえできない土の中に何年も潜り、一夏で子孫を残す
「セミの命は短い」とよくいわれる。
セミは身近な昆虫であるが、その生態は明らかにされていない。セミは、成虫になってからは1週間程度の命といわれているが、最近の研究では数週間から1カ月程度生きるのではないかともいう。
とはいえ、ひと夏だけの短い命である。
しかし、短い命といわれるのは成虫になった後の話である。セミは成虫になるまでの期間は土の中で何年も過ごす。
昆虫は一般的に短命である。昆虫の仲間の多くは寿命が短く、1年間に何度も発生して短い世代を繰り返す。寿命が長いものでも、卵から孵化(ふか)して幼虫になってから、成虫となり寿命を終えるまで1年に満たないものが、ほとんどである。
その昆虫の中では、セミは何年も生きる。実に長生きな生き物なのである。
幼虫の期間が長い理由
一般に、セミの幼虫は土の中で7年過ごすといわれている。そうだとすれば、幼稚園児がセミを捕まえたとしたら、セミのほうが子どもよりも年上ということになる。
ただし、セミが何年間土の中で過ごすのかは、実際のところはよくわかっていない。何しろ土の中の実際の様子を観察することは容易ではないし、仮に7年間を過ごすとすれば、生まれた子どもが小学生になるくらいの年数観察し続けなければならない。そのため、簡単に研究はできないのだ。土の中での生態については、いまだ謎が多いのである。
それにしても、多くの昆虫が短命であるのに、どうしてセミは何年間も成虫になることなく、土の中で過ごすのだろう。
セミの幼虫の期間が長いのには、理由がある。
植物の中には、根で吸い上げた水を植物体全体に運ぶ導管(どうかん)と、葉で作られた栄養分を植物体全体に運ぶ篩管(しかん)とがある。
セミの幼虫は、このうちの導管から汁を吸っている。導管の中は根で吸った水に含まれるわずかな栄養分しかないので、成長するのに時間がかかるのである。