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【 03】07/10
     安倍晋三元総理大臣9日暴漢に手製銃で襲われ死去①   どんな理由でも人を殺してはならない

 2022/07/10
安倍晋三元総理大臣9日暴漢に手製銃で襲われ死去
どんな理由でも人を殺してはならない

安倍晋三元総理大臣8日暴漢に手製銃で襲われ死去。 お昼のご飯で部屋へ来てテレビを見ると、この現場の映像と解説が続いていた。
あってはならない暴力です。 安倍元総理にしても人にはそれぞれ長短の行動がある。 暴力で相手を襲うことは、人として許されることではない。

五一五事件での「話せばわかる」の言葉が貴重な言葉として脳裏に残っている。

「なぜ、国の政策にそって知らない人を殺すのか」ということと、「親兄弟の悲しみは尋常ではない」ということが、私の戦争体験から受けた基本だった。 それによって、「戦争絶対反対」というバックボーンができているのです。

五一五事件の「話せばわかる」を開いてそれを読み、人としては誰にしても厳として守るべきこととして腹の底に秘めなければならないのです。

今日は参議院議員の選挙日です。 国の方針を委託する自分の心として、戦争絶対反対の方向を目指した意見をもっている人かどうかを、良く考えて投票しなくてはと思っています。
以上。


安倍晋三元首相に関する昨日今日の記事を記録として残します。

① 2022/7/9
参院選、街頭演説中
安倍元首相撃たれ死亡
   容疑者「宗教団体に恨み」

写真・図版 【事件の直前、演説する安倍晋三元首相=8日午前11時29分】

 8日午前11時32分ごろ、奈良市西大寺東町2丁目の近鉄大和西大寺(やまとさいだいじ)駅前の路上で、街頭演説中の安倍晋三元首相(67)が背後から近づいた男に銃で撃たれた。安倍氏はドクターヘリで奈良県橿原市の県立医科大学付属病院に搬送されたが、同日午後5時3分に死亡が確認された。撃った男は現場近くで警察官によって身柄を確保され、路上から黒色のテープで巻かれた銃が押収された。▼2面=政権に影響必至、3面=安倍氏の足跡、4面=評伝、8面=経済界は、13面=海外の反応、17面=御厨さんに聞く、25面=五輪関係者悼む、34面=現場は、36・37面=聴衆の眼前

 奈良県警によると、男は奈良市大宮町3丁目の無職、山上(やまがみ)徹也容疑者(41)で、県警は安倍氏に対する殺人未遂容疑で現行犯逮捕した。容疑を認めているという。今後、殺人容疑に切り替えて捜査する。

 捜査関係者らによると、山上容疑者は特定の宗教団体の名称を挙げて「恨む気持ちがあった」と説明。その上で「団体のトップを狙おうとしたが難しく、安倍氏が(その団体と)つながりがあると思い込んで狙った」という趣旨の供述をしている。一方で「(安倍氏の)政治信条に恨みはない」とも話しているという。自民党のホームページを見て、安倍氏の来県を知り、電車で現場に来たとも説明している。

 犯行に使われた銃は手製のもので、長さ約40センチ、高さ約20センチ。県警は自宅を家宅捜索し、よく似た手製の銃のようなもの数丁のほか、火薬類を押収した。

 防衛省関係者は山上容疑者が2002~05年の3年間、海上自衛隊に任期制の自衛官として在籍していたと取材に明らかにした。小銃の射撃や解体、組み立てについても学んでいたという。

 山上容疑者は今年5月まで、大阪府内の人材派遣会社に在籍し、京都府内の倉庫でフォークリフトを運転していた。

 安倍氏は銃撃を受けた当時、参院選奈良選挙区に立候補している候補の応援のため演説中だった。警察関係者によると、安倍氏に向けて少なくとも2発が発射されたという。

 現場で心肺蘇生処置が行われ、ドクターヘリで県立医科大付属病院に搬送された。病院によると、到着時には心肺停止状態で、首の2カ所に銃による傷があり、一部が心臓に達していた。死因は失血死だった。

 現場では朝日新聞記者も取材をしていた。安倍氏が街頭演説を始めてから数分後、安倍氏の後ろ側から銃声のような音が上がった。安倍氏の背後には、シャツと長ズボン姿で眼鏡とマスクを着用した山上容疑者が銃のようなものを手にして立っており、破裂音がさらにもう1度鳴った。その後、安倍氏は倒れ、胸元から血が出ていた。警護していた警察官が山上容疑者を取り押さえた。

 自民党奈良県連は8日午後に会見。堀井巌参院議員は「昨日(7日)夕方に元総理の来県が決まった」と明らかにした。

 街頭演説会場には、県警の警察官に加え、警視庁から派遣された警護員(SP)もいた。警察庁幹部は警備態勢が十分だったか検証する考えを示した。

 ■岸田首相「卑劣な蛮行」

 岸田文雄首相は8日夜、首相官邸で記者団に「卑劣な蛮行。断じて許せるものではなく、最も強い言葉で非難を申し上げる」と述べた。首相は同日、安倍氏の銃撃を受けて遊説先の山形県寒河江市から急きょ帰京。参院選の遊説などに出ていた閣僚も帰京させた。

 その後、閣僚を集めた会議を官邸で開き、二之湯智・国家公安委員長らに自由で公正な選挙が安全に行われることを徹底するよう指示。二之湯氏は、警察庁長官に参院選での警備・警護の強化を指示した。

▼2面=政権に影響必至 (時時刻刻)
民主主義へ銃口 閣僚ら遊説取りやめ 「暴力に屈しない」最終日は再開も

 街頭演説中の安倍晋三元首相への銃撃は、投開票日を2日後に控えた参院選さなかに起きた。岸田政権や与野党の幹部らは、急きょ演説を取りやめるなどの対応に追われた。「暴力で民主主義は封殺できない」と各党は選挙活動を続ける方針だが、政治を取り巻く様相は一変した。▼1面参照

 安倍元首相が死亡したとの一報を受け、岸田文雄首相は8日夜、首相官邸で記者団の取材に「民主主義の根幹たる選挙が行われている中の卑劣な蛮行」と、犯行を厳しく非難した。

 首相の目には涙が浮かんでいた。「祈りも空しく、こうした報に接することになってしまった。誠に残念で言葉もありません」

 事件発生時、首相は山形県で遊説中だった。切り上げて帰京し、午後2時半ごろ、羽田空港から自衛隊ヘリで首相官邸に戻った。記者団に近づいた際には、口元を震わせ「決して許すことはできない。最大限の厳しい言葉で非難する」と述べた。すぐ各地へ遊説に出ていた閣僚に帰京するよう指示。夕方には閣僚らを集めて約20分間、今後の対応を協議するとともに、「暴力に屈しない」として、9日は予定通り選挙活動をすると決めた。

 自民党本部には、昼過ぎから議員らが次々と集まった。一様に表情は硬く、涙を浮かべる議員もいた。

 選挙活動を続けるかどうかは党幹部のなかで意見が割れ、「投票のお願いをしたら反感を買うのでは」との声もあがった。

 午後4時すぎ、茂木敏充幹事長らが党本部で対応を協議。出席者によると、麻生太郎副総裁が「選挙活動はやるべきだ」と発言し、方針が固まった。会合後、茂木氏は記者団に「参院選の最終日を迎えるが、暴力には屈しないという断固たる決意のもと、選挙活動は予定通り進めることにした」と語った。

 野党は対応が分かれた。

 立憲民主党の泉健太代表は神奈川県での午後の遊説をとりやめ、都内の党本部に戻って幹部らと対応を協議した。各地に応援に出ている幹部にこの日の活動のすべて中止を指示したが、「言論の自由を私たちは貫く」(西村智奈美幹事長)として、候補者には活動を続けるよう指示した。9日は泉氏ら幹部も予定通りに遊説を行う予定だ。

 日本維新の会は松井一郎代表ら幹部だけでなく、全候補者の選挙活動を中止した。オンラインなどで幹部が断続的に協議し、9日は活動を再開すると決めた。

 国民民主党も8日のすべての街頭活動を中止。れいわ新選組は「街頭ダンスイベント」を取りやめた。

 一方で、共産党と社民党は「選挙活動をやめると暴力に屈したことになる」(共産・志位和夫委員長)として、予定通りに活動を続けた。9日も続ける。

 NHK党は立花孝志党首の8、9日の街頭活動をすべて中止し、選挙活動はネット上に限るという。

 ■政権運営に影響必至 内政・外交、議論をリード

 元首相の現職議員が、参院選の投開票日を目前に凶弾に倒れる。その衝撃の大きさに、政界に「かつてない政治テロ」と激震が走る。

 事件を受け、与野党幹部は「言論が暴力によって封殺されることはあってはならない」(自民の茂木敏充幹事長)と口をそろえる。ただ、安倍氏の存在感は政界でも際だっていただけに、今後の政権運営への影響は避けられそうにない。

 安倍氏は2012年末の政権復帰から7年8カ月間、首相を務めた。「安倍1強」と呼ばれた官邸主導政治のもと国政選挙で連勝を重ね、多くの自民議員を当選させた。いまは90人を超す最大派閥・安倍派の領袖(りょうしゅう)で、政権与党でも指折りの実力者だった。

 派閥からは官房長官や経済産業相、防衛相、総務会長、国会対策委員長など、政府・与党の中枢に人材を送り込んでいる。岸田首相も、大きな政治判断を下す際には事前の安倍氏への相談を欠かさなかった。「国内のみならず、国際社会でも最も知られている日本の政治家」(自民党幹部)という存在が突然、失われることで、政権中枢からは「この先、大変な騒動になる」(首相周辺)などと、政権のバランスが崩れることへの不安が漏れる。

 そのショックは、政策や政治課題にも及びそうだ。安倍氏は首相退任後も、自身がこだわりをもつテーマで積極的な発言を続けてきた。

 そのひとつが憲法改正だ。自民は安倍政権下の18年に改憲4項目として、自衛隊明記、緊急事態条項創設などを掲げた。だが、首相が自ら改憲の旗を振ったことで与野党対立が激化し議論は停滞。岸田政権になってからも、早期の実現にメッセージを発信し続けた。周辺には「岸田首相も、参院選で勝ったらやるしかないと思っているだろう」と漏らしていた。

 経済政策も同様だ。自身が進めた「アベノミクス」で掲げた積極的な財政出動に強いこだわりを見せた。今年の経済財政運営の基本方針「骨太の方針」をめぐっては、財政再建に向けた動きを強く牽制(けんせい)。国と地方の基礎的財政収支(プライマリーバランス)を黒字化する目標の記載を阻もうと動いた。来春に任期を迎える日本銀行の黒田東彦総裁の後任についても、金融緩和路線の継続を求める異例の「注文」をつけていた。

 党内外の「保守」勢力の期待を背負い、内政・外交の様々な議論をリードしてきた安倍氏。そうした強い政治リーダーが選挙のさなかに凶弾に倒れるという前代未聞の事態が、政治に何をもたらすのか。

 岸田首相は8日夜、記者団に「決して行政の停滞を招くことがないように、つかさつかさで対応に万全を期す」と述べるとともに、参院選についてこう語った。「国民の皆さんも、この国の民主主義を守るためにどうあるべきなのか。しっかり考えて、共に民主主義を守るために努力していただければとお願い申し上げる」

 ■繰り返される政治家襲撃 伊藤博文・原敬・犬養毅ら標的に

 政治家が襲われる事件は戦前から繰り返されてきた。

 1909(明治42)年に初代韓国統監だった伊藤博文元首相が中国で、独立運動家の安重根に銃撃されて死亡した。21(大正10)年には原敬首相が東京駅で、大塚駅員に刺されて死亡した。

 昭和に入り、テロは激化する。

 30年に浜口雄幸首相が東京駅で銃で撃たれた後、翌年死亡した。

 32年に5・15事件が起きる。海軍青年将校らが決起し、首相官邸や警視庁などを襲撃し、犬養毅首相を殺害した。政党政治は崩壊に向かう。

 36年の2・26事件で、陸軍青年将校ら約1400人がクーデターを企て、高橋是清蔵相らを殺害。軍国主義へと大きく傾いていった。

 暴力で政治をゆがめようとする動きは戦後も続く。

 日米安保条約改定を巡り政治対立が激化していた60年、岸信介首相が首相官邸で右翼の男に短刀で刺され重傷を負う。さらに浅沼稲次郎・社会党委員長が演説中に刺されて死亡。逮捕された17歳の右翼少年は「日本を赤化から守りたかった」などと供述した。

 90(平成2)年には本島等・長崎市長が右翼団体幹部に撃たれて重傷。昭和天皇の戦争責任に言及したことへの反発が動機だった。

 92年には、金丸信・自民党副総裁が栃木県足利市で演説中に襲われた。3メートルの至近距離から拳銃で撃たれたが、弾は外れ、けがはなかった。この2年前、北朝鮮を訪問した金丸氏の「戦後45年の償い」との表現をめぐり、逮捕された右翼の男は「金丸は国賊だと思い込んで犯行に及んだ」と供述した。

 94年には、都内のホテルで、日本新党のパーティーを終えて出てきた細川護熙前首相の近くで、右翼の男が天井に向けて発砲。「戦争や経済についての発言が頭にきていた」と供述した。細川氏にけがはなかった。

 96年には、岐阜県御嵩町の柳川喜郎町長が襲われ重体になった。産廃処理場の建設に慎重だったことから狙われたとされた。

 2002年に民主党の石井紘基衆院議員が東京・世田谷の自宅前で右翼団体代表に刺されて死亡した事件では、動機について判決は「解明は困難」とした。

 06年には自民党の加藤紘一衆院議員の実家と事務所が放火され、全焼となる事件が起きた。起訴された右翼の男は法廷で「小泉首相の靖国参拝問題で中国寄りの主張をしていると思い、許せなかった」と語った。

 07年には伊藤一長・長崎市長が選挙事務所前で待ち伏せしていた暴力団幹部の男に背後から拳銃で撃たれ、死亡した。

▼3面=安倍氏の足跡
首相2度、最長政権 外交・安保、集団的自衛権を一部容認 

 歴代最長の計8年8カ月にわたり政権を担った安倍晋三・元首相の言動は、日本の経済や外交・安全保障に大きな影響を与えてきた。

 外交・安全保障政策で特筆すべきは日米同盟の強化だ。2014年の閣議決定で憲法解釈を変え、集団的自衛権の行使を一部容認。自衛隊の役割を広げる安全保障法制を成立させ米軍と協力を深めた。軍拡を進める中国と北朝鮮への危機感があった。自国中心主義で物議を醸した米国のトランプ前大統領とも親密な関係を築き、中朝を牽制(けんせい)した。

 日米豪印の「QUAD(クアッド)」の原型も安倍氏が第1次政権時に唱えた。中国とのパワーバランスを考え、民主主義などの価値観を共有する国々との連携を優先し、発展させる形で「自由で開かれたインド太平洋」を打ち出した。

 こうした姿勢は、敗戦後の占領下でできた憲法の改正を始めとする「戦後レジームからの脱却」という思想に根ざす。戦争責任を反省し続ける「謝罪外交」を批判して一線を画した。

 象徴が対北朝鮮外交だ。1990年代からの国交正常化への動きに対し、拉致問題を理由に異論を唱え、解決を最優先に掲げた。核・ミサイル開発には、対話よりも圧力を優先した。

 13年には、戦時中の日本軍による中国での行為を「侵略」と明言せず、靖国神社にも参拝して中韓が反発。15年の戦後70年の首相談話では「侵略」「心からのおわび」といった歴代内閣の言葉は引き継いだが、中国への侵略や韓国での植民地支配についての具体的な認識を示さなかった。

 国内の保守派を抑え中韓に歩み寄る姿勢も示した。韓国と慰安婦問題で決着を図り、中国とは首脳往来を再開。20年春に習近平国家主席が来日するはずがコロナ禍で延期された。ロシアとは、14年のクリミア侵攻後もプーチン大統領と会談を重ね、北方領土問題の解決と同時に中ロの接近を防ごうとした。(編集委員・藤田直央)

 ■改憲 国民投票法成立、4項目掲げる

 祖父で元首相の岸信介が成しえなかった憲法改正は、安倍晋三元首相にとって「悲願」だった。

 2006年に首相に就くと、改憲手続きを定めた国民投票法を成立させた。

 12年末に第2次安倍政権が誕生すると、「最初に行うのは96条の改正」と宣言する。96条は、改憲は衆参両院の総議員の3分の2以上の賛成で国会が発議できると定めるが、過半数に引き下げようとした。改憲のハードルを下げようとする提案は「裏口入学」と批判され、頓挫した。

 17年の憲法記念日には、改憲派の集会のビデオメッセージで、「本丸」ともいえる9条への自衛隊の明記を掲げ、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と明言した。

 安倍氏は18年、自民党の改憲4項目(自衛隊明記、緊急事態条項創設、参院の合区解消、教育無償化)を取りまとめ、改憲議論を進めようとした。翌19年の参院選で憲法改正を争点の一つに掲げたが、自民、公明両党に加えて日本維新の会などを合わせた改憲勢力は3分の2に届かなかった。

 2回目の首相退陣を表明した20年8月の会見では、「憲法改正、志半ばで職を去ることは断腸の思いだ」と無念さを隠さなかった。

 退陣後も改憲への思いを発信した。ロシアによるウクライナ侵攻や中国の軍事的台頭など安全保障環境の変化を挙げながら、集会などで「自衛隊を明記することで、今も続いている自衛隊の違憲論争に終止符を打つ。これこそ、『戦後レジームからの脱却』の核心だ」と語った。周囲には「自衛隊の存在を書き込むだけだから、難しくない」と話し、参院選後の改憲議論の加速を期待していた。(楢崎貴司)

 ■森友・加計・桜 国会での追及、関与否定

 第2次安倍政権では、森友学園をめぐる公文書改ざんや加計学園問題、「桜を見る会」問題など負の側面も問われた。

 学校法人「森友学園」への国有地売却問題をめぐっては、国は2016年、安倍氏の妻・昭恵氏が名誉校長に就いた学園側に国有地を8億円余り値引きして売却。国会での追及に安倍氏は「私や妻が関係していたことになれば首相も国会議員も辞める」と関与を否定した。

 その後、売却の経緯を記した決裁文書などの公文書が改ざんされたことが分かった。18年3月には、財務省近畿財務局職員が、改ざんを強いられたとする手記を残して自ら命を絶った。

 職員の妻は国に損害賠償を求める訴訟を起こしたが、岸田政権の21年12月に国が遺族の請求を受け入れる「認諾」をした。遺族は「改ざん問題の追及を避けるため訴訟を終わらせた」と批判した。

 17年に認められた学校法人「加計学園」による獣医学部の新設をめぐっては、安倍氏と学園理事長が友人だったため、便宜が図られたのではないかと追及された。新設が認可される過程で、特区担当の内閣府から「総理のご意向だと聞いている」などと言われたとする文書が文部科学省に存在することが判明したが、安倍氏は「加計学園からの相談は一切ない」と関与を否定。官邸幹部らも国会で「記憶にない」などと主張して真相はわからなかった。  首相主催の「桜を見る会」をめぐっては、安倍氏の後援会が開いた前夜祭の費用を安倍氏側が補填(ほてん)したとして追及を受けた。告発を受けた東京地検特捜部は後援会代表だった元公設第1秘書を政治資金規正法違反(不記載)の罪で略式起訴したが、安倍氏は不起訴とした。これに対し、東京第一検察審査会は「不起訴不当」と議決したが、特捜部は21年12月、安倍氏を再び不起訴処分として捜査は終結した。

 ただ、前夜祭をめぐり、安倍氏による国会での「虚偽答弁」は118回にのぼった。(相原亮)

 ■アベノミクス 円安・株高、「官製春闘」を主導

 「長引くデフレによって、額に汗して働く人たちの手取りが減っている。歴史的な円高で、輸出企業も空洞化している。強い経済を取り戻す」

 2012年12月に再登板した安倍晋三元首相は、経済の低迷から脱するためにデフレや円高に手を打つ必要があると訴えた。その処方箋(せん)が「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」というアベノミクスの「3本の矢」だった。

 13年1月には政府と日本銀行で「物価上昇率2%」の目標を盛り込んだ共同声明をまとめ、13年春に金融緩和に積極的な黒田東彦(はるひこ)総裁を起用。黒田氏は日銀による国債の大量買い入れやマイナス金利政策を進め、市場に大量のお金を流し続けた。安倍氏も毎年のように経済対策を打ち続けた。

 就任時に1ドル=80円台だった円相場は、14年末には120円台に。輸出企業などを中心に業績が回復し、日経平均株価も政権を奪還した衆院選前の9千円台から2万円を超える水準まで上昇した。

 有効求人倍率や失業率の数字も改善し、安倍氏自身も20年8月に辞任を表明した際、「20年続いたデフレに3本の矢で挑み、400万人を超える雇用をつくった」と振り返った。

 成長の恩恵を幅広く行き渡らせるとし、政権が企業に賃上げを強く求めて労使の交渉に介入する「官製春闘」も主導。企業業績の改善が賃金や設備投資の増加につながり、個人消費が上向いてさらに企業が潤う「経済の好循環」を目指した。

 ただ、経済の成長率は目指した「名目3%」にほとんど届かず、賃上げの動きも迫力に欠けた。3本目の矢である成長戦略で「あらゆる岩盤規制を打ち破る」としていた規制改革もなかなか進まず、安倍氏自身も「アベノミクスは道半ば」と語ることもあった。

 国の財政を巡っては、14年4月と19年10月に消費税率を2度引き上げ、10%とした。しかし、増え続ける社会保障費を借金でまかなう構造は変わらず、安倍氏が退任した直後の20年9月末の国債残高は894兆4094億円で、就任時より約3割増。財政の悪化は世界最悪の水準のままだ。(西尾邦明、徳島慎也)

 ■通商 TPPなど自由貿易拡大

 TPP(環太平洋経済連携協定)をはじめとする自由貿易の拡大も、安倍政権の成長戦略の柱の一つだった。安倍氏は首相再登板から約3カ月後の2013年3月に、交渉への参加を表明。海外の安い農産品が流入するとして農業団体が反発するなか、「日本だけが内向きになったら成長の可能性もない」と語った。

 TPPは世界のGDP(国内総生産)の約4割を占める巨大経済圏をつくる構想で、15年に大筋合意が成立。その後に米国が離脱し、残り11カ国による交渉を日本が主導し18年末に発効、9割超の品目で関税が段階的に撤廃されることになっている。安倍政権下では、欧州連合(EU)との経済連携協定や、日中韓や東南アジア諸国連合など15カ国による「地域的包括的経済連携(RCEP)」との交渉も進み主要な貿易相手国の大半と協定を結んだ。(若井琢水)

▼4面=<評伝>
「現実主義」求めた保守 安倍氏「敵・味方」深めた溝

 「政治は可能性の芸術だからね。いかに可能性を現実のものにしていくかが政治なんだよ」

 2013年3月。環太平洋経済連携協定(TPP)への交渉参加を表明する意向を固めた夜、安倍晋三氏は私にそう語った。2度目の首相に返り咲いたものの、参院では与党が少数の「ねじれ国会」。政権を安定させるため、その年の7月の参院選でねじれ解消を目指していた時期だった。

 自民党内からはTPP参加への異論が噴出していた。安倍氏は「みんな参院選を終えてからの方が良いと言っていた。だけどおれは逆だと思ったんだ」と語り、その数日後、正式に交渉参加を表明した。参院選では経済政策「アベノミクス」を前面に掲げ勝利し、長期政権の基盤を築いた。

 「敵」と決めると手厳しいが、「味方」と認めると強い結びつきを示した。会食では早口で話し、冗談を飛ばして場を盛り上げた。その明るさと情熱に、近くで安倍氏と接した人は引きつけられた。

 政治人生は、ジェットコースターのようだった。

 1993年の衆院選で、父親で外相などを歴任した晋太郎氏の後継として初当選。自民党内では、父が率いた清和会(現・安倍派)に所属し、非主流派だった。当時は宏池会(現・岸田派)や経世会(現在の茂木派のルーツ)が主流派で、ポストに恵まれなかった。後に党内最大派閥の領袖(りょうしゅう)となっても「悔しい思いをしたんだ」と振り返った。宏池会など「保守本流」へのライバル心が根底にはあった。

 清和会が主流派になると、党幹事長、官房長官などを歴任。06年に首相に上り詰めた。ところが、07年参院選で大敗し、体調不良で直後に退陣。自民党はその2年後に政権を失い、党内では「戦犯」扱いされた。

 12年、民主党政権が失速する中、安倍氏と互いに「味方」と認め合い、たのみにしてきた政治家や官僚に背中を押され、再び総裁選に立候補して返り咲いた。直後の衆院選で政権を奪還した。

 第2次政権をスタートさせると経済政策を前面に出した。野党時代、安倍氏の事務所を訪ねた際、棚に勉強会の資料を収めた分厚いファイルがいくつも並んでいた。この蓄積がアベノミクスにつながったのだろう。

 国民の多数の支持をどうつなぎとめるか。政権運営では、現実主義者(リアリスト)の一面を見せた。「保守」を自任するからこそ、あえて自説を封印することもあった。

 13年の参院選で大勝すると、その年の12月に靖国神社を電撃訪問したが、この後首相としては一切参拝しなかった。15年12月には慰安婦問題で軍の関与や日本の責任を認めた「日韓合意」を韓国政府との間で結んだ。ただ、本心では納得していなかった。不満もこぼしていた。

 主要政策は首相官邸主導で進めた。6度の国政選挙に連勝し、自民党内も掌握。「安倍1強」の政治情勢を作り上げた。多くの人たちがすり寄り、「(最初の)首相退陣後は見向きもしなかった人たちが寄ってくる」とこぼした。首相という役職に、孤独も感じていた。

 そんな安倍氏がこだわり続けたテーマが、憲法改正だった。第2次政権発足当初は「1、2年ではできない。6年くらいやらなきゃ」と語り、長期政権を築いて憲法改正を実現したいという意欲を示していた。

 ただ、政権が6年を超え、衆参両院で憲法改正の発議に必要な「3分の2」の議席が現実になっても踏み出さなかった。結局、宿願は達成できず20年夏、再び体調を崩して政権を去った。

 一議員に戻っても、核共有論や積極財政論などで物議を醸したが、エッジの効いた持論を自由に述べる姿はどこか楽しそうだった。ただ、常に脳裏にあったのは、憲法改正の行方だ。この参院選の期間中も、岸田文雄首相の考えについて、こう漏らしていた。「岸田さんは本気で憲法改正やる気なのかな」(小野甲太郎)

▼8面=経済界は
銃撃、経済界に驚きと怒り 「安倍氏、日本を牽引」「断腸の思い」

 安倍晋三元首相が銃撃され亡くなったことを受け、経済界などには驚きと憤りが広がった。多くの経営者らが哀悼の意を示し、「卑劣な行為は許されない」といった発言が相次いだ。▼1面参照

 経済同友会の桜田謙悟代表幹事(SOMPOホールディングス〈HD〉会長)は、「悲しいし、悔しい。戦後の日本を代表する政治家を失った。参院選の期間中に元総理を狙った事件。民主主義に対する挑戦、危機と受け止めざるをえない」と述べた。

 日本自動車工業会の豊田章男会長(トヨタ自動車社長)は「大変残忍で卑劣な行為は決してあってはならない。アベノミクスを掲げた強いリーダーシップにより、リーマン・ショックや東日本大震災からの力強い回復を先導された」とコメントした。

 経団連の十倉雅和会長(住友化学会長)は、安全保障関連法制を整備したことなどを評価し、「大きな功績を残された」とした。

 日本商工会議所の三村明夫会頭(日本製鉄名誉会長)は「国家のために尽くした尊い命が奪われたことに、深い憤りと悲しみを禁じ得ない」とした。

 大阪商工会議所の鳥井信吾会頭(サントリーHD副会長)は「日本経済を立て直し、国際社会での存在感を高めると共に、強力なリーダーシップで大阪・関西万博誘致を成功に導いていただいた」。関西経済連合会の松本正義会長(住友電気工業会長)は「今回の事件は民主主義への挑戦であり、暴力的な行為を断じて許すことはできない」とのコメントを発表した。

 富士フイルムHD元会長の古森重隆氏は、安倍氏を囲む経済人による「四季の会」のメンバーだった。「ただただ残念でありがくぜんとしている。大局観を持って日本の課題を捉えつつ、常に的確に対処され、日本国を正しい方向へと導いてきた卓越したリーダーだった」と談話を出した。

 キヤノンの御手洗冨士夫会長兼社長は、第1次安倍政権の期間を含む2006~10年に経団連会長を務めた。「退任後も精力的に政治活動を続けられていた矢先に、志半ばで凶弾に倒れられた無念の思いを察するに、まさに断腸の思い」とした。

 第1次政権で総務相を務めた日本郵政社長の増田寛也氏は「総理大臣として約9年弱の期間、リーダーとして日本国を牽引(けんいん)してこられたことに感謝を申し上げる」と悼んだ。

 西武HDの後藤高志社長は、安倍氏と同じ成蹊学園の出身で親交があった。「日本経済再生に尽力され、外交面では歴代総理のなかでも特筆すべき成果を出された。退任後も日本の将来を常に考えておられたなかで、さぞかし無念であったろうと、尽きることのない悲しみと激しい憤りを覚える」とした。

 大和証券グループ本社の田代桂子副社長は、米国に駐在していた14年、安倍氏と妻の昭恵さんと食事会で一緒になる機会があったという。「日本への貢献は本当に大きかった。首相でいた数年間だけでも、(日本経済は)やればできるんだと示された。女性活躍のきっかけもつくった」と取材に話した。

 外食大手ワタミの渡辺美樹会長兼社長は自民党の参院議員でもあった。渡辺氏は経営者として規制と戦ってきたとして、「規制緩和や成長戦略でもっと(安倍氏の)お役にたちたかったと悔やむばかりだ」。事件については「昨今、自らと意見の違う相手に対しての批判や侮辱が『狂暴化』し過ぎていると感じる。今回のような『暴力』は絶対に許されない」とした。

 労働組合の中央組織・連合の芳野友子会長もコメントを発表した。「白昼堂々しかも選挙期間中の凶行は議会制民主主義に対する重大な挑戦であり、断じて許すことはできない。社会経済における政治・政策課題は山積しているが、その解決はあくまで議会をはじめ社会各層における真摯(しんし)な政策論議と、選挙による国民の審判が基礎でなければならない」と訴えた。
     ◇
 岸田政権の閣僚からも発言が続いた。

 鈴木俊一財務相は取材に「痛恨の極み。最長の政権の座にあって、日本国のために大変大きな功績を残された」と述べた。安倍政権での経済政策は「デフレからの脱却、経済再生、それを図るためにアベノミクスを展開され、効果もみられてきた」と振り返った。

 金子原二郎農林水産相は安倍氏については、「非常にはっきりと物を申す方。ある意味では挑戦的なところもあった」とした。

 斉藤鉄夫国土交通相も取材に「本当にショックです。こういうことがあってはならない」と語った。

 ■「脱デフレ実現向け成果」 黒田総裁

 安倍晋三元首相と二人三脚のような形で、アベノミクスを進めてきた日本銀行の黒田東彦(はるひこ)総裁も、突然の死を悼(いた)んだ。8日夜、「誠に残念でなりません。強力なリーダーシップにより、わが国経済の発展に尽くされたことに心より敬意を表します」とのコメントを出した。

 黒田氏は2013年3月、第2次安倍政権に任命されて日銀総裁に就任。物価が下がり続ける「デフレ」からの脱却を掲げる政権と足並みをそろえ、アベノミクスの一環である大規模な金融緩和を推進した。18年には、安倍政権は黒田氏を日銀総裁に再任する異例の人事も決めた。

 黒田氏はコメントで、「安倍元総理は様々な分野で大変に大きな功績をあげられました。経済の分野においては、長期間続いたデフレからの脱却と持続的な経済成長の実現に向けて、多大な成果を残されました」と惜しんだ。(徳島慎也)

 ■「職場の戦友だった」 神鋼の元上司

 安倍晋三元首相は父・晋太郎氏の秘書に就く前に、鉄鋼大手の神戸製鋼所で3年半、働いていた。同社は「卑劣な行為により命を絶たれたことは、痛恨の極みだ」とする談話を出した。安倍氏が東京本社の鋼板輸出課に配属された時の課長で一緒に仕事をした矢野信治さん(79)=元神戸製鋼所副社長=が朝日新聞の取材に応じた。

 安倍氏が政治家の息子として「政略入社」したことを、職場の同僚はみな知っていた。安倍氏は毎朝、誰よりも早く職場に来て、夜は誰よりも長く仕事をした。終業後に同僚と繰り出すマージャンにも楽しそうに同席していたという。矢野さんは「安倍さんは、鉄鋼の仕事が本当に好きだった。ずっと続けたかったんだと思う」といまも思う。

 安倍氏は、首相就任後も年に1回程度は、神戸製鋼所へのあいさつを欠かさなかったという。「政治家になってからは忙しかったと思うが、おつきあいを続けてもらいました」

 矢野さんは、安倍氏を「職場の戦友だった」と語る。「今は、かける言葉がありません」(千葉卓朗)

 ■アベノミクス、経済指標動かす

 2012年12月~20年9月の第2次安倍政権で取り組んだ「アベノミクス」は経済指標を大きく動かした。

 とくに影響を受けたのは金融市場だ。日経平均株価はリーマン・ショック後の09年3月にバブル後最安値の7054円まで下落。その後も1万円前後で横ばいの状況から抜けられないなかで政権は発足した。

 アベノミクスのもと、日本銀行は13年4月から大規模な金融緩和を始めた。日経平均が上昇し、海外投資家が日本株に投資する動きも拡大。同年9月には、安倍氏はニューヨーク証券取引所で投資家に「Buy my Abenomics(アベノミクスは買いだ)」と呼びかけた。

 公的マネーも株価を支えた。日銀の金融緩和策の柱のひとつが上場投資信託(ETF)の買い入れだった。株価が下がると、日銀がETFを買い入れた。さらに、公的年金資産を運用する「年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)」が14年10月、資産のうち国内株式で運用する比率を12%から25%へ倍増した。

 日経平均は15年4月に2万円を突破。政権が退陣した20年9月16日の終値は2万3475円と発足時の2倍以上だった。

 為替相場も大きく動いた。円相場は、金融緩和もあって円安に向かった。

 円安が進むなか、ビザ取得の要件を緩和することで訪日外国人客(インバウンド)が急増した。コロナ禍前は訪日客が過去最高となった。

 アベノミクスのもとでは輸出と設備投資が伸び、国内総生産(GDP、実質)は拡大した。しかし、新型コロナが直撃したことで景気は失速している。12年度に517兆円だった実額は19年度に550兆円、21年度は537兆円だった。

 雇用を取り巻く状況はどうか。12年度に0・82倍だった有効求人倍率は18年度には1・62倍に改善。コロナ禍などで21年度は1・16倍だった。安倍政権は賃上げを促す「官製春闘」も展開し、12年度に1・78%だった春闘での主要企業の平均賃上げ率は、14年度以降、20年度まで2%以上で推移した。

 ただ、日本経済の実力を示す潜在成長率は、第2次安倍政権発足以降も1%以下と伸び悩む。実質賃金指数(15年=100)も21年は98・6と上がっていない。(山本恭介、中島嘉克)

 ■事件報道受け、一時株価下落

 安倍晋三元首相が銃撃されたことは株式市場にも一時、影響を与えた。

 事件の報道を受けて午後0時30分からの東京株式市場の午後の取引では、政治混乱への懸念などから一時売りがふくらみ、上げ幅が縮小した。日経平均株価は午前の終値から200円ほど下落し、午後の取引を始めた。日経平均は前日から26円66銭高い2万6517円で取引を終えた。

 為替市場は対ドルで一時、円高方向に動いた。報道前は1ドル=136円前後で推移していた。正午ごろに135円30銭台まで値が動いたが、その後は円安方向に戻った。

 三菱UFJモルガン・スタンレー証券の藤戸則弘氏は「あってはならない事件だ。元首相という立場などから日本の政治や経済の中長期的な展望が大きく変わるものではないという解釈もあり、市場への影響は限定的になったのではないか」と話している。

▼13面=海外の反応
安倍外交、各国強い印象 アメリカ、トランプ時代に蜜月

 安倍晋三元首相の銃撃事件は世界に衝撃を与えた。日米同盟を新たな段階に深化させ、時に周辺国からの反発を受けながらも、積極的な外交・安全保障政策を推進した。各国に強い印象を残す安倍氏の突然の死に、首脳らからも哀悼の意が寄せられた。▼1面参照

 「米国と違い、日本人は銃を持つことなど考えられない文化の人々だ。本当に言葉が出てこない」。米CNNは8日、安全保障関連の有識者の発言を引く形でこう伝えた。英BBCは8日、容疑者が誰にもさえぎられず安倍氏に数メートルの範囲まで近づけたようだとし、「これほど著名な人物が銃撃されたことは、安全であることを誇ってきた日本に深い衝撃を与えている」と報じた。

 バイデン米大統領は8日、「私の友人である安倍晋三元首相が選挙戦中に射殺されたというニュースに愕然(がくぜん)とし、憤慨し、深く悲しんでいる」とする声明を出した。「暴力的な攻撃は決して受け入れられない。米国はこの悲しみの瞬間に日本とともにある」と追悼した。トランプ前大統領は自身が立ち上げたSNS「トゥルース・ソーシャル」に投稿し、「私の真の友人で、さらに重要なことに、米国の真の友人だ」と安倍氏をたたえた。

 日本の首相として、安倍氏はワシントンで最も強い印象を残している。

 オバマ政権の2015年4月、安倍氏は日本の首相として初めて、米議会上下両院合同会議で演説した。第2次世界大戦から70年の節目。日本の安全保障法制の成立を約束し「日米同盟はより一層堅固になる」と訴えた。台頭する中国を念頭に、アジアの秩序を維持する「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」の元になる概念も、このときに打ち出した。

 日米同盟を「不動の同盟」と呼んだ安倍氏の姿勢は、米国の政権交代でも揺らがなかった。

 16年秋の大統領選でトランプ氏が勝利を決めると、他国の首脳に先駆け、就任前に訪米して会談した。「米国第一主義」を掲げ、中国との対抗姿勢を鮮明にしたトランプ政権は、安倍氏がFOIP構想のもと、中国を念頭に多角的な安全保障戦略を進めることを歓迎。トランプ政権は17年11月の国際会議で、米国としてのFOIP構想も発表した。

 トランプ氏とは日米両国でゴルフに興じるなど、個人的な蜜月関係を築いた。トランプ政権は同盟国に米軍駐留経費の大幅な負担増を求めたが、「日本は、安倍氏とトランプ氏との個人的な関係によって厳しい要求を多少緩和できた」(米研究者)との見方もある。(ワシントン=望月洋嗣)

 ■中国、「戦略的互恵関係」を提唱

 中国外務省は8日、「安倍元首相はかつて中日関係の改善と発展に貢献された」と報道官による哀悼のコメントを出した。中国共産党機関紙、人民日報(海外版)はサイトで「政治人生を通じて憲法改正と『戦後レジーム』からの脱却を目指した」などと伝えた。

 安倍氏は歴史や安全保障問題をめぐって繰り返し中国の強い警戒を呼んだ一方、両国の間に「戦略的互恵関係」という新しい枠組みを示し、尖閣諸島をめぐる対立などで極度に悪化した関係を落ち着かせたリーダーとしての評価もある。

 安倍氏は第1次政権発足直後の2006年10月、最初の外遊先に中国を選んだ。北朝鮮情勢など両国の共通課題での協力を通し、実務的な結びつきを強める「戦略的互恵関係」を提唱。「友好」と「歴史問題」の間で揺れる日中関係に新たな方向性を示した。

 12年からの第2次政権は、尖閣をめぐる対立で日中関係が「国交正常化以来、最悪」と呼ばれた状況でスタートした。安倍氏が13年末に靖国神社を参拝し、安保法制なども進めたため中国は態度を一層硬化。14年11月、北京で実現した習近平(シーチンピン)国家主席との会談は国旗も飾られない寒々とした状況で行われた。

 ただ、トランプ米政権の誕生で世界が激動する中、安倍氏は中国への戦略的アプローチを強めた。17年5月、首脳の「シャトル外交」を提案。中国の経済圏構想「一帯一路」への協力姿勢も示し、経済をテコにした関係の安定を図った。(北京=林望)

 ■ロシア、領土で行き詰まる

 安倍元首相は、首相として毎年のようにロシアを訪問した。日ロ関係の改善を目指した姿勢はいまもロシアで高く評価されている。

 ロシア大統領府によると、プーチン大統領は8日、安倍氏の母、洋子さんと妻の昭恵さん宛てに弔電を送り、「この素晴らしい人物の記憶は、彼を知るすべての人の心に永遠に残る」と述べた。

 安倍氏は首相復帰後の2013年、日本の首相として10年ぶりにロシアを公式訪問した。ロシアがウクライナ南部クリミア半島を併合後、欧米の制裁で孤立が深まっていた16年5月には、ソチを訪れてプーチン氏と会談。8項目の経済協力プランを提案し、12月のプーチン氏訪日につなげた。9月には、ロシア極東のウラジオストクで開かれた東方経済フォーラムで、「ウラジーミル、あなたと一緒に、力の限り、日本とロシアの関係を前進させる覚悟です」とプーチン氏に呼びかけていた。

 18年にはプーチン氏と、1956年の日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を進めることで合意し、北方領土をめぐり事実上の「2島返還」要求にかじを切った。プーチン氏との良好な関係を軸に領土問題を決着させる方針だったが、ロシア側の姿勢に変化はなく、交渉は行き詰まった。

 当時、取材に応じたロシアの専門家は「日本では、プーチン氏が領土問題も含めて全てを決断できると考えているかもしれないが、それは間違いだ。島の引き渡しは国民が許さない」と指摘していた。

 ■韓国、徴用工判決で悪化  韓国の尹錫悦(ユンソンニョル)大統領は8日、安倍氏の妻昭恵さんに「尊敬される政治家を失った遺族と日本国民に対し、哀悼の意とお悔やみを申し上げる」と弔電を送った。

 安倍氏は韓国でも存在感のある政治家だった。第1次政権時の2006年の日韓首脳会談では、盧武鉉(ノムヒョン)大統領に「未来志向の信頼関係の構築」を呼びかけた。小泉純一郎元首相の靖国神社参拝などで悪化した両国関係の立て直しを期した。

 ただ、今の韓国では取材に応じる人の多くが「日韓関係を悪化させた首相」との認識を持つ。安倍氏は13年末に靖国神社を参拝。韓国で大きな反発が起きた。

 朴槿恵(パククネ)政権とは15年末に、日本が元慰安婦の支援に10億円を拠出して最終解決する「慰安婦合意」を交わした。だが、17年に発足した文在寅(ムンジェイン)政権が合意を空文化させ、鋭く対立。18年以降も、日本企業に戦時中の元徴用工への賠償を命じる韓国大法院(最高裁)判決や、日本側による対韓輸出規制の発動などで関係が悪化した。韓国では、在任中に関係が冷え込んだ印象が強くなっている。

 SNS上には安倍氏への中傷も散見される。ただ、安倍氏と会った日本政治の研究者は「語り口が優しくスマートな印象。焼き肉など韓国料理が好きだと聞いて好感を持った」と言う。

 文前大統領も退任前のメディアのインタビューで、関係悪化は「日本の態度が変わったため」としながらも、安倍氏について「たくさん会ったが、礼儀正しい日本人だった」と述べた。(ソウル=鈴木拓也)  ■インドや台湾、連携強化

 安倍氏が中国を牽制(けんせい)する意味合いから、連携を重視したインド。モディ首相は安倍氏の死を悼みながら、「日印関係を特別な戦略的・グローバルなパートナーシップのレベルまで高めるために、多大な貢献をした」とツイートした。

 14年9月にモディ氏が来日した際には、安倍氏が日本からインドへ5年間で官民で3・5兆円の投融資を実施することを表明。自衛隊とインド軍による海上での共同訓練を定期的に行うことでも一致し、インドへの進出日系企業数を倍増させる目標も掲げられた。安倍氏は18年にモディ氏を山梨県鳴沢村の別荘に海外の首脳として初めて招待するなど、親密さを内外に示した。

 モディ氏は、5月に訪日した際に安倍氏と会談したことにも触れ、「彼はいつも通り、ウィットに富み、洞察力に富んでいた。これが最後の会合になるとは思いもよらなかった」とした。9日は国として喪に服すと表明。国旗を掲げている政府庁舎などでは半旗を掲げるという。

 安倍氏は台湾とも関係が深く、現地でも親台派として知られた。

 台湾の謝長廷・駐日代表は8日、自身のフェイスブックで「安倍氏の死去に家族を失ったような悲しみを感じている」と投稿。先週に安倍氏を訪ねて訪台を要請し、快諾を得ていたという。「安倍氏は台湾の重要な友人だった。いつも台湾の安全を気に掛けてくれていた。冥福を祈りたい」と記した。

 台湾で人気のネット掲示板には安倍氏を追悼し、生前の台湾支持の姿勢に感謝する投稿が次々と寄せられている。

 欧州からも死を悼む声が相次いだ。前日に辞任表明した英国のジョンソン首相は、ツイッターに「不透明な時代に発揮された彼の指導力は、多くの人に記憶されるだろう」と投稿した。フランスのマクロン大統領も8日、「安倍晋三氏の暗殺を受け、フランス国民を代表して日本の当局と国民に哀悼の意を表す。日本は、祖国のために生涯を捧げ、世界の均衡のために働いた偉大な(元)首相を失った」とツイートした。(ニューデリー=石原孝、台北=石田耕一郎、ベルリン=野島淳)

▼17面=御厨さんに聞く (インタビュー)
政治とテロリズム
   政治学者-御厨貴さん

 参議院選挙の最終盤に街頭演説をしていた安倍晋三元首相が突然銃撃され、凶弾に倒れた。日本の政治史に影を落としてきたテロリズムに対し、いま議会制民主主義はどうあるべきなのか。生前の安倍元首相とも親交のあった東大名誉教授で政治学者の御厨貴さんに緊急に聞いた。

 ――国政選挙中、現代日本で、考えられないような事件が起きました。

 「驚きました。ほんの2年前まで日本の首相として、憲政史上最長の在任記録を持ち、国を率いていた政治家です。現職の衆院議員であり、自民党最大派閥の長としても、大きな影響力を持っていました。その人物が世界でも非常に銃規制が厳しい国で、銃撃されるとは。日本は警察による要人の警備も非常に厳重です。一般的に、とても安全だとされてきた国でもあります。そんな日本で、選挙期間中の街頭演説のさなかに起きただけに、この蛮行は国内だけでなく世界にも衝撃を与えるでしょう」
     ■     ■
 ――日本でも歴史上、為政者が狙われる暗殺事件が起きていたのではないでしょうか。

 「確かに、日本の歴史を振り返ると、645年に蘇我入鹿が暗殺されたことで起きた大化の改新で、大きく日本の体制が変わりました。鎌倉時代や戦国時代、幕末など、その後も日本ではテロリズムによって政治体制を大きく変える事件がたびたび起こってきました」

 「近代に入っても、初代首相の伊藤博文をはじめ、暗殺事件の標的になってしまった政治家は少なくありません。大正時代には、日本でも政党が競い合い、政党内閣が成立し、大正デモクラシーという民主主義が定着した時期がありました。そのなかで非常に重要だったのは昭和初期の事件です。単純に戦前に戻ってしまうといった指摘はしたくありませんが、戦前、暗殺事件によって、日本の民主主義と政治は大きくゆがめられ、戦争への道を歩みました」

 「現職の犬養毅首相が首相官邸で海軍青年将校の一団に射殺されるという『五・一五事件』が1932年に起き、日本の政党政治は崩壊してしまいました。さらに36年の『二・二六事件』は、日本が戦争への道を進むきっかけになったクーデターですが、衆院総選挙の結果を受けて、陸軍の一部青年将校が首相官邸などを襲い、閣僚らを殺害し、国会などを占拠したのだということも決して忘れてはなりません」
     ■     ■
 ――戦後の世界ではどうだったのでしょう。

 「もちろん世界中では、人類はテロリズムや暗殺事件に遭遇してきました。63年には、現職の米国のケネディ大統領が暗殺されたほか、78年にイタリアのモロ元首相が誘拐・暗殺されました。隣の韓国では、長年軍事独裁を続けた朴正熙(パクチョンヒ)大統領が79年に暗殺されるなど、世界では政治家が犠牲になるテロリズム事件が続きました。68年に大統領選挙の活動中だった米国のケネディ上院議員が射殺されたほか、83年にフィリピンのアキノ元上院議員が射殺されたことをきっかけに、86年にマルコス独裁政権が終わるなど、選挙にかかわるテロリズム事件も世界で起こりました」

 ――戦後の日本では、政治家に対するテロリズムはどうだったのでしょうか。

 「戦後の池田勇人内閣時代の1960年10月、野党第1党のトップだった浅沼稲次郎・社会党委員長が刺殺されたのが非常に重要な事件でした。その後も長崎市の本島等市長の銃撃事件、民主党の石井紘基衆院議員の刺殺事件、長崎市の伊藤一長市長の銃殺事件などの卑劣な事件は残念ながら続いてきました」

 「しかし、この国では、60年の浅沼委員長の事件以降、国政の指導者がテロリズムの犠牲になるということは少なくなっていきました。72年の連合赤軍メンバーによる『あさま山荘事件』など、さまざまなテロリズムによる事件は続きましたが、首相経験者が殺害されるといった事件はこの国では起きていませんでした」
     ■     ■
 ――それは、なぜでしょう。

 「それは国の指導者を殺すことによって日本の政治を変えようという考えそのものが割に合わないという考えが、戦後の日本社会に定着したからだと思います。なぜ定着したのか。それは、そういう考えを日本の議会制民主主義が作りあげ、実践してきたからだと私は思っています。暴力によって、政治家の命を奪うことによって、日本の国を自分の思い通りにしようなどということが、そもそも考えられないような国になっていたのだと思います」

 「テロで誰かを殺しても世の中は変わらない、世の中を変えるには考えや主張をもとに政党ごとに集まって、言葉を使って争い、選挙で多数派をとることが必要だということを社会に浸透させたのです。それを、自民、社会両党が中心で、保守一党優位で安定していた日本の『55年体制』が成し遂げたということを再認識しなければなりません。それこそ55年体制の隠れた、非常に重要な功績だったと思います」

 「日本の議会制民主主義にもさまざまな問題がありますし、いまも問題があるのは事実です。だからこそ、私たちも様々な批判を加えてきましたし、様々な改革の試みが続けられています。日本の議会制民主主義が完璧ではないことを認めつつ、そうではあっても、テロリズムの起こりにくい国をつくってきたことは、すばらしい成果だったのは間違いありません。現役の衆院議員で、長く首相を務めた政治家が銃撃されてしまったいまこそ、日本の議会制民主主義の業績を評価し、民主主義を守る決意を示すことが大切ではないでしょうか」

 ――これからどのような影響が出てくるでしょうか。

 「この事件の影響は、千波万波となってこれから出てくるでしょう。まだ、今回の事件の背景はよく分かりませんし、どのような影響が出てくるのか、予測はできません。ただ、指摘しておきたいことは、現在、そんなことはあり得ないだろうと思われていたロシアによるウクライナ侵攻というむき出しの暴力の行使が連日続いていることです。このことは世界のあらゆる国々に影響を与えざるを得ません。私たち一人ひとりも気がつかないうちに影響を受けているのだと思います」

 「実際、ウクライナやロシアに対する態度をとってみても、世界の国々の足並みが常にそろっているわけではありません。そんな中、民主主義国を名乗り、守ってきたはずのこの国で国政選挙の最中に銃弾が首相経験者を襲ったのです」
     ■     ■
 ――世界の民主主義は転換点を迎えているのかもしれない、ということですか。

 「ウクライナの状況をめぐって、世界が分断されているだけに、日本だけでなく、世界の民主主義の行方を心配しています。日本はアジアでは最も古くから議会制民主主義を取り入れている国です。世界各地で民主主義が危機にひんしている今だからこそ、本来は日本のような歴史のある民主主義国はふらついてはいけないのです」

 「私は、事件を受けて一部の候補者が参院選の選挙運動を中断したという報道も気になっています。演説中にあのような事件が起きただけに、再発防止のために安全確保に細心の注意を払うことは必要でしょうし、これまでの対策を見直すことも当然だと理解できます。しかし、それとは別に、いまは国政選挙の期間中です。暴力に屈せずに、候補者は堂々と政見を訴え続けるべきだと思います。そうしないと、日本の民主主義がテロリズムに屈したということになってしまうのではないでしょうか」

 「いま求められるのは、テロリズムが自分の考えを実現させるために有効な手段なのだという考えが広がらないようにすることです。絶対にこのような事件が連鎖して起きることのないようにしなければなりません」

 「間違っても、歴史の針を逆回転させてはならないのです。なによりもそのためには、いまある日本の議会制民主主義を守ることです。そのためには、決して言論は暴力に対して屈しないということを示さなければなりません。言論の自由と民主主義を守るため、すべての政党、すべての政治家、そして日本の有権者に求められる役割です。歴史的に見ても、この瞬間こそ、日本の議会制民主主義の軽重が問われています」(聞き手・池田伸壹)
     *
 みくりやたかし 1951年生まれ。近現代日本政治史。政治家らの口述記録を歴史研究に生かす「オーラルヒストリー」の第一人者。共著に「日本政治史講義」など。

 ◆御厨貴さんには、参院選の投開票結果から今後の日本政治の行方について、ほかの2人の論者とともに読み解いてもらいます。12日付朝刊の予定です。

▼25面=五輪関係者悼む
五輪関係者、悼む声 バッハ会長「安倍氏なしでは実現できず」

 8日に奈良市内で銃撃され、亡くなった安倍晋三元首相は、東京五輪・パラリンピックに誘致段階から関わった。▼1面参照

 日本オリンピック委員会(JOC)の山下泰裕会長は東京五輪・パラ開催について、「決定に大きな後押しをしていただいた」などとコメントを発表した。

 安倍氏は2020年3月、国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長と電話会談し、新型コロナウイルスが流行する中、「1年程度の延期」を提案して同意を取りつけた。訃報(ふほう)を受け、バッハ会長は、「彼のビジョンや決意、そして信頼性によってのみ前例のない決定を下すことができた」と声明を発表し、「(当時の)安倍首相なしでは、実現できなかった」と悼んだ。

 東京大会組織委員会会長を務めた、元首相の森喜朗氏は朝日新聞の取材に対して、「残念だ」と話した。

 東京五輪・パラ誘致を巡っては、安倍氏は13年9月、ブエノスアイレスでのIOC総会で、最終招致プレゼンテーションに臨んだ。その際、東日本大震災に伴う東京電力福島第一原発事故による汚染水漏れについて、「アンダーコントロール」と発言。事故の影響が管理下にあると強調したことで、国内では根拠に欠けると批判も受けた。

▼34面=現場は
白昼の駅前、凶行 安倍氏銃撃

写真・図版 写真・図版 写真・図版 写真・図版














【山上徹也容疑者はSPらに確保された=8日午前11時30分、奈良市、いずれも上田真美撮影 】

<11:20ごろ> 安倍晋三元首相が奈良市の近鉄大和西大寺駅近くに到着
<11:30ごろ> 安倍氏が演説中に発砲音。安倍氏が倒れる。山上徹也容疑者を殺人未遂容疑で現行犯逮捕
<11:37> 奈良市消防局が現場に到着。救急隊員が心肺蘇生処置
<11:40> 警察庁が警備局長を長とする対策本部設置
<11:45> 政府が官邸危機管理センターに官邸対策室を設置
<12:20> 岸田文雄首相が、遊説先の山形県寒河江市から東京の首相官邸に戻るため、会場を出た
<12:20> 安倍氏を乗せたドクターヘリが搬送先の病院に到着
<12:25> 安倍氏の妻昭恵氏を乗せた車両が東京都渋谷区の自宅を出発
<12:43> 米国のエマニュエル駐日大使がツイッターに「悲しみを覚えるとともに大きな衝撃を受けています。安倍さんは日本の優れた指導者であり、米国にとって揺るぎない盟友でもあります。米国政府と米国民は、安倍さんのご無事を願うとともに、ご家族と日本国民のために祈っています」と投稿
<14:00> 東京都の小池百合子知事が定例会見の冒頭、涙を流し「ショックを受けている。どのような理由であっても蛮行は断じて許すことはできない。民主主義への挑戦」と発言
<14:47> 岸田首相は官邸で記者団に「民主主義の根幹である選挙が行われている中で起きた卑劣な蛮行であり、決して許すことはできない。最大限の厳しい言葉で非難する」と語気を強めた
<15:50> 日本弁護士連合会の小林元治会長が「選挙期間の応援演説中に銃器を使用して尊い人命を脅かすことは、言論の自由を封殺するもので、基本的人権と民主主義に対する重大な攻撃であり、断じて許されるべきものではない」との声明を発表
<16:30> 岸田文雄首相が、閣僚を集めた会議を首相官邸で開いた。約20分間にわたり協議
<16:30(北京15:30)> 中国外務省の趙立堅副報道局長は8日の定例会見で「突然の事件に驚愕(きょうがく)している。安倍元首相が危険な状態から脱し、一刻も早く快復することを願っている」と語った
<16:50> 二之湯智・国家公安委員長は首相官邸で記者団に、警察庁長官に対して参院選での警備・警護を一層強化するよう指示したと明らかにした
<16:55> 安倍昭恵氏を乗せた車両が奈良県橿原市の県立医科大学付属病院に到着
<17:03> 安倍氏の死亡を確認
<18:15> 奈良県立医科大付属病院が記者会見。安倍氏の首に2カ所の銃創があり、心臓と大血管の損傷により心肺停止の状態になったと説明
<18:45> 安倍氏実弟の岸信夫防衛相は記者団に「ただ、ただ、本当に無念でなりません。兄は政治に対して命をかけてやってきた。このような形で命をとられるとは思ってもみなかった。悔しくてたまらない」と話した

▼36面=聴衆の眼前
元首相標的、憤り 「民主主義の世で、許されない」

 安倍晋三元首相と親交があった人たちの間に、悲しみと憤りが広がっている。

 「何でこんなことが。ただただショックです」

 安倍氏と成蹊小学校(東京都武蔵野市)の同級生で、都内で洋菓子店を営む坂東和洋さん(67)は死亡のニュースを調理場で見て、全身の力が抜けた。

 子どものころはよく鬼ごっこをして遊び、いまも電話をかけ合う仲だった。コロナ禍前は年に数回、ほかの同級生たちと夕食を楽しんでいた。

 6月中旬にも電話した。その日に折り返しがあり、「今度みんなで会おう」と話すと、うれしそうに「会おう」と応じたという。

 甘党の安倍氏は、坂東さんのつくるシュークリームやエクレアを好んで食べてくれた。自身の会合の席に出すお菓子を注文してくれたこともある。

 「子どものころから周囲に気を配る心のやさしい人で、本当に友だち思いだった。民主主義の世の中で、こんなこと許されないよ」と声をつまらせた。

 安倍氏のブレーンだった麗沢大の八木秀次教授は5月、食事会で言葉を交わした。旧ソ連を舞台にした映画「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」を見たと話し、「えらぶることなく、気さくに話してくれる人でした」と惜しんだ。

 初めて会ったのは26年ほど前。安倍氏が若手ら30人ほどの国会議員を率いて勉強会のリーダーをしていたころからの付き合いになる。「『アンチ安倍』の人たちも含めて絶大な影響力をもっていた。まさかこのような結末を迎えるとは……」と残念がった。

 安倍氏をたびたび取材してきたジャーナリストの田原総一朗さん(88)は、第1次安倍政権の発足前、日中関係が悪化していたことから「まず中国を訪問し、胡錦濤国家主席(当時)に会うべきだ」と伝えた。安倍氏は「会ってくれるだろうか」ともらしつつ、初の外遊先として中国を選び、会談した。「素直な人だった」と振り返る。

 「最近も防衛費の増額や核共有論、憲法改正など、意見の分かれる政策を堂々と訴えていた。反発する人はいただろうが、暴力は許されない」と憤った。

 北朝鮮による拉致問題の解決にも力を注いだ。

 拉致被害者家族会の横田早紀江さんは「あまりにも恐ろしいことが起きて、非常に悲しくてどうしようもなく、うちのめされています」とコメントした。

 家族会の横田拓也代表も「いつも私たちに寄り添って助けてくれた。首相として訪米する直前、入院中だった父(滋さん)の見舞いにも来てくださった。身内のように身近に感じていた方が凶弾に倒れて亡くなったのは悔しいし、悲しいし、残念です」と語った。

 安倍氏の地元・山口県下関市。後援会の伊藤昭男会長は「残念で言葉がない。このうえない悲しみだ」と悼み、「まだ若く、これからの我が国に必要な人材で期待していた。凶弾に倒れることは絶対に許せない」と語った。

 安倍氏は10日の参院選の投開票日に、山口に戻る予定だったという。地元県議は「安倍さんの思いとしては選挙をしっかりやってほしいだろうが、みんな気持ちが沈んで遊説どころじゃない」と声を落とした。

 ■銃撃「また繰り返された」 2代続けて被害の長崎市長

 政治家が銃撃される事件は後を絶たず、長崎市では2人の市長が2代続けて銃撃された。本島等(ひとし)・元市長が1990年、右翼団体構成員の男に銃撃され、胸部貫通の重傷を負った。2007年には伊藤一長(いっちょう)・前市長(当時61)が暴力団幹部の男に銃撃され死亡した。伊藤氏は4選をめざした選挙運動中で、遊説先から戻る途中だった。

 現在の田上富久市長は、事件を受け、急きょ補充立候補して当選した。8日夕、「またこういったことが繰り返されることに対して非常に憤りを感じる」と語った。伊藤氏の義姉、伊藤矩爾子(くにこ)さん(85)は朝日新聞の取材に対し、「ニュースを見てがくぜんとした。弟と重なってショックで涙が出ます」と話した。

 1996年、自宅マンションで2人組の男に襲われ、頭の骨が折れる重傷を負った岐阜県御嵩(みたけ)町の柳川喜郎元町長(89)は名古屋市の自宅で一報を知った。

 御嵩町では、産廃処分場建設受け入れをめぐり、柳川さんが住民投票での決着を求めた直後、襲撃された。強く訴えるのは、「暴力は絶対に許されない」ということだ。「異論に向き合い、言論で戦って政策を変えていく。その力を出してほしい」(岡田真実、寺島笑花、編集委員・伊藤智章)

 ■警察庁「警備態勢を確認」

 現場となった演説会場の警備態勢は適切だったのか。

 警察庁幹部は8日午後、「どういう警備態勢だったかについてしっかり確認していく必要がある」と報道各社に述べた。警備は、奈良県警が警備部参事官をトップとする態勢で対応。県警の警察官に加え、警視庁から派遣された警護員(SP)も現場にいた。「所要の警備態勢をとっていた」という。

 安倍氏は演説中に背後から近づいた男に撃たれたとみられる。後方の警戒状況について、幹部は「警備のやり方になるので答えを控える」とした上で、一般論として「何かあることも念頭においた警備態勢をとっている」と説明した。

 聴衆が大勢集まる選挙期間中の演説の警備は「聴衆に極力距離をとってほしいが、一方で聴衆は演説者に触れ合いたい思いもあり難しさがある」という。

 警視庁OBでもある、危機管理会社オオコシセキュリティコンサルタンツ(東京都)の松丸俊彦シニアコンサルタントは、ニュースなど複数の映像で確認した範囲で、安倍氏の背後に常に目をやる人員がいないように見えた。「後方を警戒する人員を配置していたのかどうか。この点は検証されるべきだ」と話す。

 また、SPは異変があった場合、警護対象を押し倒して覆いかぶさるといった防御をするよう訓練される。2発とみられる銃撃の前後の映像を見る限り、安倍氏の近くにいた警察官の対応も「今後適切だったか問われる可能性がある」。

 松丸氏は警護に当たった人数が適正かは「わからない」としつつ、日本では元首相にはSP1人がつくケースもある一方、治安が悪い国では現職大統領に15~20人、退任後も3~4人が警戒していたという。

 銃犯罪に詳しい日本大学危機管理学部の福田充教授は「日本は銃犯罪に意識がいきにくいが、世界では日々起きていて、不安と混乱がもたらされている。日本で起きたことは、世界にも大きなインパクトを与えるだろう」と話す。

 警察関係者によると、使用された銃は手製の可能性が高い。福田教授はこの点に着目し、「3Dプリンターを使えば、短時間で製作できてしまう」と警鐘を鳴らす。「違法な銃所持には有効な手立てがない。銃を製作できる機械の所持を許可制にするなどの対策も必要となってくるだろう」

 ■「全容解明・捜査尽くす」 警備の詳細は答えず 奈良県警

 奈良県警は8日午後9時半ごろから、県警本部で記者会見を開いた。中西和弘・刑事部長が事件の概要を説明。「安倍元首相のご冥福をお祈りすると共に、ご遺族に心よりお悔やみ申し上げます」と述べた。説明によると、山上徹也容疑者(41)は取り調べに「淡々と話をしている」という。

 会見では、警護態勢について再三質問が出たが、谷源・警備部参事官は「今後の警護活動に支障を来す」として明らかにしなかった。一方、安倍氏の死亡という結果の受け止めを問われると、中西刑事部長は「警護実施中に発砲され、亡くなったという結果は重大に受け止めている」と述べた。その上で、「事実の全容解明と、捜査を尽くす」「(警護態勢で)確認された問題については、適切に対策を講じて参りたい」と繰り返した。

 ■「冷静さが抑止に」

 「血盟団事件」などの著書がある東京工業大の中島岳志教授(政治学)の話 1920年代にテロやクーデターが相次いで「暴力は有効だ」という雰囲気が社会に生まれ、5・15事件や2・26事件につながった。結果として警察や軍部が大きな力を持ち、言論の自由が制限された。だからこそ今回の事件の影響を最小限に抑えるため、私たちは行動を変えてはならない。政治家は仮に駅前に立てずともSNSで発信し、国民は事件と選挙を切り分けて投票に臨むべきだ。そうした冷静な態度がテロの抑止につながっていくからだ。

 ■「暴力の連鎖懸念」

 安倍晋三元首相についての著作「安倍三代」のあるジャーナリスト、青木理さんの話 首相官邸などが襲われて蔵相らが殺害された戦前の2・26事件では、大正デモクラシーから続いた価値観が軍国主義へ変わった。戦後最長の政権を成し遂げた元首相が銃撃されるというのは、社会の分水嶺(ぶんすいれい)になる可能性がある。財政悪化や経済成長の停滞、そして自由な言論がしにくいといった閉塞(へいそく)感が社会に漂う中、暴力が連鎖する懸念も拭えない。それにあらがう姿勢を政治、社会、メディアが断固として示していけるかが問われている。

▼37面=聴衆の眼前
聴衆の眼前、凶弾 マイク握り2分、背後から 手製の銃、破裂音2回

 参院選の投開票日を2日後に控えた8日昼。自民党候補の応援演説に奈良県を訪れていた安倍晋三元首相(67)が銃撃を受け、亡くなった。マイクを握ってから2分余り。その時、現場で何が起きたのか。▼1面参照

 奈良市の近鉄・大和西大寺(やまとさいだいじ)駅の北口から50メートルほどの交差点内。ガードレールに囲まれた部分に、自民党候補の陣営が集まっていた。それを取り巻くように、歩道の周辺には300~400人の聴衆がいた。

 安倍氏は、公明党議員が応援演説をしているさなかの午前11時20分ごろ、車で到着すると、ガードレール内に入った。そして約10分後。赤い演説台に立って「皆さん、こんにちは。安倍晋三でございます」などと語り始めた。

 この時、聴衆の一人が安倍氏を正面から撮影していた動画には、安倍氏の後方に山上徹也容疑者(41)とみられる人物が映り込んでいた。5~10メートルほど離れた場所で、首を左右に振りながら安倍氏の様子をうかがう姿が確認できる。

 演説が始まって2分15秒が経った時だった。「彼(候補者)はできない理由を考えるのではなく……」と言ったところで、「ダーン」という重い破裂音が響いた。

 付近のロータリーで歩行者の誘導をしていた奈良交通の奥田将弘さん(58)は、この音を聞き、演説台のほうを振り向いた。

 演説エリアの近くに山上容疑者が立っていた。襟付きの半袖シャツと長ズボン、マスクとめがね姿。望遠レンズの付いた一眼レフカメラのような黒っぽい物を、無言で構えていた。

 3秒後。「ダーン」。再び破裂音が響き、「カメラのような物」から白い煙が上がった。

 聴衆の最前列にいた会社員の男性(26)はその瞬間、内臓が揺れるような衝撃と爆風を感じた。「爆弾が投げ込まれたのか」と思い、頭を抱えてしゃがみ込んだ。一瞬の静寂のあと、視線を上げると数メートル先に立っていた安倍氏が前に倒れ込んだ。

 「キャー」という悲鳴が上がり、「救急車!」「安倍さーん」など様々な声が交錯した。

 「お医者さん、いらっしゃいませんか」「看護師の方、お助けください」

 近くの喫茶店にいた高校3年の女子生徒(17)が破裂音で外に出ると、陣営の人たちがマイクで繰り返し呼びかけていた。

 周囲の医療機関から医師らが集まった。複数の人が走り回り、5分ほどで誰かがAED(自動体外式除細動器)を持ってきた。

 「離れて!」という声が聞こえ、安倍氏とみられる人物にAEDをあてたり、心臓マッサージをしたりしているのが見えた。

 女子生徒は「地元の駅で銃撃が起きるなんて信じられない。頭が真っ白です」。会社員の男性は「(銃が一般的な存在でない)日本でこんな事件が起きるとは。両手の震えが止まらない」と話した。

 山上容疑者は少し離れた路上で、スーツ姿のSPら5人ほどに取り押さえられた。大声を出したり、抵抗したりする様子は見られなかったという。

 自民党奈良県連によると、安倍氏の応援演説が決まったのは7日の夕方だったという。候補者の選対副本部長を務める堀井巌参院議員は「犯行について前触れはなかった。容疑者に見覚えはない」と説明した。午後7時には党が予定を公表し、地元議員らがツイッターで拡散していた。

 ■心臓に大きな穴、失血死

 安倍晋三元首相の治療に当たっていた奈良県立医科大学付属病院は8日午後6時15分ごろから記者会見を開き、安倍氏が同日午後5時3分に死亡したと発表した。死因は失血死とみられるという。

 病院によると、安倍氏の首の右前部に約5センチの間隔で2カ所の小さな銃創があった。銃弾が首から体内に入り、心臓と胸部の大血管を損傷したとみられる。心臓の壁には大きな穴が開いていたという。左肩に銃弾が貫通したとみられる傷が一つあったという。体内から銃弾は発見されていないという。

 安倍氏は午後0時20分に心肺停止の状態で病院に運ばれ、死亡するまで心肺停止の状態が続いたという。病院は外来処置室で20人態勢で治療に当たった。手術では胸部を開き、出血点を探して止血するとともに、大量の輸血をした。輸血量は100単位以上だったという。

 会見した吉川公彦病院長は「病院としてはできるだけのことを尽くしたが、非常に残念だ」と沈痛な面持ちで話した。

 ■「政治信条に恨みはない」 元海自隊員の容疑者供述

 山上徹也容疑者(41)は、奈良県警の調べに、動機について「政治信条に対する恨みではない」と供述したという。

 山上容疑者は5月までの約1年半、大阪府内の人材派遣会社に在籍し、京都府内の倉庫に派遣され、フォークリフトで荷物を運ぶ仕事をしていた。

 人材派遣会社の担当者は「口数が少なく、おとなしい印象だった」と話す。派遣先の社員は「周囲と一緒に過ごすことは少なく、自家用車の中で昼食を食べていた」と言う。

 派遣会社に4月、「体調が悪い」と退職を申し出た。有給休暇を消化し、5月中旬に辞めたという。

 同社関係者によると、山上容疑者は1999年に奈良県立高校を卒業後、2002~05年に海上自衛隊に勤務。退職後はファイナンシャルプランナーや宅地建物取引士などの資格を取り、複数の会社で派遣社員やアルバイトで働いていたと同社に伝えていた。

 防衛省幹部によると、海上自衛隊は本人の意思で辞め、予備自衛官にはなっていないという。

 容疑者の親族という男性は取材に、「特定の宗教団体を巡って容疑者の家庭は壊れた。本人はその団体から被害を受けていたはずだ」と話した。

 県警は8日夕、奈良市内の山上容疑者の自宅マンションと、別の親族の住宅を殺人未遂容疑で家宅捜索した。捜索は深夜まで続き、午後9時半過ぎには容疑者宅から爆発物が見つかったとして、警察官が住人らに避難を呼びかけた。

 容疑者宅の隣室の60代男性は「面識がなく、誰が住んでいるのかも知らなかった。洗濯物も見かけず、生活感がなかった」と取材に話した。「この1カ月間に数回、夜にのこぎりで木を切るようなギコギコという音が聞こえた」と言った。