【目次へ】 利己心を離れて、義を重んじたい 軌道修正はあちこちに
続折々の記へ
続折々の記 2022 ⑩
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】09/08~ 【 02 】09/13~ 【 03 】09/16~
【 04 】09/16~ 【 05 】09/16~ 【 06 】09/23~
【 07 】09/30~ 【 08 】10/02~ 【 09 】10/06~
――――――――――――――――――――――――――――――
【 01】09/08
環境の対応作りと対策方法
2022/09/08
利己心を離れて、義を重んじたい 軌道修正はあちこちに
いのちの伝承の把握の仕方
環境の対応作りと対策方法
感謝と報恩と実践
実践法 …
「指触るゝことのみばかり思えただ 返らぬ昔知らぬ行く末」
いのちの願いを三本の柱に分けて考えることにし、続折々の記 2022 ⑧ 【 08 】09/06~ では、いのちの伝承の生態をみてきてすべての生きものは親と同じようにいのちを伝えてきたことを理解しました。
それで、いのちには願いの方向があるはずだと考え、いのちの願いは個々の生物に任されていると結論づけたのです。
環境の対応作りと対策方法
まず始めに「より良い環境の作りを誰がする」ということを取り上げたい。
何だそんなことか、と思うかもしれません。 でも高山植物は多くは小さい植物で、冬の寒さにたえ、人目につきやすい可愛い美しい花をみせてくれます。 どういうわけかお話してくださいと言われて、我が子にお話しできますか。
植物も何百年もの長い「いのちの伝承」があります。 好んで寒い山で生きようとしたわけではないでしょう。 でも、与えられた環境の変化に順応し、進化してきたのです。 始めから寒い高山で生きてきたのではなく、花が咲いて実がついたとき、小鳥に食べられ小鳥が次第に平地や高いとこでフンを残した。 それが繰り返され、花は与えられた環境でどう暮らしたらいいか考えて進化してきたのです。 高山植物の草ばなは、こうした歴史をもっているのです。
生き物は環境に応じて意識的に変化しているのです。 動物にしても人間にしても同じように生きている環境に適するように、変わってくるのです。 この事実を見ていると、生きものすべてに、自意識があると考えざるを得ないのです。
ヒマワリは誰でも知っているように太陽に向かってどんな大きい花にしても動いています。 禰宜にしても太陽に向かって伸びています。
※ 環境づくりは自分しかない
環境づくりは他人に任せない。 他人ではなく自分でやらないと変わらない。 現在の自分はどう思っているのか。 別の言い方をすれば、自分とは何者なのか?
判り切っているにしても改めて自問してみると、何といえばいいのか。 いろいろ考える人の中には、それを突き詰めて考えていた先人が多くいたと思います。 聞いたこともあるでしょう。
「我思う、故に我在り」どこかで聞いたことがあるぞと思ったら検索して調べればいい。
調べてみると(クリック)出ているのです。
解説を見ると、次のように説明しています。
全てについて疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。コギト命題といわれることもある。哲学史を教える場合の一般的な説明によれば、デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していった、とされる。これを読んでいくと、後世への影響が二つ出ている。 この中に漱石と仏教学者の中村元の話も出ていた。
また、これを意識の「内部」の発見と位置付けることもできる。中世までの哲学では、意識の内部と外部の問題系というものがなかった。いいかえれば、内部に現われている観念(表象)と外部の実在が一致すると思いなされてきた。ところが、デカルトの方法的懐疑はまずこの一致の妥当性を疑った。すなわち、表象と実在は一致するのではなく、むしろ表象から実在を判断することは間違いを伴う、というのである。「一度でも間違いが起こった事柄に関しては全幅の信頼を寄せない」とするデカルトは、それでもやはり、絶対確実なものを見つけようと試みた。ここで、絶対確実なものとは、表象で直観されたものから実在に関する判断が直接に導かれる事柄のことである。そして、このようなものとは、実は「絶対確実なものを見つける」という試みそのものを可能にする、「私は考える」という事実であった。これによって、意識の「内部」としての「考えるところの私」が確立し、そこに現われている観念と外部の実在との関係が、様々な形で問題に上るようになった。例えば、「観念に対応する実在はいかに考えられるべきか」や「もっとも確実な観念はなにか」といった問いがあげられよう。
※ 夏目漱石の『吾輩は猫である』において、主人公の猫が「人間は長い歴史の中でこんな当たり前のことしか思いつかない愚かな生き物だ」と嘲笑している。ここに出ている夏目漱石については、自分の考えを忠実に決めた人として、自覚した人として大事な人だと観ています。
※ 約2500年前に生きた釈迦(ブッダ)の教えにも、この言葉について、ふれているものがある「〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ」[6]一文を抜き出したものだが、釈迦はこのように語っている。〈中村元 - ブッダのことば - スッタニパータ (岩波文庫) - 第4章ノ14番『迅速』より〉
ちょっとそれますが、漱石がイギリスへ国費による留学した折のことです。 二年間の留学でしたが一年にしてノイローゼになったという記事を見ていたのですが、実はとんでもない誤解であったのです。彼の漢文学も英文学もその造詣は虞美人草で見る漢字の学識ばかりでなく中国の古典の造詣も深かったし、英語の文学論を見ても驚きでありました。 それで、一年刊の勉学を経て西欧の文学に見切りをつけて、本来自分を培(ツチカ)っていた東洋的精神で自分の方向をきめ出したのでした。 それは「草枕」にチラッと触れていますが、東洋の作詩精神と西欧のそれとの相違が表現の中に現れているのです。 それだけではなく、漱石が学習院で講義をした「私の個人主義」を読んでみると、端的に自分の立場を表わしています。 さらに、則天去私の言葉を大事にしております。
これらを考えまとめてみると、「自分とは何者なのか」を確実に表わした一生だったと思うのです。
ちょっと長すぎましたが、続いて日本の哲学者として知られている西田幾多郎は 1即多 としてしられ、絶対矛盾的自己同一としても知られた方です。
絶対矛盾的自己同一 西田幾多郎
https://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html
現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。長くてご免。 自分でも頭の中がこんがらかります。 ですからカットしてとばしてください。
◇ ◇ ◇
右の如く絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界は、またポイエシスの世界でなければならない。製作といえば、人は唯主観的に物を作ることと考える。しかし如何(いか)に人為的といっても、いやしくも客観的に物が成立するという以上、それは客観的でなければならない。我々は手を有するが故に、物を作ることができるのである。我々の手は作られたものから作るものへとして、幾千万年かの生物進化の結果として出来たものでなければならない。隠喩(いんゆ)的でもあるが、アリストテレスはこれを「自然が作る」η φυσι※ ποιειという。無論斯(か)くいうも、我々の製作が自然の作用だなどというのではない。手が物を作るのでもない。然らば物を作るとは、如何なることであるか。物を作るとは、物と物との結合を変ずることでなければならない。大工が家を造るというのは、物の性質に従って物と物との結合を変ずること、即ち形を変ずることでなければならない(ライプニッツのいわゆるコムポーゼの世界において可能である)。現実の世界は多の一として決定せられた形を有った世界でなければならない。これを何処までも多から一へと考えるならば、そこに製作という如きものを入れる余地がない。これを一から多への世界と考えても、それは何処までも合目的的世界たるを免れない。唯自然の作用あるのみである、生物的世界たるに過ぎない。この世界の根柢に多を考えることもできず、一を考えることもできず、何処までも多と一との相互否定的な絶対矛盾的自己同一の世界にして、個物が何処までも個物として形成的であり物を作ると共に、それは作られたものから作るものへとして、何処までも歴史的自然の形成作用ということができる。
時が何処までも一度的なると共に、現在が時の空間として、現在から現在へと、現在の自己限定から時が成立すると考えられる如く、世界が矛盾的自己同一として作られたものから作るものへということは、個物が製作的であるということであり、逆に個物が製作的であるということは、世界が作られたものから作るものへということである。我々がホモ・ファーベルであるということは、世界が歴史的ということであり、世界が歴史的であるということは、我々がホモ・ファーベルであるということである。而して絶対矛盾的自己同一の世界においては、時の現在において時を越えたものに触れると考えられる如く、作られたものから作るものへとして、ホモ・ファーベルの世界はいつも現実に形を見る世界である。いわば過去から未来への間に意識的切断面を有つ世界である。作られたものから作るものへの世界は意識面を有つ、そこに映すという意義があるのである。我々は行為的直観的に製作するのである、製作は意識的でなければならない。絶対矛盾的自己同一の世界の意識面において、製作的自己は思惟的と考えられ、自由と考えられる。我々の個人的自覚は製作より起るのである。
ソクラテスが毒杯を飲んだのも、「悪法もまた法なり」として自分の立場、考えを通した人でした。
インドのパール判事は東京裁判で「被告全員無罪」を主張しました。 パール判事の人生哲学としての主張は己の信念からの提言でした。 「自分は何者なのか」まさに人としての腹ができていなければ、この主張はできなかっただろう。
パール判事は、日本が戦争を開始した時点で、戦争は国際法上違法とされておらず、「平和に対する罪」「人道に対する罪」は「事後法」にあたり、罪刑法定主義の原則に反すると主張しました。 そして、判事のなかでただ一人「全員無罪」を主張し、意見書を提出しました。これが「パール判決書」とよばれるものです。
彼は、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判(極東国際軍事法廷)の11人の判事団にインド代表としてくわわった人物だったのです。
自分の願いを腹に据えた人でなければ、こんなことは言えなかったと思います。 漱石にしても彼の名誉をたたえての博士号授与を拒否したのも、自分の腹が座っていなければできないことでしょう。
『歎異抄』がずっと新聞広告に出ている。 なぜ親鸞の教えを理解しようとしているのか。 答えは一つ。 誰でも凡欲に惑わされているからでしょう。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」とは、救われるためにどうあるべきかを説かれた言葉ではなくて、人間の本質に気付いて欲しいという親鸞聖人の、阿弥陀如来(真宗のご本尊)の願いです。
この「善人なおもて往生 …… 」の解説は、この句で検索すると出ているものです。
親鸞の自覚では、この書の第五章を見ても覚悟のほどは理解できると思います。
何か自分でのいのちの願いがなければ自分自身の進化は進まない。 けれども、何もおおそれた願いや希望でなくても、自分でこうしたいということがないと、自分の成長も家族の和も望めないのです。 生きている限り自分で喜べる望みを持ちたいのです。
ささやかな変化が重なり合って互助互恵も成立するのです。 「自分で喜ぶ子どもの育て方」が今後必ず大事なことになるのです。
「自分で喜ぶ子どもの育て方」・・・これについては、別のテーマで扱うつもりです。 自分が何を考えていくかについて、いろいろの方の生きざまを見てきていますと、こんな風に言えると思います。
自分ができることは、自分の育てられてきたすべての環境に対する反応ととらえます。 とすれば、今大事だと考える課題を精選してそのことに対処することが一番大事だと言えると思うのです。
人はいろいろの環境の中で生きてきています。 田舎と都市とでも違うことだし、財産家に育った方とそうでない家に育ったことで違うし、親がどういう職業だったかによっても違うのです。
こうした各種各様、千差万別の違う家庭環境の中で、いろいろな育て方も誓う中で、私たちは育ってきたのです。 そういう立場から考えれば、人それぞれの能力なり性質なりすべて千差万別だと言うことがわかります。
こうしたことを理解して、その人の環境と関゛得なければなりません。 そのいろいろの立場で育った人が、自分の生活環境の中で、何を大事なこととして選び、どうゆう方向を目指して いるのか、その立場も自覚して自分を理解しなくてはならないのです。
こうしたときに始めて、自分とは何者なのかという自覚と今を生きる覚悟がいるのです。
自分とは何者なのか、
進化というのは、個々の生きものの進化が基になるから、共同生活をしている人社会においても同じように個人を元に考えなければならないのです。
自分自身の自覚がしっかりしていないと、人社会の進化にそわない。 そうした前提で人としての自覚が是非大事になるからこの表題を扱いました。
※ いのちの願いとは何か
いのちの願い、それは何だろう。 人社会だけ考えるのではなく、人も生き物としては動物の一つであるから、ほかの動物の「いのちの願い」も、植物にも種類が多いけれど同じように「いのちの願い」がある。 だから、人社会を中心として考えるけれど、鳥や、山羊や、野菜や、草花や、柿の木や、琵琶の木も、生き物すべてを含めて考えを進めていきたい。
いのちの願いは、「和」と「悦」である
この願いは、生き物一つ・一つに当てはめてもいいと思う。 争ったり、傷つけたりはしない。 まして、人社会のように相手の命を奪うことはないのです。 賛成できますね。
到達点を 和と悦 にしても、お宮にしてもそこへ行くには石段があります。 それと同じように、いくつかのテーマを考えていかなければ到達点に達しない。 今は道草を食べる時間はない。 斃(タオ)れればそれまでです。
イ 家族を考える
人社会の源(モト)になる単位です。 親子兄弟の直接生活の場なのです。 互助互恵が基本であり、ないものは融通し合う最小単位として成り立っています。 働いて得たお金はみんなのために融通します。 病気の時はお互いに面倒を見ています。 困ったときはみんなで話し合い助け合います。
挙げていけば限(キリ)がないのです。 うれしい時は喜び合うし、悲しい時は涙を流し合う。 知らないことは教え合うし、聞けば応じてくれます。 こんな素晴らしい人社会が、行政区画による市町村、都道府県から国へ、世界へ、地球規模へと拡大していけば素晴らしい。
こうしたことは簡単にできるのでしょうか。 夫婦、親子、兄弟関係がうまくいけばいい筈だが、夫婦と言えば結婚後のことであり、もとは他人同士です。 他人と他人が結婚に同意するには、それなりの思いがあるはずです。
人には礼儀もあるでしょうが、虚偽があってはならないのです。 100%相手の言葉を信じることはないにしても、100%自分に虚偽がないにしても、両者ともに可否の決断をしなければなりません。
これが、見合い結婚であっても恋愛結婚であっても、その結果行く末がどうあろうとも、両社それぞれは責任を持つことが望ましい。 それは両者の自覚にあります。
結婚前段階のことであっても、自分の考えに自分としての自覚がいるのです。動物の世界を見ていても、自分の子孫を残そうとしている争いは激しいものがあります。 ロシアの古言に親を見て結婚せよということがあると聞いたことがあります。 三顧の礼というのも、石橋をたたいて渡れというのも、深い配慮を必要とする古老の言葉として理解したいことです。 第三者の見方ということも考えていい。
いずれにしても、赤の他人が結ばれて両者の子孫を残すことがいのちの道なのです。
子どもを見れば親が分かる、親に似ぬ子は鬼子、ウリの苗にナスはならぬ、こうした日本では昔からの言い伝えがあるのです。
よい家庭にしようという意識があれば、こうした心掛けは大事なことなのです。
よりよい家庭こそ、私たちは求めたいと思います。
こうした家庭からは、我が子をいじめる親は出ないのです。 人の子をいじめる子供には育たないのです。 そして自分で努力して喜ぶ子が育つのです。
ロ 健康な体になる
太陽の恵みによっる天地の自然の中で、生物は細胞に支えられ、いのちの願いはそれぞれの生きものに任されています。 動物も植物もそれぞれ丈夫になって、いのちの願いをかなえようとして生きてきたのです。
人も一本の木の枝が伸びてきたように、生物の進化によって独特の能力を持つことになり現在を迎えています。 こうして進化してきたのも、いのちの願いにそいながら健康な体で励んでこなければ今に至ることはできなかったのです。
今に至るには、心もいろいろの能力も、健康な体に支えられて現在を迎えたのです。
だから、個々としても健康な体にすることは大事なことなのです。
人の世には四苦八苦という言葉もあるが、絶えず前進し努力する人もあるのです。 予期しない病になる場合も怪我もあるけれど、健康体になっていれば病も怪我もない健やかな生活を過ごせることができます。
健全なる精神は健全なる身体に宿る、という諺もありました。 日本の有名な故事成語、慣用句(いろいろ出ている)に出ています。
けれどもこの言い方は
どうか、健全な身体に健全な精神を与え給えと祈るがいい。
古代ローマ時代の風刺詩人、ユウェナリス
が原典のものだから、誤訳と言えば誤訳ともいえますが、故事成語としてはこれが正しいと思います。
『マジカル・チャイルド育児法』
誰も知らなかった脳発達のプログラム 単行本 – 1984/3/26
ジョセフ・チルトン・ピアス (著)
本の長さ 422ページ
<誰も知らなかった脳発達のプログラム>最新脳科学の発見した驚くべき事実を紹介しつつ、自然な出産や〈きずな〉理論による年齢に即応した育児・幼児教育の実際を懇切丁寧に解説。
『脳の進化の5億年』アマゾン検索