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続折々の記 2022 ⑩
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【 06】09/23
日中首脳、メッセージ交換 関係改善に意欲 これが本来の姿
日中「次の50年」、険しい道 両首脳の直接対話に期待
国交正常化50年 中国総局長・林望
国交正常化50年に望む 元中国・中信証券董事総経理、徳地立人
3世代かけ根付いた日本 母を捜し帰国、姓は角栄から
2022/09/23
ポルポト政権負の遺産歴史 お彼岸の供養
彼岸の中日、四時の予報で目が覚めた。 7時間寝たから起きてテレビを見ていて、とルポと時代の惨状を細かく知った。 人の妄想によっては、このような不始末な指導者を迎えることになる。 そこへいくと、日本の予科練の軍隊生活ではそうしたこと考えられないことでした。
ポルポト政権の惨状は、言語に絶するヒドサであった。 彼岸の供養で冥福を祈りたい。 「ポルポト政権負の遺産歴史」の検索語をみて、その最初のデータをまず取りあげます。
「1975年4月17日 ポルポト政権が生み出した負の遺産の始まりの日」
この記事は、ポルポト政権が生まれた背景の続きとしてお読みください。
目次
1 フランス統治時代のプノンペン
2 首都プノンペン陥落
3 ポルポトの思想
フランス統治時代のプノンペン
1970年代、プノンペンは、当時「東洋の真珠」と呼ばれ、アジアでも指折りの大都市でした。 西洋風の建物におしゃれな街並み。 市場には人が集まって、賑わいを見せていました。 都会のプノンペンでは、様々な生活物資が手に入りました。
ここに住めば、貧しい地方の暮らしとは違った、豊かな生活が送れると人々は信じていました。 また、地方で爆撃を受けていようとも、ここでは平和な生活が送れると思っていました。
首都プノンペン陥落
アメリカ撤退後、ロンノル軍に対抗する勢力が増す中、1975年4月17日、ポルポトが率いるカンプチア民族統一戦線が首都プノンペンを制圧し、ロンノル政権はこの日を持って、完全に崩壊しました。
プノンペンの人々は、これで平和が取り戻せたと思い、彼らを大歓迎しました。 北京に滞在していたシアヌークがプノンペン王宮に戻り、元の王政国家の復活を市民も喜んだのです。 しかし、ロンノル政権に関係していた人々を初め、その他多くの人々の期待を裏切る出来事がこの後起こることになるのです。
ポルポトの思想
ポルポト率いるクメールルージュは、原子共産主義という思想を掲げていました。 それを人々が理解するのは、ポルポト政権が行ったことの数々を見てからのことです。 いや、それを見ずに命を落としていった人も相当数いることでしょう。
ポルポト軍は、まず、投降したロンノル軍兵士を処刑しました。 そして、役所、警察署、消防署、図書館、博物館、娯楽施設、学校、寺院など、あらゆる公共施設を占拠し、公務員、会社員、自営業者、教師、医師、僧侶など、農業従事者以外のすべての知識階級に当たる人々を連行しました。
その多くは、収容され、拷問にかけられた上、処刑されたと言います。
プノンペンの政府機関をはじめとして、公共施設、銀行、学校、寺院など・・・、多くの建物が占拠され、破壊されました。 プノンペンは、3日間で人の気配が無くなったと言われています。 カンボジアの貨幣も、この日から紙くずになりました。
原子共産主義では、国民は国家の元で平等であるという考え方なので、個人資産を持つことは認められないのです。
知識は悪
そして、「知識は悪を産む」という思想のもと、政治家・医者・教師などは、捉えられて処刑されました。 カンボジアでこの光景を見たポンナレット久郷さん(当時6歳)は、この時の様子を涙ながらに以下のように語っています。
4月17日、数人の兵士が自宅を訪ねてきて、図書館の館長だった父親を連行されていったきり、父親に追うことはありませんでした。
待ち受けていた強制労働
貨幣が一切意味を持たない世界。 自由に商売さえもできない社会。 家族の愛情さえ奪ってしまう教育。 クメールルージュの構想は、すべての国民をオンカー(指導部)によって統制することでした。
ポルポト軍はプノンペンの人々に、「アメリカ軍が再爆撃に来るので地方に避難しなければならない。」と偽りの情報を伝え、自宅から退去するように伝えて回りました。 しかし、本当の目的は、都会の生活で堕落した市民を強制労働によって再教育すること旧体制に関わっていた人間を分散させ、抵抗勢力を根絶することにあったのです。
250万人の市民は、家や財産を捨て、退去を余儀なくされ、地方の農村部へと徒歩で移動させられたのです。 炎天下の中、徒歩での移動です。 身動きできなくなった老人たちは、そのまま放置されていったそうです。
こうして、首都プノンペンに住んでいた人々は、わずか3日間のうちに地方に退去させられることとなったのです。 そして、移動した先で人々を待っていたのは、再教育を名目にした過酷な強制労働でした。
元々住んでいた村人は旧住民として優遇されたのに対し、彼らは新住民と呼ばれ、徹底的に虐げられる生活を送ったのです。 映画「キリングフィールド」をご覧になっていない方は、一度見ることをお勧めします。デジタルマスター版になって、きれいな映像で見られます。
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2022/09/30 国交正常化50年
日中首脳、メッセージ交換 関係改善に意欲 これが本来の姿
【写真】<お隣同士、未来信じて> 日中国交正常化50周年を記念して開かれたイベントに特別出演したプロフィギュアスケーターの羽生結弦さん(右から3人目)。二胡(にこ)奏者のチャンヒナさん(同4人目)らと記念撮影に応じた。羽生さんが覚えた中国語を交えて「日本と中国は隣であるからこそ、もっともっと良い関係でありたいですよね」とあいさつした=29日、東京都新宿区、小玉重隆撮影
日中両国は29日、日中共同声明の発表で国交を正常化してから50周年を迎えた。両首脳がメッセージを交換。岸田文雄首相は「原点を思い直し、共に日中関係の新たな未来を切り開いていくことが重要だ」と訴えた。習近平(シーチンピン)国家主席も「時代の潮流に従い、新時代の要求にふさわしい中日関係を共に築いていきたい」と呼びかけた。▼4面=険しい道、9面=周氏の遺言、13面=正常化50年に望む、26面=残留孤児のいま
■両国で式典
台湾問題などで両国関係が冷え込むなか、両首脳はともに改善に前向きな姿勢を示した。
岸田氏は「日中関係は、様々な可能性と共に、数多くの課題や懸案にも直面している」とも指摘。一方で「地域と世界の平和と繁栄のため、建設的かつ安定的な日中関係の構築を進めていきたい」と強調した。
一方、中国外務省によると習氏は、この50年の日中関係を「各分野における交流と協力を絶えず深化させ、地域や世界の平和と発展を促した」と評価した。「私は中日関係の発展を非常に重視している」という認識も示した。
岸田首相と中国の李克強(リーコーチアン)首相、両国外相もそれぞれメッセージを送り合った。
両首脳のメッセージはこの日、東京都内のホテルで林芳正外相や中国の孔鉉佑・駐日大使が出席し開かれた記念式典で披露された。
一方、北京の釣魚台国賓館でも、中日友好協会などが日中の関係者約200人を招いて記念式典を開催した。中国側からは丁仲礼・全国人民代表大会(全人代)常務副委員長らが、日本からは垂秀夫・駐中国大使らが参加した。
10年前の40周年の際は、日本政府による尖閣諸島国有化をめぐって日中関係が緊張し、式典が直前になって中止された。今回は予定通り開催し、日中関係を重視する姿勢を表した。
ただ、中国側の式典では、日本側と異なり両首脳らが交わしたメッセージは読み上げられなかった。
岸田首相の就任からまもなく1年が経つが、両首脳の協議は、岸田首相が就任直後に電話協議を1回行っただけだ。今回も首脳会談は実現せず、関係改善は足踏みが続いている。(野平悠一、北京=高田正幸)
▼4面=険しい道
日中「次の50年」、険しい道 両首脳の直接対話に期待
【図版】お互いへの好感度/日中関係の主な懸案
日本と中国が国交正常化して50周年を迎えた29日、両国首脳は「次の50年」に向け関係の発展を目指すとのメッセージを交換した。米中対立を背景に日中間の緊張も深まるなか、首脳対話の再開による局面打開への期待が高まるが、展望を開くのは容易ではない。▼1面参照
東京都内で開かれた記念レセプションには、政財界や友好団体などから約850人が出席した。
あいさつに立った経団連の十倉雅和会長は、日中の経済関係を強固にするには建設的で安定的な政治・外交関係が極めて重要だと指摘。「国際情勢は複雑化し、不透明感を増している。だからこそ両国首脳をはじめ、ハイレベルの対話、交流が求められている」と注文した。十倉氏は会場で代読された両国首脳のメッセージについて「非常によく似ていた。50年前の原点に戻り、これからの50年もよい関係をつくっていかねばならない、と(いう内容だった)」と記者団に語り、経済界の期待感を示した。
しかし、両国を取り巻く現実は険しい。尖閣諸島周辺をめぐる対立に加え、国交正常化の交渉時からの課題である台湾問題も先鋭化。ウクライナ情勢でも、ロシア寄りの姿勢をとる中国との溝が広がっている。
岸田文雄首相は昨年10月の就任直後に習近平(シーチンピン)国家主席と電話協議し、「建設的かつ安定的な日中関係」の構築を目指すことで一致したが、以降、両者の直接対話はない。この日も、「今の環境で考えうる最大限の政治対話」(日本外交筋)だった首脳の電話・オンライン協議や外相会談は実現しなかった。ただ、岸田氏は「意思疎通を図ることは重要。中国側との対話は常にオープンだ」とも強調している。11月には主要20カ国・地域(G20)首脳会議など複数の国際会議が予定されており、岸田氏と習氏が顔を合わせる可能性がある。
外務省幹部は「50周年は関係改善に向けたジャンプにはならないが、ステップになればいい。人的交流やウィンウィンの経済関係の構築は進めていかなければならない」と話す。
29日は、北京でも記念レセプションが開かれた。
王毅(ワンイー)国務委員兼外相は出席せず首脳メッセージの代読もなかった。だが、日本政府による尖閣国有化への反発で記念行事が中止された10年前と比べ、出席者からは「開けたことに意味がある」との声が漏れた。
抑制的ながらも10年前とは対応を変えた背景にあるのは、激しさを増す米国との対立だ。
中国外交筋によると、8月、訪中した秋葉剛男・国家安全保障局長と会談した楊潔チー(ヤンチエチー)政治局員は「我々は中日関係の安定を望んでいる。日本も勝者と敗者をつくるゼロサム思考は捨ててほしい」と呼びかけた。
ただ、習氏が唱える「新時代の中日関係」を形にしていく道筋は見えない。総書記就任からまもなく10年を迎える習氏だが、日本を訪れたのは2019年のG20サミットだけ。日本は公式訪問が実現していない数少ない主要国だ。習氏はこの日、「中日関係の発展を非常に重視している」と強調。しかし、内外の重要な政策判断が習氏に集中する今の中国では、中長期的な対日政策の練り上げが後回しになっているのが実情だ。
中国は台湾情勢に加え、年末にかけて日本で進む「安保3文書」改定の行方も注視している。中国軍系シンクタンク幹部は「日本はこの先、中国とどう向き合うのか。米国一辺倒でなく、独自の戦略判断をするかどうかで、こちらの対日方針は変わる」と話す。 (青田秀樹、野平悠一、北京=林望)
▼9面=日中友好、周氏の遺言は問う
国交正常化50年 中国総局長・林望
日本と中国が29日、国交正常化から50年を迎えた。
北京でも友好団体などによる大小の記念イベントが開かれた。しかし、両国に祝賀ムードが広がっているとは言いがたい。尖閣諸島の国有化で記念行事どころではなかった10年前よりはましとはいえ、半世紀の節目としては寂しい。10年前の尖閣諸島、今回の台湾。50年前の交渉で双方の頭を悩ませた火種が今、切実な問題となって両国を立ちすくませている。
1972年の正常化には、ソ連という共通の脅威にどう向き合うかという時代背景があった。その後、ソ連は崩壊し、中国が台頭。日米は中国を安全保障上の最大の脅威とみなす。両国を取り巻く環境と力関係が一変した今、「日中友好」という言葉に空々しさを感じる人もいる。
50周年を機に、私は正常化交渉やその後の日中関係に力を尽くした人々の言葉を聞いた。周恩来首相の通訳だった周斌さん(87)が「指導者たちが何を語ったのか、後世に伝えるのは私の責任」と語ったように、先達のヒリヒリするような焦燥が伝わってきた。
彼らに教えられたのは指導者たちの戦略判断だけでは、悲惨な戦争を戦った国同士の歩み寄りは成らなかったということだ。
周恩来やその右腕だった張香山ら戦前に日本留学を経験した中国高官たちは、自らの体験と日本理解を踏まえて「日本が軍国主義に戻ることはない」と、政権内の異論を説き伏せた。日本でも政財界の人々が侵略の歴史への悔悟を胸に、台湾を支持する人々の激しい批判を受けながら、「命を賭けて」(大平正芳外相)奔走した。
抗日戦争にも加わった張香山は生前、息子に「中日友好は人民の長期利益に合致する国策なのだ。困難はあるだろうが、自信を失ってはならない」と語った。宿命的な溝や対立を抱える両国だからこそ、安定した関係をつながねば双方と地域の災いになる。「友好」という言葉には、本物の戦争を知る世代の祈りにも似た決意が込められている。
時代状況が変わった今、彼らの思いや言葉は色あせたと断じるのはたやすい。しかし、互いが向き合わざるを得ない巨大な隣国であることは変わらず、その切実さはむしろ増している。
今回取材した人々は一様に、人と人の交流と理解が細っていることへの懸念を口にした。厳しい時代に両国をつなぎとめてきたのは経済を含む民間だったが、近年の政治対立は経済のデカップリング(切り離し)や国民感情の悪化という形でその力をそいでいる。
「民をもって官を促せ」。周恩来が死去する直前、日本で働く中国の外交官たちにあらためてこの言葉を伝えていたことを周斌さんは取材で明かした。官も民も互いに身構えているようにみえる今、周恩来の遺言は新たな意味合いを帯びて私たちに問いかけているようでもある。
▼13面=正常化50年に望む(インタビュー)
国交正常化50年に望む
元中国・中信証券董事総経理、徳地立人さん
「中国分析は勇ましく言い切る方が好まれるが、
複雑さを理解することこそ大切だと思う」=藤原伸雄撮影
日中国交正常化から50年を迎えた。かつて日本が援助した中国の経済規模は今や、日本の4倍近くに膨らんだ。国際政治を揺さぶる巨大な隣国はどこへ向かうのか。どう向き合えばいいのか。青年期を北京で過ごし、中国最大の国有証券会社、中信証券で投資銀行部門を率いた経験を持つ徳地立人さんに聞いた。
――1972年9月の国交正常化を北京で迎えたそうですね。
「ちょうど20歳でした。父の仕事の関係で横浜から北京へ渡り、8年が過ぎたころです。中国は文化大革命のさなか。同じ世代の若者は農村へ送られ、私自身は自動車修理工場の労働者を経て、母が勤める学校で英語の聴講生をしていたころです。国交正常化を民間でもお祝いしようと友達が自宅でギョーザを作ってくれ、皆で白酒(パイチウ)で乾杯した。うれしかったです」
――中国の人々は国交正常化をどう思っていましたか。
「日本の侵略を記憶している人が多く、不満な人もいたと思いますが、田中角栄首相が訪中するまでの様子を中国政府が発信するニュースなどで見ていたので、大多数は歓迎していたと思う」
――文革と重なっていますね。
「文革は中国の厳しい本質を知る原体験です。ある日突然、学校が変わった。人気者だった女性の先生が石を投げられ、つばをはきかけられる。校内放送である生徒が父親への批判を読み上げた。中国社会は政治が何よりも上位にあるのを脳裏に刻まれました」
――異例の3期目が見込まれる中国共産党総書記の習近平(シーチンピン)氏は53年生まれ。同じ世代です。
「彼は9歳で、副首相まで務めた父親の失脚を経験しました。建国に力を尽くした幹部党員だった父親が突然、反党集団のリーダーとして10年以上も迫害されたのです。文革で似た経験をした多くの高級幹部の子弟よりずっと孤独だったと思います。彼は少年期の経験を通じ、権力を失う恐ろしさと惨めさを胸に刻んだはずです」
■ ■
――2012年12月、その習氏と人民大会堂で面会しましたね。党総書記に就いた後、最初に会った日本人でした。
「各分野の外国人専門家を20人ほど集めた会合で、私は金融部門から選ばれました。最初から最後まで習氏ひとりが話し、会合の仕切りも細かく指示を出していたことが記憶に残っています」
「習氏は『中国は、『海が百の川を納める』(海納百川)ように寛大であるべきで、閉鎖的な姿勢では成功を収められない』と話していました。彼なら権力を集中させて、腐敗対策を含む改革を実行するだろうと期待しました」
――いま、どう評価しますか。
「当時、日本を経済規模で追い抜いた中国は岐路にあったと思います。文革後にトウ小平が始めた数十年にわたる改革開放政策で手にした経済力をどう使うか。『改革開放』的な姿勢を続けて国際社会と仲良くするか。『強国路線』を追求するか。習氏は、先進国から覇権とも受け止められる『強国路線』を選んだ。『中華民族の偉大な復興』を唱え、トウ小平が唱えた、能ある鷹(たか)は爪を隠すという意味を持つ『韜光養晦(とうこうようかい)』を棚上げしました」
「ビジネスを通じて中国と長く付き合うなかで、経済だけでなく政治の改革も必要だと考える人々が中国にいることを私は知っています。習氏と同じ世代を含めて開放的な政策を支持する官僚も多い。ただ、テクノクラートの役割は今も重要ですが、より限定的になったと言えます」
――中国の人々が、大国として対外的に強い姿勢をとることを指導者に期待したのでは。
「中国の対外政策は国のリーダーが動かす。だからこそ、50年前に国交正常化もできた。この10年の変化は人々の大国意識も一因ですが、指導層の変化が大きい」
「もちろん、大国化した中国を警戒する米国の変化もあります。貿易、技術から安全保障まで、あらゆることが気になり、厳しく接するようになりました。対立がもたらす危機を管理するための対話は続くでしょうが、関係が良くなる材料はあまり見当たりません」
――日本にも大きな問題です。
「日中国交正常化を促したのが米中接近だったように、日中関係は常に米中関係を軸とした大きな国際環境に影響されます。大国の意思を隠さなくなった隣国に対して日本人が警戒心を持つのは当然です。地政学的にみれば、日中関係は過去50年で最も厳しい状況にあると感じます」
■ ■
――日本は長く中国の改革開放を支援してきました。中国の現状に失望している元官僚や経済人は少なくありません。
「日本は中国を資金だけでなく政策の知恵でもずいぶんと助けてきました。元経済企画庁長官の宮崎勇氏もその一人です。首相を務めた朱鎔基氏は彼の知恵を頼りにし、何度も会っていました。宮崎さんが生前、こんな話をしていました。1989年6月の天安門事件からほどなく訪中し、李鵬首相と面会した時、『勇気がありますね』と言われた、と」
「中国が革命から経済へかじを切ってから、日本には隣国を孤立させて混乱させるのは得策ではないという考えがあった。その是非は問えないと思う。歴史は必然ではありません。中国の将来が絶対にこうなるとは誰も言えない」
――一方で、日本政府は欧米に比べてビジネスを優先し、中国の人権や民主の問題にかかわる意識に乏しかったとの批判があります。「モンスター」を育てたと。
「日本は中国を侵略した国として、人権や民主を厳しく追及しにくい環境もあったでしょう。普遍的な価値観と対中関係をどう両立させるかは、日本にとって今後も大きな課題です」
――日中の経済関係は深まり、日本にとって中国は2007年以降、最大の貿易相手です。
「米中の経済関係も消滅しているわけではありません。先端技術や半導体など戦略物資でのデカップリング(切り離し)は進んでも、経済全体から見れば限定的です。米国の対中貿易赤字は、いまだに歴史的に高い水準です」
「日本企業も二刀流でいくしかありません。安全保障にかかわる領域では米国と基本的には足並みをそろえ、そうでない部分は、それぞれの企業が経済合理性にもとづいて動けばよい。政府の指針作りやサポートはもちろん必要ですが、企業には自らリスクを判断し対応する力が求められています」
■ ■
――ロシアのウクライナ侵攻後、台湾問題をめぐって日本の立場が問われています。 「孫子の兵法に『戦わずして兵を屈するは、善の善なり』(戦闘することなく敵兵を屈服させるのが最もすぐれている)とあります。中国はこの戦略で台湾を『攻めよう』としています。ロシアのウクライナ侵攻後、台湾有事が現実味を帯びて語られるようになっていますが、日本は米中のような軍事大国ではないし、目指す必要もない。日本に必要なのは『戦わずして負けない戦略』です」
「日本の安全保障は日米安保を基盤に日米韓や、日米豪印の協力枠組み(クアッド)などで対応するのが原則ですが、それはあくまでも『戦いを起こさせない』ためであり、『勝つ』ためではないことを自覚しておくべきです。戦争しないため、相手を抑止するための備えを強化することは必要ですし、いざという時戦える勇気も必要です。ただ、備えをしているうちに感覚がまひし、戦うことを目的化させてはならない。その前提で、外交も含めどのような戦略が本当の抑止になるのか、目をそむけないで議論したほうがいい」
――国交正常化40年は日本による尖閣諸島の国有化をめぐって対立が先鋭化し、中国各地で反日デモが吹き荒れました。50年も、お祝いムードとはほど遠いです。
「日中間の若い世代では、共通の趣味などを通じて自然なつながりが増えているようですが、政府間に対話が乏しいのは心配です。米中はこれだけ対立し、意見をぶつけ合っているのに、トップを筆頭に多様なルートを通じ、対話を重ねています。日中は問題があると会わなくなる。政治家のパイプは細くなり、企業関係者も面は広がったものの存在感はかつてほどではありません」
――政治家や外交関係者は、中国側と対話をしづらいのは日本社会の対中感情が悪いから、とも言います。
「中国との対話がなぜ必要なのか、国民に説明を尽くすのが政治家の仕事だと思います」
「敗戦を上海で迎えた作家の堀田善衛は『上海にて』(1959年)でこう書いています。日本の侵略戦争を経て、『われわれの握手の、掌(てのひら)と掌のあいだには血が滲(にじ)んでいる』と。戦争は大事な国民の命をコストにすることが大前提です。世代が変わり、記憶が薄れると、歴史は形を変えて繰り返されます。中国の『文革賛美』や日本の『戦争怖くない論』も同じです。台湾有事が語られる今こそ、国交を正常化できた重みを双方がもう一度、かみしめる時ではないでしょうか」
(聞き手 編集委員・吉岡桂子)
*
とくちたつひと 1952年生まれ。大和証券から2002年に中国・中信証券へ。15年まで董事総経理。アジア・パシフィック・イニシアティブシニアフェロー。
▼26面=日中半世紀 残留孤児のいま
3世代かけ根付いた日本 母を捜し帰国、姓は角栄から
中国残留日本人孤児の田中君生(きみお)さん(82)=東京都江東区=は、「本当の日本人になれた」と言う。実母と生き別れ中国で暮らし、1994年の永住帰国後も苦労を重ねてきたが、いまは心穏やかな日々を送る。子どもや孫が日本社会にしっかりと根を下ろしているからだ。日中国交正常化から29日で50年。3世代のそれぞれの思いは――。▼1面参照
45年夏、日本の敗戦後、中国の山中を食べ物もなく逃げ惑っていた実母は、幼い田中さんを中国人の農家に預けた。実母の脚にすがりついて泣いたことをいまでも覚えている。
養父母に「郭炳君(グォビンジュン)」として育てられた田中さんは、航空工業技術学校を出て航空技術者になった。だが、日本人であることを理由に閑職に回された。失意のもと、黒竜江省の田舎に戻って木材運搬に携わった。
50年前、国交正常化のニュースに「実母に会いたい」という気持ちがわき起こった。肉親捜しを始め、92年に訪日調査に参加。身元がわからないまま、94年に妻と次男を連れて永住帰国した。
国の施設で4カ月生活した後、工場勤務や地下鉄の車両掃除などをした。95年には他の子どもたちも呼び寄せたが2世への支援はなく、田中さんの2DKの都営住宅で長男と次女の家族と計8人で生活した。
「日本の国の一員になるために苦労をいとわず働くように」。田中さんは子どもたちを鼓舞し続けた。
長男の鵬(ほう)さん(55)は帰国の2日後には職探しを始めた。だが、なかなか仕事は見つからなかった。「何のために日本に来たのかと後悔した」と振り返る。
中国では、ボイラー生産工場の社長事務室長をしていた。当時は日本と中国の経済には格差があり、日本でより良い生活ができれば、という思いだった。
しかし、待っていたのは、狭い都営住宅の押し入れで眠る日々。家を売り、仕事も辞めて来たのに、経済的にも精神的にも追い詰められた。当時は言葉も不自由。自分で電話をかけることもできなかった。
先が見えない中、半年ほどして生活困窮者用の住宅に入ることができた。家賃は月7900円。そこで2年暮らし、懸命に働いて生活基盤を整えた。2008年には念願のマンションを購入した。水産加工、印刷などの仕事を経て、いまは紙の卸業で働く。
鵬さんは流暢(りゅうちょう)になった日本語で言う。「苦労してよかった。長男が日本で教育を受けて、伸び伸びと成長して本当に幸せだと感じる。子どもが一番だから」
来日したときは1歳だった長男は、今年28歳になった。私立大学を卒業し、いまは外資系の金融関係で働く。仕事で使うのはほとんど英語だ。「僕自身は苦労した記憶も、貧乏をしたという記憶もない」
収入は、26年間同じ会社で働く父親より多い。塾に通わせるなど教育熱心だった父の思いが最近少しわかったような気がする。
中国語は日常会話は理解できるものの、発音が難しくてあまり話せない。家の中では父母とも日本語で話す。だから、いまも日本語が不自由な祖父の田中さんとは深い話ができない。
「結婚いつ?」と片言で聞く田中さんに、「そのうちに」と答えるが、どこまで自分の話を理解しているかはわからない。でも、祖父の歴史を父親から聞き、「苦労してきたんだろうな」と想像する。「中国は親が育った国。僕のアイデンティティーは日本の方が強い。両国の間では僕はニュートラルな感じ」
田中さんの近くでは鵬さんら4人の子が暮らす。「彼らが日本社会でしっかり生活していることが自慢」。日中の国交を正常化した田中角栄元首相の姓をもらい、中国名を1字残し日本人として新たに生きる決意でつけた「君生」の名前と歩んだ月日を振り返った。(編集委員・大久保真紀)