【目次へ】
  続折々の記へ
続折々の記 2022 ⑩
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】09/08~     【 02 】09/13~     【 03 】09/16~
【 04 】09/16~     【 05 】09/16~     【 06 】09/23~
【 07 】09/30~     【 08 】10/02~     【 09 】10/06~
――――――――――――――――――――――――――――――
【 08】10/02
     「ISの妻」、偽名で生きる イラク・モスル、解放5年  
        がれき残る街、復興の希望 イラク・モスル、解放5年
     楔形文字と『ギルガメシュ叙事詩』  現存最古の文字と『物語』
            

 2022/10/02
「ISの妻」、偽名で生きる イラク・モスル、解放5年
信じられない事実

 身長150センチほどの女性。髪を覆う黒いスカーフとマスクの間に見えるぱっちりとした目が、紫のアイシャドーで際立っていた。

 アビール・ムハンマドさん(26)は、偽名を使って生きている。

 イラク北部モスル。2014年6月、過激派組織「イスラム国」(IS)の前身組織が占拠し、その最重要拠点となった。処刑やむち打ち刑を用い、恐怖で住民を支配した。

 その冬、18歳だったアビールさんは、風邪を引いて病院に行った。警備役のようなISの男が、体をなめ回すように自分を見ていた。

 2日後、あの男が自宅に来て、父に告げた。「娘をもらう。俺の妻としてな」

 「これは命令だ。従わなければ殺す」。家族が危険にさらされる。男に嫁ぐと決めたが、父は「死んでもお前を渡さない」と言ってくれた。

 だが1カ月後、父と、17歳の弟が連れていかれた。今も消息はわからない。殺されたのだと思う。

 アビールさんは、「ISの妻」になった。約2年半の間に外出を許されたのは、男と買い物に行った3、4回ほどしかない。

 妊娠した。「父と弟を殺し、家族を壊した男に抱かれるのがどれほど屈辱で、忌まわしいことか」。ISの子どもなど欲しくはなかった。でも、地獄のような生活のなか、その存在が唯一の希望になった。

 17年7月、モスルは解放された。男は行方不明になった。だが、「ISの妻」の汚名は消えない。周囲に知られれば報復されるかもしれない。

 だから、偽名を使う。

 IS支配下で生まれたアビールさんの7歳の娘と5歳の息子は身分証を持たない。このため、学校にも行けない。唯一の希望は、弁護士に600万イラクディナール(約59万円)を払い、身分証取得の手続きをすることだ。

 日本円で2万8千円ほどの月給では、貯金する余裕などない。どれだけの時間がかかるかわからない。それでも、必ず学校には行かせたい。

 「子どもたちが、私のすべてだから」
     ◇
 苛烈(かれつ)な統治で住民を支配したIS。モスルが解放されて5年が過ぎた。復興は着実に進むが、人々の苦悩は消えてはいない。(モスル=高野裕介)(5面に続く)

▼5面
がれき残る街、復興の希望 イラク・モスル、解放5年

(1面から続く)
 熱風にのった異臭に、思わず息を止めた。過激派組織「イスラム国」(IS)の最重要拠点だったイラク北部モスルで、最激戦地の一つとなった旧市街のミダン地区。がれきの山が目に飛び込んだ。

 「この3カ月だけで、がれきの中から9体の遺体が見つかった」。防弾チョッキを着て、不発弾や地雷の処理をしていた男性が言った。気温45度。異臭が、今も残る遺体のものかどうかはわからない。

 一方、復興の足跡は確かに見えた。すぐそばの市場にはアーケードが設けられ、魚や肉、スパイス、日用雑貨など、小さな店が軒を連ねていた。

 「まだ売り上げは、ISが来る前の半分ほど。でも、店も増えてきたし、徐々に良くなっているよ」。ヤセル・ムバッシルさん(36)が、笑みをこぼしながら商品の茶葉の山をなでた。

 ISから解放されて1年以上が経った2018年冬、500万イラクディナール(約49万円)を費やし、戦闘で破壊された店を再建。「もっとにぎわってくれることが今の希望です」

 モスル市の復興事業担当アドナン・マフムードさん(41)は、「破壊がすさまじく、どの地区を歩いているかもわからない状態だった」と、当時を振り返る。それでも、道路などのインフラの約8割は元の状態に戻した。中央政府からの資金援助も昨年は18、19年に比べて30倍以上に増えた。「あとはどうやって市民を戻していくかが課題です」

 ■戻れない、父はISだった

 直射日光が照りつけ、気温は50度に迫る。約6千人が暮らす、モスル近郊の避難民キャンプを訪れた。

 テントの日陰に座る、5人の兄弟に声をかけた。1~2カ月ほど前に電気が止まり、猛暑でテント内にいられないという。長男のワアダッラー・ラブラビさん(23)に約4メートル四方のテントに入れてもらうと、まるでサウナのようだった。

 ワアダッラーさんは地元モスルの解放後、キャンプに身を寄せ、母と妹弟8人と援助を受けて暮らす。朝食はヨーグルトとお茶、昼は米と豆のスープ、夜はヨーグルトとパンとお茶。1週間に1度、鶏肉が口にできれば弟たちが喜ぶ。

 住む家がない、仕事がない。モスルに戻れない理由は様々だが、会話を続けていると、ワアダッラーさんがつぶやいた。「父さんがISだったから」

 タクシー運転手だった父は、ISに加わった。モスル奪還作戦の最中、父は家を出たきり行方がわからなくなった。「僕もISの思想を信じた。でも今は違う」とワアダッラーさん。地元に戻れば、どんな報復を受けるかわからないという。

 実際、ISにひどい仕打ちを受けた住民は、怒りが消えない。モスル旧市街に暮らすユセフ・ファトヒさん(49)は、「ISの家族が近所に住めば、家を燃やしてやりたい」と言った。市民の脱出を手伝っていたことがISに知られ、300回のむち打ちの刑に処された。首や背中の痛みのせいで今も仕事ができない。「私は絶対に許さない」

 国際移住機関によると、イラクでは約118万人が避難民のままだ。56%がモスルがあるニナワ県の出身者で、モスルの人たちは約24万人にのぼる。支援団体によると、避難民には「ISの家族」も多く、帰還をためらう人たちがいる。(モスル=高野裕介)

 ■「戦闘員6千~1万人潜伏」 7月の国連報告書

 イラク政府は17年末、ISの掃討完了を宣言。ISは19年3月、シリアにある最後の「領土」を失った。最高指導者のバグダディ容疑者は同年10月、米軍の急襲で死亡し、今年2月には後継の指導者も失った。弱体化の一途だが、中東やアフリカでゲリラ型の攻撃を繰り返し、完全に排除しきれていないのが実情だ。

 今年7月の国連の報告書は、ISが依然、力のある持続的な脅威であるとし、イラクとシリアで6千~1万人の戦闘員が潜伏していると指摘。資金源について、恐喝や身代金目的の誘拐などを挙げている。

 2022/10/03
楔形文字と『ギルガメシュ叙事詩』   現存最古の文字と『物語』

先日手に入れた「楔形(クサビガタ)文字を書いてみよう読んでみよう古代メソポタミアへの招待」という、触書のまえがきに、
 今からおよそ5200年前のメソポタミア(メソポタミア文明=詳しく出ています)で人類は文字を手に入れました。 それが楔形文字です。 これにより、覚えきれないほど大量の情報を記録することが初めて可能となり、それまでとは革命的に異なる社会が成立しました。 さらに、時間を越えてことばが伝わるようになり、歴史が始まりました。
 5000年以上前のメソポタミア文字と聞くと、現代の日本に暮らす私たちには縁遠いものに思われるかもしれません。 ところが、読者の皆さんは楔形文字に意外な親近感を覚えるはずです。 というのも楔形文字には音読みと訓読みがあり、「漢字」「かな」交じりの表記をおこない、送りがなをふることもあるからです。 これほど日本語に似た表記システムをもつ文字はないのではないでしょうか。
 この世界最古の文字を中学生以上の読者にわかりやすく紹介するのが本書の目的です。 本書を片手に童心にかえって粘土遊びに興じながら、楔形文字に親しんでいただけたらうれしく思います。 以下略             池田潤
このまえがきを読んだとたん、日本語とまったく同じ表現方法をもつ言葉に驚いたのです。 日本語は5000年も前の話言葉そのままの形式を続けてきているのではないのか。

文字は使わずに話(ハナシ)言葉そのままの形で、語部(カタリベ)たちは日本語を伝えてきたのではないか。 中国から漢字が伝えられてから、つくえもいすも机や椅子というツクエやイスという楔形ことばの発音をつけたと考えられるのです。

表音文字としての平仮名片仮名を調べてみるとすべて漢字から取り入れたと説明しています。 そう言えばそれもそうだとして理解してきた。 けれどもヨセフ・アイデルバーグ著『大和民族はユダヤ人だった』や、ラビ・マーヴィン・トケイヤー著『日本・ユダヤ封印の古代史』には、いたるところに生活様式や言語表現の類似性が実証されているのです。
  アイデルバーグ『大和民族は~~』たま出版、S.60、\.1,100
  トケイャー『日本・ユダヤ~~』徳間書店、1999年、\.1,800
今回楔形文字の本を見ていると、現在では三冊とも首尾一貫して語られているのです。 まずは間違いないと判断しています。

ただし、歴史的にはいろいろの流れを伴って変化してきており、しかも日本特有の包容力や同化性があると私は感じているので、民族の歴史の流れの中へインドや中国などの東アジアの特性を多分に共有していると感じいおります。 こうしたことをくるめて、日本の文化という場合、私は平安文化から始まっているように思っています。 民族性や文化性を含めて、日本は独自の性質をもっている国家だといえるのです。 温厚な面や互助互恵の面や、協調性を私たちは共有しているように思います


楔形文字の解読ができるようになって、解読していたのは粘土板でした。 だから、一つの事柄をまとめて記録することは大変でした。 こうした状況でしたから、楔形文字を使った『ギルガメシュ叙事詩』のような短い詩的なこま切れにならざるを得なかったのでしょう。

それでも解読者は出土してくる楔形文字の粘土板をつなげて編集してきたのです。 これは大変な試行錯誤の努力をしなければできない作業であったと思います。 読みにくいと思いましたが、編集者の手を加えることができない性質もあり、粘土板の表現を大事に取り扱ったことに思いをいたしました。 簡単な作業ではなかった。

洪水で方舟をつくって命をつないできたことも出てきているのです。 通常には聖書に出てくる「ノアの方舟」、それは <http://www2u.biglobe.ne.jp/KA-ZU/kouzui_1.html>(クリックして見て下さい) に出てくるように、
マルマラ海の海水が峠を越え、海面より低い淡水湖に乱入して黒海が誕生した  ―大洪水の記憶が、後にノアの方舟伝説を生んだ― というのです。  
<http://www2u.biglobe.ne.jp/KA-ZU/kouzui_1.html>
このURLを開いて、実は驚くほどびっくりしました。

戦後長野にいるとき、むかしのことドイツ人の少年シュリーマンは絵本でトロイ戦争を見て「こんなことがあったのか。これは凄い。大きくなったら調べよう」と好奇心に火がついたのです。 彼は青年になってからお金をためトロイの戦跡を発掘し、ギリシャのクレタ島の丘に立ち迷宮と言われたクノッソス宮殿(名家に生まれたエヴァンズは父親の影響で考古学に進んだ。父の友人であるシュリーマンが古代ギリシアの詩人ホメロスの叙事詩に登場するトロイア戦争の伝説に触発されてトロイア遺跡を発見したことに大きな刺激を受けた。自分も遺跡を見つけたいと思ったエヴァンズはクレタ島に赴いた。)も発掘し、ギリシャの昔を明らかにしたというのです。
以上の思い出は実際とは(カッコ書きのエヴァンズ)の点で違いがありました。 シュリーマン(『古代への情熱』=シュリーマン自伝)は日本にも来ていました。 いずれにせよ、彼の好奇心がギリシャ文明を明らかにしているのです。
子どもの頃の好奇心は如何にだいじなものか、私は心を打たれたのです。 でもその後すっかり忘れていました。

「ノアの方舟」について好奇心があったので調べていて、てっきりジブラルタル海峡からその昔地中海が湖だったころ陸地の変動によってジブラルタルを大西洋の海水が乗り越えてきて大洪水になったと推量していました。 この海峡の東西の断面図を見たこともあり海峡の東側がざっくり彫られていたのを理解したのです。 そしてそれがあの「ノアの大洪水」と思い込んでいたのです。 でもそのことは、歴史書には何も書かれていないから「おかしいな」と思っていたのです。

ところが昨日上記赤色のURLに出会い、腰を抜かすほど驚いたのです。 読んでいくと、

  『コロンビア大学の地質学者ウィリアム・ライアンとウォルター・ピットマン
  の二人の学者が黒海に起きた大洪水を研究していて、この数年には研究論文が
  発表される』という記事である。1998年に研究論文が発表された。
  以下の文章は(「ノアの洪水」ウィリアム・ライアン ウォルター・ピットマ
  ン著 集英社刊 2003年)から大洪水の経過を紹介するものである。補強する
  ために他の資料も併せて紹介している。

この記事に出会いました。 凄い!! 20年ほど前のことだったのです。 詳細な記事が出ていたのです。
  『ノアの洪水』集英社刊 2003年
すぐアマゾンで手に入れることが分かり、購入手続きをしました。

人にとって、どんなことでもいい、これはナンダモンデという好奇心ほど大事なものはないんだ。 私はほんとにそのことを確信し、凄い!!、これが合理的判断なのだとおもいしったのです。 好奇心ほど大事なものはない。 これをテーマにして近いうちに所存をまとめるつもりです。  
現在の黒海は、周りをロシア(北)、グルジア(東)、ウクライナ(西)、ブルガリア(西)、トルコ(南)に囲まれた内海である。 広さは約46.1万平方キロメートルで日本の本州ほどである。名前のとおり海面は黒く透明度は低い、明るい青色のエーゲ海から、黒海に入ると不気味なイメージを抱くようである、古代より黒海は不思議な海であった。

エーゲ海からダータネルス海峡をすぎマルマラ海に入る、次に狭いボスポラス海峡が見える、狭い所で幅は700メートルから4キロメートルである。この海峡に吊り橋が架けられたのは1973年(1074メートルの橋)と1988年(1090メートルの橋)である。イラストではボスポラス海峡をやや強調して広く描いてある。

この二つの狭い海峡が、大洪水の舞台である。科学的立場から伝承の大洪水伝説を解明する近年の研究を紹介する。

1996年12月、ニューヨークタイムズに注目される記事が発表された。

『コロンビア大学の地質学者ウィリアム・ライアンとウォルター・ピットマンの二人の学者が黒海に起きた大洪水を研究していて、この数年には研究論文が発表される』という記事である。1998年に研究論文が発表された。
以下の文章は(「ノアの洪水」ウィリアム・ライアン ウォルター・ピットマン著 集英社刊 2003年)から大洪水の経過を紹介するものである。補強するために他の資料も併せて紹介している。

《黒海の歴史》淡水湖の湖が大洪水により海とつながり黒海が誕生した。この時の洪水がノアの大洪水伝説となった。

紀元前7600年前頃

黒海とマルマラ海を分けていた堰が、海水面の高いエーゲ海の圧力に負けて大崩壊した。大量の海水が、大滝となって低い黒海に降り注いだ。その勢いは時速80キロメートルを越えるものだったらしい、流入した海水は淡水湖であった黒海を現在のような海水湖に替えてしまった。黒海の水面もおよそ55メートルほど急激に上昇した、元は現在の広さより20パーセントほど狭い湖だったらしい。突然の洪水は、水辺に住んでいた先史時代の人類に押し寄せた、人は水に追われ少しでも高いところに逃げた。足の遅い子供や老人・女性は村と共に溺れ死んだ。崩壊が昼間だったのか夜だったのかはわからないが、岡を越える不気味な音は、岡が崩壊する前から人々を不安な心理に落ちいらせていたに違いない。

エーゲ海から黒海までは約31キロメートルの狭い谷があり、そこを徐々に海水が越えてきたのである、海水が押し寄せる不気味な音はだんだんと近づいてきた。しかし当時の人々には、その音が何なのか分からなかった。

逃げた人々は、今のヨーロッパやイラン・イラクの古代文明発祥地方面に逃げた。ギルガメッシュ神話にも洪水の伝説がある。これらから旧約聖書の「ノアの洪水」伝説に継承されていった。一般的な類推では、ノアの洪水の原因が分からなかったために、神の怒りによる大雨洪水を考えたのではないかと思う。

本当の洪水原因……今から20.000年前

大規模な氷河の融解が始まった。黒海は氷河から流れくる水により淡水化され、最後には淡水湖なった。そのころ、地中海の海面は今より数百メートルも低かった。黒海(淡水湖)からマルマラ海へ淡水が溢れ流れていたほどである。その証拠は、ボスポラス海峡の10.000年前の沈殿物に黒海から流れ出る淡水の跡が発見された事で証明される。黒海の沿岸から、低くなった海面により露呈した地面を渡り、人類がアフリカから黒海付近まで進出していたらしい。湖の水辺には、狩猟や簡単な農業も始まり定住していたのではないか。氷河時代の終わりと共に氷河から溶け出した淡水は海に流れ出し、徐々に海面を上昇させた


15.000年前

氷河は完全に後退した。氷河期の終わりかと思われたが、12.500年から1000年間は氷河期(ヤンガー・ドライアス)が再び地球を支配した。雨が降らなくなり黒海の水面も水の蒸発により低下した。マルマラ湖への流失も止まり、黒海は孤立した淡水湖となった。人も寒さに耐えられず逃げ出した。

7600年前

地球に 暖かさが戻ると人々は湖の水辺に戻ってきた。しかし、ついに地中海(エーゲ海)の海面上昇が、黒海につながる渓谷に注ぎ始めた、ナイアガラ瀑布の200倍に当たる海水が勢いよく流れ込んだ。ほぼ一年にわたり、渓谷を轟音と共に海水は黒海を目差した。マルマラ海をいっぱいにすると、ボスポラス海峡の堰を越え、音を立てて注ぎ始めた。一気に湖の水面が上昇して人々の集落を押し流した、流れ込んだ海水は黒海の水面を55メートルほど上昇させた。日本の災害で報道される大規模な鉄砲水を想像すればよい。

生き残った人々は上記のように周辺各地に逃げ「洪水伝説」を創り語り継いでいった。この時に水没した沿岸の集落を探す試みもあるが、今だに発見されたという確実な報告はない。その後、海底のカメラ探査によると「淡水湖時代の岸辺に人の住んだ形跡が発見された」との報道もある。

上記の説は間違いだという学者もいる
ウィリアム・ライアンとウォルター・ピットマンの説は間違いである。洪水伝説にはいまだに決着の付かない論争が続いている。

不思議な黒海の自然

地中海から流入した海水は塩分濃度が濃く、淡水の黒海に混ざると塩分濃度の少ない海水となった。あとから流入した地中海の海水は底へ溜まり、軽い黒海海水は上になった。水深200メートル下は酸素のない無酸素層になり生物は生存できない。この無酸素層ができたのは海水が流入したボスポラス海峡のみであり、比重の関係で酸素が充分に混ざらないためと言われている。

ボスポラス海峡は、幅700メートルから4キロメートル、水深30メートルから100メートル、長さ31キロメートルと狭い海峡である。

宇宙から見た黒海…スペースシャトルから見た写真

英語版のウィキドペア(百科事典)に宇宙から見た黒海と周辺などの写真が見られる。