【目次へ】 人生100年時代をどう生きる? 英国グラットン女史教授
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【 03】01/08
阿修羅って何者?
2023/01/08
人生100年時代をどう生きる?
今朝珍しく、昨夜の満月が風越残の頂上に隠れるのを見た。 初めての情景を見て驚いた。 暦を見るとゆうべは満月でした。
テレビ放送を見ていたら、女性のリンダ・グラットンさんへのいろいろの質問で出ていた。 「人生100年時代をどう生きる?」世界的ベストセラー著者リンダ・グラットンと三宅民夫が対談していました。 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB041XM0U3A100C2000000/ の動画で視聴できるという。
「子供や孫を箱の中へ入れていてはいけません。 一人ひとり、自分で生きていく一つの技能を磨き、世界のどこへでも羽ばたけるようにしてあげなさい」私が聞き取ったのはこのことでした。 経験が豊かだからと言って年配者が指さして導くようなことはしてはいけない、こういう趣旨でした。
生まれたままでほっといていいはずはありません。 宿業期の養育は欠くことができないのです。 その後の進み方は、自分で自由に羽ばたけることができるように技能を身につけよと、言っているのだと理解しました。
これについては、企業の成功者稲盛和夫さんの「運命、因果の法則、利他の心」を重視する考え方の主張もあります。 そこで、運命とは何でしょうか、という言葉で検索してみると、
「運命」とは、「人間の意志を超えて、人に幸や不幸を与える力」という意味の言葉です。 また、そうした力によりもたらされる幸や不幸のめぐり合わせについても言います。 「2人がここで出会ったのは運命だ」「非情な運命に翻弄された人物」のように使われます。
と、説明しています。
そして因果の法則とは、「過去に作った何らかの原因のために、未来の結果は決まる」というこということです。 法則という言葉でなくても昨日のことが今日に結果として現われると言っても差しつかえはないと言えます。 私はお釈迦さまの言う宿業、今を中心とした因果を大事にしています。
もう一つの利他の心とは、黄金律そのものとおもいます。 これは誰も不要だと言う人はないでしょう。 漢字でかく仁や恕でもいいし、日本で使う天でもいい。 お釈迦さまで考えるとすれば悟りとしてもいいだろうと思います。
それでは宿命とは何でしょうか、という言葉で検索してみると、
「宿命」とは、「生まれる前の世から定まっている、人間のさだめ」という意味の言葉です。
と、説明しています。
運命や宿命の理解で、人の生涯を考えてはいけないと私は考えています。 生まれる前の世から定まっていると言う宿命の考えは、まったく理屈に合っていません。
では運命について考えると、人間の意思を越えて幸・不幸を与えると言えば、身体的なことか或いは精神的のことか普通でない状況の場合であり、大部分の人をくるめてこういう考え方をするのは不当なことなのです。 だから、この運命説も合理的とは言えないと言えるのです。
何故運命で人の生涯の考えをもち出すのでしょうか。 生涯の大筋を左右するものと考えるとすれば、この考えは怪しいものなのです。 では運命という考えをどう考えればいいのでしょうか。
私は、第一段階として満三才までと第二段階として満六才ころまでは、すべてとは言えないにしても一人前として考えない方がいい、とずっと前から考えてきています。
なんだもんでか?
理由はこうなのです。 人は他の動物と違ってまだ未熟児として生まれるからです。 ほかの動物或いは生きものとしての植物は、そのスタートから一人前の活動を始めることができるからです。 山羊や豚が生まれて次の日からは喜んで駆けまわり腹がへれば母親の乳房に吸いついて活動が始められています。 野菜の種子をまけば、その種子はたちまち土の中の水分を吸収して芽を出す準備を自分ではじめ生育を進めることができるのです。
ところが人間は自分からオッパイを吸うことも、歩くこともできないのです。 未熟児として生まれると言う言葉は不穏当に聞こえますが、一人では何もできないことは事実なんです。
私はこうした理由から、第一段階から第二段階頃までは、一人前になる前として親の庇護が絶対に必要となると考えています。 動植物と比べて違うこの事実を、よく理解しておかなくてはならないのです。 私の説明は違うでしょうか。 小中学生に話をすれば、きっと「 …ンだ、…ンだ、その通りだ。よくわかるよ」というに違いないと思っています。 これが合理的な理解のしかたなのです。 お釈迦さまの言うとおり、子どもでも判るように話さなくてはならないと思います。
理由が分かったとすれば、なぜ運命という言葉が出てくるのかを考えなければなりません。 それはなんだもんでか? 山羊を見ているとどの子もどの子も、同じように発達してきているのです。 未熟児として生まれてはいないのです。 親子のきずなも出来ています。 絆という文字は、一本の糸を半分ずつ持っていることを象徴しています。 象形文字から受ける感覚で見ればいいのです。 へその緒は、もともと自分と母親がつながっていたから、絆の漢字は作られたに違いありません。
この絆ゆえに、赤ちゃんを一人前まで面倒を見て一人前まで養育しなければ、山羊の親のように、我が子を一人前の人に育てることはできないのです。 私が勝手に理屈を書いているわけではなく、この養育を実際にしたかどうかが、運命という言葉として表現されていると私は解釈しています。
親がどのように養育してきたのか、それを書き残してあって知ることができるのは、18世紀初頭のカール・ヴィッテという人でした。 それまでは、そうした幼児教育について書いて遺されたものは見当たりません。 18世紀になってはじめて、ヴィッテが書き残した『カール・ビッテの教育』(カール・ヴィッテは自分の子どもも同じヴィッテの名前をつけています)1000ページにもなる長い本だったため、あまり読まれずにいたが、この本を19世紀になってハーバード大学の図書館で読んだ人が「これは凄(スゴ)い」と感じたのでしょう。 その人は真似て我が子を教育した結果、素晴らしい子どもになったので、一躍幼児期の教育が爆発的な影響を巻きおこしたと思います。
日本で始めて出版された早期教育の本が、木村久一著 『早教育と天才』 です。 この本は一度は読んでほしいと思います。 内容の概要は〔 0歳教育参考資料 〕(要クリック)の【七 才能】早教育と天才、に収録してある【早教育と天才①~③】 …日本における早教育紹介の草分け<大正六年>… に記録してありますから、ぜひ読んでいただきたいのです。
アメリカではこの幼児期養育方法の影響によって、多くの人が実践し効果を上げています。 その一つとして世界的にも拡大している ‘ドーマンメソッド’ があります。 知能障害児の教育にあたっていたグレン・ドーマンは、児童が ‘ドッツ法’ など驚くほどの知見を発揮することを見つけ出したのです。
日本で『カール・ビッテの教育』流の考えの広がりから「胎内教育」の本が出版されたのは、舘林実子さんが文通相手のアメリカ人スセディックと結婚し、主人から胎内教育を熱心に進められその気になって4人の赤ちゃんを育てた体験記録『胎児はみんな天才だ』だったのです。
『胎児はみんな天才だ』ジツコ・スセディック著 祥伝社 1986初版
“子宮対話”の驚異
〔 0歳教育参考資料 〕の中の【三 井深 大】で紹介している中に、『0歳(教育の最適時期)』ほかがありますが、著書を読むことがいいのですが、WEBでも概略が出ていますから、下記を開いて読んでみてください。
ソニー創業者・井深大が49年前に提唱した「ゼロ歳教育のすすめ」
https://bunshun.jp/articles/-/5612
箱入り娘という言葉がある。調べてみると https://smartlog.jp/143412 このサイトには多角的な解説心得が出ています。 調べた限りでは一般的には家庭的な傾向だから、新しい発想とか積極性にかけるように思います。 世界が大きく変わろうとしているこれからの時代には向いていない感じで、「人生100年時代をどう生きる?」という著者リンダ・グラットンが想定するような箱入りの女性と思われる。
とすると、グラットンさんはやはり別の意味で言うのだと思われる。 私は、やはりモーセの言う内容から考えれば、いのちの伝承を感謝することと共に、生活へのワクワクするような希望をもつ生き方を目指すことが至上の願いだと思います。
そう考えてきますと、親二人の考えの活動よりも同じ考えをもつ人たちのグループを作り、いろいろと話合いをしながらより良い方向を求めることが大事なことと思うのです。 それは、子どもが同じ年齢になるようにグループがいいし、この仕組みは村という行政サイドとの協力が大事になると考えます。 どういう方向でどのように進めていけばいいのかお互いが知恵を出し合い、「文殊の知恵と言われる道理」や「広く会議を興し公論に決すべし」という五ヶ条のご誓文を旨としていくといいのではないかと案ずるのです。
この「子育てグループ」は最低でも五年、必要なら七年間くらいは継続したいものです。 「因果の原理」からいえば、村の将来ひいては国の将来のためにも大事な国民の育成にかかわることであるに相違ないのです。 ですから、行政機関にもそうしたことを理解してもらって、少なくとも母親だけでも月給に相当する経済上の援助を願うようにしたいし、再就職がスムーズにいくような計らいにも努力してほしいと私は思っています。 こうした組織化が子育てに必要なのです。
以上のことを考えて、英国のリンダ・グラットン教授に応(コタ)えたいのです。
おわり
日本史, 歴史, 美術・芸術
阿修羅って何者? 3面の顔と6本の手にそんな意味が?
阿修羅(あしゅら)って人気がありますよね、
仏像の展覧会でも、興福寺の阿修羅像(国宝)が出展されると、観客動員数が増えるようです。
【興福寺阿修羅】
マンガやゲームなどでも、阿修羅は常に、人気のキャラクターですよね。
姿は、異様だけど、シンメトリーでバランスがとれていて、何か神秘性を感じさせます。
でも・・・ 阿修羅って、一体どういう存在なんでしょう?
なぜ「顔が3面」「手が6本」なのか? その意味は?
今回は、そんな「阿修羅」について迫りたいと思います
1 阿修羅って一体何者?
2 阿修羅の顔と手
3 まとめ
4 あとがき
阿修羅って一体何者? まずは、阿修羅って一体何者のなのか?
阿修羅とは興福寺の仏像(国宝)が有名です。 お寺にある仏像なのだから、阿修羅は、仏教からルーツ?
実は、これが違うんです。 元は、古代インドの神様で、名前は「アスラ」と言います。
その音読みから、日本語では「阿修羅」という字があてられたようです。 アスラの「ア」は、否定を意味しています。 「スラ」のほうは、「 神」 という意味と、「酒」という意味の2つがあります。
この2つのどちらをとるかで、アスラの解釈が分かれています。
神ではない者
「 スラ=神 」と解釈するほうは、ア(否定) ・ スラ(神)なので 「神ではないもの」という意味になります。
神の様な力を持っているのに、神ではないもの。 じゃ、悪魔!? かというと、 悪魔ではないんだそうです。
ちょっとイメージしにくい存在ですよね。
あえて例えるなら・・・ スターウォーズの「ダースベイダー」ってところでしょうか・・・?
では、ア(否定) ・ スラ(酒) のほうはどうでしょう。
禁酒の神様
酒を否定するので、,B>禁酒の神様 ということになります。
なんか、イメージが一気に、ダースベイダーから、飲酒運転取締りの、おまわりさんに・・・
インド神話で、アスラがなぜ禁酒の神となったのか、これが、実はひどいんですよ・・・・
アスラが、海の水が塩辛いのが気に入らなくて、様々な花や植物をとってきて、海に投げ入れるんですけど、味が変わらない。
そのことに、キレて酒を断ったことから、酒を飲まない神になった(禁酒神 または 無酒神)
読んでいて、ほとんどの人が「オイオイ・・・」ってなると思います。
さて、次に紹介するエピソードでは、阿修羅の実像に迫っていきます。
戦い挑み続ける者
インド神話において、アスラは、インドラ(力の神)とずーっと、戦っています。
インドラは、インド神話最強の神です。
「インドラの光」と呼ぶカミナリ(稲妻)を武器にしています。 まさに、ギリシャ神話の最高神ゼウスと同じ武器です。 アスラが、いくらい強いとはいえ、インドラには永遠に勝つ事が、できません。 アスラは、なぜ勝てない相手にずっと戦いを挑んでいるのでしょう?
実は、アスラが怒るのには理由がありました。 アスラには、舎脂(しゃし)という娘がいたのですが、インドラに無理やり連れていかれてお后(きさき)にさせられてしまいました。 海水の塩味が変わらないくらいでキレちゃう性格ですから、それは・・・怒ったでしょうね。
でも、舎脂(しゃし)は、実はインドラの元で幸せに暮らしていたんですが、それを知ってか知らずか、とにかくインドラに挑みかかっていきます。 インドラって、一説では494,900人もお妃がいたそうです。 大事な娘をそんなヤツにとられたのが、気に入らなかったのかもしれません。 最終的に、インドラはアスラを、天から追放してしまいます。
仏教の阿修羅 と 帝釈天
さて、ここまではインド神話の話でしたが、この話が、ほとんどそのまま、仏教の話になります。
アスラ = 「阿修羅」(あしゅら)
インドラ = 「帝釈天」(たいしゃくてん)
帝釈天は、仏教の中の位置づけとしては・・・
如来(にょらい)
菩薩(ぼさつ)
明王(みょうおう)
天(てん)
4番目の天に属しています。 この天には、毘沙門天や広目天などの、四天王も含まれます。 帝釈天は仏法を守護する仏の長で、四天王も従えています。 例えるなら、警察庁長官といったところでしょうか。
さて、話を阿修羅との戦いに戻します。 仏教のおいて、阿修羅は、やはり帝釈天には勝てません。 そして、いつの間にか・・・ 戦うことそのものに「執着」するようになり、止めるに止めれない状態に陥りました。 この状態を「修羅場」(しゅらば)と呼びます。 ドロ沼にはまったような、争いごとを「 修羅場 」と言うのは、ここからきています。
やがて、阿修羅は、六道(りくどう)の「修羅界」に鬼神として追放されてしまいます。 六道(りくどう)という、聞きなれない言葉が出てきましたが、これは仏教では悟りを開いていない、迷いのある者が、さまよう6つの世界の事を指しています。
餓鬼というのは、よく四天王に踏んづけられている小さな鬼がそうです。 阿修羅が追放されたという修羅界、人間界より下の世界だったですね。
その後の阿修羅
鬼神となり修羅界をさまよう阿修羅ですが、実は仏の教えに目覚め、やがて仏法を守護する八部衆(はちぶしゅう)になります。 めでたし、めでたし・・・・
さて、阿修羅が何者か については、以上です。
しかし、もっと気になるナゾが残っていますね。 阿修羅のあの顔と手・・・! 次に、それを見ていきましょう。
阿修羅の顔と手
阿修羅で気になるのは、やっぱり阿修羅
3面の顔
6本の手
三面六臂(さんめんろっぴ)ですよね
でも、実は、アスラは三面六臂ではありません。 また、顔や手の数が違うバージョンがいくつもあります。 日本では、興福寺の阿修羅像が、あまりにも有名なので阿修羅と名前がつくものは、三面六臂が多いようです。 興福寺の阿修羅像、最もナゾの多い阿修羅像ですよね。 帝釈天に挑みかかる鬼神なのに、まるで少年の様な姿です。 日本の阿修羅像の原型ともいう、興福寺の阿修羅像の顔や手の意味するところを見ていきましょう。
阿修羅像・三面六臂
■三組の手
興福寺の仏像は、手に何も持っていませんが、興福寺曼荼羅によると次のものを持っています。 おそらく、仏像にも、もともとは付いていたと思われます。
第一組の手 : 合唱している(何も持たない)
第二組の手 : 左手に日輪、右手に月輪 を持つ
第三組の手 : 左手に弓、右手に矢 を持つ
■3つの顔
憤怒の表情をしているものが多い阿修羅ですが、興福寺の阿修羅像は少し感じが違います。
・正面の顔:仏の教えに出会った瞬間(驚きと嬉しさのまじった表情)
・左側の顔:今までの自分を後悔している姿 又は
過ちを認めきれない姿(唇をかみしめている表情)
・右側の顔:人間界を哀れんでいる姿 又は 懺悔(ざんげ)をしている姿
(悲しげな表情)
左の顔 ⇒ 右の顔 ⇒ 正面の顔 と、阿修羅の成長過程を表している
ともいわています。
でも、顔は幼さが残り、子供の様に細い腕 をしています。 これには、なにかワケがありそうです。 どんなワケがあるのか、そこを次に見ていきましょう。
興福寺の阿修羅像は、なぜ少年の様なのか?
興福寺の阿修羅像を作らせたのは、光明皇后(こうみょうこうごう)です。 聖武天皇のお后で、711年に母親を亡くした時に弔(とむら)いのために西金堂(さいこんどう)を建て仏像を安置しました。
本尊は、釈迦如来像で、周りを十大弟子と八部衆が守ります。 阿修羅像は、この八部衆の一体として作られました。
実は、光明皇后、母親を亡くす直前に、生後間もない子供を亡くしています。 聖武天皇、光明皇后の悲しみは、相当深かったと思われます。 実は、興福寺の八部衆、この阿修羅以外の像も、まるで子供の様な姿なんです。
恐らく・・・・
光明皇后が息子の死をいたんで、子殿の姿の仏像を依頼をしたか、または光明皇后の気持ちを考え、誰かが、その様に作らせた そう思えてなりません。
阿修羅像の顔自体が、光明皇后の顔を映しているのではないか? という説もあります。
まとめ
・インド神話のアスラ
アスラとは「神ではないもの」 又は 「禁酒の神」、
インドラに娘を奪われ戦いを挑む、インドラによって天から追放
・仏教の阿修羅
インドラ=帝釈天 戦いそのものに執着してしまう
六道の修羅界に鬼神として追放
仏の教えに目覚め、八部衆に
阿修羅の顔と手(三面六臂)
・三面
正面顔 : 仏の教えに目覚める
左顔 : 後悔/反抗
右側 : 憂い/懺悔
・六臂
1手 : 合唱
2手 : 日輪と月輪
3手 : 弓矢
興福寺阿修羅像の姿
光明皇后が作らせた八部衆の一体 息子(皇太子)の死が影響と思われる あとがき
これ、本当かどうかは分からないんですが、興福寺の阿修羅像、暗がりで見るとめちゃくちゃコワいという話があります。 昔は、当然今の様に蛍光灯などありませんから、相当暗いはずです。 そんな暗がりでは、恐ろしい鬼神の姿に見えるように、昼と夜とでコントラストを分けたのかもしれません。 阿修羅って色々想像の膨らむ存在ですよね。
実は、阿修羅ってインド神話、仏教以外に、ヒンズー教やゾロアスター教にも登場して色んな話があります。 ギリシャ神話もローマ神話と、一緒になって話しが混沌としていますが、インドに関しては、もっとです。 今回、ご紹介したもの以外にも、色々な話があります。 これからも、色んな解釈で様々な阿修羅が出てくるのではないでしょうか。 それもまた、歴史の楽しみ方です。
https;//kenyu.red/archives/2355.html ※★阿修羅♪ (くりっく)
http://www.asyura2.com/index.html
すべての虚構を暴き、真実に到達しようとしている
誰によって 情報が流されているか
なぜ今 流されているか (情報操作の7原則)
事象解析
金の流れは?だれが利益を得るか
歴史上、その事象の時何があったか
どういう仕組みで動いているのか
※スピンドクターとメディアリテラシー (目黒川の畔にて)
出来事や話を自分自身に有利なように、そして政治的ライバルに対して不利なように描写する September 03, 2005
この6月にNHKブックスから出版されたばかりの「メディア危機」(アンドリュー・デウィット他著)という本を読む機会がありました。
古くて新しい問題として、メディアによる世論誘導という問題があり、最近では、政治的権力や経済的権力を持つものだけでなく、時としてメディアの発信者さえも意図しない方へ向かってしまうことがあると論じています。バッシングなどがその例として揚げられています。ある象徴となる国や人物が「悪」の根元であるかのようなイメージを作り上げることが出来れば理屈抜きに自らの政策の政党制を演出できる、と。シニカルな見方を提供することも読者に超越的観察者のような位置を与えることになり、重要事項にコミットすることを避ける傾向を引き起こすこともある、というのです。
スピン・ドクターという言葉があるのだそうです。政治においてある出来事や話を「スピン」するというのは、特にマスメディアを使って、出来事や話を自分自身に有利なように、そして政治的ライバルに対して不利なように描写するという意味があり、この様な仕事のために雇われている人々(例えばホワイトハウスの報道官のような人)は、多くの場合、「スピン・ドクターズ」と呼ばれるのだそうです。
多様な問題の報道に影響を与えたり、報道させなかったりすることに秀でた彼らの特殊な能力や訓練があり、例えば、他者の発言の戦略的引用、事実を注意深く取捨選択、憶測もさも事実であるかのように思わせる言い回しの熟達、衝撃的な出来事がニュースの中心となるはずの時に別の情報を流してその重要な問題を「埋めてしまう」姑息な手段、などがあるのだそうです。
読者としては、新聞や雑誌、テレビを見ることは、現実そのものではなくそれが構成されたものであり論理的に分析できるということを理解しないといけない、それがメディア・リテラシーの基本的メッセージであり、スピンの根底に潜む利害関係を理解し、そのスピンが利用している手法を見抜く方法を教えるというのがメディア・リテラシー運動となっているのだそうです。
先進国では、1980年以降、学校教育に於いてより洗練されたメディア・リテラシー科目が普及しているのだそうですが、スピン・ドクターのいる米国ではその運動が弱く、日本もまた、メディア・リテラシーや批判的思考の教育が殆ど行われていないと本書は断じています。
イラクでの女性兵士ジェシカ・リンチ救出劇の演出のされ方、イラクにあったとされた大量破壊兵器の存在証拠の捏造のされ方などを実例に挙げ、操作されないリテラシー訓練の必要性を畳みかけてきます。
情報操作が行われる局面で、二分法的報道が行われがちなことを繰り返し主張しています。日々視聴率や読者数の獲得競争に曝されているメディアは、二項対立の図式を使って、より分かりやすい記事や番組を作る傾向がありますが、二分法では解決不能なものが、分かりやすさで人々に受け入れられていく危険がある、と。大阪市の背広公費支給を報じつつ地方交付税削減を主張するなども二分法的報道の例だと紹介されています。
「官から民へ」という議論についても、公的部門のモラルが崩れている中で、官は悪で民は善だという議論が人々の耳に入りやすいが、民営化や規制緩和で市場に任せればよい結果になるというのは単純であり、民間企業でも銀行の不良債権隠し、BSEの日本ハム、雪印、三菱自動車のリコール隠し、JCOの臨界事故など数多くの民間企業にもモラル低下が見られ、問題は、日本の意識決定や組織の在り方そのもので、官も民も問題を抱えていると書いています。
軍隊まで民営化した結果、何が起きているかが、詳しく紹介されています。イラクでは、民間企業の提供する傭兵需要が「バクダッド・ブーム」と呼ばれ、民間兵士の賃金は正規軍兵士のそれを大きく上回り、しかも、民間兵士は訓練の程度や交戦規則を守る意志について均質ではなく、「傭兵たちはもっと危険だ」と言われている実態が紹介されています。形式上「民間人」であるため、軍隊による戦争犯罪を処罰するジュネーブ条約の隙間となってしまうのです。
誰が民間企業兵士の行動を監視するべきか、という本質的な問題を、多くのメディアは迫ろうとしないと、この本では指摘しています。
医療保険を民営化した米国で、結局のところ、途方もない非効率と格差を生んでいるという実態も紹介されています。他の先進国での医療保険設計の「唯一の支払い者」制度から生じる購買者独占が、米国には存在しないことから、米国では、医療サービスに大きな無駄が生じ、価格のコントロールが困難になっているのが原因と整理されています。
ステレオタイプなイメージ形成が行われる過程に関し、「確証バイアス」と「外集団同質性バイアス」という原因要素があると紹介されています。「確証バイアス」とは、自ら見たいものや見ると予測したものだけに注目し、その固定概念に反する証拠を軽視する傾向であり、「外集団同質性バイアス」とは自ら属する集団のメンバーを他の集団のメンバーよりも多様だと考える傾向であるのだそうです。
メディアによる情報操作の危険性を巡って、既に1920年代にリップマンとデューイの論争があったことも紹介されています。リップマンは、公正無私なメディアが的確な情報をもたらし、市民が投票の際その情報をもとに決定を下すという考え方を酷評し、参加型民主主義という幻想を捨て、私心のないエリートに政策の討議や決定の殆どを任せるべきだというものであり、これに対して、ディーイは、教育により市民や有権者に懐疑的意識を植え付け、この意識の普及によりメディアや政府を人々のコントロールのもとに置くことが可能になるとの考えであった、というものです。
さて、現在の評価はどうなのでしょうか。リップマンとデューイが論争を始めた地点からそう進歩せず、前進するチャンスも生かせていないけれども、メディア・リテラシーの教育を制度化し、地方分権や参加型民主主義を導入することで、扇動されない国民を作っていくしかないと結論づけています。
不正確ないし意図的な情報の洪水の中で、冷静に現実を見据え、報道内容を批判的に読み解くことの必要性が、実例を交えながら説かれており、今の時代に即応したメディア・リテラシー論の到達点だというのが読後の感想でした。
※世の中に騙されず生き抜いていくコツ 内海聡
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/265.html
社会システムの裏側を知る以前の問題として。
講演などで聞かれることにこのような話であったり、どのように情報を見ていけばよいのか、今後の世の中を鑑みたうえで内海はどうするのか、ということを聞かれます。これにもまた正解はありませんが、確実にこうした方が良いと言えることはいくつか存在します。それは調べ方でもあり考え方でもあり、人生哲学でもありますが共通の法則があります。このことはネットで情報を広げている人レベルなら、みんな理解していることでもあります。
まず情報の取捨選択や判断の仕方ですが、その情報や科学的データを見る前におさえておくことがあります。それはおカネの流れをみること、企業や体制の影がないかみること、大手に流れている情報(=噓がほとんど)であるかどうかみること、ネットならSEO対策されてないかみること、きれいごとから入っていないか(=詐欺師の基礎パターン)みること、そしてネットは各論調べにしか役に立たないことを知ることの重要性です。
世の中に騙されないためには詐欺師の特徴を知っておく必要があります。詐欺師はまずレッテル張り=病名付けを重んじ、科学的根拠を提示するよう主張しますが自身の根拠は御用学者レベルだったりします。詐欺師は必ず聞き心地が良いことを述べたり書いたりし、結論ありきで語るため反対側の情報を見たり提示したりはしません。そして詐欺師はどこの誰かわからなかったり、逆にスポンサーがついていることがほとんどです。
世の中で混乱が起こる時、いつもいい人のふりをする第三者が対立する双方に介入し、内ゲバのようなものが起こるのが特徴です。そして双方もまた自分を受け入れてほしい症候群のようになっており、それを第三者は上手く利用して双方の対立を深めていきます。しかしそれでも表向きはとても良い人としてふるまっており、ここに書かれているような視点がない人はだいたい見抜くことができなかったりします。
人を判断する時もその人の言葉ではなく行動を見、何をもたらしているかを観察することが騙されないための基本です。同様に国も企業もそうであり、騙されずに世知辛い世の中でサバイバルしていくためには、情報などより生物の原則であったり、人間心理の摂理であったり、人間の深層心理が一体なにをもたらすかであったり、自然界の法則であったり、を知る必要があります。これを知れば陰謀論的構図など二の次になってしまうのです。