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続折々の記 2023 ①
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 08 】01/29
母こそは命のいずみ 野上弥生子
2023/01/29
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E4%B8%8A%E5%BC%A5%E7%94%9F%E5%AD%90
1952年に撮影
誕生 1885年5月6日
日本の旗 日本・大分県臼杵市
死没 1985年3月30日(99歳没)
日本の旗 日本・東京都世田谷区成城
墓地 東慶寺
職業 小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 明治女学校
ジャンル 小説
代表作 『海神丸』(1922年)
『大石良雄』(1926年)
『真知子』(1928年 - 1930年)
『欧米の旅』(1943年)
『迷路』(1948年)
『秀吉と利休』(1962年-1963年)
『森』(1972年 - 1985年)
主な受賞歴 読売文学賞(1958年)
女流文学賞(1964年)
文化勲章(1971年)
朝日賞(1981年)
日本文学大賞(1986年)
配偶者 野上豊一郎
子供 野上素一(長男)
野上茂吉郎(次男)
野上耀三(三男)
親族 長谷川三千子(孫)
野上 弥生子(のがみ やえこ、本名:野上 ヤヱ〈のがみ やゑ〉、旧姓:小手川、1885年〈明治18年〉5月6日 - 1985年〈昭和60年〉3月30日)は、日本の小説家。大分県臼杵市生まれ[1]。夏目漱石の紹介で『縁』を発表[1]して以来、写実主義に根差す作風と、理知的リアリズムとで市民的良識を描き続け、明治から昭和末期まで80年余の作家活動を行った。芸術院会員[1]。文化勲章受章[1]。
略歴
フンドーキン醤油の創業家に生まれた[1]。14歳の時に上京し、明治女学校に入学する。1906年に夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚した。漱石と直接会うことは少なかったが主に書簡を通じて指導を受け、1907年、漱石の推薦によって『ホトトギス』に『縁』を発表し、作家デビューを果たした。漱石から受けた「漫然として年をとるべからず文学者として年をとるべし」という言葉を「生涯の御守り」とし、99歳で死去するまで現役の作家として活躍した。法政大学女子高等学校名誉校長も務め、「女性である前にまず人間であれ」の言を残した。
昭和初年のプロレタリア文学が流行した時代には、社会進歩のための活動の中にあった非人間的な行動を追及した『真知子』を発表する一方で、思想と行動について悩む青年に焦点をあてた『若い息子』『哀しき少年』などを書き、また日本が戦争へ傾斜していく時期には、時流を批判した『黒い行列』(戦後、大幅に加筆して長編『迷路』に発展させる)と、良識ある知識階級の立場からの批判的リアリズムの文学を多く生み出した。中条(宮本)百合子や湯浅芳子とも交友を持ち、『真知子』は、百合子の『伸子』を意識して書いた作品であるといわれ1920年代の女性の生き方を描いた作品として日本文学に大きな位置を占めている。第二次世界大戦が勃発した時期にはちょうど夫とともにヨーロッパに滞在しており、その前後の紀行文『欧米の旅』(現在は岩波文庫全3巻)はこの時期の激動の証言としての価値も高い。
戦後、弥生子は宮本百合子が中心人物であった新日本文学会に賛助会員として加わったがまもなく辞退している。しかし百合子との交友は続き、1951年に百合子が亡くなったあとも、命日には宮本家に花を贈ることを恒例としていた。宮本側からも1950年に亡くなった豊一郎の命日には、毎年花が贈られてきたという。
戦後も知識人の生き方を問う作品は多く、戦時下には書けなかった『黒い行列』の続編『迷路』で、敗戦までの日本の知識層のさまざまな生き方を重層的に描き、その後は秀吉という政治的人間と芸術的人間・利休の葛藤を描いた『秀吉と利休』を発表した。最晩年には、自らの少女時代の周辺のひとびとから材料をとった『森』を執筆していたが後数章を残し完結には至らず、それが絶筆となった。また『迷路』が完結した後に舞台となった中国を訪問し、延安まで足を伸ばすなど行動力も旺盛であった。
1956年の ハンガリー動乱に際しては、「ロシアといえば、第二次戦争の後漸くできあがったハンガリアの人民民主政体が一度独占資本家、地主、…軍人の支配に逆転しようとするのを、少々粗暴に引き戻そうとしたわけで…[2]」と武力介入したソ連を擁護し、動乱により発生したハンガリー難民を救済しようとした〈日本ハンガリー救援会〉の活動を、「事件が起こるまで「ハンガリー」がどこにあるかすら知らなかった者が、にわかに地球儀を買いに走り、またにわかに募金活動をはじめだす光景に複雑な思いがする[3]」、と批判した。
1985年3月30日、老衰のため成城の自宅で死去した。99歳没。戒名は天寿院翰林文秀大姉、墓所は鎌倉の東慶寺にある。弥生子が亡くなる直前までの日記が全集に入っている。
人物
弥生子は昭和初期から約60年、北軽井沢の大学村に春から秋にかけて過ごしていた。最近では、同じく北軽井沢に隠遁生活を送っていた哲学者の田邊元と密かな恋愛関係にあったことが判明し、その往復書簡300通余りが『田辺元・野上弥生子往復書簡』として岩波書店から刊行されている[4]。
若い頃、豊一郎の一高時代の同期生として知り合った中勘助に愛の告白をしたことがあり、その後何十年もわだかまりを抱き続けた[5]。この一件は、巌本善治の失脚、法政騒動(豊一郎が大学を追われた学内紛争)と並び、弥生子の人生の腐植土になった出来事だったと述べている[5]。晩年、夫の死をきっかけに中とは再会し、中が没するまで交流が続いた[5]。
関連施設
野上弥生子文学記念館(大分県臼杵市)
軽井沢高原文庫に移築された野上弥生子の書斎兼茶室
野上弥生子文学記念館
臼杵市にある弥生子の生家(小手川酒造)の一部を改装した記念館で、1986年に開設された。
軽井沢高原文庫
軽井沢町の軽井沢高原文庫に北軽井沢の山荘の離れ(書斎兼茶室)が1996年に移築された。
親族・受賞歴・著書・翻訳・参考文献、等々は省略します。
■ 色紙 母の歌 野上弥生子作詞・下総皖一作曲/文部省唱歌
母こそは 命のいずみ
いとし子を 胸にいだきて
ほほ笑めり 若やかに
うるわしきかな 母の姿
二番は削除
母こそは 千年(ちとせ)の光
人の世の あらんかぎり
地にはゆる 天つ日なり
大いなるかな 母の姿
以下省略
1943年(昭和18年)文部省から発行された国民学校芸術科音楽の第五学年用教科書「初等科音楽」3に掲載されました。
昭和18年といえば当時はまだ戦争中で、連合艦隊司令長官「山本五十六」が戦死した年でもあります。2番の歌詞は戦争に我が子を送り出した母の姿が勇ましく歌われています。
これも戦時下のことであり、母親の本心であろうはずもありません。
この歌が戦後に歌われないのは2番の歌詞のためでしょう、残念なことです。
けさ(2022/01/05)4:00過ぎ寝床の中でうつらうつらしながらこの歌を取り上げなければと思って、5時過ぎにPCで調べた。 食後になって新聞に目を通すと、つぎのことがのっていた。
■ (天声人語)たつた一つお願ひごとを(2022年1月5日)
▼「たつた一つお願ひごとをしたい」。作家の野上弥生子がそんな一文を東京朝日新聞に寄せたのは、1937年の年頭だった。豊作でも凶作でもいい、大地震や大噴火があっても構わないから……などと綴(つづ)っている
▼「……コレラとペストが一緒に流行(はや)つてもよろしうございます。どうか戦争だけはございませんやうに」。戦火の予感があったのだろうか。願いはかなわず、その年の夏に盧溝橋事件が起き、日中戦争へとつながった
▼きのう朝刊(最終版)を開き、まるで年頭の誓いのような見出しに、どきりとした。「米英仏中ロ『核戦争を回避』」。核兵器を持つ5カ国が共同声明を発表し、自分たちの間での戦争を避けるのは「第一の責務だ」と述べたという
▼核不拡散条約の話し合いに先立って出された声明で、年頭の誓いでも願いでもないようだ。しかし世界を見渡すと、不穏な火だねがある。ウクライナの国境付近ではロシア軍が集結したまま年を越した
▼ロシアが武力侵攻した場合は「断固とした対応をとる」と米国がウクライナに伝えたという。中国が台湾に侵攻する可能性についても、米政府高官が警戒感を公言するようになった。たとえどんな小さな軍事衝突でも、核を持つ国同士となると悪夢である
▼盧溝橋での衝突も、それ自体は小規模だった。外交交渉で収拾しようとの試みはあったが、戦火の拡大を止められなかった。「どうか戦争だけは……」の願いをかなえるのは、いつの時代でも外交の力以外にない。
■下平評
どうして天声人語の一文と寝床の中で「母の歌」の気づきが、野上弥生子だったのだろうか。母のいのちという言葉の心のうちは、命そのものだという思いが重なっての現われだと感じたからなのです。
作詞が女性だったから、さらにその思いも強かったのかもしれません。 女性がいのちの伝承を何十億年の昔から授かってきたことを思うと、『母こそは』と表現された深い意味を感じざるを得ないのです。 このことは一般の動物界のなかでも、多くは命の伝承は雌雄の雌が受けもっています。
自分の命をかけてでも、授かった命を愛し守り続けている様子は、小鳥の巣立ちでも野生動物の養育でもテレビでよく見かけることです。 完全に一人立ちになってからは、甘えは許さない姿も見かけるのです。
『母こそは』女性はみんな、動物の雌もみな、自分の子を育てることが生きていく意思としてインプットされているのです。 男性も動物の雄も、このことは自分の命の中にインプットされていないのです。
このことは、生き物術深い理解を持たなければならないのです。 本来理解するようにインプットされているのです。
私自身パソコンのタイトルとして「0歳教育」とし、その根拠もつけ加えたのも、未熟児として生まれてくる赤ちゃんをどう養育したらいいかを考えてのことでした。 今から20数年前になります。 普段見落としがちな知っていた歌を口ずさみ、やっといのちの尊厳に気づいた始末なのです。 でも、気づいてよかったと思います。 作詩者の思いもきっとこのようなことだっただろうと思うのです。 言葉には隠れた深い意味もあるものです。 言霊(コトダマ)ということも考えさせられるのです。