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折々の記 2010 @

【心に浮かぶよしなしごと】

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【 04 】01/16〜        【 05 】01/19〜        【 06 】01/20〜
【 07 】01/23〜        【 08 】01/24〜        【 09 】01/25〜


【 08 】01/24

  01 24 歴史の胎動―みんなで手をとりあって

 01 24 (日)  歴史の胎動―みんなで手をとりあって

■自分の中にもう一人の自分がいます。

中里介山の大菩薩峠のなかに、夜更けになって‘きょう一日省みて恥ずることはなかったか’と机龍之介の中のもう一人が問いかけてくる、というようなことが出ていました。

一方では理想を求めてその世界を描き、そうでない場面では自分に都合のいい行動を認めている自分がいることに気付くのです。 自分の中に矛盾した二人の自分を抱えているのです。

自分が弱っているときは、手をとりあって進まなくてはならないのです。 二人の自分が葛藤していてもです。

例えば、即身仏ですが、この即身仏になった人にしても一方に捨身功徳を実践していても一方で凡欲に堕することことは全くなかったのでしょうか。 心の中の凡欲に苦しむことはなかったのでしょうか。

凡欲に苦しむがゆえに、即身仏への決意も強くなっていったのではないのでしょうか。 人は誰にしても、自分の中にもう一人の自分がいるのです。 それでもいいんじゃありませんか。



■日本丸の中枢にいる古川さん

    http://www2.furukawa.cc/JAPANESE/mail.php
    <古川元久の 「mail adress」>

民主党政権への意見・要望を提案するルートがわかりました。 この吉川さんは…“ホッと一言”…を読んでいても判りますが、市井の一人としての感覚で政治を築こうとしている日本丸の中枢のホープです。

最近の「田中宇の国際ニュース解説」のサイトを見ていると、日本は今までとは方向を変えて進むようになってきているといいます。 そしてそれは日本を換えていく新しい潮流になるのだろうと思います。 この動きはずっとずっと前から、1960年代頃から老生の胸の中にくすぶり続けていたものでした。



■歴史からの予言―アーノルド・J・トインビー    <アーノルド・J・トインビー - Wikipedia>

【アーノルド・J・トインビー】

いま検索をつかってトインビーに関するデータを見ていきますと、いろいろのサイトが出ています。 1960年代頃から老生の胸の中にくすぶり続けていたというのは、昭和42〜3年頃毎日新聞にトインビーのインタビュー記事が載っていたのを読んだからです。 

戦後本などほとんどない時代に青年師範学校に在籍していた老生は、戦時中の予科練の体験もあって、どうして日本が負けたのか、負けるような戦争までしたのか、そうした疑問から歴史の本をいろいろと読みました。 ことに興味を惹いたのは、大類伸の本に「歴史を学ぶ本義は温故知新にある」という信念が書かれていた内容でした。 それ以来、未来への見通しにつながる主張に歴史の意義を感ずるようになっていました。

そんな訳でしたので、トインビーのインタビューにはとても惹かれていました。 彼は日米関係はある時期までは続くとみていました。 何本かのつながりの糸はだんだん韓国や中国と結ばれるようになると予言していました。 その見通しに惹かれていたのです。

ことにアメリカのネオコンの理論、新自由主義の標榜は、世界の国々の組織・国連の意向を無視するような自国の意志によって世界をリードしていこうという姿を見るようになると、ますます日米関係における日本のポチ的政治方向にうんざりしていました。

民主党の政権になって、鳩山首相が第一に中国を訪問したこと、北沢防衛大臣が中国との軍事練習に歩み寄ったこと、アジア協同体の方向を掲げたこと、これらはアメリカを慌てさせるに充分な行動でありました。 日本が本来の方向に動き始めたのです。 日本の大きな歴史の方向転換です。

その意識をよく考えない自民党の政治家は、民主党では日本が駄目になるという政権交代のみの眼前の世情に翻弄されています。 自民とか民主とかそんな政権党のみを問題にするのではなく、世界の平和実現の方向を見据えて国の方向を考えなくてはならない。

このような意味で、トインビーの歴史感覚に敬意と感謝をささげます。 いい顔をしているではありませんか。

トインビーに関する索引をいろいろ開いてそれを学ぶのも有意義なことです。



■私達の先人は大東亜戦争を戦ったのです

     http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/daitoua.html
     <私たちの先人は大東亜戦争を戦ったのです>

(以下は上記サイトを開いたものです)

 先の大戦について肯定的に語ることがタブーのような空気に包まれている日本に於いては、日本人自身のそういった発言はすぐに色眼鏡で見られ、レッテル張りされてしまいます。そこで外国人の意見を集めてみました。

1  H・G・ウェルズ(イギリス、歴史学者)

「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。」

2 アーノルド・J・トインビー(イギリス、歴史学者)

  第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。(1965年十月二十八日、英紙「オブザーバー」)

 英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈されたことは、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた永続的な重要性を持つ出来事でもあった。なぜなら1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本はすべての非西洋国民に対し、西洋は無敵でないことを決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のベトナムに明らかである。(昭和43年三月二十二日「毎日新聞」)

3 ククリックド・プラモード (タイ国元首相 )

「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。」( 十二月八日、現地の新聞「サイアム・ラット紙」において )

4 バ・モウ (ビルマ元首相 独立宣言より)

 約五十年前ビルマは三回にわたる対英戦争の結果その独立を失えり、英国側はアジアに対する掠奪的野望を以て此等の戦争を遂行せり。英国はさらにその伝統的陰謀賄賂及び想像し得るあらゆる詐欺及び術策の武器をしようせり。・・・ビルマ人は徐々に搾取され時の進むに従い総ての国民的実質、莫大なる物資的資源、機会、文化、言語、さらに遂にはその生活様式までも失い・・・愛国者は挺身的精神をもって鎮圧、入獄、流謫、拷問及びしばしば死そのものを甘受して突進して来れり、これらの英雄はビルマの生存のため苦難を受け遂には斃れたり。・・ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。・・・ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり・・・」(一問に百答 日下公人 PHP研究所)

5 ダグラス・マッカーサー(アメリカ、日本占領連合軍最高司令官・元帥)

 日本の潜在労働者は、量においても質においても、私がこれまで知っている中の最も立派なものの一つである。しかし、彼らは労働力はあっても生産の基礎素材を持たない。日本には蚕のほかに取りたてていうべきものは何もないのだ。日本人は、もし原材料供給が断たれたら(経済封鎖されたら)一千万から一千二百万が失業するのではないかと恐れていた。それ故に、日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、そのほとんどが、安全保障のためであった。(1951年5月3日米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会における発言)

6 ハミルトン・フィッシュ(政治家「悲劇的欺瞞」(TragicDeception1983))

 ルーズベルト大統領は、その絶大な権力を使って遂に米国を日本との戦争に巻き込むことに成功した。そのことは、米国を欧州における戦争に参戦させるという彼の最終的な目的を達成させた。

7 ジョイス・C・レブラ女史(アメリカ、コロラド大学歴史学部教授)

大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。

 日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。 今や真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。(中略)  さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、その自信を裏付ける手段とが残ったのである。東南アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固たる意志に支えられていた。(「東南アジアの開放と日本の遺産」秀英書房、256〜7ページ)

8 ロスロップ・スタッタード(アメリカ、歴史学者)

 すでに四百年の間、連続的勝利によって、白人は本能的に自己の膨張は無限に継続するものと信ずるに至った。1904年の日露戦争以前には、自己の膨張が停止するというような思想は白人千人中の一人にも考えがおよばなかった。(中略)1900年は、四百年間みなぎりきった白人潮勢の頂点であった。白人はその時、威名と実力の頂上に達したのである。その後わずか四年にして日本は猛然起って露国に抗し、旅順港に巨砲弾を浴びせて世界を驚かした。その刹那に白人の退潮が始まった。(長瀬鳳輔訳『有色人種の勃興』政教社、147,151頁)

9 ジョージ・S・カナヘレ(アメリカ、ハワイ日本経済協議会事務局長・政治学博士)

 日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事である。(中略)  インドネシア人が軍事訓練を受けたことの意義は極めて重要なものであった。これが後のインドネシア革命軍の大部分の将校と何千の兵士となり、復帰してきたオランダ勢力と独立戦争を戦う際の基盤となった。日本によって与えられたこのような機会がなかったならば、戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。

10 ラグ・クリシュナン(インド、大統領)

 インドは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈もした。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた。(昭和44年「日本経済新聞」)

11 ラダ・ビノード・パール(インド、極東国際軍事裁判判事・法学博士)

  要するに彼ら(欧米諸国)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の一七年間(昭和3〜20年、東京裁判の審理期間)の一切を罪悪と烙印する事が目的であったにちがいない。・・・・私は1928年から1945年までの一七年間の歴史を二年七ヶ月かかって調べた。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。それなのに、あなた方は自分らの子弟に、「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」を教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。あやまられた歴史は書き変えなければならない。(昭和二十七年十一月五日、広島高等裁判所での講演)

12 グラバイ・デサイ(インド、インド弁護士会会長・法学博士)

 このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。  インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深くこれを銘記している。 インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。(1946年、デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市F機関長に対する挨拶)

13 ジャワハルラル・ネルー(インド、独立後の初代インド首相)

 チャンドラ・ボーズが日本と協力してつくったインド国民軍《INA》の裁判で、弁護士として法廷に立ち「これら立派な若者達の主たる動機は、インド解放への愛情であった・・・・彼らの日本との協力は、インド解放を促進するための手段であった。余はチャンドラ・ボーズ氏の独立への情熱を疑わない」と述べた。(貝塚茂樹編『民族解放の星』講談社、253〜4頁)

14 アリフィン・ベイ(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)

  日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。(中略) (日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。(「魂を失った日本」未央社、57〜65ページ)

15 ブン・トモ(インドネシア、元情報・宣伝相)

  我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。日本が敗北したとき、”これからの独立は自力で遂行しなければならない。独力でやれば五十年はかかる”と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。

16 ガザリー・シャフェー(マレーシア、元外相、アセアン創設によりハマーシェルド賞受賞)

 日本の某代議士の「過ぐる大戦において、わが国は貴国に対しご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」という挨拶に対して、「どうしてそういう挨拶をなさるのですか。あの大戦で日本はよくやったではないですか。マレー人と同じ小さな躰の日本人が、大きなイギリス人を追い払ったではありませんか。その結果、マレーシアは独立できたのです。大東亜戦争なくしては、マレーシア人もシンガポールも、その他の東南アジア諸国の独立も考えられないんですよ」

 さらに続けて、玉井顕治、名越二荒之助、中島慎三郎の三氏に対していわく。 「私は威張る人も、ぺこぺこする人も嫌いです。日本はもっと大きくアジアに眼を開いてください。現在、日本は南方の発展途上国に対する援助額はダントツです。押しも押されぬアジアの経済大国ではありませんか。『ルック・イースト』『日本に学べ』という呼びかけは、シンガポールやマレーシアだけではありません。口に出しては言わないけれど、アジアの国々のこれは本音なんですよ。かって反日感情の強かった国々にも、次第に親日感情が起こりつつあります。そうしたなかにあって、日本は欧米にばかり目を向けず、アジアに対して責任を持つ国になって欲しいのです。日本はかつてアジアに対して責任を感じ、そのために、戦争であれだけの犠牲を払ったのです。この尊い戦争の遺産を否定することは、バックミラーばかり見ているようなものです。自動車は前を見て運転しなければ、進路を間違えますよ」(昭和六十三年七月十九日、於赤坂プリンスホテル)

17 朴 鉄柱(韓国 平成二年一月逝去・六十八歳 、韓日文化研究所 昭和四十二年十月)

「ソウルから日本を眺めていると、日本が”心”という字に見える。北海道、本州、四国、九州と、心という字に並んでいるではないか。日本は万世一系の御皇室を頂き、歴史に断絶がない。それに対して韓国は、断絶につぐ断絶の歴史で涙なくしてみることはできない。」

「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。”事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。」

「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。」

18 朱 耀翰 {韓国 元国会議員 ゴーマニズム宣言第六巻p232}

 「アメリカ大統領ルーズベルト君、君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和条約の序文に人種差別撤廃文案を挿入しようとしたときこれに反対し削除したのはどこの国だ?黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にも着かせずアフリカ大陸で奴隷狩りをしたのはどこの国であったか?しかし君らの悪運はもはや尽きた。一億同胞なかんずく半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦勇士とならんことを誓っている!」

19 ニミッツ元帥(アメリカ 太平洋艦隊司令長官)

 この島を訪れるもろもろの国の旅人達よ。故郷に帰ったら伝えてくれよ。この島を守るために、日本軍人は全員玉砕して果てた。その壮絶極まる勇気と祖国を想う心根を!

20 スリム中将(イギリス第十四軍司令官)

 たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的でなく本来の攻撃の目的を以て、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、史上にその例を殆ど見ないであろう。(「敗北から勝利へ」)

 かくの如き望みのない目的を追求する軍事上の分別を何と考えようとも、この企図を行った日本軍人の最高の勇気と大胆不敵さは疑う余地がない。私は彼等に比肩し得べき如何なる陸軍も知らない。(同書)

21 蒋介石

 ラモウ・騰越を死守しある日本軍人精神は、東洋民族の誇りたるを学び、範として我が国軍の名誉を失墜せざらんことを望む

22 ベルナール・ミロー(フランス ジャーナリスト)

 これら日本の英雄達は、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れ去られてしまったことの使命を、とり出して見せつけてくれたのである。(『神風』)

引用・参考文献 『「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編、展転社』
おまけ・終戦直後の新聞記事より

「国体を護持し得るか否かは、片々たる敵の保証(ポツダム宣言)にかかるのではなく、実に日本国民の魂の持ち方如何にかかる。特攻魂に端的に現れた七生報国の烈々たる気魄は、我々がこれを祖先よりうけついだものであるが、これは永劫に子孫に伝えねばならぬ。日本国民が果たしていつの日に再生し得るかは、一に日本国民の魂がこの試によっていかに鍛えられるかによってきまるのである」

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アジアの自尊心を守った日本

ある収容所でのお話を参照。(日本人経験談より)
  イギリス人は糞をしてる最中に黄色人種が入ってきても平気。
  落としたタバコを拾わすのにも、言葉を使わず、アゴで拾えの合図。
  女性が全裸で部屋に居る時に、黄色人種が入ってきても平気。
  (白人男性が入ってきたら大騒ぎ)
  つまり、黄色人種は猿だったのです。
  インドより東の国では、白人は何をしても許されると言う考えがあった。
  東洋人に対する白人の対応は自然な物だったのです。
  絶対的な差別主義。
  東洋人は、人では無かった。
  この絶対差別主義の世界を塗り替えたのが日本だった。

  今でも、ビルマの建国記念日には、日本の「軍艦マーチ」「日本陸軍の歩兵の歌」が流れる。
  フィリピンの独立記念のポスターにも、日本軍のポスターが貼られる。
  インドのオールドデリー市街のチャンドラ・ボース公園に立つインド独立義勇軍(INA)と日本軍人の像がある。
  アジア人の自尊心を守ったのは、日本だった。



■このサイトの終わりのほうは、次のようになっています。


★フィリピンのアローヨの言葉⇒「韓国が羨ましがられる理由  “日本が隣にある”」

★フィリピン⇒「私達を奴隷にしていたイギリスを日本が追い出し、独立を約束して、教育と産業を与えてくれました。その後、アメリカに占領されましたが、アメリカは一方的に物を売るだけでした。」

★フィリピン⇒「私達は日本統治の長かった韓国や台湾の経済成長をうらやましく思います。」

★タイ⇒「日本はアジアの母です。子供を産むために母は体を壊しましたが、子供はきちんと成長しています。」「私達は韓国のような恩知らずではありません。」

★韓国はASEANに嫌われています。ASEAN10は全て強い親日派です。日本はWW2の前も後も、日本国内の成長を犠牲にして韓国に教育と産業を与えました。それを当然の権利と思わせるため韓国政府は色々と言論統制をしていると、ASEANは思っています。

あるアジアの少年がこんな発言をしているサイトを見つけました

◎ 是非とも見ていただきたいFLASHです ◎

 今から十五年ほど前、アジア各国の軍部代表がマニラに集ったときのことだ。例によって韓国軍の代表が、延々と戦争当時の日本軍と日本民族と現在の日本企業を罵倒する演説を打った。列席のアジアの親日家たちは「韓国代表の演説は痛烈無残で聞くに耐えなかった。だが列席の日本の自衛官はひと言も発しなかった。」 

 そこで、列席していたインドネシアのアリ・ムルトブ准将は韓国の軍人に向かって次のように日本を擁護した。彼はASEAN結成の仕掛け人である。
<日本はアジアの光である。大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので、チンギス・ハーンとともにアジア人の誇りである。

ここで、インドネシアの日本民族の価値について申し上げる。今、忽然として日本民族がこの地球上から消えたら、アジアとアフリカは非常に困る。その時に韓国が一番困ると思う。韓国は工業大国の日本と競争したから、立派な工業国になれたので ある。近くに強力な競争相手がいることは素晴らしいことだ。

つまり日本の近くに位置していることは幸運なのだ。経済的支援を連続的に受けているといってよいくらいだ。

インドネシアが日本に近ければ今のような貧弱なインドネシアではない。
 つまり、我々インドネシア人は「日本はなにもしてくれなくてもよい。」と考えている。日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで十分アジア・アフリカに尽くしている。
 だから、我々アジア人は外交面に弱い日本を支援したいと思っている。日本から援助をもらうだけで応援しないのでは運命共同体の一員とは言えないし、対等のパートナー とも言えないのではないか。

「日韓2000年の真実」名越二荒之助編著 国際企画より


上記黒地9行目のあるアジアの少年がこんな発言をしているサイトを見つけましたのサイトは開けません。 
それで次の10行目の【 ◎ 是非とも見ていただきたいFLASHです ◎ 】のサイトへはジャンプできます。 これはスタートをクリックして読み取り、聞き取るようにしたいものです。

確かに “私達の先人は大東亜戦争を戦ったのです” に出てくる外国の先人たちの見方を読んでみると、歴史の流れを全体像としてとらえていることが判ります。

EUが新しい地域のあり方を実現したように、アジアでもアジア協同体としての融和と繁栄の方向を実現していくことが要請されているのだと思います。 歴史から学ぶ意義というのはこういうことでしょう。 歴史をマクロの視点に立って見てゆく姿勢は大切なことです。そしてこの方向は正しい方向なのです。

テレビの映像に出てくる自民党総裁の谷垣さんの発言を聞いていても、日本が向かうべき方向についての発言は全くありません。 ただただ民主党の政治資金問題に終始しています。 これでは情けなくて一国の議会討論を聞こうとしている国民の愛想も尽きるというものです。 悲しくなります。

アメリカのポチ化した日本の自民党が終焉を迎えつつあるのです。 アメリカの独断的な一国主義はいろいろ直してもらいたいけれども、日米はフレンドリーな新たな関係を築かなくてはならないのです。 アメリカにもこうした見識を生み出している人々が多くいるに違いありません。

新しい世界構想が築かれなくてはなりません。 ユネスコの前文の精神が実現されなくてはならないのです。 そしてまた、そのことが実現の方向に向かっていることを肌で感じるのです。 新しい希望のうねりなのです。

世界の平和を求めている人々も、こうした変化の潮流を認め声援を送ってくれるでしょう。 破壊の方向には向かわないはずです。 それにしても旧政権にいた人々のあがきようは恥ずかしい様相を呈しています。 これらも歴史の小さな見出しの一端となって人々の留意事項として残るのでしょう。 老生はそんなように思っています。



■歴史の節目の大事な言葉―「五箇条のご誓文」

一般には、この五箇条のご誓文は明治新政府の施政方針を示したものという受止めをしています。 だが、この言葉は施政方針の根底になる要諦を述べたものと理解してもよい。

封建社会である江戸時代から脱皮して、欧米の先進諸国の制度文物を目の前にし、幕末武士が身につけていた儒教をバックボーンとして、新たな国づくりの基本を模索した結果の文言です。 このことは御誓文にかかわる事項を検索しておってみると、この言葉に秘めていた意味が表面だけのものではないことに気付くはずです。

そして今、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、アメリカ従属の体たらくの日本が平和の在り方にめざめて、アジアの平和共存に立ち向かうとき、再び重要な意味を持つ方針としてもよいと言えます。

みんなして手をとりあって、御誓文が意味する基本原則を心に刻み込もうではありませんか。

五箇条の御誓文

   一、 広く会議を興し 万機公論に決すべし
   一、 上下心を一にして 盛に経綸を行ふべし
   一、 官武一途庶民に至る迄 各其志を遂げ 
       人心をして倦まざらしめん事を要す
   一、 旧来の陋習を破り 天地の公道に基くべし
   一、 智識を世界に求め 大に皇基を振起すべし


基本的には次のサイトに依ることがいい。

      五箇条の御誓文 - Wikipedia

   内容

  五箇条の御誓文  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)とは、明治元年3月14日(1868年4月6日)に明治天皇(当時15歳)が公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針。正式名称は御誓文であり、以下では御誓文と表記する。

 歴史 .

起草の過程

明治新政府は発足当初から公議を標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。明治元年正月、福井藩出身の参与由利公正が、坂本龍馬の船中八策と似ている部分が多い議事之体大意五箇条を起案し、参与東久世通禧を通じて議定兼副総裁の岩倉具視に提出した。

制度取調参与の福岡孝弟は、この由利五箇条に対して第一条冒頭に「列侯会議を興し」の字句を入れるなどして封建的な方向へ後退させ、表題も会盟に改めたため、列侯会盟の色彩が非常に強くなった。さらに福岡は発表の形式として天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案した。しかし、この「会盟」形式は、天皇と諸侯とを対等に扱うものであり王政復古の理念に反するという批判にさらされた。

そこで、総裁局顧問の木戸孝允が、天皇が天神地祗(てんじんちぎ。分かり易く言えば神)を祀り、神前で公卿・諸侯を率いている状態で共に誓いかつ全員が署名するという形式を提案し、採用されることとなった。その際、木戸孝允は、福岡案第一条の「列侯会議を興し」を「広ク会議ヲ興シ」に改め、「徴士」の任用期間を制限していた福岡案第五条を削除して木戸最終案第四条を新たに組み込み、五箇条の順序を体裁良く整え直すなどして大幅に変更を加え、より普遍的な内容にした。また、議定兼副総裁の三条実美も福岡案表題の「会盟」を「誓」に修正したため、木戸による五箇条が「誓文」「御誓文」「五箇条誓文」「五箇条の御誓文」と呼ばれるようになった。この木戸五箇条が天下に布告すべき日本の国是として明治天皇の裁可を受け、1868年(慶応4年)3月14日、朝廷の規模の大きさを天下に確定させんとする木戸の狙い通り、誓約された。木戸は後日、「天下の侯伯と誓い、億兆の向ふ所を知らしめ、藩主をして其責に任ぜんと欲し」たと述べている[1]。

儀式と布告

幟仁親王が揮毫した御誓文の原本御誓文は明治天皇の勅命によって、3月13日に天皇の書道指南役であった有栖川宮幟仁親王の手で正本が揮毫され、翌3月14日、京都御所の正殿である紫宸殿で行われた天神地祇御誓祭という儀式によって示された。

天神地祇御誓祭の前には、天皇の書簡である御宸翰が披瀝されている。 同日正午、在京の公卿・諸侯・徴士ら群臣が着座。神祇事務局が塩水行事、散米行事、神おろし神歌、献供の儀式を行った後、天皇が出御。議定兼副総裁の三条実美が天皇に代わって神前で御祭文を奉読。天皇みずから幣帛の玉串を捧げて神拝して再び着座。三条が再び神前で御誓文を奉読し、続いて勅語を読み上げた。その後、公卿・諸侯が一人ずつ神位と玉座に拝礼し、奉答書に署名した。その途中で天皇は退出。最後に神祇事務局が神あげ神歌の儀式を行い群臣が退出した。

御誓文は太政官日誌をもって一般に布告された。太政官日誌には「御誓文之御写」が勅語と奉答書とともに掲載されたほか、その前後には天神地祇御誓祭の式次第と御祭文や御宸翰が掲載された[2]。当時の太政官日誌は都市の書店で一般に発売されていたが、各農村にまで配布されておらず、一般国民に対しては、キリスト教の禁止など幕府の旧来の政策を踏襲する五榜の掲示が出された。

政体書体制での御誓文

明治元年閏4月に明治新政府の政治体制を定めた政体書は、劈頭で「大いに斯国是を定め制度規律を建てるは御誓文を以て目的とす」と掲げ、続いて御誓文の五箇条全文を引用した。政体書は、アメリカ憲法の影響を受けたものであり、三権分立や官職の互選、藩代表議会の設置などが定められ、また、地方行政は「御誓文を体すべし」とされた。

このほか、同年4月12日の布告では、諸藩に対して御誓文の趣旨に沿って人材抜擢などの改革を進めることを命じている。また、各地の人民に対して出された告諭書にも御誓文を部分的に引用する例がある。例えば、明治元年8月の「奥羽士民に対する告諭」は御誓文の第一条を元に「広く会議を興し万機公論に決するは素より天下の事一人の私する所にあらざればなり」と述べ、同年10月の「京都府下人民告諭大意」は第三条を元に「上下心を一にし、末々に至るまで各其志を遂げさせ」と述べている。

御誓文の復活

その後、政体書体制がなし崩しになり、さらには明治4年(1871年)の廃藩置県により中央集権が確立するに至り、御誓文の存在意義が薄れかけた。明治5年(1872年)4月1日、岩倉使節団がワシントン滞在中、御誓文の話題になった時、木戸孝允は「なるほど左様なことがあった。その御誓文を今覚えておるか」と言い、その存在を忘れていた模様である。この時、御誓文の写しを貰った木戸孝允は翌日には「かの御誓文は昨夜反復熟読したが、実によくできておる。この御主意は決して改変してはならぬ。自分の目の黒い間は死を賭しても支持する」と語った。明治8年(1875年)、木戸孝允の主導により出された立憲政体の詔書で「誓文の意を拡充して…漸次に国家立憲の政体を立て」と宣言。立憲政治の実現に向けての出発点として御誓文を位置付けた。

自由民権運動と御誓文

自由民権運動が高まる中、御誓文は立憲政治の実現を公約したものとして一般に受け止められるようになった。特に第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」は、当初は民選議会を意図したものではなかったが、後に民選議会を開設すべき根拠とされた。例えば、明治13年(1880年)4月に植木枝盛が起草し片岡健吉・河野広中らが提出した「国会を開設するの允可を上願する書」が著名である。明治憲法制定により帝国議会が開設されるまでの間、自由民権派は御誓文の実現を求めて政府に対する批判を繰り返した。

戦後の御誓文

戦後、昭和21年(1946年)1月1日の昭和天皇の人間宣言で、御誓文の条文が引用されている。昭和天皇は幣原喜重郎首相がGHQに主導されて作成した草案を初めて見た際に、「これで結構だが、これまでも皇室が決して独裁的なものでなかったことを示すために、明治天皇の五箇条の御誓文を加えることはできないだろうか」と述べ、急遽GHQの許可を得て加えられることになった。天皇は後に、

「それが実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。(中略)民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発して、それが基となって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入物ではないということを示す必要が大いにあったと思います。」
? 昭和52年(1977年)8月23日記者会見


と語っている。

昭和21年(1946年)6月25日、衆議院本会議における日本国憲法案の審議の初め、当時の吉田茂首相は御誓文に言及して、

「日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史、日本の国情をただ文字に現わしただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」


と答弁した。このように敗戦後の初期には支配層は五箇条の御誓文は民主主義の原理であると主張した [3]。

 内容 .

正式な表題は、法令全書によると、「御誓文」である[4]。明治天皇自身がこれを呼ぶときは単に「誓文」という(例えば明治8年(1875年)の立憲政体の詔書)。よく使われる「五箇条の御誓文」などの呼称は、後の時代の通称である。

御誓文の本体は、明治天皇が天神地祇に誓った五つの条文からなる。この他、御誓文には勅語と奉答書が付属している。御誓文の各条および勅語・奉答書について解説すると次の通り。

一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

  * (現代表記)    広く会議を興し、万機公論に決すべし
  * (由利案第五条) 万機公論に決し私に論ずるなかれ
  * (福岡案第一条) 列侯会議を興し万機公論に決すべし

この条文は、由利案では第五条であったが、福岡によって第一条に移された。その理由は「諸侯会議を以て第一着の事業と考え」たためと福岡自身が回顧している。(福岡孝弟『五箇条御誓文と政体書の由来に就いて』大正8年(1919年)に依る。以下、福岡の回顧は特に断らない限りこれに依る。)

前段の「広く会議を興し」については、由利案には「会議」に相当する語はなく、福岡の修正案で「列侯会議」の語があらわれ、これが最終段階で「広く会議」と修正された。福岡は後年「この時平民までも此議会に与らしめる御つもりであったか」と問われ、「それは後から考えればそうも解釈されるが、御恥ずかしい話ですが当時私はまだその考えはなかったです」「広くとは人々の意見を広く集めて会議するというのではなく府藩県にわたりて広く何処にも会議を興すという義です」と答えた[5]。しかしながら、ここを「列侯会議」に限定せずに漠然と「広く会議」に改めたことは、後に起草者たちの意図を離れ、民権論者によって民選議会を開設すべき根拠として拡張解釈されるようになった。また明治政府自身もそのように解釈するようになった。

後段の「万機」は「あらゆる重要事項」の意味。「公論」は公議と同義、または公議輿論の略語であり、「みんなの意見」または「公開された議論」といったような意味である。「万機公論に決すべし」の語句は、由利と親交のあった坂本竜馬の船中八策(慶応三年六月)に「万機宜しく公議に決すへし」とあり、ここから採られたものとみられる。由利の草稿では、初めは「万機公議」と書き、後で「万機公論」と改めている。

一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

  * (現代表記)    上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし
  * (由利案第二条) 士民心を一にし盛に経綸を行ふを要す
  * (福岡案第三条) 上下心を一にし盛に経綸を行ふべし

冒頭の「上下」は、由利案では「士民」だったが、福岡の回顧によれば「一層意味を広くするために士民を上下に改めた」という。「心を一にして」は日本国民の団結を表現する当時の決まり文句であり、江戸期の水戸学者の著作から後の教育勅語に至るまで広く使われている。

後段の「経綸」の語の解釈には注意が必要である。由利の出身藩である越前藩のために横井小楠が著した「国是三論」において「一国上の経綸」という章があり、そこでは主に財政経済について論じられていることから、その影響を受けた由利は経綸の語を専ら経済の意味で用いていた。したがって、この条文のいう「盛に経綸を行う」とは由利にとっては「経済を振興する」という意味であったと思われる。もっとも、当時、経綸の語は一般に馴染みのある語ではなく、江戸版の太政官日誌では経綸を経論と誤記しケイロンとルビを振っていた。福岡は後に回顧して「由利が盛に経綸経綸という文句を口癖のごとく振りまわしていた所であったからそのままにして置いたのである。経綸という字の意味は元は経済とか財政とかを意味していたようであるが、これは説く人々の解釈に任してよいのである」と述べている。一般的には、経綸の語は、経済政策に限らず国家の政策全般を意味するものとして理解されることが多い。

一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

  * (現代表記)    官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
  * (由利案第一条) 庶民志を遂げ人心をして倦まざらしむるを欲す
  * (福岡案第二条) 官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしむるを要す

由利案ではこの条文は第一条に置かれ最重視されていた。由利は後の著書「英雄観」で「庶民をして各志を遂げ人心をして倦まざらしむべしとは、治国の要道であって、古今東西の善政は悉くこの一言に帰着するのである。みよ、立憲政じゃというても、あるいは名君の仁政じゃといっても、要はこれに他ならぬのである。」と述べている。

冒頭の「官武一途」は語は福岡孝弟の修正案で追加されたものであり、「官」とは太政官すなわち中央政府、「武」とは武家すなわち地方の諸侯、「一途」は一体を意味する。これは福岡の回顧では「官武一途即ち朝廷と諸侯が一体となって天下の政治を行う」意味としている。この条文は、もともとの由利の意図では庶民の社会生活の充足をうたったものであったが、福岡が政治の意味を込めて「官武一途」の語を挿入したため、条文の主旨が不明瞭になったことが指摘されている(稲田正次)。

一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

  * (現代表記)   旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし
  * (木戸当初案) 旧来の陋習を破り宇内の通義に従ふへし

この条文は由利案や福岡案では存在せず、木戸の修正により登場した。木戸当初案の「宇内(うだい)」は「天下」「世界」の別表現である。「通義(つうぎ)」は「広く一般に通用する道理」という意味である。(いずれも三省堂『大辞林』第三版)

この条文を、戦前の研究者尾佐竹猛は、「旧来の陋習」は鎖国攘夷を指し、「天地の公道」は万国公法すなわち国際法の意味であり、この条文は開国の方針を規定したものとして狭く解釈していた。

しかし、これに対し、稲田正次・松尾正人・佐々木克たちは、「天地の公道」は開国の方針や国際法を示すことだけではなかったと明確に説明している。その理由として、御誓文と同時に出された宸翰に出てくる「旧来の陋習」の語がそもそも鎖国攘夷の意味に限定されていないこと、また木戸孝允自身が「打破すべき封建性」「打破すべき閉鎖性」の意味で「旧習」「旧来の陋習」「陋習」という言葉を広く使用していること、また、大久保利通でさえ木戸の「旧来の陋習」と同じ意味のことを「因循の腐臭」とより痛烈に批判していること、つまり、薩長いずれも密留学をさせ倒幕に立ち上がった開明的雄藩であったにもかかわらず長州の木戸より薩摩の大久保のほうが藩主父子・出身藩の内部事情などのためにより批判的にならざるを得ない危険な封建性・閉鎖性をより自覚していたということ(寺田屋事件〜西南戦争)、更に、岩倉具視も他の文書で「天地の公道」という全く同じ言葉を万国公法とはおよそ次元の異なる「天然自然の条理というような意味」で用いていることなどが挙げられている。総じて、「天地の公道」(木戸当初案では「宇内の通義」)とは、普遍的な宇宙の摂理に基づく人の道を指しているものと解される。

一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

  * (現代表記)    智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし
  * (由利案第三条) 智識を世界に求め広く皇基を振起すへし
  * (福岡案第四条) 智識を世界に求め大に皇基を振起すべし

前段の「智識を世界に求め」については、前述の横井小楠「国是三論」に「智識を世界万国に取て」とあり、ここから採られたものとみられる。後段の「皇基」とは「天皇が国を治める基礎」というような意味である。

福岡はこの条文を「従来の鎖国的陋習を打破して広く世界の長を採り之を集めて大成するの趣旨である」と回顧している。

勅語

勅語と奉答書(太政官日誌掲載)(現代表記)我が国未曾有の変革を為んとし、朕、躬を以って衆に先んじ天地神明に誓い、大にこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの趣旨に基き協心努力せよ。年号月日 御諱
(意味)我が国は未曾有の変革を為そうとし、わたくし天皇が自ら皆に率先して天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民を保全する道を立てようとする。皆もまたこの趣旨に基づき心を合わせて努力せよ。
この勅語は、明治天皇が神前で五箇条を誓った後、群臣に向けて下した言葉である。なお、明治天皇の言葉といっても、天皇自身が声に出した言葉ではなく、実際には三条実美が読み上げている。

勅語中「年号月日」とある箇所は、実際の日付が記されている。「御諱」とは実名のことであり、ここには明治天皇の実名が「睦仁」と記されている。

奉答書

(現代表記)勅意宏遠、誠に以って感銘に堪えず。今日の急務、永世の基礎、この他に出べからず。臣等謹んで叡旨を奉載し死を誓い、黽勉従事、冀くは以って宸襟を安じ奉らん。慶応四年戊辰三月 総裁名印 公卿諸侯各名印
(意味)天皇のご意志は遠大であり、誠に感銘に堪えません。今日の急務と永世の基礎は、これに他なりません。我ら臣下は謹んで天皇のご意向を承り、死を誓い、勤勉に従事し、願わくは天皇をご安心申し上げます。
奉答書は、群臣が天皇の意志に従うことを表明した文書であり、総裁以下の群臣の署名がある。3月14日当日には411名の公卿と諸侯が署名し、残りの者は後日署名した。署名者には公卿と諸侯のほか、同年5月に天皇に直属する朝臣となった旧幕府旗本のうち千石以上の領地を持つ者も加わった。最終的には、公卿と諸侯は総計544名、その他288名が署名した。なお、木戸孝允ら藩士出身の新政府実力者たちの署名はない。

奉答書の日付が「慶応四年」となっているが、後の明治改元により慶応四年は1月1日に遡って明治元年に改められた(大正以降の改元とは異なるので要注意)。このため、ここの「慶応四年」は「明治元年」に読みかえるのが正式である。

備考

天神地祇御誓祭で三条実美が御誓文を読み上げる光景を日本画家の乾南陽が描き、昭和3年に旧土佐藩主の山内家が明治神宮に奉納した。『五箇條御誓文』と題して明治神宮外苑聖徳記念絵画館で展示されている。教科書や歴史書にもよく載っている。
小泉純一郎は首相在任当時、御誓文を元にした決まり文句「万機公論に決すべし」をよく使っていた。平成13年に小泉首相の所信表明演説が書籍として出版された際のタイトルは「万機公論に決すべし」であった[6]。
平成17年7月7日、由利公正が作成し福岡孝弟の加筆訂正のある草稿が競売にかけられる旨の報道があり、5日後に福井県が2388万8000円で落札したと発表した。福井県立図書館(福井市)・福井県立若狭図書学習センター(小浜市)で公開された。
静岡県立大学国際関係学部助教の平山洋は、五箇条の御誓文と福澤諭吉の『西洋事情』との類似点を指摘している[7]。すなわち、以下のように

   御誓文の第一条は、『西洋事情』(初編)の最初にある英国の政治機構の説明と、
   御誓文の第二条は、文明政治の六条件の第五条件である保任安穏(ほにんあんのん)と、
   御誓文の第三条は、文明政治の六条件の第一条件である自主任意(じしゅにんい)と、
   御誓文の第四条は、『西洋事情』(初編)に全文掲載されているアメリカ独立宣言の最初と、
   御誓文の第五条は、文明政治の六条件の第三条件である技術文学(ぎじゅつぶんがく)と、

の間に類似がみられるのである。

脚注

 1. 妻木忠太『木戸松菊略伝』、松尾正人『幕末維新の個性8 木戸孝允』
 2. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
 3. 太田雅夫「戦後における天皇制の問題」『同志社法学』1961年3月
 4 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
 5. 維新史料編纂会写本『福岡孝弟談話筆記』
 6. 『万機公論に決すべし――小泉純一郎首相の「所信表明演説」』 TBSブリタニカ(現:阪急コミュニケーションズ)
    編集部編 、阪急コミュニケーションズ、2001年7月。ISBN 4-484-01214-6
 7. 平山洋 『福澤諭吉――文明の政治に六つの要訣あり』 ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、
    2008年5月。ISBN 978-4-623-05166-3。229-230頁参照。


ご誓文の中では、とりわけ一、四、五番目の言葉は子どものときから耳から入り、同時代の人々の血となり肉となってきました。 ですから、懐かしい言葉であり、思えば思うほど深い意味をもっていると感ずるのです。 黎明期の明治の人々の心意気が髣髴されるのです。

   一、 広く会議を興し 万機公論に決すべし
   一、 旧来の陋習を破り 天地の公道に基くべし
   一、 智識を世界に求め 大に皇基を振起すべし