折々の記へ

折々の記 2010 D

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】04/16〜     【 02 】05/07〜     【 03 】05/11〜
【 04 】05/17〜     【 05 】05/20〜     【 06 】05/22〜
【 07 】06/01〜     【 08 】06/05〜     【 09 】06/11〜

【 05 】05/20

  05 20 知識を世界に求め大いに皇紀を振起すべし ⇒ 吉備真備

 05 20 (木) 知識を世界に求め大いに皇紀を振起すべし ⇒ 吉備真備

ゆうべ歴史秘話ヒストリア吉備真備の後半を見ました。 偉い人がいたものです。

やっぱり幼児教育がしっかり行われたものと思います。 そしてその上知識を世界に求めています。 

参考のため取り上げます。

其の一 NHKヒストリア

    http://www.nhk.or.jp/historia/<吉備真備>

  奈良の魔法使い
    〜日本を救った遣唐使・吉備真備(きびのまきび)〜

【唐へ渡る吉備真備 】

 1 遣唐使ってどんな旅?
630年に始まり、計15回中国の唐へと派遣された「遣唐使」。その旅は、船の約四分の一が
沈没や漂流等で帰らないという危険に満ちたものだった。

内乱が多発、飢饉や疫病などに苦しみ、国を強化することが必要だった奈良時代、遣唐使は、
唐との関係を良好にするとともに、その進んだ文化や学問を吸収するための国家プロジェクト
だった。

遣唐使に選ばれたのは、国の命運を担った精鋭たち。 平城京の大学で優秀さを認められた
「吉備真備」をはじめ、留学生の専門分野は、仏教や金属・ガラスの加工、舞踏など多岐にわ
たる。 真備たち一行はおよそ3か月の旅を経て唐の都・長安に到着。長安は当時世界最大級
の大都市であり、最新の文化が集まる場所だった。  

【鬼を操る真備 】

 2 真備は唐で何を学んだの?
吉備真備は23歳で唐の長安に留学し、猛勉強の日々を送った。 その多方面にわたる秀才
ぶりが日本では伝説の形で伝えられてきた。

平安時代に作られた『吉備大臣入唐絵巻(きびだいじんにっとうえまき)』では、真備が唐の人
々の仕掛ける罠を知恵と不思議な力で切り抜ける活躍が描かれている。 その様は、鬼を操り、
空を飛ぶ“魔法使い”。持ち帰った文物や帰国後の業績等から、真備は中国語はもちろん儒
教や律令制度、天文学、軍事学、音楽まで幅広くマスターしていたと考えられる。

最先端の知識と、それらを駆使する合理的思考が、当時の日本の人々にとってあたかも“魔
法使い”のように見えたのかもしれない。

【真備と仲麻呂・道鏡 】

 3 日本を救った真備の“魔法”
吉備真備は40歳で帰国し、大学改革や最新の中国語の普及に尽力し朝廷の注目を集め、
政治の中枢へと抜擢されていく。天皇の信頼を得た真備だが、朝廷では権力争いが深刻と
なっていた。実権を握ろうとする貴族・藤原仲麻呂と孝謙上皇の争いでは、真備は上皇側の
軍の指揮官となり、巧みな戦術で仲麻呂軍を倒した。その後、朝廷では僧侶・道鏡が天皇
の寵愛を受けて台頭する。この頃の真備の記録は少ないが、天皇の座を狙ったとも言われ
る道鏡を押しとどめたのはあるいは真備ではなかったかという説もある。右大臣にまで出世
した吉備真備は775年、81歳で亡くなる。激動の奈良時代を、最新の学識で支え続けた。
その手際は後世に“魔法使い”とたたえられることになる。

吉備真備に関する絵巻の展示について奈良国立博物館(奈良市登大路町50番地)で開催中の「大遣唐使展」で、番組で紹介した「吉備大臣入唐絵巻」の一部が展示中。展覧会は6月20日(日)までです。

 参考文献

東野治之『遣唐使』(岩波書店)
上田雄『遣唐使全航海』(草思社)
住吉大社編『遣隋使・遣唐使と住吉津』(東方出版)
森 公章『遣唐使と古代日本の対外政策』(吉川弘文館)
宮田俊彦『吉備真備』(吉川弘文館)
高見 茂『吉備真備 天平の光と影』(山陽新聞出版社)
中山 薫『吉備真備の世界』(日本文教出版)
黒田日出男『吉備大臣入唐絵巻の謎』(小学校)
栄原永遠男『天平の時代』(集英社)
渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』(講談社)
岡田芳朗『日本の暦』(新人物往来社)



其の二 NHKヒストリア

    http://www.nhk.or.jp/historia/<歴史秘話ヒストリア 吉備真備>

  歴史秘話ヒストリア「奈良の魔法使い〜日本を救った遣唐使・吉備真備〜」

    チャンネル :総合/デジタル総合
    放送日 :2010年 5月19日(水)
    放送時間 :午後10:00〜午後10:45(45分)

歴史の授業などで言葉は知られている「遣唐使」。そして2回もその遣唐使となった吉備真備(きびのまきび)。 今回の歴史秘話ヒストリアは遣唐使と吉備真備をめぐる秘話。

“白紙(はくし)に戻す遣唐使”と、歴史の授業で覚えた人も多い「遣唐使」。 でも、唐の国・当時の中国に派遣された遣唐使とはどのような人たちだったのか? いかなる旅で、唐で何を手に入れてきたのか? その詳しいことはあまり知られていない。 そして、2回も遣唐使となった吉備真備という人物のことも、ほとんど知られていない。 遣唐使、そしてその一員となったことで、日本の国を変えた吉備真備の秘話をお送りする。

【キャスター】渡邊あゆみ



其の三 世界大百科事典 吉備真備

  世界大百科事典  吉備真備(きびのまきび) 695-775(持統9-宝亀6)


もと下道(しもつみち)真備。 奈良時代の学者,政治家。 備中国下道郡出身。 父は右衛士少尉下道圀勝(くにかつ)。 母は楊貴(八木)氏。 圀勝の母の骨蔵器が岡山県矢掛町三成で発見されている。 

716年(霊亀2)22歳で唐への留学生となり翌年出発し,735年(天平7)に帰国。 

唐では儒学のほかに天文学や兵学,音楽も学んだことは,帰朝時に献上した《唐礼》130巻(経書),《大衍(えん)暦経》1巻,《大衍暦立成》12巻(以上天文暦書),測影鉄尺(日時計),銅律管,鉄如方響,写律管声12条(以上楽器),《楽書要録》10巻(音楽書),絃纏漆角弓,馬上飲水漆角弓,露面漆四節角弓各1張(いずれも騎馬民族の使う弭(ゆはず)が角製の弓),射甲箭20隻,平射箭10隻等によってわかる。 また《東漢観記》も将来した(《日本国見在書目録》に記す)。

帰朝後,大学助また737年中宮亮に任ぜられ,738年右衛士督を兼ねた。 737年痘瘡が流行して多くの貴族が死に,生き残った貴族から橘諸兄が738年右大臣に任ぜられ,政権を握った。 吉備真備と僧玄隈(げんぼう)(真備と同時に帰国)とは諸兄に重用された。 これをねたんだ大宰少弐藤原広嗣は740年に真備と玄隈を除くのを名目として九州で反乱を起こしたが,まもなく鎮定された。

真備は皇太子阿倍内親王(のち孝謙・称徳天皇)に東宮学士として《漢書》《礼記》を教授した。 彼が後年称徳天皇時代に右大臣に任ぜられたのは,このときの信任によるといえよう。 743年従四位下,春宮(とうぐう)大夫兼皇太子学士になり,746年姓吉備朝臣を賜り,747年右京大夫に転じ,749年従四位上に昇った。


 孝謙天皇が即位すると,藤原仲麻呂が専権をふるい真備は不遇であった。 淳仁天皇時代も同様である。 すなわち750年(天平勝宝2)筑前守ついで肥前守に左遷され,14年間九州にいた。 754年大宰少弐,759年(天平宝字3)同大弐に昇任し,この間751年遣唐副使として渡唐,また筑前怡土(いと)城を756年に築いた。 763年儀鳳暦に替え,大衍暦が採用されたのは,彼の暦学が認められたものである。 

764年造東大寺長官に任ぜられ,70歳で帰京できた。同年9月恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱を起こしたときには,その退路を遮断する方向へ派兵,押勝を斬りえたのは,彼の兵学の才を示す。 その功で従三位勲二等を授けられ,中衛大将に任ぜられた。 称徳天皇の重祚により,中納言,大納言をへて766年(天平神護2)右大臣に任ぜられた。 地方豪族出身では破格の出世である。 770年(宝亀1),称徳天皇没後,後継天皇候補に文室(ふんや)浄三を推して敗れ,辞職。 775年10月2日,81歳で没。
著書に《私教類聚(しきようるいじゆう)》《道弱和上纂(どうせんわじようさん)》《餌定(さくてい)律令》がある。
   横田 健一


 《江談抄(ごうだんしよう)》や《吉備大臣入唐絵詞》などによると,真備は入唐のとき,諸道・諸芸に通じていたので,唐人は恥じてこれを殺そうとする。 まず鬼のすむ楼に幽閉するが,鬼が唐土に没した阿倍仲麻呂の霊で真備は救われる。 さらに《文選》,〈野馬台の詩〉の解読や囲碁の勝負などを課せられるが,鬼の援助で解決する。 最後に食を断って殺そうとするが,真備は鬼に求めさせた双六(すごろく)の道具で日月を封じ,驚いた唐人は彼を釈放したという。

《今昔物語集》は僧玄隈をとり殺した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術をもって鎮圧したとし,《刃辛(ほき)抄》は,陰陽書《刃辛内伝》を請来したのを真備とし,彼を日本の陰陽道の祖とする。 中世の兵法書などは,張良が所持した《六簸・三略》の兵法を請来したのを真備とし,日本の兵法の祖とする。 野馬台の詩は蜘蛛(くも)のひく糸によって解読したと伝えるが,中世の寺社などではこの野馬詩を重宝し,多くの写本が作られた。 囲碁,《文選》,火鼠(かそ)の皮なども真備が日本に請来したとされる。
   山本 吉左右

  【註記】

《私教類聚(しきようるいじゆう)》

吉備真備(きびのまきび)の著書。 逸書であるが,目録38ヵ条が《拾芥抄》に引用されて残っている。 その内容は教訓書で,儒教と仏教を重んじ,道教,仙道をしりぞけている。 吉備真備の著か否か疑う説もあるが,すでに平安後期の《政事要略》に6ヵ条の引用が見える。 滝川政次郎は,これと中国北斉の顔之推(がんしすい)の著《顔氏家訓》と比較研究し,同書が《私教類聚》に影響を及ぼしたとし,偽作説を排した。  横田 健一

《餌定(さくてい)律令》

日本古代の法典。 〈さんていりつりょう〉とも読む。 24条よりなり,769年(神護景雲3)吉備真備,大和(倭)長岡らが斤し,791年(延暦10)施行され,812年(弘仁3)停止された。 日本における体系的な律令法典の編纂は大宝律令につぐ養老律令で終わり,その後の律令法の部分的改正は法典そのものを改めることなく,詔,勅などで公布される単行法令すなわち格(きやく)によって行われたが,この餌定律令は24条という限られた条文についてではあるが,養老律令の条文そのものを修訂したものと推定される。 もともと大宝律令にも養老律令にも,条文相互に矛盾する規定や,解釈に疑義を生ぜしめる条文が存したので,そうしたものを餌定したのであろう。 これとは別に797年には神王(みわおう),橘入居らの斤する餌定令格(さくていりようきやく)45条が施行されたが,餌定律令,餌定令格いずれも今日残されておらず,詳しい内容は明らかではない。   早川 庄八

《吉備大臣入唐絵詞》

奈良時代の学者官僚吉備真備(きびのまきび)が遣唐使として入唐したときの不思議な説話を1巻(現在は4巻に分離)6段に描いた絵巻。 制作は12世紀末から13世紀初と考えられる。 同じ説話は大江匡房の《江談抄》にあり,この絵巻ももとはさらに帰国までの話を描いた1巻があったと思われる。 

内容は,唐土に着くなり高い楼上に幽閉された真備のところに,阿倍仲麻呂の霊が化した鬼が現れ,真備の威に服して助力を約束する。 唐人は真備の才学を試すため,《文選》の解読,囲碁の勝負の難題を課するが,そのたびに仲麻呂の幽鬼に助けられて切り抜けるというもの。 

画面は唐土の風物を巧みに描いて平安時代の唐絵の系統をうけついでいるが,各段とも高楼から唐の王宮までを同一パターンで何度も繰り返すなど変化に乏しく,唐人を描く抑揚のある筆致や鮮やかな彩色なども《伴大納言絵巻》の技法と共通性はあるが,やや表現の崩れや硬さがみられ,先行作品の存在が想定される。 ボストン美術館所蔵。   田口 栄一

《宇佐八幡宮神託事件》

769年(神護景雲3)大宰府管内豊前国の宇佐八幡神が僧道鏡を天皇にしたならば天下太平ならんと,称徳天皇に神託を奏上した事件。 

宇佐八幡宮の起源は不明だが,正史では《続日本紀》に737年(天平9)新羅の無礼を八幡神に告げたとあるのが初見。 745年ころから同神が東大寺大仏の建立を助け,とくに銅と黄金の入手を助けたと信ぜられ,朝廷の崇敬を得た。 750年(天平勝宝2)には封戸1400戸,位田140町が施入され,伊勢神宮をしのぎ,全神社中第1位を占める厚い崇敬を得た。 

道鏡は761年(天平宝字5)に近江保良宮で孝謙上皇が病気のときに看病に侍して癒してから,上皇の寵を得た。 これをねたんだ藤原仲麻呂が764年9月に謀反を起こして敗死した後,上皇は称徳天皇として再即位した。 その直後,道鏡は大臣禅師,翌年太政大臣禅師に任ぜられて政権を握り,766年(天平神護2)法王に任ぜられ,供御は天皇に準ずるという史上空前絶後の高位に昇った。 769年5月ころ,宇佐八幡神は託宣し〈道鏡を天位につかしめば天下太平ならん〉とあり,これを大宰主神中臣習宜阿曾麻呂が奏した。 当時大宰帥は道鏡の弟弓削浄人(ゆげのきよと)であるから,合意のうえの奏上であろう。 天皇は夢に八幡神が,神教を聴かせるから尼法均(和気広虫)を派遣せよとあるが,法均は女で軟弱,遠路にたえがたいからと,その弟和気清麻呂を宇佐に派遣した。 彼は神前で託宣を請うと,その神託は〈道鏡を天位につかしめば〉という前回と同様であった。 彼は〈これは国家の大事なり。 信じ難し。願わくは神異を示せ〉と願った。 神は忽然と形を現じ身長3丈ばかり,色満月のごとくで,神託は〈わが国は君臣の分定まれり,道鏡は悖逆(はいぎやく)無道,神器を望むをもって神震怒し,その祈をきかず。 天つ日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を続(つ)げよ〉とあった。 清麻呂は帰京して,これを奏上したため大隅に流されたが,天皇は道鏡を天位につけることを断念した。 その後天皇が没すると道鏡も失脚した。   横田 健一



其の四 奈良時代のあらまし

    http://www.nhk.or.jp/nara-jidai/ <45日間奈良時代一周>

710 都がうつる

奈良盆地の南から北へ都が移されました。南の都が「藤原京」、北の都が「平城京」です。 どちらも「坊」という正方形の敷地を、碁盤の目のようにならべて設計されました。藤原京は縦にも横にも10坊をならべ、平城京は縦に9坊、横に8坊をならべています。大きさは藤原京がまさりますが、土地のよさは平城京の勝ちです。復原された平城宮大極殿の前に立って南の朱雀門を眺めてみましょう。そうすれば、すわり心地のよい肘かけ椅子に身体を預けたような気持ちになります。北側の奈良山丘陵が椅子の背もたれ、東側の春日山と西側の生駒山が肘かけです。都を平城京に移した元明天皇はこう言いました。四角い都のシートはうまく地形に収まり、三つの山が文鎮になっていますよと。でも、四角い都を収めてみると、東と西北にもう少し都を広げる余地があります。もちろん、それぞれに道路が通されて「外京」と「北辺坊」になりました。こうして平城京はできたのです。

712 マーケットをひらく

平城京には貴族や庶民の生活を支えるため、朱雀大路をはさんで、右京と左京に東西の市場が設けられました。712年には市場の役人も置かれ、取引の管理と税の徴収がはじまりました。東市と西市はどちらも近くに川が通されました。川船で物資を運びこむためです。東市の川は興福寺の門前から流れる東堀川、西市の川は北から流れる秋篠川です。西市の跡地では、秋篠川の土手に地元の人々が立てた船着き場の案内板があります。このあたりの秋篠川は水深が膝下ほどしかありません。奈良盆地を流れる川はいずれも水深が浅いのです。それらの水を集めて大阪平野に注ぐ大和川も山を越えるところが浅くなり、「亀の瀬」という難所で水運が阻まれます。江戸時代には、大阪から大和川をさかのぼる「剣先船」(長さ22m)が亀の瀬で荷を下ろし、底の平たい「魚梁船」(長さ15m)に積みかえられました。魚梁船のような小舟ですら底をする限界点に開かれたのが東西の市であったのです。

713 モノサシの統一

かつて秦の始皇帝が天下を平定して、長さをはかるモノサシ(度)、容積をはかる計量カップ(量)、重量をはかるオモリ(衡)の規格を統一しました。それ以来、中国ではどの王朝も度量衡を定めてきたのです。度量衡は文明国家の証なのです。日本でも飛鳥時代から度量衡を統一しようという動きはありましたが、正式な規定は702年に公布された大宝律令においてなされました。大宝律令は最初の日本版律令でありましたが、それでも細部は実情に合わせて手直しする必要があったようです。この713年には度量衡の見直しがはかられました。全国各地から税を徴収するときに、混乱の少ない、わかりやすい基準を示すためでした。モノサシについては、大宝律令で飛鳥時代からある測量用のモノサシを大尺(35.6cm)、唐王朝の一般的なモノサシを小尺(29.6cm)としていましたが、713年の改正では小尺だけを標準としたのです。小尺のモノサシは正倉院に14本が伝えられています。

715 儀式と政治、どちらも大事

710年に平城京へ都が移りましたが、そのときにすべての建物が完成していたのではありません。都の建設は区画整備から始まり、道はすぐにできるのですが、建物はしだいに増えていったのです。中枢となる平城宮さえ、遷都から20年を経ても、周囲の塀が未完成であったといわれます。平城宮の跡地は保護され、1997年には朱雀門、2010年には大極殿が復原されました。いずれも平城京の中軸線上にあります。大極殿は天皇が儀式や政治を行う場所です。復原された大極殿は「天皇の即位」「元旦の朝賀」「外賓の歓迎式典」など、国家の儀式を行う場所として設けられました。一方、復原大極殿の東南にあったもう一つの大極殿は政治を行うための施設でした。平城宮には当初から東西に二つの大極殿があって、朝儀と朝政が分けて行われました。740年に聖武天皇が平城京を捨て、745年に還都したのちに東側の大極殿だけが改築され、そこで朝儀・朝政をまとめて行うようになりました。

717 いざ中国へ出発

630年に最初の遣唐使が派遣されてから、894年に菅原道真の意見によって廃止されるまで、264年間に20回にわたる遣唐使の派遣計画がありました。そのうち奈良時代には9回が企画されましたが、実際に船が出帆したのは6回だけです。この時代は中国から朝鮮半島にかけての国際情勢が緊迫していたため、沿岸を進む安全な航路がとれず、波の高い外洋を横断する航路がとられました。遭難の危険が高まったため、遣唐使船は従来の2隻から4隻に増やされましたが、大切な人材を失うことがよくあったのです。717年に企画された奈良時代最初の遣唐使には、阿倍仲麻呂・吉備真備・僧玄ムなどが同行し、唐の長安で勉学に励みました。唐の高官となった阿倍仲麻呂は帰国を果たせませんでしたが、吉備真備と僧玄ムは次の遣唐使船に乗って735年に多くの書物を携えて帰国しました。近年、墓誌が発見された井真成も彼らと中国にわたり、帰国を果たせなかった留学生の一人です。

718 法律ができる

古代の法律を「律令」といいます。「律」は刑法、「令」はそれ以外の法律です。実際に国家を運営していくための制度は、令にまとめられています。唐王朝に見習って律令を制定しようという動きは飛鳥時代からありましたが、日本の国情に合った最初の本格的な律令といえば、702年に公布された大宝律令でしょう。ただ、大宝律令でさえ、まだまだ実情に合わない点が残されていたため、718年に天皇は藤原不比等らに命じて、改訂版の作成を進めさせたのです。改訂版は当時の元号をもって養老律令と呼ばれます。大宝律令は原文がほとんど失われましたが、幸い養老律令は復原することができます。養老令には、身分を定め、役人の仕事を決め、勤務評定を行い、税金をとる組織を整え、軍隊を編成し、神仏のまつり方を決め、公文書の書式をそろえる、などなど、実務を行うための条文がたくさん載せられています。奈良時代の政治はそういう律令に支えられて、順調に進められました。

719 女性の抵抗

和服の作法をご存知でしょうか。右の襟をもって左の脇に入れ、つづいて左の襟をかぶせます。この作法を「右前」といいます。和服をそう着るから、右前は日本の伝統だと思われるでしょうが、実は719年に右前強制のお触れが出されるまで、日本人は服を左前に着ていました。本来、右前は中国の伝統であったのです。1972年に発見された高松塚古墳の壁画を見てみましょう。これは700年前後の貴族の姿を描いたものですが、男も女も左胸のあたりで襟を留めています。これは明らかに「左前」です。古墳の人物埴輪も同様の着方をしています。つまり、719年をもって日本の伝統であった左前の作法が中国の伝統である右前の作法に負けたのです。ところが、同じく高松塚壁画の女性像を見てみますと、長い髪をいったんウナジに垂らし、余りを折り曲げて平紐でしばっています。ウナジを見せる中国の髪型が何度も強制されましたが、女性たちは頑強に抵抗し、勝利をものにしたのです。

720 フジワラ氏の巨星落つ

この年に藤原不比等が世を去りました。享年は62歳でした。けっして早死にではありませんが、藤原氏は大御所を失いました。645年に中大兄皇子とともに蘇我氏を倒した中臣鎌足の次男として生まれ、早くから才能を認められたようです。鎌足が晩年に授与された藤原の姓を名乗れたのは不比等ただ一人であったのです。672年に勃発した「壬申の乱」で中臣氏は敗者側についたために没落しましたが、不比等は持ち前の政治手腕を発揮して朝廷の重臣となりました。「親の七光」ではなく、自らの実力で地位を築いたのです。大宝律令の編纂に関わり、708年には右大臣にまで昇りつめました。平城京への遷都も不比等が主導したものだといわれます。不比等は長女の宮子を文武天皇に嫁がせ、聖武天皇を生ませました。また、三女の光明子を聖武天皇に嫁がせ、孝謙天皇を生ませました。そうして天皇家の外戚となり、不動の地位を築いたのです。藤原氏の栄華は不比等に始まるといえましょう。

721 お役人の勤務時間

平城京には7〜10万人が住んでいたと推算されています。そのうちの1割が役人でした。平城宮に勤務する役人は今の国家公務員です。721年に役人の勤務評定を厳格にするお触れが出されました。仕事にヤル気のない役人や時間にルーズな役人がいたようですね。気になる彼らの勤務時間ですが、『延喜式』という律令のマニュアルに宮門の開閉時間が記されています。それによると、夏至には午前5時30分、冬至には7時51分に大門が開けられることになっています。すべての役人はその時間に宮中へ入り、全体で朝会を済ませ、各部署に散って仕事に取りかかります。一方、退出時間は、夏至が9時24分、冬が11時18分となっていますので、勤務時間は夏季が4時間、冬季は3時間半ばかりとなります。現代のサラリーマンには羨ましい限りですが、大門が閉ざされるのは、夏至が19時27分、冬至が17時6分ですので、居残り組は、夏場では12時間の勤務を強いられたのでしょう。

723 有名人の墓発見

高松塚古墳の壁画が見つかり、世紀の発見と報道された数年後の1979年、またもや考古学の大発見がありました。『古事記』の編者として名高い太安萬侶の墓が奈良の町からひと山を越えた田原の里で見つかったのです。葬られた人の名前がわかる墓ですら珍しいのに、それが歴史人物の墓であったわけですから、世間を驚かせたのも当然です。太安萬侶は奈良盆地の中央にある田原本の出身です。そこには多神社という、多氏の氏社があります。多氏と太氏は同一氏族です。太安萬侶は多氏のポープであったのです。安萬侶は天才的な記憶力をもつ稗田阿礼が覚えていた昔話を編集して『古事記』を完成させました。723年はその安萬侶が亡くなり、火葬にされた年です。墓からは41文字が刻まれた銅の短冊が出てきました。その内容は太安萬侶の住所・官位・卒年・葬年などに及びます。こういう記録を「墓誌」といい、全国で16例が発見されていますが、11例が奈良時代のものです。

724 青い瓦、赤い柱、白い壁

奈良時代の家屋にはおよそ三種類がありました。第1は伝統的な竪穴式住居です。縄文時代から見られる原始的な家屋ですが、平安時代まで残ります。とはいえ、平城京のような都には建てられませんでした。第2は掘立柱建築です。地面に穴を掘って柱を立てたものです。屋根は草や樹皮、木の板などで葺かれます。これも日本の伝統的な建物で、今でも神社建築に残っています。奈良時代の住宅は大半がこの建て方でした。そして、第3が礎石建瓦葺建築です。礎石の上に柱を立て、屋根は瓦で葺きます。6世紀末に大陸から伝わり、仏教寺院や宮殿に用いられました。見栄えをよくするために、柱などの建材はベンガラで赤く塗り、壁は漆喰の白壁とします。赤と白のコントラストが窯で焼いた青灰色の瓦とベストマッチし、華やかで爽やかな景観を作るのです。724年には高官と富者に命じて、屋敷を瓦葺、朱塗、白壁にせよというお触れが出されました。都市の美観が図られたのです。

727 日本版ホッケー

飛鳥時代から貴族たちの間で流行したスポーツに「蹴鞠」と「打毬」があります。蹴鞠は今でいうサッカーです。中国では広いグランドで大勢がボールを蹴り合っていたのですが、日本では狭いコートの中、鹿皮で作った毬を高く蹴り上げ、その回数と優雅さを競う球技となりました。中大兄皇子が蹴鞠の会で靴を飛ばしてしまい、それを中臣鎌足が拾ったことが二人の出会いとなった、という有名なエピソードがあります。打毬はテニスボール大の毬を先の曲がったスティックで打ち合うスポーツです。走って打つ徒歩打球と馬に乗る騎馬打球があります。徒歩打球はホッケー、騎馬打球はポロですね。727年の正月に皇族や貴族の若者がこぞって春日野にでかけ、打毬を楽しんだのですが、にわかに寒雷が鳴り響き、競技はストップ。おまけに宮中に残された聖武天皇がお怒りになり、全員が兵舎に閉じ込められてしまいました。打毬のスティックは高松塚壁画の人物画に描かれています。

728 恋しや都

「青丹よし 奈良の都は 咲く花の 薫うがごとく 今盛りなり」という和歌が『万葉集』に収められています。小野老という役人が728年に遠く離れた九州の大宰府へ赴任し、奈良を思って詠んだ歌です。奈良の枕詞に見える「青丹」については、奈良に産した「岩緑青」という土だという解釈があります。ただ、この歌では繁栄する都の姿を色とりどりの花に見立てているのですから、少なくとも小野老は青丹という言葉の響きに鮮やかな色彩のコントラストを感じたのでしょう。高官や富者に命じて、屋敷を瓦葺、朱塗、白壁にするよう義務づけたことは724年の解説で述べました。これに加え、壁の連子窓は美しい青緑色に塗られます。そうした鮮やかな色彩に満ちた街の風景を想像してみてください。小野老が赴任した大宰府は日本の顔となる役所ですから、それなりに立派な建物もありますが、僻地の役所に赴任した官僚や貴族は、もっと平城京を恋しく思い返したことでしょう。

729 悲劇のプリンス一家

この年に奈良時代前半の大事件が起こりました。長屋王の変です。政界をリードする左大臣が謀反の罪で自殺に追い込まれたのですから、大変な事件です。長屋王は天武天皇の長子である高市皇子の子です。藤原不比等ともよい仲でした。ところが、不比等が世を去ったあと、長屋王は不比等の息子4人、いわゆる「藤原四子」と政治的に対立し、修復不可能な関係となってしまいました。長屋王に国を傾ける心があるとの密告があったのは、そういうタイミングでした。都の警備隊に屋敷を取り囲まれた長屋王は、自ら首をくくって亡くなりました。王妃の吉備内親王と4人の子供たちも自害しました。長屋王には不比等の娘も嫁いでいましたが、そちらはまったくお咎めなしでした。長屋王に恩のある男がのちに密告者を殺害しますが、そちらもお咎めがありませんでした。長屋王の事件が藤原四子のでっち上げであることを、当時の朝廷や民衆は公然の秘密として知っていたのです。

730 書聖と皇后

藤原不比等の娘である光明子は父親譲りの政治手腕をもっていたのか、聖武天皇の皇太子時代に妃となるや、すぐさま夫の心をつかんだようです。厚く仏教に帰依し、聖武天皇の仏教政治を影で支えました。仏教的な慈悲の心にもとづき、723年、興福寺に治療施設の「施薬院」と貧民収容施設の「悲田院」を建て、この730年には皇后の家政を担当する「皇后宮職」に施薬院を置きました。そうした慈善事業を行う一方で、政治にも深く関与し、娘の阿倍内親王が聖武天皇から皇位を譲られて孝謙天皇になった749年には、皇后宮職を「紫微中台」という名に改め、軍事権まで握りました。そうした光明子の性格は正倉院宝物のひとつである「楽毅論」に現れています。中国随一の書家で、書聖と仰がれた王羲之の書を光明子が写したものです。手本を忠実に真似るだけでなく、王羲之の真髄を読み取り、おのれの内に秘めた剛毅な力と重ねたものでしょう。最高の臨書といわれるゆえんです。

733 社会を思う歌人

万葉の歌人、山上憶良が74年の生涯を閉じた年です。歌聖と仰がれる柿本人麻呂や山部赤人が、賛歌、恋歌、叙景歌など、皇室や貴族たちの好みに合わせた歌の数々を披露したのに対し、憶良は現実の社会に目を向け、弱者の苦しみや悲しみを、歌をもって訴えました。702年の遣唐使について中国へ渡り、帰国後は地方官を歴任した憶良は、税を徴収する立場にありながら、農民たちの貧しい暮らしを哀れみました。そうして彼らの声を代弁したのが「貧窮問答歌」です。「風雨に雪もまじる寒い夜、こわばった塩を取りだして、にごり酒の肴としながら寒さに耐えるこの私よりも、さらにみじめなあなたがたはどう過ごしているのだ」と問いかける。「傾いた家の地べたにワラを敷き、家族が寄り添って寝ても、暖もないこの部屋では震えがとまらず、外では鞭を打ち税を取りたてる役人の怒鳴り声が響くばかり」と彼はいう。華やかな文化の隙間から現実の声を我々に投げかけています。

734 アシュラ人気

八部衆の阿修羅像が人気を博しています。734年に光明皇后は父の藤原不比等が建立した興福寺に、母の橘美千代の一周忌をもって西金堂を建て、釈迦像をまつりました。釈迦像の周りには帝釈天・梵天・八部衆・十大弟子などの立像が並べられて、仏の規律が立体的に表現されていたようです。お教の中での八部衆とは、釈迦にしたがう8種の種族ですが、興福寺の場合は8尊の武者像として表わされ、五部浄・沙羯羅・鳩槃荼・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・畢婆迦羅と名づけられています。いずれもヨロイで身を固めていますが、なぜか阿修羅像だけは上半身が裸で、サンダル履きの軽装です。阿修羅はもともと戦いを好む鬼神で、帝釈天と激しく戦いましたが、最後は釈迦の守護神になったのです。興福寺の阿修羅像は三面とも童顔で、六臂も華奢に作られています。設定と造形とのギャップに揺られた心の隙に迷いのない眼差しが深く入り、鑑賞者をとりこにするのでしょう。

735 中国土産

717年に唐へ渡った吉備真備と僧玄ムが相次いで帰国したのが735年でした。実に19年の年月をかの地で過ごしたのです。多くの留学生や留学僧が波に呑まれて海の藻屑となるなか、2人は中国で貯めに貯めた知識と品々をもって凱旋しました。その知識が彼らを政治の舞台に押し上げたことはいうまでもありません。2人が持ち帰った品々は国家の宝となり、文化の発展に大きく寄与しました。吉備真備は『唐礼』『太衍暦』『楽書要録』などの書籍に加えて、日の影を測る器具、調律用の銅製パイプ、漆塗りの高級な弓矢を天皇に献上し、玄ムは仏教の飛躍を促す5000巻余りの仏典と仏像を献上しました。いずれも聖武天皇が目を細くする品々でした。その後、藤原四子が疫病に倒れ、橘諸兄が政権を握ると、2人はその両腕として留学の成果を遺憾なく発揮しました。その吉備真備が副使として同行した752年の遣唐使船は、またも大きな土産を朝廷にもたらしました。中国の高僧、鑑真和上です。

741 風水の都

美濃国から近江国へ戻りかけた一行が不破の関を越えたときに、聖武天皇は何を思ったのか、橘諸兄を呼んで先発させました。山城国相楽郡の恭仁郷に都を移す計画を実行させるためです。平城京は連年疫病が流行して環境が悪化していたのでしょう。恭仁郷は元明・元正・聖武天皇がたびたび行幸した甕原宮があったところです。木津川の河畔にある景勝地の離宮でした。木津川は水量も豊富ですが、新宮は川筋がU字形に曲がり、高台が南へ張り出た好所に築かれました。北は鷲峰山の連峰が頼りがいのある背もたれとなり、東西には肘掛けとなる丘と尾根が隆起しています。中国の風水術に照らしてみれば、これ以上ない理想的な土地であることがわかります。まさしく「風水の都」といえるでしょう。聖武天皇は741年正月、垣も完成していない恭仁宮にテントを張り、元旦の儀式を行いました。そして、3月には国分寺建立の詔を発しました。以後、建設ラッシュが始まります。

742 山中の都

平城京から恭仁京への移転工事が延々と続くなか、742年2月5日に恭仁京から東北の甲賀郡へ通じる幹線道路の建設工事が始まりました。聖武天皇の新たな構想です。人里離れた閑静な地に移り住みたいという思いでしょうか。東北道は恭仁京の東で木津川に水を注ぐ和束川に沿って山間へ入り、茶の名産地である和束町を経て信楽町へ向かいます。和束町には石原宮という行在所も造られました。夏に道が開通すると、さっそく聖武天皇は信楽町の離宮に行幸します。離宮は地名に美しい漢字をあてて「紫香楽宮」と名づけられました。近年、信楽町の宮町遺跡から宮殿や役所の跡が発見され、造営に関わる木簡が7000点余りも出土しています。出土する木簡の多くは荷札です。宮町遺跡の荷札には「越前」「遠江」「駿河」などの国名が見えます。聖武天皇は743年に東海・東山・北陸など25ヶ国の物納税を紫香楽宮の造営に回すように命じました。荷札がその命令を裏付けています。

743 夢に終わった大仏計画

この年は6月に琵琶湖の水を流す宇治川が日照りで枯れました。と思えば、7月には出雲国、8月には上総国で集中豪雨による大被害が発生しました。多発する疫病や災害を憂慮した聖武天皇は新たな構想を抱きました。全宇宙を照らす仏を、みずから一日三拝することによって国家の安泰と民衆の幸福をはかろうというのです。宇宙の仏を「毘盧舎那仏」といいます。「金銅の巨像を造ろうと思うが、もし手伝おうと願うものがおれば、一本の草、一握りの土であっても寄進してほしい。ただ、諸国の役人はこのことで民衆をわずらわせてはならない。」10月15日に出された詔は大仏造立にかける熱意と民衆への慈悲に満ちていました。翌年11月、聖武天皇はみずから綱を引き、大仏鋳造の骨組みを立てました。ところが、このあと紫香楽宮は何者かによるあいつぐ山火事にさいなまれ、大仏造立計画は頓挫します。天皇の思いに反して、大事業に苦しむ民衆たちの不満は限界を超えていたのです。

745 古都へもどろう

難波宮に行幸した聖武天皇は帝都のシンボルである高御座や大盾を恭仁京から運ばせ、遷都の意志を表明しますが、何を思ったのか40日余りで難波を離れ、再び紫香楽宮へ戻ります。難波宮には伯母の元正上皇と橘諸兄が残りました。このころ天皇と彼らの仲が悪くなっていたようです。紫香楽宮に戻って盧舎那仏の造立を見守ろうと決意した聖武天皇を悩ませたのが、あいつぐ山火事でした。最初の火事は744年4月13日に起こり、その際は民衆の消火でことなきを得ましたが、745年4月には1日・3日・11日と続きました。明らかに放火です。さすがに心折れた天皇が再び官人を集めて定住の地を聞いたところ、異口同音にこう訴えました、「平城京へ戻りましょう」と。大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺の僧侶たちも天皇の帰京を望みました。5月11日、ついに天皇は平城宮へ帰ります。恭仁京に留まっていた民衆は途切れることなく列をなし、古都への帰路を急いだと伝えられます。

749 黄金色に輝く大仏の光と陰

聖武天皇の大仏造立事業を支えてきた行基が749年2月2日に菅原の喜光寺で釈迦と同じく80年の生涯を閉じました。高僧の他界に天皇は心を痛めたことでしょうが、20日後に天皇の気持ちを晴らす朗報が都に届きました。陸奥国で金鉱石が発見されたのです。国産第1号の黄金です。天皇は4月1日に大勢を率いて盧舎那仏を拝み、こう報告しました。「三宝の奴」である私はこの黄金をあなた様に捧げますと。「仏の肌は金色に輝く」と仏典に説かれていますので、その像は金メッキをしなければなりません。金の粉を5倍の水銀で溶いてアマルガムという粘土状の固体を作り、それを銅の表面に塗って熱を加え、水銀を蒸発させて金を定着させます。作業は非常に危険です。752年に大仏開眼供養が行われる直前から金メッキの作業が始まり、終了までに数年の歳月を要しました。使われた水銀は2トン余りにのぼりました。多くの人が水銀中毒で倒れたことは、容易に想像できます。

752 伎楽面登場

746年8月に始まった奈良での大仏造立事業は6年を経た752年に節目を迎えました。盧舎那仏はまだ金メッキの途中でしたが、4月9日に開眼会が行われました。病気がちな聖武上皇が余命を心配して法要を急いだ、ともいわれます。インド僧の菩提僊那が開眼の導師をつとめ、眼に墨点を入れる筆に結ばれた「開眼縷」という五色のヒモを聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇をはじめとする1万数千人が持ちました。万人の思いが込められて大仏が開眼したのです。そのときの筆やヒモは正倉院宝物として残されています。また、正倉院には大仏に舞を奉納した演舞者たちの面が保存されています。伎楽面です。西アジアや南アジアのエキゾチックな顔立ちを誇張した面を頭からすっぽりとかぶり、滑稽なパントマイムを織り交ぜて舞を披露しました。笑いを誘う彼らの舞は法要に色どりを添えたことでしょう。『続日本紀』には仏教が伝来して以来、最も盛大な式典だったと記されています。



其の五 平城遷都1300年記念

     http://pid.nhk.or.jp/event/PPG0048781/index.html <平城遷都1300年記念 「大遣唐使展」>

NHKでは、平成22年4月3日(土)〜6月20日(日)まで奈良国立博物館で、平城遷都1300年記念事業の一環として、「大遣唐使展」を開催します。わが国から中国・唐に初めての公式の使節団「遣唐使」が派遣されたのは630年のことです。それ以降、約260年間、山上憶良、阿倍仲麻呂、吉備真備、鑑真、最澄、空海ら古代史を彩った巨人たちが海を渡りました。苦難の旅を経て、彼らが持ち帰った先進的な文化や知識、情報は、日本の文化に大きな影響を及ぼしました。本展では、国宝級の文化財を国内外から一堂に集め、空前の規模で全容をたどります。
2010年1月21日

 公式サイト 公式サイトはこちら
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 会場 奈良国立博物館 [奈良公園内]
 〒630-8213 奈良市登大路町50番地
 日時 平成22年4月3日(土)〜6月20日(日)
 午前9時30分〜午後5時(入館は、閉館の30分前まで)
 ※4月30日(金)から毎週金曜日は午後7時まで
 休館日 月曜日は休館 <ただし、5月3日(月・祝)は開館>
 観覧料 一般       1,400円(1,200円)
 高校・大学生  1,000円(800円)
 小・中学生     500円(300円)
 ()内は前売・団体料金 ※団体料金は20名以上
 主催 NHK奈良放送局、NHKプラネット近畿、奈良国立博物館、読売新聞大阪本社
 共催 平城遷都1300年記念事業協会、仏教美術協会
 協賛 大日本印刷
 協力 日本香堂
 主な出品作品(予定) 「国宝 聖観音菩薩立像」(奈良・薬師寺)
 「観音菩薩立像」(ペンシルバニア大学博物館)
 「十一面観音立像」(京都・安祥寺)
 「菩薩半跏像」(フィラデルフィア美術館)
 「国宝 金銅密教法具」(京都・東寺)
 「国宝 金銅錫杖頭」(香川・善通寺)
 「国宝 刺繍釈迦如来説法図」(奈良国立博物館)
 「吉備大臣入唐絵巻」(ボストン美術館)
 「国宝 諸尊仏龕」(和歌山・金剛峯寺)
 「国宝 伝教大師将来目録」(滋賀・延暦寺)ほか
 問合せ ハローダイヤル 電話050−5542−8600