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折々の記 2010 D

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】04/16〜     【 02 】05/07〜     【 03 】05/11〜
【 04 】05/17〜     【 05 】05/20〜     【 06 】05/22〜
【 07 】06/01〜     【 08 】06/05〜     【 09 】06/11〜

【 01 】04/16

  04 16 最初の教え子の同級会
  04 20 萬晩報(ヨロズバンポウ)●トインビー
  04 27 岩村を訪ねて
  05 04 虎渓山を訪ねて

 04 16 (火) 最初の教え子の同級会



【後列左から】 北沢亮一 大淵清人 遠山栄治 北沢清人 木下仁助(倉知) 篠田清治 林 嶺人

【前列左から】 松島純男 佐々木道江() 山口光子() 岩島幸子(松島) 桐生好上(下平)

          林 みね() 小島博子(羽場) 清水紀代子() 森山美澄()

昭和二十四年四月、千代中学校へ入学した生徒の人たちは八つ違いですから、今年は七十四歳になります。 何年かに一度当時のC組の皆さんは同級会をしてきました。 亡くなった人たちも増えてきました。

今年も、松島純男君が幹事となって、昼神温泉の天心で同級会が開かれました。 (→Mapion)

短冊を一葉ずつ老生からの贈り物にしました。

    学而時習之 不亦説乎(二枚)
    有朋自遠方来 不亦楽乎(二枚)
    人不知而不慍 不亦君子乎(二枚)
    巧言令色 鮮矣仁(一枚)
    五箇条の御誓文(二枚)
       一 広く会議を興し 万機公論に決すべし
       一 上下心を一にして さかんに経綸を行うべし
       一 官武一途庶民にいたるまで おのおのその志を遂げ 人心をして倦まざらしめんことを要す
       一 旧来の陋習を破り 天地の公道に基づくべし
       一 智識を世界に求 大いに皇基を振起すべし
    以春風接人 以秋接自粛(二枚)
    ものいへば くちびる寒し 秋の風(一枚)

 04 20 (火) 萬晩報●トインビーと孫娘

データ発信をするアンテナを探していると、思わぬ発信源を見つけることがあります。

そんな一つに萬晩報というサイトがありました。

   http://www.yorozubp.com/<萬晩報>
   萬晩報とは   萬晩報(よろずばんぽう)は通信社の現役記者である主筆を中心に
   内外に65人の通信員を抱え、分野を超えたコラムを発信するジャーナリズムです。
   萬晩報の「晩報」は中国語で「夕刊」の意味です。
   1998年1月9日、京都で創刊しました。

   「萬晩報」主宰者 伴 武澄のプロフィール

 思春期をアパルトヘイトの南アフリカで過ごしたことが、人生の転機となった。それまではラジオ少年で、電気関係のエンジニアになると漠然と考えていたが、白人社会の有色人種への差別を身をもって体験し、抜きがたい白人不信に陥る。早熟な日本への目覚めが始まった。ジャーナリストになる決意もそのころ生まれた
高校時代、父の任地だったパキスタンに滞在し、仏教文化の源流を訪ねた。帰途アフガニスタンからサマルカントなどソ連領トルキスタンを旅行し、チムール帝国の足跡などを踏査した経験を旺文社の「高一時代」に執筆した。日本中で吹き荒れた学生運動には嫌悪感を感じ続け、もっぱら「西域」を中心とした東西交流史に没頭した。

探検隊を組織してタクラマカン砂漠を踏査するのが夢となった。戦前に西域での仏跡の発掘に貢献した西本願寺の大谷光瑞はあこがれの的だった。探検隊の夢は破れたが、1979年、中国が新疆ウイグル自治区のウルムチ、トルファンを訪ねた。8mmカメラで撮影したウイグル自治区の実状は瀬戸内海放送で放映された。NHKが「西域」シリーズを放映する1年前である。

外信部志望がいつのまにか、経済部記者に。1988年からのアジア経済取材と89年からの日米構造協議取材で、日本の深刻な構造問題に対する危機感が強まる。

【略歴】 ばん・たけずみ   …… 青春の頃の生活域外体験からいろいろの学習が積み重ねられている ……
1951年 高知市生まれ。
1953年 外交官の父の赴任でサンフランシスコへ。
1958年 LagunaHonda小学校入学。
1958年 帰国。武蔵野第一小学校転入。
1964年 武蔵野第一中学校入学。
1965年 父の転勤で南アフリカ共和国プレトリアへ、St.Alban's College転入。
1967年 帰国。都立高校の編入試験に落ち、武蔵野第一中学校3年に編入。
1968年 都立国立高校入学。 
1972年 東京外国語大学中国学科入学。
1977年 卒業後、4月共同通信社入社。5月大津支局赴任
1979年 4月高松支局転勤。
1982年 大阪支社経済部転勤。証券、エネルギー、電機など担当
1985年 本社経済部転勤。大蔵省、外務省、通産省、農水省、労働省、鉄鋼、化学、
     流通・食品、電機・自動車を担当。この間、中国、東南アジアなど移動特派員。
1996年 経済部次長。
1997年 4月、大阪支社経済部次長。
1998年 1月インターネットコラム日刊「萬晩報」を発刊。
1999年 5月、本社報道部次長。
2000年 4月、本社経済部次長。

【著書】
「追跡NIES経済」(1989年9月、教育社)
「21世紀のキーワード」(1990年12月、共著、TBSブリタニカ社)
「コメビジネス戦争」(1995年10月、共著、PHP)
「日本がアジアで敗れる日」(1996年10月、文芸春秋社)
「萬晩報縮刷版1」(1999年3月、かぼちゃ)
「萬晩報縮刷版2」(2000年2月、かぼちゃ)

参考のために
   http://d.hatena.ne.jp/kagawa100/20090704/1247037684
   <伴武澄講演「海外の賀川」2008年7月12日神戸 - Think Kagawa 賀川豊彦を考える>


● このサイトの中に、インビーの『歴史の研究』が載っています。 参考になるので掲載します。


シンクタンクとトインビーの『歴史の研究』

アメリカン大学客員研究員 中野 有
2005年05月23日(月)
アメリカのシンクタンク

 シンクタンクの活動にずっと興味を持ってきた。ブルッキングス研究所や大学のシンクタンクに乗り込み内部からその活動を観察してきた。そこで学んだことは、個人の発想と情熱がシンクタンクの原動力になっていること、時勢に適ったトピックのシンポジウムが開催され世界のマスコミに刺激を与えていること、そして、大学のアカデミズムと外交官の実践が調和され、加えてアメリカの視点のみならずグローバルな多国的視点で構想が練られていることである。

 数カ月前のニューヨークタイムズのコラムで指摘されていたことだが、1971年はじめにCIAは、米中関係に大きな進展は期待できないとの分析を行った。その巨大な組織と莫大な予算と時間を費やして出された結論に反し、一個人は米中関係に大きな変化があるとの分析を行った。その半年後には、キッシンジャーが北京を訪れ、周恩来との歴史的対談が行われたのである。

 見事に巨大組織の分析ははずれ、個人の洞察が現実となったのである。これは、極端な例であろうが、国務省、ペンタゴン、CIA等の巨大組織の弱点を埋める効用として、個人の構想が尊重されるシンクタンクの存在がある。そこには組織の重要なポストを経験した人物が組織では規制がありできなかったことを、シンクタンクの活動を通じ、自由奔放にマスコミに個人的な見解を情熱を持って発表している姿がある。この自由がアメリカのシンクタンクの魅力である。

トインビーの着想

 しかし、これらのシンクタンクの魅力に接しても、シンクタンクが本当に世界をそして歴史を動かすだけの含蓄があるとの満足感を得ることはできなかった。現実には、タイムリーに国際情勢の流れを洞察すると云っても、日々の出来事に敏感に反応しているだけだと感じることが多かった。

 そんな時、アーノルド・トインビーの「歴史の研究」を熟読し、米国のシンクタンクに欠如している歴史的・文化的背景を透徹する哲学的な眼光を見い出すことができた。トインビーは、英国の王立国際問題研究所の研究部長として1925年から54年まで30年かけて既存文明の生起興亡、則ち文明の発生、成長、衰退、解体という歴史過程を支配している法則を研究した。それを応用し、文明の統一性、持続性、並行性、同時性の観点から現状分析を行ったのである。

 具体例として、トインビーは、1914年の世界大戦がヨーロッパ文明にもたらした経験と、紀元前431年のペロポネソス戦争がイギリス文明にもたらした経験とが同時性があると分析し、また満州事変勃発に際し、日本の責任の重大性についてローマ帝国と戦ったカルタゴの運命であるという洞察を行ったのである。

 インビーの視点では、人類の歴史の長さから観ると文明を生みだした期間はほんの短期間であり、その文明の何千年という期間に人類は同じことを繰り返すという考えに達するのである。


 トインビーの着想をシンクタンクの活動として応用することにより、より信頼のおける構想が生み出されるように考えられる。以下、トインビーの歴史の研究を読み特に感銘を受けた示唆を列挙する。

 1 現在を遠い過去の出来事のように考えてみることにより、歴史上にある過去の時代との同時性を冷静に展望できる。 歴史を双眼的に見る。 歴史は単なる事実の集積でなく、啓示なのである。

 2 歴史と社会科学とがアカデミックに区別されていることは、偶然なことであって、この伝統的な障壁を破って、人間的問題の総合研究に投げ込まなければいけない。

 3 異なる文明に属する同胞を助け、互いに他の国民の歴史を理解することにより全人類の共通の成果と共通の財産を見いだし、敵意をいだくことを少なくすることができる。

 4 衰退に至った文明の歴史の中に、必ずしも実現することに成功しなかったとしても、事態を収拾する別の解決法が発見されたことが認められる。 それが協調の理想である。 その精神が現代に現れたのが、国際連盟と国際連合である。 この協調の理想は、孔子や老子がいだいた思想でもあった。 政治における目標は、致命的な争いやノックアウト的打撃のあいだの中道を発見することである。

 5 平和競争という形での平和共存においては、相手にうち勝つためには相手の長所をとり入れて自分の弱点をカバーしなければいけない。 そうすると、そういう作業の中で相互接近が行われる。 この線が中道の線である。

 6 国連そのものは、世界のそれぞれの国の人民とは直接つながっていない。 政府を通じてつながっている。 人民に直接つながる国連が必要である。

 7 貧しい国の利益のために、富んだ国に重税を課すことができるような強力な世界政府を作ることが重要だ。 貧乏な人達があまり挑発的・暴力的になったら、これはどうにもならない状態が生み出されるので中道の道を見つけなければならない。

 8 西欧の宗教戦争の歴史の示すところは、精神上の問題は武力によって解決できるものでないことを証拠だてている。 そうだとすれば武力解決でなく、新しい世界政治体制を造り出すことによって解決する以外に方途はない。

 9 歴史を眺める際に、我々の見地が、たまたま我々のおのおのが生まれた時代と場所によって、大部分決定されていることに気がつく。 人の見方は特定の個人、特定の国民、特定の社会の見方である。 歴史をあるがままの姿において見ようとするならば、われわれはどうしてもそこから出発するほかないが、この局部的な見方を超越しなければならない。

 10 原子力時代においては、人類は、自分たち自身を滅ぼすまいとすれば、一つの家族となって生活することを学びとらなければいけない。 これこそ、日本が学びとり、そして他に伝えることのできる真実である。

 11 文明の歴史が複数であり、繰り返しであるのに対して、宗教の歴史は一つであり、前進的であるように思われる。 ユダヤ教から派生したキリスト教とイスラム教において、宗教は異なっても啓示は一つであることの寛容的精神が重要である。


日本の岐路に求められるシンクタンク


 米国には世界を動かすシンクタンクがある。これらのシンクタンク機能に、トインビーが我々に伝えるメッセージを生かし、さらに日本の特徴を盛り込んだシンクタンクを創造すれば、我々が直面する危機、例えば核問題や国際テロに対応できる活動が可能となろう。

 日本の特徴は、宗教に寛容な多神教、和を尊ぶ協調の理想、世界で唯一の核被爆国である。加えて、東西の文明を日本の特徴を生かし融合させてきた柔軟性にある。一方、日本の弱点は、個人の発想や情熱が生かされる土壌に欠けており、島国的発想で国益中心で、地域全体の利益や地球益に欠けていると考えられる。そして世界に発信するパワーが限定されているところにある。また周辺諸国に対し寛容な精神が欠如していることが、日中や日韓関係をぎくしゃくさせている。

 アジアの分断が加速されることで、多国間協調の足並みがそろわず北朝鮮の核問題への抑止力が低下している。日本が偏狭なナショナリズムに傾くことで、国連常任理事国の一角を担う中国を刺激し、目前に迫っている国連改革や日本の国連常任理事国加盟も水泡に帰す。トインビーが指摘するように中道の道、協調的な理想を実現するためには国連の存在は重要である。

 日本は、日米同盟、国連外交、アジア重視の外交路線を貫くことが重要であり、そのためには歴史観と多角的視点に基づく明確なビジョンが求められる。まさに日本は、国連とアジアという日本の運命を左右する岐路に直面しているのである。

 日本は、周辺諸国との経済格差を考慮し、寛容な行動で相手を挑発的にさせぬ外交の良策を行う必要がある。アジアの国々と調和することにより、国連常任理事国の地位を得ることができるのである。周辺諸国との調和なしには、日本は国連の重要な地位を失う。結果的に中国の更なる上昇と日本の下降を招くのである。

 国際テロ、宗教の対立に端を発し、最悪の場合、核兵器により人類や地球の危機が訪れる。このような危機的な国際情勢において、平和共存や協調的な理想に向けた新たな世界政治体制が構築される可能性が増すと考察される。遠い将来になるかもしれないがトインビーが説く市民を主役とする国連が生まれる。そこで被爆国であり多神教国家の日本の貢献が期待される。人類の歴史を探れば、何千年後もほんの短い期間であるのだから、現下の状況も過去と未来の狭間の中で人間の個性が生かされた道に進むと考えられる。このような発想でシンクタンクを創設したい。



● 折々の記 2005 A 【 10 】08/10〜 08 20 トインビーの孫娘

トインビーというと、2005/8/10 に、前掲の「シンクタンクとトインビーの『歴史の研究』」と共に「A・トインビー博士の孫娘(ポーリー女史)の手記」が載せてあります。 載せたときの感想がそこに書かれているので再読するとよい。

ともあれ、「萬晩報」を主宰した高知県出身の‘伴 武澄’が青春期に体験した強烈な心象によって、今日の活動が生まれてきたことを痛感せざるを得ないのです。

 04 20 (火) 萬晩報

最近の伴武澄さんの記事には、Think Kagawa(8)として賀川豊彦について連載されています。

 日野原先生が講演で話した「賀川は米国留学でリベラル・アーツ(一般教養)を教わったことが、その後の多面的な活動に大きく影響した」という話が印象的だった。本来、学問はリベラル・アーツが基礎にあって、社会科学や自然科学のそれぞれの分野が研究されなければならないのに、日本ではリベラル・アーツ抜きで専門分野に入っていくため、研究対象に深みが生まれない。

 04 27 (火) 岩村を訪ねて

  2009/04/15 岩村訪問を参考に開きたい。



下田歌子の歌碑「春月」の前にて

      手枕は 花のふぶきに うづもれて
             うたたねさむし 春の夜の月
  ……御題「春月」……

2010/04/25 もう73才になっている大事な教え子・松島純男と一緒に、恵那市岩村町の岩村城址と歴史資料館、岩村藩出身の佐藤一斉と下田歌子(平尾碩)の事績を学ぶことにしました。(→Mapion)

人生にとって孝行と幼少の学問がいかに大事なものかを深く理解しておくため、岩村訪問は欠かせない体験だと思っています。 老生の幼児教育の原点も、また同じものなのです。

新政権が実施している方向は、第二の明治維新といってもいい。 喬木の教育は喬木村が築き上げなくてはならない。 自分で築かなくてはどうにもならないのです。

かえるの会も、教育委員会も、教育がもつ重大な意味を歴史を検証しながら深く理解しなければならないのです。

歴史上でみればギリシャの真実を求める気風フィロソフィーにまずは注目しなければなりません。 そいて端的には、その子を有用な人物に育て上げたヴィッテの実例を検証しなければなりません。 現在、ヴィッテの流れを実践したジツコ・スセディックを基本にしなければならないでしょう。 さらに、偉人といわれる人たちの養育の検証をしなければならないでしょう。

教育は温故知新が原則なのです。

老生はそんな風に考えているのです。 みんなで、手を取り合って築き上げて生きたいのです。 一歩ずつでもいいのです。 大事なのはその夢の灯りを絶やさないことです。

落ちついた岩村訪問ができました。

 05 04 (火) 虎渓山を訪ねて



【虎渓山永保寺】
五月二日訪問 夫妻と息子俊成
左側から梵音岩、観音堂、無際橋、池の中に鶴島、亀島
   

データとしては
 MapFan.netの虎渓山永保寺(1/3,125)地図
 http://kokei.or.jp/関係のデータ
 http://muso.to/日本の庭園
 http://muso.to/teienn-musounoniwa.htm
 (無窓疎石の遍歴と庭園)
 http://muso.to/teienn-eihoji.htm
 (虎渓山永保寺 日本の庭園の原点)

好天に恵まれて写真がくっきりと景観を映し出してくれました。 売店で坐禅石へいく道をおききし、三笑橋をわたって坐禅石までよじのぼりました。 殆どの人は行きません。

小さい硬い石を記念にひろってもち帰りました。(→Mapion)

http://www.gifu.sakuraweb.com/climbing/20030504kokeizan/index.htmll
虎渓山・永保寺

これは個人のサイトですが、役に立ちます。
見学がすんでからいつも気づくのですが、見る場所やカメラに収める場所などを明確にしておいて『シマッタ !!』という失望感をなくしたいものです。 今回もいくつもあります。 もう一回行くのもいいでしょう。
老生の撮った写真は 38 枚でした。