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折々の記 2010 G

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】12/23〜     【 02 】12/29〜     【 03 】01/05〜
【 04 】01/07〜     【 05 】01/09〜     【 06 】01/11〜
【 07 】01/12〜     【 08 】01/14〜     【 09 】01/15〜

【 06 】01/11

  01 11 大河ドラマ「江」データ編

 01 11 (火) 大河ドラマ「江」データ編

一昨日から大河ドラマ「江」がはじまりました。 田淵久美子さんの本、上下を手に入れて読みまじめています。

それは「折々の記 2010 G 【 05 】01/09〜 大河ドラマ」で取り上げましたが、前に調べていたデータが多いので『大河ドラマ「江」データ編』として編集しておきます。

NHKテレビ番組の記録  “「江を読む」(x/47)URL”このサイトでその日の内容を掲示していきます。

No
放映
主  題
み ど こ ろ
「江を読む」(x/47) URL
 01 01/09 湖国の姫 江誕生の場面 http://park6.wakwak.com/~y_shimo/momo.249.html
 02 01/16 父の仇 江、信長を尋問 
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■データ 00

    データ目次

No
デ ー タ 名
データの URL
そ の 他
01 【17】崇源院の前半生
 テーマ:お市と三姉妹の生涯
 http://blog.ko-blog.jp/nhktaiga2011kinen/kiji/18516.html  
02 崇源院さまの話 http://blogs.dion.ne.jp/miraiki/archives/7510161.html  
03 お江与の方(おえよのかた) http://www.m-network.com/sengoku/haka/sugen640h.html 
04 歴史の中の3姉妹 江(崇源院)  http://blog.goo.ne.jp/kureodora1104/e/6302378c6c9d3a2ff0b521dfce74dd94  
05 崇源院ってなにをした人なんですか? http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1050891975 
06 芝増上寺の旅  http://chibanikki.blog22.fc2.com/blog-date-200612.html  
07 江ゆかりの地マップ  http://www.pref.shiga.jp/f/kanko/kanko/2011taigadorama/gouhime-top.html  
08 崇源院、春日局
 徳川忠長の供養塔・金戒光明寺
 http://kyotohotelsearch.com/blog/2010/11/22/kurodanikuyoto/  
09 金戒光明寺の観光情報  http://kyotohotelsearch.com/kankosakyoku/konkaikomyoji.html  
10 おくり‐な【贈(り)名/×諡】  http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/30548/m0u/%E3%81%8A%E3%81%8F%E3%82%8A 
11 贈り名  http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/thsrs/10152/m0u/ 
12 大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」  http://www.nhk.or.jp/go/ 
13 大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」
 江とは?
 http://www.nhk.or.jp/go/about/index.html 
14 大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」
 人物相関図
 http://www.nhk.or.jp/go/cast/index.html 
15 大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」
 関連情報#infohead
 http://www.nhk.or.jp/go/info/index.html#infohead 
16 歴代天皇125代総覧  http://inoues.net/tenno.html 
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■データ 01

    http://blog.ko-blog.jp/nhktaiga2011kinen/kiji/18516.html
    【17】崇源院の前半生  テーマ:お市と三姉妹の生涯

 崇源院は三姉妹の末娘であり、天正元年(1573)に小谷城で生まれた。まさに、落城の年である。名は江、小督(おごう)、江与(えよ)、諱(いみな)は達子・徳子と言ったという。
 徳川幕府の正式な家譜である『徳川幕府家譜』によれば、徳川家忠の御台所となった江は、最初尾張国大野城(愛知県常滑市所在)の城主・佐治一成のもとに嫁した。歴史学者・小和田哲男氏によれば、それは天正12年(1584)の初めであったとする。佐治一成の母は信長の妹・犬であるから、一成と江をはじめとする三姉妹は、従姉妹同士ということになる。
 ところが、同じ年の9月頃、小牧・長久手合戦から三河へ帰る徳川家康が、大野川を渡りかねていたところを、一成が船を出して手助けしたこと聞いた秀吉は、江を茶々の病気を理由に呼び戻し、佐治家へ返さなかったという。秀吉は「佐治は予の相婿には不足なり」と激怒したというが、これが事実ならば、淀殿はすでに秀吉の側室となっていたことになる。すなわち、一般的に言われるより早く、淀殿は秀吉の側室となっていたと福田千鶴氏は推定する。
 『徳川幕府家譜』によれば、江は岐阜城主となっていた羽柴小吉秀勝の妻となる。文禄元年(1592)2月のことという。秀勝は三好吉房と秀吉の姉・ともの間に生まれた子で、兄が関白秀次、弟に羽柴秀長の養子となった秀保がいる。江が秀勝のもとに入ったのは、文禄元年2月であったが、夫の秀勝は同年9月9日に、朝鮮出兵の途中に24歳で病死してしまう。
 江と秀勝の間には、一女(完子)が生まれているが、茶々によって養育され、その養女となって公卿九条幸家に嫁いだ。『徳川幕府家譜』はこの後、江は公卿の九条道房に嫁したとするが、この完子の嫁ぎ先と混同した誤りである。(滋賀夕刊2009/10/15)

■データ 02

    http://blogs.dion.ne.jp/miraiki/archives/7510161.html
    崇源院さまの話 2008年08月18日

 崇源院 お江の方(1573〜1626)。
 2代将軍・徳川秀忠公のご正室にして、3代将軍・徳川家光公のご生母とされます。
 父は近江・小谷城主、浅井長政公、母は織田信長公の妹、お市の方でして、幼年期に父の浅井長政公は織田信長公によって討たれ、お江の方は母、姉ともに尾張へ引き取られます。
(浅井家のルーツは、物部守屋にさかのぼるといいます)

 母であるお市の方は、信長公の没後に柴田勝家公と再婚し、越前に移りますが、羽柴秀吉公によって柴田勝家公、お市の方は亡くなり、お市の方の3人の息女は秀吉公に引き取られます・・・・・・。
 長女の茶々さまは、秀吉公の側室となり、次女のおはつさまは京極家に嫁ぎます。
 末娘のお江さまは、佐治予九郎と結婚後に離婚されられ、秀吉公のおいにあたる羽柴秀勝公と再婚するも秀勝公が病没。
 さらに秀吉公の命により、関東にあった徳川家康公の子である秀忠公と再婚します。
 関東、江戸城に入ったお江の方ですが、秀忠公との仲はよく7人もの子に恵まれたといわれています。
 しかし、長姉の茶々さまの子である秀頼公と徳川家が戦闘状態となり、大坂城が徳川によって落城し、茶々さまら多くの肉親を失う悲運も経験しています。

 徳川家の家督相続をめぐって長男である家光公と次男である忠長公が争い、これを家康公が「裁定」したのは有名な話ですね。
 これは、三河人気質を受け継いだ家光公と尾張人気質を受け継いでいる忠長公をめぐって徳川家の内部で「三河派閥」と織田・豊臣家につながる「尾張派閥」の権力闘争ですね・・・・。
(三河生まれが多い徳川譜代の家臣団が三河人気質の家光公を支持するのは、ある意味当然ですが・・・・)

 お江の方は、家光公の将軍就任後に夫である秀忠公に先立ってご他界されます。58歳だったといいます。
 江戸・我善坊谷(現在の東京・六本木近く)で荼毘にふされ、墓は芝の増上寺に埋葬されたといいます。
 「崇源院」とおくり名され、9メートルもの石の石塔を墓碑にしたといい、秀忠公のお江の方への愛情が感じさせます・・・・・。
(この石塔は、秀忠公の死後に家光公によって解体されています)
 後に廟所の建物が鎌倉・建長寺に移築され、新たな廟所が建立されたといいます。
 しかし、先の戦災で東京にあった「崇源院さま」の廟所は焼失、戦後の徳川家による改葬により崇源院さまの墓は「合祀塔」に改葬されているといいます。

    鎌倉にある旧崇源院霊屋についてはこちら
    http://www.geocities.jp/onriedo_gongujodo/zojoji-tatemono.html
 追記
 現在、東京・芝 増上寺にある2代将軍・徳川秀忠公の墓である石塔は、夫人である崇源院さまの旧墓塔を転用されたとされています。
 秀忠公の墓である木造宝塔が戦災で焼失されたために崇源院さまのお石塔が使われたとのことです。

この記事へのコメント

今日は。
私は前から不思議に思ってましたが、各歴代の御台所は大抵埋葬される時は土葬が多いのに(現に最近発掘があった寛永寺の徳川墓地の二人の将軍御台所の墓は土葬でした)何故、崇源院さまの場合は火葬だったのでしょうか?
当時としては火葬で埋葬されるのは稀有な事で、余程の理由からってききますが…
又家光公は何故、生母の崇源院さまの9メートルもあった立派な石塔墓を壊してしまったのでしょうか?此も母親憎しから来てるのでしょうか?
大和こころさん何かご存知ありませんか?

こんばんは。
崇源院さまがなぜ火葬になったかまでは詳細不明です。崇源院のお石塔は戦後の増上寺の徳川家墓地改葬で発見されたといいますが、その後はどうなったかはまだしらべていないのですね。
想像では「秀忠公の墓」は木造建築でつくられていて、墓碑の宝塔も木造だったといいますが、戦災で焼失しています。
巷間いわれる愛憎もあるかもしれませんが、おそらく秀忠公の墓より質素になるように再建されたと思っています。

■データ 03

    http://www.m-network.com/sengoku/haka/sugen640h.html
    お江与の方(おえよのかた) 1573〜1626

崇源院。浅井長政とお市の方の間の娘で、淀君の妹。徳川秀忠の正室となり、家光を生んだ。写真は高野山奥の院にある崇源院の墓で、東京都港区の増上寺にも彼女の墓がある。法名は「崇源院昌誉和興仁清」。

☆参考資料☆

この墓を建立したのは、彼女の子で後に実の兄である江戸幕府三代将軍家光から改易され自害した駿河大納言徳川忠長である。

■データ 04

    http://blog.goo.ne.jp/kureodora1104/e/6302378c6c9d3a2ff0b521dfce74dd94
    歴史の中の3姉妹 江(崇源院)

江(崇源院)

 2度の不幸な結婚生活の後、家康の嫡男で後の徳川2代将軍徳川秀忠の正室となり、3代将軍家光や和子・後水尾天皇の中宮、明正天皇の生母たちを産む。
 多くの子を出産してきたため、自らの子孫を後代に残せなかった姉2人とは対照的に、彼女の血筋は現在まで続いている。 なお、諱については諸説があって未だにはっきりしていない。
 天正元年浅井長政の三女として近江国小谷現滋賀県湖北町に生まれる。 母は織田信秀の娘・お市の方。 9月1日父・長政が妻・お市の兄・織田信長と対立し、小谷城が落城され、長政、が自刃すると母・お市、姉・茶々、初とともに城を逃れ信長に保護される。
 この時、兄・万福丸は信長の命により殺されている。
 天正10年6月2日本能寺の変で伯父・信長が家臣明智光秀に殺され、6月27日後継者を決める清洲会議により母・お市は信長の家臣柴田勝家と再婚し越前国北ノ庄城へ移る。
 天正11年賤ヶ岳の戦いで北ノ庄城が落城、勝家とお市の自害後は豊臣秀吉の元へ保護される。
 天正12年秀吉の命により母の姉(織田信長妹お犬の方)の子佐治一成へ嫁ぐ。 だが一成が小牧・長久手の戦いで信長の跡継ぎのことで秀吉と不和になった母の甥織田信雄 織田信長次男を擁立した徳川家康に味方したため秀吉の怒りに触れた一成は秀吉から所領を没収されるとともに離縁させられた。
 文禄元年1592年、再び秀吉の命により秀吉の甥・秀勝(小吉秀勝。関白秀次弟)の元へ嫁ぎ、同年完子(九条忠栄室)を産むが、文禄の役で秀勝は死去。
 文禄4年9月17日家康の三男・秀忠に嫁す。 再々婚である。 なお、前夫・秀勝との子である完子は長姉・茶々(淀殿)の猶子として引き取られる。
 慶長2年千姫、母方の祖を出産。 秀頼の母は秀吉の側室となった長姉・茶々である。 また、再嫁した本多忠刻の母は義父・家康の長男で秀忠の長兄松平信康と信長の長女・徳姫の娘である。
 慶長4年珠姫(前田利常室。前田光高の母で前田綱紀の祖母)出産。
 慶長6年勝姫(松平忠直室)出産。 松平忠直は義父家康の次男秀忠次兄の結城秀康(松平秀康)の長男。
 慶長7年初姫(京極忠高室)出産。京極家は次姉・お初(常高院)の嫁ぎ先。だが、忠高は常高院の実子ではなく側室の子。
 慶長9年(1604年)8月12日、家光出産。
 慶長11年(1606年)、忠長出産。
 慶長12年10月4日和子(後水尾天皇中宮の東福門院、明正天皇母)を出産。
 9月15日、江戸城西の丸で死去、享年54。 法名は「崇源院昌誉和興仁清」。 この時、秀忠・家光・忠長は上洛中であった。 寛永3年11月28日、従一位を追贈される。
 徳川将軍御台所(正室)で将軍生母となったのは後にも先にも彼女だけである。 親族の死、政略や実家の跡継ぎ争いに巻き込まれた前半生とは違い、将軍御台所・将軍生母として安定した後半生を過ごした。
 死後、お江与は二男・家光が増上寺に埋葬した。
 なお、お江与は身分が高かったのにもかかわらず、火葬。 戦後、鈴木尚が中心となって行なわれた増上寺の徳川家墓所発掘調査の際に、崇源院の墓も発掘され、その遺骨も調査された。
 それによると、火葬にされており、生前の崇源院はかなり小柄で華奢な美女であったようである。
 淀殿(茶々)・常高院(初)・崇源院(江)のいわゆる「浅井三姉妹」は、「戦国一数奇な運命を辿った姉妹」として知られる。 いずれも母・お市の方の美貌を受け継いだ美女で、幼い頃からたいへん仲の良い姉妹だったと伝えられる。
 だが実のところ、これほど身分が高く歴史的にも重要な人物でありながら、崇源院の容貌・性格などを含めた人物像を伝える確たる史料は少ない。 小説・ドラマなどでは、前述のイメージや、夫・秀忠との関係から類推して、美貌で誇り高いがヒステリックで嫉妬深い性格の人物として描かれる事が多い。
 が、作家永井路子は彼女を母や姉達ほど美人でもなく機転が利く訳でもないが、どんな運命に巻き込まれても平然と受け流し、その度に魅力を増していく女性という、全く別の解釈をしている。
 夫・秀忠はお江与と結婚して以降、浮気はあったが正式な側室は1人ももたなかった。
 彼女が秀忠より年上で、嫉妬深い性格であったため、律義な性格であった秀忠は頭が上がらなかったとされるが、それだけ魅力のある女性ではあったようだ。
 また、春日局との対立から、「自ら養育した」三男忠長を溺愛し二男・家光を疎み廃嫡を企てる悪女のイメージも強い。
 かつては実子でもお気に入りの子だけをあからさまに贔屓するのは普通の事で、実際に三男の方を可愛がっていた可能性はあるが、近代以前高貴な女性は決して我が子に自ら授乳し育児をする事は無い(それは乳母の役目。事実、忠長にも乳母が付いている)という常識からして、それは有り得ない。
 「嫡子(長子)相続制」を定めた家康の政治的意図や、春日局が彼女の死後に大奥で絶対的権力を握った背景も考慮すべきであろう。
 二男・家光よりも三男・忠長を可愛がったのは、忠長が母・崇源院の伯父・織田信長によく似ていたためであるという。 忠長の妻は織田信長の次男織田信雄の孫娘であり、母・崇源院がいかに織田家との血筋を重んじていたのかが伺える。

■データ 05

    http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1050891975     崇源院ってなにをした人なんですか?

 大河ドラマ江が来年から始まりますがいったい何をした人なのかよくわかりません。 教えてください。  ストアンサーに選ばれた回答si728664さん  徳川秀忠(徳川幕府第二代征夷大将軍)と結婚する前は豊臣秀吉の甥・羽柴秀勝の正室でした。 秀勝との間にもうけた姫(完子)は昭和天皇以下各親王(秩父宮・高松宮・三笠宮)の先祖のひとりとなりました。  さらに、徳川秀忠との間にもうけた子のうち、末娘が後水尾天皇の中宮となり、明正天皇(女帝)の母になりましたので崇源院(お江)の子孫からは天皇が3名も出た、ということになります。 母は強し…。

■データ 06

    http://chibanikki.blog22.fc2.com/blog-date-200612.html
    芝増上寺の旅

 芝の増上寺に行ってきました。ここは徳川将軍家の菩提寺であると同時に、開山は千葉介氏胤の子・酉譽聖聰という千葉氏ゆかりのお寺でもあります。
 地下鉄大門駅を出て、少し歩くと、最近建立の増上寺大門があります。「大門」といってもそれほど大きくなく、横浜中華街の門のようなカンジですね。かつてはこの門が「増上寺」の入口でした。
      写真・・・大門
 大門をくぐって少し進むと、安養院という増上寺の塔頭があります。門には「七曜に真向月星」の紋が! 屋根にも同じような七曜月星が。。。この塔頭、千葉氏と関係があるのでしょうか。
      写真・・・塔頭安養院
 さて、また歩いていくと、いよいよ三解脱門です。国道沿いにどーんと構える赤い勇壮な門は、一見すると「表門」のようですが、これは寺の中の門です。中門みたいなもの?
 境内に入ると、真正面に本堂と東京タワーが見えます。これだけ広く見える寺ですが、江戸時代と比べると十分の一以下の広さになってしまっています。
      写真・・・かつての増上寺(薄緑の範囲)
 明治政府によって多くの土地が没収されて公園となり、歴代将軍や公子、御台所などの御廟も、太平洋戦争ですべて壊滅。跡地の多くを西武グループが買い取りました。そのため、諸大名が奉納した燈籠やら建物、門などが全国各地へ流出していきました。一部西武グループが集積して本拠の狭山に寄せ集めで作った寺が狭山不動寺。燈籠などは柵の中に集められて、収容所状態です。しかも節操の無いことに、この不動寺の宗派は増上寺の浄土宗ではなく、寛永寺の天台宗ときてますから開いた口がふさがらない。
 しかも、東京プリンスホテルが建っている場所、そこは歴代将軍が眠っていた霊廟のまさにその場所。さらにプリンスホテルパークタワー(それ以前はゴルフ練習場にしてました)が建っている場所、そこは二代将軍・徳川秀忠霊廟跡です。我が家は旗本の子孫ではないので徳川家に恩も義理もありませんが、そういった霊廟跡というか、廟所跡とあからさまに判っているところにホテル? ゴルフ練習場? 西武創始者の道義的、倫理的な資質は推して知るべしです。
      写真・・・本堂
      写真・・・プリンスホテル(将軍家廟所跡)
      写真・・・鎌倉時代の諸菩薩
 とまぁそんなことを考えつつ、もと来た地下鉄大門駅から帰途に着きました。

■データ 07

    http://www.pref.shiga.jp/f/kanko/kanko/2011taigadorama/gouhime-top.html
    江ゆかりの地マップ

大津城跡
浅井三姉妹の次女初が嫁いだ京極高次の居城。 関ヶ原前哨戦において高次とともに籠城したといわれています。 落城後、部材は彦根城などで用いられたそうです。 江戸時代には東海道最初の宿場町として商業の町として栄えました。

坂本城跡
明智光秀の居城。織田信長の命により築城されました。 本能寺の変で主君信長を討ち、その後山崎の合戦で敗れ坂本城も落城。

大溝城跡
織田信長の甥信澄が築いた湖城。 京極高次の居城でもあります。 内湖に面した天守と西近江路が近江の湖城独特の景観をつくっていました。

水口岡山城跡
水口岡山城は、戦国末期に築城された城跡で、水口城に対して「水口古城」とも呼ばれています。 1585年(天正13年)に豊臣秀吉の家臣である中村一氏によって築城され、のちに豊臣政権の中枢、増田長盛、長束正家が入城しています。 関ヶ原の合戦の敗北によって西軍方に属していたため落城しました。  水口城を築城する際ほとんどが運び出されていて、わずかに石垣が残っているだけになっています。

小谷城跡
浅井三姉妹の父浅井長政の居城。彼女たちが幼少の頃を過ごした地です。 天正元年(1573年)織田信長の攻撃により落城。 父浅井長政終焉の地でもあります。 小谷山に築かれた城跡を見ることができるとともに麓では資料館もあり、小谷城や浅井氏について知ることができます。

長浜城
豊臣秀吉の居城。 本能寺の変の後、柴田勝家の甥・勝豊が二代目の城主となったがわずか6ヶ月ほどの短期間で次に三代目の城主として秀吉の家臣である山内一豊が入城しました。

清滝寺
京極家の菩提寺。 京極家に嫁いだ浅井長政の姉マリアは、竜子、高次の母となり再興を果たします。 清滝寺の京極家墓所や中山道柏原宿など見どころがあります。

佐和山城跡
「三成に過ぎたるもの」と言われた石田三成の居城。 関ヶ原合戦の後、彦根城を築いたことにより廃城となりました。 佐和山城のほか、国宝彦根城や鳥居本宿など江戸時代の城と城下町、そして中山道の宿場町をみることができます。

安土城跡
浅井三姉妹の伯父織田信長の居城。浅井三姉妹もここに訪れたことでしょう。 西の湖に面した安土山全山にめぐらされた石垣、滋賀県立安土城考古学博物館において中世の城や信長について学ぶことができるとともに、復元された安土城天主が展示されている信長の館があります。

八幡山城跡
豊臣秀吉の甥秀次の居城で、安土城下町を移して成立しました。 後に京極高次の居城にもなりました。 近江商人発祥の地でもあり、商人屋敷やヴォーリス建築、国の重要文化的景観制度の第一号として選定された八幡の水郷など見所満載です。

■データ 08

    http://kyotohotelsearch.com/blog/2010/11/22/kurodanikuyoto/
    崇源院、春日局、徳川忠長の供養塔・金戒光明寺

京都の歴史京都市左京区の金戒光明寺の墓地には、崇源院、春日局(かすがのつぼね)、徳川忠長の供養塔があります。 いずれも江戸時代初期の人物で、お互いに深い関係があることで知られています。

崇源院の供養塔
金戒光明寺の墓地は、境内の東側にあります。 墓地に入ってすぐの左側の石段を上ったところに建っている大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)が崇源院の供養塔です。
      写真・・・崇源院の供養塔
崇源院は、浅井長政と織田信長の妹のお市の方との間に生まれた女性で、お江(おごう)の名でも知られています。 姉には、豊臣秀吉の側室となった淀殿と京極高次に嫁いだお初がいます。 3人を総称して浅井三姉妹とも呼ばれていますね。
お江は、後に徳川秀忠に嫁ぎます。 2人の間には、豊臣秀頼に嫁いだ千姫、徳川家光、忠長など7人の子供がいました。

春日局の供養塔
崇源院の供養塔の左には、春日局の供養塔があります。
      写真・・・春日局の供養塔
春日局という名は、朝廷から賜ったもので、本名はお福といいます。 お福は、明智光秀に仕えた斎藤利三の娘として誕生しました。 明智光秀が山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れると斎藤利三は処刑されます。 しかし、お福は女性だったため、捕えられることはありませんでした。 その後は、稲葉正成に嫁ぎ、慶長9年(1604年)には徳川家光の乳母となります。

徳川忠長の供養塔
崇源院の供養塔の右側には、徳川忠長の供養塔が建っています。
      写真・・・徳川忠長の供養塔
忠長は、徳川秀忠と崇源院の間に生まれた子で、徳川家光の弟です。 家光が乳母の春日局に育てられたのに対して、忠長は母の崇源院によって育てられたと言われています。 そのため、崇源院は、兄の家光よりも弟の忠長を可愛がり、次期将軍にしたいと思っていました。 しかし、崇源院の忠長に対する溺愛は、その後、将軍継嗣問題へと発展していくことになります。
 この問題を解決しなければならないと思ったのが春日局です。 春日局は、元和元年(1615年)に徳川家康に会いに行き、事の次第を報告して、3代将軍を家光にするように願い出ました。 そして、家康は鷹狩と称して江戸城に行き、満座の中で次期将軍は家光とすることを宣言し、将軍継嗣問題は解決します。
元和9年に家光が3代将軍になると、その翌年の寛永元年(1624年)に忠長は、甲斐、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)あわせて55万石を領有することになります。 このことから忠長は、駿河大納言と呼ばれるようになりました。
忠長は、55万石を領有する大大名になりましたが、それに満足せず、父の秀忠に100万石に加増か大坂城をくれるように頼みます。 しかし、この願いは秀忠に受け入れられませんでした。
その後、忠長の素行が悪くなります。 幕府は、彼の領地を没収し、安藤重長のもとに預けました。 そして、忠長は、寛永10年に幕命により切腹させられ、この世を去りました。
忠長の一件について、その責任の一端が自分にもあると感じた春日局は、寛永11年に金戒光明寺に忠長の供養塔を建立しました。
ちなみに崇源院の供養塔も春日局が、寛永5年に建立したものです。
なお、金戒光明寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。
金戒光明寺の詳細

■データ 09

    http://kyotohotelsearch.com/kankosakyoku/konkaikomyoji.html
    金戒光明寺の観光情報

由緒
金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、承安5年(1175年)に比叡山の黒谷で修業を終えた法然がその師・叡空から与えられた土地に、浄土宗を確立するために草庵を結んだのが始まりとされる。  諸堂が整えられたのは、5世の恵(えがい)の時で、紫雲山光明寺と名付けられた。 そして、8世の運空が後光厳天皇から「金戒」の2文字を賜り、金戒光明寺と呼ばれるようになった。  また、正長元年(1428年)には、法然が最初に浄土教の真実義を広めた念仏発祥の地として、後小松天皇から「浄土真宗最初門」の勅額を賜った。  その後、応仁の乱(1467年)で焼失するが、17世の理聖が復興する。  なお、金戒光明寺は黒谷の通称で親しまれている。また、知恩院、知恩寺、清浄華院と並び浄土宗四ヵ本山のひとつである。

山門
高麗門(ページトップの写真)をくぐり東に歩くと建っている山門。山門楼上の勅額には後小松天皇の宸筆で「浄土真宗最初門」と書かれている。現在の山門は、文政11年(1828年)に江戸幕府の命により再建されたものである。
御影堂
山門をくぐった正面に建つ御影堂(みえいどう)。法然自作の御影像が祀られている。昭和9年(1934年)に火災で焼失した後、同19年に再建されている。
阿弥陀堂
御影堂の東側に建つ阿弥陀堂。恵心僧都源信の最後の作とされる阿弥陀如来像が安置されている。この阿弥陀如来像は、仏像彫刻に必要なのみを胎内に納めているとされることから「のみおさめの如来」と言われる。現在の阿弥陀堂は、慶長10年(1605年)に豊臣秀頼が再建したものである。
鎧掛けの松
御影堂と阿弥陀堂の間にある鎧掛けの松。平家物語の中で平敦盛を討ち取った熊谷直実が法然の弟子となり出家した際に、着ていた鎧をこの松にかけたとされる。現在の松は2代目。
三重塔
阿弥陀堂の東の方にある石段を登り終えたところに建つ三重塔。寛永10年(1633年)に徳川秀忠の菩提を弔うためにその家臣の伊丹重好によって建立された。
紫雲石
三重塔から北に歩くと塔頭(たっちゅう)の西雲院がある。西雲院は法然ゆかりの名石で寺宝として伝わる紫雲石を守るために元和2年(1616年)に宗厳(そうごん)によって創建された。

■データ 10

    http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/30548/m0u/%E3%81%8A%E3%81%8F%E3%82%8A
    おくり‐な【贈(り)名/×諡】 崇源院

1 死者にその生前の徳や行いなどに基づいて贈る称号。のちの、諱(いみな)。諡号(しごう)。
2 戒名。
戒名(かいみょう) 法名(ほうみょう) 諡号(しごう) 諱(いみな) 追号(ついごう) 霊位(れいい)  ⇒類語辞書で詳しい使い方を調べる ⇒おくり【贈り】の全ての意味を見る

■データ 11

    http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/thsrs/10152/m0u/
    贈り名

戒名(かいみょう)/法名(ほうみょう)/諡号(しごう)/諱(いみな)/贈り名(おくりな)/追号(ついごう)/霊位(れいい)
[共通する意味] ★死後に付けられる名。
[英] a posthumous Buddhist name
[使い分け]
【1】「戒名」「法名」は、死者に付ける名。また、出家した人に授けられる名のこともいう。
【2】「諡号」「諱」「贈り名」「追号」は、貴人や高僧、また、生前の功績などをたたえて贈る名をいう。
【3】「霊位」は、僧が、法事などで故人を呼ぶ名、死者の霊に付ける名をいう。また、それを記した位牌(いはい)のこともいう。

■データ 12

    http://www.nhk.or.jp/go/
    大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」

■データ 13

    http://www.nhk.or.jp/go/about/index.html
    大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」|江とは?

■データ 14

    http://www.nhk.or.jp/go/cast/index.html
    大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」|人物相関図

■データ 15

    http://www.nhk.or.jp/go/info/index.html#infohead
    大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」|関連情報#infohead

■データ 16

    http://inoues.net/tenno.html
    歴代天皇

天皇名即位年年齢謚名/名皇居陵墓備考
神武
(ジンム)
BC.660?127?神日本磐余彦尊
(カムヤマトイワレヒコ)
畝傍橿原宮
(ウネビカシハラ)
畝傍山東北陵
(橿原市)
初代天皇
邪馬台国より東遷?
綏靖
(スイゼイ)
84?神渟名川耳尊
(カムヌナカワミミ)
葛城高丘宮
(カツラギタカオカ)
桃花鳥田丘上陵
(橿原市)
欠史1代
安寧
(アンネイ)
67?磯城津彦玉手看尊
(シキツヒコタマデミ)
片塩浮穴宮
(カタシオウキアナ)
畝傍山西南御陰
井上陵(橿原市)
欠史2代
懿徳
(イトク)
77?大日本彦耜友尊
(オオヤマトヒコスキトモ)
軽曲峡宮
(カルノマガリオ)
畝傍山南織沙渓
上陵(橿原市)
欠史3代
孝昭
(コウショウ)
114?観松彦香殖稲尊
(ミマツヒコエシネ)
掖上池心宮
(ワキガミノイケゴコロ)
掖上博多山上陵
(御所市)
欠史4代
孝安
(コウアン)
137?日本足彦國押人尊
(ヤマトタラシヒコクニオシヒト)
室秋津島宮
(ムロアキツシマ)
玉手丘上陵
(御所市)
欠史5代
孝霊
(コウレイ)
128?大日本根子彦太瓊尊
(オオヤマトネコヒコフトニ)
黒田廬戸宮
(コロダノイオト)
片丘馬坂陵
(北葛城郡)
欠史6代
孝元
(コウゲン)
116?大日本根子彦國牽尊
(オオヤマトネコヒコクニクル)
軽境原宮
剣池嶋上陵
(橿原市)
欠史7代
開化
(カイカ)
111?稚日本根子彦大日日尊
(ワカヤマトネコヒコオオヒヒ)
春日率川宮
(カスガノイサカワ)
春日率川坂本陵
(奈良市)
欠史8代
10崇神
(スジン)
119?御間城入彦五十瓊殖尊
(ミマキイリヒコイニエ)
磯城瑞籬宮
(シキノミズガキ)
山辺道勾岡上陵
(天理市)
初の実在天皇か?
11垂仁
(スイニン)
139?活目入彦五十狭茅尊
(イクメイリヒコイサチ)
纒向珠城宮
(マキムクノタマキ)
菅原伏見東陵
(奈良市)
皇女が倭姫命
12景行
(ケイコウ)
143?大足彦忍代別尊
(オオタラシヒコオシロワケ)
纒向日代宮
(マキムクノヒシロ)
山辺道上陵
(天理市)
九州熊襲征伐
日本武尊の父
13成務
(セイム)
107?稚足彦尊
(ワケタラシヒコ)
志賀高穴穂宮
(シガノタカアナホ)
狭城盾列池後陵
(奈良市)
大臣竹内宿禰が政務を総括
14仲哀
(チュウアイ)
?足仲彦・帯中日子
(タラシナカツヒコ)
穴門豊浦宮、
筑紫橿日宮
恵我長野西陵
(大阪府藤井寺市)
神功皇后の夫
応神天皇の父
15応神
(オウジン)
111?誉田別尊(ホムダワケ)、
大鞆和氣命(オオトモワケ)
軽島豐明宮
恵我藻伏岡陵
(羽曳野市)
全国八幡神宮の祭神
神宮皇后が宇美で出産
16仁徳
(ニントク)
143?大鷦鷯尊(オオサザキ)、
難波天皇
難波高津宮
百舌鳥耳原中陵
(堺市)
陵墓は世界最大
17履中
(リチュウ)
?大兄去来穗別尊
(オオエノイザホワケ)
磐余稚櫻宮
(イワレノワカザクラ)
百舌鳥耳原南陵
(堺市)
倭王 讃?
18反正
(ハンゼイ)
?多遅比瑞齒別尊
(タジヒノミズハワケ)
丹比柴籬宮
(タジヒノシバガキ)
百舌鳥耳原北陵
(堺市))
履中の同母弟、倭王 珍?
19允恭
(インギョウ)
?雄朝津間稚子宿禰尊
(オアザズマワクゴノスクネ)
遠飛鳥宮
(トオツアスカ)
恵我長野北陵
(藤井寺市)
反正の弟、倭王「済」
20安康
(アンコウ)
56?穴穗尊(アナホ)石上穴穗宮
(イソノカミアナホ)
菅原伏見西陵
(奈良市)
倭王「興」
21雄略
(ユウリャク)
62?大泊瀬幼武尊
(オオハツセワカタケ)
泊瀬朝倉宮
(ハツセノアサクラ)
丹比高鷲原陵
(羽曳野市)
倭王「武」
22清寧
(セイネイ)
41?白髪武廣國推稚日本根子尊
(シラガタケヒロクニオシワカヤマトネコ)
磐余甕栗宮
(イワレノミカクリ)
河内坂門原陵
(羽曳野市)
非実在説もあり。
23顕宗
(ケンソウ)
38?弘計尊(ヲケ)近飛鳥八釣宮
(チカツアスカノヤツリ)
弘計王子神社
(奈良県)
履中の曾孫、兄と
皇位を譲りあい
24仁賢
(ニンケン)
50?億計尊(オケ)、大脚島郎石上廣高宮
(イシノカミヒロタカ)
埴生坂本陵
(藤井寺市)
顕宗の兄、
雄略の女を皇后とした
25武烈
(ブレツ)
18?小泊瀬稚鷦鷯尊
(オハツセノワカサザキ)
泊瀬列城宮
(ハツセノナミキ)
傍丘磐杯丘北陵
(奈良県北葛城郡)
紀では残虐性を記す、
平郡真鳥親子を殺害
26継体
(ケイタイ)
82男大迹王(オホド)、
彦太尊(ヒコフト)
磐余玉穂宮
(イワレノタマホ)他
三島藍野陵
(大阪府茨木市)
越前から招いた天皇?
万世一系断絶の疑い
27安閑
(アンカン)
70勾大兄廣國押武金日尊
(マガリノオオエヒロクニオシタケカナヒ)
勾金橋宮
(マガリノカナハシ)
古市高屋丘陵
(羽曳野市)
継体天皇の第一皇子
28宣化
(センカ)
73武小廣國押盾尊
(タケオヒロクニオシタテ)
檜隈廬入野宮
(ヒノクマノイオリノ)
身狭桃花鳥坂上陵
(橿原市)
継体の第二皇子
29欽明
(キンメイ)
63天國排開廣庭尊
(アメクニオシヒラキヒロニワ)
磯城島金刺宮
(シキシマノカナサシ)
桧隈坂合陵
(奈良県明日香村)
継体の第四皇子
30敏達
(ビタツ)
48訳語田渟中倉太珠敷尊
(オサダノヌナクラフトタマシキ)
百済大井宮
河内磯長中尾陵
(大阪府南河内郡)
天然痘大流行
天皇も病で崩御
31用明
(ヨウメイ)
48橘豐日尊
(タチバナノトヨヒ)
磐余池辺双槻宮
(イワレノイケベノナミツキ)
河内磯長原陵
(大阪府南河内郡)
これより飛鳥時代
物部・蘇我の対立に決着
物部大連家は滅亡
32崇峻
(スシュン)
?泊瀬部(ハツセベ)、
長谷部若雀命
(ハツセベノワカサギ)
倉橋柴垣宮
(クラハシシバガキ)
倉梯岡上陵
(桜井市)
大臣:蘇我馬子
33推古
(スイコ)
59275額田部(ヌカタベ)、
豐御食炊屋姫尊
(トヨミケカシキヤヒメ)
豐浦宮
(トユラ)他
磯長山田陵
(大阪府南河内郡)
我が国初の女帝
聖徳太子を摂政とする
34舒明
(ジョメイ)
62949田村(タムラ)、
息長足日廣額尊
(オキナガタラシヒヒロヌカ)
飛鳥岡本宮
押坂内陵
(桜井市)
父:押坂彦人大兄皇子
大臣:蘇我蝦夷
35皇極
(コウギョク)
64268宝(タカラ)、
天豐財重日足姫尊
(アメトヨタカライカシヒタカラシヒメ)
飛鳥板蓋宮
越智崗上陵
(奈良県高市郡)
女帝 大臣:蘇我蝦夷
   →乙巳の変
36孝徳
(コウトク)
64559軽、 天万豐日尊
(アメヨロズトヨヒ)
難波長柄豐碕宮
(ナニワノナガラノトヨサキ)
大坂磯長陵
(大阪府南河内郡)
中大兄皇子・中臣鎌子の傀儡
大化の改新
37斉明
(サイメイ)
65568 飛鳥川原宮
(アスカカワハラ)他
不明?女帝 皇極の重祚
(再度即位する事をいう),
百済救援軍大敗
38天智
(テンジ)
66846中大兄, 天命開別尊
(アメミトコヒラカスワケ)
近江大津宮
山科陵
(京都市)
飛鳥から近江へ遷都
39弘文
(コウブン)
67125大友皇子
(オオトモノオウジ)
近江大津宮
(チカツオオツ)
長等山前陵
(大津市)
皇妃:十市皇女、
明治3年に皇位追贈
40天武
(テンム)
67356大海人皇子
(オオアモトノオオジ)
飛鳥浄御原宮
桧隈大内陵
(奈良県高市郡)
壬申の乱後即位、
皇女を斎宮(イツキノミヤ)とする
41持統
(ジトウ)
68658ウ野讃良
(ウノノササラ)
飛鳥浄御原宮
桧隈大内陵
(奈良県高市郡)
これより奈良時代
女帝 藤原宮造営
42文武
(モンム)
69725珂瑠(カル)、
倭根子豐祖父天皇
(ヤマトネコトヨオオジ)
藤原宮
(フジワラ)
桧隈安吉岡上陵
(奈良県高市郡)
草壁の子、
大宝律令制定
43元明
(ゲンメイ)
70761阿閇皇女
(アベノヒメミコ)
藤原宮, 平城宮
(ヘイジョウ)
奈保山東陵
(奈良市)
女帝 草壁の妃、
母:蘇我姪娘
44元正
(ゲンショウ)
71569氷高(ヒダカ)、
新家(ニイノミ)
平城宮
(ヘイジョウ)
奈保山西陵
(奈良市)
女帝 養老律令制定、
日本書紀完成、独身
45聖武
(ショウム)
72456首(オビト)平城宮、恭仁宮
(ヘイジョウ)
奈保山南陵
(奈良市)
長屋王の変、
藤原広嗣の乱
46孝謙
(コウケン)
74953阿倍、高野姫平城宮
(ヘイジョウ)
高野陵
(奈良市)
女帝 橘奈良麻呂の乱、
道祖王廃し大炊王に譲位
47淳仁
(ジュンニン)
75833大炊、淡路廃帝保良宮(ホラ)、
平城宮(ヘイジョウ)
淡路陵
(兵庫県三原郡)
恵美押勝の反乱時
に廃帝となる
48称徳
(ショウトク)
76453平城宮
(ヘイジョウ)
西大寺
(奈良市)
女帝 孝謙の重祚、
弓削道鏡を法王とする
49光仁
(コウニン)
77073白壁平城宮
(ヘイジョウ)
田原東陵
(奈良市)
天智の孫、蝦夷を
大伴駿河麿に撃たせる
50桓武
(カンム)
78170山部(ヤマノベ)長岡宮、平安宮
(ナガオカ、ヘイアン)
柏原陵
(京都市)
坂上田村麻呂をして
蝦夷を平定。平安京の始まり。
51平城
(ヘイゼイ)
80651安殿(アテ)平安宮
(ヘイアン)
楊梅陵
(奈良市)
薬子の変。ノイローゼとなり
平城宮にこもる
52嵯峨
(サガ)
80957神野(カミ)平安宮
(ヘイアン)
嵯峨山上陵
(京都市)
皇后:橘嘉智子(檀林皇后)
53淳名
(ジュンナ)
82355大伴(オオトモ)平安宮
(ヘイアン)
大原野西嶺山陵
(京都市)
平城・嵯峨の弟、
嵯峨の子正良に譲位
54仁明
(ニンミョウ)
83341正良(マサラ)平安宮
(ヘイアン)
深草陵
(京都市)
承和の変(橘逸勢ら)
55文徳
(モントク)
85032道康(ミチヤス)平安宮
(ヘイアン)
田邑陵
(京都)
太政大臣:藤原良房
56清和
(セイワ)
85831惟仁(コレヒト)平安宮
(ヘイアン)
水尾山陵
(京都市)
応天門の変
57陽成
(ヨウゼイ)
87682貞明(サダアキラ)平安宮
(ヘイアン)
神楽岡東陵
(京都市)
摂政:藤原基経、
極悪之君と評さる
58光孝
(コウコウ)
88458時康(トキヤス)平安宮
(ヘイアン)
後田邑陵
(京都市)
仁明の第三皇子
59宇多
(ウダ)
88765定省(サダミ)平安宮
(ヘイアン)
大内山陵
(京都市)
関白:藤原基経、
菅原道真を登用
60醍醐
(ダイゴ)
89746維城(コレキ)平安宮
(ヘイアン)
後山科陵
(京都市)
延喜聖主と讃えらる
61朱雀
(スザク)
93030寛明(ヒロアキラ)平安宮
(ヘイアン)
醍醐陵
(京都市)
摂政/関白:藤原忠平、
承平天慶の乱
62村上
(ムラカミ)
94642成明(ナリアキラ)平安宮
(ヘイアン)
村上陵
(京都市)
後世治績を
天暦の治 と称される
63冷泉
(レイゼイ)
96762憲平(ノリヒラ)平安宮
(ヘイアン)
坂本陵
(京都市)
実権:摂政/関白藤原実頼、
安和の変
64円融
(エンユウ)
96933守平(モリヒラ)平安宮
(ヘイアン)
後村上陵
(京都市)
実権:藤原一族
65花山
(カザン)
98441師貞(モロサダ)平安宮
(ヘイアン)
紙屋川上陵
(京都市)
摂政:藤原伊尹、
兼家に退位させらる
66一条
(イチジョウ)
98632懐仁(ヤスヒト)平安宮
(ヘイアン)
円融寺北陵
(京都市)
関白兼家が擁立、
王朝文学の絶頂期
67三条
(サンジョウ)
101142居貞(イヤサダ)平安宮
(ヘイアン)
北山陵
(京都市)
藤原道長との軋轢
68後一条
(ゴイチジョウ)
101629敦成(アツヒラ)平安宮
(ヘイアン)
菩提樹院陵
(京都市)
平忠常の乱
69後朱雀
(ゴスザク)
103637敦良(アツナガ)平安宮
(ヘイアン)
円乗寺陵
(京都市)
関白:藤原頼通
70後冷泉
(ゴレイゼイ)
104544親仁(チカヒト)平安宮
(ヘイアン)
円教寺陵
(京都市)
前九年の役
71後三条
(ゴサンジョウ)
106840尊仁(タカヒト)平安宮
(ヘイアン)
円宗寺陵
(京都市)
摂関家の斜陽化
72白河
(シラカワ)
107277貞仁(サダヒト)平安宮
(ヘイアン)
成菩提院陵
(京都市)
院政の初め、
源師房ら村上源氏重用
73堀河
(ホリカワ)
108629善仁(タルヒト)平安宮
(ヘイアン)
後円教寺陵
(京都市)
後三年の役
74鳥羽
(トバ)
110754宗仁(ムネヒト)平安宮
(ヘイアン)
安楽寿院陵
(京都市)
平氏を登用
75崇徳
(ストク)
112346顕仁(アキヒト)平安宮
(ヘイアン)
白峰陵
(坂出市)
保元の乱で
讃岐へ流さる
76近衛
(コノエ)
114117体仁(ナリヒト)平安宮
(ヘイアン)
安楽寿院南陵
(京都市)
17才で崩御。ここまで
鳥羽上皇の院政が及ぶ
77後白河
(ゴシラカワ)
115566雅仁(マサヒト)平安宮
(ヘイアン)
法住寺陵
(京都市)
3年で退位するが、
以後5代に渡り院政
78二条
(ニジョウ)
115823守仁(モリヒト)平安宮
(ヘイアン)
香隆寺陵
(京都市)
平治の乱
79六条
(ロクジョウ)
116513順仁(ノブヒト)平安宮
(ヘイアン)
清閑寺陵
(京都市)
太政大臣:平清盛
80高倉
(タカクラ)
116821憲仁(ノリヒト)平安宮
(ヘイアン)
後清閑寺陵
(京都市)
中宮:平徳子
81安徳
(アントク)
11808言仁(トキヒト)平安宮(ヘイアン)、
福原宮(フクハラ)
阿弥陀寺陵
(下関市)
治承4年2歳で即位、
8歳で入水
82後鳥羽
(ゴトバ)
118360尊成(タカヒラ)平安宮
(ヘイアン)
大原陵
(京都市)
新古今和歌集を勅撰
83土御門
(ツチミカド)
119837為仁(タメヒラ)平安宮
(ヘイアン)
金原陵
(長岡京市)
ここより鎌倉時代
84順徳
(ジュントク)
121046守成(モリナリ)平安宮
(ヘイアン)
大原陵
(京都市)
承久の乱で佐渡へ配流
85仲恭
(チュウキョウ)
122117懐成(カネナリ)平安宮
(ヘイアン)
九条陵
(京都市)
明治になって
歴代に加えられる
86後堀河
(ゴホリカワ)
122123茂仁(シゲヒト)平安宮
(ヘイアン)
観音寺陵
(京都市)
鎌倉幕府傀儡
87四条
(シジョウ)
123212秀仁(ミツヒト)平安宮
(ヘイアン)
月輪陵
(京都市)
2才で即位、12才で崩御
88後嵯峨
(ゴサガ)
124253邦仁(クニヒト)平安宮
(ヘイアン)
嵯峨南陵
(京都市)
北条泰時により即位
89後深草
(ゴフカクサ)
124662久仁(ヒサヒト)平安宮
(ヘイアン)
深草北陵
(京都市)
持明院統と大覚寺統
の対立が始まる
90亀山
(カメヤマ)
125957恒仁(ツメヒト)平安宮
(ヘイアン)
亀山陵
(京都市)
両統の対立続く
91後宇多
(ゴウタ)
127458世仁(ヨヒト)平安宮
(ヘイアン)
蓮華峰寺陵
(京都市)
文永・弘安の
2度の蒙古襲来
92伏見
(フシミ)
128753照仁(ヒロヒト)平安宮
(ヘイアン)
深草北陵
(京都市)
両統の対立続く
93後伏見
(ゴフシミ)
129849胤仁(タネヒト)平安宮
(ヘイアン)
深草北陵
(京都市)
対立激化、2年半で譲位
94後二条
(ゴニジョウ)
130124邦治(クニハル)平安宮
(ヘイアン)
北白河陵
(京都市)
大覚寺統の分裂
95花園
(ハナゾノ)
130852富仁(トミヒト>平安宮
(ヘイアン)
十楽院上陵
(京都市)
才知、並外れた知識量
の持ち主だった、という。
96後醍醐
(ゴダイゴ)
131852尊治(タカハル)吉野宮
(ヨシノ)
塔尾陵
(奈良県吉野郡)
建武の中興、南北朝開始。
吉野に潜幸。室町幕府誕生。
97後村上
(ゴムラカミ)
133941義良(ノリナガ)吉野宮
(ヨシノ)
桧尾陵
(河内長野市)
各地を転戦。生涯
足利氏との戦い。
98長慶
(チョウケイ)
136852寛成(ユタナリ)吉野宮
(ヨシノ)
嵯峨東陵
(京都市)
父(後村上天皇)と同様戦いの生涯。
大正15年98代天皇に。
99後亀山
(ゴカメヤマ)
138375?照成(ヒロナリ)平安宮
(ヘイアン)
嵯峨小倉陵
(京都市)
南朝最後の天皇。京へ移り
後小松天皇に譲位。
北朝1光厳
(コウゴン)
133152量仁(カズヒト)平安宮
(ヘイアン)
山国陵
(京都府北桑田郡)
後醍醐天皇は笠置に逃れ、
北条氏により北朝初代天皇。
北朝2光明
(コウミョウ)
133660豊仁(トヨヒ)平安宮
(ヘイアン)
大光明寺陵
(京都市)
後醍醐天皇から偽の
神器をつかまされる。
北朝3崇光
(スコウ)
134865與仁(オキヒト)平安宮
(ヘイアン)
大光明寺陵
(京都市)
足利尊氏・直義兄弟の
対立が激化。
北朝4後光厳
(ゴコウゴン)
135237弥仁(イヤヒト)平安宮
(ヘイアン)
深草北陵
(京都市)
南朝方の攻撃から
逃げ回る生涯。
北朝5後円融
(ゴエンユウ)
137163緒仁(オヒト)平安宮
(ヘイアン)
深草法華堂陵
(京都市)
足利義満の幕府。
比較的安定の御代。
北朝6
100
後小松
(ゴコマツ)
138257幹仁(モトヒト)平安宮
(ヘイアン)
深草北陵
(京都市)
6才で即位,10才で南北朝統一。
実権は足利義満にあった。
101称光
(ショウコウ)
141228実仁(ミヒ)平安宮
(ヘイアン)
深草北陵
(京都市)
南朝の反乱、各地で頻発。
精神を病み28才で崩御。
102後花園
(ゴハナゾノ)
142852彦仁(ヒコヒト)平安宮
(ヘイアン)
後山国陵
(京都府北桑田郡)
36年に及ぶ長期在位。
応仁の乱後出家。
103後土御門
(ゴツチミカド)
146459成仁(ヒサヒト)平安宮
(ヘイアン)
深草北陵
(京都市)
応仁・文明の乱は11年続き、
都は荒廃。36年の在位。
104後柏原
(ゴカシワバラ)
150063勝仁(カツヒ)平安宮
(ヘイアン)
深草北陵
(京都市)
朝廷の貧窮は最悪を極める。
105後奈良
(ゴナラ)
152662知仁(トモヒト)平安宮
(ヘイアン)
深草北陵
(京都市)
在位31年に及ぶが、
戦乱、朝廷貧窮は変わらず。
106正親町
(オオギマチ)
155777方仁(ミチヒト)平安宮
(ヘイアン)
深草北陵
(京都市)
即位式は毛利元就の献金で。
織田信長に勅命し室町幕府滅亡。
107後陽成
(ゴヨウゼイ)
158647和仁(カズヒト)平安宮
(ヘイアン)
深草北陵
(京都市)
秀吉から家康の間24年在位。
天下統一。
108後水尾
(ゴミズオ)
161185政仁(コトヒト)平安宮
(ヘイアン)
月輪陵
(京都市)
徳川幕府に抵抗を続ける。
「禁中並公家諸法度」
109明正
(メイショウ)
162974興子(オキコ)平安宮
(ヘイアン)
月輪陵
(京都市)
平安以来の女帝。徳川の圧迫を
逃れる為女帝が即位。
110後光明
(ゴコウミョウ)
164322紹仁(ツグヒト)平安宮
(ヘイアン)
月輪陵
(京都市)
幕府に対し激しく抵抗。
幕府による暗殺説も。
111後西
(ゴサイ)
165449良仁(ナガヒト)平安宮
(ヘイアン)
月輪陵
(京都市)
明暦の大化。皇居の炎上を
理由に幕府は譲位を迫る。
112霊元
(レイゲン)
166379識仁(サトヒト)平安宮
(ヘイアン)
月輪陵
(京都市)
在位25年。幕府による監視。
113東山
(ヒガシヤマ)
1687
(貞享4)
35朝仁(アサヒト)平安宮
(ヘイアン)
月輪陵
(京都市)
13才で即位。以後23年在位。
114中御門
(ナカミカド)
1709
(宝永6)
37慶仁(ヤスヒト)平安宮
(ヘイアン)
月輪陵
(京都市)
10才で即位。27年在位。
音律雅楽に造詣。
115桜町
(サクラマチ)
1735
(享保20)
31昭仁(テルヒト)平安宮
(ヘイアン)
月輪陵
(京都市)
8代吉宗。9代家茂の時代。
大嘗祭が復興さる。
116桃園
(モモゾノ)
1747
(延享4)
22暇仁(トオヒト)平安宮
(ヘイアン)
月輪陵
(京都市)
学問を好んだが
22才で崩御。
117後桜町
(ゴサクラマチ)
1762
(宝暦12)
74智子(トシコ)平安宮
(ヘイアン)
月輪陵
(京都市)
女帝。次の後桃薗天皇
が幼かった為暫時即位。
118後桃園
(ゴモモゾノ)
1770
(明和7)
22英仁(ヒデヒト)平安宮
(ヘイアン)
月輪陵
(京都市)
叔母である後桜町天皇より譲位。
世は田沼意次時代。
119光格
(コウカ)
1779
(安永8)
70兼仁(トモヒト)平安宮
(ヘイアン)
後月輪陵
(京都市)
在位39年。
120仁孝
(ニンコウ)
1817
(文化3)
47恵仁(アヤヒト)平安宮
(ヘイアン)
後月輪陵
(京都市)
公家の教育機関を創設。
(現学習院大學)
121孝明
(コウメイ)
1846
(弘化3)
36統仁(オサヒト)平安宮
(ヘイアン)
後月輪陵
(京都市)
徳川慶喜に将軍を宣下、
1週間後謎の死。
122明治
(メイジ)
1867
(慶応3)
61睦仁(ムツヒト)江戸城
(エドジョウ)
伏見桃山陵
(京都市)
王政復古の大号令。
大日本帝国の神となる。
123大正
(タイショウ)
1912
(大正1)
48嘉仁(ヨシヒト)江戸城
(エドジョウ)
多摩陵
(東京都八王子市)
幼児より病弱。
言語不明瞭。
124昭和
(ショウワ)
1926
(昭和1)
87裕仁(ヒロヒト)江戸城
(エドジョウ)
武蔵野陵
(東京都八王子市)
第二次世界大戦。
在位62年波乱の生涯。
125今上
(キンジョウ)
1988
(平成1)
明仁(アキヒト)江戸城
(エドジョウ)
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