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折々の記 2012 A
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】02/10〜
【 02 】02/14〜
【 03 】02/16〜
【 04 】02/18〜
【 05 】02/24〜
【 06 】02/25〜
【 07 】02/28〜
【 08 】03/01〜
【 09 】03/03〜
【 06 】02/25
02 25 時事、『叫び』、歌声
02 27 日本人として死にたい
今日のニュース
録音 2月25日 200897 田中宇の「ニュースの裏側」第11回(2012年2月号)田中宇&平川克美
対話放談 時事(田中宇,他)
田中宇の「ニュースの裏側」第11回(2012年2月号)
田中宇(国際情勢解説者) 平川克美(ラジオデイズ・プロデューサー)
価格:¥500
収録時間 :1:07:10 提供元 :株式会社ラジオカフェ
データ形式 :MP3 リリース日 :12年2月24日
データ容量 :61.5MB カテゴリ :対話放談 時事(田中宇,他)
作品の説明
多極化への移行的混乱で混沌とする世界
いきなり、河村たかし名古屋市長の南京事件は無かった発言について、田中氏から擁護発言が飛び出して驚くが、その真意は、大虐殺があったかなかったかというところにあるのではなく、「大虐殺」とは戦勝国による政治的プロパガンダの言葉であるというところであった。注意深くお聴きいただきたいところである。
さて、本題は、米海兵隊の沖縄撤退問題。米軍にとっては、北朝鮮、台湾といったリスクファクターは後退しており、沖縄からグアムへの移動は規定の事実であった。米軍駐留はむしろ日本側の意向が強く働いているという自説を展開する。
続いてEUの経済危機に関する独自の分析(つまりはそう簡単にEUはつぶれない)、リーマン・ショック以降続く米国金融 の崩壊など、移行期ならではの混沌とした世界情勢を読み解く。
《本音源は、2012.2.24に収録されました》
田中宇(たなかさかい)
国際情勢解説者
1961年、東京生まれ。東北大学経済学部に在学中に世界を放浪し、全く違う時代感覚を生きる諸外国の人々に接する。東レ勤務を経て共同通信社に入社し、世界のニュースを多読しながら、報道にかかる政治的なバイアスを読み解く独自の方法論を獲得。96年頃からメルマガ「田中宇の国際ニュース解説」の配信を開始。とくに2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降、一般のニュースが偏向していると感じた人々を中心に支持を広げ、現在読者は17万5千人を数える。イラク戦争を「覇権という重荷を放棄して世界を多極化させたいアメリカの意図的失敗」と位置づけ、また昨今のアメリカ経済の混乱をほとんど唯一正確に予見するなど、独自の角度と先見性でビジネスマン・経済人の信頼を集めている。『アメリカ以後』(2004年2月)『非米同盟』(2004年8月)ほか著書多数。
■ 絵『叫び』 (エドヴァルド・ムンク=Edvard Munch)
「絵がもつ力」……… 怖さ、不安、閉塞感
彼は、19世紀〜20世紀のノルウェー出身の画家。『叫び』の作者として有名で、ノルウェーでは国民的な画家である。現行の1000ノルウェー・クローネの紙幣にも彼の肖像が描かれている。
生と死の問題、そして、人間存在の根幹に存在する、孤独、嫉妬、不安などを見つめ、人物画に表現した。表現主義的な作風の画家として知られる。また、数多くの浮名を流したことでも知られ、恋を「昔の人が愛を炎に例えたのは正しい。愛は炎と同じように山ほどの灰を残すだけだからね」と語っている。
『叫び』は、その遠近法を強調した構図、血のような空の色、フィヨルドの不気味な形、極度にデフォルメされた人物などが印象的な作品でもっともよく知られ、ムンクの代名詞となっている。
ある日、フィヨルドの近くを歩いている時に「自然をつらぬく、けたたましい、終わりのない叫びを聞いた」と言っており、その経験を絵画化したものである。すなわち、しばしば勘違いされるが、この絵は「橋の上の男が叫んでいる」のではなく「橋の上の男が叫びに耐えかねて耳を押さえている」様子を描いた絵である。前述のとおり、この作品も「生命のフリーズ」の中の一作品であり、単独の絵画としてではなく、連作として鑑賞されることがムンクの本来の意図であった。
※ 人の目の感受性は自分で想像する以上に計り知れない凄い能力を持っています。目を中心とした微かな動きにしても、口の周りの動きの微かな変化にしても、目の能力によって、その人の意志、感情の動き、恐怖感、幸福感、安堵感、不安感、そうした心の動きすべてを見抜く力を備えています。 人は誰しもそうした素敵な能力を持った目をもっているのです。
自分の心はすべて人前にいつもさらしているのです。 生まれながらにもっている形には関係なく、他を認識する繊細かつ鋭い感覚能力が備わっているのです。
■ 歌声 (世界中を席巻した由紀さおり)
「歌声がもつ力」……… 安らぎ感、安心感、嫌悪感、絆感
由紀 さおり(ゆき さおり、本名: 安田 章子(やすだ あきこ)、1948年11月13日 - )は、群馬県桐生市出身の歌手及びタレント・女優・ナレーター。田辺エージェンシー・安田音楽事務所所属。血液型はA型。身長156cm、体重は59kg。洗足学園第一高等学校卒業、洗足学園短期大学 英文科 卒業。
海外での評価 2011年に世界20ヵ国以上でCD発売・デジタル配信され、2011年11月2日付のiTunesジャズ・チャート及びカナダiTunesチャート・ワールドミュージックで1位獲得という快挙を達成。さらにギリシャのIFPI総合アルバム・チャートで最高6位、シンガポールのHMVインターナショナル・チャートでは最高18位となった。この報道の影響もあって、2011年暮れから現在2012年にかけて、由紀さおりのテレビ番組への出演が例年以上に増えて来ている。
※ 彼女の童謡を聞いていると、人の心の奥に眠っている望郷の心を揺り起こし安らぎのある心地よい世界へ誘ってくれます。 音声学の分析から見ると、日本語も癒しの特性があるとともに、彼女の音域の見られる独特の特質によるものであるといいます。
歌の世界は、音域により、強弱により、リズムにより、人の心に安らぎ感、安心感、嫌悪感、絆感を引きおこす力を持っています。 直接声によって人の心を変化させることはないにしても、基本的にもの凄いバックグラウンドの力をもって人を包み込む力があるのです。
個々の人がもつ声帯の実情によって利害に及ぼす影響も計り知れないものがあります。 だが、生得の声の特質は如何ともしがたい。
思考の上では、純知的感覚に基づかなくてはなりません。
顔の表情とは異なり、声の表情は人の意志通りとはいかないものがあります。
今日の柿の木剪定、5本
「やさい畑」創刊10周年記念号 2012春号 到着
【ドナルド・キーンの帰化ニュース】
昨夜、大河ドラマを見てからニュースが続いてあり、そこでドナルド・キーンさんは、
という思いを語っているのをお聞きしました。
ウゥッ!! キーンさんは、「日本で、日本人として死にたい」と思いを語りました。 これには驚きましたし、強い衝撃でした。
311震災以降、‘日本人としての絆’の底流が心の奥底で大きなうねりを始めていることを感じていましたが、今朝、次のサイトを開いてみていて自身の心構えの上で軌道修正ができました。
データ
@ NHK TV
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120226/k10013300881000.html
ドナルド・キーンさんが講演会 2012年2月26日 20時56分
A Wikipedia
ドナルド・キーンURL
ドナルド・キーン 2011/06/30/
B - 夢幻∞大のドリーミングメディア
ドナルド・キーンURL
ドナルド・キーン氏は日本人の何に感動したのか(1)
我が愛する日本へ〜ドナルド・キーン89歳の決断〜
クローズアップ現代で「我が愛する日本へ〜ドナルド・キーン89歳の決断〜」(6/29放送)を見た。解説には
70年近くにわたり日本文学を幅広く研究し、世界に広めた功労者、アメリカ・コロンビア大学名誉教授のドナルド・キーンさんが、東日本大震災後、日本国籍を取得し日本に永住することを表明した。きっかけは、大震災による大きな打撃に苦しむ日本人と共に生きることで、これまでの日本への感謝を心から示したいのだと言う。その決意に、多くの日本人が勇気づけられた。18歳で「源氏物語」と出会い、その後、谷崎潤一郎や川端康成、三島由紀夫といった名だたる文豪とも親交を結び、日本文学に情熱を注ぎ続けたキーンさん。番組では、大震災後に日本各地の人たちからキーンさんに寄せられた感謝や激励の手紙を紹介しながら、日本を愛してやまないキーンさんの半生や、キーンさんをとらえて離さない日本の美しさとは何かに迫る。
この番組を見ていない人のために、対談部分を書き起こしてみる。場所はニューヨーク・コロンビア大学。
国谷裕子キャスター 松尾芭蕉が奥の細道の旅支度をされていた時に、松島の月、まず心にかかりて、松島の月の面影を最初に思い浮かべられたんですけども、こうやってはやる気持ちを持ちながら、旅の支度をされてらっしゃるときに、どういう風景がキーンさんの、胸の内によぎりますか。
ドナルド・キーン 正直なことを申しますけれど、まず、私の東京の住まいにある細い道、霜降橋という細い道ありますけれども、そこ小さい道、歩くこと非常に楽しみです。そこの店の人たち、知っているし、皆、挨拶言うでしょう(1)。いつ帰りましたかと言ってくるでしょう。それ私の現在の日本です。
国谷 そうすると、その風景というのは、北区のご自宅の辺りはとても庶民的な商店街があって、そこの小道を歩くことを、
キーン 大好きです。まだ、かき氷があって、もういないでしょう。割合(2)最近まで、店の前でおじさんが「いらったい」と言っていました。「いらったい」って。
国谷 いらっしゃいじゃなくて、「いらったい」と。
芭蕉っていうと、旅が終わると、また旅をする、また旅を繰り返すと。それはキーンさんにとっても、今回、そのニューヨークでの生活を終えて、またふたたび旅に出られるような、ご心境なのでしょうか。
キーン 旅に出てるという気持ちですが、しかし、これは特別な旅です。まあ、陰気な話は避けたいですけれど、最後の旅かもしれません。私は、日本についてから、どこにも行かないかもしれません。その可能性が十分あります。そして、それで満足してます。今度は、一種の帰国というような感じもします。
国谷 今回、キーンさんは、日本に国籍を取得するということを表明されてらっしゃるんですけれど、国とか民族とかそういうものを乗り越えてしまうようなお考えをお持ちの方が、あえて、この最後の旅とおっしゃったんですけれど、あえて決心されたのは、なぜなんでしょうか。
キーン 私はあらゆる面で、日本人に恵まれてきました。私は感謝のつもりで、自分の国籍、今までの国籍を捨てて、新しい日本の国籍をいただくことは、私の感謝のつもりでやりたいと思っていたんです。私は、何かやりたいと思っていたんです。普通でないようなものをやりたいと思って。素晴らしい本を書くこともいいかもしれませんけれども、しかしそれは私、象徴的なものをやりたいと思っていたんです。
日本人となる、日本で新たな暮らしを始めることが、人生最後の旅だという、ドナルド・キーンさん。その人生は、まさに日本文化に魅せられ、日本人の内面を探求してきた日々でした。
キーンさんが、初めて日本文学に触れたのは、18歳の時、その前の年には、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発、世界中が重苦しい空気に包まれていました。そんな時、ニューヨークの本屋で偶然手にしたのが、英訳された「源氏物語」。ページをめくると、1000年以上前に日本の王朝貴族が繰り広げた美の世界が描かれていました。その魅惑的な世界に、たちまち心を奪われたキーンさんは、それまで危険な軍事国家だとばかり思っていた日本の新たな一面を発見しました。
しかし、その後、間もなく日米両国は、太平洋戦争に突入、キーンさんも海軍の将校として、アッツ島や沖縄などの激戦地に赴きました。日本語を学んでいたため、主な任務は、捕虜となった日本兵の尋問、そして押収した兵士の日記の翻訳でした。キーンさんは特に、兵士たちの日記をむさぼるように読んだと言います。
死が近いことを意識した兵士の日記には、自らの戦意を鼓舞する言葉ではなく、遠い故郷を懐かしむなど、生身の心がつづられ、キーンさんの日本人のイメージを大きく変えることになりました。
<朗読>「これらの日記は時に堪えられないほど感動的で、一兵士最後の日々の苦悩が記録されていた。
(中略)
私が本当に知り合った最初の日本人は、これらの日記の筆者たちだったのだ」(ドナルド・キーン著「私と20世紀のクロニクル」より)
源氏物語に描かれたような、独特の美意識を持つ日本人、軍国主義にひた走る好戦的な日本人、そして戦いに苦悩する生身の人間としての日本人、いったい日本人とは何なのか。その内面をもっと知りたいと、キーンさんは戦後、日本文学の研究にのめりこんでいったのです。
国谷 源氏物語のような美しい日本と、兵士たちのなかなか理解しがたい感情、そういうものがないまぜになった日本、日本人っていったいどういう人なんだろう。不思議だったでしょうね。
キーン 戦前から、そういう矛盾かありました。一方の、私は日本の浮世絵を知っていました。こんな素晴らしいものがあるとか、あるいは、日本の盆栽とかそういうものを見たんですが(3)同時に中国で侵入があって、どうして一つの国民が両方できるかと。
国谷 あの、米英撃滅、そういうことを合言葉に戦争にひた走った日本、そして、戦争が終わった途端に一転して熱狂的なアメリカ崇拝に日本人は変わっていった。こうした日本の極端から極端へと変わっていく日本人をまるごと、知りたい、理解したいという気持ちが強かったんでしょうか。
キーン 強かったです。そうですね、私にとって、特にあのころは大きな謎だったです。私が会ってる日本人は捕虜でしたが、私と冗談交わして、すぐ親しみができて、何も私と合わない壁は何もなかったです。(4)好きなことなんでも話して、そしてそういう人たちは、一時的な友達ではなくて、戦争が終わっても付き合いが続きました。この場合は。しかし、その極端から極端が大きな謎でした。
日本人とは何か。キーンさんはその謎を解く手がかりとして、戦中戦後の作家の日記に注目しました。永井荷風や伊藤整、山田風太郎など、およそ30人の作家の日記。中でもキーンさんが共感したのは、もとプロレタリア作家で戦中に言論統制のもと、転向を余儀なくされた、高見順の日記でした。高見の日記には、10万人に及ぶ犠牲者を出した東京大空襲直後の日本人の姿が描かれています。
母親を疎開させるため、上野駅にやってきた高見、そこは焼け野原となった東京から逃れようとする人々であふれていました。家を焼かれ、家族を失い、極限状態に置かれているにもかかわらず、節度と冷静さを失わないで、我慢強く順番を待ち続ける人々。それを見て高見が記した、次の一節は、キーンさんの心に深い感銘を与えたと言います。
<朗読>「私の眼に、いつか涙が湧いていた。いとしさ、愛情で胸がいっぱいだった。私はこうした人々と共に生き、共に死にたいと思った。
何の頼るべき権力もそうして財力も持たない、黙々と我慢している、そして心から日本を愛し信じている庶民の、私もひとりだった。
国谷 日記には探し求めてきた日本人論の手掛りが潜んでいた。とお書きになっていますね。日本人を知ろうという旅をずーっと続けてこられて、たどり着いたキーンさんの見た日本人というのは、どういう人たちですか。
キーン それは一番難しいご質問でしょう。私は日本国民を愛しているといってもいいです。また、私は大いに影響を受けたんです。例えば、ニューヨークで物を買って、店員がありがとうと言わないときは、私はえーっと驚きました。しかし、私のようにもう(5)60年前から日本に行ったり来たりしてわからなくなりました。ただ、私、一緒だという感じがします。
国谷 キーンさんそのものが日本人。
キーン そういう感じです。それを否定する人もいるでしょうけれども、私はそういう感じです。
国谷 ですから、日本人を知ろう、日本人って不思議な存在だ。一体、日本人ってどういう人たちなんだろうと、ずーっと探求を続けてきたら、キーンさん自身が日本人になってしまったということですか?
キーン そういう感じです。
国谷 あの、5年程前ですか。キーンさんはとてもうれしいことがあったとお書きになっているんですけれども。ある時、日本女性が地下鉄の駅の行き方をキーンさんに尋ねられて、とてもうれしかった。
キーン はい、そうです。本当にそうです。しかし、その時、聞かれてとてもうれしかったです。ただの人間になったんです。外人でなくて人間だったです。
国谷 今まで、ずーっと外国人、外国人という風に見られていたのが、日本においても普通の人間ていう感じの人間になれた。
今回、大震災が起きて、その時はキーンさんはこちらにいらっしゃったんてすけれど、その震災を体験した日本人を、キーンさんはここにいてどのように、キーンさんの目に映りましたか。
キーン 私は本当に感心しました。また、高見順の日記に戻りますが、彼はお母さんと一緒に上野駅に行ったんですが、そこに大勢の人がいました。皆、静かに待っていたんです。自分の番を待っていたんです。そして、高見先生の、結論は、私たちはこういう人たちと一緒に住みたいし、死にたいです。というふうに言ったんです。それは、私にしても大きいと思います。
国谷 同じお気持ちということですか。
キーン 私も同じ気持ちでした。
国谷 穏やかで我慢強い。
キーン それはあの、私、テレビを見ても津波が入っていく、強く(6)恐ろしい、何とも言えない気持ちでした。しかし、皆、我慢して、静かに。そこは、深く感心しました。
国谷 そういう人たちと共にいたい、寄り添いたい。
キーン はい。そうです。そういう気持ちですね。
国谷 キーンさんがなることを決心された、日本人ですけれども。日本の魅力、日本の心の中で、お好きな部分、一番魅力的だと思っている部分はなんですか。
キーン 一番は大変難しいですが、なんでもないことで、いっぱい頭に浮かんできます。今、私、思い出しまして、私は、室生(7)寺というお寺に行ったんです。そして、すごい雨が降ってきました。そして、なかなか雨が上がらないです。その時に、おばあさん(8)は、私を見て、私に傘を貸したんです。そしてわたしは、返せないかもしれないと言いましたら、かまいません、どうぞ使ってください、と。何でもないこと、私は忘れられないです。そういう親切さ、優しさは、私は一番好きかもしれません。
18歳で源氏物語と出会ってから、70年。たくさんの本と出会い、数多くの著作を発表してきたキーンさん。
数々の英訳本や日本の作家たちによる貴重な文芸雑誌など多くの本を、日本の自宅がある東京北区の図書館に寄贈することにしています。キーンさんは、89歳になった今も、ほとんどの時間を机に向かって過ごしています。今、書いているのは、明治時代の俳人、正岡子規の評伝です。結核を患った正岡子規が、人生の最後を迎えるくだり、時に涙しながら執筆に没頭していると言います。
日本での新たな暮らしを心待ちにするキーンさん。日本国籍を取ったら、使ってみたいと思っている漢字の名前があります。
「鬼」と書いてキーン、怒なると鳴門を重ねてドナルド、しかも鬼怒川の鬼怒と、渦潮の鳴門というように、川と海をイメージさせるなど、キーンさんならではの遊び心が込められています。キーンさんは、これからは日本人として、さらに日本人とは何かを見つめ続けていくつもりです。
国谷 キーンさんは、ヤシの木陰に座って、海を眺めながら片手にラム酒一杯がある、そんなことはこれっぼっちもしたくないって、おっしゃっているんですけれども、常に次の仕事のことがいっぱい。この次にあれをやりたい、これをやりたい、そういう生活を70歳、80歳過ぎてもずっとやられてきたわけですけれども、今も同じ心境でいらっしゃいますか。
キーン そうそう。私、今年89歳ですが、だんだん頭のことを心配します。(9)最後まではっきりするかを考えて、しかし、できるだけ、これから同じように、面白いものを調べたり、書いたり、話したりしたいと思います。
ものの名前だとか、これなんというかを知りたい。何のためにもならないとわかっていても、知りたいということがあります。
国谷 何の役に立つかわからないけれども知りたい。
キーン 知りたい。
国谷 知りたい。知りたい。知りたい。
キーン 知りたい。知りたいです。
国谷 それがその、物事の理解に到達する唯一の道。
キーン そうなります。文士の道だと一番いいです。(10)それは一つの夢です。
国谷 夢?
キーン 夢。完全な文士になること。(11)
国谷 完全な文士になること?
キーン 昔の学者が、自分の研究で、ものを読んで自然を見て、いろいろ楽しんでました。私は、いつもこういう感じで、それも好きですが、しまいに、私は、昔風の東洋人のように、静かにしたいと思います。
次項は、番組に登場した2つのドナルド・キーン氏の著作「私と20世紀のクロニクル」と「日本人の戦争 作家の日記を読む」を元に、キーン氏の感動した日本人の心について考えていきたい。
追記 一部、聞き取れなかったところがあるので、推量であてはめた部分があります。 例 お坊さん(おばあさんかも) 無量寺(室生寺かも)
追記2 番組のページで出演者の発言が掲載された。そこで、一部を修正する。
(1)愛されているでしょう→挨拶言うでしょう
(2)もう見えないですけど、→もういないでしょう。割合
(3)また→そういうものを見たんですが
(4)何も私と合わない壁は何もなかったです。(挿入)
(5)よりもう→のようにもう
(6)黒い→強く
(7)無量→室生
(8)お坊さん→おばあさん
(9)して、→します。
(10)そうであれば、文士の道です。→そうなります。文士の道だと一番いいです。
(11)国谷 夢?(挿入)
C - 夢幻∞大のドリーミングメディア
ドナルド・キーンURL
ドナルド・キーン氏は日本人の何に感動したのか(2)
我が愛する日本へ〜ドナルド・キーン89歳の決断〜
クローズアップ現代で「我が愛する日本へ〜ドナルド・キーン89歳の決断〜」(6/29放送)を見た。解説には
@ 日本人の大きな謎「極端から極端へ」
前項「ドナルド・キーン氏は日本人の何に感動したのか(1) 」でわかったのは、キーン氏は、2点の感動と1点の謎を示した。一つは、地元商店街や街の人々の庶民性であり、一つは、震災や戦争という大きな災害にあったときでも変わらぬ穏やかで我慢強さである。謎のほうは、国谷キャスターの言う
「米英撃滅、そういうことを合言葉に戦争にひた走った日本、そして、戦争が終わった途端に一転して熱狂的なアメリカ崇拝に日本人は変わっていった。こうした日本の極端から極端へと変わっていく日本人」
ということである。変わり身の早さと、変わらぬ庶民性、この矛盾した両面が日本人には同居している。今回のエントリーは、番組の中で触れられた2冊の本からそれを紐解いていこう。
A 「私と20世紀のクロニクル」から
僕の文章スタイルとして、できるだけ資料を提供し、読者と情報を共有するということがある。前項「ドナルド・キーン氏は日本人の何に感動したのか(1) 」の中に朗読された文章がある。1本目は、
<朗読>「これらの日記は時に堪えられないほど感動的で、一兵士最後の日々の苦悩が記録されていた。
(中略)
私が本当に知り合った最初の日本人は、これらの日記の筆者たちだったのだ」
そのことが書かれている「私と20世紀のクロニクル」(中央公論社)の元の文章はこうだ。
ある日、押収された文書が入っている大きな木箱に気づいた。文書からは、かすかに不快な臭いがした。聞いた説明によれば、小さな手帳は日本兵の死体から抜き取ったか、あるいは海に漂っているところを発見された日記だった。異臭は、乾いた血痕から出ていた。手帳に触れるのは気味悪かったが、注意深く血痕のついてなさそうな一つを選び出して、翻訳を始めた。最初は、手書きの文字が読みにくかった。しかし、今まで訳していた印刷物や謄写版で刷られた文書と違って、これらの日記は時に堪えられないほど感動的で、一兵士最後の日々の苦悩が記録されていた。
アメリカ軍の兵士は、日記をつけることを禁じられていた。敵が日記を手に入れた時に、戦略的な情報を提供してしまう恐れがあったからである。しかし日本の兵隊や水兵は、新年ごとに日記を支給され、日々の考えを書き留めることが務めとされていた。彼らは上官が日記を検閲することを知っていて、それは日記に記された感想が十分に愛国的かどうか確かめるためだった。そのため兵士たちは、日本にいる間は日記のページを愛国的な常套句で埋めたものだった。しかし、自分が乗船している隣の船が敵の潜水艦に沈められたり、南太平洋のどこかの島で自分が一人になってマラリアにでも罹れば、何も偽りを書くいわれはなかった。日記の筆者は、自分が本当に感じたことを書いた。
日本人の兵士の日記には、時たま最後のページに英語で伝言が記してあることがあった。伝言は日記を発見したアメリカ人に宛てたもので、戦争が終わったら自分の日記を家族に届けてほしいと頼んでいた。禁じられていたことだが、私は兵士の家族に手渡そうと思い、これらの日記を自分の机の中に隠した。しかし机は調べられ、日記は没収された。私にとって、これは痛恨の極みだった。私が本当に知り合った最初の日本人は、これらの日記の筆者たちだったのだ。もっとも、出会った時にはすでに皆死んでいたわけだが。(ドナルド・キーン著/角地幸男訳「私と20世紀のクロニクル」中央公論社)P60-61
省略されていた文章から、日米の日記の慣習の違いがうかがえる。日本兵の日記は、上官の検閲による愛国教育確認のため、アメリカ兵の日記は、敵に知られてはまずいので書くことすら許されない。日本軍の戦争は、「鬼畜米英」と言うように、敵を鬼畜になぞらえ人間以下に見下すことで成り立っているので、アメリカ軍が日記を読むなんてことを考えていなかったのではないか。もちろん、そんなことはありえないのだが。
米軍が日本兵の行動で理解しがたいこととして、こんなエピソードが取り上げられていた。
アッツ島は最初の「玉砕」の地で、アメリカ人はこれを「バンザイ突撃」と呼んでいた。5月28日、島に残留していた千人余の日本兵がアメリカ軍めがけて突撃を開始した。アメリカ軍は、かくも手ごわい抵抗のあることを予期していなかった。日本兵は、ややもすればアメリカ軍を蹴散らしそうな勢いを見せた。しかし結局は勝利の望みを捨て、集団自決を遂げた。多くは自分の胸に、手榴弾を叩きつけたのだった。私には、理解できなかった。なぜ日本兵は、最後の手榴弾をアメリカ兵に向かって投げずに、自分を殺すことに使ったのだろうか。(ドナルド・キーン著/角地幸男訳「私と20世紀のクロニクル」中央公論社)P66-67
確かに、「生きて虜囚の辱めを受けず」という自決行為は、米兵から見れば理解しがたい行為だっただろう。
B 「日本人の戦争 作家の日記を読む」から
2本目の朗読文章は、
<朗読>「私の眼に、いつか涙が湧いていた。いとしさ、愛情で胸がいっぱいだった。私はこうした人々と共に生き、共に死にたいと思った。
(中略)
何の頼るべき権力もそうして財力も持たない、黙々と我慢している、そして心から日本を愛し信じている庶民の、私もひとりだった。
この高見順の日記の元は番組では明らかにされなかった。でも、作家の日記というサブタイトルで検索すると容易に「日本人の戦争 作家の日記を読む」(文藝春秋)であることがわかった。この日記の引用文の前に、キーン氏はこんな文章を書いている。
昭和20年(1945)3月10日の空襲は東京の住民を恐怖で戦慄させたが、空襲を受けなかった町に住む人々も似たような恐怖を経験した。かなりの数の作家が住んでいた鎌倉では、アメリカ軍の上陸が間近に迫っているという噂が飛び交い、予想される侵略に備えて海軍があわただしく防御陣地を構築した。鎌倉は、後でわかったことだが爆撃を受けなかった。しかし住民たちは、歴史的重要性と由緒ある寺々のためにアメリカ軍が鎌倉を攻撃目標からはずすとは、とても思えなかった。
高見順は鎌倉の安全性に危惧を抱き、母親を田舎に疎開させることにする。上野駅では、少しでも安全な所へ逃げようと必死になっている罹災民で満ちていた。前年いた中国で目撃した光景を思い出し、高見は日記の中で中国人と日本人を比較している。上野駅ほど混雑していたわけでもないのに中国人は大声でわめき立て、あたりは大変な喧噪だった。そうした喧しい中国人に比べて、おとなしく健気で、我慢強く、謙虚で沈着な日本人に、高見は深い感銘を受けている。
私の眼に、いつか涙が湧いていた。いとしさ、愛情で胸がいっぱいだった。私はこうした人々と共に生き、共に死にたいと思った。否、私も、――私は今は罹災民ではないが、こうした人々の内のひとりなのだ。怒声を発し得る権力を与えられていない。何の頼るべき権力もそうして財力も持たない、黙々と我慢している、そして心から日本を愛し信じている庶民の、私もひとりだった。(ドナルド・キーン著/角地幸男訳「日本人の戦争 作家の日記を読む」文藝春秋)P102-103
この本には、30人に及ぶ作家の日記を時系列に沿って紹介されている。なお、本の中の日記引用箇所は青字にした。僕は、高見順の日記にこだわって書いていく。
8月15日終戦
早くも終戦翌日の8月16日、日記作者たちは戦時中に自分が演じた役割について思い巡らしている。高見順は、次のように書く。
私は日本の敗北を願ったものではない。日本の敗北を喜ぶものではない。日本に、なんといっても勝って欲しかった。そのため私なりに微力はつくした。いま私の胸は痛恨でいっぱいだ。日本および日本人への愛情でいっぱいだ。
しかしこう書いたすぐ後で、高見は不愉快な出来事を思い出す。昭和19年11月、ハルピンでのことだった。高見は、ロシア人のバンドが演奏し、ロシア人の男女が舞台で踊るキャバレーへ行った。客は日本人の将校ばかりで、ウォトカに酔い痴れ、放歌高吟していた。演奏するロシア人や踊り子たちに、日本の将校があまりにみっともない振る舞いをするので、高見は同胞として深く恥じた。
……(引用者注・当時の)日記には書いてないが、こんな日本人がこのまま勝ったらどういうことになるだろうとその時思ったことを覚えている。その時、――その時だけではない。しばしばそう思わせられることがあった。
私は日本と日本人を愛する。だからこそ、かかる日本人を許せないのだ。かかる日本人を許し甘やかしますます増長させるところのいわゆる日本主義的な議論を許せなかった。(ドナルド・キーン著/角地幸男訳「日本人の戦争 作家の日記を読む」文藝春秋)P139-140
8月21日
読売報知新聞で、科学と芸術の振興を唱えているトップ記事を読んだ高見は、「虐待されてきた文学も今度は自由が得られるだろう」と書いている。その記事に明るさがあることは認めても、新聞の節操のなさに、高見の心は晴れない。同日の日記の後半で、高見は読売報知の記事に対する自分の反応をさらに詳細に記している。
朝、急いで書いたので胸の中のもだもだをとくと突き止めることができなかった。「心は晴れない」と簡単に書いたが、事実はもっと激しく、不快なのであった。腹が立っていた。
よくもいけしゃあしゃあとこんなことがいえたものだ。そういう憤怒である。論旨を間違えていると思うのではない。全く正しい。その通りだ。だが如何にも正しいことを、悲しみもなく反省もなく、無表情に無節操に言ってのけているということに無性に腹が立つのである。常に、その時期には正しいことを、へらへらといってのける。その機械性、無人格性がたまらない。ほんの一か月前は、戦争のための芸術だ科学だ、戦争一本槍だと怒号していた同じ新聞が、口を拭ってケロリとして、芸術こそ科学こそ大切だとぬかす、その恥知らずの「指導」面がムカムカする。莫迦にするなといいたいのである。戦争に敗けたから今度は芸術を「庇護」するというのか。さような「庇護」はまっぴら御免だ。よけいな干渉をして貰いたくない。さんざ干渉圧迫をして来たくせに、なんということだ。非道な干渉圧迫、誤った統制指導の故に、今日の敗戦ということになったのだ。その自己反省は棚に挙げて、またもや厚顔無恥な指導面だ。いい加減にしろ! (ドナルド・キーン著/角地幸男訳「日本人の戦争 作家の日記を読む」文藝春秋)P152-153
10月5日
「ライフ」に載っているムッソリーニが情婦と一緒に全裸で木に逆さ吊りにされている死体写真を、友人が見せてくれた。それは、見るに忍びない残虐さだった。高見は書いている。
私はムッソリーニに同情を持っている者ではない。イタリー・パルチザンのムッソリーニへの憤激にむしろ共感を感ずる。しかしこの残虐は――。
日本国民の東条首相への憤激は、イタリー国民のムッソリーニへのそれに決して劣るものではないと思われる。しかし日本国民は東条首相を私邸から曳摺り出してこうした私刑を加えようとはしない。
高見は友人に、「日本人はおとなしいね」と言う。「小羊のごとく――」と友人は答える。続けて、高見は日記に書く。
そうだ、日本人はある点、去勢されているのだ。恐怖政治ですっかり小羊の如くおとなしい、怒りを言葉や行動に積極的に現わし得ない、無気力、無力の人間にさせられているところもあるのだ。東条首相を逆さにつるさないからといって、日本人はイタリー人のような残虐を好まない温和な民とすることはできない。
日本人だって残虐だ。だって、というより日本人こそといった方が正しいくらい、支那の戦線で日本の兵隊は残虐行為をほしいままにした。
権力を持つと日本人は残虐になるのだ。権力を持たせられないと、小羊の如く従順、卑屈。ああなんという卑怯さだ。しかしそれも日本においては、人民の手からあらゆる権力が剥奪されていたからだ。だから権力を持たせられると、それを振いたくなる。酷薄になる。残虐になる。逸脱するのだ。それは人民の手に権力が与えられていなかったための一種のヒステリー現象だ。可哀そうな日本人。
10月6日、高見は連合司令部の指令ですべての政治犯が釈放され、特高警察が廃止されたことを新聞で知った。
胸がスーッとした。暗雲が晴れた想い。しかし、これをどうして連合司令部の指令を俟たずして自らの手でやれなかったか、――恥かしい。これが自らの手でなされたものだったら、喜びはもっと深く、喜びの底にもだもだしているこんな恥辱感はなかったろうに。(ドナルド・キーン著/角地幸男訳「日本人の戦争 作家の日記を読む」文藝春秋)P181-183
C プリンシプルのない日本
1945年3月から10月までのわずか半年の動きである。終戦後、わずか1週間で、新聞も大本営発表から無反省で転向。このような手のひら返しは、日本では数限りなくある。例えば、原発問題。原発事故が起きた途端、原発反対派が一斉に増えてきた。宮島理氏は、「正義」を簡単に着替える日本人でこう書いている。
日本人は何も変わっていない。無定見に「正義」を着替え、いかなる「正義」にも便乗しない者を絶えず感情的に攻撃する。
敗戦は、日本人がその責任から逃れるために、古い「正義」をスルリと脱ぎ、新しい「正義」を羽織った時代だった。そこには合理的説明も省察も何もなく、効力の失われた「正義」を捨て、新しい「正義」を拾うという、醜い自己保身があるだけだったのである。(「正義」を簡単に着替える日本人)
これはまた、白洲次郎の「プリンシプルのない日本」(新潮文庫)に似ている。
何と何がどうかしない間は「戦後」は終わらない、とか、「戦後」はまだ続いているとかいうことをよく耳にする。私は「戦後」はまだ続いているとかいうことをよく耳にする。私は「戦後」というものは一寸やそっとで消失するものだとは思わない。前の戦争が厳然たる事実であるかぎり、歴史の一頁は永久に残ると考える。戦後は永久に続くという考え方だ。
この「戦後」の一、二の例をとってみよう。新憲法は占領軍によって強制的に国会を通過して成立したものであることは誰でも知っているはずだ。今や新憲法はどうのこうのと話は毎日聞くが、新憲法の精神というか、それを貫いているプリンシプルは何かということを、考えてみた人は何人いるだろうか。占領軍からのお土産品のデモクラシーも同じである。我々が現在声たからかに唱えている新憲法もデモクラシーも、単なる、かりものの域を脱しているとは思わない。我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。新憲法なりデモクラシーがほんとに心の底から自分のものになった時において、はじめて「戦後」は終わったと自己満足してもよかろう。
これで思い出すことは、プリンシプルのことだ。プリンシプルは何と訳してよいか知らない。原則とでもいうのか。日本も、ますます国際社会の一員となり、我々もますます外国人との接触が多くなる。西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたきこまれたものらしい。小林秀雄が教えてくれたが、この教育は朱子学の影響によるものとのことである。残念ながら我々日本人の日常は、プリンシプル不在の言動の連続であるように思われる。(白洲次郎著「プリンシプルのない日本」新潮文庫)
これは1969年の記事である。40年前の記事なのに、なぜか日本人にぴったりくる。「戦争が終わった途端に一転して熱狂的なアメリカ崇拝に日本人は変わっていった」のも、日本人に原則であるべきプリンシプルがなかったからではないのか。だから、欧米人が日本人の行動が理解できなかったのも当然ではないだろうか。それはまた、日本人の美徳である、「穏やかで我慢強さ」もこのプリンシプルのなさが影響しているのかもしれない。
抜き書き・マイケル・サンデル 究極の選択「大震災特別講義〜私たちはどう生きるべきか〜」(1) でニューヨークタイムズが日本人をほめそやした、
「日本の混乱の中での秩序と礼節。悲劇に直面しての冷静さと自己犠牲、静かな勇敢さ。これらは、まるで日本人の国民性に織り込まれている特性のようだ」
というのが話題になった。そこで作家の石田氏は、
こういう災害に起こるとですね。それぞれの国の地の部分が浮き上がってきますよね。で、マイケルさんがおっしゃってるような、そのコミュリタリアニズム(共同体主義)の規範というのは、日本人の場合は、思想かとかではなくて、生活の中にしみ込んでしまって、トラブルがあるたびに出てくるんですよ。ですから、外国のメディアで暴動や窃盗が起こらなかったことが奇跡だというのがありましたけれど、それが日本では、まったく当り前です。ええ、そういう災害の現場で、盗みが起こるようなことは誰も想定していないですね。
プリンシプルと個人主義にどうつながっているかわからないが、日本人のプリンシプルのなさがこのような日本人の美徳の「我慢強さ」を築いているのではないだろうか。
D 夢幻∞大ページランキング
現代日本人の精神の貧困「三ない主義」URL
現代日本人の精神の貧困「三ない主義」
このサイトに「ドナルド・キーン氏は日本人の何に感動したのか(1)」と「ドナルド・キーン氏は日本人の何に感動したのか(2)」が載っているのだが、読み応えがあり、含蓄のある意見が見られます。
ですから、折々に開いてみるとよいと思います。 参考のためにその一部を転載しておきます。
【転載】
夢幻∞大ページランキング
01 ドナルド・キーン氏は日本人の何に感動したのか(1) 1477
02 夢幻∞大のドリーミングメディア 926
03 なぜ、ロケーションフリーは生産完了になったか 726
04 「猿の惑星」のもう一つの解(ネタバレあり) 506
05 検証なきメディアは価値がない(マスメディアは人から腐る・2) 343
06 あなたは地デジ化が始まった原因をご存知ですか? 224
07 NHK「ヒューマン」覚え書き 216
08 「三丁目の夕日’64」と「麒麟の翼」をつなぐテーマ
「コミュニケーションのない家族」(ネタバレあり) 190
09 アカデミー賞は、なぜ「アバター」と「インセプション」を嫌うのか 157
10 夢は見るものでなく叶えるもの 126
11 インターネット時代に「日本の自殺」を読む(タブレットがテレビになる時・2) 121
12 映画「はやぶさ」の「失敗は成果だ」という話 120
13 ジョブズ氏の最後の夢(ホームサーバの戦い・第102章) 113
14 人生はわからない(ベンジャミン・バトン名言集) 106
誰もが自分は人と違うと思うもの。でも行き着く先は同じ。通る道が違うだけよ。
どんな風に生まれてもみんな孤独を恐れている
物事をやり直すのに遅すぎることはない
人は皆、最後にはまたオムツをするようになるのよ
人は誰もが行きつく先は同じ。そこには何も持って行けない。
15 テレビにつなぐiPadとテレビにつなげないNGP(ホームサーバの戦い・第84章) 105
16 抜き書き・マイケル・サンデル 究極の選択「大震災特別講義〜私たちはどう生きるべきか〜」(1) 103
17 タブレットがテレビになる時 94
18 ジョブズとソニー(4)「スティーブ・ジョブズ」のソニー部分(1) 91
19 ミッション・インポッシブル「ラビットフット」の謎 85
20 ユニクロと岩波書店〜信頼社会の発想と安心社会の発想 81
21 ソニーのSCE化でアップルに対抗できるか(ホームサーバの戦い・第108章) 79
22 新apple TVとtorneに見る日米録画事情(ホームサーバの戦い・第71章) 73
23 「宇宙戦争」と「日本の自殺」 72
24 ドナルド・キーン氏は日本人の何に感動したのか(2) 70
25 ジョブズとソニー(5)「スティーブ・ジョブズ」のソニー部分(2) 66
26 朝日新聞は、今、何を考えているか・5(ホームサーバの戦い・第106章) 64
27 リスクゼロ企業ほどタダ乗り社員(フリーライダー)が多い 62
27 読売新聞「試写室」が日テレのCM手法を批判(なぜ、日本のテレビは貧しくなったか・4) 62
29 PS3のCellが、なぜ日本のスパコンにならないか理由を調べてみた 61
30 引用なしでは一歩も前に進めない 59
34 抜き書き「スピルバーグ創造の秘密」 51
36 日本人の謎「極端から極端へ」 48
38 現代日本人の精神の貧困「三ない主義」 46
38 なぜ、日本のテレビは貧しくなったか(3) 46
38 朝日新聞は、今、何を考えているか・6(ホームサーバの戦い・第107章) 46
44 なぜ、日本のテレビは貧しくなったか(2) 43
46 抜き書き「世界を変えた男 スティーブ・ジョブズの素顔」 38
47 なぜ、日本のテレビは貧しくなったか 37
48 抜き書き・マイケル・サンデル 究極の選択「大震災特別講義〜私たちはどう生きるべきか〜」(3) 36