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折々の記 2014 ⑦
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】08/14~ 【 02 】08/16~ 【 03 】08/19~
【 04 】08/21~ 【 05 】08/26~ 【 06 】08/27~
【 07 】08/30~ 【 08 】09/01~ 【 09 】09/05~
【 01 】08/14
08 14 (戦後70年へ プロローグ:3)消費者の時代、迷い道
(戦後70年へ プロローグ:3)私たちは王様で下僕だ
08 15 (戦後70年へ プロローグ:4)孫たちの靖国と戦争
(戦後70年へ プロローグ:4)「戦争責任」自ら見つめる
(戦後70年へ)追悼のかたち、歴史映す 米国・ドイツ・韓国・イタリア
08 15 (社説)戦後69年の言葉 祈りと誓いのその先へ
08 16 不戦貫いた69年 集団的自衛権容認後、初の終戦の日
08 16 (戦後70年へ プロローグ:5)非核、原爆も原発も
(戦後70年へ プロローグ:5)核を制御できるのか
08 16 全国戦没者追悼式 驚くべきこの違い 陛下の言葉と総理の言葉
08 14 (木) (戦後70年へ プロローグ:3)消費者の時代、迷い道
…… 2014⑦【 08 】同タイトルの1,2を参照 ……
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11298679.html 2014年8月14日
戦後は消費が花開いた時代でもある。「消費者」は社会をどう変えたのか。
カラーテレビの値段が高すぎる。そう言って消費者が全国的な不買運動を起こし、メーカーを震え上がらせたことがある。高度経済成長まっただ中の1970年のことである。
高卒の平均初任給が約2万7千円だった時代に19型カラーテレビは20万円近くした。それが店によっては2割引き、3割引きで売られ、米国への安値輸出も疑われていた。定価は不当ではないかと、全国地域婦人団体連絡協議会など消費者5団体が引き下げを求め始めた。冷蔵庫や洗濯機などをすでに手に入れた人々の欲求は、カラーテレビに向かっていた。
火に油を注いだのはメーカーの高圧的な態度だった。価格は生産者が決める、それが当たり前の時代だった。最大手の松下電器産業は「値下げはしない」と主張した。
「押しても引いてもびくともしない感じでした。こっちも、負けないぞとがんばりました。とにかくボーナスが出てもカラーテレビは買わないと」。5団体の一つ、主婦連合会の会員として運動の輪の中にいた和田正江さん(83)は振り返って言う。街頭でビラを配ると、次々に立ち止まってくれた。「やりがいのある運動でしたね」
運動は松下製品のボイコットにまで発展。松下は数カ月で大幅値下げに動く。「このままにはしておけない。買ってくれる人の気持ちをくみ直さないといけない。それでも利益は出せるように努力しろ」。それが松下幸之助会長からの指示だったと、当時、本社の営業本部にいた土方宥二さん(81)は言う。生産から販売まで見直しが求められ、社内はひっくり返るような騒ぎになった。消費者側の完全勝利だった。
カラーテレビ不買運動は一見、あの時代ならではの特異な出来事である。インフレで食費や家賃も上がり、人々はいらだっていた。東大安田講堂での学生と機動隊の攻防や公害反対運動など、時代の空気も騒然としていた。
それは同時に、戦後日本経済の大きな場面転換だったのではないか。かたまりとしての消費者が初めて、社会に現れた。消費者運動がそれを体現した。
しかし、そこにもうひとつの担い手が登場した。大型流通企業である。
迷路に入り込む、種がまかれた。 (編集委員・有田哲文)
(2面に続く)
(1面から続く)
(戦後70年へ プロローグ:3)私たちは王様で下僕だ
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11298636.html 「消費をめぐる動き」画像あり
◆消費者の王国、進んだ価格破壊
カラーテレビ不買運動が起きる少し前、消費者を主人公にすると宣言した男がいた。総合スーパーの先駆ダイエーの創業者、故・中内功氏である。1969年の著書「わが安売り哲学」で、経営者というよりは活動家のような筆致で、こう書いた。
「流通支配権を生産者から流通経済の担い手に奪い返すのが流通革命である。流通革命によって実現する社会は、消費者を主権者とする消費者社会であり、このときにはさしもの堅塁を誇った生産者社会は崩れ去る」
そして、生産者が定めた価格を「破壊」することが、ダイエーの使命だとした。
終戦直後の闇市から身を起こし、1957年に大阪・千林に1号店を出して以来、「よい品をどんどん安く」とのスローガンで、店を増やしてきた。米国のスーパーマーケットがお手本だった。安売りを許さない洗剤や家電のメーカーとの対立も辞さなかった。
「最初にいくらなら買ってもらえるかという値段を決め、それから仕入れ先を探す。それがダイエーでした。日本全国を回り、外国にも行くんです」。中内氏の長男で元副社長、中内潤さん(59)は言う。
1980年に売上高1兆円の偉業を達成し、国内最大の小売りに上りつめたダイエーはやがて、拡大路線がたたり、経営に行きづまる。しかし、中内氏の目指した「消費者主権の社会」をいま、私たちは手にしていると言える。
私たちの主権を支えるのは、ダイエーとともに育った巨大流通企業である。イオンは6兆円台、セブン&アイ・ホールディングスは5兆円台の売り上げを誇り、仕入れ先に対して強い影響力を持つ。ヤマダ電機などの家電量販店を見ると、家電メーカーと流通の力関係は完全に逆転している。
ユニクロでは、海外でつくられた気の利いたデザインの服を手頃な価格で買うことができる。24時間営業のコンビニエンスストアは、まるで私たちの冷蔵庫である。
「消費者主権」「価格破壊」の後ろ盾にあったのは日本の物価が高い、という内外価格差の議論だった。しかし、バブルが崩壊した90年代以降、そうした声はだんだんと聞かれなくなる。安く買えるものが増えたのだ。代わって、新たな伴走者ができた。
デフレである。
◆デフレ、働き手として報われず
1995年版の経済白書は、「価格破壊」について長めのページを割いた。企業が効率的になり生産性が上がったために、物価の低下が起きているのであれば、問題はない。しかし、たんに需要が減ったことによる「値崩れ」であれば、最後は賃下げや失業につながってしまう。果たして、どちらの要素が強いのか。
後知恵で言えば、明らかに値崩れであり、デフレの始まりだった。しかし、当時、経済企画庁の担当課長だった貞広彰さん(68)によると、実証的に分析しようとしたがうまくいかなかった。白書の書きぶりは、生産性の向上による価格破壊のトーンが強いものになった。
「価格破壊はどちらかというと良いことだという感じが、当時はありました。でも、その結果、働く人の賃金が下がれば、経済全体では良くない。私たち経済企画庁も、日本銀行も、デフレの進行を見誤ってしまった」
もちろん、デフレの主犯はバブル崩壊後の経済低迷と信用収縮である。企業も個人も、借金の返済に追われることになり、経済が落ち込んだ。ソ連や東欧の社会主義体制が崩壊し、グローバル化が進んだことも、日本経済を揺さぶった。
しかし、価格破壊のプラスイメージも、大きな役割を果たした。「デフレには、良いデフレもある」という議論につながり、対策が後手に回った。
雇用の場では、非正規雇用が増えるのと歩調を合わせるように、賃金が下がった。同一労働同一賃金のルールのない日本では、非正規の制度が賃金を下げるための道具になったのだ。若者を使い捨てにする「ブラック企業」も横行した。
私たちは「消費者の王国」にたどりついたのかもしれない。しかし、私たちの存在の別の大きな側面である「労働者」に対しては、冷たい国になった。
労働経済学者の山本勲慶大教授と黒田祥子早大教授の研究によると、1990年代から2000年代にかけて、昼間に働く人が減る一方で、深夜・早朝に働く人が増加する傾向が見られた。とくに非正規雇用に顕著で、非正規の男性が午前0時に働いている割合は、96年の4%台から06年の8%台へと倍増した。便利で夜遅くまでサービスを受けられる社会の現実である。
コンビニの深夜営業を見直してはどうか――。京都市の門川大作市長(63)は2008年にそんな問題提起をした。規制も辞さずの姿勢だった。省エネに加えて、深夜労働や夜型のライフスタイルの改善にもつなげたいとの思いからだった。
しかし、業界からは「我々はむしろ、雇用確保に貢献しているんだ」と強い反発を受ける。その後、リーマン・ショックが起き、たしかに不況期の雇用の受け皿になった。規制は見送らざるを得なかった。門川市長は言う。「でも、また必ず時節が来る。みんながもう一度働き方を考える、きっとそんな時が来る」
◆自縄自縛、いいはずがない 取材後記
欧州で閉店間近のスーパーに行くと、日本ではありえない光景に出くわす。客をあからさまに追い出そうとし、ギリギリに入ると嫌な顔をされる。「ひどい対応だな」と言いたくなるが、日本の小売りや外食の現場では、逆にこうも思う。「日本のお客って、どうしてこんなに偉そうなんだろう」。消費する自分が、働く自分を追い詰める。そんなことがあっていいはずがない。日々の態度も、経済の仕組みも。
あすは、戦争時の指導者責任を問われた祖父をめぐる孫の思いから、戦後日本の自画像を考える。
(編集委員・有田哲文)
08 15 (金) (戦後70年へ プロローグ:4)孫たちの靖国と戦争
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11300388.html 2014年8月15日
東京・九段の靖国神社。猛暑の境内に、濃い灰色のスーツを着た元外交官・東郷和彦氏(69)=京都産業大学教授=の姿があった。
「ここに立つと、神道の雰囲気を実感しますね」
靖国神社は、戦死した日本軍人・軍属らを「神」としてまつる神社だ。そこに和彦氏の祖父も含まれている。太平洋戦争期に外相を務めた東郷茂徳(1882~1950)だ。
文官である外相がなぜ、まつられているのか。
A級戦犯だからである。
41年12月、太平洋戦争が始まったときの外相が茂徳だ。敗戦後に戦争指導者として逮捕され、巣鴨プリズン(東京)に収容される。東京裁判(極東国際軍事裁判)で48年、禁錮20年の判決を受けた。2年後、服役中に病死した。67歳だった。
茂徳の女婿は外務事務次官だった東郷文彦(1915~85)で、その息子が外務省条約局長などを務めた和彦氏だ。和彦氏は「3代目」の外交官だった。
巣鴨にいた著名な祖父を持つもう一人の人物が、安倍晋三首相(59)である。
「お前のじいさんはA級戦犯の容疑者じゃないか」
子供のころから言われてきた、と首相は自著で明かしている。そうした言葉への反発から自分は「保守」に親近感を持ったのかもしれない、とも。祖父とは、元首相の岸信介(1896~1987)である。
岸も開戦時の閣僚(商工相)だった。A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに約3年間、幽閉された。東条英機元首相ら7人の絞首刑が執行された48年12月、不起訴で釈放された。53年の衆院選で政界に復帰。57年に首相の座に就いた。
東京裁判は勝者による一方的制裁だ、犯罪人という意識は全くなかった――後に岸はそう語っている。
岸の女婿は安倍晋太郎元外相(1924~91)で、その息子が晋三氏。現首相もまた3代目である。
昨年12月、安倍首相は靖国神社に参拝した。
同神社には78年に、14人のA級戦犯が合祀(ごうし)された。その後、戦争指導者を神とする神社に首相が参拝することの是非が政治・外交問題となった。合祀された14人の1人が東郷茂徳だ。
「遺族として合祀はありがたいことだと思っている」と孫の和彦氏は話す。だが近年は、首相による参拝は一時停止されるべきだと訴えている。「遺族としての情と国益は分けて考えねばならない」という。
戦死者の追悼はどうあるべきか、戦後という時代をどう評価するか――孫たちの判断は一様ではない。
(編集委員・塩倉裕)
▼9面=各国の追悼
(2面に続く)
(戦後70年へ プロローグ:4)「戦争責任」自ら見つめる
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11300284.html
(1面から続く)
◆獄中の祖父「児等(こら)よ、戦ふ勿(なか)れ」
「いざ児等よ/戦ふ勿れ/戦はば/勝つべきものぞ/ゆめな忘れそ」
巣鴨プリズンで東郷茂徳が詠んだ歌の一つだ。子どもたちに「戦争をしてはいけない」「戦争するなら勝つ戦争でなければならない」と説き、この二つを決して忘れるな、とする。
その茂徳の墓は、東京の青山霊園にある。
命日にあたる今年7月23日、孫の和彦氏はその前で手を合わせた。
「日本は今、中国と戦争になるかもしれないほどの危機に直面している。戦後で最も現実味のある危機だ。祖父の歌があてはまる状況にある」
祖父茂徳は、日米開戦の危機が迫った1941年10月、外相に就任した。「米国に勝てる見込みがあるのか」と軍部に反論し、戦争回避に努めたが、日本は真珠湾攻撃に突入する。
敗色濃厚になった45年4月、茂徳は再び外相に迎えられる。徹底抗戦・本土決戦を叫ぶ軍部を相手に、早期終戦を主張し、昭和天皇の「聖断」による降伏へと、道を開いた。
「帝国主義の時代にあって非軍事主義の外交を追求した点に、茂徳の特徴がある」。戦争史に詳しいノンフィクション作家の保阪正康氏はそう語る。
東京裁判で茂徳は、侵略戦争の指導者責任を問いただす連合国側に、対米開戦は追い込まれた末の自衛戦争だったと応じた。
孫の和彦氏は子ども時代、母親から何度もこう聞かされた。
「おじいちゃまは戦争にならないよう粉骨砕身、努力したのよ」
90年代後半、外務省幹部だった和彦氏は自民党の右派議員から、「外務省はなぜ東京裁判の不当性を批判してこなかったのか」と突き上げられたという。
〈東京裁判が勝者の裁きだったことは先生から教えていただかなくてもたたき込まれております〉〈その裁判を受け入れてスタートした戦後日本がどうやって国際社会で生きていくか、それを僕らは一生懸命やっているんじゃないですか〉――そう言い返したい思いを胸に押しとどめた。
◆「東京裁判否定するからこそ…」
今月12日。
山口県田布施町にある岸信介の墓前に、紺のスーツを着た安倍晋三首相の姿があった。線香をあげ、10秒ほど静かに目を閉じた。
岸は戦前、日本が中国に設立した満州国の実力者として頭角を現した。戦後は、巣鴨から釈放後、「憲法改正」をかかげて日本再建連盟を作り、占領軍による「押しつけ」への反発をバネに政界を駆け上がった。
岸に詳しい国際政治学者の原彬久(よしひさ)氏は、「占領下で作られた戦後体制は米国の国益の産物だ、と岸は考えた。その体制を打ち破ることが政治家・岸の目標だった」と話す。
首相として手がけた安保条約の60年改定では、旧条約の不平等性を改めた。孫の安倍首相も、憲法改正や「対等な日米関係」を前面に押し出す。
「安倍さんは、祖父の『未完成交響曲』を遺産相続し、書き上げようとしている」と原氏は見る。
安保改定をなしとげた岸について、和彦氏は「尊敬している」という。
「安全保障の面では、大胆に戦後を見直そうという安倍首相にも賛同する。だが、歴史認識の面では謙虚さが要ると思う」
和彦氏は06年、首相による靖国神社参拝は一時停止すべきだと提言した。小泉純一郎首相の参拝が続き、日中首脳会談がとだえていた。まずは戦争責任についての国民的議論をおこし、そのうえで戦犯合祀(ごうし)問題の解決法を見いだすべきだ、と呼びかけている。
では、はたして戦争責任について日本人は戦後、自らの手で考えを提示してきたのだろうか。「1回だけある」と和彦氏は見る。
戦後50年にあたる1995年、当時の村山富市首相が発表した談話だ。
談話は「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛」を与えたと認め、「痛切な反省の意」と「お詫(わ)びの気持ち」を表明した。
「私は、東京裁判を否定するからこそ、日本人が自らの判断で出した村山談話の価値を認めるのです。戦争責任に関しては、村山談話は戦後日本の最高の到達点であり、宝だ」と和彦氏は語った。
一方、安倍首相が昨年靖国神社に参拝したことについては、中国を挑発する行為になりかねないと危惧している。
あのときは、米国も「失望した」と表明した。
「日本が不要に挑発したと見える紛争に自国兵を送るほど米国は甘くない」と和彦氏は言う。
「これは、『文化の戦い』でもある。米国や中国の発想と心理を深く知ったうえで、彼らをして『なるほど』と思わせるメッセージを出さなければいけない。さもないと、日本は国際的に孤立してしまい、その『文化の戦い』に敗北する」
◆保守派の中でも亀裂 取材後記
靖国神社への首相参拝については、「参拝は、政治指導者として当然だ」との声から「靖国は軍国主義の象徴だ」という人まで、国民の間で大きく意見が割れる。東京裁判についても同様だろう。今回、「東京裁判が正しいと認められたことは東郷家では一秒たりともない」と言う和彦氏から、首相による参拝の「一時停止」を求める言葉が語られた。戦争責任と追悼の問題をめぐって、保守派の中ですら深い亀裂が走る。歴史にどう向き合うべきか。問いは続いている。
あすは、原爆と原発という二つの“核”の戦後史をひもとく。
(編集委員・塩倉裕)
◆キーワード
<東京裁判(極東国際軍事裁判)> ドイツの指導者を裁いたニュルンベルク裁判にならって連合国が設置した。裁判官は、米、英、仏、ソ連などの11カ国から各1人の計11人で構成された。1946年5月に開廷し、48年11月の判決では、戦争を指導したA級戦犯25人全員に有罪を宣告。うち東条英機元首相ら7人が絞首刑となった。
従来の国際法になかった「平和に対する罪」などの類型が加わったことから、あとからつくられた法で裁くのはおかしい、などの批判がある。原爆投下など連合国の行為は問われず、被告の選定基準にもあいまいさがあった。一方、戦争の残虐な実態や軍部の謀略を明らかにした、戦争というものを裁く国際法の流れの先駆けになった、などの評価もある。日本は、主権を回復したサンフランシスコ講和条約(51年調印)で裁判を受諾した。
▼9面=各国の追悼
(戦後70年へ)追悼のかたち、歴史映す 米国・ドイツ・韓国・イタリア
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11300263.html
誰を弔うのか。どのように悼むのか。何のためにたたえるのか。戦没者の追悼の形には、その国が歩んだ歴史、はぐくんだ思想や宗教観が色濃く映る。靖国問題に揺れる日本に限らず、各国でも追悼の対象や意味をめぐり、苦悩や葛藤が続く。
◆多様な宗教観、認める 米国
米国の「聖地」と呼ばれるアーリントン国立墓地は、首都ワシントンからポトマック川を渡ってすぐ。2・5平方キロの敷地に40万の白い墓標が並ぶ。
毎日、星条旗に包まれた棺が鼓笛隊に先導されて墓地内を進む。戦闘が続くアフガニスタンで死んだ若者や、退役軍人もいる。本人や遺族が希望していることが条件だ。
歴代大統領は必ず訪れる。昨年、献花した安倍晋三首相は米評論誌のインタビューでアーリントンを例に挙げ、戦没者追悼のための靖国神社参拝も「自然なこと」と語った。
墓地の紹介も神社の英訳にも使われる「シュライン」が用いられる。ただ、靖国と異なり特定宗教の施設ではない。広報担当のジェニファー・リンチさんはシュラインという言葉を「国のために従事した人を追悼するという意味」と説明する。むしろ際立つのは多様な宗教観を認める姿勢だ。墓標には十字架だけでなく、ユダヤ教の星やイスラム教の三日月も刻まれる。創価学会や無神論者を示す刻印もある。
墓地の起源は19世紀半ばの南北戦争。南軍を率いた将軍が居宅を構えた土地を連邦政府が墓地にした。南北の兵士が一緒に戦った19世紀末の米西戦争を経て、一角が南軍用にあてられ、記念碑も建てられた。
もっとも、奴隷制を守る側だった南軍兵士をたたえることに異論もある。オバマ大統領の就任時、歴史学者らは南軍の記念碑に花輪を送る慣例の中止を呼びかけた。オバマ氏は慣例を続けたが、南北戦争で戦った黒人兵士の記念碑にも献花する折衷案で対応した。
ワシントン市内にも戦争に関する記念碑が多い。04年完成の第2次大戦の記念碑は戦場などを刻んだ白い御影石がそびえる。「米国人は解放するために(戦場に)来た。自由を取り戻し、専制を終わらせるために」とうたう。
対照的なのは1982年にできたベトナム戦争の記念碑。黒い御影石の壁に、死亡した約6万人の米兵の名を刻むだけで、議論を呼ぶ戦争の評価の言及はない。イラクなどで5千人以上が死亡した「対テロ戦争」は、まだ記念碑の計画すらない。
(ワシントン=中井大助)
◆加害と被害、悩む境界 ドイツ
犠牲者とは誰か。ドイツは、この問題でずっと苦悩してきた。
ベルリンの目抜き通り、ウンター・デン・リンデン沿いの国立中央追悼施設「ノイエ・ワッヘ」。11月の国民追悼の日には、大統領らが献花する。
がらんどうの内部の中央に彫像が一つ。第1次大戦で息子を亡くした女性芸術家ケーテ・コルビッツの「死せる我が子を抱く母」の像だ。プロイセン時代の衛兵詰め所を第2次大戦後、東独が反ファシズムを象徴する施設に再建。統一後の1993年、コール政権が東西共通の追悼施設に衣替えした。
ナチス幹部は追悼対象に含まれない。母子像の下には「戦争と暴力支配の犠牲者に」と刻まれている。大戦で死んだ兵士や民間人のほか、ユダヤ人や政治犯などナチス支配下で虐殺された被害者を慰霊する。
ユダヤ人団体や野党は「加害者と犠牲者を同列に扱うもの」と反発した。当時のコール首相に助言する立場だったクリストフ・シュトルツル元歴史博物館長(70)は「誰が犠牲者かを決める議論は永遠に終わらない。あえて広く、あいまいにした」と振り返る。
だが、今も戦犯の追及が続く。犠牲者は特定されていく。約7500件を捜査したナチス犯罪追及センターのクルト・シュリム所長(65)は「我々が追うのはナチスの犯罪者だが、犠牲者ともいえるグレーゾーンもある」。
結局、ユダヤ人団体の働きかけで2005年、ベルリンにホロコーストの犠牲者の記念碑が完成した。
一方、戦後しばらくは想定していなかった新たな「戦没者」の慰霊の問題も出てきた。09年、国防省敷地内に新たな追悼施設が造られた。「平和と正義、自由のために死んだ我々の国防軍の犠牲者に」と刻まれた。90年代、北大西洋条約機構の域外派兵に踏み出した。アフガニスタンでは、昨秋の撤退までに55人が死亡。国際貢献の名の下に落命した兵士の追悼が必要だった。
だが、施設に反対する野党のアレクサンダー・ノイ議員(45)は言う。「ドイツ兵も絡んだ戦闘で多くのアフガン市民も死んだ。彼らこそ追悼されるべきだ」
(ベルリン=玉川透)
◆叙勲取り消し、親日派排斥 韓国
ソウルを横切る漢江の近くに、広大な国立墓地がある。祖国を守るために戦い、発展に尽くした人々が眠る「ソウル顕忠院」だ。
143万平方メートルの敷地に17万2千人余りが眠る。朝鮮戦争やベトナム戦争の参戦者、朝鮮戦争に参加した在日学徒義勇軍、独立運動を闘った愛国志士らに加え、元大統領の墓もある。
朝鮮戦争の戦没者のために1955年につくられたが、警察官などにも対象が拡大。手狭になり、中西部の大田にも顕忠院ができた。祖国に貢献した者は「国の責任で礼遇する」との思想が貫く。墓地への埋葬は強制ではなく、本人や遺族の同意が必要だ。
敏感なのは親日派の問題だ。大田の顕忠院ではかつて、朝鮮戦争で活躍した故人が日本の憲兵だったことを批判する市民団体が排斥運動を起こした。
昨年12月には、国会議員の有志10人が国立墓地の運営に関する法律の改正案を提出。親日派を安置できなくするよう求めており、国会で審議が続く。
政府の「親日反民族行為真相糾明委員会」が09年、約千人を「親日反民族行為者」と認定。19人が叙勲を取り消され、うち10人が国立墓地に埋葬されていた。この遺族の大半が墓を移したが、まだ3人が残る。2人の遺族は叙勲取り消しの撤回を求め提訴した。議員の1人は「叙勲まで取り消された人を国立墓地に残しておくわけにはいかない」と話した。
(ソウル=貝瀬秋彦)
◆国際貢献の犠牲者も対象 イタリア
日独とともに枢軸国として第2次大戦に参戦したイタリア。ナポリターノ大統領が69年目の「解放記念日」である今年4月25日の演説でたたえたのは、ナチスドイツに抵抗したパルチザン(義勇兵)ら市民の献身だった。
「イタリアと欧州を、全体主義とドイツの支配から解放した」
イタリアはファシスト党のムソリーニが1943年に失脚し、連合国に降伏。その後ドイツの傀儡(かいらい)政権に対し、幅広い階層が抵抗運動に加わった。
パルチザンはムソリーニを捕らえて処刑。戦後の新憲法は、戦争放棄とともにファシスト党の再結党を禁止した。国民にとって第2次大戦は「自ら民主主義を取り戻した戦い」なのだ。
戦没者の追悼施設は、ローマ中心部に立つビットリオ・エマヌエーレ2世記念堂だ。正面に「祖国の祭壇」がある。イタリア統一時の初代国王をたたえて1911年に落成した記念堂は、直後の第1次大戦以降、無名戦士を悼む施設となった。第2次大戦後の「国際貢献」で、イラクなど異国で死亡した兵士も、同様にここで弔われる。
4月25日の演説でも、大統領は「平和を守る国際的な任務は、我が軍の支援がなければなりたたない」と兵士をねぎらった。
ただ、同じ戦地でも戦闘による死と事故死で葬儀への軍や政府の対応が違い、遺族から「平等に扱ってほしい」と不満も上がる。
(ローマ=石田博士)
◆家族の祈りが基本だ ジェイ・ウィンター 米エール大教授(歴史学)
20世紀の二つの世界大戦はあまりに膨大な犠牲者を出したため、交戦国にとって、戦争を記念し、死者を追悼することが、政治的に欠かせない行事となった。
第1次世界大戦後、新しいシンボルが現れた。無名兵士の墓だ。兵器の破壊力が比べものにならないほど大きくなり、戦死者の半分には墓が存在しない。戦場で遺体が見つからなかったからだ。そういう死者のためにつくられた。
その英国版がセノタフだ。ギリシャ語で「空っぽの墓」を意味する記念碑は、議会と首相官邸の中間につくられた。記念行事には女王や首相が来るが、戦争や国家を美化する施設ではない。宗教性もない。そのメッセージは、追悼で重要なのは死者のみであり、戦争自体はカタストロフィー(破局)だ、ということだ。
記念碑や追悼はナショナリズムの道具と考えられがちだが、戦争の賛美を込める人も、反戦のメッセージを託す者もいる。多義的である。
私はこう考える。国家は戦争の記憶に介入するが、死者を記憶するのは人間だ。家族が死者の冥福を祈ることこそ、戦争を思い、追悼することではないか。
(聞き手・三浦俊章)
08 15 (金) (社説)戦後69年の言葉 祈りと誓いのその先へ
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11300266.html 2014年8月15日
8月最初の土曜日、東京・渋谷で行われたデモ。「戦争反対」のコールが炎天下に響く。
この69年間、日本において戦争といえば、多くは1945年8月15日に敗戦を迎えた過去の大戦のことであり、そうでなければ、世界のどこかで起きている悲惨な出来事だった。
だが7月1日、集団的自衛権の行使容認が閣議決定され、戦争は過去のものでも、遠くのことでもなくなった。
◆戦争と日本の現在地
国民的合意があったわけではない。合意を取り付けようと説得されたことも、意見を聞かれたこともない。ごく限られた人たちによる一方的な言葉の読み替えと言い換えと強弁により、戦争をしない国から、戦争ができる国への転換は果たされた。
安倍首相は8月6日の広島、9日の長崎という日本と人類にとって特別な日の、特別な場所でのあいさつを、昨年の「使い回し」で済ませた。そればかりか、集団的自衛権に納得していないと声をかけた被爆者を「見解の相違です」と突き放した。
見解の相違があるのなら、言葉による説得でそれを埋める努力をするのが、政治家としての作法である。ところが首相は、特定秘密保護法も集団的自衛権も、決着後に「説明して理解を得る努力をする」という説明を繰り返すだけ。主権者を侮り、それを隠そうともしない。
男性23・9歳。女性37・5歳。敗戦の年の平均寿命(参考値)だ。多大な犠牲を払ってようやく手にしたもろもろがいま、ないがしろにされている。
なぜ日本はこのような地点に漂着してしまったのだろうか。
哲学者の鶴見俊輔さんが、敗戦の翌年に発表した論文「言葉のお守り的使用法について」に、手がかりがある。
「政治家が意見を具体化して説明することなしに、お守り言葉をほどよくちりばめた演説や作文で人にうったえようとし、民衆が内容を冷静に検討することなしに、お守り言葉のつかいかたのたくみさに順応してゆく習慣がつづくかぎり、何年かの後にまた戦時とおなじようにうやむやな政治が復活する可能性がのこっている」
◆お守り言葉と政権
お守り言葉とは、社会の権力者が扇動的に用い、民衆が自分を守るために身につける言葉である。例えば戦中は「国体」「八紘一宇(はっこういちう)」「翼賛」であり、敗戦後は米国から輸入された「民主」「自由」「デモクラシー」に変わる。
それらを意味がよくわからないまま使う習慣が「お守り的使用法」だ。当初は単なる飾りに過ぎなかったはずの言葉が、頻繁に使われるうちに実力をつけ、最終的には、自分たちの利益に反することでも、「国体」と言われれば黙従する状況が生まれる。言葉のお守り的使用法はしらずしらず、人びとを不本意なところに連れ込む。
首相が、「積極的平和主義」を唱え始めた時。意味がよくわからず、きな臭さを感じた人もいただろう。だが「平和主義」を正面から批判するのはためらわれ、そうこうしているうちに、首相は外遊先で触れ回り、「各国の理解を得た」と既成事実が積み上がる。果たして「積極的平和主義」は、「武器輸出三原則」を「防衛装備移転三原則」へと転換させる際の理屈となり、集団的自衛権行使容認の閣議決定文には3度出てくる。
美しい国へ。戦後レジームからの脱却。アベノミクス――。
さあ、主権者はこの「お守り言葉政権」と、どう組み合えばいいのだろうか。
◆8・15を、新たに
「今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です」
9日、長崎での平和祈念式典。被爆者代表として登壇した城臺美彌子(じょうだいみやこ)さんがアドリブで発した、腹の底からの怒りがこもった言葉が、粛々と進行していた式典の空気を震わせた。
ぎょっとした人。ムッとした人。心の中で拍手した人。共感であれ反感であれ、他者の思考を揺さぶり、「使い回し」でやり過ごした首相を照らす。
まさに言葉の力である。
デモ隊が通り抜けた渋谷でも、揺さぶられている人たちがいた。隊列をにらみつけ、「こんなことやる意味がわかんない。ちゃんと選挙行けよ」と吐き捨てる女性を、隣を歩く友人が苦笑いで受け止める。「戦争反対」とデモのコールをまねて笑い転げるカップル。日常に、ささやかな裂け目が生じた。
お守り言葉に引きずられないためには、借り物ではなく、自分の頭で考えた言葉を声にし、響かせていくしかない。どんな社会に生きたいのか。何を幸せと思うのか。自分なりの平たい言葉で言えるはずだ。
8月15日は本来、しめやかに戦没者を悼む日だった。しかし近年は愛国主義的な言葉があふれ出す日に変わってしまった。静寂でも喧噪(けんそう)でもない8月15日を、私たちの言葉で、新たに。
08 16 (土) 不戦貫いた69年 集団的自衛権容認後、初の終戦の日
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11301899.html 2014年8月16日
69回目の終戦の日を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が開かれるなど、全国各地で不戦の誓いを新たにする人々の姿が見られた。安倍政権が集団的自衛権の行使容認を決めてから初めての終戦の日。戦争を知る世代が年々少なくなる中、平和のあり方について改めて考える一日にもなった。
日本武道館(東京都千代田区)で開かれた全国戦没者追悼式には、全国の遺族約4600人のほか、天皇、皇后両陛下が参列した。参列者の黙祷(もくとう)に続き、天皇陛下が「かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします」と「おことば」を述べた。
遺族は高齢化し、参列者は減少が続く。参列予定者数で比較すると、最も多かった1985年度(7056人)より今年は3割ほど少ない。戦没者の「父母」は1人もおらず、「妻」は19人(0・4%)のみになった。「孫」「ひ孫」などの戦後生まれの割合は15・3%を占め、過去最高となった。
◆首相、今年も「加害」触れず 戦没者追悼式辞
安倍晋三首相は全国戦没者追悼式の式辞で、日本人戦没者への哀悼の意を強調する一方で、昨年に続いてアジア諸国への加害責任には触れなかった。
首相は式辞で、海外で亡くなり、遺骨が戻っていない日本人戦没者について「ふるさとへの帰還を果たしていない遺骨のことも決して忘れない」と述べた。
首相は7月に訪問したパプアニューギニアでの経験にも触れ、「ジャングルで命を落とし、海原に散った12万を超える方々を想(おも)い、手を合わせた」と語った。式辞の検討に関わった政府関係者によると、日本に戻っていない戦没者の遺骨については、首相の意向を受けて盛り込まれたという。
一方で、首相は歴代首相が言及してきたアジア諸国への加害責任や「不戦の誓い」には今年も触れなかった。代わりに「歳月が流れても、変えてはならない道がある。今日は平和への誓いを新たにする日だ」と述べた。
首相は歴史認識について、「私たちは、歴史に謙虚に向き合い、その教訓を深く胸に刻む」と述べた。その認識を踏まえて、「明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓(ひら)く」とも語った。
首相は、中韓両国との関係改善を進めようとしており、特に11月に北京で開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)での日中首脳会談の実現を模索中だ。式辞で「平和への誓い」や「未来志向」を強調した背景には、こうした近隣外交の現状も念頭にあると見られる。
08 16 (土) (戦後70年へ プロローグ:5)非核、原爆も原発も
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11301898.html?ref=pcviewpage
「福島」が消えた。
原爆投下から69年の今月6日、広島市の松井一実市長(61)が読み上げた平和宣言は、東京電力福島第一原発事故に触れなかった。
昨年まで過去3回の宣言は事故に言及し、エネルギー政策の見直しを国に迫った。なぜ今年はないのか。事前の記者会見で尋ねると松井氏は言った。「原発の依存度を減らし、安全性を確保できれば再稼働するという方向が出ている」
安倍政権は、原子力規制委員会の基準に適合した原発は再稼働する方針だ。産業界は歓迎し、九州電力川内原発1、2号機(鹿児島県薩摩川内市)が第1号になるとみられる。そうした中での発言だった。
核と人間の関係はいかにあるべきか。事故の直後から多くの人々が問い始めた。広島、長崎、ビキニと3度も核の被害を受けた日本で、核の「平和利用」として生まれた原発が被害をもたらしたことをどう考えるべきなのか、と。
松井氏は、原発事故が起きた2011年の平和宣言では「『核と人類は共存できない』との思いから脱原発を主張する人々がいる」と語った。人々が抱いていた疑問を代弁していた。
原発事故から3年5カ月たった今も、12万人以上の福島県民が家に帰れないでいる。多くの人々が暮らしを破壊され、放射線の恐怖は消えない。
被爆地が訴えてきた核軍縮も停滞気味だ。米ロ関係は冷え込み、中国は核の近代化を進め、北朝鮮は核実験を繰り返す。新興国で原発ブームが起き、日本も輸出に前のめりだが、核拡散の懸念はぬぐえない。
壁のような現実を前に、被爆地が立ちすくんでいるかのように見える。
「それでいいはずがない」と森滝春子さん(75)は考える。「核と人類は共存できない」という思想を75年に打ち出した哲学者・森滝市郎(1901~94)の次女だ。
原爆で右目を失った父は戦後、原水爆禁止運動の先頭に立った。豪州のウラン鉱山で働く同胞の被曝(ひばく)の危険性を訴えた、先住民の女性との出会いが、核の「絶対否定」を確信させた。
父の没後、反核運動に入った。核兵器だけでなく、ウラン鉱山や劣化ウラン弾といった被害にも目を向けた。ただ、原発の問題には力を入れてこなかった。結果として、新たな核の被害が生まれた。「私は加害者側にいた」との悔いが胸を離れない。
事故後、何度も被災地を訪ねた。旧警戒区域で牛の放牧を続ける男性は「原発がなくならない限り、救われない」と語った。自分たちが問われていると感じた。
人類がこれ以上核に脅かされないためにと、春子さんは言った。「核兵器も原発も根は一つ。そう考えていかなければ」
(論説委員・加戸靖史)
(2面に続く)
(戦後70年へ プロローグ:5)核を制御できるのか
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11301883.html
(1面から続く)
◆「平和利用、福島をも乗り越えて」
今月9日、長崎市内。長崎原爆被災者協議会長の谷口稜曄(すみてる)さん(85)が、安倍晋三首相に、被爆者5団体の共同要望書を手渡した。
核兵器の廃絶とともに、「原発の再稼働は許されない」と訴えた。だが首相の答えは「安全最優先で、地元の理解と協力を頂きながら、厳格に考えていく」。
谷口さんは首相が去ったあと、報道陣に言った。「人間の命がかかっていることを、考えてほしい」
福島第一原発事故で問われたのは、核を戦争に使う核兵器は否定するが、「平和利用」としての原子力発電は受け入れるという、二つの顔を使い分けてきた戦後日本の歩みだった。
あれから3年余り、安倍政権は原発再稼働に向けた動きを加速させている。
◆ ◆
1953年12月、アイゼンハワー米大統領が原子力の「平和利用」を唱えた。冷戦が始まり、より多くの国を自陣営に取り込む狙いがあった。
ところが、翌54年3月、ビキニ環礁での水爆実験で、第五福竜丸が被曝(ひばく)したことが明らかになると、日本国内で原水爆禁止運動が急速に広がった。
米国は日本の世論を懐柔する戦略を練る。原子力平和利用博覧会を開き、原子力が人類の未来にいかに役立つかをPRした。55年11月から2年近くの間に全国11都市で開催し、来場者は計260万人を超えた。
56年5月に始まった広島会場を訪れた中学生がいた。発電や医療から航空機の動力源まで、無限の可能性に心を奪われた。
東京大名誉教授の山脇道夫さん(73)だ。
60年に発足した東大原子力工学科に1期生として入った。「人類の幸せのため、原子力を平和に使いこなすことは日本人の時代精神だった」。今も福井大で、安全性が高く、放射性廃棄物を減らせる次世代型原発とされるトリウム溶融塩(ようゆうえん)炉の実現に力を注ぐ。
山脇さんは、広島の爆心地から6キロ弱で原爆に遭った。同居の叔父は被爆し、脱毛と嘔吐(おうと)の末に亡くなった。「原爆は悪魔」と胸に刻んだ。だからこそ、自らの手で平和利用を実現したいと思ったという。
原発の安全審査にも携わり、福島の事故に衝撃を受けた。業界全体に反省が必要だと考える。「蒸気や電気に比べ、原子力利用の歴史はまだ浅い。これからの日本人は福島をも乗り越えていかなければならない」
山脇さんの平和利用への信念に揺らぎはない。
◆「パンドラの箱、閉じ直すべきだ」
原発事故は、日本の看板だった平和利用の裏の顔をのぞかせた。
11年秋、現・自民党幹事長の石破茂氏が雑誌で、原発を維持していくことが「核の潜在的抑止力」になると主張した。
69年、外務省が作った内部文書に「核兵器製造のポテンシャル(潜在能力)は常に保持する」との一節がある。「その気になれば核兵器をすぐ持てる」ことは、原発を推進するひそかな動機だった。
元原発技術者の池田隆さん(76)は憂える。「核抑止論が幅をきかせた時代の考え方だ。原発はテロや戦争で格好の標的になる。むしろ弱点とみるべきだ」
長崎の爆心地から3・6キロで被爆した。高校の時、第五福竜丸で被曝した乗組員の死に、自分も被爆者だと意識した。原爆の威力を思い出し、平和利用で、米国を見返そうと決意した。
東芝に入社し、原発用タービンの設計に没頭した。自分たちの技術と安全性確保には自信があった。
しかし80年代以降、「あわや大惨事」というトラブルに何度も見舞われた。核兵器と原発は別だと考えてきたが、扱うのは同じ人間だと気づいた。「核を完全に制御できるとは考えられない」。その思いは、福島原発事故でさらに強まった。
一度手にした核の技術を放棄するのは容易でない。「それでも、パンドラの箱は閉じ直すべきです」。池田さんが知ったのは、科学技術の限界だった。
◆ ◆
今月9日の長崎市の平和祈念式典の参列者の中に、福島県の高校生12人の姿があった。福島第一原発事故後に始まった、被爆地と被災地の交流だ。
福島高専3年の本田歩さん(17)=いわき市=は中学1年の時、校外学習で福島第一原発を訪れた。「環境に優しい、次世代のエネルギー」というガイドの言葉を素直に信じた。
事故で故郷は一変した。地元の新聞は連日事故のことを伝えるが、周りで話題にならない。「問題が近すぎる。口にしたら穏やかな気持ちで暮らせない」
長崎の市民団体が募集した高校生平和大使に選ばれた。被爆者らの話を聞くうち、考えが変わっていった。核のごみ、再処理で生み出されるプルトニウム。調べれば調べるほど、問題が多いことを知った。
「原爆も原発事故も同じ核の被害ではないか」
森滝市郎が、核被害者と交流を重ね、「核絶対否定」に到達したのは被爆30年だった。
そして、まもなく被爆70年。福島原発事故の経験が、若い世代に新たな芽を育み始めている。
◆反原発と反核、独では一体
ドイツは福島事故後の2011年6月、22年までの原発全廃を決めた。
戦後東西に分断され、冷戦の「最前線」にいたドイツの市民にとって、核戦争の恐怖は切実だった。「1970年代に旧西独の各地で起きた反原発の住民運動が、70年代末以降に反核平和運動と結びついて相乗効果を生んだ」と本田宏・北海学園大教授は指摘する。
そして86年のチェルノブイリ原発事故。飛んできた放射性物質におののいた記憶は今も深く刻みこまれている。こうしてドイツでは反核と反原発が一体となって社会に根を下ろした。
◆人間と核の関係、問い直そう 取材後記
世界で最初に核攻撃された日本で、原子力開発を目指した人たちが、真の「平和」を希求していたことに疑いはない。その思いは国民に共有され、「核兵器と原発は別問題」との考え方を育てたように思える。
だが原発の使用済み燃料を再処理してできるプルトニウムは核兵器の原料になる。平和利用といっても、扱う人の意思次第で容易に軍事転用できてしまう。
そして、福島原発事故が示したのは、原発が暴走すれば、人間の生存を脅かすという冷厳な事実だった。
来年は原爆投下から70年。人間と核の関係をさらに深く問い直す必要がある。
(論説委員・加戸靖史)
◆プロローグは今回で終わりますが、来年8月の戦後70年に向けて様々なテーマを随時取り上げながら、日本社会の歩みとこれからを考えていきます。
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08 16 (土) 全国戦没者追悼式 驚くべきこの違い
全国戦没者追悼式 天皇陛下の「おことば」<全文>
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11301836.html
本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来既に69年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
全国戦没者追悼式 安倍首相の式辞<全文>
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11301840.html
天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族、各界代表、多数の御列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。
祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられた御霊(みたま)、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異郷に亡くなられた御霊、いまその御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。
戦没者の皆様の、貴い犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。そのことを、片時たりとも忘れません。
いまだ、ふるさとへの帰還を果たされていないご遺骨のことも、決して忘れません。過日、パプアニューギニアにて、ジャングルで命を落とされ、海原に散った12万を超える方々を想(おも)い、手を合わせてまいりました。
いまは、来し方を想い、しばし瞑目(めいもく)し、静かに頭(こうべ)を垂れたいと思います。
日本の野山を、蝉(せみ)しぐれが包んでいます。69年前もそうだったのでしょう。歳月がいかに流れても、私たちには、変えてはならない道があります。
今日は、その、平和への誓いを新たにする日です。
私たちは、歴史に謙虚に向き合い、その教訓を深く胸に刻みながら、今を生きる世代、そして、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓(ひら)いてまいります。世界の恒久平和に、能(あた)うる限り貢献し、万人が、心豊かに暮らせる世の中の実現に、全力を尽くしてまいります。
終わりにいま一度、戦没者の御霊に永久(とわ)の安らぎと、ご遺族の皆様には、ご多幸を、心よりお祈りし、式辞と致します。
平成26年8月15日
内閣総理大臣 安倍晋三
【下平・註】戦争の反省と意識のもちかた、「過ちは繰返しませぬ」のバックボーンがちがいます。