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折々の記 2015 ⑤
【心に浮かぶよしなしごと】

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【 01 】06/12

  06 12 蔓ササゲ   
  06 16 お墓清浄の姿は覚者の姿だった   高尾霊園の丸岡家の墓

 06 12 (金) 蔓ササゲ   

先月27日丸岡君ご両親の墓参のため八王子へ行きました。 高尾霊園の気持ちよい場所で、丸岡君がお墓をきれいに整えてくれるのを待ってから初めてご両親の御霊にご挨拶しました。

親子の絆の受け継ぎを目の前にして、清浄な後姿にご両親の俤を感じとりハッと胸を打たれました。

お世話になった件について早くお礼の手紙を書かなくてはならなかったのに、10日(土浦空爆炎上の日)まで丸岡家の親子の絆とご夫妻についてあれこれ想いを反芻していました。 家内にはお礼状を書いたかと何回か乞われていました。

11日にお礼状を出し、ゆうべ丁寧なお礼電話をいただきました。


  そこで老生の想いを一端の言葉に残しておく
ばらばらの体験をまとめてみると
天上天下唯我独尊 : 絶対矛盾の自己撞着
   動植物一つ一つの思考世界


① 天上天下唯我独尊

これは老生にとって実に恥ずかしい話なんですが、こんなことがありました。天竜川河畔に生まれた老生にとっては水浴び(いまは水泳と言う)はお手のものだった。満13才の夏学校で天竜川へ水泳に行ったときのことでした。今は亡きM君が深みにはいりアップアップになって流されてしまった。

すぐ泳いでいって手を差しのべたのです。ところが予期もしなかったことに二人はからまりながら浮きつ沈みつ流れ始めたのです。

とっさのことに泡を食って、こんなことをしていると死んでしまうと思って沈んだときにM君を足蹴りし始めたのです。

ハッと気がついてみると、浅瀬になって足が川底についたのです。そのまま手を取り合って川岸まで歩いてたどり着きました。恥ずかしいのでその事は誰にも話さなかった。

その後二人は会うこともなくなって40代になったころでした。M君に出合った時「俺はお前さんに助けられた、命の恩人だぞ」と言われたのです。老生は「このままでは死んでしまう」という人には話せない思いがあるので、心から恥ずかしかった。

………「人はいざとなったとき、‘死にたくない’という本能に支配されるものだ」とずっと考えるようになっていました。それは善悪の判断が入る余地もない本能だと思っていました。

「殺さなければ殺される」そんな状況を生み出しているのは現代の戦争です。‘死にたくない’と思っている人が‘死にたくない’と思っている人を集団で殺戮する状況を許しているのが国際法でも容認している戦争形態です。(紛争を戦争ではない他の平和解決の方法があるがここでは趣旨から外れるので触れない)

人は最愛の人を他人によって殺されたとき逆上の感情に支配されるのは、愛の本能的反応であり、善悪の批判の入り込む余地はまったくありません。

人は誰しも、極限の状況におかれても‘生きたい’本能があると思います。

お釈迦様が言ったという「天上天下唯我独尊」という表現の中味は、生きているものは人も人でない生きものもみんな‘死にたくない’‘生きたい’という本能をみんな持っていることを中核になる言葉で表したものだといえましょう。

青虫の親になっている“ちょうちょう”は野菜を作っている老生にとっては困ったものであり、捕虫網を作ってまで捕殺しています。蝶々はこの百姓爺(ジジイ)が捕虫網を持って現われると一目散に逃げるのです。蝶々も‘死にたくない’‘生きたい’ということを承知して逃げているのですね。

話は変わりますが、八王子の用件が済んで家に帰ってきてみると野菜がよく伸びておりました。そしてその手入れがいそがしかった。普段はそんなことを考えることもないのに、ササゲの蔓は日ごと10㎝余りも伸びるのです。今日も伸びたかなと思って見ると、10㎝余は伸びているのです。

どのササゲもみんな右巻きに棒に絡み付いて伸びるのです。蔓ササゲの若芽はどうして右巻きなのだろうか? なぜ左巻きにはならないのだろうか?

知る由もないのですが、何十年も、もっと昔の何百年も前から右巻きになって伸びていたに違いあるまい。 学者はDNA遺伝子に組み込まれているからだと説明するかもしれません。でも蔓ササゲは生きていくためにずっとこの方法をとり続けてきたのでしょう。

ササゲでも蔓のないササゲはそのササゲの生き方を何百年も続けてきたのでしょう。

天上天下唯我独尊とはいっても、人はその人だけでいきてきたものではありません。ササゲも生えてきたササゲだけで生きるだけではありません。一生を終わるときにはたくさんの種を残すのです。当然と言えば当然のことです。

生存そのものは自分の生き様を大事に生き抜いていきますが、縦の系列、言いかえると祖先や子孫を配慮した中で存在しています。これは当然と言えば当然のことです。

② 絶対矛盾の自己撞着

天上天下唯我独尊という生きものすべてに共通する‘生きたい’という根底的条件を理解しても、それだけでは人や動物は‘生きたい’から‘生きていく’ことはできません。

‘生きていく’ことは一つの生きものそれ自体は、‘他のいのち’を取り入れないと‘自分のいのち’を生かしていくことができないのです。

‘他のいのち’も‘自分のいのち’と同じように大事なのに、‘他のいのち’を奪はないと‘自分のいのち’を保持できないという、矛盾をそのまま許容しないと‘生きていく’ことができないのです。

これらのことを絶対矛盾の自己撞着と理解しなければならないのです。

自分の存在の独自性はそのまま本能的なものとして認め、今度は相互の独自性と矛盾する立場をとらなければならないのです。

これら①と②をあわせ、「それでも地球は廻る」という大自然の哲理が存在してくるのです。「それでも地球は廻る」と言う言葉がもつ意味内容は大自然の哲理であり、現実生活の中で言うならば、お遍路のありようにその具現化を見出すことができる。空海の極めた哲理の具現化が「それでも地球は廻る」の対処法だと言えます。

日本の人々に共通する「おもてなしの心」であり、静寂を求める「茶のこころ」でありましょう。

私たちは①と②を、ゆっくりと深く味わい、その願いを求めていきたいものです。

③ 折々の記で遺してきた言葉

【その一】頂きます
    park19.wakwak.com/~yoshimo/moto.364.html


食事をとるとき私たちは‘頂きます’といいます。

この言葉は誰もいないときでも、食事のときに言ったりします。食習慣のうちの一つになっているのですね。諸外国では食事を始める前に何をするのでしょうか。知っている方に教えてもらいたい。

‘頂きます’は「食べます」の意味だけではありませんね。「頂戴します」から‘頂きます’になっています。

何を頂戴するかといえば、もちろん食べ物です。ただ人から食べ物を頂くだけの意味ではありませんね。どんな食べ物でもその源は大切な生命を本来持っていたものであり、それがかわって食べ物になっています。ですから、いのちを頂くというのがもとになっていることが理解できます。

「頂戴します」というのは、大切な生命を頂戴するという素晴らしい意味をもっている言葉なんです。私たちは自分以外の生命を頂いて生きているのです。自分以外の生命を口にしない限り生きていけないのですね。

「絶対矛盾の自己撞着」という言葉を聞いたことがあります。

どんなものでも貫くという矛と、どんなものでも通さないという盾を、ある商人が売っていました。
「その矛で、その盾を突きとおして見せてください。」
……これが、商人の矛盾なのです。絶対矛盾なのです。

撞着という言葉を広辞苑で調べてみますと、

  ①つきあたること。ぶっかること。
  ②前後が一致しないこと。つじつまが合わないこと。矛盾。「自家-」

と出ています。

私が教えられたのは‘自己撞着’だったと思いますが‘自家撞着’となっていました。

  ある和尚さんが修行中のお小僧さんに、
  「人は軒下の蜘蛛でも道端の草花でも、殺したり踏みにじって命を奪ったりしてはいけないんだよ」
  と教えてやりました。お小僧さんは首をかしげて、
  「雑炊にしたお米は、もとは生きていたのではありませんか」と聞きました。
  ……和尚さんは「アッ」と息をのみこんだのです。

   人の道では「絶対矛盾の自己撞着」を認めざるを得ないのです。

食事前の言葉「頂きます」には命に対する敬虔な姿を見ることができるのです。食事作法としての食前の言葉を疎かにしていてはいけないのです。

言葉は言霊(ことだま)といいます。言葉自身が自分の魂を現しているというのです。言葉をおろそかにしてはいけないのです。

●「食べる」と「食う」

孫は中学二年生と小学五年生の女の子です。

 「もうお昼ご飯食った?」
 「食ったよ。」

あまり聞かない言葉だし、第一女の子の話し方なので、わたしは一瞬驚いて目をみはった。

 広辞苑

 【食べる】   ①飲食物をいただく。「食う」「飲む」の丁寧な言い方。
         ②転じて、生計を立てる。「こんな安月給では-・べていけない」
 【食う・喰う】①食物を口に入れ、かんでのみこむ。食べる。
         ②生活する。くらしをたてる。
         ③くわえる。ついばむ。
         ④くいつく。かみつく。かむ。また、蚊などが刺す。
         ⑤しっかりかみあわせる。くいついて離さない。
         ⑥傷つける。
         ⑦(好ましくないことを)身に受ける。こうむる。
         ⑧うっかり信じこむ。だまされる。
         ⑨相手を飲みこむ意。こばかにして存在を認めない。
         ⑩他の領分を侵す。くい入る。
         ⑪スポーツなどで強い相手を負かす。また、演技などで共演者などを圧倒する。
         ⑫金、時間などを消費する。ついやす。
         ⑬(「としを-・う」の形で)かなりの年齢になる。
         ⑭(演劇用語)上演脚本の一部を省略する。カットする。

私は子供のときから「食べる」しか聞かなかったし、使わなかった。「ご飯を食う」とは余りにも粗野な言い方、野暮な言い方だ、そう感じています。

孫を取り巻く人たちの言葉づかいが変わってきたのでしょう。多くの子どもたちの言い方だと聞いております。

私の感覚の中では、今では自分の命を養ってくれる食べ物の本来の生命に対する敬虔な思いがあります。だから、「頂きます」と言うし「食べる」と言います。間違っても「食う」とは言いません。

辞書で調べてみても、「食う」という意味は動作そのものを意味する表現方法としか受け止めることができません。

 【食べる】は食うの丁寧語としか SHRP の電卓辞書には出ていません。
 【頂く】④ウ 食うの謙譲語としか出ていません。

辞書の解釈だけでは、本来使われてきた食事時の【頂きます】や【頂きました】の言葉の意味が十分表わされてはいない。文化の伝承が途切れてしまう、そんな心配は私一人のものなのでしょうか。

【その二】生命の果て…死滅とは
    park19.wakwak.com/~yoshimo/moto.364.html


生命の始まり…命を持っているものはみな、植物にしても動物にしても、その生命が始まる瞬間は想像を絶する原理によって開始されているようです。それは瞬間のことであり、日常なんの知らせもなく起こっている現象です。

植物はふつう雄蕊雌蕊の受粉により、動物は雌雄の受精によって新しい生命が発生しています。

植物も動物も種子や子孫を残し世代交番の役目を終え、生命エネルギーを使い果たして老化し死を迎えています。

死後の世界はどうなんだろうかと憶測するときはあるにしても、結論としては死は生命の終焉であり無意識・無存在となります。

仏教でいう存在論では、すべては色即是空であり、五薀皆空が合理的な認識であると主張していると思います。

それは本当のことだと思っています。亡くなった人からは、息を引き取った瞬間から、その声を聞くことはできませんし、考え方を聞くこともできません。寒いとか暑いとか聞くこともできません。

息を引き取った瞬間から何もしゃべらないし微動だにしないのです。すべてのエネルギーは一瞬にして停止し、その心身は永劫に変転してゆき、元に戻ることはありません。

存在から見かけ上は無存在となるのです。生命ある粒子の総合存在は、生命のない粒子に分解されてその形を失ってしまいます。それが死であります。

存在の証はなにかといえば、生存中の見たこと聞いたことが脳裡に記憶されて活動していることが一つ。もう一つは、本人が書き残したり写真などに記録されたものしかありません。

私たちが生存中に役立ったものは、その人が得た学問や見聞、体験による処世感覚とエネルギーだろうと思います。

役立ったものはいろいろありましょうが、基本になったものは第一に親が子に対して持ち続けてくれた愛情でしょう。一口に親の恩というし、親への尽きせぬ感謝の気持ちを考えれば、一人の人間として誰もが一番役にたった人として挙げるのは、自分の母親と父親でありましょう。

北キツネや鳥の子育て、皇帝ペンギンなどに見られる親子の絆も、その根源は同じでしょう。

兄弟、家族、親戚、友人や、教えを受けた人、行きずりの人など、自分を取り巻くその周囲の人たちから受取った大事な心の持ち方も自分の意識から見落していてはいけません。

いろいろの本、宗教、歴史を始めとして、平家物語から徒然草方丈記などから現代文学の本、また、一茶、芭蕉、良寛和尚から現代にいたるまでの故人の見識も私たちを培ってくれました。

だが、一人の人の文化はその人の終焉でもって消滅します。

もし残るとすれば、石や木などを材料とした製作品や、文字や絵画、或いは書かれた図面や楽曲などしかありません。

学者にしても素封家にしても貧乏人にしても、人はその一代で終わります。環境によって多少の違いがあるにせよ、10代も経てば「栄枯盛衰は世のならい」が現前することとなります。(家訓が堅く守られていれば何代かは続くかも知れません)

世代間の生成発展についてはピアスの「Magical Child」の考え方が正しいと思います。

【その三】存在の意味<存在の原点>
    park15.wakwak.com/~yoshimo-2/moto.72.html


あらゆる論理は人の心の奥にあるものに根をおろしていなければならない。

政治でも経済でも社会生活でも家庭生活においてでも、夏目漱石のいう凡欲すなわち金と名誉と女にかかわりなく、職業の貴賤や経済の貧富それに宗教の如何にもかかわりなく、むしろ他の生物すなわち花鳥や名もなき草や土中の生物、犬も猫も象も虎など生をもつものすべてに共通する、心の奥にあるものに根をおろしていなければならない。

この論理をすすめていくと存在それ自体が自己撞着に至る。存在を自己撞着に帰結すると自然そのものをを肯定できないことになる。生物の To be (存在)という意味は、生命維持という生物本来にプログラムされている『生きたい』という意思そのものである。それを否定しないところに自然そのものがある。すべての生物存在は調和とバランスによって成立している。だから自己撞着の概念は除外する。

心の奥にあるものとは何か。それは己自身の心の奥ということにとどまらず、誰にも共通するものであるとともに、他の植物や動物にすら共通するものを対象としなければならない。

それは己が花となり鳥となり動物になることを意味する。その真実とは一体なんであろうか。生物が本来、根源的にインプットされている『生きたい』という意思とはなんだろうか。

一つの答えは『快』である。

『快』そのものが生につながる。快は概念用語であるから、悦という言葉でもよいし、楽という言葉でもよい。

生の反対概念は『死』である。死の概念用語は『悲』であっても『苦』であってもよい。

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のように一つの生命に心を添えることが絶対矛盾の自己撞着に到達し、その段階から、次の生命そのものにプログラムされている自然から贈られた意思 to beを悟ったとき、第二段階を卒業して生死一如が生まれたのであろう。死生と苦楽は共に反対概念を表わす言葉であるが、生死一如となり苦楽一如となる。

反対概念は別として、生きたいという意思は『快』によってその目的の一つは報われる。『快』は死を拒否し苦を拒否する。

『快』は生の円満な充足を求め、統括的満足を追究する。生の統括的満足は、その人の情報到達度によって千差万別の様相を呈する。その人の情報到達度というのは、mind-brain(心脳体)が得る情報量と質によって規定される。in-putの質と量によって規定されるといってもよい。

このin-putの質と量は個体の環境によって大きく左右される。この環境というものは、大枠において現行動を制約するが、自らの意思によって環境を整備することもできる。環境もまた相依性をもっている。

生は快を求め、快は統括満足を求め、統括満足は環境に規定され、環境は個人の意思によって補完される。生即快、生即楽は可能なのである。

生の様相はどのようであろうか。start-beginning-acting-finishing(発生、初期、活動期、完成期)の各段階に大別できるし、更にいくつかのperiods(期)にわけることができ、periods 毎の存在達成の願いも生来大脳にインプットされている。

生の様相を時間的にみれば、それぞれの段階にはそれぞれの課題がある。

生の様相を現行動としてとらえてみると、活動的なものと非活動的なものに分けることができる。活動的であれば、快の様相も活動的であり、統括的満足度も充実し、悦楽度も充実する。非活動的であれば、快の様相も非活動的であり、統括的満足度も薄れ、悦楽度も低く、エネルギーも不活発となる。

生の様相がエネルギッシュであれば、生活をエンジョイできる。それは一環したよいリズムにのることとなる。生の様相にエネルギーが失われてくると、やがて生の終焉に近い様相となる。この生の様相は「気の様相」としてみても、様相の輪廻に相違はない。

 06 16 (火) お墓清浄の姿は覚者の姿だった   高尾霊園の丸岡家の墓

   http://park19.wakwak.com/~yoshimo/moto.00.html 0歳教育 ※ <Webリンク集>
   ⇒ロ http://park19.wakwak.com/~yoshimo/moto.379.html Web-リンク集 ① 02<思想・哲学・宗教>
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     ⇒ニ http://www.ne.jp/asahi/village/good/index.html 村の広場 村の図書館 資料集
      ⇒ホ http://www.ne.jp/asahi/village/good/material.html 資料集 宗教 2.仏教(空海)
       ⇒ヘ http://www.ne.jp/asahi/village/good/kukai.html 空海


空海
(弘法大師 774-835)

空海は、仏教の完成形態の一つである密教の思想を大成し、真言宗を興した。
「真言」というのは、「マントラ」のことで、『般若心経』の末尾に、
「その真言は、知恵の完成において次のように説かれた。
 ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
 【羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶】 … (注記)
 (往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)」(中村・紀野訳)

とあるが、こうした短い呪文を指す。
(浄土宗の「南無阿弥陀仏」とか日蓮宗の「南無妙法蓮華経」という呪文も、意識を対象=真理に集中させる呼びかけの言葉として、マントラだ。)
「密教」とはそれ以前の仏教の形態、すなわち「顕教」に対する言葉で、
究極の真理は単なる言葉によってではなく実践によって得られるとする立場である。
(空海に至るまでの密教は、金剛頂系と大日経系という二つの系列があり、空海の直接の師である恵果においても両者は並列していた。
中国において同時に両部門の正当な後継者となった空海は、
物質界の原理である胎蔵(matrix)界と精神の原理である金剛(diamond)界を統合し(=金胎不二)、
密教の理論を完成した。それを可視的に表現したものが、マンダラである。)

空海はその主著『秘密曼荼羅十住心論』において、
真理により近づいていく、人間の心のあり方を、10の発展段階に区分して述べている。
1)異生羝羊心―本能と欲望の命ずるままに生きる動物的な心
2)愚童持斎心―人の生きるべき道(倫理)に目覚めた人間(儒教)
3)嬰童無畏心―この世を超えた永遠なるものへの憧れに目覚めた人間(道教・キリスト教・プラトン主義)
4)唯蘊無我心―(小乗仏教―無我説)
5)抜業因種心―(小乗仏教―因果の理論)
6)他縁大乗心―(大乗仏教―唯識)
7)覚心不生心―(大乗仏教―空観)
8)一道無為心―(大乗仏教―天台)
9)極無自性心―(大乗仏教―華厳)
10)秘密荘厳心―密教の立場(真言宗)

 問題は、空海が究極とした第十の秘密荘厳心だ。どうすれば、その境地に至ることができるのだろう。その方法は経を読んだり、勤行を重ねたりするといった顕教の方法ではなく、密教独自の瞑想法だと空海はいう。瞑想法は、空海密教の両輪となっている『大日経』と『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』のうち、主に『金剛頂経』が説いているもので、これこそが第十秘密荘厳心に入るための必須条件だというのである。
 『秘蔵宝鑰』下巻・秘密荘厳心の記述は、その大半が瞑想実践の勧めになっている。空海は、こう書く。
「そもそも瞑想の観想を実践する者は、よろしく、まめに三密の実践を行って、五相成身
(ごそうじょうじん)のむねをさとるべきである」
 五相成身とは、金剛界法で説かれる自分と仏を一体化させるための瞑想法で、心の五つの相を順次瞑想していく。ただ漠然と座って瞑想するのではない。ポイントは「三密の実践」にある。これこそが密教にのみ伝わり、密教でしかなしえない方法なのである。
 その具体的な実践法のアウトラインを、羽毛田義人氏の名著『空海密教』を参照しながら、紹介していこう。…
 羽毛田氏はこう説明している。
「密教の禅定
(ぜんじょう)法は、手で印契を結ぶこと、口に真言を唱えること、さらに心に神聖なイメージを思い浮かべる観想の三つの要素からなる。これらはそれぞれ如来の身体、言語、意識の活動、つまり三密を象徴的に表現する。この三密行を修することは、……『三密の加持』の状態を作り出す。つまり修行者の身体、言語、意識の活動、『三業』は三密に完全に摂入する」
 如来の身体・言語・意識の「三密」と、行者の身体・言語・意識の「三業」がひとつに結ばれた状態、それを密教では「加持」という。「加」とは、如来の側からやってくる慈悲、「持」とはそれを受けとる行者の信心をいう。この加と持がひとつになった状態が加持であり、如来と行者の身体・言語・意識が融合してひとつになるから、三密加持というのである。
 この三密加持を実践するために、行者は手に印を結び、口に真言を唱え、心には諸尊を象徴する種々のシンボルを思い浮かべていく。空海が密教の真理を描き出したものとして、終生こだわり続けた前記の「四曼荼羅」も、実はこの三密加持の具現化にほかならない。
 まず、諸尊の姿を具体的に描いた「大曼荼羅」は、三密のうちの如来の身体(身密)を表現している。諸尊が梵字の種子で描かれた「法曼荼羅(種子曼荼羅)」は如来の言語(口密)。諸尊のシンボルによって表現された「三昧耶曼荼羅」は如来の意識(意密)を視覚化したものであり、以上の三者を総合して、大日如来の活動の全体を表現したものが「羯摩曼荼羅」なのである。
 羽毛田氏の説明を続けよう。
「三密加持を成就し四種曼荼羅を体現するこの状態は『入我我入
(にゅうががにゅう)』と呼ばれる。禅定におけるこの瞑想の対象としての本尊が修行者の我に入り、また我も本尊に帰入することを示すこの語は、瑜伽(瞑想)の本質をよく表している」
 空海がはじめて日本に持ちこんだ儀軌類は、「舞台における台本と同様の役割」を果たしている。瞑想における演技者は、いうまでもなく行者だ。行者は、台本である儀軌に指示されたとおりに道場や法具などをしつらえ、定められたとおりに印を組み、真言を唱え、瞑想裏にさまざまなイメージを想起し、変容させていく。
「こうして大日如来の禅定の法悦を描く宇宙ドラマが始まる」
 役者が、やがては演技をしているということも忘れて舞台上の人格になりきっていくように、真言の行者も、次第に大日如来と重なりあっていく。
「いつしか自らがモノローグを演じているという意識すら失われ、修行者は『役』に成りきってしまう」……かくして、入我我入は達成されるのである。
 そのとき行者は、まさしく大日如来と融合し、第十秘密荘厳心のまっただなかにいる否、いるという意識は、もはやないそれはただそのものとなって、そこにあるまさしく「即身成仏」しているのである。」

(藤巻一保「空海密教の思想」 夢枕獏編著『空海曼荼羅』所収)

「即身成仏」というのは、第一義においては、
悟って仏陀に成る(=成仏)には、(しばしば何世代もの)長い時間と多くの修行の過程が必要だ、という従来の通説に対して、
今、この身体において(=即身)、仏になることができる、という意味であるが、
第二義において、というより、こちらが本来の意義だろうと思われるが、
自分が今生きているこの身体に宇宙の生命が現われており、宇宙の真理が実現しているということ、
つまり誤解なくありのままの姿を見れば、自分の存在が真理そのものであることを顕在化できるということ、である。

その宇宙の真理を、密教では、「大日如来(Mahavairocana)」と呼ぶ。
「マハー(maha)」は「大きい」、「ヴァイローチャナ(vairocana)」は「光明遍照(光り輝き全てを照らす)」と訳されたり
「毘盧遮那(びるしゃな)とそのまま音訳されることもある(奈良の大仏さまの名前ですね)。
「大日如来(Mahavairocana)」とは、もはや全てを照らし出す宇宙の真理そのものであり、歴史上出現した仏陀は、その一つの現われということになる。
これは中期の大乗仏教、とりわけ華厳宗において現れて来た観念であり、禅宗においてさらに表面化することになる考え方である。


先月27日、丸岡君のご両親のお墓参りをしました。 その折のお墓を入念に清めている丸岡君の後ろ姿には、お父様とお母様がわが子の幸せを願ってきた心根がいきいきと感じられました。 後姿はそのままお父さんとお母さんそのままに老生には感じられました。 長い生涯も親子の気持が一瞬の間にぴたりと後姿に映された思いでした。 丸岡君は幸せだったな、老生はその思いに浸されました。 人様を指導できる器ではない者が、人様の幸せを喜んでいる、そんな思いが体中に満ちていたのです。
◇     ◇     ◇     ◇     ◇
何故このようなことを書き残したのか? それは、自分の生涯のことと、お遍路から想定されることと、二つのかかわりの中から、老生が感じ取ってきたものが、前掲の「空海」を調べたときに間違いなく美しい親子の絆から生まれた”覚者”の後姿だと確信したからです。 HREF="http://park19.wakwak.com/~yoshimo/moto.368.html">http://park19.wakwak.com/~yoshimo/moto.368.html 2<思想・哲学・宗教> 村の広場 このリンク集、2<思想・哲学・宗教>の‘村の広場’の説明に「主として、大学の授業で使う資料(その他)を公開する目的で、上村先生が作っている個人のホームページ」と紹介していますが、