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折々の記 2015 ⑥
【心に浮かぶよしなしごと】

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【 08 】08/17

  08 17 08/16 のニュース   安倍総理の戦後70年談話の波紋
       ① 1面=平和を切望する意識(天声人語)
       ② 1面=平和、今こそ 終戦70年(日本武道館 全国戦没者追悼式)
       ③ 3面=安倍談話各国反応
       ④ 4面=3閣僚が靖国参拝
       ⑤ 8面=社説
       ⑥ 9面=戦後いつまで
       ⑦ 35面=悼む各地
       ⑧ 34面=悼む各地

 08 17 (月) 08/16 のニュース     安倍総理の戦後70年談話の波紋

08/17の朝日新聞は休刊でした。

   ① 1面=平和を切望する意識(天声人語)
   ② 1面=平和、今こそ 終戦70年(日本武道館 全国戦没者追悼式)
   ③ 3面=安倍談話各国反応
   ④ 4面=3閣僚が靖国参拝
   ⑤ 8面=社説
   ⑥ 9面=戦後いつまで
   ⑦ 35面=悼む各地
   ⑧ 34面=悼む各地


(天声人語)

① 平和を切望する意識
     http://digital.asahi.com/articles/DA3S11918286.html

▼歴史に触れて欲しいという親心だろうか。公開中の映画「日本のいちばん長い日」を見に行くと、10歳前後とおぼしき男子を連れたお母さんがいた。少年には重いテーマだが、先の戦争に関心を持ち、学ぶきっかけになればいいと思った

▼降伏か、一億玉砕も覚悟の徹底抗戦か。70年前の夏に繰り広げられた政治劇である。「聖断」を下した昭和天皇をはじめ、鈴木貫太郎首相、阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣らを軸に、極限的な攻防が続く。彼らの人間的な、また家庭的な側面も彩り豊かに描き、分厚い仕上がりになった

▼原作の同名ノンフィクションを書いた半藤一利さんが映画のパンフに言葉を寄せている。戦争を始めることはある意味で簡単であるが、終えることは本当に難しい、と。まさに戦争の恐るべき本質を教えられる作品だ

▼原田眞人(まさと)監督の言葉もずしりと響く。「『国を残すために軍を滅ぼした』という姿勢を今後も継承してもらいたい」。歳月が過ぎ、敗戦の記憶が遠のいていくことへの危機感に共鳴する

▼きのう、天皇陛下は全国戦没者追悼式で「さきの大戦に対する深い反省」を述べた。追悼式の「おことば」では初めてという。「平和の存続を切望する国民の意識」にも新たに触れ、それに支えられて我が国は今日の平和と繁栄を築いてきたとした

▼今年の年頭、満州事変以後の歴史を学ぶ大切さに言及したことと併せ、強い思いが伝わる。平和を切望する意識が、映画館で見かけた少年らの世代にも引き継がれてほしい。


(日本武道館 全国戦没者追悼式)

② 平和、今こそ 終戦70年
     http://digital.asahi.com/articles/DA3S11918282.html

 安倍晋三首相は戦後70年の終戦の日の15日、日本武道館(東京都千代田区)で開かれた全国戦没者追悼式の式辞で、「戦争の惨禍を決して繰り返さない」と強調した。加害責任には3年続けて触れなかったが、不戦への決意を示した。天皇陛下は「おことば」で、「さきの大戦に対する深い反省」など追悼式で初めて使う言葉を入れ、「今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願う」と述べた。追悼式には遺族5327人が参列した。

  3面=安倍談話各国反応
  4面=3閣僚が靖国参拝
  8面=社説
  9面=戦後いつまで
  34・35面=悼む各地

 ■首相、不戦へ決意 加害責任触れず

 安倍首相の式辞には、戦後70年の節目のメッセージが盛り込まれた。

 「70年という月日は短いものではなかった。平和を重んじ、戦争を憎んで、堅く身を持してきた」

 平和を重視し、国際貢献への歩みを続けるとしたうえで、「戦後70年にあたり、戦争の惨禍を決して繰り返さない。そのことをお誓いします」と宣言した。

 歴代首相が繰り返した「不戦の誓い」は、2年前から言及していない。ただ、過去2年の「世界の恒久平和に能(あた)うる限り貢献し、万人が心豊かに暮らせる世を実現するよう全力を尽くす」という表現より、直接的に不戦の決意を示した。14日に閣議決定した首相談話と同様に、バランスに配慮したとみられる。

 一方、アジア諸国への加害責任には今年も触れなかった。追悼式の式辞では、1993年に細川護熙氏がアジア諸国への「哀悼の意」を表明。翌94年に次の村山富市氏が「深い反省」を加え、2007年の第1次政権時の安倍氏も含め歴代首相が踏襲したものだ。

 参列する遺族は世代交代が進む。今回の参列予定者数で戦後生まれは前年より4・8ポイント増の20・1%で初めて2割を突破。政府は次世代に戦争の記憶を引き継ぐためとして、18歳未満の「青少年代表」による献花を初めて行い、9~17歳の6人が花を手向けた。(久永隆一)

 ■「さきの大戦に深い反省」 天皇陛下の思い凝縮

 天皇陛下の「おことば」には「深い反省」を始め、例年の追悼式にはなかった表現が盛り込まれた。宮内庁のホームページには、英文版が掲載された。戦後70年の節目にあたり、従来とは大きく違う形となった。

 これまでの式典の「おことば」は、即位後に初めて出席した1989年の内容がほぼ定型化してきた。しかし、今回は「過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省」という表現が加わった。「平和の存続を切望する国民の意識に支えられ」「戦後という、この長い期間における国民の尊い歩み」も初めての言及だ。戦争がなかったこの70年間に思いをはせるものだ。

 天皇陛下は92年10月に歴代天皇として初訪問した中国での歓迎晩餐会(ばんさんかい)や94年3月に来日した韓国の大統領の宮中晩餐会で、「深い反省」という言葉を使ってきたが、追悼式で使うのは初めてとなった。

 戦後70年にあたり、両陛下は昨年に沖縄、広島、長崎、今年4月にはパラオなど戦地をめぐった。そこで出会った戦争経験者や遺族が高齢化する状況に、「徐々に戦争が忘れられていくという、ご心配の気持ちの表れでは」と側近はみる。

 関係者によると、天皇陛下は毎回、自ら式典のおことばを手がけており、年齢を重ねるたびに長い時間をかけるようになっているようだ。そんな中で練り上げられた今回のおことばは、平和への思いが凝縮されている。(島康彦)


3面=安倍談話各国反応

③ 中韓、批判は抑制的 安倍談話
     http://digital.asahi.com/articles/DA3S11918219.html

 安倍談話をめぐり、米国は内容を評価する姿勢を示し、中国や韓国も、対日関係を考慮して批判は抑制的だ。こうした反応を受け、安倍政権は今後の各国の動向を見極めようとしている。一方、各国の主要メディアの報道は、談話に対する厳しい論調が目立つ。

 ■中国、強い表現避ける

 中国外務省は14日深夜、木寺昌人駐中国大使を呼んで「厳正な立場」を伝えた。その上で華春瑩副報道局長名のコメントを出し、「戦争責任の明確な説明と誠意ある謝罪」を求める一方、「強烈な不満」などの強い批判の言葉は使わず、日中関係全体に影響を与えないよう抑制的な反応を見せた。関係筋によると、同省幹部は「対応が難しい」と困惑していたという。

 習近平(シーチンピン)指導部は昨秋の日中首脳会談を機に「コントロールしながら各分野での協力関係を積み重ねる」(李克強〈リーコーチアン〉首相)方針を決定。2012年の尖閣国有化以来となるハイレベル政治対話も復活させ、9月3日の「抗日戦争勝利記念日」に安倍晋三首相を招く意向を示した。談話を強く批判すれば、指導部の対日政策と矛盾していると取られかねず、指導部の求心力低下につながるとの懸念がある。談話でおわびなどを明記したことで「『譲歩』を見せた」(共産党関係者)との見方もあり、中国は安倍首相の言動を注視しつつ、日中関係を前進させる構えだ。(北京=倉重奈苗)

 ■韓国、関係改善へ苦心

 「残念な部分が少なくない」。韓国の朴槿恵(パククネ)大統領は15日午前、日本の植民地支配からの解放を祝う「光復節」の演説で安倍談話をこう評した。一方で、歴代内閣の立場は今後も揺るぎないとしたことに「注目する」とも述べた。

 韓国政府は安倍談話の評価に苦心した。村山談話などにあった「植民地支配」などのキーワードは入っているものの、間接的な表現が目立ち、満足できる内容ではない。だが、「関係を壊すほどのものではない」(韓国政府関係者)と判断し、慰安婦問題の早期解決を含め日本に「誠意ある行動」を求めつつ、批判を抑えて関係改善の機運を維持する道を選んだ。

 朴大統領は10月、日韓関係の改善を促し続けてきた米国への訪問を控える。任期の折り返しを迎え、新たな外交成果も求められている。韓国政府関係者は「今後の日本政府の具体的な行動を見守るが、日中韓首脳会談を今年中に開き、その際に初の日韓首脳会談を目指す方針に変わりはない」と話した。(ソウル=貝瀬秋彦)

 ■米、「談話継承」と評価

 米国は安倍談話について「痛切な反省と歴史に関する日本政府の過去の談話を継承するとの約束を安倍首相が表明したことを歓迎する」との声明を出し、評価する姿勢を鮮明にした。

 米国は首相の靖国参拝や歴史認識で日韓関係が悪化すれば、中国や北朝鮮を利することになり、米の外交戦略を狂わせかねないと警戒し、日韓双方に関係改善を促してきた。4月の首相訪米の際は、日本の首相として初めて米上下両院合同会議で演説する晴れ舞台を用意し、日米首脳会談でも戦後70年を振り返り、未来志向の外交で日米が共同歩調をとる方針を確認した。談話に関し、東アジア外交の専門家で米マンスフィールド財団のフランク・ジャヌージ理事長は「日本の隣国が期待した最低条件を満たすものだ」としつつ、「完全な和解のためには安倍政権が追求すべきさらなる具体的行動が必要だ」と指摘。一方で「中韓も言葉と行動による和解のプロセスに参加する必要がある」と述べた。米政権は談話を機に中韓の対日姿勢の変化にも期待する。(ワシントン=佐藤武嗣)

 ■首相、国内外の反応注視 日中会談「重ねたい」

 従来の主張を抑え、バランス重視の談話をまとめた安倍首相は、国内外からの反応に注目している。岸田文雄外相は談話発表直後から、談話のねらいや首相の考えを伝えるため、豪州、フランス、韓国、英国の外相と電話で会談。15日には首相公邸に首相を訪ね、各国の反応を伝えた。政府関係者は「北京からもソウルからも、比較的に抑制されたメッセージが出てきた。激しい反発はなかったので、全体的にみれば前向きに動いていくのではないか」と期待する。

 今回の談話には、特に中国に対する配慮がにじむ。「中国に置き去りにされた3千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた」など、終戦直後の中国人の対応に感謝する表現をわざわざ盛り込んだ。

 首相は、中国が9月3日に開く「抗日戦争勝利式典」の前後に訪中し、習近平(シーチンピン)国家主席との首脳会談に臨むことを検討している。安全保障関連法案などの影響で内閣支持率が低下する中、日中関係の改善は政権にとって数少ないプラス材料だ。14日夜、首相はNHK番組で「(習氏とは)今まで2回首脳会談ができた。3回、4回と重ねていきたい」と意欲をみせた。

 バランスに配慮したことで周辺外交への影響は抑えられたが、あまりの妥協は中国や韓国に強硬姿勢をとる保守層の離反を招きかねないとの懸念が政権中枢にはあった。だが、首相支持層はバランスとは別の理由で談話を評価する。

 「国の名誉を守る政治」を目指す日本会議などは15日、安倍談話が「先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と記した部分について、「日本が謝罪の歴史に終止符をうち未来志向に立つことを世界に対して発信したことを高く評価したい」との声明を出した。

 15日、靖国神社で日本会議などは戦没者追悼集会を開催。大勢の参加者が見守る中、あいさつに立った自民党の稲田朋美政調会長が「大変意義のある談話だった。未来永劫(みらいえいごう)、謝り続けるのは違うのではないか」と訴えると、大きな拍手が起きた。(冨名腰隆)

 ■「自らの謝罪、示さず」「おわび続けぬ、暗示」 欧米メディア、厳しい論調

 安倍首相の談話に対しては、イギリスやフィリピン政府も歓迎する立場を示した。ただ外国メディアには、安倍首相が「おわび」に慎重な姿勢だと指摘する論調も目立った。

 多くのメディアが指摘したのが、「おわび」が歴代内閣の立場を引用する形になった点だ。米ニューヨーク・タイムズ紙は、歴代内閣の謝罪を首相が是認したと報じつつ、「安倍氏自身の新たな謝罪は示さなかった」と指摘。米ワシントン・ポスト紙は「歴代首相の『おわび』を明確に繰り返すことを避けた」と報じた。

 この「おわび」への言及ぶりと、「先の世代に謝罪を続ける宿命を負わせてはならない」という言葉を合わせて、謝罪に終止符を打とうとしているという分析も目立った。英フィナンシャル・タイムズ紙は「国家が永遠に謝罪を続けるつもりはないということを自らの支持基盤である右派に暗示した」と報道した。

 独フランクフルター・アルゲマイネ紙は「近隣諸国の不快を和らげるために様々なキーワードを使ったが、一方でナショナリストのことも納得させようとした」と分析した。(ロンドン=渡辺志帆、ベルリン=玉川透)

 ■<考論>「アジアに勇気」容認できぬ 韓国・国民大、李元徳(イウォンドク)教授(韓日関係論)

 談話は、首相個人の後ろ向きな歴史認識に比べると前向きだと評価することもできる。

 ただ、韓国を軽視していると言わざるを得ない。日露戦争がアジアの民族に勇気を与えたという我田引水的な記述は、韓国人としては容認できない。特に植民地支配とは永遠に決別するという一般論を掲げながらも、日本自らが行った朝鮮半島の植民地化の過程や過酷な統治については触れていない。

 それでも朴槿恵(パククネ)大統領は15日の演説で、安倍首相が歴代内閣の歴史認識はこれからも揺らぐことはないと国際社会に明らかにした点を、悩みながらも積極的に評価した。

 今年中に韓中日首脳会談を韓国で開催し、その中で、安倍首相との首脳会談を実現させて悪化した韓日関係を改善させようとする朴大統領の意志が演説に盛り込まれていると解釈できる。(聞き手・東岡徹)

 ■<考論>不戦の誓い、重要なのは実践 フィリピン大、リカルド・ホセ教授(歴史学)

 非常に率直で明確な内容だった。過去の誤りについての明確な認識と強い反省の言葉があった。平和を強く願う日本やアジアの人々の思いを考慮に入れた結果だろう。

 フィリピンは戦時中、日本に占領され、約111万人もの犠牲者を出した。談話はフィリピンの名を挙げ「苦難の歴史を胸に刻み……」と述べた。「従軍慰安婦」という言葉はなかったが、名誉と尊厳を傷つけられた女性がいたことや市民が巻き込まれた点、捕虜の扱いの問題にも触れていた。主な争点はカバーされていたと思う。多くのフィリピン国民は、日本が戦争の責任を明確に認識し、二度と戦争を起こさないと誓ったと受け止めるだろう。

 ただ、談話を出したことと、その実践は別の問題だ。談話で表明した立場を基本に、個々の問題について関係国と協力して取り組んでいくことが重要だ。(聞き手・佐々木学)



   4面=【その一】 3閣僚、靖国参拝 有村・高市・山谷氏
   4面=【その二】 戦後70年、各党談話
   4面=【その三】 キャロル・グラック氏、胡継平氏 <安倍談話・考論>
   4面=【その四】 天皇陛下のおことば 全文 (全国戦没者追悼式)
   4面=【その五】 安倍首相の式辞 全文 (全国戦没者追悼式)
   4面=【その六】 「人民」の国、「市民」の国(政治断簡)


4面=【その一】3閣僚が靖国参拝

④ 【その一】3閣僚、靖国参拝
     有村・高市・山谷氏
     http://digital.asahi.com/articles/DA3S11918198.html

 終戦の日の15日、午前中に有村治子女性活躍相と高市早苗総務相が、午後に山谷えり子拉致問題担当相の計3閣僚が東京・九段北の靖国神社にそれぞれ参拝した。安倍晋三首相は同日、靖国参拝はせず、代理を通じ、自民党総裁として私費で玉串料を奉納した。

 閣僚の3氏は昨年9月の内閣改造で就任した。参拝ではいずれも国務大臣の肩書で署名し、私費で玉串料を納めた。

 有村氏は参拝後、記者団に「戦後、ご遺族の方々は苦しみを乗り越えて生きてこられた。その歩みにも思いをはせて、参拝させていただいた」と説明。高市氏は「多くの戦没者の御霊(みたま)が安らかでありますことと、ご遺族の皆さまのご健康をお祈りした」。山谷氏は「国のために尊い命を捧げられたご英霊に感謝の誠を捧げた」と語った。

 首相の代理で玉串料を奉納した自民党の萩生田光一・総裁特別補佐は「総合的に判断して、(首相は)今日の参拝は見送ったのだと思う。ご英霊に対する感謝の気持ち、靖国への思いは変わらないとおっしゃっていた」と記者団に述べた。

 ■中国外務省「強烈な不満」

 安倍晋三首相が靖国神社に私費で玉串料を奉納し、閣僚らが参拝したことを受け、中国外務省は15日、華春瑩副報道局長名で「断固たる反対と強烈な不満」を表明した。同省は「日本の軍国主義が無条件降伏をした日に、侵略戦争を美化する靖国神社をあがめるのは歴史問題に対する深刻な過ちだ」と批判した。

 韓国外交省報道官も15日に論評を出し、「日本の指導者たちが真摯(しんし)な省察と反省の姿勢を行動で見せる時に、周辺国と国際社会の信頼を得られるという点を厳重に指摘する」とした。

 (北京、ソウル)

 終戦の日の15日、午前中に有村治子女性活躍相と高市早苗総務相が、午後に山谷えり子拉致問題担当相の計3閣僚が東京・九段北の靖国神社にそれぞれ参拝した。安倍晋三首相は同日、靖国参拝はせず、代理を通じ、自民党総裁として私費で玉串料を奉納した。

 閣僚の3氏は昨年9月の内閣改造で就任した。参拝ではいずれも国務大臣の肩書で署名し、私費で玉串料を納めた。

 有村氏は参拝後、記者団に「戦後、ご遺族の方々は苦しみを乗り越えて生きてこられた。その歩みにも思いをはせて、参拝させていただいた」と説明。高市氏は「多くの戦没者の御霊(みたま)が安らかでありますことと、ご遺族の皆さまのご健康をお祈りした」。山谷氏は「国のために尊い命を捧げられたご英霊に感謝の誠を捧げた」と語った。

 首相の代理で玉串料を奉納した自民党の萩生田光一・総裁特別補佐は「総合的に判断して、(首相は)今日の参拝は見送ったのだと思う。ご英霊に対する感謝の気持ち、靖国への思いは変わらないとおっしゃっていた」と記者団に述べた。

 ■中国外務省「強烈な不満」

 安倍晋三首相が靖国神社に私費で玉串料を奉納し、閣僚らが参拝したことを受け、中国外務省は15日、華春瑩副報道局長名で「断固たる反対と強烈な不満」を表明した。同省は「日本の軍国主義が無条件降伏をした日に、侵略戦争を美化する靖国神社をあがめるのは歴史問題に対する深刻な過ちだ」と批判した。

 韓国外交省報道官も15日に論評を出し、「日本の指導者たちが真摯(しんし)な省察と反省の姿勢を行動で見せる時に、周辺国と国際社会の信頼を得られるという点を厳重に指摘する」とした。

 (北京、ソウル)

4面=【その二】戦後70年、各党談話

④ 【その二】自「安保法案の理解深める」 民「武力行使、抑制的な国に」
     http://digital.asahi.com/articles/DA3S11918195.html

 与野党は15日、戦後70年の終戦の日にあわせて談話を発表した。多くの政党が戦後の日本が平和国家として歩んできたことを評価。また、参院で審議中の安全保障関連法案の賛否について触れているのが特徴だ。

 自民は「国際情勢が複雑に変化する中、国民の命と幸せな暮らしを守り抜かなければならない」と安保関連法案の必要性について強調。今後、国会審議などを通じて「国民の理解が深まるよう、丁寧に進めていく」と訴えた。

 また、公明も「わが国を取り巻く安全保障環境が厳しさを増し、紛争を未然に防止し、戦争を起こさせない仕組みをつくることにある」と、法案の早期成立が必要との考えを改めて表明した。

 一方、法案の廃案を目指す民主は、安倍政権について「戦後の日本の歩みを支えた『国のあり方』を大きく変えようとしている」と指摘。「民主が目指す日本は、先の大戦の教訓と反省、憲法の平和主義の理念に基づき、武力行使に抑制的である国だ」とした。

 維新は「戦後70年、わが国は一貫して平和国家として歩んできた。この信頼を失うことがあってはならない。安保法制が議論されている今だからこそ、決意を新たにしている」と訴えた。

 共産は「安倍政権は平和の歩みを断ち切り、戦争法案を強行し、日本を米とともに『海外で戦争をする国』につくりかえようとしている」と批判。社民も「憲法解釈をねじ曲げて『戦争できる国』に突き進む、安倍独裁政治を断じて許すわけにはいかない」と訴えた。

 次世代は、北朝鮮の核開発や中国による南シナ海などへの進出を指摘し、「『協働防衛』という新たな理念に基づき、同盟国・友好国との安全保障体制を構築するべきだ」とした。

 生活の党と山本太郎となかまたちは「戦前の歴史的事実を冷静に見つめ、謝るべきは謝り、正すべきは正すべきだ」とし、日本を元気にする会は「我々日本人は自由・人権・平和を掲げて、世界平和と安定のために成長をしていかねばならない」。新党改革は「平和国家として国民の幸福を守り、世界の繁栄に貢献するよう努力する」との談話を出した。

4面=【その三】<安倍談話・考論>

④ 【その三】キャロル・グラック氏、胡継平氏
     http://digital.asahi.com/articles/DA3S11918193.html

 ■国内外で議論、方向性変わる 米コロンビア大、キャロル・グラック教授(日本近現代史)

 談話は典型的な「政府の文章」だ。例えば(植民地支配のもとにあったアジアやアフリカを勇気づけたと)日露戦争の一面だけに触れ、日本の植民地支配については言及しない。中国やロシアと似た、選択的な歴史の引用といえる。政治的な文脈で理解する必要もある。中国の動向を意識したのは間違いないし、内閣支持率が低下している中、国内にも配慮した内容だ。

 ただ、いずれも驚くようなことではない。むしろ、談話ができた経緯に注目したい。安倍首相が就任したころの発言内容などから考えると、「反省」や「おわび」などの表現を用いず、個人の歴史観がもっと強く出る可能性もあった。

 それが変わったのは、日本国内外で議論が起き、多くの人が発言をした結果だろう。「慰安婦」という言葉は使っていないものの、「名誉と尊厳を傷つけられた女性たち」にも触れざるを得なかった。日本は政府が一方的に歴史解釈を決められるような国ではなく、多様な意見があることが改めて証明されたといえる。

 「謝罪を続ける宿命を背負わせない」という表現が注目を集めるだろうが、歴史と向き合い、責任を取ることは万人に求められる。

 (聞き手・中井大助)

 ■侵略・謝罪、首相の心見えない 中国現代国際関係研究院、胡継平・日本研究所所長

 談話は、日本の侵略と植民地支配を正面から認め、安倍首相自らが謝罪する、という形式をとっていない。その意味で、「村山談話」や「小泉談話」に比べて後退したと言わざるを得ない。

 中国人が受けた戦争の苦痛に触れ、「寛容さ」に「感謝の気持ち」を表明した。これは中国人にとって肯定できる新しい部分だ。

 だが、やはり我々が最も重視し、注視してきたのは、侵略と植民地支配、謝罪について歴代談話の内容を安倍首相がどう引き継ぐのか、だ。これらのキーワードはすべて談話の中にちりばめてはいるが、いずれも安倍首相個人の言葉ではなく、首相の心が見えてこない。中国や韓国、国内の批判を避けるために入れたが、やはり自らの歴史観を最大限堅持するため、ずいぶん工夫したようだ。

 中国を暗に批判していると受け取れる記述も気になった。習近平(シーチンピン)国家主席は今年5月、日本の訪中団を前に「中日関係を発展させていく基本方針は今後も変わらない」と言明した。談話で中日関係を重視し、発展させていく方針が覆えることはなくても、改善に向けた動きが鈍くなることは避けられないだろう。

 (聞き手・倉重奈苗)

4面=【その四】(全国戦没者追悼式)

④ 【その四】天皇陛下の「おことば」(全文)
     http://digital.asahi.com/articles/DA3S11918199.html

 「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。

 終戦以来既に70年、戦争による荒廃からの復興、発展に向け払われた国民のたゆみない努力と、平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました。戦後という、この長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき、感慨は誠に尽きることがありません。

 ここに過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共に、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

4面=【その五】(全国戦没者追悼式)

④ 【その五】安倍首相の式辞(全文)
     http://digital.asahi.com/articles/DA3S11918192.html

 天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族、各界代表多数の御列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。

 遠い戦場に、斃(たお)れられた御霊(みたま)、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遥(はる)かな異郷に命を落とされた御霊の御前に、政府を代表し、慎んで式辞を申し述べます。

 皆様の子、孫たちは、皆様の祖国を、自由で民主的な国に造り上げ、平和と繁栄を享受しています。それは、皆様の尊い犠牲の上に、その上にのみ、あり得たものだということを、わたくしたちは、片時も忘れません。

 70年という月日は、短いものではありませんでした。平和を重んじ、戦争を憎んで、堅く身を持してまいりました。戦後間もない頃から、世界をより良い場に変えるため、各国・各地域の繁栄の、せめて一助たらんとして、孜々(しし)たる歩みを続けてまいりました。そのことを、皆様は見守ってきて下さったことでしょう。

 同じ道を、歩んでまいります。歴史を直視し、常に謙抑を忘れません。わたくしたちの今日あるは、あまたなる人々の善意のゆえでもあることに、感謝の念を、日々新たにいたします。

 戦後70年にあたり、戦争の惨禍を決して繰り返さない、そして、今を生きる世代、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓(ひら)いていく、そのことをお誓いいたします。

 終わりにいま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様には、末永いご健勝をお祈りし、式辞といたします。

4面=【その六】(政治断簡)

④ 【その六】(政治断簡)「人民」の国、「市民」の国
     政治部次長・秋山訓子
     http://digital.asahi.com/articles/DA3S11918191.html

 李聖君(リシュンジュン)さんは中国出身の留学生。日本の大学院で学ぶ27歳だ。中国の高校を卒業後、「世界を見たい」と来日、日本に来て8年目になる。

 これを学びたいという具体的なものがあったわけではない。大学は「法律とか政治とか、広く学べるかも」と総合政策学部を選んだ。

 大学3年の時、たまたま授業で「まちづくり」を学んだ。住民が、自分の住む街をよりよくするための活動だ。「新鮮ではあったけど、正直言って、こんなことに一生懸命になる価値があるのかな、と思いました」

 4年になり、誘われて軽い気持ちでまちづくりを担う地元のNPOに行ってみた。びっくりした。

 体の不自由な人にバスを出し、買い物に付き添ってあげる団体、地域の歴史を小学生たちに教えている団体。李さんもお年寄りと一緒に買い物をし、神主さんに地元の神社の由来を聞いた。みんな、すごく生き生きと楽しそうに活動していた。「何よりも、人の役に立つことが、自分の生きがいになっているのがいいなあと思いました」

     *

 中国でもNPOが育ってきてはいるが、まだまだ自由に活動できる状況にはない。

 李さんはそれから、地元のボランティアセンターを訪れ、インターンをしてみた。さらにいろいろなNPOを知る。自分の家で採れた無農薬野菜を持ち寄り、料理を作って出すコミュニティーレストラン、壊れたおもちゃを修理してくれる「おもちゃ病院」……。実にさまざまな活動があった。そこで気がつく。

 「一つひとつは本当に小さいことだけど、それが集まって、少しずつ社会を変えていくんだ、と」

 大学院に進み、NPOや市民社会について専攻した。ボランティア論やNPOのマネジメント。勉強したなかで、特に興味をひかれた言葉は「市民」だった。

 市民というのは、自分の意思で主体的に、地域や社会の問題に取り組む個人。

 鮮烈だった。

 中国でよく使われるのは、国名にもある「人民」だ。「『人民』というのは、党や国、自治体にリードされるもので、受け身の存在。人々が自主的に動いて社会のことを考える、という発想ではないと思うんです。人々が『人民』だけではなくて、市民意識を持つようになればいい」

 来春には日本で博士課程に進みたいと思っている。研究者になるのが今の夢だ。

     *

 さて、私たち日本人。どれだけ「市民」意識を持っているだろう。

 楽しくやりがいのある活動をする。人に喜ばれる。それだけでもすてきなことだ。でも、もう一歩進めば、もっと何かが変わるかもしれない。

 有名な文言のまねをして言えば、人は市民として生まれるのでなくて、市民になるのだと思う。そして、それを自覚したときに、より大きな力を持てるのだ、きっと。

 李さんは私に、それを気づかせてくれた。


8面=社説


⑤ 8面=戦後70年に問う 個人を尊重する国の約束

     http://digital.asahi.com/articles/DA3S11918168.html

 終戦の年の秋、連合国軍総司令部(GHQ)が、日本政府の敷いていた言論統制を解いた。

 作家の高見順は、日記にこう残している。

 「自国の政府により当然国民に与えられるべきであった自由が与えられずに、自国を占領した他国の軍隊によって初めて自由が与えられるとは」

 明治憲法下の国民は主権者の天皇に仕える「臣民」で、その権利は法律で狭められた。

 日本の降伏を求めたポツダム宣言やその後のGHQの人権指令を経て、人びとは人権という価値と正面から向き合った。

 ■惨禍くぐり関係転換

 「お国のために」とのかけ声の下、戦時体制は人々の生命を奪い、生活を破壊した。その惨禍をくぐった戦後、国家と個人は根本から関係を改めた。

 国の意思を決めるのは国民とし、その人権を尊重する平和国家としての再出発だった。

 それは「国家のための個人」から「個人のための国家」への転換であり、戦後の民主社会の基礎となってきた。

 しかし、この結び直した関係を無効化するかのような政治権力の姿勢が、強まっている。

 憲法違反の疑いが強い安保関連法案が衆院で可決され、参院で審議中だ。憲法の下での約束では、国の原則をここまで変えるには、権力側は憲法改正手続きをとり、国民投票によって国民一人ひとりの意見を聞くのが筋だ。今起きているのは、重大な約束違反である。

 安全保障にはさまざまな考えがあろう。だが、各種の世論調査で「政府の説明は不十分だ」「今国会での成立は必要ない」との意見が多数であることは、国民に相談することなく一方向へ突き進む政府、与党への不信の広がりからではないか。

 ■国政の権威は国民に

 今年は、いまの英国でうまれ、各国の立憲主義の礎となったマグナ・カルタ(大憲章)から800年の節目でもある。

 強大な権力を誇る王であれ、法に縛られる。貴族が王に約束させ50年後に議会も開かれた。

 その後、権力者間の闘争や戦争を経て、多くの国が立憲制を選び取ってきたのは、権力とはそもそも暴走するものであり、防御の装置は不可欠だという歴史の教訓からだ。

 戦後日本に人権感覚をもたらしたGHQも例外ではなく、自らの占領への批判は封じる権力の姿をあらわにした。

 第2次世界大戦に至る過程でドイツ、イタリアでは、選挙で選ばれた指導者が全体主義、軍国主義を進めた。多数決が間違えることもある。

 英国下院のジョン・バーコウ議長は今月、東京で講演した。「世界最長の歴史をもつ議会といわれているが、改善の余地が常にある」。議会の役割は権力の精査であり、国民が関心をもつことを同じ時間軸で議論することが大事だ、と話した。

 国民の代表のはずの議会が、ともすれば権力側に立ち、国民感覚と離れてしまう。そんなリスクへの自覚、自戒だろう。

 日本国憲法前文は「国政は国民の厳粛な信託により、その権威は国民に由来する」とする。

 その国民の意思が反映されるのは、たまにある選挙のときに限られていいはずがない。たえず国民が意思を示し、それを国政が尊び、くみ取る相互作用があってこその国のかたちだ。

 安保法案や原発問題などからは、国民を権威とした価値観をいまもわきまえない政治の時代錯誤が透けてみえる。

 ■権利を使ってこそ

 止められなかった戦争について、歴史学者の加藤陽子東大教授は「軍部が秘密を集中管理し、憲兵などで社会を抑えたことが致命的だった」と語る。

 全体主義が進むなか、治安維持法や言論、出版、結社を取り締まる法が、情報を統制し、反戦、反権力的な言論を弾圧した。体制にものをいう大学教授が職を追われた。国民の目と耳は覆われ、口はふさがれた。

 社会の生命線は、情報が開かれ、だれもが自分で考え、意見や批判をしあえることである。

 いま、人々が街に出て、デモをし、異議を唱える。インターネットで幅広い意見交換がある。専門を超え、研究者たちが外に向けて発言をする。

 重ねられた知に基づく議論の深まりを感じさせる動きだ。

 一方で、政府の秘密情報の管理を強め、情報に近づくことを犯罪にする特定秘密保護法が昨年施行された。自分と違う意見や、報道への制裁、封殺を求める物言いが政党の一部にある。

 精神的自由に干渉しようとするいかなる動きにも敏感でいたい。社会問題で声を上げることの結果は必ずしも保証されない。だが、表現の権利や自由を使わず、あきらめた先に待っている闇を忘れてはなるまい。

 国のために国民がいるのではなく、国民のために国がある。自由な社会は、一人ひとりの意思と勇気なしには成り立たないことも、歴史は教えている。


⑥ 9面=戦後いつまで(フォーラム)

⑥ 戦後70年、日本の転換点は:4 戦後いつまで
     http://digital.asahi.com/articles/DA3S11918149.html

 戦後日本の転換点を巡る二つのアンケートには、計1449件の回答が寄せられました。戦後のスタートから15日でちょうど70年。最終回の今回は、戦後はいつまで続くのか?という質問に対する回答から、作家の東浩紀さんに、私たちがいま生きる戦後社会の特徴を読み解いてもらいます。

 ■一度、戦争から離れては ゲンロン代表、作家・東浩紀さん

 70歳以上の人たちの回答に、はっとさせられるものが多かった気がします。激動の時代を生きてきた体験を通し、語らずにいられない大切なことを、自分の言葉で発していた。

     *

 ●「敗戦」時12歳。友だちの死を何人も見てきました。せめて100年は「戦後」として為政者は反省して欲しい。二度と戦争はすべきではない。(男性・70歳以上、「戦後」はまだ当分続く)

 ●私たちは日本国憲法を支えに立ちあがったので、憲法の精神が根付かないうちは戦後。徹底した民主国家であるはずが、成熟せず崩れつつある現在は戦後です。(女性・70歳以上、「戦後」はまだ当分続く)

 ●今まで一度も戦後などと思ったことはありません。広島、長崎の人たちにとっては悲惨で70歳以上には忘れられないでしょう。ですが若い人たちにとっては意味のない言葉で、マスコミだけが使ってるような気がします。(男性・70歳以上、「戦後」はすでに終わっている)

     *

 そうした発見があった一方、全体として僕が抱いた印象は、「のっぺりして多様性に欠ける」でした。これだけの数の回答が寄せられながら、戦後について語られたのは憲法、日米安保、沖縄、中国・韓国との外交、経済成長やバブル経済といったテーマ。70年という時空間の大きさを考えれば、枠組みの狭さは否めないと思います。

 同時に、「戦後がまだ続く」派と「すでに終わっている」派で、リベラルか保守派かがくっきり分かれるような、国家観や社会観の対立も見られない。ジャーナリズムや論客が使うクリシェ(決まり文句)も目につきました。「いまはすでに戦前」という表現とか。職業、地域、どんな生活を送っているのかなど、個人としての顔が見えにくかったですね。

 極端な話、一度、先の戦争について考えることをやめたらどうでしょう? まず大戦の評価から入ることが、日本人の多様な政治的思考を奪っているように僕は感じます。護憲か改憲か、議論が結局そこに収斂(しゅうれん)していってしまっていますから。

 この70年の日本社会で、変わったこと、進んだことは、たくさんあると思う。たとえば水俣病などの悲惨な公害体験を経て、日本は環境に配慮する国になった。あるいは中森明夫さんが「戦後の転換点」でアイドルについて挙げておられましたが、米国の娯楽産業にある程度、拮抗(きっこう)する映像文化を作ったクールジャパンのような現象も、画期的です。社会の実相はもっと多様で、一筋縄でいかない複雑さをはらんでいたのではないでしょうか。

 ■欠けた「未来への使命感」

 もう一つ強調したいのは、回答の多くが日本一国の平和や経済をどう守るかに終始していたことです。21世紀のグローバルな世界で日本がどんな役割を果たすのか。未来への使命感がない。そんな死角を指摘した回答は、だから新鮮に映ります。

     *

 ●世界のあちらこちらで戦争は続いています。自分の国が巻き込まれていないから、関係ないでは、グローバル社会には通用しない。地球規模で考えなければ、国はおろか、地球という惑星の存亡に関わってくる。(男性・50代、「戦後」というとらえ方が間違っている)

     *

 山崎正和さんが先週掲載の対談で、「麻酔」という言葉を使っておられましたが、戦後日本は、国家論や文明論がまさに麻酔をかけられていたわけです。主権をめぐる議論をしてこなかった。日本という国が何をしたいのか、めざすのかという問題意識が希薄なまま、やってきた。結果として、人に面倒を見てもらうのはイヤだ、自分が先頭に立つのもイヤだ、嫌われたくもない――それが、今の日本ではありませんか。

 戦後社会のある種のゆがみと呪縛を、今回のアンケートは反映しているといえます。なぜそういう状況にたどり着いたか。「論壇崩壊」と言われる、近年の言論状況の劣化が大きいのでは。賛成か反対かの二者択一を迫り、「結局、××でしょう」と単純化させるやり方が蔓延(まんえん)しています。

 人文的な知の衰退も関係している。デモや署名活動といった政治的行動が大切という風潮が強まっていますが、僕は懐疑的です。議論とは本来、短期的には役に立たないもの。それを承知のうえで、そもそも平和とは何か、そもそも国家とは何か、といった根底的な問いかけをしていくのが言論活動する僕らの役割ではないか。中長期的には、そこから別の視点が生まれ、豊かな言論文化をかたちづくっていく。

 他方、いま人々が未来志向になれないのは、ここ数年の出来事も大きいでしょう。民主党政権が失敗に終わり、東日本大震災であれだけの被害をもたらした原発も、一部で再稼働した。本来、戦後社会の決定的な転換点になるはずだった出来事が、そうなりえませんでした。未来に期待が持てないから、人々の目が過去に向いても不思議はない。

     *

 ●香月泰男という画家が好きだ。シベリア経験を絵で表現し続けた。戦争の記憶は、当事者のみではなくコミュニティーや民族としての痛みとして語り継がれると思う。記憶は70年経とうと時間の経過だけで忘れられるものではない。(男性・60代、「戦後」はまだ当分続く)      *

 もともと血縁でなく地縁が強く、会社という中間共同体もこの20年で壊れてしまった日本社会は、ばらばらな個人化が進んでいます。そこで戦争という「痛みの共同性」をどうやって取り戻し、維持するのか。難しい問題です。

 日本社会の可能性は、政治のとらえ方をいかに豊かに広げていくかに、かかっている。地域にいくらお金を落とすかが問われる現場べったりの政治と、イデオロギーの政治と。中間がすっぽり抜けている。でも、そのあいだに僕らの日常、ライフスタイルとつながる政治の芽があるはずです。「戦後」が次のステージに行くことがあるとすれば、僕はこの「ライフスタイルに根ざす政治」が本当に力を持ってくる時だと思います。(聞き手・藤生京子)

     ◇

 71年生まれ。著書に「一般意志2・0」「弱いつながり」など。新憲法草案の執筆、福島第一原発観光地化計画の企画ほか、出版社ゲンロンを拠点にイベントや講座を開催。

 ■捉えどころない、だから語り合う

 「戦後」という言葉は、人をちょっと冗舌にさせる力を持っているのかもしれません。戦後はいつまで続くかを尋ねたアンケートへの回答は1309件。理由がぎっしりと書かれたものが多いのが特徴でした。

 選択肢では「この先も『戦後』であり続けるべきである」(40代女性)など、「『戦後』はまだ当分続く」が最も多く、その次に「敗戦後の痛みやハングリーさを感じてる世代がほぼいない」(30代女性)など「『戦後』はすでに終わっている」が続きました=グラフ。

 憲法や戦争への不安、戦後補償を巡る近隣国との関係といった、似通った記述が多かったのは、東浩紀さんの指摘の通りです。その意味で、回答から透けて見える戦後の社会像は、70年という長い年月を経ても多様とは言い難いのかもしれません。

 1980年代生まれの私も答えを考えました。「当分続く」を選ぶところまでは、1秒で終わるのですが、理由を書こうとすると止まってしまう。「戦後」という言葉でイメージする社会像は確かにあるのですが、いざ書くと、平和や憲法、あの戦争といった言葉が出てきます。自分が生きている社会の実感から遠のいてしまう、そんなもどかしさを感じます。

 戦争を実際に経験していない人が人口の8割を占める今、実感を伴って戦後を語るのは簡単ではないでしょう。かつて丸山真男も「戦後民主主義の虚妄の方に賭ける」(1964年)と語ったように、言ってみれば戦後という言葉は昔からずっと、捉えどころがなかったのかもしれません。でも、だからこそ、何かを書きたい、語りたい人が多いように、このアンケートを通じて感じるのです。語り合いながら、一緒に社会像をつくりあげていく――そのための言葉として「戦後」があるのではないでしょうか。(高久潤)

 ◆このシリーズはほかに稲垣えみ子、鈴木繁、刀祢館正明、畑川剛毅、真鍋弘樹が担当しました。

 ◇来週は休みます。次回30日は『いじめ:1 なぜなくならない』

 ◇アンケート「いじめはなくせる?」を朝日新聞デジタルのフォーラムページ(http://t.asahi.com/forum別ウインドウで開きます)で実施中です。ご意見はasahi_forum@asahi.comメールするへ。


⑦ 35面=悼む各地
⑦ 8・15、私たちの決意 終戦70年 〈1〉
     http://digital.asahi.com/articles/DA3S11918225.html

 終戦から70年を迎えた15日、犠牲者を追悼し、当時を振り返る集いが各地で開かれた。戦争と平和。過去と未来――。多くの人々が思いをはせた。▼1面参照

 ■青空と解放感「戦争繰り返さぬ」 皇居前広場、漫画家・泉昭二さん

 外国人観光客が、二重橋を背にカメラの前でポーズを決めていた。15日午後1時過ぎ、皇居前広場。空はうっすらと雲でかすみ、セミの声がこだまする。いつもと変わらない風景だ。

 足元の砂利が焼けるように熱い。70年前のほぼ同じ時刻、漫画家の泉昭二さん(83)=東京都杉並区=はこの場所で、砂利の上に正座し、頭を下げていた。「あの日も暑かった。足が痛かっただろうけど、記憶にないなあ」

 当時13歳、特攻隊に憧れる軍国少年だった。正午からの玉音放送で敗戦を聞いて途方に暮れ、自宅のあった荒川区からひとり電車を乗り継いで皇居前に向かった。戦争に負けたことをわびると共に、天皇陛下のいる場所に行けば何かわかるのでは、と思った。広場では大勢の人がひれ伏していた。誰も言葉を発せず、静かだった。

 「天皇陛下のために死ぬのが務めだと思っていた。軍国教育は恐ろしいよね」

 日本が軍国主義に進む転換点となる5・15事件が起きた1932年に生まれ、物心ついた時は戦争が身近にあった。兄2人は出征。小学6年の半年間は福島に学童疎開した。自宅周辺は45年春の空襲で焼け野原に。「仕返ししてやる」。憎しみが募った。

 8月15日。学校に行くと「重大な放送があるから帰るように」と言われた。ラジオのある近所の家に十数人集まり、放送を聞いた。ガーガーという雑音に混じり、初めて聞く天皇の声。「か細い声だな」と思った。近所の男性の「ああ、負けた」という言葉で、敗戦を理解した。信じていたものが、ガラガラと崩れていった。

 皇居からの帰り道、東京・丸の内のビル街の上に青空が広がっていた。「これが自然の色か」。ようやく解放感を味わった。

     *

 <若者のデモに希望> 戦後、働きながら大学を出て漫画家に。69年から朝日小学生新聞で連載「ジャンケンポン」を始めた。親子で話す材料にと、時事ネタや季節の話題を盛り込む。今年の8月15日の回では終戦記念日に触れた。

 あの日と同じように、皇居を背に歩き出す。高層ビル群が目に入る。「こんなに豊かになるなんて、想像もしなかった。食べるのがやっとで、いつ命を落とすかわからない日々。理想を抱ける時代じゃなかった。また戻らなきゃいいけど」

 安保法制が議論され、70年続いた平和の土台が変えられようとしている。戦争を知らない政治家の議論に歯がゆさを覚えつつ、若者のデモに希望を見いだす。「今は声をあげることができる。だから、同じことを繰り返すことはないはずだ。そう信じています」(仲村和代)

 ■大阪

 大阪市天王寺区では「玉音放送」を聴く催しがあった。70年前と同じように正午からテープを再生すると、約30人の参加者は終戦詔書のコピーを目で追っていた。

 大阪府箕面市の神崎房子さん(81)は「70年前も校庭で聴いたが雑音で聞こえなかった。後で戦争が終わったと教えられ、『家に帰れる』とうれしかった」。小学3年の菅原玲君(8)は「戦争について勉強はしているけど、聴くのは初めて。思ったより長かった」と話した。

 ■渋谷

 東京・渋谷の映画館「ユーロスペース」では、太平洋戦争末期のフィリピン・レイテ島を舞台にした「野火(のび)」が上映中だ。

 慶応大4年の津戸悠希さん(21)は「集団的自衛権が話題にのぼるなかで、戦争が自分にとってリアリティーを持ったものになるように」と、この日の鑑賞を決めた。「この物語に触れるまで、レイテ島で戦争があったことすら知らなかった。そこでフィクションでも思いつかないような出来事があったのだと、衝撃的でした」

 ■靖国神社

 東京・九段の靖国神社。日差しが照りつける境内で、参拝客が掲げた日の丸が翻り、軍歌の演奏が響いた。そのなかを千葉県松戸市の平川留吉さん(92)は1人、参拝した。中国北部に出征。毎年、戦友会で集まって参拝してきたが、最近は仲間が老いたり亡くなったりで解散寸前という。「来られるうちは来ないと」。午後7時の閉門まで人波は絶えず、神社によると19万人が訪れた。

 (34面に続く)


⑧ 34面=悼む各地

⑧ 8・15、私たちの決意 終戦70年 〈2〉
     http://digital.asahi.com/articles/DA3S11918214.html

 (35面から続く)

 ■松本

 「自由主義者が一人、この世から去って行きます」との所感を残し、22歳で戦死した特攻隊員の上原良司さん。その考え方を知り、平和を語り継ぐ集いが出身の長野県松本市であった。後輩にあたる県立松本深志高3年の高力那岐(こうりきなぎ)さんは「『日本の自由のために戦う』と戦禍に散った上原さんの思い描いた日本になっているのか」。

 ■知覧

 旧陸軍の特攻基地があった鹿児島県南九州市の知覧文化会館では、平和への思いを語るスピーチ大会があった。北海道江別市の高校2年の佐藤花さん(16)は、沖縄を訪問した体験を語った。同年代のひめゆり学徒隊の少女らの足跡に触れ、「一つしかない命を大切にしてほしい。そんな思いを多くの人に伝えていきたい」。