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折々の記 2016 ②
【心に浮かぶよしなしごと】
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02 23 憲法学者の考え【その六】 安倍政権の舵とり
【001】 法学館憲法研究所
【007】 「中高生のための憲法教室」一覧表
【007】 ■第31回<憲法から考える自民党総裁選挙>
【007】 ■第32回<安倍「改憲」で「美しい国」に?>
【007】 ■第33回<平和と福祉の強いつながり>
【007】 ■第34回<表現の自由と国民投票>
【007】 ■第35回<住基ネットはなぜ危険なのか>
【007】 ■第36回<違法でなければそれでいいのか>
【007】 ■第37回<環境問題>
【007】 ■第38回<議員定数不均衡問題>
【007】 ■第39回<力と民主主義>
【007】 ■第40回<明確性の理論>
02 23 (火) 憲法学者の考え 安倍政権の舵とり
第2次安倍内閣 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%86%85%E9%96%A3)、 や第1次安倍内閣、第3次安倍内閣でもいいが、安倍内閣の概要を知るのに好材料が整理されている。
安倍氏は今までにないアメリカ従属の政治を勝手に国益と称して進めてきた。 いまやUSAは戦争扇動国家として多くの識者から批判され、国内でも影を落としている。
あらぬことか、報道によれば9.11事件すらUSAの陰謀と囁かれ、それが暴かれさえしてきている。 国連を無視したイラクの軍事侵攻も、アフガン侵攻も陰謀と言われ、ビンラデンへの執拗なまでの追撃は、ISの無法反撃という火をつけてしまった。
軍産の暗黒モンスター(死の商人)の謀略の顛末としか言いようがない。
暗黒モンスターに操られているアメリカ行政に、あろうことか安倍氏は尻尾を振ることにしている。
日本の明るい未来のシンボルである戦争放棄の憲法が危機に瀕している !!!
【001】
法学館憲法研究所の内容は次の通りです。
【001】法学館憲法研究所 http://www.jicl.jp/index.html
【002】「今週の一言」 http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber.html
【003】「浦部法穂の憲法時評」http://www.jicl.jp/urabe/index.html
【004】「浦部法穂の『大人のための憲法理論入門』」http://www.jicl.jp/urabe/otona.html
【005】「日本全国憲法MAP」http://www.jicl.jp/now/date/
【006】「ときの話題と憲法」http://www.jicl.jp/now/jiji/
【007】「中高生のための憲法教室」http://www.jicl.jp/chuukou/chukou.html
これらをテーマごとに分類・カテゴライズしました。 有益な情報が多数あります。 ご活用ください。
【007】
「中高生のための憲法教室」一覧表
伊藤所長(伊藤塾塾長)が「世界」(岩波書店)に連載したものをご紹介します。
http://www.jicl.jp/chuukou/chukou.html
実施回数と内容 執筆年月日 ■第48回<憲法の力> 2008年03月17日 ■第47回<貧困と憲法> 2008年02月18日 ■第46回<米軍再編と地方自治> 2008年01月14日 ■第45回<日本の国際貢献> 2007年12月17日 ■第44回<裁判員制度> 2007年11月12日 ■第43回<外国人の人権> 2007年10月15日 ■第42回<戦後レジームからの脱却> 2007年09月10日 ■第41回<被害者参加制度> 2007年08月13日 ■第40回<明確性の理論> 2007年07月16日 ■第39回<力と民主主義> 2007年06月11日 ■第38回<議員定数不均衡問題> 2007年05月14日 ■第37回<環境問題> 2007年4月16日 ■第36回<違法でなければそれでいいのか> 2007年03月12日 ■第35回<住基ネットはなぜ危険なのか> 2007年02月19日 ■第34回<表現の自由と国民投票> 2007年01月15日 ■第33回<平和と福祉の強いつながり> 2006年12月18日 ■第32回<安倍「改憲」で「美しい国」に?> 2006年11月13日 ■第31回<憲法から考える自民党総裁選挙> 2006年10月16日 ■第30回<「敵基地攻撃論」と暴力の連鎖> 2006年09月11日 ■第29回<被害者の人権と被告人の人権> 2006年08月14日 ■第28回<犯罪の相談だけで処罰される!?> 2006年07月17日 ■第27回<学校で強制される「愛」?> 2006年06月12日 ■第26回<「国民投票法」を考える> 2006年05月15日 ■第25回<黙秘権は何のために?> 2006年04月17日 ■第24回<女性天皇の是非も私たちが決める> 2006年03月13日 ■第23回<ビラ配りは犯罪か?> 2006年02月13日 ■第22回<平時になんで新憲法?> 2006年01月09日 ■第21回<首相の靖国参拝と裁判所の役割> 2005年12月12日 ■第20回<「よくわからないけど小泉さんが好き」?> 2005年11月14日 ■第19回<私たちはなぜ選挙に行くのか> 2005年10月17日 ■第18回<教科書を選ぶとはどういうことか> 2005年09月15日 ■第17回<「教科書検定」を憲法からみると> 2005年08月15日 ■第16回<あなたも私も納税者> 2005年07月14日 ■第15回<憲法は押しつけられたか?> 2005年06月13日 ■第14回<教育は何のために?> 2005年05月16日 ■第13回<嫌いなのは自由、歌うのは義務?> 2005年04月11日 ■第12回<「表現の自由」はなぜ大事?> 2005年03月14日 ■第11回<「普通の国」と「日本の独自性」> 2005年02月21日 ■第10回<公務員の人権が制限されるワケ> 2005年01月17日 ■第9回<「公共の福祉」ってなんだろう?> 2004年12月13日 ■第8回<プロ野球選手がストしていいの?> 2004年11月15日 ■第7回<オリンピックは誰のため?> 2004年10月18日 ■第6回<黙っていたら人権はない> 2004年09月13日 ■第5回<攻められたらどうするの?> 2004年08月09日 ■第4回<「戦争放棄」の理由> 2004年07月12日 ■第3回<「憲法改正」を考えるヒント> 2004年07月05日 ■第2回<守らなくてはならないのは誰?> 2004年07月05日 ■第1回<世界に一つだけの花> 2004年07月05日
【007】ー ■第31回
<憲法から考える自民党総裁選挙>
2006年10月16日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/31.html
一つの政党で誰が党首になるかは、本来、その政党の内部の問題ですから、国民がいちいち大騒ぎをする必要などないはずです。ところが、日本では、国会で内閣総理大臣を指名するので(憲法67条)、通常は、国会でもっとも議席を有する政党の党首が総理大臣に指名されることになります。
つまり、国会の与党第一党の党首選挙が事実上、内閣総理大臣を選ぶのと同じ意味を持つことになるのです。そこで国民は大きな関心を持つことになります。
憲法の下ではどのように行政権が運営されることになっているのでしょうか。まず、国会で選ばれた総理大臣は、国務大臣を選んで内閣を組織します。この国務大臣はその過半数が国会議員であることが憲法上要求されているだけですから(憲法68条1項)、何人かを民間人から登用してもかまいません。
こうして作られた内閣に行政権が帰属することになります(憲法六五条)。憲法は内閣という合議体に行政権を与えました。これを合議制といいます。外交関係の処理や予算の作成、一般行政事務など、内閣の権限として憲法が定めていること(憲法73条)は、内閣の閣議で決定されます。総理大臣は閣議決定に従って、内閣を代表して行政各部を指揮監督します(憲法72条)。閣議決定は慣習で全員一致が求められていますが、もし、重要な案件に反対する国務大臣がいるときには、総理大臣はその人を辞めさせたり、交替させたりすることが自由にできます(憲法68条2項)。内閣が一体として活動できるように、総理大臣には首長として強い権限が与えられているのです。
この総理大臣とその他の国務大臣からなる内閣に行政権が帰属し、その内閣が国会に対して連帯し、責任を負うことになります(憲法66条3項)。このように内閣が国会に対して責任を負う制度を議院内閣制といいます。国会によって選ばれた総理大臣が作った内閣が、国会に責任を負うわけです。
ちなみにアメリカでは、大統領という一人の人間に行政権が帰属する独任制です。そして事実上、国民から直接選ばれた大統領が国民に対して責任を負う大統領制をとっています。
日本とアメリカの行政のあり方は、このように、合議制か独任制か、議院内閣制か大統領制かという点において違いがあります。合議制で議院内閣制の方が、衆知を集めた慎重な行政運営を期待できます。それは、国民の声を国会が吸い上げて、十分に審議してからその国会の意思に従う形で、内閣の閣議で相談して行政を運営するからです。ただし、迅速性に欠けることがあります。
独任制で大統領制の場合は、国民の声を大統領が直接、行政に反映しますから、迅速で強力なリーダーシップを発揮することができます。しかし、独裁の危険がつきまといます。
このようにそれぞれ長所も短所もあるのですが、日本の憲法は、国民が日頃の生活の中で感じる閉塞感などから英雄を望んでしまい、独裁者に振り回されて悲劇を迎えることがないように配慮して議院内閣制を採用しました。
日本は戦前、情報操作に惑わされ、雰囲気に流されてしまった国民が、一丸となって戦争に突っ込んでいった苦い経験を持ちます。そこで憲法は、国民一人一人の思想・良心の自由を保障するとともに(憲法19条)、政府を批判する表現の自由をしっかり保障して(憲法21条)、報道機関が政府に都合のよい情報ばかり流して国民の判断を誤らせることのないようにしました。
これまで続いた小泉政権では、小泉首相が毎日のようにテレビに登場して国民やマスコミに向かって発言し、世論を直接コントロールすることで得た国民の支持に支えられて政策を実現してきました。あたかも大統領制のような手法です。
もちろん日本は議院内閣制ですから、本来、国会において国民の多様な意見を吸い上げて、特に少数者の意見を無視することなく、十分に議論して政策を実現することが求められているはずです。しかし、実際は少数意見や弱者の声は切り捨てられ、政府を批判する言論は一部を除いてあまり報道されませんでした。これでは議院内閣制の長所を生かして、議会制民主主義を実現してきたとはいえません。
異論や少数意見を持つ者が自由に発言でき、多数派もそれに耳を傾けることができて、初めて民主主義は正しく機能します。多様性が保障されると同時に、一人一人の国民が自分の頭で考え、自分の意見をもって行動できる自立した市民であることが民主主義の前提です。為政者の見かけに惑わされたり、マスコミに踊らされたりしてはなりません。
たとえ自分が直接選んだ総理大臣でなくても、新しい政権がどのような政策を実現しようとしているのか、この国をどんな方向に持っていこうとしているのかをしっかりと認識し、必要ならばこれをはっきりと批判していくことが必要です。国民一人一人が政治を監視し続け、批判し続けることこそが民主主義の本質だからです。
【007】ー ■第32回
<安倍「改憲」で「美しい国」に?>
2006年11月13日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/32.html
安倍首相は5年以内の新憲法制定をめざすそうです。もう一度、昨年10月に発表された自民党の新憲法草案を見てみましょう。
まず、前文です。2項冒頭に象徴天皇制の維持が謳われ、そのあとに国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という価値が並びます。あくまでも天皇制の下での国民主権にすぎないというわけです。3項では、「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し」として、国民に国防の義務や愛国心を課したあとに、自由、福祉、教育、文化、地方自治という価値を並べます。自由よりも国民の責務が先にくるのです。
また4項では、「圧政や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行う。」というのですが、そのための手段の限定がありません。アメリカがイラクに押しつけているような、軍事力による正義の押しつけも可能になります。
次に9条の平和主義ですが、まず、第2章のタイトルが「戦争の放棄」から「安全保障」に変わりました。つまり「戦争の放棄」を放棄してしまったのです。現憲法の9条は1項で侵略戦争を放棄し、2項によって一切の戦力を持たない、国の交戦権を認めないとした結果、自衛戦争も含めていっさいの戦争を放棄したと解釈されているため、2項こそ重要なのですが、その2項をあっさり削除しています。
そして9条の2において自衛軍を創設するのですが、1項ではその目的として、「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、・・・自衛軍を保持する。」とします。国民の安全は最後です。軍隊が「国」のためのものであり、私たち一人一人の国民の生命や財産を守るためのものではないことがよくわかります。また2項では、自衛軍の活動は「国会の承認その他の統制に服する」とされ、国会の承認はなくてもよいという規定になっています。これでは文民統制も骨抜きです。
3項では自衛軍の活動が規定されます。「一項の任務を遂行するための活動」、「法律の定めるところにより、…国際的に協調して行われる活動」、「緊急事態における公の秩序を維持」するための活動の三つです。二つ目の海外での活動は法律の定めるところによることになっていますから、憲法では何の歯止めもかかっていません。そのときの与党の判断で、いくらでも海外で自衛軍が活動できることになっています。
そもそも憲法は法律によってもできないことを予め明確にするところに存在意義があるのですが、このように法律に丸投げしたのでは、憲法自身がその役割を放棄しているといわざるをえません。また、三つ目の活動は、デモ行進などに対して自衛軍の銃口が向けられることを意味します。かつての安保闘争の際には、機動隊という警察権しか発動されませんでしたが、これが軍隊になるとどれだけの犠牲が国民に出るかわかりません。
12条は国民の責務を規定します。「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ」とあります。これは誤解を生みます。権利を持つ人の相手方は義務を負担しますが、権利者自身に当然のように義務が発生することはありません。国民に人権という権利を保障するから国防の義務も負担しろといいたいのかもしれませんが、それは間違いです。国民の相手方である国家に、人権を守る義務が生じるだけです。
そして、「常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う。」とあります。ここでも自由の上に公益と公の秩序が大きく覆いかぶさってきています。現憲法では「公共の福祉」による制限が認められるだけです。この公共とはパブリック、つまり人々を意味します。よって、国民は人々の福祉のために人権を利用する責任を負います。それが天皇や国家の利益を表す公益に変わっています。一人一人の自由や人権よりも、公益、国益の方が価値が上で、国防や愛国という国益のためにすべての人権が制限されることになります。
20条3項では、「国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他宗教的活動・・・を行ってはならない」として、社会的儀礼の範囲内の宗教活動を認めています。総理大臣が靖国参拝を堂々と行えるようにしているのです。
22条の職業選択の自由(これは企業活動の自由を含みます)においては、現憲法にある「公共の福祉に反しない限り」という歯止めがはずされています。現憲法が、ここであえて公共の福祉を再び明言しているのは、経済的弱者を保護するために、強者を制限することを認めるためです。それをはずすのですから、自由競争は無制限に許され、格差社会を助長する方向性を示したものといえます。
こうしてみると、どのような国をめざそうとしているのかがよくわかります。これが本当に「美しい国」なのか、よくよく考えてみる必要があります。
【007】ー ■第33回
<平和と福祉の強いつながり>
2006年12月18日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/33.html
小泉政権が進めてきた格差社会が広がり、お年寄りや障害者、長期入院患者などの社会的に弱い立場の方々がとても苦しい状況に追い込まれています。国や自治体から受けられるサービスは減っているのに、税金の負担だけは増えています。
介護保険や医療保険、年金や生活保護などの福祉サービスを受けることは生存権という人権として保障されています。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」〔憲法25条1項)ので、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」(2項)のです。これは単に政府の努力目標を示したものではなく、私たち一人一人に生存権を人権として保障したものです。
もともと憲法は市民の「国家からの自由」を守るために生まれました。一八世紀後半の近代市民革命以後の西欧社会において、国民の自由を守るために国家が国民生活に干渉しないように、憲法で国家に歯止めをかげたわけです。
そのおかげで自由主義経済が発展したのですが、この一九世紀の資本主義の発達は様々な弊害(へいがい)も生みました。国家から干渉(かんしよう)されず自由に生きることができる社会では、自分の生活は自分自身で面倒をみることになります。しかし、常に健康で、仕事もあり、働く能力があるわけではありません。ときに健康を害したり、介護が必要となったりすることもあるでしょう。そんなときに富の偏在(へんざい)から、自分の力だけで自立して社会に関わっていくことが困難な人たちも多くでてきました。
そこで、社会経済的弱者が人問に値する生活を実現できるように、国家が積極的に国民生活に介入して救済(きゆうさい)をはかるべきだという考えが生まれます。こうした考えに基づいて生存権などの人権(社会権)が生まれました。
世の中にはいろいろな人がいるのですから、お互いが助け合わなければなりません。自分だけよければよいという考えでは社会は成り立ちません。そこで、社会的な弱者に国が手をさしのべて、税金を利用して富の再配分をするわけです。世の中には、病気や失業など、生きていく上で個人の力ではどうにもならないことがあります。そしてそれは誰にでも起こりえます。人ごとではないと理解することが必要です。
もともと国家の役割は、一人一人が自分らしく幸せに生きられるようにすることにあります。そこで個人の私的領域にはできるだけ介入しないで個人の自由にまかせる一方で、個人が自分らしく生きていくのに困難を感じているときには、それをサポートすることが求められます。特に思想などの精神活動の領域については、国家はできるだけ介入せず、逆に経済的関係については、弱い者に手をさしのべて自立を助けることが求められます。ここを逆転させてはなりません。
そして生存権の保障を求めることを、国から施しを受けることと考えてもいけません。「金をもらっているのだから、言うことを聞け」ということになったら本末転倒(ほんまつてんとう)です。
生存権の保障は、一人一人が自分らしく自由に生きることができるように、そのための手助けを国がするだけです。福祉の代償(だいしよう)が自由であってはならないのです。あくまでも、自分の人生は自分で決めることができるのが原則であり、憲法13条の幸福追求権から導かれる自己決定権がその根底になければなりません。自分らしく生きるために福祉サービスがあるのであり、あくまでも一人一人が主体です。
しかも、憲法25条は、単に最低限度の生活を保障したのではありません。健康で文化的な生活を保障しています。つまり、トータルな人間性の向上が憲法の要請です。外国人も含めて、一人一人を個人として尊重する憲法13条の延長線上に、25条を始めとした福祉が位置づけられるのです。
その先には「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という前文の平和的生存権が続きます。戦争や貧困、飢餓、病気など人間の生存を危うくする危険から一人一人を人間として保護していくという考え方です(人間の安全保障)。日本はそうした努力をすることによって国際社会において名誉ある地位を占め、各国と信頼関係を築き、攻められない国を作る。これがもっとも現実的かつ効果的な国防のあり方であり、国際貢献であるとしているのです。つまり、憲法9条とも密接に関わってくるのです。
平和であってこそ、人間らしい生活ができるのですし、貧困から解放されて人間らしく生きることができるようになると、他者への配慮をする余裕が生まれ、平和を愛する素地が生まれてきます。平和と自由が相互補完の関係にあるのと同じく、平和と福祉もまた相互補完(そうごほかん)関係にあります。
国内において弱い立場の方々へのケアを充実させることと、日本が国際社会において貧困や伝染病の撲滅(ぼくめつ)のために軍事力によらない国際貢献(こうけん)を行うことは、同じくらい重要なことなのです。
【007】ー ■第34回
<表現の自由と国民投票>
2007年01月15日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/34.html
私たちが日々の生活の中で自由におしゃべりしたり、インターネットに書き込んだり、カラオケで好きな歌を歌ったりすることは、とても楽しいことです。何かを表現したいという気持ちは、人間の本性に基づくもっとも人間らしい欲求であり、自由の中でももっともその人らしさがあらわれる自由です。憲法はこれを表現の自由(21条)という人権として保障していますが、「その人」らしさに関わるという意味では人間の尊厳に直結する大切な権利です。
表現の自由にはもうひとつ、民主政治にとって不可欠の前提をなすという重要な意味があります。民主主義に基づく政治は、そこで生活する市民の一人一人が自由に自分の考えを表明し討論することで、政策決定を行っていくという仕組みです。そもそも民主主義は、何が正しいかわからないからこそ皆で議論し、お互いの考えをぶつけ合って最もよいものを見つけだそうとするものです。そこでお互いが自由にものを言えなければ成り立ちません。
そしてこうした意味でもっとも表現の自由が重要な意味を持つのは、憲法を改正するかどうかの議論がなされる場面です。国民が、国会の発議した改憲案に賛成するか否かを決める際に、いろいろな意見に接して慎重に自分の考えを決めていかなければなりません。仮に憲法改正の手続法を制定するのであれば、表現の自由を最大限保障したものでなければなりません。
通常の政策決定や法律制定の際に、仮に、十分な議論がなされず、少数派の意見も聞かずに、多数派の人たちが理不尽な法律を作ってしまったとしても、つまり不当な法律が出来てしまったとしても、裁判所がその法律に対して違憲判決を下して少数者を救済することが可能です。これを裁判所の違憲審査権といいます(憲法81条)。裁判所としては、表現の自由が不当に侵害されているおそれのある場合には、厳格に審査して、表現の自由をしっかりと守ることができます。表現の自由は他の自由よりも、いろいろな口実をつけて不当な制限を受けやすいので、裁判所としても特に慎重に判断する必要があるからです。
ところが仮に、憲法改正の際に少数派の意見を十分に聞かず、憲法が少数者の人権を侵害するようなとんでもない内容に改悪されてしまったときには、その少数者を救済する手段はありません。裁判所にも改憲を無効にする権限など与えられていないのです。つまり、ひとたび少数者への配慮を欠く改憲が行われたときの事の重大さは、少数者を無視する法律が制定された場合とは格段に違うのです。
ですから憲法改正において、そうした不幸なことが起こらないようにするために、国民投票の前に、国民の一人一人が自分とは違う立場の人の意見もよく聞いて、しっかりと考える機会を保障されることが不可欠なのです。仮に憲法改正がなされたら自分の生活がどのように変わるだろうかと想像力を働かせながら、自分のこととして考えることができなければなりません。たとえば自衛隊が自衛軍になると、その結果いつでも徴兵制が可能となり自分も軍隊に行かなければならなくなるということを知っておかないと、この点についての正しい判断ができないでしょう。
こうした想像力を働かせるきっかけとなるような十分な議論が自由に行われて初めて、国民は正しい判断ができるのです。ですから、公務員、教育者、外国人などさまざまな立場の人が自由に発言できるように表現の自由を最大限保障しなければなりません。憲法改正運動だからといって、あえて制限することはもちろん、国家公務員法による公務員の政治的行為に対する規制も撤廃するべきです。
現在は一般職の公務員は、政治的中立性の要請から政治的行為を禁じられていますが、そもそもこれは不当な人権侵害です。公務員が一市民として職務と無関係に行う政治活動を規制する理由はどこにもありません。ましてや憲法改正国民投票運動という重要な場面においてこれを規制することは、なおさら許されることではありません。
また、ときに表現の自由は、本来の目的とは異なる名目で規制されることがあります。交通の妨げになるからと街頭演説やデモ行進を制限したり、住民の平穏を害するといってビラ配布を住居侵入罪で処罰したりします。本当は、権力にとって都合の悪い表現行為を抑圧することが目的なのに、もっともらしい理由をつけて表現の自由を制限するのです。国民投票の際にこうした規制が行われてはなりません。私たちは普段からこうした不当な人権侵害が行われないようにしっかりと監視していく必要があります。それが市民としての責任です。
【007】ー ■第35回
<住基ネットはなぜ危険なのか>
2007年02月19日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/35.html
誰がどこに住んでいるのかなどを行政が把握するために住民基本台帳が整備されています。この台帳に記載される項目のうち、氏名・住所・生年月日・性別とその変更情報、そして住民票コードと呼ばれる11桁の番号がコンピュータで管理されるシステムが2003年8月から稼動しています。これを住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)といいます。これらの個人情報が地方自治情報センターというところに保存され、全国の自治体や行政機関がこの情報を利用できるので、個人のプライバシー権が侵害されるのではないかという点が問題になっています。
この住基ネットに関して、2006年11月30日に大阪高裁で違憲判決が出ました。高等裁判所レベルでの初めての違憲判決です。しかし、その直後の12月11日には、名古屋高裁金沢支部で合憲判決が出ました。これは2005年円5月30日に金沢地裁で出た違憲判決を覆したものです。このように裁判所でも判断が分かれていますが、今回はこの問題を考えてみたいと思います。
まず、住民の情報プライバシー権が憲法上の人権として保障されることは、どの判例も認めています。プライバシー権を明記した条文は憲法にありませんが、個人の尊重や幸福追求権を保障した憲法13条によって憲法上も保障されていると考えられています。しかもその内容も、単に私生活を公開されない権利としてではなく、自己に関する情報をコントロールする権利として保障されています。
今日のIT社会においては、コンピュータのネットワーク上で、個人情報を瞬時に複製、伝達できてしまいますから、一度漏えいすると短期間で情報が拡散してしまいます。そして、拡散した情報が他者によって悪用されれば私生活の平穏が脅かされます。そこで、こうした状況下で私生活の平穏を守るには、個人情報を自らコントロールする権利を人権として保障する必要があるのです。
住基ネットで管理される個人情報も、個人の犯罪歴や病歴などの情報とは違って単に個人を識別するための情報にすぎないので、それほど秘密にする必要性は高くないと考える人もいるかもしれません。しかし、秘密にする必要性は人によってさまざまなはずです。そして住民票コードという番号の羅列にすぎない情報でも、これをもとにデータベースが作られたときには、さまざまな情報を検索し名寄せするためのマスターキーとして重要な意味を持ちます。こうした個人情報は、憲法上保障されるプライバシー権の重要な内容となるのです。
もちろん、プライバシー権であっても公共の福祉のために制限を受けることはあります。個人情報が不当に利用されないようにセキュリティが十分であり、正当な目的のための必要最小限の制限であれば許されると考えられます。
しかし住基ネットはシステムの悪用を防ぐセキュリティが十分だとはいえません。個人情報を利用する国の事務が270種を超えて拡大し続けており、行政機関が持っている膨大な個人情報がデータマッチングされ、住民票コードをマスターキーのように使って名寄せされる危険性が飛躍的に高まっています。住基ネットの強制を違憲とする判例も、目的外利用は法律で禁止されているものの罰則が定められておらず、中立的な第三者の監視システムもないことなどから、その実効性は疑わしいと指摘しています。
これが行政によってひとたび悪用されれば、住民票コードを利用して、住民個々人の多面的な情報が瞬時に集められ、比喩的にいえば、住民個々人が行政機関の前で丸裸にされてしまう恐れがあります。公立病院で受信した病歴や公立図書館で借りた本、納税額などありとあらゆる情報が瞬時に見られてしまいます。
個人情報がすべて政府に把握されてしまうということは、国家と個人が支配・従属の関係になることを意味します。国家が国民を支配し管理するための手段としてこれほど有効なものはないのです。個人の尊重(憲法13条)という憲法の基本理念の下では、あくまでも個人のための国家であり、けっして国家のための個人ではないはずです。
住基ネットはプライバシー権侵害という人権の問題ですが、それを越えて、国家と個人の関係を変えてしまう危険を持っていることを忘れてはなりません。この住基ネットや教育基本法の改悪、共謀罪など、国家が国民を管理し支配する仕組みが着々と整いつつあります。その先にあるものが何なのかをしっかりと見極め、そうした流れに取り込まれないように日々、自立した個人として生きる努力を怠ってはなりません。
【007】ー ■第36回
<違法でなければそれでいいのか>
2007年03月12日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/36.html
私たちのまわりには数多くの法律があります。当然、それらを守らなければなりません。しかし法律に違反しなければそれでいいというわけではありません。法律にはそれぞれが出来た理由(立法趣旨)がありますから、その理由に照らして許されるかどうかを考えることも重要です。
最近、コンプライアンス(法令遵守)という言葉をよく聞きます。法律に従っていればいいように聞こえますが、民間企業ではそうはいきません。たとえば食品会社が賞味期限切れの材料を使ってケーキを作っていた場合、たとえそれ自体が何かの法律に違反して処罰されるわけではなくても大問題となりますし、テレビ局が健康番組を作成する際にねつ造したデータを使えば、そのこと自体は犯罪にならなくても、国民やマスコミはとても敏感に反応します。
結局、製品を流通できなくなったり、番組がうち切られたりするなど、その企業は重い社会的制裁を受けます。法令遵守は最低限の要請にすぎず、企業はそれ以上の社会的責任を果たすことが求められているのです。
公務員の仕事はどうでしょうか。官制談合などの明確な法令違反は言語道断ですが、それ以外にも、たとえば何人かの政治家が無料の議員会館を事務所として使っておきながら数千万円を事務所経費として報告していたことが発覚しました。ある閣僚は「法律には違反していない」と強調していました。法律上は確かに領収書がいらない経費として計上できるのですが、いかにもおかしな話です。政治資金規正法は、政治活動の公明と公正を確保するために、政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるように政治資金の収支の公開を求めています(一条)。この法律の目的からすると、しっかりと国民に説明をしなければ、社会的責任、政治的責任を果たしたことにはなりません。
では、警察官や検察官、裁判官といった司法手続きに関わる公務員はどうでしょうか。ある人が実刑判決を受けて服役したあとに真犯人が現れて、実は無実だったことがわかったという報道がありました。足跡や電話記録といった客観的証拠を無視し、自白に頼ってしまったことが原因のようです。こうしたえん罪事件が起こると警察は「再発防止に努めたい」というのですが、誰も責任を取りまぜん。
周防正行監督の『それでもボクはやってない』という痴漢えん罪をテーマにした映画や、『お父さんはやってない』(矢田部孝司+あつ子著、太田出版)という本には事実が克明に記録されていて、日本の刑事手続きの実態や捜査機関の思いこみの恐ろしさがよくわかります。
民間企業であれば、不祥事が起こったときに、たとえ法律違反でなかったとしてもマスコミが大きく報道し責任を追及します。企業も原因を究明して再発防止策を発表します。これはコンプライアンスの基本です。ですが、なぜか司法手続きのミスについては原因究明や再発防止のための制度改革が議論されることはありません。そもそも、えん罪事件についての公の調査が行われたこともないのです。
司法手続きにおけるミスは最大の人権侵害を招きます。企業の不祥事によって人命が失われることがありますが、死刑がある日本では、司法判断のミスは国家による殺人につながります。企業の不祥事以上に、その原因究明と再発防止を追及しなければならないはずです。なのに、国家の過ちにはなぜこうも甘いのでしょうか。
先月、戦時中の大規模な言論弾圧事件である「横浜事件」で治安維持法違反罪による有罪が確定した元被告の方々(故人)に対する再審の控訴審判決が出ました。一審では無罪の判決を出さずに免訴という訴訟打ち切り判決をしたのですが、これに対しては控訴することはできないという極めて形式的な判断でした。
この事件は、警察による拷問や、司法が不当な判決に加担したあげくに裁判記録まで焼却してしまったという司法の汚点が問題となっています。裁判所はそれを自ら明らかにして反省し、国民の信頼を得るチャンスであったのに、その機会を自ら潰してしまいました。無実の者を救済するという再審制度の趣旨に反しているだけでなく、国民の司法に対する信頼にあまりに無頓着な態度は許せません。
このように見てくると、最も国民の要請に応えなければならない国家権力が、まったく国民の要請に応えていないことがわかります。単に違法ではないというだけでは、その責任を果たしているとはいえないはずです。企業の責任を厳しく追及することも必要ですが、それ以上に国家権力を追及する姿勢や視点を持つことが民主主義の基本であることを忘れてはなりません。
【007】ー ■第37回
<環境問題>
2007年4月16日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/37.html
一見無関係に思えるコンプライアンス(法令遵守)と地球温暖化問題に共通するキーワードがあります。それは他者への共感です。そもそも憲法が保障するさまざまな人権は他者への共感が基本にあります。弱者への共感、少数派への共感、外国人への共感などです。そして民主主義も議論をする際に他者への共感がなければ、単なる多数による押しつけにすぎなくなります。こうして他者への共感を基本に憲法を読み解くことができます。
企業の不祥事を考える際に話題になるコンプライアンスも、単に法律に従えばよいという狭い意味に捉えるべきではありません。他者への共感力を持って、消費者や従業員などが何を求めているのかをしっかりと認識していくことが基本となります。
この他者の中に、自然や地球を含めて考えてみましょう。確かに草木に共感したり、動物の思いをくみ取ったりすることなど今の科学では不可能だと言われるかもしれません。しかし、すべての生命への共感力は、地球レベルでの共存を考えたときに、大いに威力を発揮すると思っています。
環境問題も議論が分かれています。圧倒的多数は、地球は温暖化している、その原因は人類によって排出される二酸化炭素である。よって、排出規制をしなければならないという論調です。他方で反対派の人たちは、これは発展途上国の経済発展を阻害する先進国のエゴで、温暖化の事実も原因についても、実は科学的な根拠は明確ではないと主張します。
さて、どう考えたらよいのでしょうか。最近の暖冬から自らの感覚として温暖化は真実ではないかと思います。ですが、他方で、天気予報などの気象予測はあてにならないという実感もあります。『不都合な真実』という本が出版されていますが、本当に真実は1つなのでしょうか。
ある科学的な事実が存在するとしても、どの事実を「真実」として取り上げ、それをどう評価するかについては価値判断が入ります。特に科学者の中でも議論が分かれるような問題についてはそうです。政治的な思惑も伴うものだからです。
世界経済の観点からみてCO2排出規制に賛成した方がいいのか、反対した方が企業として儲かるのか、それはわかりません。政治もこうした経済的な欲求に答えて動くことが多々あります。しかし、こうした経済の視点からではなく、私たちがどう生きるべきかという観点から見直してみると、やはり自然や地球という他者への共感は重要だと思うからです。
人間も地球という自然の一部です。とすると地球上の他の生命との共存を考えることが理にかなっているように思われます。実はそのことを私たちの憲法が示唆しています。
確かに憲法は、近代西欧の国家を前提にした人間中心の考えをベースに作られました。個人の尊重(憲法13条)と立憲主義です。日本国憲法もこうした人類の英知の正統派の流れを引き継いでいます。ですが、それにとどまっていません。そこに日本の英知が加わりました。前文と9条です。国家を越えた人類の平和という枠組みでものを考えているのです。前文には「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」とあります。そして、最大の環境破壊である戦争を放棄しました。これは少なくとも国家レベルでものを考えるだけでは足りない、人類のレベルで考えるという決意の現れです。私はその先に地球というレベル、つまりあらゆる地球上の生命との共存というレベルで考えていこうとする芽を感じます。「国どうしで戦争なんかしている場合じゃないよ。もっと大きな地球規模の危機、すなわち人々の本当の脅威に対して、人類として立ち向かっていかなければダメでしょ」という高い意識レベルを読みとることができます。日本は、世界の構造的暴力(飢餓、貧困、人権侵害、差別、環境破壊)をなくすために積極的な役割を果たさなければならないのです。
資源のない日本が生き残るには、物量に頼る物質的、軍事的強さではなく、智恵を生かし、理念において尊敬される国をめざすことが必要です。軍事大国でなくても、十分に国際社会で名誉ある地位を占めることはできるはずです。そして、環境問題を考えることを通じて、地球の中で人類をどのように位置づけて考えるべきかを意識してみることは大切なことだと思います。
【007】ー ■第38回
<議員定数不均衡問題>
2007年05月14日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/38.html
日本国憲法制定に際して、憲法学者の鈴木安蔵氏などの日本人が作った草案をベースにマッカーサー原案が作られました。それを国民が選んだ代表者が国会で審議し修正し議決して制定されました。便宜上明治憲法の改正という形をとりましたが、まさに国民の意思で作った憲法です。
なぜ、国民の意思で憲法を作る必要があるのでしょうか。そもそも憲法は、政治家がやってはいけないことを規定して、国の政治に歯止めをかけるための法です。つまり、憲法によって国の政治のあり方の輪郭を決めることになります。国民は憲法の制定や改正という形で、日本の政治のあり方を直接決めているわけです。国の政治のあり方を最終終的に決める権限が国民にあることを国民主権といいますが、憲法制定権や改正権が国民にあることはまさに国民主権そのものなのです。ですから、憲法改正の国民投票も国民の意思を正しく反映するものでなければなりません。
これに対して、日々の問題は国会議員や地方議員を選び、彼らにまかせるかたちで間接的に解決していきます。この議員を選ぶのが選挙です。選挙でもどういう人を選んで代表させるか、国民の意思が正しく反映されなければなりません。そのため性別、収入、学歴などによって選挙権の有無に差をつけてはいけません(普通選挙)し、一人一票が保障されます(平等選挙)。こうした選挙を通じて主権者である国民は日々の政治に影響を与えていくのです。
ただ、国民がどの程度、政治を直接コントロールできるかは、国政レベルと地方自治レベルでは違っています。憲法は、地方自治は間接民主主義を原則とするものの、直接民主主義的な意味合いをより強く持たせています。たとえば、知事や市長のような地方行政のトップは住民が直接選ぶことになっていますし、地方議会議員をリコールしたり、条例を住民が発案したり、住民投票をしたりすることも広く認められています。それに対して、国政では総理大臣という行政のトップは国会議員が選ぶことになっていますから、国民は直接口を出せません。また、国会議員は国会での演説討論表決について法的責任を取らなくてもいいことになっています(免責特権、憲法51条)。国会議員に対するリコール制は認められないと解されていますから、国会議員は選挙区の有権者に対する公約に違反したとしても、法的責任を追及されることはありません。この免責特権は国会議員が全国民の代表(43条1項)としての職責を全うすることができるように認められたものです。国会議員は自分を選んでくれた選挙区や利益団体の代表ではなく、全国民の代表だというわけです。
ですから、どの地域に住んでいる人であっても、何人の代表を国会に送り込むことができるかという点ではみな平等でなければなりません。一人一票であることは当然ですが、その一票の価値つまり、選挙結果に対する影響力もまた平等でなければならないのです。
ところが、実際には選挙区によって当選する議員一人あたりの人口が大きく異なっています。議員一人を送り出すために必要な人口が違っているのですから、一票の影響力つまり投票価値が不平等になっているのです(人口が多い方が一票の影響力が小さくなってしまいます)。これを議員定数不均衡問題といいます。参議院議員選挙の場合、人口過密地域(多くの場合都市部)の選挙区と過疎地域(多くの場合地方)の選挙区では5以上の差が開いていることもあります。最高裁は6倍を越えないと著しい不平等とはいえないと判断しているようです。一票の価値が5倍も開いていてはとても民主主義とはいえません。一人一人の政治に対する影響力は誰もが平等であって初めて民主主義は成り立ちます。民主主義は誰の意見が正しいかわからないし、誰の意見も同じ価値を持っているという前提で成り立つものだからです。
この点、地方選出の議員が減ると今以上に地方切り捨ての政治が行われる危険があると心配する人がいるかもしれません。しかしそれは、一人一票という民主主義の大原則を犠牲にして地方選出の議員を増やして解決する問題ではなく、都市部から選出された議員が全国民の代表としての役割を果たすことによって解決すべき問題なのです。
こうして国民は、選挙を通じてもこの国の政治の方向を自分たちで決めることができます。たとえば「格差社会」反対という議員の増減によってこの国のあり方がまったく異なってきます。選挙によって政治は確実に変わるのです。皆さんも選挙権を持つようになったら、自分の意思でしっかり判断してください。
【007】ー ■第39回
<力と民主主義>
2007年06月11日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/39.html
皆さんは自分の考えていることを相手にやってもらったり、わかってもらいたいときにどのようにしますか。いきなり怒鳴りつけたり殴りつけたりする人はいないと思います。まず、相手に話して説得しようとしますよね。力でねじ伏せるようなやり方はよくないと誰もが思うはずです。
ですが、理性的に話し合うのではなく、力によって訴えようとする人たちがいるようです。先月、長崎市長が銃撃されて死亡しました。平和運動も熱心になさっていたということですし、とても残念で悲しい事件でした。銃撃した人の動機はまだはっきりしていませんが、自分の思うとおりにならないことがあって恨んでいたようです。
アメリカでもバージニア工科大学で32人が死亡する惨劇がありました。報道によると犯人もいろいろな悩みを抱えていた様子がうかがわれます。ですが、自分の思うとおりにいかないからといって暴力という力に訴えることは、許されるべきことではありません。私たち人間の社会では暴力ではなく話し合いなどの理性によって解決する社会をめざそうとしているからです。それが民主主義社会です。
自分と意見の違う人から暴力を受ける恐れがあると感じると、怖くて違う意見を言えなくなります。安心して批判することもできなくなります。みんなが黙っていようと思ってしまったら、多様な意見が出てこなくなり、民主主義が成り立たなくなります。民主主義はそもそもどのような結論が正しいかわからないからこそ、誰の意見も平等に価値があり、それをみんなで聞いてから判断しようとするものです。自由にものが言えなくなったらそれは民主主義ではありません。
国際社会においても、相手の国が言うことをきかないからといって、軍事力をちらつかせて服従させることなどは民主主義国家のするべきことではありません。力に訴えるのではなく、あくまでもねばり強く説得を続けるべきなのです。もちろん日本国憲法も9条で武力による威嚇を許していません。外国と意見の食い違いが生じたときも、軍事力や武力に訴えるのではなく平和的な外交手段で解決していくことを根本理念としています。
こうして銃で撃ったり、軍隊の力に訴えたりすることが民主主義にとってよくないことだということはわかってもらえるかと思います。ですが、国会の中で十分な審議をしていないにもかかわらず、多数決を強行して法律などを決めてしまうことも力に訴える解決方法という点では暴力と何も変わらないのです。つまり、暴力で相手を威嚇して何も言えなくするのと、まだ意見を言いたいのに強行採決をして意見を封じてしまうのとでは、実は力によって相手をねじ伏せようとする点でまったく同じ態度だと言えるのです。暴力という力と多数の力はときに同じように民主主義を危うくします。
自由な討論を十分に行ない、それぞれの意見のメリット、ディメリットをしっかりと議論の中で明らかにしたうえで最後は多数決で決めるのが正しい方法です。多数決はお互いが納得するだけの十分な審議討論を経た上であるからこそ正当性を持つわけです。少数派の人たちが、自分たちが意見を言っても無駄だ、聞いてもらえないし、どうせ強行採決されてしまうのだからと諦めてしまうようになったら民主主義は成り立ちません。
議会での審議内容が十分に国民に伝わって、国民が次の選挙のときには、少数意見の方を支持しようと考えて選挙結果が変わるかもしれません。そうやって、現在の少数派が将来の多数派になる可能性を秘めているところが民主主義の特長です。多数の力に任せて強行採決をし、少数派が十分納得するだけの審議をしたといえない状況のときに力で押し通すのは、理性によって物事を解決しようとする姿勢ではありません。暴力反対であるのならば、多数の横暴も、資金力など経済力による横暴も、そしてもちろん軍事力という力によって紛争解決しようとする姿勢も止めるべきです。そうでなければ、暴力を憎むという言葉がそらぞらしく聞こえてしまいます。何事も強引な力によって解決する姿勢を憎むところに真の民主主義の理念があるのです。
国際紛争は、軍事力ではなく外交で解決するべきです。市民の間の紛争は暴力ではなく、裁判などで解決するべきです。そして、政治的意見の違いは、十分な話し合いをもとに解決していくべきなのです。それが、強い力をもった為政者や特定グループが理不尽なことをしないように歯止めをかけ、少数派を守る役割を持って生まれた憲法の理念に合致する態度だと思います。
【007】ー ■第40回
<明確性の理論>
2007年07月16日
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/40.html
高速道路には速度制限があります。時速100㎞を越えてはいけないというように明確にスピードの上限が決まっています。もし、このような制限でなくて「スピードを出しすぎてはいけない」というような規制であったとしたらどうでしょうか。ドライバーは安心して運転できないでしょう。人によってスピードの感覚が違いますから、「出し過ぎてはいけない」と言われてもいったいどのくらいのスピードなのかわからないからです、
どのくらいのスピードを出してはいけないのかが明確にわからないと、私たちは捕まってはいけないと思って、スピードを下げます。本当は100㎞までは許されていたとしても、もっと低いスピードで走ってしまうかもしれません。つまり、萎縮して本来許されている行動をとれない危険性があるのです。私たちの行動を規制する法律は明確でないと私たちは自由に行動できません。特にスピード違反のように犯罪として刑罰を科す際には、予めその犯罪成立要件を明確にしておかなければなりません(罪刑法定主義)。
そして基準が明確でないと取り締まる側の都合でその都度、「これはスピードの出し過ぎだ」と勝手に決めつけて取り締まることができます。取締りが不明確な基準で行われることは、権力の濫用を招いてしまいます。
そこで憲法は刑事手続きの適正を保障して、こうした刑罰を科す際の要件、つまり犯罪の成立要件を明確に規定することを要求しました。憲法31条に明確に書かれているわけではありませんが、この条文の解釈によって、刑罰を科す際の要件は明確でなければならないと解されています。
国民がいつ捕まるかびくびくしている社会は健全ではありません。自分の行動が犯罪にあたるかどうか明確にわかることは自由で民主的な社会であるための最低限の条件です。判例は、ある刑罰法規があいまい不明確ゆえに憲法31条に違反するかどうかは「通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによってこれを決定すべきである。」としています(徳島市公安条例事件判決)。
そしてたとえ罰則が伴っていなくても表現の自由を制限する際には、その規制基準が明確でなければなりません。刑事罰がなくても懲戒処分がなされる危険性があれば、それを怖れて自己抑制してしまい、本来許されている表現が結果的には規制されてしまうからです。表現の自由という人権は人間の精神活動の領域に関する人権の中でもとりわけ重要であり、最も権力によって傷つけられやすいため、その制限は慎重でなければなりません。権力者は自分が気に入らない言論活動を、もっともらしい口実をつけて規制しがちです。
さて、先月(編集部注:2007年5月)国民投票法が成立しました。憲法改正の手続を定める法律でとても重要なものです。そこには国民投票運動という表現行為を規制する条項がいくつか含まれてしまいました。公務員および教育者がその地位を利用して行う運動の禁止や、組織により多数の人に投票の勧誘をして買収する行為を犯罪とすることなどが盛り込まれています。しかし、どのような行為がここで禁止されている地位利用行為などにあたるのかはっきりしません。たとえば、公立小学校の先生が、定期的に発行している学級通信に「近々国民投票が行われますが、私は今の憲法が大切だと思います。」と書いたら、それは禁止されている地位利用による運動となってしまうのでしょうか。公務員ですから今の憲法を尊重することはむしろ義務です(99条)。地位利用ということの不明確性とともにこうした義務との関わりも十分に議論されたとは思えません。
このように不明確ではないかとの批判が出たため、この法案の審議をした参議院においては附帯決議で「禁止される行為と許容される行為を明確化するなどその基準と表現を検討すること」、「罰則について構成要件の明確化を図るなどの観点から検討を加え」ることを求めています。これはこの法律の文言自体が不明確なことを自ら認めているようなものです。
こうしたあいまいな文言による規制で国民投票運動という国民にとって極めて重要な表現活動が規制されてはなりません。もっと十分な時間をかけて法律の審理をするべきだったと思います。私たちはこの法律が適用されるときに、過度に規制されないか、表現の自由が不当に侵害されないかしっかりと監視していかなければなりません。