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折々の記 2016 ②
【心に浮かぶよしなしごと】

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【 04 】02/29~     【 05 】03/04~     【 06 】03/05~
【 07 】03/07~     【 08 】03/09~     【 09 】03/10~

【 02 】02/23

  02 23 憲法学者の考え【その七】   安倍政権の舵とり
       【001】 法学館憲法研究所
       【007】 「中高生のための憲法教室」一覧表
          【007】 ■第41回<被害者参加制度>
          【007】 ■第42回<戦後レジームからの脱却>
          【007】 ■第43回<外国人の人権>
          【007】 ■第44回<裁判員制度>
          【007】 ■第45回<日本の国際貢献>
          【007】 ■第46回<米軍再編と地方自治>
          【007】 ■第47回<貧困と憲法>
          【007】 ■第48回<憲法の力>

 02 24 (水) 憲法学者の考え     安倍政権の舵とり

第2次安倍内閣 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%86%85%E9%96%A3)、 や第1次安倍内閣、第3次安倍内閣でもいいが、安倍内閣の概要を知るのに好材料が整理されている。

安倍氏は今までにないアメリカ従属の政治を勝手に国益と称して進めてきた。 いまやUSAは戦争扇動国家として多くの識者から批判され、国内でも影を落としている。

あらぬことか、報道によれば9.11事件すらUSAの陰謀と囁かれ、それが暴かれさえしてきている。 国連を無視したイラクの軍事侵攻も、アフガン侵攻も陰謀と言われ、ビンラデンへの執拗なまでの追撃は、ISの無法反撃という火をつけてしまった。

軍産の暗黒モンスター(死の商人)の謀略の顛末としか言いようがない。

暗黒モンスターに操られているアメリカ行政に、あろうことか安倍氏は尻尾を振ることにしている。

日本の明るい未来のシンボルである戦争放棄の憲法が危機に瀕している !!!




【001】

法学館憲法研究所の内容は次の通りです。

   【001】法学館憲法研究所 http://www.jicl.jp/index.html
   【002】「今週の一言」 http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber.html
   【003】「浦部法穂の憲法時評」http://www.jicl.jp/urabe/index.html
   【004】「浦部法穂の『大人のための憲法理論入門』」http://www.jicl.jp/urabe/otona.html
   【005】「日本全国憲法MAP」http://www.jicl.jp/now/date/
   【006】「ときの話題と憲法」http://www.jicl.jp/now/jiji/
   【007】「中高生のための憲法教室」http://www.jicl.jp/chuukou/chukou.html

これらをテーマごとに分類・カテゴライズしました。 有益な情報が多数あります。 ご活用ください。



【007】

「中高生のための憲法教室」一覧表
      伊藤所長(伊藤塾塾長)が「世界」(岩波書店)に連載したものをご紹介します。
      http://www.jicl.jp/chuukou/chukou.html

  実施回数と内容  執筆年月日
 ■第48回<憲法の力> 2008年03月17日
 ■第47回<貧困と憲法> 2008年02月18日
 ■第46回<米軍再編と地方自治> 2008年01月14日
 ■第45回<日本の国際貢献> 2007年12月17日
 ■第44回<裁判員制度> 2007年11月12日
 ■第43回<外国人の人権> 2007年10月15日
 ■第42回<戦後レジームからの脱却> 2007年09月10日
 ■第41回<被害者参加制度> 2007年08月13日
 ■第40回<明確性の理論> 2007年07月16日
 ■第39回<力と民主主義> 2007年06月11日
 ■第38回<議員定数不均衡問題> 2007年05月14日
 ■第37回<環境問題> 2007年4月16日
 ■第36回<違法でなければそれでいいのか> 2007年03月12日
 ■第35回<住基ネットはなぜ危険なのか> 2007年02月19日
 ■第34回<表現の自由と国民投票> 2007年01月15日
 ■第33回<平和と福祉の強いつながり> 2006年12月18日
 ■第32回<安倍「改憲」で「美しい国」に?> 2006年11月13日
 ■第31回<憲法から考える自民党総裁選挙> 2006年10月16日
 ■第30回<「敵基地攻撃論」と暴力の連鎖> 2006年09月11日
 ■第29回<被害者の人権と被告人の人権> 2006年08月14日
 ■第28回<犯罪の相談だけで処罰される!?> 2006年07月17日
 ■第27回<学校で強制される「愛」?> 2006年06月12日
 ■第26回<「国民投票法」を考える> 2006年05月15日
 ■第25回<黙秘権は何のために?> 2006年04月17日
 ■第24回<女性天皇の是非も私たちが決める> 2006年03月13日
 ■第23回<ビラ配りは犯罪か?> 2006年02月13日
 ■第22回<平時になんで新憲法?> 2006年01月09日
 ■第21回<首相の靖国参拝と裁判所の役割> 2005年12月12日
 ■第20回<「よくわからないけど小泉さんが好き」?> 2005年11月14日
 ■第19回<私たちはなぜ選挙に行くのか> 2005年10月17日
 ■第18回<教科書を選ぶとはどういうことか> 2005年09月15日
 ■第17回<「教科書検定」を憲法からみると> 2005年08月15日
 ■第16回<あなたも私も納税者> 2005年07月14日
 ■第15回<憲法は押しつけられたか?> 2005年06月13日
 ■第14回<教育は何のために?> 2005年05月16日
 ■第13回<嫌いなのは自由、歌うのは義務?> 2005年04月11日
 ■第12回<「表現の自由」はなぜ大事?> 2005年03月14日
 ■第11回<「普通の国」と「日本の独自性」> 2005年02月21日
 ■第10回<公務員の人権が制限されるワケ> 2005年01月17日
 ■第9回<「公共の福祉」ってなんだろう?> 2004年12月13日
 ■第8回<プロ野球選手がストしていいの?> 2004年11月15日
 ■第7回<オリンピックは誰のため?> 2004年10月18日
 ■第6回<黙っていたら人権はない> 2004年09月13日
 ■第5回<攻められたらどうするの?> 2004年08月09日
 ■第4回<「戦争放棄」の理由> 2004年07月12日
 ■第3回<「憲法改正」を考えるヒント> 2004年07月05日
 ■第2回<守らなくてはならないのは誰?> 2004年07月05日
 ■第1回<世界に一つだけの花> 2004年07月05日




【007】ー ■第41回
<被害者参加制度>
      2007年08月13日
      http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/41.html

犯罪被害者の視線で見ると、納得できない制度が刑事裁判の手続の中にはいくつもあると指摘されることがあります。責任能力によって無罪になったり、時効によって処罰されなくなったり、被害者の救済よりも犯人の更生を考えているのではないかと思えたりする場面があるからです。ですがこれらの制度はどれも近代刑事裁判制度の発展とともに生まれてきたもので、それぞれ理由があります。刑事裁判が、単純に被害者の代わりに国が復讐する制度であるならば、もっとわかりやすかったかもしれません。

 ですが、刑事裁判は被害者の復讐心を満足させるために被害者と加害者が対決する場ではありません。そこに被告人として登場している人が真犯人つまり加害者かどうかわからないから裁判があるのです。被告人が否認している場合はもちろん、仮に自白している場合であっても、真犯人かどうか慎重に調べなければなりません。

 実は、刑事事件の法廷はそもそも加害者が誰かを見つけ出す場ですらないともいえます。裁判所は検察官が起訴してきた事実があるかないかを証拠によって判断するだけです。裁判官が確信をもてば有罪、少しでも疑わしければ無罪です。裁判はそれで終わりです。積極的に真犯人つまり加害者を見つけるのは法廷における裁判官の仕事ではありません。あくまでも検察官が起訴した事実について受け身で判断するだけなのです。

 そして刑事裁判では無罪の推定という基本原則が働きますが、これもわかりにくいかもしれません。たとえば、10人の凶悪犯人が捕まって裁判になったとします。9人は真犯人ですが、1人だけ無実の人が紛れ込んでしまいました。でも誰が無実かわかりません。さあ、あなたが裁判官ならどうしますか。全員有罪か全員無罪か、究極の選択です。全員有罪にすれば、社会の治安は維持されるかもしれませんが、1人の無実の市民が犠牲になります。憲法は国家や社会のために個人を犠牲にしてはいけないとして「個人の尊重」を憲法の根本に置きました(13条)。ですから、この場合には全員無罪として釈放しなければなりません。これを無罪の推定といいます。

 裁判は人間が行います。どうしても間違いが起こります。そのときに、真犯人を取り逃がす聞違いと、無実の人が処罰されてしまう間違いとどちらの方がより許容できるかという選択の問題です。文明国家では後者があってはならないとして無罪の推定原則が生まれたのです。

 この裁判も重大な人権侵害を伴う権力の行使ですから、裁判官の独善が許されてはなりません。国民がしっかりと監視し、国民の信頼に耐えられるような裁判である必要があります。そのために、裁判は公開され(82条)、弾劾裁判所(64条)や最高裁判所裁判官の国民審査(79条2項)といった制度も憲法上定められています。そこにさらに、国民が裁判に参加し、権力を監視するべきだとして生まれたのが2009年から実施される裁判員制度です。

 そもそも監視する側の国民が無罪の推定を理解していなければ、この制度の意味がありません。裁判中にもかかわらず、被告人を凶悪犯人と決めつけて攻撃したり、その弁護士をテレビで評論家が批判したりするようでは国民による裁判の監視ではなく、リンチになってしまいます。被害者の立場でものを考えることはとても大切なことですが、裁判の場面では冷静に理屈で考えないと判断を誤ります。

 先月、刑事裁判に被害者が参加する制度が創設されました。国家と被告人の対立というこれまでの刑事裁判の仕組みの中に、被害者と加害者の対立が持ち込まれ、刑事裁判が一層わかりにくくなってしまいました。このような状態で裁判員制度を導入することは極めて危険です。もちろん、無罪の推定など捨て去って、被害者が検察官と一緒になって加害者を懲らしめ、復讐心を満足させる場が刑事裁判だと割り切ってしまえば話は簡単です。ですが、それは憲法が許しません。あくまでも無罪の推定は憲法の要請です。

 加害者を処罰してほしいという被害者の気持ちは真犯人に向けられているはずです。真犯人かどうかわからない法廷の被告人に対してその怒りをぶつけてもそれは筋違いです。一般市民である裁判員はこの被害者の思いを感情ではなく、理性と知性によってうまく自分の中で整理しなければなりません。その力量をもっていないと、国家による最大の人権侵害の加害者になる危険があります。犯罪被害者の救済と刑事裁判の役割を区別できる国が真の民主主義国家であることをしっかりと理解しておいてください。



【007】ー ■第42回
<戦後レジームからの脱却>
      2007年09月10日
      http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/42.html

 安倍首相は総理大臣に就任して以来、「戦後レジームからの脱却」が必要だとして改憲を主張してきました。今月はこの意味を考えてみましょう。まず、戦後レジーム(戦後体制)とはどういうことなのか、第二次世界大戦に負けて60年前に現在の憲法が施行される前後、つまり明治憲法下の戦前と戦後を比べながら明らかにしてみましょう。

 戦前は、1874年の台湾出兵に始まり、71年間もアジアに向かって軍事侵攻し戦争をし続けた国でした。戦後は新憲法の下で、「再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」た上で、9条2項によって戦力を持たず、一切の戦争を放棄しました。その結果、60年間直接的な戦争をしない国でい続けることができました。

 戦前は、国のために犠牲になることはすばらしいことだと教育するために、国家が教育内容を決めて介入してきた国でした。戦後は、教育基本法を作り、教育は不当な支配に服することがないようにし、教育行政も条件整備に限定しました(旧教育基本法10条)。

 戦前は、戦死という悲しい出来事を、国のために戦って死ぬことは名誉あるすばらしいことだと讃えるために靖国神社という仕組みを作り、宗教を戦争に利用した国でした。戦後は、政治は宗教に関わってはならないという政教分離原則を採用しました(20条3項)。

 戦前は、思想良心の自由は保障されず、君が代や日の丸を通じて、天皇崇拝や軍国主義思想が強制されました。表現の自由も法律によって自由に制限できる国でした。戦後はこれらの人権を憲法で保障し(19条、21条)、国会が作った法律でも不当に人権を侵害できない国になりました。

 戦前は、都道府県は政府の出先機関のような役割を果たすだけでしたが、戦後は、地方自治を憲法で保障し、政府が地方自治の本質を侵すことができないとしました(92条)。

 戦前は、障害者、女性、子どもを戦争に役立たないとして差別した国でしたが、戦後は、差別のない国をめざしてきました(14条)。

 戦前は、華族・財閥・大地主のいる一方で貧困に喘ぐ人々も大勢いた格差のある国でしたが、戦後は、貴族制度を禁止するとともに(14条2項)、財閥を解体したりする一方で、すべての国民の生存権を保障し(25条)、格差の是正をめざす国となりました。

 そして何よりも、戦前は、天皇が主権者であり、その国家のために個人が犠牲になることがすばらしいという価値観の国でしたが、戦後は、主権者は一人一人の国民となり(1条)、その個人の幸せに奉仕するために国家があるのだという個人を尊重する国になりました(13条)。

 国民は60年前に憲法を制定して、こうした戦前の旧体制に決別して新しい国になることを決意したのです。これが戦後レジーム(戦後体制)です。この新憲法下の戦後体制のもとで、国民は、一人一人を大切にする新しい時代の日本に生まれ変わろうと努力してきました。戦前のように教育に国家が介入したり、宗教を利用しようとしてきたら、憲法がそのような国家の行為を禁止し、これを止めてきました。政府が海外で軍事力を行使しようとするときに、憲法がそれをくい止めてきました。憲法は国家権力を縛って、私たちの権利・自由を守り、平和を守ってきたのです。

 この戦後レジームから脱却するということは、これらの価値を否定して、つまり、60年前に戻ることを意味します。

 安倍総理はまず教育基本法を改正して、教育の目的を「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた国民の育成」(新教育基本法1条)としました。つまり国を支えるのに相応しい国民の育成を教育の目的とし、国家のための教育としました。その結果、国を愛する態度が教育の目標として掲げられ(2条)、靖国神社を参拝して宗教との関係を復活させようとします。また、有事立法の下では地方分権も名ばかりです。女性蔑視発言をする閣僚を抱え、女性差別をなくすための民法改正に消極的です。医療制度改悪、障害者自立支援法という名の弱者切り捨てを強行し、アメリカ流の極端な自由競争の結果、所得格差、教育格差、情報格差が広がっています。そして何よりも、個人よりも国家の価値を大切にすることを国民に押しつけようとしています。これが戦後レジームからの脱却の意味であり、その集大成が「戦争ができる国」にするための憲法改正です。

 ですが、戦後の日本が歩んできたこの憲法の体制を維持し発展させるか、それとも大きく変えて昔に戻すかを決定するのは、あくまでも主権者たる国民であることを忘れてはなりません。



【007】ー ■第43回
<外国人の人権>
      2007年10月15日
      http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/43.html

9月1日は1923年に起きた関東大震災に因んで防災の日とされます。この震災は多くの被害をもたらしましたが、同時に数千人が「朝鮮人」というだけで虐殺されるきっかけとなりました。韓国併合(1910年)以来、日本は朝鮮半島を占領し植民地としていましたが、多くの朝鮮人が生きるために日本に来ざるを得なくなり、労働力として酷使されていきました。

そうした中で関東大震災に直面した人々は噂やデマに振り回され、「朝鮮人が暴徒化した」「井戸に毒を入れ、放火して回っている」という暴言を信じてしまい、一部の市民や自警団が、治安維持の名目で多くの朝鮮人を殺傷してしまったのです。私たちは天災だけでなくこの人災の被害も忘れてはなりません。

朝鮮半島や台湾などの植民地に住んでいた人々は、大日本帝国の臣民つまり日本国民であるとされ、日本の国籍を持ち、日本国内では参政権(選挙権、被選挙権)も保障されていました。ただし、日本名や日本語の強要、天皇崇拝などの皇民化政策がとられていたため、民族の独自性や多様性は認められていませんでした。

戦後、日本が台湾、朝鮮などの旧植民地に関する主権を放棄したことにより、旧植民地の人々は日本国籍を失い、外国人として生活することを余儀なくされます。これにより今まで同様日本国内で生活しているにもかかわらず、参政権や生存権などの社会権(具体的には国民年金や国民健康保険など)も保障されなくなります。

このように戦前は、強制的に日本人とされ日本民族との同化を強要した上で参政権を認めていましたが、戦後は、強制的に日本国籍を奪い外国人として扱って参政権や社会権を認めません。日本での生活実態が何も変わらないにもかかわらず、国家の都合でこのように人権が認められたり奪われたりしているのです。これはおかしなことです。

そもそも人権とは何でしょうか。人間である、ただそのことだけで認められる権利であったはずです。とするならば、国籍は無関係であるはずです。外国人であっても人権は当然に保障されているのです。

ただ、その人権の性質から日本国民のみを対象としていると解されるものは例外的に保障されず、その典型例が参政権と社会権だといわれます。ですが、そうでしょうか。

そもそも参政権は民主主義原理から保障される人権のはずです。そして民主主義とはその国で支配される者が支配する側に廻ることができる、つまり一国の政治のあり方はそれに関心を持たざるを得ないすべての人々の意思に基づいて決定されるべきだということを意味します。とするなら、日本で生活し、日本の権力の行使を受ける者であれば、その政治に関心を持たざるを得ず、たとえ外国人であっても生活の本拠が日本にあるのであれば、選挙権が保障されるべきことはむしろ当然の要請ということになります。

この点、外国人に選挙権を認めることは国民主権に反すると言われることがありますが、そもそも国民主権というときの国民を日本国籍保持者に限定するべきではありません。むしろ民主主義原理からはそこに生活の本拠を有する市民を広く国民と考えるべきなのです。

また、生存権や労働基本権のような社会権も同様に、この国で生活している市民である以上は、社会の構成員として当然に保障されるべきです。外国人だからといって、生活保護を受けられなかったり、適切な医療が受けられなかったりするべきではありませんし、低賃金労働力として酷使されても何も言えないというような不合理がまかり通ってよいわけがありません。

そもそも国家が何のためにあるのか、国家や国籍にこだわる必要がどこまであるのか、人権を考えるときには、常にこうした原点に立ち戻って考える必要があります。

日本で生活する外国人登録者数は2005年に200万人を突破してその後も増え続けています。他にも不法滞在の外国人も相当数いますから、日本で生活する人のうち100人中2人弱は外国人です。また、外国人との結婚も17件に1件の割合に及びます。

民族や文化、風習などの違いを認め、多様性を受け入れながらも、同じ人間としてお互いに尊重し合う、そうした成熟した人間同士の関係を、憲法は個人の尊重(13条)として保障しています。今なお、外国人を排斥しようとする差別意識が一部に根強い日本だからこそ、84年前の事件の教訓を大いに生かさなければならないと考えます。



【007】ー ■第44回
<裁判員制度>
      2007年11月12日
      http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/44.html

裁判員制度が始まろうとしています。皆さんも将来、裁判員に選ばれるかもしれません。裁判員制度とは、市民が裁判員として刑事裁判に参加し、裁判官といっしょに、被告人が有罪か無罪か(事実認定)、そして有罪ならば刑の種類と重さ(量刑)を決める制度です。市民が裁判に参加する制度としては、事件ごとに選ばれた市民が事実認定をする陪審制(アメリカ、イギリスなど)と、市民から選ばれた参審員が職業裁判官と議論しながら、事実認定と量刑も判定する参審制(フランス・ドイツなど)があります。

日本の裁判員制度は、陪審制と違って、裁判員が、事実認定だけでなく、量刑の判断も行います。また、裁判員が事件ごとに無作為に選任されます。日本でも、過去に陪審制で裁判が行われましたが、あまり利用されず、太平洋戦争中に停止され、現在に至っています。

多くの民主主義の国々は、市民が裁判に参加する制度を持っています。それは裁判に市民が参加することは、権力を監視し、民主主義を支える働きをするからです。立法権、行政権に市民が参加するだけでなく、司法権という国家権力にも市民が参加するのが民主主義の本来の姿だと考えるわけです。ですが、日本の裁判員制度にはさまざまな憲法上の問題があります。

憲法32条は「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪われない」と定め、37条1項では被告人に「公平な裁判所」の裁判を受ける権利を保障しています。では被告人に裁判員の裁判を強制することはこれらに反しないのでしょうか。

裁判が公平で適正なものであるためには、裁判官が政治的な圧力を受けたり、間違った情報に左右されたりしないようにしなければなりません。憲法は、司法権の独立を保障し、裁判官は憲法及び法律にのみ拘束されるとします(76条3項)。職業裁判官は安易に国民の多数意見に流されず、証拠に基づいて裁判をする訓練を積んできていると言われますが、裁判員はどうでしょうか。この点のしっかりした保障がなければ、刑事裁判が「人民裁判」になってしまう危険があります。特に犯罪の被害者に幅広い訴訟活動が認められるようになると、素人である裁判員が感情的な被害者の様子に触れても冷静に証拠に基づいて裁判ができるか不安が残ります。裁判員は、客観的な証拠と被害者の主張とをしっかり区別しなければ、公平な裁判所の裁判を受ける権利(37条1項)のみならず、無罪推定の原則(憲法31条)にすら反してしまいます。

裁判員は、有権者から抽選を経て無作為に選ばれます。法律に定める場合以外は辞退できません。では思想・信条を理由として辞退できるでしょうか。憲法は思想良心の自由を保障し(19条)、18条では、「犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」とします。苦役とは、その人の意思に反して強制される労役という意味です。自分の意思とは無関係に裁判員に選ばれ、考えたくもない殺人現場を想像することを強いられたりします。死刑か否かの判断をせざるを得ない状況に置かれるかもしれません。これらの強制は憲法18条に違反する疑いが強く、また、真摯な内心的理由から裁判員になることを拒んでいる人にそれを強制することは、思想良心の自由を侵害する可能性もあります。そもそも裁判員制度は、市民が自発的に裁判に参加することに意味があるのであり、いやいや参加するような市民による裁判では、被告人の裁判を受ける権利を侵害するともいえるでしょう。

裁判長は、裁判員の選任に際して、候補者に質問をしますが、ここで何を問うかによって、裁判の結果が全く変わってくる可能性があります。裁判長が候補者に「警察官の捜査等にどれだけ信用性をおいていますか」と質問し、候補者が、「あまり信用していません」と答えたことで、その候補者を排除するのでは、結局、裁判員は「警察を疑わない従順な市民」ばかりになってしまいます。

裁判員が適切な証拠に基づいて判断できるようにするためには、捜査段階の取調状況の可視化(ビデオ録画などによる検証可能性)を徹底させ、検察官が持っている証拠はすべて弁護側に開示させるなどの、誤判防止のための手当を十分しておかなければなりません。さもなければ、死刑が存置されている日本では、市民が権力による殺人に加担させられることになってしまいます。死刑制度、被害者参加、そして裁判員制度が重なったときの憲法上の問題をもっと真剣に考えるべきではないでしょうか。



【007】ー ■第45回
<日本の国際貢献>
      2007年12月17日
      http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/45.html

今回は憲法が予定する国際貢献とはどのようなものか考えてみましょう。 まず、特定の国の自衛権の行使を助けるような国際貢献は、憲法上、一切許されません。たとえば、アメリカが9・11テロに対する自衛権の発動としてアフガニスタンで戦争を行っていますが、日本がこれに参加することはでません。自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を集団的自衛権といいますが、これは憲法上行使できないと解されています。

日本は自衛戦争を含めて一切の戦争を放棄しましたが(9条)、独立国家として自衛権は放棄してないため、自衛のため必要最小限度の実力部隊(自衛隊)は許されているというのが政府の考え方です。ですが、集団的自衛権の行使は、自衛のための必要最小限のものではないため許されません。自衛隊が海外で武力行使したり他国の武力行使と一体となる活動は、集団的自衛権の行使になるため禁じられているのです。自衛隊員派遣という人的貢献であろうと、海上給油活動のような物資の補給、食料の提供であろうが、それが戦争遂行に必要なものであれば武力行使と一体化したものとして許されません。本来なら資金提供も許されないはずです。憲法はこうした同盟国の自衛権発動に軍事的に参加して貢献することを禁止しているのです。

では国連の旗の下で行われる軍事行動はどうでしょうか。他国を侵略しようとする国があるときに、国連加盟国が必要があれば最後は軍事力(国連軍)をも行使して鎮圧します(集団安全保障)。また、国連は世界各地で発生してしまった地域紛争の停戦の維持を助け、戦争が再発しないようにするための活動を行います。これは平和維持活動(PKO)と呼ばれ、停戦監視団と合意された停戦を武力によって保つ平和維持軍(PKF)からなります。なお、国連の指揮下での軍事組織ではありませんが、多国籍軍がイラクのクウェート侵攻を阻止したり(第一次湾岸戦争)、NATO軍がコソボで人道のための戦争を行ったりすることがあります。さらにアフガニスタン国内の治安維持を目的としてNATOの指揮の下、国際治安支援部隊(ISAF)が組織され武力行使を含めた治安維持活動が行われています。

こうした様々な軍事活動に日本の自衛隊を派遣して武力行使させることができるのでしょうか。この点、国家間の戦争は許されないけれども、国際警察活動ともいうべき国連の軍事行動に日本が参加することは憲法上許されているという考えがあります。

確かに、日本も国際社会の一員である以上、世界の平和と安全のためにできる限りの貢献をするべきです。しかしそれはあくまでも憲法の許容する範囲のものに限られます。

日本は過去の苦い経験から、9条で自衛のための戦争も含めて一切の戦争を放棄しました。それは「自衛のため」「人道のため」「治安維持のため」という名目で戦争を肯定してしまったら、そうした名の下で結局はあらゆる戦争が正当化されてしまい、再び過ちを繰り返してしまうと判断したからです。つまり、正義のための戦争も許さないという徹底した戦争放棄にその特徴があるのです。

どんな戦争も武力行使を受ける側にとっては、理不尽な殺戮である点で何も変わらないのです。このように民衆の視点に立って、たとえ国連の行う活動といえども、国家としてこれに加担するべきでないというのが憲法の趣旨です。

このように、国連の旗の下であっても、日本は一切の軍事行動に参加しないというのは、身勝手に思われるかもしれません。しかし、どのような名目の戦争にも一切参加しないと宣言した先進国が存在すること自体が、世界の平和と安定に貢献するのです。それが「国際社会において名誉ある地位を占める」(前文第2項)ことに他なりません。

紛争には必ず原因があります。紛争が起きてから軍事的に対処するのではなく、紛争の原因をなくすために最大の努力をするのが憲法の立場です。飢餓、貧困、人権侵害、差別、環境破壊といった世界の構造的暴力をなくすために積極的な役割を果たすのです。現地の人と井戸を掘り、学校を建て、病院をつくって医療を提供し、感染症撲滅に尽力し、経済的自立のための支援をする。また、紛争終結後に道路・水道などのインフラの整備、対人地雷除去、必要な生活物資の支給など軍事面以外でもできることは無限にあります。安易に米国などに追随するのではなく、本当に求められている国際貢献は何かを見極めて実行すべきです。



【007】ー ■第46回
<米軍再編と地方自治>
      2008年01月14日
      http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/46.html

原子力発電所と在日米軍基地には共通点があります。どちらもその危険性から不安感がぬぐえず、誘致に反対する住民がいることです。そして協力する自治体に対しては交付金が国から支給され、反対するようであれば支払いをうち切られます。この交付金は立地負担の見返りとして支払ういわば「迷惑料」のようなものと考えられています。「アメとムチ」で受け入れを迫っているわけです。

在日米軍再編に伴う基地負担を受け入れた自治体には再編交付金が支払われることが決まりました。しかし、普天間飛行場の代替施設案に反対する沖縄県名護市や米陸軍司令部の改編計画に反対する神奈川県座間市、そして岩国飛行場への空母艦載機の移転受け入れに反対する山口県岩国市には交付されません。

岩国市はこれまでも米軍岩国基地の存在を認め、負担を受け入れてきました。それが今回の米軍の計画どおりに神奈川県厚木基地の空母艦載機が移転してくると米軍機がこれまでの約2倍になり沖縄の嘉手納基地と並ぶ極東最大級の米軍航空基地となります。あまりにも過大な負担を強いられることになる住民は、住民投票で明確に反対の意思を示しました。住民の意思を汲んで市長が反対の姿勢を貫いたところ、建設中の新市庁舎建設のための補助金35億円が一方的にカットされ、困難な状態に陥っています。

これでは、地方自治体は国の決めた政策をただ受け入れるだけの機関になってしまいます。憲法が保障した地方自治とは、住民の意思を無視してまでも、補助金や交付金によって国がコントロールできるようなものなのでしょうか。

明治憲法時代の地方自治は、知事が国から派遣されるなど強力な中央集権を基調としたものでした。戦時における国家統制強化の一環として、市長は内務大臣が任命するものとなり、町村長も府県知事の認可が必要でした。こうして地方自治は国の出先機関として、国の戦争遂行の一翼を担わされていたのです。憲法に地方自治に関する規定がなく、法律でどのように定めることもできたためでした。

これらの反省から、日本国憲法では、国が法律をもってしても侵すことのできない地方自治の核心的部分を制度として保障することにしました(憲法92条)。その核心的部分を地方自治の本旨といい、住民自治、団体自治という言葉で表されます。住民自治とは地方自治が住民の意思に基づいて行われるという民主主義的要素をいい、中央の議会制を補完する役割を果たします。住民の生活に関することは、あくまでもそこで生活する住民の意思に基づいて行われることが民主主義の基本だとして、多くの直接民主制的制度が取り入れられているのです。住民投票もその一つです。

他方、団体自治とは地方自治が国から独立した団体に委ねられ、団体自らの意思と責任の下でなされるという地方分権的要素をいいます。これは地方自治体が中央の権力に対する抑止力となり地域住民の人権を守るという自由主義的意味を持ちます。つまり、国の政治が暴走しそうなときに地方がそれに歯止めをかけて地域住民を守る役割を期待されているということです。そしてそのような力を持つためには、自治体が財政的にも独立し、国の言いなりにならなくてすむだけの基盤ができていなければなりません。

しかし、残念ながら、バブルの箱物政策に踊らされ、その崩壊以後も、小泉、安倍内閣と続いた地方切り捨て政策の結果、地方経済が疲弊し自治体の財政状況も悪化しています。そうした自治体の財政的な窮状につけ込んで、国が補助金や交付金によっていいようにコントロールするようなことがあっては、なんのための地方自治かわかりません。

確かに、必要だけれども自分の家の近くに来て欲しくないと思われる施設があったとするなら、それを受け入れてくれた自治体に対して、国民全体が税金の形で負担することは公平といえます。

しかし、そうした施設はあくまでも安全であり住民の生活に支障がないことが大前提です。米軍基地は軍用機による騒音被害以外にも、テロの標的になる危険や米兵による暴力事件、原子力空母の放射能漏れの危険などが指摘されています。十分な説明が尽くされて住民が納得していないにもかかわらず、米国の要請だからといって国が住民に一方的に負担を押しつけることは、地方自治の本旨に反し許されません。国は一人一人の国民の生活を守るために存在するのであって、決して米国の利益を守るためにあるのではありません。何のための米軍再編なのか、地方自治は何のためにあるのか、今一度考え直してみる必要があります。



【007】ー ■第47回
<貧困と憲法>
      2008年02月18日
      http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/47.html

昨年は、ますます進む格差社会とともに、国家によって生み出された貧困が大きな問題になりました。貧困から逃れるために若者が戦争を望んでいるのではないか、貧困から軍隊待望論者が増えないかと、憲法9条に関連づけて論じることもできます。しかし、憲法問題として捉えたときは、ワーキングプアなどの貧困から逃れる権利を憲法25条が保障しているのではないかという問題が中心となります。

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(25条1項)という生存権規定は、国民には最低限度の生活を営む権利が人権として保障されていると宣言するだけの規定ではありません。そうした生活水準を達成するような施策を国に要求する権利である点に本質があります。これを社会権といいます。つまり25条は、市民生活の中に国家が介入してくることを求める権利なのです。

すると、25条を実現する場面においては、国は国民と敵対して批判の対象とされるのではなく、国民の保護者、国民を守る存在としてみえることがあります。そのために、「憲法で国を縛るなんて昔の考え方だ。国と国民は対立するものではなくて、手を携えて同じ方向へ進む仲間。だから国民にも国と一緒に歩む仲間として責任を果たしてもらう。」と改憲派の政治家に言われると納得してしまう人がいます。

確かに、25条などの社会権は、国に社会福祉を要求する権利であり、国の活動を制限して我々の自由を守るものではありません。そう考えると、国を憲法で縛るなんて考えるよりも、国を頼って生きた方がいいと思う人もいるかもしれません。 もともと憲法は市民の自由を守るために生まれました。18世紀後半の近代市民革命以後の西欧社会において、国家が国民生活に干渉しないように憲法で国家に歯止めをかけたのです。この憲法の本質は古今東西、変わりません。

そのおかげで自由主義経済が発展したのですが、この19世紀の資本主義の発達は様々な弊害と社会経済的弱者を生みました。そこで、国家に対し積極的に国民生活に介入を求める生存権などの人権(社会権)が生まれたのです。

あくまでも一人一人が自立するための支援を国に求めることができるだけであり、国に依存することを肯定するものではありません。25条は重要な権利ですが、これを強調することで、憲法の本質を歪めることがあってはならないのです。

しかも今、問題になっているワーキングプアなどの貧困は、個人の能力や個人的な意欲、自己責任に根ざすものではなく、国や企業によって作り出されたものです。大企業優遇税制や非正規雇用を推進するような労働法制を国が進めてきた結果、従業員の人間の尊厳よりも企業の利益を重視してきたために生まれたものであり、あくまでも、国家によって作り出された貧困です。つまり、国家に理不尽な政策をさせないように国家を憲法でコントロールすることで防げるものなのです。

同様のことは障害者問題にも当てはまります。従来、障害は個人的な不幸の問題であり個別に福祉によって救済するという発想でした。これは近代市民社会が健常な壮年期の納税可能な所得のある成年男子(平均的男子)を想定して作られており、これからはずれる疾病や障害、老齢、貧困、児童、女性という社会集団を社会の中心から排除しておいて、社会参加できないのは気の毒だから、個別に救済してあげようというものです。しかし、実は障害者などが社会参加しにくいのは、平均的男子を想定して社会の仕組みを作っていたからなのであって、そのような社会構造(バリア)自体を排除する権利を障害者は持っていると考えるべきなのです。

こうして社会権を、恩恵を受ける権利ではなく、理不尽な制度を忌避する人権としてとらえると、25条も、個別に貧困を救済する権利としてみるのではなく、そもそもそうした社会構造自体を排除する権利として位置づけることができます。

国に援助を要求するのではなく、まず、国の理不尽な政策をやめさせる。安易に国に求めるのではなく、自分たちが連帯して力をつけ、悪辣な企業に要求して、自らの権利回復をはかっていく。あくまでも自立した個人としてカをつけ主張していく権利が25条なのです。



【007】ー ■第48回
<憲法の力>
      2008年03月17日
      http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/48.html

4年間続いたこの憲法教室も最終回です。これまでありがとうございました。この4年で国民の憲法への関心が高まり、草の根の学習グループが数多く生まれました。国民の憲法力が格段に高まった4年間だったといえます。

それに引き替え、多くの憲法価値を否定する政治の現実を目の当たりにして、政治家の憲法レベルの低さに落胆する毎日でもありました。先の国会でも57年ぶりの再可決によって、補給支援特措法が成立し、インド洋における米軍への補給が再開されました。国会での十分な審議を経ることなく、日本は再び「テロとの戦い」という名目の戦争に加担してしまったわけです。

日本の国際貢献のあり方には様々な考えがあり、この法律についても国民の賛否は分かれていました。だからこそ、しっかりと国会で議論することが憲法の要請です。これが議会制民主主義に他なりません。

憲法はさまざまな場面でこうした手続保障を重視しています。裁判も適正手続を保障してこそ判決が正しいと国民の信頼を得ることができます。行政処分も不利益を受ける当事者に告知し弁解の機会を与えるなどの適正手続を確保することでその正当性が与えられます。

国家権力の行使においてこのような手続保障が全うされたかどうかは、通常は、具体的な事件を通じて裁判所で判断されます。しかし、国会の審議が十分になされたかどうかについては、国民がチェックするしかありません。このように政治において憲法価値が実現されているかを最終的に判断し是正するのは主権者たる国民の役割なのです。だからこそ国民は憲法を正しく理解していなければなりません。憲法の基本的な考え方を再確認してみましょう。

まず、国家は市民の精神活動の領域に介入してはいけません。個人の思想良心や表現、信仰などに口を差し挟んではいけないのです。ましてや、国家が思想や表現の価値を事前に判断するようなことがあってはなりません。

しかし、市民の経済活動の領域に対しては、国家は福祉主義の観点からむしろ積極的に介入しなければなりません。経済的社会的弱者を救済して人間らしい生活ができるように、富を再配分し格差を是正していくことが必要です。そして、権力は信頼の対象ではなく、常に疑ってかかるべき監視の対象であることも忘れてはなりません。

憲法は自由で人間らしい生活のために、市民社会と異質な軍隊という組織を持つこと自体を否定しました(9条)。たとえば、市民社会では個人が尊重されますが、軍隊では個人よりも組織が重要です。市民社会では人の命を守ることに価値がありますが、軍隊は人の命を奪うことが目的です。こうした軍隊という暴力装置はその存在自体が市民にとって脅威です。そこで憲法はこれを一切保持しないとすることで市民の自由を守ることに徹したのです。

9条も究極的にはひとり一人の人間性を守るために存在します。憲法の根本価値が個人の尊重(13条)にあるからです。そしてこの個人の尊重は、誰もが人として尊重されると同時に、誰一人として同じ人間はいない。人と違うことはすばらしいという意味を持っています。

ひとり一人はかけがえのない命、人生を持っており、それは代替不可能なものです。それを人間の尊厳といいます。私はまったく不完全な人間ですが、それゆえに私は代替不可能でかけがえのない存在だともいえます。そう考えれば、たとえうまくいかないことがあったとしても、自分らしく堂々と生きていけばいいことがわかります。それが個人の尊重という憲法が一番大切にしていることなのです。

皆さんはこれからいろいろなことを経験するはずです。成人して選挙権を行使したり、裁判員として裁判に参加したりすることでしょう。憲法改正国民投票があるかもしれません。どのような場面においても、マスコミの情報に踊らされることなく、自分の頭で考えて、自分の価値観で主体的に判断し、その結果に対して自分で責任を取るという気概が必要です。憲法はそうした自立した市民に立憲民主主義の実現を託したのです。

憲法99条は公務員に憲法尊重擁護義務を課しました。国民は憲法を守る側ではなく公務員に守らせる側にいることを示した規定といえます。のみならず、国民には憲法に反対する自由すら与えられていることを意味しています。つまり憲法価値を尊重するか否かも私たちひとり一人が自由に決めることができるのです。皆さんは明日の主権者として、日本を真の立憲民主主義の国にしていくことができるのです。期待しています。