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続折々の記 ③
【心に浮かぶよしなしごと】

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【 03 】03/21

  03/21    
        (1) 東アジアと欧州 歴史の闇、向き合い続け   (戦後の原点)
             ・ 戦後の原点(1946年~現在)
        (2) 日本が学ぶべきスウェーデンの非攻撃的防衛戦略   WEBRONZA 武装中立主義を貫く
             ・ スウェーデン王国    外務省

 03 21 (火) ニュース     

私たちは歴史のどの部分のどういう動きを学んだらよいのだろうか。 井の蛙になってはいないだろうか。 トインビーは歴史変化のどういう部分から何を学んだのだろうか。

第一次大戦と第二次大戦を通して、何を学び、どこに視点を止めたらいいのか。 そして、自分の考えの中に何をどのように築いていったらよいのだろうか。

ミクロの見かたとマクロの見かた、因果の見かた、命がもっている集団帰趨本能と群集の動き方、或いは進むべき道の自己決定習性を身につける方向と協調すべき方向の決定の在り方、こうした諸々のことをどう位置付けて考えを進めたらいいのか。

まちがいなく進める方向を模索しておきたいと思う。



2017年3月19日05時00分
(1) (戦後の原点)東アジアと欧州 歴史の闇、向き合い続け

 1947年の春、新憲法施行を5月に控え、日本は再出発を祝う熱気に満ちていました。しかし、外では米ソ冷戦が始まっています。ドイツは分割され、中国では国民党と共産党の内戦が激化。朝鮮半島は南北に分かれ、やがて来る朝鮮戦争の破局へと踏み出していました。東アジアも欧州も新たな混沌(こんとん)のふちにあったのです。その後70年、多くの苦難が待ち構えていました。

 ■日本軍従軍者も、公式に追悼 台湾

 台湾は日本が初めて手にし、50年統治した植民地だった。なのに、敗戦で手放した後、この地で起きたことに、日本はどれだけ関心を向けてきただろう。

 台北市内の「二二八和平公園」に2月末、車いすのお年寄りや、花を手にした女性ら市民が集まった。

 この日は、戦後の台湾を統治した国民党政権が民衆を弾圧し、数万人が犠牲となった1947年の「二・二八事件」の記念日。追悼式典では、被害者の遺族らに、蔡英文(ツァイインウェン)総統から「名誉回復証」が手渡された。

 台湾社会には、国民党と共に中国大陸から渡ってきた「外省人」と呼ばれる人々と、以前から暮らす「本省人」と呼ばれる人々との間で確執が残る。昨年の総統選で国民党から2度目の政権奪取を果たした民進党は、本省人を主な支持基盤とする政党だ。蔡は国民党独裁時代に顧みられなかった歴史に光を当て、和解をめざす試みを続けている。

 昨年11月、南部・高雄市で開かれた式典に、総統として初めて参列したのも、その一つだった。日本の植民地時代、日本兵として第2次大戦に臨み、犠牲となった台湾人兵士らを追悼する集まりで、元々は生還した老兵や遺族らが細々と続けてきた会だ。

 「いらっしゃるのを、70年以上待っていました」

 あいさつに立った廖淑霞(89)は、付き添いの女性に支えられながら、総統に呼びかけた。

 大戦中、日本は中国大陸で国民党政権と戦った。台湾人日本兵は国民党側からみれば「敵」となる。戦後は台湾の公式の歴史から排除され、追悼や補償の対象外になってきた。

 台湾に生まれ、女学校で日本語教育を受けた廖は当時、看護師だった。44年、上海にあった日本陸軍の病院に配属された。前線から次々と送られてくる傷病兵たち。空襲のときは小柄な廖が結核患者を背負って防空壕(ごう)へ走った。同僚だった朝鮮半島出身の少女が爆撃で亡くなった。

 廖が経験を語り始めたのは、台湾で民主化が進む90年代になってからだ。「日本軍に協力したなんて、迫害が怖くて言えなかった」

 式典に参列した元軍人軍属は12人。最高齢の楊馥成(95)は陸軍補給部隊で勤務した。戦後、国民党政権から逃れ、日本に密航しようとして投獄された。

 林余立(90)は海兵団に入った年に終戦を迎えた。だが、次は国民党軍に動員され、中国大陸に送られる。日本が「戦後」を迎える一方、大陸では国民党と共産党の内戦が再開していた。共産党軍の捕虜となり、更に朝鮮戦争に送り込まれた台湾人もいる。

 式典会場となった高雄市の海辺の公園には、老兵らが運営する記念館がある。壁には同じ顔をした異なる軍服姿の3人の若者が描かれ、海を見つめる。時代に振り回され、ときに日本軍で、国民党軍で、共産党軍で戦った全ての台湾人を悼む思いをこめた。

 式典で蔡は語った。

 「高雄は台湾の兵士たちが出発した港の一つです。彼らを、私たちの歴史に、台湾人の記憶に迎え入れましょう」

 ただし、台湾側の視点から歴史を捉え直す試みは政治性も帯びており、日本の侵略に抵抗した大陸側の歴史を重視する国民党に加えて、中国からの反発もある。

 当時、日本軍に動員された台湾人の軍人軍属は20万人を超え、3万人以上が犠牲になった。日本政府は、日本国籍を喪失していることを理由に、台湾人日本兵に恩給を払わず、日本人並みの補償もしていない。

 ■文化や福祉、国境超える挑戦 韓国

 1947年5月2日。日本国憲法が施行される前日に、朝鮮人と台湾人は日本人と切り離された。

 天皇による勅令「外国人登録令」で「当分の間、外国人とみなす」と定められた。閣議資料には「五月二日以前に公布して頂きたい」との法制局のメモが貼られた。だが、この「駆け込み勅令」で分離された人々の中に、日本との接点を持ち続けた人もいた。

 後に宗教政治学者・評論家となる池明観(チミョングァン)(92)はそのころ、すでに南北分断状態にあった朝鮮半島の北側から南へ密航していた。中国国境近くで生まれ、日本式教育を受けた。終戦後に南の方が豊かではないかと思って脱出したが、貧しさは変わらなかった。

 ソウル大学を出て雑誌を主宰。65年、日韓国交正常化の調印後に初めて日本を訪れる。新幹線から見た美しい川や整った田園に「自分は統治者として以外の日本を何も知らない」と思い、70年代から東京の大学に籍を置いた。雑誌「世界」に「T・K生」の筆名で韓国軍事政権の実情を告発し始めた73年、民主活動家の金大中(キムデジュン)が東京で拉致された。「言論をてこに日米を動かし民主化を進めたい」という一心で寄稿を続けた。

 四半世紀後、金大中が大統領となる。池は懐刀として、日本の映画や歌謡曲、放送など韓国で禁止されていた政策の転換を担った。「今度は文化で侵略されるのか」という声を押し切り全面開放へ道筋をつける。「世界が認めた文化を韓国だけが拒むのは理屈に合わない」と。まず98年秋、国際映画祭の受賞作や日韓共同制作映画から。輸入解禁第1号は日韓合作の「愛の黙示録」だった。

 「黙示録」は、韓国全羅南道の木浦(モッポ)で戦前から孤児院を営んだ田内千鶴子の生涯を描く。朝鮮総督府に赴任した父と7歳から朝鮮で暮らし、孤児を連れた朝鮮人男性と結婚した。戦後も帰国せず68年、56歳の誕生日に死去した時、育てた孤児は3千人を数えていた。

 映画の原作者でもある長男の尹基(ユンギ)(74)によると、完成した95年当時、韓国当局に上映を掛け合ったが「日本文化はだめ」の一点張り。「ほぼ全編韓国語で監督も韓国人なのに何が問題なのか」と聞いても無駄だった。その後、政策の急転回で許可が下りた。

 尹は今も木浦で児童養護施設を続けながら、日本でも「故郷の家」という老人福祉施設を次々とつくっている。昨年11月には東京で5カ所目が開所した。国籍を問わず受け入れるが、在日韓国人が多い。食事にはキムチと梅干しが欠かさず出る。千鶴子から最後に聞いた言葉が「梅干しが食べたい」だったからだ。

 母も故郷の味が懐かしかったのだろう。後に在日の人の中にも故郷に帰れない人が多いことを知り、孤独に過ごさずに済む場を提供しようと決めた。「黙示録」で千鶴子と尹を知る人も増え、建設費用の寄付に弾みもついた。

 父母の結婚時に父が日本国籍になり、尹も日本籍。朝鮮で生まれ育ったため、母語は韓国語だ。「福祉という、終わりもなく国籍も関係ない文化に挑戦し続けたい」と尹は言う。

 韓国の外から民主化を促し、文化交流を進めた池は今、日韓、南北朝鮮だけでなくアジア中で関係が悪化していることを悲しく思う。半面、「これからは政府の力に頼らない市民連帯の時代になる」とも言う。「歴史は必ず進化する。これは決して空虚な希望ではない」

 ■かつてはタブー、「被害」語る ドイツ

 戦後のドイツの歩みは、戦勝国英米仏ソ連による国土の分断で始まる。戦後処理の枠組みであるポツダム協定でドイツとポーランドとの国境は西に250キロ移動し、国土は大幅に縮小した。

 1947年、旧東部領からのドイツ系住民の移動が続いていた。

 「ベルリンの難民収容所にいました。服はボロボロ、シラミだらけ。この生活はいつ終わるのかと」

 旧ドイツ領ポーゼン(現ポーランド領ポズナニ)に生まれ育ったドイツ人のローゼマリー・ツィトリッヒ(80)はそう振り返る。8歳で敗戦を迎え、家畜を運ぶトラックでベルリンに。その後も各地を転々とした。強制移住者たちの入植地北西部エスペルカンプにようやくたどり着いた時には23歳になっていた。

 大戦末期のソ連軍の侵攻や、敗戦による国境線の引き直しで、ツィトリッヒのような強制移住民は約1400万人に上った。暴行や略奪そして強姦(ごうかん)と道中は凄惨(せいさん)を極めた。200万人が命を落としたとも言われ、戦後ドイツ最大の悲劇と語られる。

 「加害国」だったドイツは、20世紀が終わる2000年ごろから、被害者としての側面を語り始める。大きな波紋を生んだのが、旧東部領などからの移住民らの団体「被追放民同盟」のエリカ・シュタインバッハ連邦議会議員(当時)による「追放に反対するセンター」の建設運動だった。ドイツ人の被害を伝える写真などを展示し「被害の歴史も記憶するべきだ」とする運動は両国間のタブーを破ったと語られた。ポーランドは「ドイツに被害を語る資格はない」と反発した。

 ただ今やこの問題は両国で大きな関心を呼ばない。

 「ドイツが受けた被害の記憶が最も重要です。でも同時に欧州で起きた数ある悲劇の一つにすぎない」

 ドイツ連邦政府が設立した財団「逃亡・追放・和解」理事長のグンドラ・バベンダムはそう話す。同財団は来年、強制移住をテーマにした資料館をベルリン中心部につくる。財団設立から約10年を要した。ポーランドの歴史家も含めた議論の結論は、「欧州という文脈」の強調だ。それにより、国と国が立場の違いを超え、地域の一員として向き合える。ドイツ人の強制移住を、第1次大戦のオスマントルコでのアルメニア人の追放、同大戦後のギリシャ・トルコ間の住民の交換などと並べて理解しようとした。

 ポーランド側は15年に愛国主義的な色彩が強い保守政党が政権に返り咲き、ドイツに強硬な姿勢を示すようになった。それでも、矛先が「歴史」に向くことは少ない。

 両国の歴史家たちは昨年夏、共同で「欧州史」の教科書も刊行した。今は古代・中世史だが、現代まで定期的に発行する予定で「強制移住」も題材になる。

 「あの悲劇の解釈について、両国の合意を得るのは今なお難しい」と語るのは、ドイツでの歴史教科書研究の拠点「ゲオルク・エッカート研究所」所長のエックハルト・フックス。でも、と続けた。「戦後直後と今の2国の関係は全く違うという合意はすでにできている」。乗り越えがたい加害・被害の関係に、欧州の一員という新たな文脈が加わっている。

 ■植民地支配の直視、ようやく フランス

 第2次大戦末期に連合国に解放されたことで「戦勝国」に仲間入りしたフランスは戦後、特異な道を歩んだ。戦争で傷んだ経済と国家威信の回復のため、植民地支配の再強化に乗り出したのだ。だが、世界で燃え上がった民族自決の機運とぶつかり、そのことがフランスに深い傷を残した。

 北アフリカの仏領アルジェリアでは、反乱と鎮圧が繰り返され、テロの応酬が続いた。暗い歴史を象徴するのが、支配の末端を担わされた「アルキ」と呼ばれるアルジェリア人補充兵とその家族がたどった道である。

 彼らの苦難を記す場所が南仏リブサルトにある。早春のピレネー山脈から肌を刺す風が吹き抜ける。朽ちたバラックが今も点在する。半地下の建物の玄関には「アンデジラブル(好ましからざる者たち)」の文字。この地に閉じ込められていたアルキの歴史を残す記念館だ。

 パリ在住のファティマ・ベスナシ(62)は少女時代をこの収容所で過ごした。「窓にガラスがない部屋で四つの寝台に8人が身を寄せ合って寝ました」

 アルジェリアは、独立戦争の末、1962年に独立した。80万人以上いた欧州系入植者はフランスへの引き揚げが認められた。

 だが、仏統治時代に農村部の治安維持を担わされ、独立戦争では仏軍についたイスラム教徒の補充兵は仏国籍を奪われ、武器も回収された。彼らアルキは、同胞であるアルジェリア人の怒りの標的となり、数万人が殺された。ベスナシの祖父もその一人だ。「フランスへの忠誠心で補充兵になった者はわずか。祖父は部族長として家族や村人を守るために参加したのです」

 10万人以上のアルキが仏本土に逃げ渡った。住居などがあっせんされた欧州系とは違い、収容所に隔離された。ベスナシは15年間、収容所を転々とした。

 90年代以降、フランスでは「過去」の問い直しが始まる。ナチス傀儡(かいらい)政権だったとして責任を回避してきたユダヤ人迫害について仏政府は95年、国家責任を認めた。だが、植民地支配の直視は遅れた。アルキについて「彼らを(いったん)見捨て、人道的ではない手法で受け入れた」という表現で、オランド大統領が初めてフランスの国家責任を認めたのは昨年9月だ。

 歴史家のブノワ・ファレーズは「文明を持ち込んだと美化する見方に加え、フランスが人種差別や拷問など非人道行為に手を染めた事実から目をそむけたい感情もあった」と語る。

 テロが相次ぎ、反移民感情が強まるフランスで、「過去」は敏感な問題であり続ける。

 2015年に開館したリブサルトの記念館は、アルキ以前にこの地で収容されていたスペイン難民、ユダヤ人、ロマ人ら時代ごとの「好ましからざる者たち」も、あわせて紹介している。

 「それぞれの記憶を主張しあうのではなく、財産として共有する記念館でありたい」。支配人のフランソワーズ・ルーはそう話す。

 ■記憶と経験、人類共通の遺産に 編集委員・三浦俊章

 「過去は死んでいない。過ぎ去ってさえいない」。10年以上前、東京裁判を研究する米歴史家リチャード・マイニアに教わった言葉です。それは、米国のノーベル賞作家ウィリアム・フォークナーの芝居のせりふでした。人種差別という重い歴史を背負った米南部出身のフォークナーらしい、人間存在の深みに触れる言葉ではないでしょうか。

 現在、世界中で、歴史問題が噴き出しています。過去の記憶が、狭い愛国心をあおるために使われたり、異なる民族や宗教への敵意をかき立てるために援用されたりもします。こういう騒ぎはもういいかげんにしてほしい、私たちは、静かに自分たちの来し方を振り返りたいだけなのだと、ぼやきたくなります。

 しかし、歴史学や歴史教育そのものが、近代国家の形成と密接につながりながら発展してきたことを考えると、国家と歴史との関係は一筋縄ではいきません。グローバリゼーションが叫ばれる中、かえって、心のよりどころとして、国家やナショナリズムが強化されている面もあります。

 2015年の企画「戦後70年」に引き続き、16年春からは企画「戦後の原点」を掲載してきました。容易に過ぎ去らない過去に辛抱強く向き合うためです。

 最終回の今回、歴史の傷に苦しむ人々の中に、自らの経験を国家の枠に閉じ込めることなく、人類共通の悲劇や問題として位置づける人たちがいることを紹介しました。今の世界を覆うナショナリズムやポピュリズムの暗雲の下で、小さな試みかもしれません。しかし、人類が不毛な争いをやめ、共存し続けるため、絶やしてはいけない営みがある。これからの歴史報道でも、そんな視点を生かし続けるつもりです。

 ◆本文は敬称略。三浦のほかに市川速水、沢村亙、高久潤、西本秀、藤原秀人が担当しました。「戦後の原点」は今回で終わります。
戦後の原点

(戦後の原点)東アジアと欧州 歴史の闇、向き合い続け(2017/3/19)
 1947年の春、新憲法施行を5月に控え、日本は再出発を祝う熱気に満ちていました。しかし、外では米ソ冷戦が始まっています。ドイツは分割され、中国では国民党と共産党の内戦が激化。朝鮮半島は南北に分かれ、[続きを読む]

島袋満英さん
(戦後の原点)忘れられた島 沖縄「基地」禍、目背ける本土(2017/2/19)
 地上戦で約20万人が命を落としたとされる沖縄。米国は戦後、経済復興とセットで基地建設を進め、平和憲法を手にした日本本土は、基地が沖縄に集中していく現実から目を背けた。その構図はいまも島に影を落とす。…

日本軍の壕(ごう)がダイナマイトで爆破されるのを見つめる米兵(1945年、沖縄県公文書館提供)
沖縄「基地」禍 日米安保の現実、目背ける本土(2017/2/18)
■戦後の原点 地上戦で約20万人が命を落としたとされる沖縄。米国は戦後、経済復興とセットで基地建設を進め、平和憲法を手にした日本本土は、基地が沖縄に集中していく現実から目を背けた。その構図はいまも島に…

企業「民主化」と労働運動の盛衰<グラフィック・大屋信徹>
(戦後の原点)経済の民主化 誰がための企業、労使探る(2017/1/29)
 終戦直後、民主化の担い手の一つとなったのが労働組合でした。新たに制定された労働組合法のもと、ストライキが相次ぎ、労働運動は熱を帯びます。財閥解体で出直した経営者側にも、これに真剣に向き合う動きがあり…

戦後民主主義と公害<グラフィック・大屋信徹>
(戦後の原点)民主主義の力 公害対策、市民が動いた 環境経済学者・宮本憲一さん(2016/12/4)
 戦後日本を支えたのは豊かさへの渇望です。経済成長の結果、公害が深刻な社会問題になりました。しかし、市民や自治体が立ち上がり、産業最優先の政策が転換されます。批判の自由も戦後社会の柱でした。ある環境経…

宮城(現在の皇居)の坂下門前を行進する食糧メーデーのデモ隊=1946年5月19日
(戦後の原点)象徴天皇制 退位・免責、揺れた地位(2016/11/20)
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2004年、有事の際に確保した捕虜の取り扱いが法制化された。自衛隊が確保した敵国の捕虜を収容する訓練の様子。中央が捕虜役=10年版防衛白書から
後方支援の自衛隊員、捕まったら…捕虜扱いされぬリスク(2016/9/25)
■戦後の原点 集団的自衛権の行使や他国軍への後方支援を可能にする安全保障関連法が成立して1年。政府は自衛隊による新任務の訓練を始めるなど運用に動き出しているが、ここに来て、自衛隊員が海外で捕まったとき…

1946年11月3日に公布された日本国憲法の原本=国立公文書館提供
憲法9条の理念と現実 専門家2氏に聞く(2016/9/25)
■戦後の原点 戦争放棄と戦力不保持を掲げた憲法9条。安全保障上の緊張があるなか、その理念と現実を見すえてきた2人に聞きました。(聞き手・藤田直央)
■平和憲法、単なる「押しつけ」ではない:古関彰一・独協…

2004年、有事の際に確保した捕虜の取り扱いが法制化された。自衛隊が確保した敵国の捕虜を収容する訓練の様子。中央が捕虜役=10年版防衛白書から
(戦後の原点)後方支援の自衛隊員捕まったら… 人道的扱い、保証されぬリスク(2016/9/25)
 集団的自衛権の行使や他国軍への後方支援を可能にする安全保障関連法が成立して1年。政府は自衛隊による新任務の訓練を始めるなど運用に動き出しているが、ここに来て、自衛隊員が海外で捕まったときのリスクにつ…

憲法9条と自衛隊、日米安保をめぐる動き<グラフィック・岩見梨絵>
(戦後の原点)憲法9条 9条・安保、問われる針路(2016/9/25)
■戦後の原点 戦争を放棄し、軍隊を持たないとする憲法9条は、先の大戦への深い悔悟から生まれました。日本は一方で日米安保条約を結び、自衛隊を設けました。この理念と政策は矛盾しないのか。それとも両者の共存…

日本の勢力範囲の変遷
植民地支配の記憶の中で 帝国の解体(2016/8/29)
■戦後の原点 日本の歩みを振り返るシリーズ「戦後の原点」は今回、植民地帝国の解体を取り上げます。海外の版図を失った日本は復興と経済成長を成し遂げますが、その一方で戦争と植民地の記憶は風化していきました…

日本の勢力範囲の変遷<グラフィック・大屋信徹>
(戦後の原点)帝国の解体 植民地支配の記憶の中で(2016/8/28)
 日本の歩みを振り返るシリーズ「戦後の原点」は今回、植民地帝国の解体を取り上げます。海外の版図を失った日本は復興と経済成長を成し遂げますが、その一方で戦争と植民地の記憶は風化していきました。しかし、過…

テッサ・モーリス=スズキさん 
  (戦後の原点)突然の帝国解体、旧植民地と未清算の一因 テッサ・モーリス=スズキさん(2016/8/27)
■戦後の原点 日本の敗戦は、朝鮮半島や台湾など広大な地域の人々を支配した「帝国」の終わりも意味した。その崩壊のありようは、今も日本の周辺国との関係に影を落としている。日本近代史研究者のオーストラリア国…

「歴史にはさまざまな見方がある方が健全なのです」=英ケンブリッジ大学、大野博人撮影
(戦後の原点)時代刻む法廷 ケンブリッジ大学准教授、バラック・クシュナーさん(2016/6/28)
■戦後の原点 戦争犯罪を裁く法廷は、時代の節目を刻む役割を担う。何を終わらせ、何を始めるか。第2次大戦後、とりわけ中国でのBC級戦犯裁判は、裁く側にも重い意味を持った。その研究の成果を昨年、「Men …

現在のクイーンズランド州最高裁判所。ウィリアム・ウェッブは連邦最高裁判所判事になる前、同州最高裁で裁判長を務めた=ブリスベン、郷富佐子撮影
(@シドニー)ウェッブ裁判長の足跡を追って(2016/6/25)
■特派員リポート 郷富佐子(シドニー支局長) 日本の戦争指導者を裁いた東京裁判(正式名・極東国際軍事裁判)の開廷から、今年の5月3日で70年となった。裁判長を務めたのは、オーストラリア人のウィリアム・…

国際法の流れと日本国内の動き<グラフィック・前川明子>
(戦後の原点)東京裁判:下 国際人道法、発展の起点に(2016/6/19)
 先月3日に開廷70年を迎えた東京裁判(正式名・極東国際軍事裁判)は、日本の戦争指導者を断罪する場であったのと同時に、国際人道法が発展する起点にもなりました。特集の2回目は、海外の人たちが裁判にどのよ…

1983年の日本映画「東京裁判」(小林正樹監督)の映像を見せながら、父のレーリンク判事について語るヒューゴさん=4月1日、オランダ・ハーグ、梅原季哉撮影
国際人道法、発展の起点に(2016/6/19)
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二村まどか・法大准教授=早坂元興撮影
(戦後の原点)東京裁判、戦争責任論に影 二村まどか・法政大准教授に聞く(2016/5/2)
 天皇の人間宣言や初の女性参加の衆院選、新憲法の公布など、「戦後」の幕開けを告げる多くのできごとが、敗戦間もない1946年に刻まれた。この年の5月3日に開廷した東京裁判=キーワード=もそのひとつ。70…

何が争われたのか<グラフィック・甲斐規裕>
(戦後の原点)東京裁判:上 裁かれた日本の戦争犯罪(2016/5/2)
 日本の戦争指導者を裁いた東京裁判(正式名・極東国際軍事裁判)の開廷から3日で70年。戦後日本の歩みを方向付けた裁判を2回にわたって特集します。初回は「A級戦犯」とされた指導者がどんな罪に問われて法廷…

何が争われたのか 東京裁判の構図
裁かれた日本の戦争犯罪 東京裁判、開廷から70年(2016/5/2)
■戦後の原点 日本の戦争指導者を裁いた東京裁判(正式名・極東国際軍事裁判)の開廷から3日で70年。戦後日本の歩みを方向付けた裁判を2回にわたって特集します。初回は「A級戦犯」とされた指導者はどんな罪に…

二村まどか・法政大准教授=早坂元興撮影
「東京裁判、歴史観に複雑な陰影与えた」 二村氏に聞く(2016/5/2)
■戦後の原点 天皇の人間宣言や初の女性参加の衆院選、新憲法の公布など、「戦後」の幕開けを告げる多くのできごとが、敗戦間もない1946年に刻まれた。この年の5月3日に開廷した東京裁判もそのひとつ。70年…



2017年03月10日 明日をひらく、多様な言論の広場 WEBRONZA(ウェブロンザ)
日本が学ぶべきスウェーデンの非攻撃的防衛戦略
      女性も対象に徴兵制を復活、武装中立主義を貫く
      児玉 克哉


 スウェーデンほど平和主義国としてのイメージを内外に徹底しえた国は少ない。ヨーロッパの北の端の小国でありながら、国連への積極的な取り組み、非同盟中立運動への参加、 核廃絶運動の推進、積極的な対外援助、ストックホルム国際平和研究所の設立など、世界へのアピール度は高い。また、ノーベル平和賞受賞者アルバ・ミュルダール女史や、凶弾に倒れたオロフ・パルメ首相などは、国際的なオピニオン・リーダーとして「平和主義国スウェーデン」のイメージを世界に広めた。しかし、スウェーデンは徴兵制や民間防衛にみられるように、一般国民が参加の防衛を計画してきた国である。

 ただ2010年に徴兵制は廃止されたものの、スウェーデンの人口は1000万に満たない小国であり、兵士の確保が難しくなっていた。ロシア・プーチン大統領の攻撃的な外交・軍事戦略などもあり北欧にも緊張感が漂ってきた。2014年のロシアによるウクライナ領クリミアの併合はスウェーデンに衝撃であった。こうしたことから徴兵制が復活することになったのだ。人口の少ない工業国スウェーデンは、志願兵だけで防衛政策を作るのが難しいのである。

ハリネズミ防衛戦略

 徴兵制に国民からの大きな異論なく一般兵役義務、民防義務に服してきた国である。非同盟中立の立場をとりつつ防衛のための強力な軍隊・兵器を組織している武装の国家だ。軍事予算がGDPに占める割合はかなり落ちてきたが、それでも小国としてはかなりの軍事力を保有しており、日本人の平和国イメージとは異なっている。「こちらからは攻撃しないが、攻撃者には手痛い目に合わせる」というハリネズミ防衛戦略をとっている。これは非攻撃的防衛戦略とも称されるもので、軍事的視点から攻撃力を極力抑える防衛戦略である。日本の専守防衛とは似ているが、かなり違う発想だ。かつての日本では非武装中立をうたう政党もあったが、スウェーデンは、武装中立(非同盟)主義である。これは永世中立国スイスにも当てはまり、民間防衛も含めた武装防衛戦略がある。

 日本を取り巻く国際環境もきな臭くなってきている。日本の今後の防衛のあり方を考える上でもスウェーデンの非攻撃的防衛戦略は大いに参考になると考えられる。概観してみよう。

 スウェーデンの中立主義や非核政策を強調すると、スウェーデンには軍隊が存在しないか、また存在してもとるに足らないほどの脆弱なものであろうと誤解されがちである。しかし、二つの世界大戦で、直接には戦争に参加しなかったものの、隣国の惨劇を垣間見たスウェーデンは、防衛に熱心に取り組んできており、国民にも一般兵役義務や民防義務を課し、軍事費も決して少なくない。スウェーデンの「理想主義」は合理的現実主義に基づいている。

近代的な軍装備を保有

 コンピューター・テクノロジーを始めとして多くの分野で先端技術を有するスウェーデンは、最新鋭の兵器、軍艦、軍事用車両、航空機などの量産を行い、他の西欧諸国と比較しても引けを取らないほどの近代的な軍装備を保有している。スウェーデンが内外に明言している戦時における非同盟・中立の立場は、周辺国から畏敬の念を持って尊重されるべきものではあるが、これは国際条約や規約によって保障されているものではない。中立の立場を戦時の非常時にも、軍事力を含めた「総合的防衛政策」によって守って行こうというのが、スウェーデンの基本的な防衛方針である。非武装中立という発想ではなく、武装中立路線なのだ。

 だが、この「武装防衛」には厳しい北欧の国際政治に裏打ちされた独特の現実主義と平和主義が入り込んでいる。

 スウェーデンの防衛政策は非挑発的防衛とか非攻撃的防衛と呼ばれるものだ。この非挑発(攻撃)的防衛とは、一言でいうならば、 精密な対空防御システム、反撃ネットワークの形成、対戦車兵器の装備などによって、防御のみに徹し、仮想敵国を決して挑発させたり、脅かしたりすることのない軍事防衛のことである。つまり、ハイレベル・テクノロジーなどの駆使によるハード面の発展 や民間防衛システムの整備などによるソフト面の充実によって、防御力を飛躍的に革(あらた)める一方で、相手を挑発しうる攻撃力のある兵器や軍事システムは徹底的に排除して行く試みだ。

 この理論の実践国であるスウェーデンの防衛政策を考察してみる。

A) 徴兵制

 スウェーデンの国防軍は、想像するよりもはるかに強大である。まず今回、話題となった徴兵制度がある。日本では徴兵制度=軍事化というイメージが定着しており、平和主義と徴兵制とは相いれないものである。以前は基本的に男性が対象であったが、今回の徴兵制の復活では、女性も「平等」に対象となっている。これも驚きだ。AFP通信などによると「1999年以降に生まれた18歳の男女の国民からアンケートの回答に基づいて1万3千人を選び、その中から毎年4千人に11カ月間の兵役を課す」という。

 スウェーデンでは、信仰などの理由で軍務に就くことを拒否することは可能だ。良心的兵役拒否制度と呼ばれるもので、兵役の代わりに、その他の公務(例えば病院での奉仕活動)に就くことができる。

徴兵制により「攻撃に強い」国民性を築く

 スウェーデンでは徴兵制によって、国民が防衛に関心を持ち、「攻撃に強い」国民性を築くことも、非攻撃的防衛において重要な要素と考えられている。職業軍人、つまりプロに任せっきりになることは、国民全体の「防衛力」「抵抗力」を下げることになるし、職業軍人が勝手に行動するリスクを高めることにもなる。軍のシビリアンコントロールにおいては国民全体が関わることも意味がある。

B) 非攻撃的防衛

 軍事費もかなりある。最近、スウェーデンの軍事費は減少傾向にあるが、それでも軍事費はGDPの1~2%で、他の西欧諸国なみに高い。しかし、ここで強調されるべき点は、スウェーデンの安全保障政策は防御を主体に計画されており、非攻撃的であることだ。

 第一に、先述のように、スウェーデンは厳格な非核政策をとり、化学兵器に対しても生物兵器に対してもはっきりとした反対の態度を表明している。隣国に決して脅威を与えないように軍備が配置され、軍隊も仮想敵国に攻撃された時に備えた防衛演習に徹底している。言い換えるならば、スウェーデンの安全保障政策は、徴兵制や比較的に大きい軍事費と世界でもトップクラスの軍事技術力にもかかわらず、すぐれて非攻撃的・挑発的なのだ。

 日本の自衛隊も一見、「専守防衛」のもと防衛のみに徹して、非攻撃的のようにみえるが、 ・・・続きを読む
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いくつかの点で決定的に異なる。まず、日本は日米安保条約によってアメリカと軍事同盟を結んでいるために、アメリカ軍が挑発的・攻撃的であるかぎり、日本の防衛は相手を威嚇しうるし、攻撃的な要素を含む。つまり、日本の防衛政策は、アメリカの軍事戦略の一環としてとらえられるからである。次に、日本の防衛費は、GNPの1%をわずかに超える程度であるが、GNPが大きいために、その実際の額は世界上位にランクされうるもので、アジアでは中国に次いで大きい。これは近隣国に対しては、既に大きな脅威を与えうるものといえよう。

スウェーデンの軍隊の民主性、公開性

 スウェーデンの軍隊の特徴の一つは、その民主性、公開性にあるといえる。一般に軍事や安全保障に関する情報は秘密にされ、一部のエリートの手に握られがちだ。スウェーデンでも、軍事、安全保障、外交などの分野では、一般市民に対する完全な情報公開は無理である。しかし、スウェーデンには180年もの伝統を持つオンブズマン制度が存在し、オンブズマン委員が、市民の権利が保障されるべく裁判所や警察、軍隊なども含めた公共機関やそこに従事している公務員の監視を行っている。オンブズマンによる監視制度の存在意義は過小評価することはできない。徴兵制の導入は、軍部の大衆化といった副効果を生みだし、その分だけ情報の一般化が進むとともに民主化も行われた点も確認しておく必要があろう。

C) 民間防衛

 民間防衛の充実はスウェーデンの防衛政策において極めて重要な位置を占めている。日本では、第2次世界大戦での苦い経験もあって、一般市民が防衛の一翼を担うべく計画や練習に取り組むのは、まず考えられないことだ。しかし、西欧ではナチス・ドイツの占領下での市民による武力抵抗や不服従活動の流れからか、逆に一般市民の防衛計画への直接的参加は極めて自然に受け止められ、そのための理論化、及びその実践化は積極的に進められてきた。

非常時の民間防衛は義務

 スウェーデンでは民間防衛は義務制であり、非常時に備えて、防火、清掃、医療などの分野での特別訓練が行われている。非常時にはコミューン(地方自治体)はすべて地方レベルの民間防衛本部に変わり、あらかじめ決められていた国民が動員される。こうした任務以外に、非常時の特別な武装動員や通信のための動員もある。スウェーデン国民には、非常時にどのような任務に就くか、つまりどこに行き、何をするか、はっきりと伝達されている。これは本人だけの秘密であり、他に知らせてはならない。何人かのスウェーデン人に尋ねてみたが、特別の任務が決められていることは認めても、それが何であるかについては一切知らせてもらえなかった。かつて私のいたルント市では、毎月第一月曜日には、15分程度サイレンがけたたましく町中に鳴り響いた。これは非常時用サイレンのテストで、非常時の民間防衛の準備を促すものであると説明を受けた。民間防衛が極めて真剣に、現実的に取り組まれていることがわかる。

 こうした民間防衛に、できうるかぎり、攻撃される可能性を低くし、侵略の口実を与えないようにしながらも、攻められた時の防衛力を高めようという小国の真剣な防衛戦略が伺える。

 スウェーデンほど平和主義国としてのイメージを内外に徹底しえた国は少ない。しかし、徴兵制も民間防衛もあり、かなり強固な軍事力もある。

日本との差は政府に対する信頼度の違い

 翻って日本の状況をみると、自衛隊の増強に対しては常に国民の各層から批判の声があがり、徴兵制の導入は提案することさえ困難である。この差は一体どこから生じているのであろうか。幾つかの要因が考えられるが、決定的な差は政府に対する信頼度の違いであろうと考えられる。スウェーデンでは、政府、ひいては国家は、国民の利益の擁護者であるということが、極めて自然に受け入れられている。国民が非常に高い税金を払うことを了承しているのは、国家はその税金を悪用しないという確固とした信頼感が存在しているからであろう。福祉にしても防衛にしても、国家が信頼できるかどうか、あるいは信頼できうる国家であるかどうか、ということが重要なポイントとなる。日本ではこうした国家に対する信頼感は存在しない。現在の両国における民主主義の成熟度の差が、重要な意味を持っていると思う。スウェーデンでは、情報の公開はすぐれて高度なレベルで達成されており、軍隊をも含めた政府の械関の行きすぎをチェックするオンブズマン制度も整備されている。これに対して日本の不十分な民主主義体制のもとでは、政府に対する信頼度は低い。

 また日米安保条約のもと、アメリカ軍事戦略の一端を担っていることも重要なポイントだ。周辺の国際情勢の違いや歴史の違いなど、多くの違いがあり、簡単にスウェーデンのやり方をまねればいいというものではない。

 しかし、スウェーデンの方向は日本にとって大きな参考になることは確かだ。東アジア情勢は緊迫化している。中国や北朝鮮の挑発が続く中、トランプのアメリカの軍事戦略も流動的である。日本の今後の防衛戦略を展望するうえで、スウェーデンの非挑発的防衛から学ぶことは多い。

 スウェーデンの比較的強い防衛力を持ちながらも、隣国を挑発しない防衛のあり方は日本の今後の防衛政策の参考となりうるであろう。それにもまして、そうした防衛政策を可能にする民主的な社会システムこそ学び得るものといえるのではあるまいか。情報公開が徹底され、社会正義が高いレベルで達成された民主主義こそ、スウェーデンの防衛政策の前提となっているといえよう。


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スウェーデン王国 Kingdom of Sweden
      平成29年1月12日
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基礎データ  一般事情 政治体制・内政 外交・国防 経済 二国間関係

一般事情

1 面積  約45万平方キロメートル(日本の約1.2倍)
2 人口  約988万人(2016年3月、スウェーデン統計庁)
3 首都  ストックホルム(市人口約93万人、都市圏は約223万人)(2016年3月、スウェーデン統計庁)
4 言語  スウェーデン語
5 宗教  福音ルーテル派が多数
6 略史
    800-1050年頃 ヴァイキング時代
    1397年 カルマル同盟によりデンマーク王がスウェーデン王として即位
    1523年 グスタフ1世(グスタフ・ヴァーサ)即位。デンマークより独立
    1630~1648年 グスタフ2世アドルフ、ドイツ30年戦争に介入。ウェストファリア条約で大国としての地位確保
    1814年 ナポレオン戦争後、キール平和条約締結。以降非同盟・中立政策
    1818年 フランスから迎えられたカール14世ヨハンが国王に即位(現在のベルナドッテ王家始まる)
    1868年 「大日本国瑞典国条約書」締結、外交関係開始
    1946年 国連加盟
    1995年 欧州連合(EU)加盟

政治体制・内政

1 政体  立憲君主制
2 元首  カール16世グスタフ国王(1973年9月即位)
3 議会  一院制(349議席 任期4年)
4 政府  左派少数連立政権(2014年10月成立)
      (1)首相 ステファン・ロヴェーン(社会民主党党首)
      (2)外相 マルゴット・ヴァルストローム(社会民主党)
5 内政

 2014年9月の総選挙では、それまで2期8年にわたり政権を務めた中道右派連合(穏健党、自由党、中央党、キリスト教民主党)が敗北し、社民党及び環境党による少数左派政権(総議席数349議席中、連立政権の議席は計138議席)が成立。移民規制強化を主張するスウェーデン民主党が国会第三政党へと躍進(20→49議席)。
2015年の欧州難民危機により、同年16万5千人の難民が庇護を申請。政府の難民政策に対する不満もあり、一時は赤緑連合(与党+左翼党)支持率が中道右派連合支持率を下回った。2016年4月には、カプラン住宅大臣(環境党)が過激な宗教・政治団体への関与に対する批判を受け辞任。5月には環境党共同代表を務めるロムソン環境大臣兼副首相も辞任を表明。これを踏まえロヴェーン首相は5月末に内閣改造を行った。2018年の総選挙へ向けて、スウェーデンに受け入れた難民・移民の生活立ち上げ、教育、労働市場への参画促進等をはじめとした政治課題への対応が注目される。

外交・国防

1 外交基本方針

(1)外交基本方針
   (ア)積極的なEU政策の推進
   (イ)軍事非同盟政策を基本とした多国間安全保障協力
   (ウ)国際社会への積極的な貢献
(2)積極的なEU政策の推進 1995年のEU加盟後、現在ではEUをスウェーデン外交における最も重要なツールと位置付け、活発なEU外交を展開している。2009年後半にはEU議長国を努め、経済・金融問題や気候変動問題への対応を最重要課題としてこれらに積極的に取り組むとともに、リスボン条約発効に伴うEUの新たな体制への移行を円滑に進めた。
(3)軍事非同盟を基本とした多国間安全保障協力
   (ア)19世紀のナポレオン戦争以来、戦争に参加せず、「軍事非同盟」を外交政策の基本として推進(NATO非加盟)。2014年には、平和維持200周年を迎えた。
   (イ)2009年の国防法案により、連帯宣言(declaration of solidarity)を議決し、多国間安全保障協力を重視する立場を明確化。NATOには非加盟であるものの、2014年9月にはNATOとの「ホスト国支援」に関するMoUに署名するなど、協力関係の強化を進めている。
   (ウ)欧州安全保障協力機構(OSCE)、NATOの平和のためのパートナーシップ(PfP)、EUの欧州共通安全保障防衛政策(CSDP)、北欧防衛協力(NORDEFCO)等を通じて、各国との防衛協力・交流を推進。
(4)国際社会への積極的な貢献
   (ア)国連、EU、NATOとの連携のもと国際平和協力活動(PKO等)に積極的に参加しており、軍縮・不拡散、人権、環境問題等にも貢献。
   (イ)北欧・バルト地域における民主主義、安全保障、開発のための協力、北欧理事会、バルト海沿岸諸国評議会等において中心的な役割を果たし、各種枠組みを通じた協力を推進。
   (ウ)スウェーデンの2014年におけるODA実績は62億ドル(世界第6位)で、対GNI比は1.1%(世界第1位)であった。国際機関との積極的な協調やEUによる開発協力への関与増大を掲げ、成果重視の援助に努めている。

2 軍事力

(1)防衛費 448億クローナ(2015年予算)
(2)兵力 陸軍15千人、海軍4千人、空軍5千人(予備兵除く)

経済(単位 米ドル)

1 主要産業 機械工業(含:自動車)、化学工業、林業、IT
2 GDP    4,926億ドル(2015年、IMF)
3 一人当たりGDP  49,866ドル(2015年、IMF)
4 経済成長率  4.1%(2015年、IMF)
5 物価上昇率  0.7%(2015年、IMF)
6 失業率  7.4%(2015年、IMF)
7 総貿易額
(1)輸出  10,125億スウェーデン・クローナ
(2)輸入  10,113億スウェーデン・クローナ(2014年、ユーロスタット)
8 主要貿易品目
(1)輸出  機械類、電気通信機器、自動車
(2)輸入  電気通信機器、自動車、機械類
9 主要貿易相手国
(1)輸出  ドイツ、ノルウェー、英国、フィンランド、デンマーク
(2)輸入  ドイツ、ノルウェー、オランダ、デンマーク、英国(2014年、ユーロスタット)
10 通貨   スウェーデン・クローナ(SEK) (1クローナ=約12.4円(2016年9月現在))

11 経済概況

(1)経済情勢 欧州債務危機等による世界経済の混乱を受けて、2012年、2013年には経済成長率が低迷したが、2014年以降は高い伸びを記録し、2015年には経済成長率を4,2%とした。EU圏の成長鈍化や移民難民危機等に起因する見通しの不確実性は認識しつつも、2016年以降も経済成長が続くと見込んでいる。(数字はスウェーデン財務省)
(2)雇用情勢 失業率は改善傾向にあるがその水準は未だ高く、 2015年の失業者数(学生・雇用訓練中の者を含む・年平均)は38.6万人、失業率は7.5%(若年者の失業率は20.3%)(数字はスウェーデン統計庁)。今後、経済回復を受けた労働力需要の増大で雇用量が増え、失業率も徐々に低下していくものと見込まれている。
(3)財政金融政策 2016年9月、政府は「我々の社会の構築‐スウェーデンのための責任を果たす(Samhällsbygget - ansvar för Sverige)」と題し、2017年政府予算案を国会に提出した。2016年予算に引き続き、2017年予算案でも福祉、雇用、環境、治安・安全、難民支援、男女平等を重視する姿勢を示している。
  中央銀行は、2011年12月以降、低調な物価上昇等を考慮して段階的にレポ金利の引下げを行ってきている。2014年10月に史上初めて0%に達すると、2015年2月にはマイナス金利導入と段階的な国債買入れ実施を決定。その後累次にわたってレポ金利の引下げと国債の追加買入れを決定し、2016年9月時点で、レポ金利は-0.50%、2016年末までに計2,450億クローナ規模の国債買入れを実施する方針である。
(4)政府経済見通し
               2015年      2016年      2017年
   GDP成長率(実質)   4.2%       3.5%       2.3%
   失業率(16~74歳)   7.4%       6.8%       6.3%
   消費者物価上昇率(CPI)  0.0%       1.0%       1.5%
   (出典:スウェーデン財務省(2016年9月)

二国間関係

1 政治関係
(1)皇室・王室関係 カール16世グスタフ国王陛下は公式・非公式合わせて16回訪日されており、2007年3月の国賓としての訪日に続き、2012年にもシルヴィア王妃陛下とともに訪日された。最近では、2016年2月に科学技術代表団を率いて訪日されている。我が国からは、天皇皇后両陛下が2000年5月及び2007年5月に御訪問になったほか、2010年6月には皇太子殿下がヴィクトリア皇太子殿下御成婚式典出席のためスウェーデンを御訪問。さらに2013年6月及び2015年6月には、高円宮妃殿下がマデレーン王女殿下及びカール・フィリップ王子殿下御成婚式典出席のため、2016年4月には国王陛下70歳御誕生日祝賀行事出席のためスウェーデンを御訪問された。
(2)首脳レベルの往来
   (ア)2004年3月、パーション首相が訪日。首脳会談では、双方向の観光・投資促進、ITや福祉分野における協力等を含む二国間関係に加え、北朝鮮、イラク、国連改革等の国際情勢についても話し合われた。
   (イ)2006年5月、小泉総理がスウェーデンを訪問(我が国総理として初訪問)。首脳会談では、日・スウェーデン両国は、国内では高齢化対策、国際的には平和、人権、開発など先進国として共通の課題に直面しているとの認識の下、二国間及び国際社会において友好協力関係を発展させていくことで一致し、エネルギー問題、国際情勢、国連改革等についても話し合われた。
   (ウ)2008年4月、ラインフェルト首相が訪日。首脳会談では、良好な二国間関係を確認したほか、平和構築分野の人材育成において協力関係を更に強化していくこと、また気候変動問題において、両国が引き続き緊密に協力していくことで一致した。そのほか、北朝鮮や中国などの地域情勢及び国際的課題等についても話し合われた。
(3)外相レベルの交流
   (ア)2014年2月、ビルト外相が訪日。外相会談では、女性の活躍促進及び経済分野における協力を中心とした二国間関係に加え、積極的平和主義、日・EU協力、ウクライナ情勢及び東アジア情勢等についても話し合われた。
   (イ)2014年12月、ヴァルストローム外相が訪日。外相会談では、平和維持・構築、科学技術分野を含む二国間での協力促進に加え、日EU関係及び国連改革を含む国際場裡における協力についても話し合われた。

2 経済関係
(1)日本との二国間貿易 二国間の貿易上の障害となる懸案はなく、基本的に良好。近年、二国間の貿易は、基本的に日本の入超が続いている。
      年       スウェーデンへの輸出   スウェーデンからの輸入   収支
     2011年         1,927            2,559           -633
     2012年         1,390            2,507           -764
     2013年         1,261            2,326           -1,064
     2014年         1,351            2,187           -836
     2015年         1,337            1,871           -534
     (単位:百万ドル、出典:財務省貿易統計)
(2)主要貿易品目対日輸入 輸送用機器、電気機器、一般機械対日輸出 医薬品、一般機械、木材及びコルク
   (2015年、出典:財務省貿易統計)
(3)日本との投資関係
   (ア)日本の対スウェーデン投資 日本の投資によりスウェーデンに設立されている日系企業数は約114社(2015年在スウェーデン大使館調べ)。近年では情報通信(IT)や医薬品などの高付加価値分野を中心に、スウェーデンの高い技術力に着目した企業間提携や企業買収などのビジネスの動きが見られる。2015年末、日本からスウェーデンへの直接投資残高(製造業+非製造業)は4,679百万ドル。
   (イ)スウェーデンの対日投資 国際的に事業を展開する大企業が多いスウェーデンからの対日投資は、日本への製品輸出の販売網形成の目的が多い。2015年末、スウェーデンから日本への直接投資残高(製造業+非製造業)は1,237百万ドル。
   (ウ)日・スウェーデン間の直接投資実績(フロー)
     年       日本の対スウェーデン投資金額    スウェーデンの対日投資金額
    2012年          2217                     -59
    2013年          -307                     505
    2014年          1488                    -1131
    (単位:百万ドル、出典:財務省国際収支状況)
    (注)ネット・フロー:国際収支関連統計の基準変更により、2013年以前と2014年以降のデータに連続性はない。
        「-」は引き揚げ超過を示す。

3 文化関係

 スウェーデンにおける日本文化への関心は高い。茶道、華道、日本文学(特に俳句)等伝統的文化、武道等に対する関心は都市圏を中心に高く、各分野において、大規模ではないものの、関連団体が組織されている。また、日本関連友好団体も活発に活動を行っている。一方で、近年ではアニメやマンガなどの我が国のポップカルチャーや日本食に対する関心が高まっている。日本への観光客数も増加しており、2009年以降の統計をみると,2011年にはいったん減少したものの,2012年には東日本大震災前の水準を上回る3万人を達成し,2015年には約46,977人のスウェーデン人観光客が日本を訪れた(出典:日本政府観光局)。
 日本語学習は一定の人気がある(詳細は、http://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2014/sweden.html別ウィンドウで開く)。学術関係では、1992年にストックホルム商科大学に欧州日本研究所が開設され、また2001年には日本学術振興会(JSPS)ストックホルム研究連絡センターが開所している。

4 在留邦人数  3,804人(2016年9月)
5 在日当該国人数  1,832人(2016年9月)
6 要人往来

(1)往(2000年以降)
     年月            要人名
    2000年05月      天皇皇后両陛下
    2001年01月      河野外務大臣
    2001年09月      森山法務大臣
    2002年08月      坂口厚生労働大臣
    2002年09月      遠山文部科学大臣
    2002年12月      遠山文部科学大臣(ノーベル賞式典招待)
    2003年04月      細田科学技術政策担当大臣
    2004年01月      竹中金融・経済財政政策担当大臣
    2004年05月      茂木科学技術政策担当大臣
    2005年12月      小坂文部科学大臣
    2006年05月      小泉総理大臣
    2007年05月      天皇皇后両陛下
    2008年12月      塩谷文部科学大臣
    2009年05月      野田内閣府特命大臣
    2010年06月      皇太子殿下(ヴィクトリア皇太子殿下御成婚)
    2010年12月      高木文部科学大臣
    2012年11月      吉良外務副大臣
    2012年05月      鈴木外務副大臣
    2013年06月      高円宮妃殿下(マデレーン王女殿下御成婚)
    2013年09月      衛藤内閣総理大臣補佐官;根本復興大臣
    2014年07月      森内閣府特命担当大臣
    2015年06月      高円宮妃殿下(カール・フィリップ王子殿下御成婚)
    2016年04月      高円宮妃殿下(国王陛下70歳御誕生日祝賀行事)

(2)来(2000年以降)
     年月             要人名
    2000年03月 イエルムヴァレーン副首相
    2001年04月 ラーション環境相;カール16世グスタフ国王陛下
    2001年07月 イエルムヴァレーン副首相
    2001年10月 ヴィクトリア皇太子殿下
    2001年12月 シルヴィア王妃陛下
    2002年03月 エステロース教育科学相(バイオミッション)
    2002年06月 メッシング産業・雇用・通信担当相(W杯観戦)
    2003年03月 ソンメスタード環境相
    2004年03月 パーション首相
    2004年11月 ニークヴィスト農業・食料・漁業相
    2005年04月 ヴィクトリア皇太子殿下(博覧会賓客);エストロース産業・雇用・通信交通相
    2005年05月 フレイヴァルス外相(ASEM外相会合)
    2007年03月 カール16世グスタフ国王王妃両陛下(国賓);ビルト外相;ヘッグルンド社会相
    2007年06月 トシュテンソン・インフラ担当相
    2007年10月 カール16世グスタフ国王陛下
    2008年01月 レイヨンボリ教育・研究相
    2008年04月 ラインフェルト首相(実務訪問賓客);カールグレン環境相;ビョーリング通商担当相
    2009年03月 カールグレン環境相;ラーション高齢者ケアー担当相
    2010年05月 ヴェステルベリ国会議長(衆議院議長招待)
    2010年10月 カールグレン環境相(生物多様性条約COP10)
    2011年01月 アスク法相
    2012年02月 ビョーリング通商担当相
    2012年06月 カール16世グスタフ国王王妃両陛下
    2012年10月 ボリ財相(IMF・世銀年次総会出席);カールソン国際開発相(IMF・世銀年次総会出席)
    2013年03月 ベルフラーゲ外務副大臣
    2013年11月 ビョーリング通商担当相
    2013年11月 カール16世グスタフ国王陛下
    2014年02月 ビルト外相(外務省賓客)
    2014年11月 ハジアリッチ高校・成人教育相(ESDユネスコ世界会議)
    2014年12月 ヴァルストローム外相
    2015年03月 ロヴィーン国際開発協力相(国連世界防災会議)
    2015年05月 ヨハンソン・インフラ相
    2015年09月 アリーン国会議長
    2015年10月 レグネール子ども・高齢者・男女平等相;ヘルマルク=クヌートソン高等教育・研究相
    2015年11月 ダンベリ産業・イノベーション相
    2016年02月 カール16世グスタフ国王陛下
    2016年03月 ブフト農務相

7 二国間条約・取極等

    航空協定、租税条約、請求解決に関する取極、査証免除取極、司法共助取極、
    通商航海条約、科学技術協力協定、防衛交流に関する覚書