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続折々の記 ④
【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】04/01~     外務省SDGs     肝臓のケア
森友の終末     【 05 】04/08~     【 06 】04/22~
【 07 】04/24~     【 08 】04/26~     【 09 】04/27~

【 05 】04/08

    04/08 砂上の楼閣・世界の金融システム その罪は重い
         (1) 大規模な金融緩和4年、効果はあったのか? 「黒田緩和」4年の理想と現実
         (2) 黒田緩和、見えぬ「出口」 5年目に物価上昇見通せず
    04/06 トランプ大統領 海のものか山のものか
           ・ ポピュリズムの行方 独歴史家、マグヌス・ブレヒトケン

           ・ ※ 関心事 メニエール病について
           ・ ※ 関心事 徳川四天王
           ・ ※ 関心事 【歴戦の勇士】徳川家康を支えた徳川四天王とは


04/01 森友学園問題  01
04/01 敵基地攻撃能力「検討」(変わる安全保障) 01
04 02 世界の幸せな国ランキング 日本53位  01
04 01 持続可能な開発のための2030アジェンダ  02
04/05 科学研究費の削減 : 肝臓ケア  03
04 18 森友紛糾の終末 安倍政権の国民ダマシの暗黒  04
04/08 砂上の楼閣・世界の金融システム その罪は重い  05
04/06 トランプ大統領 海のものか山のものか  05
04/22 国民を鉛の兵隊にしたのは誰だ その罪は重い  06
04/23 田中宇の国際ニュース解説 世界はどう動いているか
 【01】中国に北朝鮮核を抑止させるトランプの好戦策  06
 【02】トランプの見事な米中協調の北朝鮮抑止策  06
 【03】トランプの東アジア新秩序と日本  06
 【04】混乱と転換が激しくなる世界  06
04/24 田中宇の国際ニュース解説 世界はどう動いているか
 【01】見えてきた日本の新たな姿  07
 【02】フィリピンの対米自立  07
 【03】台湾に接近し日豪亜同盟を指向する日本  07
 【04】潜水艦とともに消えた日豪亜同盟  07
 【05】日豪は太平洋の第3極になるか  07
 【06】No ceremony for Japan office in Taipei renaming  07
 【07】米国債利払い停止危機再び  07
 【08】米大統領選挙の異様さ  07
 【09】英国より国際金融システムが危機  07
 【10】欧州極右の本質  07
 【11】米大統領選と濡れ衣戦争  07
 【12】英国が火をつけた「欧米の春」  07
 【13】テロと難民でEUを困らせるトルコ  07
 【14】欧州の自立と分裂  07
 【15】欧米からロシアに寝返るトルコ  07
 【16】トランプの見事な米中協調の北朝鮮抑止策  07
 【17】トランプの東アジア新秩序と日本  07
04/26 キッシンジャー どんな人か
 【検索結果】  08
 【01】ヘンリー・キッシンジャー - Wikipedia  08
 【02】93歳の「キッシンジャー」がトランプ政権の黒幕なの?  08
 【03】「外交指南役」はキッシンジャー氏:トランプ氏の「親ロシア」への転換を実現  08
04/27 キッシンジャー どんな人か
 【04】キッシンジャー - 世界史の窓  09
 【05】ヘンリー・キッシンジャーは一体何をたくらんでいるのか?  09
 【06】悪魔を育てたキッシンジャー博士:中韓を知りすぎた男  09
 【07】世界交友録 ヘンリー・A・キッシンジャー氏|池田名誉会長の足跡  09
 【08】Amazon.co.jp: ヘンリー・キッシンジャー: 本  09
 【09】93歳のキッシンジャー氏、再び米中間の橋渡し-北京で中国要人と会談  09
 【10】米国「親中派」キッシンジャーの習近平への助言|雨のち晴れの記  09


 04 08 (土) 砂上の楼閣・世界の金融システム     その罪は重い

信用紙幣システムは国債発行により流通量の増減操作による金融の安定を図ることを原則としてきた。 そうでなくとも、武器商人の活躍は平和ではなく戦争により私有財産を増やすという手法を取り続けてきた。 それは大資本家を発生させその巨大化のうねりは止むところを知らないものとなっていった。

戦争によって儲ける人は誰か? 変化の因果を検証する基本的キイポイントはこの言葉となっている。

第一次世界大戦後、戦争による惨禍を拒否しようとした不戦条約は巨大資本家の思惑とは相容れなかった。 第二次世界大戦後の国際連合やUNESCO憲章の願いをも、死の商人たちはものともしなかった。

世界の平和を口では唱えながら、武器を作りそれを相手国に売りさばき国民の帰趨本能をくすぐって代議士たちをも含めて誤魔化し通す安倍政権となってしまった。

黄金律などうまく弁じたてようとも、凡人の目や耳をごまかすことはできない。 親の尽きせぬ愛とは人を悲惨な世界へ導くことではない。 人に希望とエネルギーをもたらし、快い安らぎの世界へ導くことが本道でなくてはならない。

金銭至上の考えでウソを通すことは人を地獄への道へ誘(イザナ)うものである。 断じて許すことはできない。



2017年4月5日05時00分▼2面 (いちからわかる!)
大規模な金融緩和4年、効果はあったのか?

写真・図版 【「黒田緩和」4年の理想と現実 】

 ■株価や雇用(こよう)は改善。物価上昇率(じょうしょうりつ)2%の達成は難しそうだ

 ホー先生 日本銀行が大規模な金融緩和(きんゆうかんわ)を始めて4年たったんじゃな。

 A 黒田東彦(はるひこ)総裁になった直後の2013年4月4日に始めたんだ。銀行からすごい量の国債(こくさい)を買い、代わりにお金を払(はら)う。これで世の中に大量のお金が出回り、金利も低くなる。投資や消費が増え、経済が活性化するのをねらったんだ。いま日銀は大規模緩和前の3倍の400兆円以上分の国債を持っている。

 ホ 効果はあったか?

 A 初めは低金利の円が売られドルが買われて円安になり、企業(きぎょう)の輸出が増えた。株価も上がった。仕事がない人の割合も減ったんだ。日銀は商品が売れて値段が上がり、「2年で物価上昇率(じょうしょうりつ)2%」の目標が達成できると考えた。14年春に消費税が8%に上がるころは1%台半ば(野菜などを除く)まできた。

 ホ ホホウ!

 A だけど、増税の後は商品はあまり売れなくなったんだ。物価はほとんど上がらなくなり、いまも景気の勢いは弱いままだ。

 ホ 目標には遠いのう。

 A 日銀は原油の値段が下がったこと、商品が売れないこと、海外経済が良くないことが原因だと説明している。2%は、黒田総裁の任期の18年4月までには達成できそうにない。

 ホ どうするんじゃ?

 A 日銀は昨年1月、「マイナス金利政策(せいさく)」を決めた。銀行が日銀に預けるお金の一部の利息をマイナスにしたんだ。預けたままでは額が減るから、銀行が預金を引き出して企業などに貸し出すよう促(うなが)す。昨年9月には長期の貸し出しにつく金利を「ゼロ%程度」に抑(おさ)える政策も始めたよ。

 ホ うまくいくかのう。

 A 黒田総裁は18年度に物価上昇率は2%に近づくと言うけど、そう考える専門家は少ない。景気は海外の動きにも左右されるから、期待通りになるかは見通せないんだ。

 (藤田知也)


2017年4月5日05時00分 ▼9面
黒田緩和、見えぬ「出口」 5年目に 物価上昇見通せず

写真・図版 【4年間で景気はどう変わった?/物価は伸び悩み、日銀の保有国債は急増している 】

 日本銀行が黒田東彦(はるひこ)総裁の就任後に始めた大規模な金融緩和は4日、5年目に入った。大量の国債買い入れやマイナス金利など、世界でも異例の政策を打ち出したが、「物価上昇率2%」の目標は、来年4月までの総裁任期中の達成は事実上断念。出口が見えない政策が続き、低金利を背景に政府の財政が拡張し続けるリスクが膨らんでいる。▼2面=「いちからわかる!」

 4日、東京都江東区のスーパー「たつみチェーン豊洲店」。女性客(69)が1パック300円の塩鮭(しおざけ)を手にとった。切り身より2割ほど安い鮭カマで、女性は「いろんな物の値段が上がっていて年金暮らしには厳しい。これは安くておいしいから助かる」。村松義康店長は「卵でも小さいサイズ、魚なら安い部位が売れる。お客さんの節約志向は強まっている」と話す。

 日銀の大規模緩和は、銀行などから国債を買って、代わりに市場に流し込むお金の量を「常識を超える極めて巨額なもの」(黒田総裁)とするものだった。金利を下げ、円安や株高を呼び、「景気はこれから良くなる」という認識を世間に広め、実際に物価や賃金の上昇にもつなげる戦略だ。

 日銀内でも「かなり挑戦的」(幹部)とされた「2年で物価上昇率2%」の目標を打ち出したのも、景気浮揚への本気度を示し、投資や消費を活発化させる効果を狙ったものだった。

 それから4年。円安や株高は進み、企業収益は改善し、人手不足で失業率は下がった。しかし、賃金は期待したほど伸びず、消費税や社会保障費の負担も増えている。企業収益増が実感として人々に行き渡っていない。

 円安・株高は、リーマン・ショック後の世界経済回復の流れで起きた面もあり、「運とタイミングに恵まれ、どこまでが金融政策の成果かはわからない」(明治安田生命保険の小玉祐一チーフエコノミスト)との評価も多い。

 ■将来のリスク棚上げ

 物価上昇率は14年に1%台半ばに上がった。日銀内では黒田総裁の政策に懐疑的だった幹部からも「このまま上がるかも」との声が出た。しかし14年4月の消費増税後、落ち込んだ消費はなかなか戻らなかった。

 同年10月の追加緩和で手を打ったが、海外経済の減速もあって景気は伸び悩む。16年1月のマイナス金利政策の導入では、想定外の金利の急低下で年金運用が悪化し、かえって消費者心理を悪化させる結果にもなった。同年9月には抜本的に政策を見直し、金利の急低下を防ぐ長期金利操作に踏み切った。

 しかし物価上昇率はなおゼロ%前後にとどまる。2%の達成時期の見通しは「18年度ごろ」となり、黒田総裁の任期が切れる18年4月までの達成は事実上断念した。

 巨額の国債買い入れを続けた結果、日銀の国債保有残高は3月20日時点で423兆円と、発行残高全体の約4割を占める。将来、政策目標の達成後に保有する国債を売るなどして減らすのは難しくなっている。金利が跳ね上がりかねず、日銀が国債の売却損を被りかねないからだ。

 黒田総裁は「出口戦略を議論するのは時期尚早だ」と、将来のリスクへの言及を避け続けている。みずほ証券の上野泰也チーフエコノミストは「後戻りできないような金融緩和を、やめる道筋もつけないまま続けているのは無責任だ」と指摘する。

 ■打開策に財政拡大も

 金融政策が手詰まりになりつつあるなか、財政政策で状況を打開しようという声が強まっている。

 その急先鋒(きゅうせんぽう)が、4日にも安倍晋三首相と面会した経済ブレーンで内閣官房参与の浜田宏一・米エール大名誉教授だ。大胆な金融緩和によるデフレ脱却を進言してきたが、最近はクリストファー・シムズ米プリンストン大教授の「シムズ理論」に着目。同理論は物価が上がるまで財政も大胆に拡大するべきだとするもので、浜田氏は、物価目標達成までは消費増税を凍結し、財政支出を増やすべきだと訴えている。

 与党内では、教育無償化のため「教育国債」を発行する案も浮上。財政健全化は一層遠のいている。

 膨らむリスクに、野党には追及を強める動きも出てきた。民進党は4日、異次元緩和のリスクを検証し、「出口」戦略を話し合う作業部会を発足させた。この日の初会合で、座長の古川元久・元経済財政相は「これだけ借金しても何も起こらない、日銀が(国債を)引き受ければ大丈夫と言われているが、そんな打ち出の小づちみたいなことはあり得ない」と安倍政権を批判した。(藤田知也、真海喬生、中村靖三郎)

 04 06 (木) トランプ大統領     海のものか山のものか

果たしてどうなるのか? 金魚の糞を離れるためには確かな軌道を予測しなければならない。

2017年4月6日05時00分 (インタビュー)
ポピュリズムの行方
   独歴史家、マグヌス・ブレヒトケン


 フランス大統領選やドイツ総選挙など大きな選挙が今年相次ぐ欧州各国で、排外主義を掲げ、欧州統合にも批判的な右派ポピュリスト政党が伸長している。トランプ米大統領を生んだ米国を含め、世界の民主主義はどこに向かおうとしているのか。ナチスが台頭した戦前との違いは何か。ドイツの歴史家に聞いた。

 ――英国の欧州連合(EU)離脱、米大統領選など直接的な投票で、世界が大きく動いています。ナチスドイツも1930年代、4度の国民投票で台頭しました。

 「30年代の国民投票と現代を比較することは非常に慎重であるべきだと思います。ヒトラーが権力を掌握した33年(1月)以降、特に2月の国会議事堂放火事件(共産主義者の犯行と断定して共産党を弾圧)を経て、法の支配は事実上廃止されました。ワイマール憲法の48条が発動され、同憲法が保障していたほぼすべての基本的な権利は完全に廃止されたのです」

 ――48条は「憲法停止の非常大権」を定めた緊急条項ですね。

 「憲法に何が書かれていても権力者のやりたいことができる。憲法に憲法を棚に上げる規定があったのです。それをヒトラーが利用した。(憲法という)法的側面だけでなく、政治的、社会的な弾圧も強まりました。突撃隊(ナチスの準軍事組織、SA)を使って社会民主主義者や共産主義者などあらゆる政敵に対する暴力が行使されるようになる。そうなると、普通の政治状況や自由選挙といった選択肢はもうありません。33年3月の総選挙は暴力と脅しが広がるなかで実施されたのです」

 ――その総選挙を経て、議会制民主主義を否定する勢力が議会で多数派を握りました。

 「ナチスの国家社会主義ドイツ労働者党は44%の得票でしたが、民主主義を否定する右派政党DNVP(ドイツ国家人民党)も8%を得た。つまり右側だけで議会を否定する勢力が過半数を占めた。一方、共産党の選挙前の支持は17%(選挙では12%)あった。彼らも議会を否定する勢力だった。つまり当時は左右合わせて約3分の2の議会勢力が反民主主義的、議会否定派の政党だったのです」

 ――日本でも大規模な自然災害やテロなど、非常時に政府権限を強める「緊急事態条項」を憲法に盛り込むべきかどうかが、改憲論議の焦点の一つになっています。

 「こうした条項は、民主主義の安定にとって、極めて危険です。各国とも何らかの規定はありますが、ナチスの経験から導き得るのは、権力を握ったものがそれをどう運用するかわからないということなのです。(ワイマール共和国の大統領)ヒンデンブルクは、この条項を発動したとき、どのような結果をもたらすか、理解していなかったのでしょう。権力の集中はいつでも極めて危険なのです。ドイツ新憲法でも68年に導入されていますが、極めて限定的なもので議会の同意も必要です」

     ■     ■

 ――ただ、いま、秋に総選挙を控えるドイツでも、AfD(ドイツのための選択肢)などの右派が台頭しています。

 「AfDは、数年前にできた新党で極右、反ユダヤ主義者、反ユーロのリベラル、反欧州、そして国粋主義者もいる。現時点では、投票する人の多くはこの党への支持ではなく、既存政党に移民政策などで政策的な変更を求めるシグナルとして投じています。ドイツには(議席を得るための支持に必要な)5%条項があり、現時点で彼らはそれを超えていますが、過去の経験では、こういった抗議政党は12%までは上がるものの、その後、消滅していくものです」

 ――英国でも、EUからの離脱を掲げた英国独立党(UKIP)も国民投票後は、支持が広がっていません。一方で、既成勢力への批判は世界的に広がっています。

 「この状況にドイツの主流政党、中道政党がどう対応するか。60年代の極右政党NPD(ドイツ国家民主党)が台頭した時のように、SPD(社会民主党)は左の、CDU(キリスト教民主同盟)は右の、疎外感を持つ有権者の支持を吸収できるかにかかっています。それによって過激な政党の支持は干上がる。中道が議会の7~8割を占め、安定化できます。この点が20~30年代のドイツとの非常に大きな違いです」

 ――ただ、ナチスの台頭も、既成政治への不満が発端でした。

 「その通りです。ただ、政治的な環境は全く異なります。30年代前半の有権者の多くは(第1次大戦まで続いた)帝政ドイツの専制主義的で非民主主義的な時代に生きてきた人たちです。ワイマール共和国下での12年間の民主主義を経験していましたが、それは大戦の敗戦によってもたらされたものという意識だった。敗戦はドイツ帝国や王政のせいではなく、ドイツ革命や社会民主主義者のせいだと考えた。つまり、敗北感と民主主義とが結びついていたのです。専制主義の伝統に慣れた33年当時の有権者は、議会制民主主義が機能していないと感じた。だからこそ、既成政治を打破し、国家の安定と国力を回復し、解決策を示すと訴えたヒトラーのような人物にひかれたのです」

 ――ヒトラーは巨額の赤字国債によって軍事的な支出を増やし、人気を高めていきます。

 「数年後に戦争や周辺国の占領で賄えるという前提だったのでしょう。35年の再軍備宣言(ベルサイユ条約の破棄)、徴兵制の復活は極めて高い支持を得た。新たな体制と党による全体主義、専制主義的な圧力だけでなく、人々がそれに慣れ、そうした政治的変化を国家にとっての成功だと信じていた。仮に38年のドイツで自由選挙が実施されていたとしてもヒトラーは過半数を得ていたでしょう」

 ――いまのドイツの有権者意識は、当時と比べてどうでしょう。

 「戦前とは全く異なります。70年に及ぶ安定した民主主義と議会制度を経験し、同性愛の権利、男女同権といったあらゆる面で社会が自由になった。全体として成功の物語であって、それは欧州という文脈の中で発展したものです。現代のドイツ人で周辺国から領土を得ようという人はいないでしょう。(EU本部のある)ブリュッセル支配への不満などに比べて、欧州が発展したこの70年間の平和ははるかに重要なものです」

     ■     ■

 ――「過去」を美化しようとする動きにドイツではどう向き合っているのですか。

 「ドイツでも40~50年代、過去に触れることを好まない時期がありました。多くの人は、ナチスの暴力や特にホロコースト(ユダヤ人大虐殺)について触れることに不快感を覚えていた。しかし自己批判的であることが常に求められるなかで、時間はかかったものの社会に変化を及ぼしたのです」

 ――歴史的にみて、政治や社会の安定を保つうえで必要なのは何なのでしょうか。

 「こういう時代だからこそ、議会や法治主義といった安定的なシステムによって揺れを吸収していくことが重要です。そのために自分自身、何ができるか。何をすべきか。同僚ともよく議論しています。過激なものからの脅威に対して、社会の安定のために自分たちの持っているものを活用することは歴史家としての責務だと考えています。書斎にこもるのではなく、外に出なければなりません」

 「(ドイツの反イスラム運動)ペギーダは『我々こそが人民の声だ』と叫びますが、そうではありません。彼らの票は抗議の票であって、有権者は極右、極左が志向する社会を望んでいるわけではない。AfDの政治家も時に人種差別的なコメントを投げかけ、社会の反応を試そうとします。そういう試みを成功させないようにするのが我々の責務です。暴力は暴力的な言葉から始まる。政治的な立場や考えが異なる相手に対して決して個人的な攻撃や人格否定をすべきではない。他人への敬意を持ち、合理的な方法で批判するのが基本原則です。この原則を超える言葉遣いを認めてはならない。ドイツで技術と社会がともに発展したのはこのためだと私は思います。少なくともドイツでは、社会の安定が必要だと確信する人の方が極右、極左の動きよりも活発だと私は信じたい」

* Magnus Brechtken 64年生まれ。現代史研究所副所長(独ミュンヘン)。専門はドイツ近現代史。比較政治論。

 ■民主主義の成熟、試される日本 東京大学教授・牧原出さん

 冷戦終結で共産主義の脅威がなくなり、リベラルデモクラシーは世界中に広がって「勝利した」はずでした。その民主主義が今、危機にさらされています。民主主義を支える経済の豊かさが2008年の金融危機以降、持続可能でなくなった。今なおすべての国で市民社会が成熟したわけではなく、民主主義を保てる国と、保つのが困難な国に分かれつつある。社会の不満が増すと独裁化ないしファシズム化という現象が出てきます。

 戦前、ナチスドイツは共産主義との対抗の中で全体主義、統制主義を先鋭化させた。今はそうした対抗勢力がなく、ポピュリズムをあおるリーダーの独裁的政治はまだ、行き当たりばったりの統制主義と排外主義など幼稚で野蛮な段階です。トランプ米大統領はツイッターで野蛮な発言はできても、議会では何もできない状態です。

 ファシズムでは市民社会の道徳や倫理がまひして全体主義や独裁が起こり、自由が失われます。米英のように民主主義が伝統として定着した国では、独裁にはなりません。「国家」対「市民社会」のせめぎ合いが続くでしょう。

 しかし、グローバル経済の危機や福祉国家で社会保障の失敗などが起これば話は別です。かつては大恐慌で生活が破綻(はたん)した人々は、異常な心理に陥りました。戦前のドイツも第1次大戦の賠償金支払いと恐慌で市民社会が壊れ、ファシズムに突き進んだ面がある。

 そもそもグローバル経済には、バブルの発生と破綻が不可避で、ポピュリスト政治家はその点を攻撃します。公正な貿易や温暖化対策を通じ、持続可能な形で調整し民主主義を進める新たな動きが長期的には必要です。ただ、そうした調整で鍛えられた「公正なグローバル化」が出てくると、より戦略的で周到な一国主義的、排外主義的なイデオロギーが出てくる可能性がある。それが21世紀におけるファシズムになるかもしれない。

 日本も民主主義の成熟度が試されています。野党不信から自民党に寄りかかるようになり、森友学園の問題が示唆するように、腐敗の許容につながる面がないか。復古的な歴史観やヘイトスピーチを容認する問題とも連動しているように見えます。「ファシズム化」「独裁化」は、民主主義の成熟で乗り越えていくしかないのです。

* まきはらいづる 67年生まれ。専門は政治学、行政学。今年3月まで英ケンブリッジ大で在外研究。

 (聞き手はいずれもヨーロッパ総局長・石合力)

「インタビュー」一覧

  (インタビュー)ポピュリズムの行方 独歴史家、マグヌス・ブレヒトケンさん(2017/04/06)
  (インタビュー)「鉄路半減」の挑戦 JR北海道社長・島田修さん(2017/04/04)
  (インタビュー)小さくなる赤ちゃん 早稲田大学理工学研究所研究院教授・福岡秀興さん(2017/03/28)
  (インタビュー)「共謀罪」のある社会 神戸学院大学教授・内田博文さん(2017/03/22)
  (インタビュー)「お気持ち」と政治 天皇制を研究する政治学者・原武史さん(2017/03/18)
  (インタビュー)子どもの心の復興 福島県立ふたば未来学園高校長・丹野純一さん(2017/03/10)
  (インタビュー)連合、だれのために 連合会長・神津里季生さん(2017/03/01)
  (インタビュー)新競技場に欠けたもの 中央大学教授・石川幹子さん(2017/02/21)
  (インタビュー)軍政に幕を引く ミャンマー前大統領・テインセインさん(2017/02/17)
  (インタビュー)北朝鮮、強硬の足元で 環日本海経済研究所主任研究員・三村光弘さん(2017/02/16)



※ 関心事 メニエール病について

メニエール病というと「若い女性がストレスでめまいを起こす病気」というイメージがあるのではないでしょうか。メニエール病の原因はずばり「内リンパ水腫(内耳のリンパが増え、水ぶくれの状態)」です。その根底にはストレス・睡眠不足・疲労・気圧の変化・几帳面な性格などがあると考えられています。

内耳には前述したとおり、①聞こえの細胞が詰まっている蝸牛と、②平衡機能を司る三半規管と耳石器があります。この両方もしくはどちらか一方が強く水ぶくれになるかにより症状が異なります。蝸牛が強く水ぶくれになれば、めまいは感じず難聴だけを自覚します。水ぶくれが弱ければ難聴を自覚せず、「耳が詰まった感じ」や「耳鳴り」、「音が響く感じ」のみ出現する場合もあります。反対に三半規管・耳石器が強く水ぶくれになれば、難聴や「耳が詰まった感じ」などは感じず、めまいのみを自覚します。めまいの強さも「グルグル回転する激しい」ものから、「フワフワ雲の上を歩いている感じ」のものまでさまざまです。めまいの持続時間は10分程度から数時間程度であることが多く、数秒~数十分程度のきわめて短いめまいが主である場合、メニエール病は否定的です。

すぐに診断できる病気なのでしょうか?

めまい=メニエール病と考えがちですが、メニエール病には厳密な診断基準があり、それを基に診断します。それは「難聴、耳鳴り、耳が詰まる感じなどの聴覚症状を伴うめまい発作を反復する」です。ここで一番大切なのは「反復する」という点です。めまい発作や難聴発作が1回起きただけではメニエール病とは診断できません。この診断基準を満たし、且つ類似の他の病気を除外できたものを「メニエール病確実例」と診断します。

また、聴覚症状のみ、めまいのみをくり返すタイプは「メニエール病非定型例」と診断します。非定型例は確実例よりさらに除外しなければならない病気が多く、厳密な検査と経過観察をすることが推奨されています。

類似の他の病気とは?

メニエール病の初回発作では、めまいを伴う突発性難聴と鑑別ができない場合が多いことは前述しました。その他に外リンパ瘻、内耳梅毒、聴神経腫瘍、小脳・脳幹を中心とした中枢性疾患など原因既知の疾患もメニエール病と類似の症状を呈し、鑑別が必要です。

どんな診察や検査が必要なの?

メニエール病は「くり返す」エピソードがあって初めて診断できます。従って十分な問診が大事です。めまいの診察では体のバランスを調べる検査(目を閉じて足踏みしてもらう検査などがあります)や眼振検査(目の動きの異常を調べる検査)を行います。聴覚症状に対しては耳内を観察し、聴力検査を行います。

症状がめまいのみでも、隠れた難聴がある場合を想定して聴力検査を行う必要があります。逆に聴覚症状のみでも、隠れためまいがないか眼振検査を行う場合があります。

中枢性疾患の除外には、他の脳神経症状がないか神経学的診察も欠かせません。体のバランスを調べる検査で小脳や脳幹の障害が発見される場合があります。

どんな治療をするの?

強い発作で嘔気が強く、薬を飲む事も出来ない時は安静の上でめまい止めの点滴を行います。内服が可能であれば、めまい止め・利尿剤を中心に抗不安薬や循環改善薬・ビタミン剤などを組み合わせて使用します。発作の初期に上手にめまい止めや抗不安薬などを用いることで、大きな発作の予防や症状の軽減を図る事ができます。

しかしメニエール病にはストレス・睡眠不足・疲労が関与していると考えられており、薬による治療だけでは根本的な治療にはなりません。「薬によって症状を抑える事が出来る」事で少し安心しつつ、ゆっくりとストレスの原因を見つめ直したり、生活習慣を正すことが必要です。

※ 関心事 徳川四天王

徳川四天王は、安土桃山時代から江戸時代初期に、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた

  ・酒井忠次
  ・本多忠勝
  ・榊原康政
  ・井伊直政
の4人の武将を顕彰した呼称。仏教の四天王に準えている。類似の概念として更に12人を加えた徳川十六神将がある。

本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人は1590年の徳川氏の関東移封から1600年の関ヶ原の戦いまでの時代に徳川氏の家政と関ヶ原の戦いに関わる大名工作・戦後処理に中心となって活躍して幕府の基礎固めに功績があり、特に彼らを指して徳川三人衆もしくは徳川三傑と呼ぶ場合もある。

「徳川四天王」の名称はいつから使われたかは定まらない。例えば歴史学者の中村達夫は、「徳川四天王」の名称の使用開始年代は不明とし、「徳川三傑」については『榊原家譜』を出典として1586年9月に使われ始めたとしている。中村によれば、1586年9月に徳川家康の名代として上洛した三名を上方の武将たちが「徳川三傑」と言い出したのが始まりだという。

その後、本多・榊原・井伊の三名は翌月、徳川家康上洛に随行して何れも叙位され、これに酒井を加えた四名の「徳川四天王」の名が巷間もてはやされるようになったと上越市文化財審議委員の村山和夫は考えている。

四天王はその後、1589年の家康関東移封時に家康配下の大名としていずれも万石以上となり、徳川家の重臣としての地位を確立する。既に徳川家臣団中、当主一門を除いては最高の官位・官職にあった井伊は家中最高の12万石を与えられて高崎藩を立藩、榊原は関東総奉行兼勘定方支配(後の関東郡代兼勘定奉行)に任じられて館林藩10万石を立藩、本多は年寄(後の老中)に任ぜられて大多喜藩10万石を立藩した。

酒井忠次は1588年に既に隠居しており、後継の酒井家次が下総臼井藩を立藩したが、わずか3万7000石という低い待遇を与えられ、他の四天王とは明確に格差が開いていた。これについて国学院大教授の根岸茂夫は、酒井は元々三河譜代筆頭であったが、家康の関東転封時の家臣団統制強化策の一環として、新参の武将を抜擢する方針があり、新しく台頭してきた本多・榊原・井伊の三名が家中で重きをなし、旧支配地の三河では東三河衆の旗頭として古い権力を持っていた酒井は、以前の松平信康自刃事件の責任を取らされて低い禄高に甘んじたとしている。

※ 関心事 【歴戦の勇士】徳川家康を支えた徳川四天王とは

   本多忠勝、
   井伊直政、
   榊原康政、
   酒井忠次

徳川家康を創業期から支え、天下取りに貢献した功臣、徳川四天王(酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政)について紹介します。

豊臣秀吉が羨んだ徳川家康の家臣団。その筆頭ともいえるのが「徳川四天王」である。家康に采配を教えた酒井忠次、武勇で戦局を一変させた本多忠勝と榊原康政、そして、赤備えを率いた井伊直政……。

① 家康を三河時代から支えた宿老
  酒井忠次
  1527年~1596年
幼名:子平次、小五郎
徳川四天王の中では最年長、筆頭に数えられる
家康が人質となって今川義元のもとにいた時も、彼はそばに仕え、身の回りの世話をしていたと言います。
忠次は三河一向一揆、三方が原の戦い、長篠の戦い、小牧長久手の戦い・・・等、徳川家の重要な戦いで数々の武功を挙げています。
特に1575年の長篠の戦いでは、織田信長に武田方への夜襲を献策し、落城寸前だった長篠城を救出するという大手柄を挙げて信長を感嘆させた。
ある時、徳川家康の嫡子信康に嫁いでいた五徳姫が、父織田信長へ信康とその母に武田家との内通の疑いがあると報告した。信長は家康に対し、この真偽を詰問。
その弁明の使者として酒井忠次が選ばれ、信長のもとへといった。しかし、忠次はうまく弁護できず、結果信康と母築山殿は死罪と決まった。
家康が関東に移封された時、嫡男家次が与えられた臼井三万石は、当時、徳川四天王の他の三人が十万石規模であったことに比べて小禄でした。これに忠次が抗議した際、「お前も我が子が可愛いか」と信康事件の事をひきあいに出したという逸話が残っています。

② 家康に過ぎたるものと言われた名将
  本多忠勝
  1548年~1610年
幼名:鍋之介 通称:平八郎
57度の合戦に参戦するも、一度も手傷を負わなかったと言われる名将
幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。このとき、同時に元服した
その後も永禄4年(1561)7月の鳥屋根城攻め、永禄6年(1563)の三河国一向一揆の鎮定戦などに従軍、永禄9年(1566)には騎馬50騎を任され、永禄12年(1569)には一手役の将となった。
元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行。そしてこの時必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となって朝倉軍を討ち崩した。
人物の評価として「徳川には過ぎたるものが二つあり、唐のかしらに本多平八」と称賛
「唐の頭」とは当時きわめて珍しかったヤクの毛皮で飾られた兜のことで「本多平八」はいうまでもなく忠勝である。
本多忠勝-家康を数々の窮地から救った功臣- - WISDOM
勇猛なだけでなく思慮深い一面も
勇猛なだけでなく思慮深い一面も
世に名高い「神君伊賀越え」であるが、このときにも忠勝は信長の敵討ちをしようと血気にはやる家康をとどめ、一同の先頭に立って振りかかる危難をはねのけた。
そのため、家康も「無事に戻ってこれたのは忠勝のおかげ」と感謝の意をあらわにしたと伝わる。
武勇ばかりが際立って目立つが、桑名藩の藩政では大規模な町割りや城郭の増改築などを積極的に行ない、実質的に桑名藩の藩政を確立した名君でもありました。

③ 井伊の赤鬼(赤備え)の異名を誇る猛将
  井伊直政
  1561年~1602年
幼名:虎松、万千代 通称:兵部
四天王の中では最年少
四人の中で唯一三河時代からの古参ではない
徳川四天王の中では飛び抜けた年少者であるが、その卓越した武勇・忠節・才覚・美貌などから家康に特に気に入られていたと言われている
井伊直政は、1561年2月19日、今川氏真の家臣・井伊直親の嫡男として、遠江国 井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で誕生した。幼名は虎松。
父・直親は、直政の生まれた翌年に謀反の嫌疑をかけられ今川氏真に誅殺される。
井伊氏は井伊谷の所領を没収され、2歳の直政も殺されようとしたが、寺にかくまわれながら一命をとりとめた。
信玄の幕下にいた山県昌景が旗・幟をはじめ武具・甲冑まで赤一色の武装にして先鋒をつとめていた「赤備え」を、直政はそのまま踏襲した。この140人の甲州武士団こそ「井伊の赤備え」として直政を不動の地位に押し上げる原動力となった。
1600年、関ヶ原の戦いが勃発すると、直政は家康の4男・忠吉の補佐役を務め、東軍の先鋒を任されていた福島正則を出し抜いて先鋒となり戦いの口火を切った。
しかし、合戦終盤、敗軍の追撃戦のなかで熾烈を極めた島津軍の撤退で、直政は追撃中に敵の銃弾を肩に受けてしまいます。すぐに治療がなされましたが、経過は思わしくなく、合戦から1年半たった頃に直政は亡くなりました。
関ヶ原ブログ : 2月1日は井伊直政が死亡した日
一方で冷酷で厳しい一面も
井伊直政は、名将として小早川隆景らに
絶賛された反面、冷酷な性格で知られ「人斬り兵部」と陰口をたたかれていた。
部下のちょっとしたミスを許すことが出来ず、すぐに手討ちにしたため、彼の下に配属された者たちは、毎朝出仕する際、水盃をしてから家の門を出たと言う。

④ 内政面でも徳川家に貢献した知勇兼備の将
  榊原康政
  1948年~1606年
幼名:於亀、亀丸とも
通称:小平太
三河一向一揆鎮圧戦で初陣を果たし、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられた
元亀元年(1570)の姉川合戦では朝倉勢に側面攻撃をかけ、劣勢にあった織田・徳川連合軍を勝利に導き、信長より褒め言葉を賜っている。その後、三方原合戦・長篠合戦などに参加する。
そして小牧・長久手合戦では先陣として尾張入りすると、檄文をして秀吉に精神攻撃をかけ、その首に十万石かけられたにもかかわらず、舅大須賀康高とともに長久手で三好秀次隊を壊滅させ、堀秀政隊に敗れるも、無事生還している。
康政は家康の嫡子信康に対して度々厳しい諫言を行ったことから、信康には煙たがれ、あるとき腹を立てた信康は、康政に対して弓矢を向けることがありました。
それでも康政は身じろぎもせずに毅然としていたために、信康は諫言を受け入れざるを得なかったという逸話があります。
小田原の合戦では伊豆・山中城を攻めて落とし、1592年には徳川秀忠付きとなり、秀忠の家督相続実現に尽力した。
関ヶ原の合戦において、康政は秀忠と中山道を進んだが、家康は秀忠に対し「軍事は全て康政に相談せよ」と命じている。
戦闘だけでなく意外な特技も
内政面でも活躍し、達筆を買われて家康の祐筆の一人として大名たちと文書のやり取りなどもしており、上杉謙信に宛てた手紙が現存している。
小牧・長久手の戦いの際に前年に信長の3男・信孝を殺害したという秀吉非難の文言も、達筆な文字であちこちに記された。