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続折々の記 2017⑤
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】05/03~ 【 02 】05/03~ 【 03 】05/16~
【 04 】05/21~ 【 05 】06/05~ 【 06 】06/07~
【 07 】06/08~ 【 08 】07/03~ 【 09 】健康長寿
折々の記 2017⑤
【 01 】~【 09 】内容一覧【01】 05/03 5月3日の朝日新聞 憲法施行70年
・ 憲法、きょう施行70年
・ 平和、「非軍事」失い骨抜き 憲法を考える
・ 施行70年 たどる、制定の原点 憲法を考える
・ 国民あっての憲法論議 憲法を考える
・ 日本国憲法の運命 東京大学名誉教授・長尾龍一さん
・ 憲法、人生の中に 憲法を考える
・ 昭和天皇、憲法GHQ草案「いいじゃないか」 幣原首相「腹きめた」
・ この歴史への自負を失うまい 社説
・ 先人刻んだ立憲を次代へ 社説
・ 憲法施行から70年 天声人語
【02】 05/03 安倍首相 憲法改正し2020年施行目指す意向を表明
05/03 キッシンジャー 日本
・ ヘンリー・キッシンジャー momo.748.htmlで扱った資料
・ キッシンジャー的に政治を見る
・ 93歳の「キッシンジャー」がトランプ政権の黒幕なの?
・ キッシンジャー博士から嫌われている「日本会議」
・ 日本の21世紀を予言する 【下平】注文済み
・ 安倍晋三首相の「価値の外交」 キッシンジャーの思惑
・ トランプ大統領の「外交指南役」はキッシンジャー氏
・ 中国にとってキッシンジャーの利用価値は失せている
杜父魚ブログが取り上げているニュース解説
【03】 05/16 アーミテージとは何者
【04】 05/21 安保関連法案は「第3次アーミテージ・ナイレポート」の要望通り?
05/27 前文科次官「文書示された」「総理の意向」
加計学園問題 前文部科学事務次官前川喜平氏
06/01 加計学園理事の内閣参与、前次官と接触 新学部も話題に
06/03 「官邸の最高レベル」文書 今も文科省職員のPCなどに保管
【05】 06/05 習近平政権の対北朝鮮外交の特徴と安全保障への影響
06/06 ユーラシアの地政学的環境と日本の安全保障
【06】 06/07 マスコミ頑張れ 一強独裁化した自民党員は自己主張ができない
【07】 06/08 アーノルド・トインビー 英国の歴史家
06/10 WINDOWS 10 のスタートページ「マネー」欄より
① 日本企業の海外買収で損失2兆円
② 子は親より豊かになれず、日本人悲観
③ 訪日外国人急増で浮かぶ今後の課題
06/05 習近平政権の対北朝鮮外交の特徴と安全保障への影響
【08】 07/03 都知事選翌日朝日の報道記事 実に快哉 !!
07/04 アメリカの独立に学ぼう 今の政権は暴政
【09】 07/05 憲法改正「僕は反対。これが信念です」 野中広務氏
07/20 面舵いっぱい「健康長寿」へ No.1 年寄の軌道修正
【 01 】05/02
05/03 5月3日の朝日新聞 憲法施行70年
・ 憲法、きょう施行70年
・ 平和、「非軍事」失い骨抜き 憲法を考える
・ 施行70年 たどる、制定の原点 憲法を考える
・ 国民あっての憲法論議 憲法を考える
・ 日本国憲法の運命 東京大学名誉教授・長尾龍一さん
・ 憲法、人生の中に 憲法を考える
・ 昭和天皇、憲法GHQ草案「いいじゃないか」 幣原首相「腹きめた」 発言示すメモ
・ この歴史への自負を失うまい 社説
・ 先人刻んだ立憲を次代へ 社説
・ 憲法施行から70年 天声人語
05 03 (水) 5月3日の朝日新聞
憲法改正の動きは猪突猛進の姿勢になってきた。 改正の中核は戦争肯定の方向である。 アメリカの言うままに動いている日本の行政 !! 憲法の願い戦争放棄への決別に向かってしまう。
こんなバカなことを国民は許してはならない。 もてなしの心を失い殺人を行おうとしている。
2017年5月3日05時00分
① 憲法、きょう施行70年
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12921056.html
日本国憲法は3日、施行70年を迎えた。
この10年で憲法をめぐる状況は激変。施行60年の節目に改憲手続きを定めた国民投票法が成立し、後の改正をへて投票実施の法的環境が整った。憲法論議の核心だった9条は、集団的自衛権の行使を認める安倍内閣の2014年の閣議決定で変質を余儀なくされた。
自民党政権ログイン前の続きは改憲を掲げつつ、60年安保以降は政治日程化は避けてきた。この一線を越えたのが、安倍晋三首相だ。
「しっかりと結果を出さなければいけない」。首相は1日、改憲派議員の集会に現職首相として初めて出席し、決意を示した。
▼②3面=平和「非軍事」失い骨抜き、 ③4・5面=原点たどる、 ④13面=「憲法の運命」、 ⑤27面=人生の中に
その他の1面掲載記事
⑥昭和天皇、憲法GHQ草案「いいじゃないか」 幣原首相「腹きめた」 発言示すメモ
⑦(社説)憲法70年 この歴史への自負を失うまい
⑧(社説)憲法70年 先人刻んだ立憲を次代へ
⑨(天声人語)憲法施行から70年
▼3面 2017年5月3日05時00分
②(憲法を考える)施行70年 現在地:中 平和、「非軍事」失い骨抜き
【科学や憲法をめぐる動き 】
日本の宇宙政策は、長く「非軍事」が原則だった。
それを担保したのは「平和目的に限る」と明記された1969年の国会決議。この「平和」の解釈が、国会で議論になった。
「世界的には『非侵略』という使い方もあるが、憲法というたてまえもあって、『非軍事』と理解されるのが常識では」
「その通り」。科学技術庁長官が応じた。
しかし2008年、宇宙開発の目的に「我が国の安全保障に資する」を盛り込んだ宇宙基本法がつくられ、宇宙の軍事利用に道が開かれた。自民、公明の与党に、最大野党・民主党も加わった議員立法。「携帯電話の普及など通信技術の広がりで、安保も産業振興も宇宙開発抜きにはできなくなった」。当時、麻生内閣の官房長官だった河村建夫氏(74)は振り返る。
国会での実質審議はわずか4時間。軍事利用に歯止めがかからなくなるとの懸念に提案者は、基本法1条「憲法の平和主義の理念にのっとり」を引き、問題ないと繰り返した。
実際はどうか。「非軍事」という明確な歯止めを失い、「平和」はいかようにでも解釈可能となった。
12年には宇宙航空研究開発機構(JAXA)の役割を定める法律からも「平和目的に限る」が消え、JAXAと防衛省の共同研究が始まった。科学技術基本計画などにも「国の安全保障に資する」が入った。
安倍政権下の15年、安全保障は宇宙基本計画の「3本柱」に格上げされ、有識者らによる宇宙政策委員会に安全保障部会が新設された。今の部会長代理は元航空幕僚長だ。「首相の権限が制度的に強まっているのは確か。科学政策にも政権色が反映されている」。ある官僚はつぶやく。
JAXAの川口淳一郎シニアフェロー(61)は言う。「防衛と切り離して探査機を打ち上げられる国は他になく、世界に誇れる。防衛は重要だが、防衛で学術を推進するのでは、世界をあっと言わせる研究が生まれない」。03年に打ち上げられ、10年に小惑星から「奇跡の帰還」を果たした探査機「はやぶさ」。川口氏は、この世界初のプロジェクトを指揮した。
■「安全保障」、科学研究を侵食
防衛省が大学や企業などからプロジェクトを募り、資金を提供する「安全保障技術研究推進制度」。3年目の今年度は、前年度の6億円から110億円へと一気に拡充された。
ロボット技術の研究者で千葉工業大未来ロボット技術研究センター所長の古田貴之氏(49)は一昨年、この制度に応募した。だが、軍事に転用される可能性を捨てきれないと判断し、途中辞退した。
古田氏のもとには米国や中国、韓国、ロシアなどの軍関係から年間数十件、協力の依頼が届く。「数百万ドル」とほのめかすものもあるが、断っているという。
もちろん、そんな研究者ばかりではない。防衛省の制度には初年度109件の応募があり9件が選ばれた。兵器そのものの開発でないことが強調され、軍事と学術の距離は縮まる。
憲法23条が保障する「学問の自由」は軽んじられ、成長戦略の名のもとに、「知」を含めたさまざまな資源が国家に集約されていく。国を守る。役に立つ。カネになる。「きれいごとを言っていられる時代ではない」という社会の空気が、憲法が育んできた平和や自由といった価値を、ソフトに侵食してきた。
大学等の研究機関における軍事的安全保障研究は、学問の自由と緊張関係にあることを確認する――。日本学術会議が今春、半世紀ぶりに出した声明は、そんな風潮に23条で歯止めをかけようという試みでもある。一方、9条には踏み込まなかった。「自衛の概念は肥大化している。9条の論議を避けたのではなく、やっても意味がない」。声明をまとめた法政大の杉田敦教授(58)は言う。過去2回の声明にあった「平和」の文字は今回、ない。
古田氏に憲法を意識したことはあるかと尋ねると、「ない」と言い切った。
「憲法があろうとなかろうと、私は軍事に手は出さない。いいか悪いかを自分で判断せず、『誰か』がいいと言っているからいいというのは、終わりの始まりではないでしょうか」
意識的な骨抜き。無意識の体現。そうして憲法は70年、1文字も変わらずやってきた。
「問題は憲法の規定そのものではなくして、これを守る精神にある」
のちに司法相となる鈴木義男は敗戦の翌年、衆院憲法改正案委員小委員会で、戦争放棄の条項に「平和」を入れるよう強く主張した。黄ばんだ原稿用紙に残された彼の文章が、学校法人の東北学院に保管されている。(竹石涼子、三輪さち子)
▼4面 2017年5月3日05時00分
③(憲法を考える)施行70年 たどる、制定の原点
【日本国憲法の制定過程 】
国民主権と戦争放棄をうたう日本国憲法の施行から70年。天皇主権を掲げた明治憲法から百八十度の大転換を果たす過程で何が起こり、どんな議論があったのか。日本側関係者の動きに焦点をあて、振り返る。
(編集委員・豊秀一)
■憲法改正、天皇の指示 必要性、いち早く認識か
いち早く動いたのは、昭和天皇だった。
1945年9月4日、戦後初となる帝国議会の開院式での勅語で「平和国家確立」に言及し、戦後日本の目標を示した。
昭和天皇実録によると、9月21日、天皇は側近の内大臣、木戸幸一と面会。木戸はそのあとすぐ内大臣秘書官長、松平康昌に憲法改正問題の調査を依頼した。さらに10月11日、天皇は、内大臣府御用掛となる近衛文麿に直接、ポツダム宣言受諾に伴って憲法改正が必要かどうか、必要ならばどの範囲を変えるか、調査を命じた。
明治憲法の下で改憲を発議できるのは天皇のみ。天皇による憲法改正プロジェクトが始まった。
連合国軍総司令部(GHQ)による憲法改正の動きも急だった。
ポツダム宣言は軍国主義を徹底的に取り除くことや、民主主義的な傾向の復活・強化などを盛り込んでいた。最高司令官マッカーサーは10月4日、近衛に憲法改正を示唆。8日、マッカーサーの政治顧問アチソンが近衛に、天皇の権限の削減や人権保障、国民投票による憲法改正手続きなど12項目の改正点を伝えた。この日の午後、近衛は木戸を訪ね、アチソンとの会談の内容を報告した。
9日、幣原喜重郎内閣が誕生。マッカーサーは11日、あいさつに訪れた幣原に憲法の改正を示唆した。13日、政府の憲法問題調査委員会(委員長・松本烝治、以下松本委員会)の発足が決まった。
憲法草案作りは(1)天皇とマッカーサーから指示を受けた近衛(2)政府の松本委員会の、二つのルートで進められることになった。
ところが、近衛にとって予想外のことが起きる。
国内からは、東久邇宮稔彦内閣の総辞職で閣外に去った近衛が憲法改正案を起草することについて批判の声が上がった。米国からも、近衛が日中戦争開戦時の首相だったことなどを理由に、戦争指導者が憲法改正の作業を進めることを問題視する向きが出てきた。
GHQは11月1日、内閣の一員でなくなった近衛について「憲法改正の問題に何の関係もない」とする声明を発表。しかし天皇は、近衛の案を待ち続けた。
実録によれば、天皇は22日午後、1時間にわたり近衛から案の説明を受けた。アチソンが近衛に伝えた内容に沿ったもので、軍の規定についても「削除か修正を考える必要がある」と指摘、自由主義的な色合いの濃いものだった。
近衛案は26日、天皇から幣原に渡されたが、顧みられることはなかった。そして、GHQから逮捕命令が伝えられた近衛は12月16日未明、服毒自殺した。
天皇による憲法改正の調査について、木戸は手記で「終戦後の世論の動きから見て、憲法をこのままにしておくことができないことは明らかだった」とし、天皇自身が憲法改正の範囲などを研究していたという実績を残しておきたかった、と振り返っている。
高見勝利・上智大名誉教授は「天皇はポツダム宣言の受諾で憲法の大幅改正が必要になると早くから認識していたのだろう」と話す。
■軍規定の全面削除 自衛権、すでに論争の芽
松本委員会は、明治憲法を抜本的に改革する発想を持つことはできなかった。しかし、軍隊をめぐっては全面削除の是非が議論され、その後の自衛権論争の端緒が見えてくる。当時、法制局次長として委員会に参加した入江俊郎の著書「憲法成立の経緯と憲法上の諸問題」によると――。
46年1月26日、松本委員会の調査会。軍の規定を残した小幅な改正案「憲法改正要綱」(甲案)と、軍の規定を削ったより広い改正案「憲法改正案」(乙案)が比較検討された。軍の規定をめぐり、松本は、幣原が「削除してはどうか」と明言したことを紹介しつつも、「(自分は)若干の字句の修正をして残したい」と発言した。
30日の閣議では、具体的に条文となった憲法改正案を戦後初めて議論することになり、こんなやりとりがあった。
幣原「軍の規定を憲法に置くと連合国は面倒なことを言うに決まっている」
法制局長官石黒武重「削除しても、将来憲法を改正しなくても軍は置ける」
厚生相芦田均「天皇が軍を統帥するとなっているが、国民の代表に服するのがデモクラシー。天皇に服従する規定はいかがか」
法相岩田宙造「今日の政治情勢からは削った方がよい」
外相吉田茂「ホイットニー(民政局長)と打ち合わせをし、相手の意向を確かめてはどうか」
石黒の主張からは「自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、禁止されているわけではない」とする内閣法制局の解釈の原型がうかがえる。
2月2日の松本委員会の総会でも議論は続いた。内閣書記官長楢橋渡が「軍の統帥に関する規定は削ることに賛成」とする旧軍幹部の意見を紹介し、「警備隊のようなものが作られても、軍ではないし、憲法で決めなくてもいい」と発言。松本は「独立国たる以上、軍がないということは考えられない」。憲法学者の宮沢俊義は「平和国家という大方針を掲げる以外、日本には道はない。残しておいてもどうせ形式的なので、つつかれるだけなら置かないほうがいい」と削除を主張した。
激しい議論が続く中、幣原とマッカーサーが1月24日に会談する。
この席で幣原から新憲法に「戦争放棄条項」を設けることを含め、日本は軍事機構は一切持たないことを決めたいという提案があった――。「マッカーサー回想記」などにそう記されていることから、9条発案者=幣原説がある。これに対し、2月21日の対談で、幣原がマッカーサーからの戦争放棄の提案に消極的な発言をしたことなどを理由とする反論もあり、9条の発案者が誰かをめぐる論争は決着していない。
■平和国家の誕生 天皇は「象徴」、GHQ案の衝撃
46年2月8日、松本は明治憲法の微調整に過ぎない「憲法改正要綱」をGHQに提出した。ただ、その1週間前に毎日新聞が委員会の試案をスクープ。「あまりに保守的」として、GHQは自ら憲法草案の起草を始めていた。
2月13日、外務大臣官邸。GHQ民政局長のホイットニーは、松本や吉田らに要綱の拒否を伝え、GHQが作成した草案を手渡した。「皇帝は国家の象徴にして……其(そ)の地位を人民の主権意思より承(う)け」「国民の一主権としての戦争は之(これ)を廃止す」。日本側がとりわけ驚いたのは、「統治権の総攬(そうらん)者」である天皇が「象徴」になったことだった。
松本は翻意を促そうとしたがかなわず、19日に経過を閣議で報告。「とうてい受諾できない」などと驚きが走った。極めて重大な事態だとして、幣原が21日にマッカーサーを訪ねる。入江の記録では、マッカーサーはこう発言した。
「これで天皇の地位も確保できるし、主権在民と戦争放棄は交付案の眼目。特に戦争放棄は日本が将来世界における道徳的指導者となる規定だ」
翌22日午前の閣議で幣原がマッカーサーとのやりとりを報告した。象徴天皇と戦争放棄以外で妥協の余地を見いだすほかやむを得ないと大筋で一致。午後に幣原が天皇に報告した。草案を持参し、1時間以上にわたって経緯を伝え、天皇は「これでいいじゃないか」と了承した。
草案に沿って政府案の作成作業が進められ、3月4日から5日までGHQとの徹夜の協議で確定。政府は6日、「憲法改正草案要綱」として発表した。
6月20日に帝国議会が開会。衆議院では9条2項に「前項の目的を達するため」という文言を挿入、生存権の規定を追加するなどの修正が加わった。貴族院では文民統制条項などが入った。
11月3日、日本国憲法が公布された。天皇は勅語で述べた。「朕(ちん)は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ」
▼5面 2017年5月3日05時00分
③(憲法を考える)施行70年 国民あっての憲法論議
改憲を志向する政治勢力が国会で3分の2を超える。そんな時代のあるべき憲法論議とはどういうものか。主権者である国民が置き去りにされたまま、国会での議論が進もうとしてはいないだろうか。(編集委員・国分高史)
■まず統治の仕組み、再考を
「憲法は国の未来、そして理想の姿を語るもの。新しい時代の理想の姿を描いていくことが求められている」
安倍晋三首相は4月26日の日本国憲法施行70周年の記念式で、憲法改正への意欲を改めて示した。
首相に賛同する「改憲勢力」は、両院で改憲案の発議に必要な3分の2を超える。民進党も改憲そのものは否定しておらず、改憲論議は具体性を帯びながら進められていくことになるだろう。
自民党が想定しているのは、緊急事態条項とそれに伴う議員任期延長の特例新設や、日本維新の会が掲げる幼児から高等教育までの無償化などだ。これらのメニューの中から、野党や国民の合意を得られそうな項目を絞り込んでいきたい考えだ。
だが、ここに並ぶ項目はいずれも「改正をしなければ国民の自由や権利などを保障できない」という説得力に欠ける。改憲そのものが目的になっていることの表れだ。
日本国憲法は70年間、一度も改正されなかった。憲法論争の中心が9条だったこともあるが、憲法の条文が全体として抽象度が高いことも影響している。
ドイツやフランスは憲法改正を重ねてきたが、政府や議会など統治機構に関する規定が日本とは違って憲法に細かく規定されていることも理由のひとつだ。
日本でもこれに匹敵する改革が、憲法に付属する国会法や内閣法、公職選挙法などの改正によって行われてきた。衆院の小選挙区制導入や政党助成制度の創設、中央省庁の再編や内閣機能の強化などがそれにあたる。
これらの改革は二大政党化を促し、2009年には政権交代が実現した。首相が指導力を発揮しやすい環境もととのえられた。その半面、選挙結果が時々の風に大きく左右されることや権力の一極集中の弊害も目立ってきた。
一方、衆参両院で多数派が異なる「ねじれ」になると政治がとたんに立ちゆかなくなることや、国会審議が形骸化していることへの対処は手つかずだ。
憲法と付属する法による統治の仕組みは、国民の意思を反映させるのに最適なのか。国会は自らを律する改革を怠ったまま、いたずらに憲法改正に走ろうとしているのではないか――。
浮かんできたこうした問いをもとに、統治機構、とりわけ国会にかかわる論点を考えてみた。
■解散権 「首相の専権」弊害も
昨年は解散風が2度吹いた。夏の衆参同日選と年明けの衆院選をにらんだものだ。
結局は見送られたが、衆参の相乗効果で票の上積みを図りたい、選挙区割りの変更前に選挙をすませたいといった、与党の思惑が先行しての解散論だった。
安倍首相は14年11月、消費税率引き上げを先送りする判断の是非を問うとして衆院解散に踏み切った。野党の準備不足を見越しての任期半ばの解散には、党利党略との批判が出た。
憲法69条が規定する内閣不信任案の可決によらなくても、内閣は天皇の国事行為を定めた7条によって解散できる。これが憲法解釈の通説だ。7条解散は、政界では「首相の専権」との位置づけが定着している。
一方、イギリスは11年の議会任期固定法で解散を制限。下院の3分の2以上の承認などが必要になった。保守党と自民党の戦後初の連立政権のもとでの安定した政治を実現する狙いがあり、当時のキャメロン政権はその後の5年間で財政再建に一定の成果を上げた。
こうした流れを受け、3月の衆院憲法審査会で民進党の枝野幸男氏は「議会の少数派に対してさらに優位性を強める解散の仕組みは、有害である可能性すらある」と主張。
参考人の木村草太・首都大学東京教授も「党利党略を抑制するため、解散権に何らかの制限をかけるのが合理的だ」と述べた。
総選挙は有権者の意思表明の重要な機会であるし、首相が「伝家の宝刀」を持つことが政治に適度な緊張感を与えてきたことは確かだ。
ただ、3年ごとの参院選の間に不定期に衆院選がはさまる頻繁な国政選によって、消費税率の引き上げなど、不人気な政策が次々に先送りされるといった弊害も大きくなっている。
90年代の政治改革や00年代以降の内閣機能の強化で首相に権限が集まる中、自由な解散権を温存するのは権力の過剰な集中になるとの見方も出てきた。
これらのバランスをどうとっていくか。野党だけではなく、憲法学や政治学の立場からも憲法論議の一環として検討するにふさわしいと声が強まっている。
*
<解釈で当初論争> 1948年、第2次吉田茂内閣は7条で新憲法下初の解散に踏み切ろうとした。だが、野党とGHQは「7条による解散は天皇主権の発想だ」として69条以外の解散はできないと主張。解散権をめぐる憲法論争が起きた。
結局、与野党合意のもとで野党が出した不信任案を可決して解散したため、「なれ合い解散」と呼ばれた。
第3次吉田内閣は主権回復後の52年、国会召集直後に7条に基づく解散を断行。こんどは「抜き打ち解散」と称された。
これについて朝日新聞は社説で「7条に基づき政府が一方的に解散しうる前例を開いた。これはイギリス流の議院内閣制をとる以上は当然のこと」と評価した。
一方、失職した苫米地義三・前議員が「解散は違憲」と提訴したが、最高裁は60年に「解散のように政治性の高い行為は裁判所の審査権の外にある」と判断を避けた。
このころには7条解散を認める憲法解釈が主流になり、論争も収束。86年には中曽根康弘内閣の「死んだふり解散」による衆参同日選が批判されたこともあったが、解釈はそのまま現在にいたっている。
■参院改革 地方代表なら権限は
一票の格差是正のため、昨夏の参院選で県をまたぐ「合区」ができた。11月の参院憲法審査会では「都道府県の代表で構成する参院を憲法に明記すべきだ」と、改憲による合区解消の声が自民党から続出した。
参院議員を都道府県代表とするなら、両議院は「全国民を代表する」とした43条との矛盾を解消しなければならないし、衆議院とほぼ同じ権限のままでいいのかとの議論も出てくる。
2月に自民党憲法改正推進本部に招かれた上田健介・近畿大法科大学院教授は「(地方代表性を認めて)投票価値の平等を弱めるならば、それに相応して権限を弱めなければならない」と話した。ただ、国政全般に関する権限を弱めることには参院議員の抵抗が根強い。「参院不要論」につながりかねないからだ。
公明党の西田実仁氏は参院憲法審で「国民主権が参院改革の基本的視点であり、衆院議員も参院議員も全国民の代表という性格付けが適切だ」と主張した。 そもそも参院は、GHQが1946年に政府に示した憲法草案にはなかった。政府は「抑制機関としての第二院が必要だ」と主張して参院を認めさせた。
しばらくは会派「緑風会」を舞台に無所属議員らが独自性を発揮していたが、全国区の廃止(82年)や1人区の増加で党派化が進んだ。「衆院のカーボンコピー」との批判は絶えず、超党派議連が衆参統合して一院制とする改憲案をまとめたこともある。
■国会審議 「事前審査」で形骸化
国会は、国権の最高機関にふさわしい審議をしているのだろうか。国論を二分する重要法案でも議論は尽くされず、与党は採決強行を繰り返す。選挙制度は変わっても審議のありようはほとんど変わらず、形骸化も指摘される。
その原因は、与党による内閣提出法案の事前審査だと大山礼子・駒沢大教授は指摘する。
大山氏によると、日本は議院内閣制にしては国会の権限が極めて強い。政府は制度的には国会運営に関与できず、法案提出後は原則として修正の権限もない。
このため、成立を確実にしておきたい政府と自由に意見を言いたい自民党の思惑が一致して国会提出前の審査が始まり、70年代に定着した。実質審議はそこですませてしまうので、与党は国会ではひたすら原案通りの成立をめざす。
欧州ではしばしば議会制度が改革される。曽我部真裕・京大教授によると、例えばフランスは2008年の憲法改正で野党提案の法案審議に一定の日程を割くなどの議会改革を盛り込んだ。曽我部氏は「欧州では政治制度のあり方を議論し、民主主義を進化させていこうという意識がある」という。
法案の逐条審査や議員間の自由討議の実施、会期不継続の原則の撤廃など、日本では法や規則の改正だけでも審議の充実を図れるのに、改革の機運は乏しい。宍戸常寿・東大教授は「国会での決定を、国民が自分のものとして納得するためには、審議の質を高めることが必要だ」と話す。
▼13面 2017年5月3日05時00分
④(憲法を考える)施行70年 日本国憲法の運命
東京大学名誉教授・長尾龍一さん
【「学生の『造反答案』というのがあって、昔は左から攻撃されたけど、今はもっぱら右から」】
日本国憲法は、一度も改正されずに施行70年を迎えた。それはなぜか。これからどうなるのか。日本の歴史や日本人の心理、国際情勢などから、何が読み取れるのだろうか。法のあり方を根源的に考える法哲学の大家で、憲法の擁護が先に立つ憲法学に厳しい批判を加えてきた長尾龍一さんに「憲法の運命」を聞いた。
――日本国憲法が70年改正されなかった理由をどう考えますか。
「直接的には、国民の3分の1以上が護憲勢力に投票し続けたからですが、制定当時の国民に強い感激をもって受け入れられたという事実が大きい。個人を極端に粗末にした軍国主義下に生きてきた日本人は、憲法の『すべて国民は、個人として尊重される』(13条)などの言葉に接して、救いと光明を見ました」
「80代中ごろ以上の女性たちには、今でも目を輝かして当時の感激を語る人たちがいます。1925年に普選(普通選挙)が導入され、次は婦選(婦人選挙)だと運動が盛り上がっていたが、軍国主義の逆流に阻止された。それを実現した新憲法には、何より女性たちの強い支持がありました。さらに、解放感は逆転しにくいという単純な事実もあります」
――どういうことでしょうか。
「戦時中には、軍隊でも学校でも上が下を序列に従って殴るという軍隊的秩序が日本を支配していましたが、戦後になると、都合の悪いことは忘れるという人間の通有性で、殴られたことだけ覚えている。国民の大部分は殴ったことは忘れ、被抑圧者として解放感を持った。もう殴った側の意識に戻れと言われても戻りませんよ」
――そういう解放感を知らない世代が多数を占めていても、改正されないのはなぜでしょうか。
「日本国憲法が技術的によくできていることも大きいでしょう。憲法草案を作成したGHQ(連合国軍総司令部)は、かなり高度な知識人集団だった。彼らの多くは、軍人になる前、あるいは退役後は、教授や弁護士やジャーナリストでした。民政局で作成の中心だったチャールズ・ケーディスは優れた法律家で、内閣など自国と異なる制度もよく考えて作った。内閣と議会の権限関係などは、だいたいバランスが取れています」
――護憲的な憲法学には批判的でしたね。
「僕も広義の護憲派のつもりでいるのですが、彼らが唱えたことの中に、冷静な知識人から見て疑問なことが少なくなかった。国家の中の伝統の位置づけとか、共産圏の実態の認識とか、国際政治における軍事の意義とか。護憲派の情念的源泉は戦中への怨念で、その根は深く、今も消えていない。僕のような戦争末期を幼児として体験した戦末派も、それなりに怨念を共有しています」
*
――では、「押し付け憲法論」をどう見ていますか。
「昔の論文で、日本国憲法は民法でいう『履行による追認』にあたるのではないかと書いたことがあります。瑕疵(かし)があって取り消せる契約でも、義務者の側で履行すれば、取り消せなくなる。日本国憲法は確かに占領下で制定され、その経過に問題があったとしても、基本線は占領終了後に保守の本流に受け入れられ、それに従って政治や選挙がずっと行われました。国民が行為によって追認した、ということです」
「占領軍が日本に施した改革は、報復を慎み、日本国民の自由と幸福を中心に据えたもので、政治哲学として健全だった。占領軍側は『どうせ独立後は日本国民が自発的に判断するのだから、自分たちの改革はたたき台なのだ。偏りがあっても独立後の日本国民が是正するだろう』という意識だったと思います。そもそも、国民の意識に支えられないようなイデオロギーの支配は長期的に定着しないでしょう」
――国民が支持しないイデオロギーとは軍国主義のことですか。
「軍国主義以前の日本は、中国ナショナリズムに話し合いで臨もうとする幣原(喜重郎)外交でした。それが停滞しているうちに、『隠忍自重しているからダメなんだ、一発殴れば相手は黙る』という声が大きくなり、満州事変の一時的成功で世論がワッと沸き立った。真珠湾もそうだけど、日本軍国主義は奇襲攻撃の興奮に依拠しており、日本人の心を深くとらえてはいなかったと思います。国文学者で歌人の土岐善麿が終戦直後に詠んだ『このいくさをいかなるものと思ひ知らず勝ちよろこびき半年があひだ』という歌がありますが、それですよ」
「敗戦で軍国主義が取り除かれたら、特に中年世代は若かったころの大正デモクラシーに戻ろうとした。占領軍は彼らの意識を保守的だとみなしましたが、6年間の占領が終わったら、良かれあしかれ彼らの意識が戦後政治の主流を占めた」
*
――憲法9条は解釈改憲の歴史でした。これ以上となると条文を改正せざるをえないのでは?
「解釈改憲の限界などはとっくの昔に超えているので、いまさらどこが限界かと言っても始まらない。条文を存置しておくことの政治的意味もそれなりにあって、条文と現実を接近させる価値の方が大きいという判断がなかなか主流にならない。特に憲法の部分的条項をいちいち改正するという伝統のない日本では、大きな国民的感激や興奮を伴う精神的、政治的な熱情は、特別な契機がないと発生しません」
――仮に発生するならば、その条件は何でしょうか。
「例えば、北朝鮮が日本に軍事攻撃をかけるような非常事態で、アメリカが日本をかばわず、日本人が反米感情を抱く。それが戦後民主主義を葬るような民族的激高となって日本史の新時代になる、というようなことですかね」
――トランプ政権だと可能性はありませんか。
「トランプ大統領には『パックスアメリカーナ』(アメリカによる平和)を終わらせる決意も構想もないんじゃないですか。もっと小さな問題に気を取られて、俗耳に訴えているのです。アメリカは理想主義とプラグマティズム(実践知)の結合によって、この1世紀の世界を導いてきた。誤りもあったが、大筋では秩序の担い手としての役割を果たしてきた。トランプ政権はそういう伝統への多少の離反で、影響は色々と残るかもしれないけれども、世界が構造的に変わったと考えるのは浅慮でしょう。問題は次の政権。そこで常態に復帰するか、一層エキセントリックになるか。よほどの予想外の事態が生じない限り、前者の可能性が強いでしょう」
――では、安倍晋三政権の対米スタンスをどう見ますか。
「安倍首相には祖父の岸信介元首相から承継した旧保守派のイデオロギーと、戦後教育下に育った世代の意識が混在し、溶け合っていない。場面により使い分けている。アメリカ議会で演説した時は祖父の『日本が、世界の自由主義国と提携しているのも、民主主義の原則と理想を確信しているからであります』という言葉を引用しました。昭和初期の日本は欧米に反逆して失敗したが、祖父もその点は反省して転向したという理解なのでしょう」
「戦後の多くの保守政治家も基本的にはそういう発想だった。アメリカニズムを日本に深く持ち込むと家父長的秩序を破壊したりして困るが、国家としてアメリカに追随するのは国益だと。占領軍による家族法改革もほぼ定着して、選挙権をもった女性に抵抗して旧家族制度を復活しようなどという反動派はほどなく消えてなくなりました。そういう意味で保守政治家も戦後体制の受益者で、今の情勢が続くならば安倍内閣の『保守暴走』的な側面は、看板倒れに終わるのではないでしょうか」
*
――改憲は当面ないと考えているわけですね。
「ただ、テロが身近で頻発するようになったら、憲法の転換期になるかも知れません。世界の中でテロが起こっている場所は当面は日本から遠く、戦後形成された大きな国民意識は基本的に憲法を支えていると思います。しかし、現在の自民一党支配の状況を見ると、二大政党制を育てておくべきだったとも思います。ケーディスなどもそのうち社会党が伸びて二大政党制になると思っていた。そうならなかったのは、非合理な主張を重ねて中間派の国民を遠ざけた旧社会党左派に大きな責任があるというのが、学生時代以来の僕の見方です」
――憲法の運命を左右するだろう世界の流れをどう見ますか。
「冷戦後は『民主主義の勝利によって歴史が終わる』という予言がはずれ、宗教戦争期の狂信と、古風なマキャベリアニズム(権謀術数主義)が復活し、人間は賢くならないことを実証しています。しかし、政治的英知と聡明(そうめい)さの価値がなくなるわけではなく、むしろ重要性が増しています。老人国家日本に残された長所である『落ち着き』を失う必要はありません。イギリスやアメリカさえ狂奔を始めた気配のある今、日本はいっそう落ち着くべきです」
(聞き手 編集委員・村山正司)
◇
ながおりゅういち 1938年生まれ。日本大学非常勤講師、国際日本文化研究所研究員。著書に「憲法問題入門」「日本憲法思想史」「リヴァイアサン」など。
▼27面 2017年5月3日05時00分
⑤(憲法を考える)施行70年 憲法、人生の中に
学校で、神社で、息子の手紙で。ふだんの暮らしや人生の大事なときに、憲法の存在を感じてきた人たちがいる。施行から3日で70年。戦後日本の歩みとともにある最高法規を頼りにしてきた市民の思いは――。▼1面参照
■派遣先で襲撃、帰らぬ息子
<9条 戦争放棄> 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又(また)は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
*
3日は憲法記念日。だが、岡山県倉敷市の高田幸子さん(84)が忘れられないのは翌4日だ。24年前のこの日、国連平和維持活動(PKO)で文民警察官としてカンボジアに派遣されていた息子の晴行さん(当時33)が武装集団に襲撃され、命を落とした。
派遣の根拠は1992年成立のPKO協力法。「戦闘行為に巻き込まれ、武器を使ったら、憲法9条が禁じる海外での武力行使に直結するのではないか」。違憲とみる意見も根強い中、9条の枠を超えない活動内容にするため、設けられたのが、停戦合意などの「PKO参加5原則」だった。
現地の治安はどうだったのか。手がかりの一つが、遺品の中にあった。晴行さんが出せずに持っていた手紙。今も県警に預けたままだが、「昼も夜も銃弾の音でいてもたってもいられない」という趣旨の内容が書かれていた、と覚えている。晴行さんが襲われる前にも金品強奪事件が起き、けが人が出ていた。「戦場のような過酷な場所。早く撤収していれば、命は助かった」
4月、南スーダンのPKOに派遣中の陸上自衛隊施設部隊の撤収が始まった。武装集団に襲撃されたNGOなどを保護する「駆けつけ警護」などの任務も加わった。高田さんは「日本から、現地の真の治安状況が分かるのでしょうか」と疑問を感じている。
実家には、カンボジアでの功績をたたえた感謝状や表彰状がずらりと並ぶ。「息子は帰ってきません。犬死にさせないため、憲法9条は何のためにあるのか、考えてほしい」 (岡本玄)
■丸刈り校則に「髪伸ばす」宣言
<13条 個人の尊重・幸福追求権> すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
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男子生徒は全員、髪形は丸刈り。そんな校則があった愛知県常滑市立の中学校で1988年11月、「僕、髪を伸ばします」と宣言した生徒がいた。授業で学んだ憲法が「すべて国民は、個人として尊重される」と定めていたからだった。
宣言したのは、常滑市に住む杉江匡(きょう)さん(43)。宣言の1カ月前、名古屋弁護士会(当時)が県内の別の中学校に「丸刈り強制は人権を侵す」と勧告したことを報道で知った。丸刈り強制の校則は憲法とそぐわないんだ――と確信できた。
校内では教師の体罰も日常の光景だった。「体罰を含め、『当たり前なんだ』と受け入れてきたことへの反発が爆発した」。卒業まであと約4カ月で担任に「髪を伸ばす」と直談判。学校の変化を期待して、朝日新聞にも投書した。
読者からは励ましの手紙やはがきが寄せられたが、「当時は孤独で、すごいストレスだった」と振り返る。後に続く生徒はいなかった。学校も校則を変えず、杉江さんの卒業まで静観しただけだった。
東京都立高校の約6割では、生徒が髪の毛を染めたりパーマをかけたりしていないかを見分けるため、「地毛証明書」を生徒の一部に提出させていることが明らかになった。「先生がいかに生徒を管理するかしか考えておらず、昔から何も変わっていないように見える。お互いの意見を言い合い、もっとわかり合おうとすることが大事なのではないか」 (後藤隆之)
■被爆死の級友、なぜ「英霊」に
<20条 政教分離> 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
*
「私のクラスメートはみな、靖国神社に入れられ、首相に参拝されるなんて思わなかったはず。憲法無視は明らかなのに、裁判所は認めず、とても心外です」
4月28日、東京地裁。東京都品川区の関千枝子さん(85)は無念さをにじませた。安倍晋三首相による2013年の靖国神社参拝は憲法20条の政教分離原則に反するとして、参拝差し止めなどを求めた訴訟。地裁は違憲かどうか判断せず、関さんらの訴えを退けた。
72年前の8月6日。広島県立広島第二高等女学校の2年西組は、空襲による延焼を防ぐため、建物を壊しておく国策の「建物疎開作業」に出ていた。関さんはたまたま病気で休み、郊外の自宅にいた。だが、クラスメートの39人は爆心地近くで被爆し、うち38人は2週間以内に亡くなった。
戦後、クラスメートたちが「準軍属」と認定され、靖国神社に合祀(ごうし)されたことを知った。「ありがたい」と歓迎する遺族もいたが、少女たちが、かつての国家神道の中心施設とされた靖国神社にまつられたことに疑問がわいた。「私も学校を休んでいなかったら、英霊としてまつられていたと思うと、ぞっとした」
戦争放棄の憲法9条と比べ、政教分離原則の意義は知られていないと感じる。だが、関さんは「政教分離原則は9条と表裏をなす平和思想。首相が靖国神社を特別視して参拝し、戦没者を英霊としてたたえることは、戦前の軍国主義につながる行為」。控訴し、戦い続けるつもりだ。(岡本玄)
▼1面 2017年5月3日05時00分
⑥昭和天皇、憲法GHQ草案「いいじゃないか」
幣原首相「腹きめた」 発言示すメモ
「これでいいじゃないか」――。日本国憲法起草のもとになった連合国軍総司令部(GHQ)草案の受け入れをめぐり、1946年2月22日に昭和天皇が幣原(しではら)喜重郎首相(当時)と面談した際の天皇の発言を示すメモが、憲法学者の故宮沢俊義・東大教授のノートに記されていたことがわかった。「安心して、これで行くことに腹をきめた」という幣原氏の心情も記載されている。(編集委員・豊秀一)
ノートには、46年9月ごろ、宮沢氏ら貴族院特別委員会のメンバーが幣原氏から首相官邸に呼ばれ、「内話を聞かされた」なかでの、幣原氏と昭和天皇のやりとりが備忘録的に記されていた。高見勝利・上智大名誉教授(憲法)がメモの記述を見つけた。
昭和天皇の発言に関しては、GHQの資料に、天皇自身が徹底的な改革を望み、草案を「全面的に支持する」と述べたとの記載があるが、「発言が積極的過ぎる」などと疑問視する声もあった。高見氏は、「メモからは、日本や天皇制を取り巻く厳しい国際情勢を考え、草案の受け入れしかないという現実的判断をしたことがうかがえる。GHQの資料よりも実態に近いのではないか」と話す。
46年2月13日、GHQ側から渡された草案では天皇の地位が「象徴」となるなど、政府内では受け入れをめぐり賛否が割れたが、22日午前の閣議で事実上の受け入れを決定。同日午後、首相だった幣原氏が天皇を訪ね、経緯を報告した。
宮沢ノートのメモは、この時の様子をこう記す。
「陛下に拝謁(はいえつ)して、憲法草案(先方から示されたもの)を御目(おめ)にかけた。すると陛下は『これでいいじゃないか』と仰せられた。自分はこの御一言で、安心して、これで行くことに腹をきめた」
また、幣原氏は2月21日、マッカーサー司令官と面会。そこでのマッカーサー氏の発言について「元帥曰(いわ)く。『天皇の問題については、自分は諒承(りょうしょう)しているが、南と北とから、反対がある。天皇を象徴とする憲法を承認するということは、日本の為にのぞましいと思う』。〔南とは濠州、ニュージイランド、北とはソ聯(れん)だろう〕」。
草案に沿って憲法改正案作りをすることを決定した日本政府は、3月4日から5日にかけてGHQ側との徹夜の協議で案を確定。6日、「憲法改正草案要綱」として発表した。
▼1面 2017年5月3日05時00分
⑦(社説)憲法70年 この歴史への自負を失うまい
1947年5月3日、『新しい憲法 明るい生活』と題する小冊子が発行された。政府肝煎りの憲法普及会が作り、2千万部を全国の家庭に配った。
後の首相、芦田均による発刊の言葉が高らかだ。「古い日本は影をひそめて、新しい日本が誕生した」。本文は、新時代を生きる国民に「頭の切りかえ」を求めている。
施行から70年。憲法は国民の間に定着したかに見える。それでは為政者の頭はしっかり切りかわったか。残念ながら、答えは否である。
先月行われた施行記念式典で、安倍首相は70年の歩みへの「静かな誇り」を語った。憲法の「普遍的価値」を心に刻む、とも述べた。
額面通りには受け取れない。首相自身の言葉の数々が、その本音を雄弁に語る。
「今こそ、憲法改正を含め、戦後体制の鎖を断ち切らなければなりません」
あるいはまた、自民党の選挙スローガン「日本を、取り戻す。」について、「これは戦後の歴史から、日本という国を日本国民の手に取り戻す戦いであります」。
静かに誇るどころか、戦後の「新しい日本」を否定するような志向が浮かぶ。一時は沈静化したかに見えた「押しつけ憲法」論が、色濃く影を落とす。
そのような安倍政権の下で、憲法は今、深く傷つけられている。かつてない危機にあると言わざるをえない。
集団的自衛権は9条を変えない限り行使できない――。この長年堅持されてきた憲法解釈を覆した決定に、「立憲主義の破壊」との批判がやまないのは当然だろう。
念入りに葬られたはずの教育勅語。その復権を黙認するかのような最近の動向も同様である。戦前の亡霊が、これだけの歳月をもってしても封じ込められていないことに暗然とする。
安倍政権に欠けているのは、歴代内閣が営々と積み重ねてきた施政に対する謙虚さであり、さらに言えば、憲法そのものへの敬意ではないか。「憲法改正を国民に1回味わってもらう」という「お試し改憲」論に、憲法を粗略に扱う体質が極まっている。
国民主権、人権尊重、平和主義という現憲法の基本原理が役割を果たしたからこそ、日本は平和と繁栄を達成できた。ともかくも自由な社会を築いてきた。その歴史に対する自負を失うべきではない。
現憲法のどこに具体的で差し迫った不具合があるのか。改憲を語るなら、そこから地道に積み上げるのが本筋だ。
目下の憲法の危機の根底には、戦後日本の歩みを否定する思想がある。特異な歴史観には到底同調できないし、それに基づく危険な改憲への道は阻まなければならない。
『新しい憲法 明るい生活』は言う。「政府も、役人も、私たちによってかえることができる」。そして、「これからは政治の責任はすべて私たちみんながおう」とも。
70年前の言葉が、今まさに新鮮に響く。
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オピニオン面(12面)にも「憲法70年」の社説を掲載しています。
▼12面 2017年5月3日05時00分
⑧(社説)憲法70年 先人刻んだ立憲を次代へ
時代劇で江戸の長屋に住む八っつぁん熊さんが万歳三唱をしたら、脚本家は落第である。 あれは日本古来の振る舞いではないと、NHK大河ドラマなどの時代考証を手がける大森洋平さんが著書で書いている。1889年、明治憲法の発布を祝うために大学教授らが作り出した。ちゃぶ台も洗濯板も、明治になって登場した。
動作や品物だけではない。
西欧の思想や文化に出会った当時の知識人は、その内容を人々に伝えようと苦心し、新しく単語をつくったり、旧来の言葉に意味を加えたりした。いまでは、それらなくして世の中は成り立たないと言ってもいい。
■消えた「個人」
個人、もその賜物(たまもの)の一つだ。
「すべて国民は、個人として尊重される」。日本国憲法第13条は、そう定めている。 根底に流れるのは、憲法は一人ひとりの人権を守るために国家権力を縛るものである、という近代立憲主義の考えだ。 英文では〈as individuals(個人として)〉となっている。翻訳家の柴田元幸さんはここに、固有の権利を持つ人間というニュアンスを感じたという。もし〈as humans(人間として)〉だったら「単に動物ではないと言っているだけに聞こえます」。
ひとり、一身ノ身持、独一個人(どくいつこじん)と〈individual〉の訳語に試行錯誤した福沢諭吉らがこの話を聞いたら、ひざを打ったに違いない。『文明論之概略』で福沢は、日本の歴史には「独一個人の気象」がないと嘆いた。
個人の尊厳をふまえ、幸福を追い求める権利をうたいあげた13条の文言には、洋の東西を超えた先人たちの思いと労苦が息づいている。
ところが自民党は、5年前に公表した憲法改正草案で「個人」を「人」にしてしまった。
安倍首相は昨年、言い換えに「さしたる意味はない」と国会で答弁した。しかし草案作りに携わった礒崎陽輔参院議員は、自身のホームページで、13条は「個人主義を助長してきた嫌いがある」と書いている。
■和の精神と同調圧力
「個人という異様な思想」「個人という思想が家族観を破壊した」。首相を強く支持する一部の保守層から聞こえてくるのは、こんな声だ。
一方で、草案の前文には「和を尊び」という一節が加えられた。「和の精神は、聖徳太子以来の我が国の徳性である」と草案のQ&Aは説明する。
角突き合わさず、みんな仲良く。うまくことを進めるうえで「和」はたしかに役に立つ。
しかし、何が歴史や文化、伝統に根ざした「我が国」らしさなのかは、万歳三唱やちゃぶ台の例を持ち出すまでもなく、それぞれの人の立場や時間の幅の取り方で変わる。
国内に争乱の記録はいくらもあるし、かつて琉球王国として別の歴史を歩んだ沖縄は、ここで一顧だにされていない。
一見もっともな価値を掲げ、それを都合よく解釈し、社会の多様な姿や動きを封じてしまう危うさは、道徳の教科書でパン屋が和菓子屋に変わった一件を思いおこせば十分だ。検定意見の根拠は「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」と定めた学習指導要領だった。
ただでさえ同調圧力の強いこの社会で、和の精神は、するりと「強制と排除の論理」に入れ替わりうる。
■近代的憲法観の転覆
「個人」を削り、「和」の尊重を書きこむ。そこに表れているのは、改憲草案に流れる憲法観――憲法は歴史や伝統などの国柄を織り込むべきもので、国家権力を縛るものという考えはもう古い――である。
だから、人は生まれながらにして権利を持つという天賦人権説を西欧由来のものとして排除し、憲法を、国家と国民がともに守るべき共通ルールという位置づけに変えようとする。
これは憲法観の転覆にほかならない。経験知を尊重する保守の立場とは相いれない、急進・破壊の考えと言っていい。 明治憲法を起草した伊藤博文は、憲法を創設する精神について、第一に「君権(天皇の権限)を制限」し、第二に「臣民の権利を保護する」ことにあると力説した。むろん、その権利は一定の範囲内でしか認められないなどの限界はあった。 だが、時代の制約の中に身を置きながら、立憲の何たるかを考えた伊藤の目に、今の政権担当者の憲法観はどう映るか。
明治になって生まれたり意味が定着したりした言葉は、「個人」だけではない。「権利」も「自由」もそうだった。
70年前の日本国憲法の施行で改めて命が吹き込まれたこれらの概念と、立憲主義の思想をより豊かなものにして、次の世代に受け渡す。いまを生きる私たちが背負う重大な使命である。
◇
「憲法」を考える社説をシリーズで随時掲載します。
▼1面 2017年5月3日05時00分
⑨(天声人語)憲法施行から70年
日本国憲法のもとになったのは連合国軍総司令部(GHQ)がつくった英語の草案である。外相の側近だった白洲次郎が、翻訳の過程を回顧している。天皇の地位を定める英文の表記をめぐって、外務省の担当者が疑問の声をあげた。「シンボルって何というのや」
▼白洲はそこにあった英和辞典を引き、この字引には「象徴」と書いてある、と言ったという(『プリンシプルのない日本』)。天皇主権の時代を生きてきた人びとの戸惑いが伝わってくる
▼出自にかかわらず平等を旨とする民主主義と、世襲の君主制。本来ならば相いれない二つを結びつけたのが、象徴という言葉であった。しかし、「象徴とは何か」について私たちはどれほど考えてきただろうか
▼象徴のありようをずっと模索してきたのが、天皇陛下であった。そのあらわれが被災地への訪問であり、病に苦しむ人たちとの対面なのだろう。太平洋戦争の激戦地への慰霊の旅は、大きな犠牲の上に今の平和が築かれていることを思い起こさせてくれた
▼もしかしたら、そんな姿に甘えていたのかもしれない。先日の紙面にあった渡辺治・一橋大名誉教授の言葉に、はっとした。「将来、別の天皇が、慰霊の旅として、国民の間で様々な意見がある靖国神社や全国の護国神社を回るとしたらどうでしょう」
▼退位のあり方にとどまらない議論が必要なのだろう。主権を手にした私たちにとって、象徴とはどうあるべきか。施行されて70年の節目に、問いかけられている。