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続折々の記 2018⑨
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学力向上をどう考えていったらいいか 視力の衰え
『高陵』によせて 自明の論理
軌道修正 自己世界の構築
自己世界の構築<学ぶものの心得> 友美ちゃん 1
祖父から孫への願い 友美ちゃん 2
友美の誕生日 つれづれなるままに(随筆)
0歳教育(思考と表現) 後記
友美1歳4ヶ月
【 02 】09/15~
09 15 (土) 私製本「日記と随筆」(三) その二
学力向上をどう考えていったらいいか
1990/01 豊丘中(退職後臨時要請による勤務学校)
最近、長野県の高等学校における学力低下が心配され、いろいろの考え方が提言されようとしている。具体的には、長野県の経営者協会がこの問題に取組んでおり、また最近テレビで川井訓導事件が取り上げられていた。
自分たちは、この問題に対してソッポを向いていてはならず、なにか具体的対応を実施しなければならない。それは、いつも考えさせられていた課題だからである。
一 まず具体的条件を共通な認識としてきめて、考えをすすめる前提にしたい。
・ 学習は人類全体の幸福を願うものであること
・ いずれの国においても、共通に考えられる国際性を持つこと。
・ 学力向上と人柄・健康は、相関しているという考えに立脚すること。
二 いろいろの分野にわかれるが、おおよそ次のような概括的とらえ方をする。
・ 教育が果たすべき役割
・ 家庭が果たすべき役割
・ 教育者が果たすべき役割
・ 行政が果たすべき役割
三 教育が果たすべき役割
教育の役割は、本来わが子の幸福を願って行なう両親の義務である。そこにはもともと、人類の文化遺産を伝承する役割を果たすことと、生命体としてその人個人の世界を伸ばすことが約束されなければならない。その意味では教育を受ける個人は、そのことが最大に尊重されなければならないといえよう。これは教育が果たすべき役割の第一義である。古今東西を問わずである。
四 家庭が果たすべき役割
ところが現代においては、家庭が果たすべき教育の役割が果たされていないことが多い。それがなんであるのか明らかではない。もともと宿業ともいえる姿で、家庭教育が伝承されてはきたが、価値観の変化によって多分に崩れてきている。最近においては、人間の能力がどのように形成されるのかということについて、学問的に明らかにされてきており、したがって親が担うべき能力開発の在り方は、成人の前に教育されなければならないと私には考えられる。そこでここでは、その課題を上げるだけにとどめたい。結論的に次のようにいえよう。
イ 見てもらってもいい行動をとること。
ロ 聞いてもらってもいいことをいうこと。
ハ 人間が持つ諸能力、たとえば知的分野・道義の分野・健康の分野などの日常生活に現れるすべての能力は、学齢までにどのように伸びるのかということを学んでいなければならない。
ニ 能力開発のシステムを学んだら、その実践をすること。
五 教育者が果たすべき役割
社会機能分担の上から、教育者というものは、両親になりかわって、言い換えれば身命を賭して子弟の養育にあたることが教育者の本義である。したがって、親が持つ教育の義務とともにその役割を充分理解していることと、どういう教育哲学を自己内部に築いていくかという課題に対応する必要があります。
さて、具体的な課題をあげてみたい。
イ 見てもらってもいい行動をとること。
ロ 聞いてもらってもいいことをいうこと。
ハ 知的分野・道義の分野・健康の分野などの諸能力を、学校教育の中でどのように伸ばすかを、バランスよく位置づけること。
ニ 各教科指導において、学力を高める対策をつくり実践すること。
六 行政が果たすべき役割
行政指導はあくまで第二義的なものであり、親及び教育者を補佐する立場にあるといわなければならない。そういう意味では次の諸点が課題ともなっている。
・ 文部省の学習指導要領に教育者を準拠させるよう義務化していく方向は、教育者の自発的な教育活動の意欲を疎外するものである。たとえば、日の丸・君が代の義務化は、地球上の人類がすすめる教育内容とは直接関係はない。
・ 地方公共団体の教育委員会の本来果たすべき役割が形骸化している。市町村の教育に関する一切の責任と義務が、現状においては剥奪されている、あるいは放棄してしまったところに問題が残って今日にいたっているといったほうがよいのかもしれない。本来は行政の長とともに地域住民によって選挙され、教育が担う重要な役割をもたなければならないものであった。教育の独自性がおかしくなってきた始まりである。たとえば、教育者の任免権を放棄したため、教育者の自由と責任が曖昧なものとなり、その意欲の在り方まで明確でなくなってしまっている。
「高 陵」によせて 下平好上
高陵中学校へお世話様になってから、早くも一年経ちました。該当時間のみというわがままな勤務で、皆様にいろいろとご厄介をおかけしました。ありがとうございました。皆様の貴重な職員文集に私が投稿することはどうかと思いましたが、係の先生のお心にそって投稿します。 学校教育が抱えている課題は多種多様であります。複合的にからみあって現状の課題が生じています。課題があるとすれば、それはどういう内容かということや、どういう原因かということや、どういう修正をしていったらいいかという分析に取り組まなければなりません。私はここでそれらを全部取り上げるつもりはありませんが、二つの角度から見てみたいと思います。
その一つは、先生の自由と責任または権利と義務という面であります。先生の自由と責任または権利と義務というものは、法的にも生活的にも最大限に尊重されなければならないことは当然であります。行政上の統合的システムの修正、地方自治体の教育システムの修正という基本的枠ぐみに関係してくる面になりますから、ある意味ではどうしようもないかもしれません。ただ、教育行政の在り方とか教育システムは、グローバル化が叫ばれている今日、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、北欧など日本以外の国々の教育を調べる必要があると言えます。そうしてよりよき先生の立場を築くことが大事であると思います。
非行その他子どもたちの背負っている姿は、子ども自身の責任ではなく、親の責任であります。では、先生はどうしたらいいのでしょうか。これは大変な仕事になります。
考えれば考えるほど、不思議な、そして運命的な出会い、その、「出会い」によって担任と生徒が顔を合わせます。学級担任にせよ教科担任にせよ、子どもを選ぶわけにはまいりません。生徒にとっても学級担任にせよ教科担任にせよ、先生を選ぶわけにはまいりません。こうした不思議なそして運命的な出会いの生徒に向かって何をしたらよいのだろうか。何ができるというのだろうか。しかも千差万別の子どもに向かい合ったときに。
嬉しいことに子どもたちは、ある種の期待と不安を持ちながらにしても、大人とはくらべものにならないほどの素直さを本来もっておって、先生の言うこと教えることをインプットしていきます。ですから、首尾一貫した言行であることが第一の戒めでありますし、宗教的なあるいは人の道という意味での、統一的な価値観も基本になりましょう。これは先生個人の立場のことでありますが、やはり子どもがいつでも真似てもよいという覚悟こそ、すくすく伸びる子供達にとっての教育者としては、欠かせない大事なことだろうと思います。
子どもの心の奥深くにある「自分自身を動かしているもの」をどう理解していくのか、どう動かし、どう変えていくのか、それは、先生の立場だけではまだまだ解決されません。一つの方向としては、「現実の社会事象」を課題として、子ども自身の価値観に基づいて話し合いを展開する方法があると思われます。世界と自分のつながりの中で、自分はどんな価値判断をしたらいいのかを、絶えず学級での課題として取り上げる方法だと言えましょう。世界を築いているもの、或いは心のいろいろの分野のそれぞれの価値基準はどういうものなのか、と言ってもよいと思います。それは両親から受けているもの、社会情勢から受けているもの、教育制度または内容から受けているもの、友達から受けているものなど、価値観は多面的で複雑なものであろうと思います。こうした生徒の内面世界の構造の基盤になっているものは、親子の絆であるとジョセフ・チルトン・ピアスは言い切っています。彼によれば、絆の濃淡、広狭、強弱により、知情意体の能力アベレージが決定されてくる、といいます。そして絆そのものの確立は、誕生直後2~3時間の親子の在り方に懸かっているといい、登校拒否、校内暴力、自閉症、少年非行などは、病院出産そのものの結果によって、親子の絆が確立されない場合の結果であると主張し、自然の姿が如何に重要であるかを警鐘しております。生徒を一人の人格としてとらえるということは理解の基底である、といいますが、十人十色の生徒を理解するなどということは、至難の業であります。そんなことはできないのです。生徒がよりよくなるということは、親が子どもをよりよくする以外に根本的には術はありません。現在の生徒の内部世界の質は、満三歳までの絆の如何によって多種多様の様相を形成してしまうからです。十人十色の生徒、という意味では、昔も今も変わりはありません。
もう一つは、毎日接している生徒そのものについて、生徒の心の奥深くの自分を動かしているものの面であります。生徒の心のうちの客観的な多くの資料により生徒理解をすすめるのではなく、現実の社会事象の課題を扱い、自己価値観の表出の機会を多くして自他の研鑚をつんでいくやり方の中でとらえたいものであります。「どうしてそう考えるのか」という論理思考が重視されるでしょうし、生きる意味とか、自己存在意識が発展的にできあがると思われます。社会的存在の意識も培われてくると思われます。
根底的には絆の問題がありますけれども、すくなくとも、それに対応する手段としては、個々のなかに自己存在の価値を意識させる方法をとることが、最短距離にあるやり方ではないだろうか、と思います。
ピアスによりますと、自己世界構築ということは、生物にはもともと生物プランとしてプログラムされているといいます。この自己世界の構築がゆがんでいる限り、不安、恐怖、不満足感が生まれ、知能の開発もうまく進まないといいます。自己存在意識というものは、生死に類するレベルの問題でありますから、どうしても、そのピラミットの底辺として位置づけてもよいところの学習、運動、友達、各種能力などに、いろいろと影響してくると考えられます。
「自分自身を動かしているもの」をどう理解していくのか、どう動かし、どう変えていくのかということは、いろいろ考えなければなりませんが、私の提案も一つの方法として頭の隅っこに参考として留めておいて下されば幸甚と思います。
私は百姓のかたわら、満三歳までの「0歳児教育の在り方」はどうあったらよいかを求めています。先生方のこれからのご活躍を心からお祈り申し上げます。
軌道修正 (贈ることば) 1993/03 下平好上
計画、実施、修正というサイクルは
いつでも必要なことです
軌道修正は人が生きていく場合にも
とても大切なことです
わかっていても
なかなか できない
私も そうです
人は 弱いものです
人工衛星にとって
軌道修正は 必須なことです
それは
生死にかかわるからです
わかっていても なかなかできない
自分の軌道修正は
私たちにとって 必須なことです
生きる道は 絶えず軌道修正を必要とします
自己世界の構築 <学ぶものの心得>
あらゆる生活場面の価値観において、 『自己世界の構築』という概念を頂点として考えていくことが、 自分を伸ばし自分を高め世界平和を求めていく上で、 最良の方法であります。
・ 複数思考は社会生活を俗悪化し、人を不安と焦燥に追いやり、個人の自由とか尊厳をも見失うという、そういう弱点をかかえています。
社会を構成するものは個人であり、その個人の自由とか尊厳に焦点をあてて思考をすすめることが、急務であります。
・ 他人の着ているもの、持っているもの、食べているもの、住んでいるところ、そういうものを真似たいとか欲しいという感情は、一概に悪いということではないのですが、誰でも生来的にもっています。これと同じように上手にしゃべれるとか、いろいろ憶えているとか、いろいろできるとか、そういうことを羨やむ感情も誰にでもあるものです。顔立ちがよいとか、また背が高いとか、このようなことにも人は誰でもある種の感情をもつものです。
ことに成長の転換期にある中学生にとっては、こうした感情をどう処理していったらいいのかが大事な心構えになります。ふつうだまっていても、ひとはこれらの感情なりそれに付随する価値観なりについて、自己内部においてそれぞれの位置づけをし対処してまいります。でも自分のものと他人のもの、自分の特色と人の特色などについて、考えの整理もつかず、ある部分については青年になっても大人になっても、ずうっとそれらの感情にわだかまり引きずられている人もあります。
こうした人がもっている情をどう位置づけていくか、非常にだいじな課題であります。
・ [自己存在の意味]を最も本来的なものに近いものとして表現しているものに、仏道で説かれている「天上天下唯我独尊」という言葉があります。もともと生物の生命にプログラムされている本質は、生命の繁栄であり、死の拒否であります。あらゆる意味において、一つの生命体にはそれ自体、生の営みのために、極限においてもその個体内では個体維持のために相互協力の能力を発揮するようインプットされています。潜在意識や顕在意識を問わずそういう能力がはたらいています。
この生命体の本質は、入塾者の皆さんには基本的に理解しておいてほしいことの一つであります。すくなくとも学問の意味を正しく知っていないと、学習した事柄の価値とか位置づけが不明確になり、学問が生命の繁栄どころか無為の長物になったり、生命の繁栄を犯すものになるような危惧すら生ずることがあるからであります。
・ 自己存在というものは、お釈迦さまの説くように相依性にもとずくものであり、排他性とか協調性という概念とは別であり、その意味で「天上天下唯我独尊」というとらえ方は、自己以外のなんらの束縛もあり得ないことを強調した解説語であります。この「天上天下」の一句は、存在そのものを表わす用語としてはよいのですが、生命エネルギーをもつ[自己存在の意味]としては、ピアスという人が説く『ホログラム』として理解することが正しい認識であると思います。ホログラムが内包する一つの中核が、生命の繁栄であり死の拒否であるといえます。
・ 菱田春草が描いた仏道画「枯華微笑」の美術上の解説は別として、お釈迦さまと迦葉の微笑の意味は、個体存在の尊厳があらゆる場合に優先するということを互いに了解した微笑であると私は考えています。お釈迦さまの教えの中には複数思考を基本にする人間理解は、結果としてはあるのですが基本的には見当たりません。
・ 西田幾太郎の「一即多」という哲学概念も、単数と複数という側面から物質構成からはじまって、精神的構造にいたるすべての構成概念を看破する一つの哲学的命題の答えであると私は思っています。おそらく間違った受け止め方ではないだろうと思っています。「一即多」の概念は、ピアスのいう母なるマトリックスと自己のマ卜リツクスの関係とは、ほぼ完全に一致する概念であります。
・ 以上により、宗教においても哲学や科学においても、単数と複数の立脚点を明確にしておくことが、自己を伸ばし人様に貢献していく上で、極めて基本的なことがらであるといわざるを得ない。自分を充実させ伸ばしていくためにこそ学問本来の願いがあり、習得した学問の機能は自己をコントロールし人様の和のために使われて始めて学問の効用を説明することができます。
だから、勉強していく者にとっては、「自己世界の構築」のためによそみをせず、あせらず、くらべず、くりかえす、ことを大事にし、勉強そのものにどっぷり漬り、すべての知的情報を大脳にインプットしていくことが要請されるのです。
祖父から孫への願い 平成五年五月五日
[懐妊の報せ] 「重大ニュースですよ」五月二日の朝、お勝手口から入った下平俊成から、私たち祖父母は初孫懐妊の報せを受けた。
「おめでとう。ほんとによかったね」
私は、千富美さんの両肩に手をかけて、心からの喜びを伝えた。待ちに待った初孫の報せであった。
私は、真介や俊成の時とは別の意味で、この報せを喜んでいた。
何故かというと、次のような事実がわかっていたからである。
① 父なる精細胞と母なる卵細胞が合体して孫という新しい生命が誕生し、DNAの神秘な指令にもとずいて母の胎内で、三五億年にわたる人間の長い進化の過程をわずか10ヵ月という短い期間に、一気に自分で処理し、その間に私たちが想像もできないような能力で、人のもつ知情意すべてを身につけるものであること。
② そしてその生命エネルギーというものは、ピアスが説く神秘な生物プランに従い独自の世界をいくつかのサイクルに添って構築していくものであること。
③ さらにその生命エネルギーは、独自のマトリックス形成期までに、超能力による感覚的知覚(ESP=Extra Sensory Perception) が与えられておるということ。
④ そしてその生命エネルギーは、天与のESPにより環境刺激に即応して、生きるための能力を身につけるものであるということ。
以上のような事実を学んでいたからでした。
ことに私が喜んだのは、④の 『生命エネルギーは環境刺激に即応して個体能力を身につける』 そのことに関する各種のデータを自分でもっているということでした。私は教育者として長年教育にたずさわっていたから、現代教育の憂いの原因には幼児教育が大きく関係していることをよく知っていた。だから現代教育を憂慮すればするほど幼児教育をなんとかしなくてはならないという考えがますます強くなってきていた。その結果「0歳教育」に没頭して本を読みあさり、幼児教育の在り方を追究し、いろいろのデータをもっていたからでした。
そしてまた、私が教職をはなれた年、請われるままに有線放送・マイクリレーの番組で「0歳教育」の必要性と組織的取組について所信を述べましたが、その反応は一過性のものに過ぎませんでした。その続きもあって、公民館長に請われるまま、四ヵ所の地域で幼児教育の講座をもちましたが、その結果も同様でした。続いて、十二回の有線放送講座「0歳教育」で細部にわたる具体的取組について話を続けましたが、『自分からのめり込む人』はやはりなかったようです。市瀬束穂公民館長の熱意が地域に浸透していかなかった事実から見ても、個人の考えが全体に浸透し同化していくことは、そう簡単なわけにいかないことがしみじみ理解できました。こうしたことがあって「明らかな結果がなければ人の同意を得ることはできない」このわかりきった原理は、私を実践の方向へ進ませました。
こうした考え方や勉強、地域への働きかけを通して「0歳教育の実証こそ、現代教育を救い世界平和に貢献できる唯一の道である」と考えるようになりました。それは例え一人でもいい、実証できる赤ちゃんを一人でもいいから育ててあげたい、という基本的な心構えをもとにして、『ペアレンツ・アカデミー』の発足になったわけです。 その発足は平成三年一〇月で、現在春日易子(宇光君)と北原和代(由貴)の二人だけだが、この二人の子は生後六ヵ月と八ヵ月からスタートした赤ちゃん達だった。既に赤ちゃんをもっている母親にとって『ペアレンツ・カアデミー』での学習はそう簡単なことではないことがわかってもきました。
両親の愛を一身に受けた赤ちゃんは、今お母さんのお腹の中でどのようにしているのか、手元にある夏山英一監修の「二八〇日の胎教」という本の六二頁から出ている内容を、参考のために転記してみよう。それは次のようです。
8~11週(3ヵ月め)の胎教 妊娠宣言をして、環境を整える
◎ 胎児のようす
この時期の終りから胎芽でなく胎児と呼ばれるようになります。今まで皮膚を通して酸素や栄養を吸収していましたが、このころから胎盤ができ始めますから、母体から栄養が充分に摂り入れられ、これが騰帯を介して赤ちゃんのからだに直接送られるようになります。
身長は一日約一ミリほど伸びて、三ヵ月めの終りごろには九センチほどの大きさになります(今日は五月五日だから六センチ五ミリくらいになっています)。顔は人間らしく整ってきます。目にはまぶたができます。穴だけだった耳には耳たぶができ始めます。たださけていた口にくちびるができ、鼻も高く盛り上がって穴があいてきます。性器も11週の終りごろから形づくられます。
赤ちゃんは、顔をまわしてみたり、からだの向きや姿勢を変えたり、歩くような動きやジャンプをしたり、びっくりしたときのような動作をしたり・・・羊水のなかで活発に運動をするようになります。
◎ 小さな心臓がお母さんを呼んでいる
「胎児医学」という学問の進歩によって、お母さんのお腹のなかで赤ちゃんがどういう状態なのか、ずいぶんよくわかるようになってきました。そうした情報が寄せられたことで、胎内からの子育て(新しい胎教)の必要性も注目されてきたのです。この胎児医学の進歩をもとにして、しばらく前から超音波を使って、お母さんのお腹の上から、なかの赤ちゃんを映し出す装置の産科への利用が始まりました。正式には超音波断層装置といいますが、これを用いて、まだ赤ちゃんがいることを母親ですらはっきりと認識できない時期に、赤ちゃんからの情報が動く画像としてとらえられるようになったのです。
とても感動的な場面は、妊娠八週前後に超音波によって、赤ちゃんの小さな心臓の動きが映し出されるときです。生命の源である心臓が、まだ2~3センチしかない小さな赤ちゃんのなかで、必死にピクピクと拍動をつづけるさまをみると、母親となるよろこびが一気に湧きあがることでしょう。それまで母親となる実感をもてなかった人にも、赤ちゃんを愛するきっかけとなることがあるようです。
F子さんは、婚約中の彼との間に赤ちゃんができたことを知り、どうしても今回は赤ちゃんを欲しくない、と泣きわめいた一人でした。その理由は、結婚してからも自由でいたいからとか、新婚旅行にヨーロッパヘ行こうと思っていたのがフイになってしまうから、というものでした。
赤ちゃんはもう妊娠一〇週になっていましたので、医師がF子さんの話をききながら超音波でF子さんの赤ちゃんの動きを映しだしてあげました。赤ちゃんの心拍動とくねくね動くようすが現れると、一瞬F子さんは信じられない、といった顔でじっと映像に見入っていました。
「これ、何ですか」 「あなたの赤ちゃんですよ」 「こんなに動いているんですか・・・生きているのね・・・」 というなりF子さんの目からは、とめどなく涙が流れでてきました。 「元気だねぇ、赤ちゃん、いらないかい・・・」 医師のことばに、F子さんは大きく首を横に振り、 「ごめんなさい、いけないママね」 とお腹に手をあてて、赤ちゃんにあやまっていました。
翌週、F子さんは婚約者といっしょに晴ればれとした表情で、診察室を訪れました。 「私たち旅行をやめました。赤ちゃんが大きくなってから、三人で行くことにしたんです」 と、きっぱりというと、夫となる人といっしょに、赤ちゃんの動くようすをうれしそうにみていったということです。その後も、ときどき夫婦揃って診察にきては、まるで赤ちゃんを胸に抱いているかのように、声をかけていました。そのうち夫まで涙ぐむこともありました。
こうしているうちに夫と妻の間に赤ちゃんに対する愛情が湧きだし、まさに胎内からの夫婦による子育てが始まったのです。
F子さんの場合は、母親になるということをよく考えもせずに、一時は中絶を希望したりしましたが、赤ちゃんの小さな心臓が動くのを見て、埋もれていた母性愛が呼び覚まされ、赤ちゃんへの愛情をぐんぐん深めていったのです。
胎児の健康をチェックするための超音波断層装置は、未熟な母親の心の治療にも役立ったというわけです。
最近はうっかり妊娠してしまい、まだ赤ちゃんが欲しくないからというだけの理由で、安易に人工妊娠中絶を希望する夫婦もふえているといいます。しかし、生命の尊重、母親の精神的肉体的安定ということから考えても、やはり、避けたいことです。 F子さんに限らず、自分勝手な中絶を考えるような困ったお母さんでも、みんな心の奥・・まさに遺伝子のなかに・・母性愛のもとをもっています。ただ、眠りこんでいるだけなのです。それを目覚めさせさえすれば、・・・。
超音波断層装置は、胎内の赤ちゃんのようすを、視覚に訴えることができる点で、眠りこんだ母性愛を揺り起こすにも、絶好の方法といえるでしょう。
◎ 妊娠宣言で環境づくり
妊娠三ヵ月めのころになると、始めのころはだいぶ妊娠したことに動揺していたお母さんの心も、安定してくることでしょう。
赤ちゃんの方も、お母さんの心の安定を待っていたかのように、日一日と目にみえるように大きくなります。受精してから形づくられてきた赤ちゃんの脳や胃、腸、肺、肝臓、腎臓などの大切な器官は、これからは、それぞれの働きを始めます。もう、赤ちゃんは立派に一人前です。
この辺でお母さんは、夫や家族だけではなく、仕事をもっている人は職場へも妊娠していることを知らせ、周囲の理解を求めましょう。 ところでお母さんが妊娠宣言をすると、不思議なことに赤ちゃんからの「妊娠していることを知らせるメッセージ」だったつわりがおさまってきます。赤ちゃんは、お母さんが妊娠をきちんと受けとめてくれたことにホッとしたのかも知れません。
しかし、つわりがおさまってきても、赤ちゃんとおかあさんをしっかりと結ぶ働きをする胎盤はまだ不安定です。気分がよくなったからといって、無理は禁物です。残業をつづけたり、通勤時に駅の階段を早足で昇ったり降りたり、重たいものを急にもち上げたりしていませんか? 無理な動作をして転んだり、仕事をがんばりすぎて疲れたりということのないように気をつけましょう。 また妊娠には冷えが大敵ですから、デスクワークの場合でも、冷房の風が直接あたる場所に自分の机があるようなときは、場所を移動してもらうように同僚と相談するとよいでしょう。そのうえで、ひざかけをするとか、くつ下をはくなど自衛の策を講じることも忘れないことです。
ところで、近頃は妊娠した女性に対して、時差通勤、通院休暇、つわり休暇などの特例が認められる職場がふえてきました。こうした特例は元気な赤ちゃんを産むために、できるだけ利用したいものです。 ただし、同僚とも仕事のやりくりを細かく相談しながら、お互いに無理のない方法で利用するような配慮は必要かと思います。こうしたお母さんの気くばりが、職場でのさわやかな人間関係をつくり、妊娠中も気もちよく仕事をつづけていくためにもプラスになっていくはずです。
◎ なっとくいくまで話し合う
女性が妊娠中、そして出産後も仕事をつづけるか、それとも辞めるかは、それ自体はいいとか、悪いとかいう問題ではありません。夫婦でこれからのライフプランをよく話し合ったうえで決めればよいことでしょう。 しかし、妊娠という大事業を行ないながら仕事をつづけていくということは、やはり大変なことです。お母さんといっしょに通勤し、仕事に追われているお腹の赤ちゃんだって、忙しい毎日を送っているのです。仕事をもっているお母さんは、家にいるお母さんの何倍もの思いやりを、お腹の赤ちゃんに対してもってあげてください。赤ちゃんを脅かす敵はずっと多いのです。 一般的にいえば、妊娠中と出産後一年間くらいは、お母さんには仕事を休んでいただきたいところです。どうしても精神的、肉体的負担が多くなりますし、ほかの誰よりも赤ちゃんはお母さんを必要としているからです。
30年後に社会を担っていく赤ちゃんのことを考えれば、その間くらい母親に有給休暇が保証されてもよさそうなものですが、現実には、今の日本で妊婦がそれを会社に要求するわけいもいかないでしょう。 となると、出産後も仕事をつづけたい女性は、男性と肩を並べて仕事をしていくしかなくなってしまいます。それにはお母さんのがんばりと明るさも必要でしょうが、やはりそれだけでは不充分です。どうしても夫や家族の協力が必要になにってきます。妊娠中、出産後も母親が働くことをどのように考えているのか、生活のなかでどんな協力をしてくれるかなど、詳しく話し合ってみることです。
そのうえで、仕事をつづけられるかどうか判断します。出産後も安心して働ける環境を今から考えておかないと、せっかく大きなお腹をして働いたのに、後になって、やっばり無理だったと仕事を辞めることにもなりかねません。赤ちゃんとお母さんがつらい思いをしただけ、なんてことにならないように・・・
◎ 流産、赤ちゃんがそれを決めることも
全妊娠のうち10回に1回以上は流産をしているといわれるほど、女性の一生の間に、流産を経験するのは、珍しいことではありません。
とくに妊娠9週ごろまでに起こる流産は、受精卵そのものに病気やそのほかの欠陥があって、もうそれ以上発育していく力がない場合がほとんどです。その場合はもともと生きていけない運命にある受精卵がたどる自然の法則による仕方のないもので、悲しいけれど、実は必要な面もあるのです。
というのも、この自然淘汰が母体内で行われていることで、不幸な赤ちゃんを出産する率が、実際の発生率よりもずっと少なくなっているのです。おかげで、私たちは安心して妊娠し、出産のときを迎えられるわけです。
現代医学のめざましい発達は、多くの不運な事故から妊婦や胎児を救うことを可能にしました。それでもまだ私たちの手の届かない問題もたくさんあります。原因が胎児にあって、お母さんの体にはない場合は、どうしてもこの子を産みたいとだだをこねないことです。赤ちゃんは、“産む”のでも“産ませる”のでもなく、自分で“生まれて”くるのです。運動会で走る子を、声援を送りながらみているように、私たちにはみまもることが必要なときもあるようです。
ただし、繰り返し流産する人や、前の流産のときに、親の側に何らかの原因が発見されたことのある人は、もう一度、自分の健康チェックをして、つぎの妊娠を安心して迎えられるように努力すべきでしょう。
「かわいそうだけれど、仕方のない流産だったんだよ」と医師にいわれたら、お母さんは、あまりくよくよ悩み過ぎないことです。その代わり、どんな場合でも、二人の愛の結晶である赤ちゃんの命をいとおしむ気持ちは大切にしたいもの。生まれてこなかった赤ちゃんにも、母としての愛情を注いであげてください。
◎ もう歩く準備を始めている!
いま、お母さんの子宮のなかで育っている、たった九センチほどの生命は、お母さんの血液から送られてくる栄養とお母さんの優しい心を頼りにしながら、羊水のなかでジャンプしたり、全身をくねらせたりして元気に動きまわっています。
実際、超音波断層装置でこのころの赤ちゃんのようすをビデオにとったものを見ると、とても感動的な場面がたくさんあります。たとえば、妊娠10週では、手足、頭、そしてからだ全体を活発に動かして、羊水の中をくねくねと動き、からだの向きや位置を変えているのがみられます。これは、まるで私たちが、同じ姿勢を長いこととっていると、伸びをしたり、立ち上がって歩きたくなるのと同じようにみえます。赤ちゃんも、お母さんのお腹のなかの小さな部屋が、窮屈なんだろうなと、思わず大きな深呼吸をしてみたくなります。
こうした動きを赤ちゃんができるということは、医学的には神経が発達して、かんたんな反射ができるようになったことを意味しているのです。
11週ごろには、原始歩行といって、両足を交互にだして、まるで羊水のなかで歩いているような行動、ぺダルをこぐときのような運動がたくさん現われてきます。
私たちは、生まれて一年たって初めて歩きだしたわけではなく、お母さんのお腹のなかにいたころから、練習をしていたのです。赤ちゃんてすごいですね。
最近まで、原始歩行が現われるのは、妊娠28週ごろとされていました。しかし、それは流産した赤ちゃんなどを観察した結果であって、超音波でみると、妊娠11週ですでに歩く練習をしていることがわかってきたのです。
こんな小さなからだで、まるで将来二本の足で歩いていかなければならない人間としての自覚をもっているかのようです。
ところでお母さんの親としての自覚の方はいかがですか?
そろそろ体は“妊娠”という新しい状況に適応し始めるころでしょう。このへんで、親となる心の準備の方も、本格的に始めていただきたいと思います。まずは、母親になるというのはどういうことか、母親学級などで具体的に学んでみるのがいいでしょう。妊娠とは、出産とは、妊娠中の生活とは、出産後の育児とは・・・と学んでいくうちに、母親としての意識も高められていくことでしょう。妊娠3ヵ月めぐらいでは、まだ赤ちゃんがお腹にいるという直接的な便り(胎動のような)は感じられないので、私たちは、今まで、漠然とその存在を受けとめてきました。しかし、先ほどのような赤ちゃんの行動を知ると、親の方でも子育てを始めなくては、という実感が湧いてくるのではないでしょうか。
◎ 優しい心が赤ちゃんの健康を支える
お腹の赤ちゃんは、お母さんだけを頼りに、生まれてくる準備を進めています。この小さな命を育んでいくのは、食物だけではありません。お母さんの優しい心もまた赤ちゃんにとって大切な栄養です。お母さんの精神状態によっては、育とうとする赤ちゃんのじゃまをすることさえあるのです。
たとえば、お母さんとお父さんが年中夫婦げんかばかりしているような場合、お母さんが興奮してプンプンしているようでは胃液の分泌も悪くなり、腸も働かなくなるので、食欲も湧いてきません。無理をして食べても、胃や腸が十分に働いてくれないと、当然食べたものがよく消化されず、栄養分もほとんど吸収されないまま排泄されてしまうことになります。
そうなっては、お腹の赤ちゃんにも栄養豊富な血液を送ることができなくなってしまいます。赤ちゃんの成長にも悪い影響を与える結果となるのです。
とにかく妊娠初期は、すぐイライラしがちだといわれます。でも、元気な赤ちゃんが欲しいと思ったら、夫や周囲の人たちのことで、少しぐらい腹のたつことがあっても、笑顔できき流しましょう。
たとえお母さんのいっていることが正しくとも、赤ちゃんにそれを説明することはできませんね。ホルモンが伝えてくれるのは、お母さんのストレスばかりでは、やはり赤ちゃんがかわいそうです。
赤ちゃんに豊かな栄養と明るい心をプレゼントするためにも、お母さんは、明るくしなやかな、優しい心をもちつづけていただきたいと思います。そんな心に満たされた生活こそ、最高の胎教となるに違いありません。
◎ 赤ちゃんにないしょでお酒は飲めない
「酒は百薬の長」といわれます。確かに、ふだんのお酒は、気分をリラックスさせてくれたり、血液の循環をよくしてくれたりといった心身両面へのいい薬となることもあるでしょう。
しかし、妊娠中は、お母さんがお酒を飲むと、アルコールは赤ちゃんの血液のなかにもどんどん流れこんでいきますから、赤ちゃんのことも考えてあげなければなりません。生まれたら、20歳まで飲んではいけないはずのお酒を、小さなお腹の赤ちゃんがいくら飲んでもいいはずはありませんものね。
アルコールによる影響は、お母さんの体質によっても違いがあるでしょうが、お腹の赤ちゃんは、まだ肝臓の働きも弱く、分解する力も弱いので、お母さんにはちょっと気分のいい程度のお酒でも、赤ちゃんはベロベロに酔っばらってしまいます。
とくに妊娠3ヵ月めの今ごろは、赤ちゃんの脳のもとがつくられているとても大切な時期ですから、お母さんからの血液は、脳に重点的に送られています。この時期にアルコールをとりつづけると、どうしても赤ちゃんの脳への影響が大きくなってしまうのです。
深酒をつづけていたお母さんの子どもは、学齢期になっても知能指数が低いともいわれます。頭のいい子にしたかったら、しばらくはお酒を控えたほうがよさそうです。
◎ どのくらいなら飲んでもいい?
もちろん一度や二度お酒を飲んだからといって、すぐ赤ちゃんがあぶないなどということはありませんが、今のところ、どのくらいの量なら大丈夫という基準もわかっていないのです。何か影響があるのではないかと心配するくらいなら、やはりやめておくべきでしょう。気にやみながらのお酒では、そのストレスも問題です。
逆に、あなたの誕生日に夫がごちそうしてくれるのだというなら、ワインの一杯くらい、神経質にならなくても、いいのではありませんか。夫婦の会話がはずみ、お母さんが楽しい気分になるようなら、赤ちゃんだって喜んでくれるでしょう。
ただし、どんなに楽しい夜でも、飲み過ぎだけは気をつけてください。足もとの不確かなときは、事故も起こりがち。万一、お母さんが酔っばらって階段から落ちたなんてことになったらたいへんですから・・・
以上が、夏山英一の説く「自分のエネルギーで育ってくる生命」への心遣いです。この他10数冊の「0歳教育」に関する資料を、孫の懐妊を祝してお贈りします。やがて成人になったとき、親子の絆をじっくりと考え、まちがいなく世界の人々と手をとりあってすすめる独立人になってくれますよう、願っています。
懐妊が知らされてから毎日孫は成長を続けていてた。すべてはお母さんとお父さんがその間のことは知っている筈だ。おじいちゃんは8月から始める下平学習塾の準備のため、多忙が続いていたから、ワープロ記録はなにもしてなかった。お母さんからつわりが遠のいたこととか、お腹のなかの赤ちゃんが動き始めたことなど、様子は聞いていた。
お母さんとお父さんには、赤ちゃんとの話のやりとり相互連絡のしかたについて、呼吸法によってお母さんの mind-brainと赤ちゃんの mind-brainとが想念伝達をすることができることを話してあります。
今は6カ月目に入っていますから随分大きくなり、お母さんやお父さんとの想念伝達も可能になっています。お腹のなかでよく活動するようになったと聞いて、それは単に、胎児だから動くというだけの意味ではなく、自分の mind-brainによる自己世界の構築がすでに始まっており、その意思表示としての活動にちがいありません。一般にいわれている胎動というのは、お母さんやお父さんの語りかけのしかた如何によっても、その違いがあるはずです。
毎日できるテレパシーの交信は、いろいろとあるでしょう。具体的に活字にしたのは有線放送第3回目の後半のものでした。もう一回お母さんとお父さんに話しておきましょう。両親はきっとこうした言葉にそえて心の祈りをあなたに送り続けてきていると思います。ずうっと将来のことあなたが結婚して赤ちゃんをもったとき、それを思い出していただきたい。
お腹のなかの赤ちゃんにしてあげられることについて書いてある本は、次の2冊の本です。
ジツコ・スセディック「胎児はみんな天才だ」 下平好上 「有線放送0歳教育」
これらのものの更に具体化したものは、出版されていません。私はもう一年くらいの間の仕事として、この具体化を活字にしていく予定です。いまのところ、私の本の21頁以下の誰でもできる生活を、繰り返し実践することが一番いいといえます。
友美の誕生日 平成五年十二月八日
4日後の12月12日、孫の友美は満1歳の誕生日を迎える。すくすくと両親の愛にいだかれて育ち、生後1ヶ年となる。
友美が自分の世界を築いていくため、私はできるだけよい刺激材料となって友美の心・脳・体にはたらきかけようと努めてきたつもりである。歌をくちずさみ、漢字カードでことばと生活のつながりをこころみ、指をさして目にふれるものを説明し、ドッツをみせるなど、愛情をこめた声・目・表情で愛をつたえ、散歩をし、眠くなると寝やすいようにつとめて今日を迎えた。
友美はすてきの一語につきるほどじつに優しく美しく成長してきて、私のはたらきかけに応えてくれた(もちろん私だけのせいではない)。それはそれでほんとうのことなのだが、むしろ逆に、私の心を清めてくれたし、愛はなにかということを教えてくれた。ありがたいと思うし、すまないとも感じている。清らかな目と微笑みはまさに「赤ちゃんは天使である」という一言につきる。
10ヵ月頃になると、指さしの説明をまねて「ああ、ああ」と指さしをして私に教えるようになり、同じ頃から達磨、人形、時計など10枚くらいの漢字カードを一緒にみながら喜々として楽しんでくれるようになった。寝起きのときぐずって目に涙を浮かべていたとき千富美さんが「爺ちゃんがきたよ」と友美をだっこさせてくれたことがある。目に涙をため、だっこしたとたん「ああ、ああ」といって、小さな人指しゆびを伸ばしていろいろ説明してくれるのである。私は感極まる。 ともかくすごい。将に赤ちゃんはすごい。友美は利発な子に育っている。
「鏡よ、鏡、友美ちやんと爺ちゃんがみえるなか」とことばがけすると、友美は鏡のほうへにじりより、いかにも捜すしぐさで私の顔を鏡の中に発見する。その愛らしいほほえみは、たとえようもない。
電柱の説明をしたり、雨樋の説明をすると指さすほうをジッとみていき、その説明をきいて理解する。立てかけてある一輪車の輪をちょっと廻してやると、止まるまで観察しているのである。また桃太郎の話をしていると「大きい桃が川上からドンブリコ、コンブリコと流れてきました」という件になると、「うん、しってるよ、そのとおりだよ」とほほえんで相槌をうってくれるのである。
友美に、これからなにをしつらえて遊んでやったらいいのだろうか。両親やまわりの者が友美に応じてやらなくてはならない。私もその一人である。
◎ ◎ ◎
誕生を過ぎたらなにをしてあげたらいいのか、これから思いつくものを挙げてみよう。
1 ひとつは「漢字カード」である。
今あるものは頻度や順番によって整理することがよい。駅員の改札ばさみのようなものがあると都合がよい。これは作るようにしたい。生活、自然、文化などのジャンルにわたるように、カードづくりの予定をたてることもだいじである。昔話や歌にでてくることばのカード作りもだいじだろう。
それと、三石由起子式の「実地ことばカード」の方法をとり入れるとよい。
春になってでよいが、語彙がおおくなって話せるようになったら、「二語文カード」や、「文くみたて用カード」作りや、そのやり方の勉強もだいじになってくる。
2 カード作りではないけれども、ことばと文字ということで同類になるが、絵本の「漢字混じり文」の書きかえも、これからの作業にとりいれていきたい。
3 関連して絵本の選択もだいじなしごとのひとつになってくる。
私がつくった「教材集 1」など参考にしてみんなで話しあって用意していくようにしたい。
4 英語をどうとりいれていくかも、準備しはじめてよい。材料としては「キディ・キャット」「英語であそぼ」などあるし、歌も利用するようにしたい。私が立案しようと思う。
5 続いて「歌の本」作り、CDやテープによる聴取、演奏なども計画的にすすめたい。「歌の本」は一応80曲ほどできたが、絵かきがひとしごとである。私が手がけたのだから私がやっていくようにする。電子ピアノは両親の努力を俟ちたい。
6 「絵本の読み聞かせ」については、話し合って一日のスケジュールに位置づかせたい。スセディックの例を参考にしてもよいが、臨機応変のものと心得、神経質に考える必要はない。
7 「数概念の形成」にはいろいろと方法がある。
実験というわけではないがドッツの実践事例を精読して基本を理解し「ドッツ法」ですすめたい。友美は充分それに応えてくれると思うし、私としてはドーマンの幼児能力が真実なものであることを実証してもみたい。2~3回、1から10までやっみたが、しばらく休んで4月からとりかかったらどうだろうかと思う。
愛情と幼児の能力を信ずることがドッツ成功の鍵であることは忘れてはならない。 疑いやテスト、スロー・スピードは禁物だということも返上してかかることも忘れてはならない。
8 「散歩」 自然との対話
自然のしくみを理解し、友美が自分の世界を築くために、散歩という方法を通して、できるだけ多くの真実を、くりかえし説明し共感できるようにすることは今後ともだいじな対処の仕方である。天空の昼夜のすがた・自分たちは真実を教えるためにできる限りの学習を積む要がある。動物や植物の生命のすがた・生命の相を四季に応じて説明し友美に実感させていくためにも教える側の絶えざる学習がだいじになる。だから、それに関係する絵本とか、ビデオ、また顕微鏡も必要となる。
生命のすごさを見詰めれるようにしたい。冬でも夏でもである。教材や資料は話しあってみつけていきたい。野外観察シリーズなど入手しておきたいものである。
9 「文化遺産と社会生活」
これらについても、散歩や見学など、また写真利用や描写記録などの方法によって理解を深めていきたい。ことに散歩や見学などで目だって印象にのこるようなことは、友美が反復できるよう描画や写真などで記録し、その日のできごとを話しあい、思いださせ、大脳を整理することが望ましいし、2~3日後なり、1週間後なり、興味があればくりかえし見たり話題にだすことが大変よい。
ドーマンによる「ビッツ法」は現状では扱わず、私たちがもっと学んでから機会をみて考えるようにしたい。
いままでのことは、知的能力を高める基礎づくりと、自分と外界とのかかわりを理解することに属したものである。人間存在を「知・徳・体」に区分すれば、知に属する分野である。知の領域では、思考そのものを高度なものにすることができるところの「言語」を再重要なものとし、直覚力・論理性を高めるところの「数対応」を位置づけ、次いで「美意識」を高めることをとりあげると共に「生命エネルギーの本質」を理解し「自分と外界との連携」の把握などを含めてきた。
10 「徳育」
では次に、徳育として、なにをどうセットしてやることがよいか。この項ではそれらを一つにまとめて列挙してみよう。
今まででも、私のみる限り、両親は高レベルの対応をしてきている。
親の愛情とは、子どもの幸福を願う心である
子どもの幸福を願うとは
子どものために幸福を信じて、なにかをしてやることである
それは、愛することばであり、教えであり、与えることである
それと共に、見られてもいい、聞かれてもいい、自戒の心がけ
徳育の最上位に位置しうるものは、現行動である。それは徳育の質の如何を問わず、現行動を以て最上のものとする。
「ことば」は伝達の手段に過ぎず、徳育はあくまで現行動を本質とする。
整理整頓や礼儀作法は、すべて心の表出であり、ことばの質とか表情もすべて心の表出である。
従って“まね”てもらってもよい、恥かしいことでない生活行動を本義としてよい。だから生物本来の姿、ことに動物の本然の姿の中にある親子が伝承していくもの、愛という生命エネルギーの願いを体得しておくことは、基本的に重要になってくる。
たとえば、一茶とか良寛の晩年、釈迦の臨終の様子など大いに参考になる。親から享けた恩愛というものは、子どもにとってなにものにもかえ難いものである。親の恩愛に報いきるということは、不可能に近いといえよう。
親は報恩を待つものではない。ことばでいえば、親の愛は無償そのものであり、だからこそ愛といえるものである。一旦、子どもが親になったら、親がしてくれたことを子どもにしなくては親に報いる方法はない。NHKで、親に育てられた猿が子猿を育てる場面と、人工で育てた猿が子猿を育てる場面が放映された。前者は親猿が育てたと同じように子猿を育てるが、後者の場合、子猿を育てるどころか手もかけないでおろおろして見放していた。動物の赤ちゃんにして然り。たとえなにもわからないと思われている生まれたての生命は、幼児プログラムを本来的にインプッ卜しているのである。私たちの想像をはるかに越した現実が、生命維持という本命の上に現れてくるとしかいいようがない。この現実がよくよくわかれば、親孝行は下位に従属するものであり、子孝行こそ、親の愛に報いる最上位の価値概念であろう。心しておくべきことである。
したがって徳育は、よりよきものを創ろうと自ら努力する相そのものであり、それ以外にはない。より良きものとはなにか、それは自らの大脳へより豊かな情報をとりいれ、それから判断するしかなかろう。端的にいえば、多くの有益な書物を読み、思考の世界を広げていくことがよいし、または、「人の振りみてわが振り直せ」の諺どおりの自己修正と、素晴らしいことのまねでもこと足りる。
友美にたいして恥かしくない生活をし、愛をもって接してあげることが徳育に応えることにほかならない。
11 「体育」 知・徳の次には体育である。
生体維持のためには健康でなくてはならない。それには適食と肉体の新しさを保持するという二つが要件となる。
まず食育だが、大脳や骨肉に必須なカルシウムを充分補給することがよい。総じて、活力のある細胞を保持する食育と考えればよい。いろいろな本から学べばよいし、それを実践すればよい。もう一つは、活力ある細胞、逞しい肢体のためには、体育と労働が必要である。このために具体的な計画を話しあいながらつくりたい。体育のコースはおのずから独自のものになってよい。ドーマン方式を参考にしていくこともよいだろう。
以上、これからの友美について思うことを書いてきたが、これからの子どものこともあるから、私が読んでまとめてきた「ぺアレンツ・アカデミー教材集 1~4」を通覧して折々に利用するか、本格的には推薦している本を片っ端から読んで0才教育の大要を自分のものにしていくかしてほしい。これらすべては、誰でもが独立人として自分の世界観を創りあげるという願いから発しているものである。
★ ★
12月の3、4日、柿部会の販売促進会議があって大阪市場へいった。しばらくぶりに都市の雑踏に身をおいてみると、人はそれぞれに異なる生活をつくりあげ、仕事のむきも価値観のむきも顔立ちもみな異なっていることに改めて考えさせられる。雑踏の中に身をおくとき、いつもそれを感じてきた。人の生きざまは十人十色である。 今世界的に経済活動が沈滞してきているが、これだけいろいろの工業製品が大量に出まわれば、供給が需要を上回るのは当然のことである。日本ではたとえ減税したり公共投資を増やしたとしても、需要はいままでのようには増えない。先進国においては需要と供給のバランスでは供給の飽和状態にあるという段階になってきた。働いて金を稼いで物を手にいれて満足する、そういう状況は終りに近づいている。不景気を嘆き憂えているが、物がなくても多くの人は生活には困らない。困るのは、多くの人が満ち足りない根性になっていることである。
いまや、生き甲斐は経済的なものから心の内面のものへ、より多くの人がより早く移行する必要があると考える。世の中の人がまだ経済的なものに基盤をおいて思考しているとしても、一人でもよいから精神的なものに基盤をおいて思考し、自己世界の構築に努力したい。追求すべきものは物質的なしあわせではなく、精神的で形而上的なもの、あるいは学問の目的である真実そのものを追求することである。これは人類社会の今後の方向であり、全般に課せられる命題でもある。さもないと、いまの経済主流の政治、生活の風潮に流れては精神的失速現象がひどくなり、人々の不安は増大し、出口のない迷路を右往左往することとなる。解決手段として戦争が始まることとなれば、歴史学習の意味は皆無となってしまう。経済というものに生活意識の根をおろしている限り、心の世界はひどく損傷をうけ、自己世界の構築が阻害される大きな要因になりかねない。私はたとえ雑踏の中にあっても、自分の進むべき方向を自分で見いだしてすすみたい。
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同じく大阪へいく途中である。隣席に上飯田の高速バス停から一人の女子高校生が乗りこんだ。彼女は大きなバッグの中から、ノートからはずした十数枚の英単語や短文をとりだし、目を通しはじめた。聞けば、4日に受験するのだという。その筆跡や手の動きその姿勢から、集中力のある子と思われた。私が育ったころとくらべると、いまの子は恵まれているなと思う。世情をよそに青雲の志に向かって努力する姿と、友美の将来をダブらせながら、悔いのない世界に生きるよう祈った。
0歳教育 (思考と表現)
北海道観光地の一つ登別の地獄谷を訪れたときですが、土中の水分がマグマに熱せられその気体が泥沼の池にブクブクとでているのをみて、ほんとうに驚きました。
一昨年からの雲仙普賢岳のマグマ噴出による惨事、昨年の地殻変動による奥尻島の地震津波の災害、海外ではフイリピンのポナツポ火山大爆発による惨事、その結果の気象変動と思われるヨーロッパやアメリカの大洪水と日本の凶作などつづきました。 これらの現象は、大地の仕組みは一体どうなっているのだろうかという疑問を人々にいだかせるのに十分な情報でした。静かな大地も、実は詳細にみていくと驚くべき活動をしている生きもののようです。「地球大紀行」や「驚異の小宇宙」あるいは昨年暮れからの「アフリカ大地溝帯」の放映をみていますと私たちの心身はもちろんながら、私たちが生をうけているこの地球そのものも一つの生命体であることに気づきます。
私たちの思考と表現は、マグマのエネルギーとその発露ににています。
★ ★ ★
私たちの思考は大脳の活動であり、大脳はマグマのような無定形、無定量のエネルギーをもっている生きものであります。大脳は時と場所にかかわりなく、あらゆる外部刺激に対して瞬時に反応する点においてマグマと異なっていますが、マクロの世界においてみますと、外部条件に確実に反応する点でまったく同じであります。
★ ★ ★
私が「思考と表現」で述べたいのは、親が子育ての真実を大脳へインプットしていく場合、思考と表現ということを基本的に理解しておかなくてはならないと思うからです。思考はマグマのようなものであり、表現は千差万別の氷山の一角のようなものであるということを知っておくことが基本的に大切であると思うからです。
赤ちゃんが発達していく肉体的プロセスとか、赤ちゃんは知的能力や品性や健康などどのようにして自己世界を構築していくのかとか、こうした赤ちゃんの成長過程は、次のように表現してもよいと思います。
このことは確定的といってよいまでに今日では解明されておりますから、それらの情報をできる限り大脳へインプットし、情報そのものを生命過程のしくみの材料としてとらえ、自分の「子育ての世界観」を築きあげることがまず第一に大切であります。「子育ての世界観」を築きあげる情報収集のときに、次のようなことに注意しなくてはなりません。
赤ちゃんの成長過程は、 赤ちゃんの自己意識にかかわりなく、 生命プランとして赤ちゃんにインプットされている。
他人が説いていることをその部分としてとらえ、その部分がよい結果をもたらしていたとしても、あくまでそれは全体の一部分であります。一部分の無限集合である全体からみれば一部分はやはり一部分でありますから、たとえ一つのことが驚くような結果をもたらしたからといって、一喜一憂していては赤ちゃんの全体像にゆがみをもたらすこととなります。また他人が説いている論理を理解したとしてそれを実践し、その部分がよい結果をもたらさなかったとして、匙をなげるような場合もよくみかけられます。文章表現の表面を理解し、いわば字句にとらわれて安易に実践したり、いわれた通りにやってみたが思わしい結果とならなかったという場合など、よく聞くことであります。他人が説いた文章とか話というものは、膨大ないろいろの思考が錯綜しておる中で、どう表現したらよいかたえず配慮して説いた文章や言葉でありますから、文字面だけの理解、音声表現だけの理解では、書いた人、話した人の全体像がみえないのが一般的だといえるでしょう。文章表現の場合、読書百遍意自ずから通ずの譬があるように、文章理解のためには主要点については傍線をし自分の考えと比較して吹きだし脚注をすべきでありましょうし、自分用の要約抜き書きをまとめることも文章理解のために必要でありましょう。この方法にしても2~3回の熟読が要求されます。このようにしたとき初めて、他人の全体の考え方と部分部分の考え方を概要としてとららえることができるものです。
赤ちゃんが発達していく肉体的プロセスとか、赤ちゃんは知的能力や品性や健康などどのようにして自己世界を構築していくのかなど、このような内容を取り扱っている本として次の本をおすすめします。
・ 「マジカル・チャイルド」ピアス 日本教文社 2000円
0歳教育についてのまちがいのない、理論的な論拠として第一に推薦します。すこし難解な表現ですけれども、人の存在と成長の基本的理解のしかたを説明し展開して見せてくれます。
・ 「子どもの知能は限りなく」ドーマン サイマル出版会 2100円
ドーマンは障害児治療のなかから知性触発法を発見し、世界的に大脳インプット法を発見した著名な人で、「親こそ最良の教師」、「幼児は算数を学びたがっている」「赤ちゃんに読み方をどう教えるか」を出版しており、日本の幼児教育で名の知れた人はみな彼の知性触発法を取り入れています。0歳教育の方法論としての基本図書であり、第一に推薦します。
・ 「胎児はみんな天才だ」スセディック 祥伝社 700円
胎児教育での特異実践者、彼女ののめり方には感動するほかはありません。胎児教育書として随一の原典として推薦します。
・ 「天才児を創る」三石由起子 日本実業出版社 1140円
ドーマン理論を自分なりに取り入れた実践者であります。ドーマン理論の具体的指導法が一般化するまでの具体的幼児教育書として推薦します。
・ 「ドッツの効果的教え方」 七田 真
ドッツ法の具体的実践の事例集として参考となります。ドッツ法は驚異の数学教育方法であり、まだ草分けの分野だが、今後明確になってくれば数学教育の基本方法になるだろうことは間違いないと思います。
・ 「二八〇日の胎教」夏山英一 フレーべル館 880円
胎児の身体的成長の解説書として両親必読の書として推薦します。
・ 右のほか、有益な書物が多数出版されており、それぞれの特徴がありますから必要によって入手していくことがよいと思います。
★ ★ ★
第二には、赤ちゃんが自分の世界を構築していくために、赤ちゃんを取り巻く人はどういう役割を果たしてあげたらいいのかをよく承知していることであります。環境づくりや言葉がけは、接する人の「子育ての世界観」の氷山の一角になるわけであります。ですから、いつ、何を、どのように、どんな心掛けで、どういう言葉がけで赤ちゃんに対応したらよいのか、それらのことを具体的に決めなくてはなりません。
この計画については、二つの面から考える必要があります。一つは、一日のプログラム実践記録であり、一つは三歳までの教育内容計画であります。
※先ず一日のプログラムですが、子どものリズムに合わせてつくります。
赤ちゃん教育は日々の試行錯誤の実践ですから、その計画は、仮目標をたてての計画実践と記録修正の累積になります。このスタイルですすめることがよいと思います。
友 美 1歳4月 平成6年4月14日
4月8日はお釈迦さまの誕生日といわれ、子供のころは学校から帰って家から壜をもって法運寺へ行き、あまちゃを貰ったものでした。長かった冬もようやく終って桜が咲き、やっと春が来ました。
友美は4月8日に一人で歩けるようになったという。自分で床や大地をみつめ、いっぽいっぽ歩けることは大変な喜びにちがいなく、その表情は輝いていた。両親は勿論ながら、私も明るい喜びに満たされました。この日は伊久間の諏訪神社のお祭りで八時過ぎに行ってみると、小池さんの庭が獅子や屋台の休憩所になるということで、千富美さんと友美は庭先にいました。
這えば立て、立てば歩めの親心、痛切に諺がひしひしと胸をうちます。
心身ともに一日一日絶えず刹那の事実を友美は脳裏にインプットしています。心身ともにというのは、環境それ自体が友美の脳裏に、知識として心情としてすべてインプットされていくという意味での心身で、内容は多彩を極めています。別の表現をするとすれば、いまこそ一切の宿業を構築している最盛期であるといえます。宿業とは仏教語としての意味ではなく、実は日常茶飯事のなかで自分を動かしている基本的な部分、それを指している言葉であります。その宿業は、今、友美が心の面から人の愛情の面から知的な面に至るまで、休みなく築きつつあると言ってよいのです。人の業とはそうしたものです。改めてその想いが強く去来します。間違いのない事実だと思います。
誕生日によせて書いた見通しを実践する要があります。即ち、愛情・言語・数概念の環境設定をしてあげることです。
1 「ことばカード」を一定の方向(生活分野の拡大による事実と言葉)で増やす。
・ 今までのものの整理(改札鋏の作成)
・ 野外散策などの生活に出会う事物の名称
実地ことばカード作成方法を取り入れ、後で整理するとよい。
・ 日々の繰り返しを重んじる。一日午前午後の二回。
・ リズムとスピードを重んじる。リズムとスピードは素早い反応力、思考力を育てるし、子供が生来もっている瞬映力(瞬間に映像を掴む力)を育てます。
・ 理屈で教えるのではなく事実を教えます。子供は事実を与えれば、自分で考えるという生来の優れた創造力が育ちます。
・ 記憶の訓練を重んじる。記憶の訓練は思考のプロセスを助け、豊かな連想力、想像力、創造力を身につけていまます。
・ 子供の能力を育てる原則は、急がず、焦らず、休まずの三原則です。
2 「ことばカード」 言語表現のためのことばカードを増やす。
・ 「主語カード」(助詞の『は』を付加するだけでもよい)
・ 「動詞カード」
○自分を主語にした日常表現
自己意思表現 ~したい(食べる、散歩する、寝る、休む、行くなど)
問答表現 ・これなぁに? どうしてーなの? なにしてるの?
いわゆる Why What Who When Where How
・はーい!
挨拶表現 おはようございます。どうぞ。
感謝表現 ありがとう。いただきます。
説明表現 これはーです。
○弁別、対応、分類、組み合わせ、総合に応じた日常表現
弁別 a,b,c,d, etcを(分ける、選ぶ、取る、など)
対応 a,b,c,d, etcを(一緒に使うもの、仲良しのもの、など)
分類 a,b,c,d, etcを(鳥の仲間と虫の仲間に、など)
組み合わせ a,b,c,d, etcを(木で出来ていて遊ぶものは?など)
総合 三つ以上の組み合わせ(猿が バナナを 食べている)
○基礎概念
色 弁別 分類
図形 弁別 分類 大小
大小 弁別 分類 大小
数 弁別 分類 大小
量 弁別 分類 大小
空間 位置関係(高低、上下、左右、前後、遠近、内外、など)
比較 (色、図形、大小、数、量、空間、など)
順序 序数に関わること
時 時の (長短、日時、年月、季節など)
お金 数の特殊用法
・ 「修飾語その他のカード」
実際には「文くみたて用カード」を、子供の様子をみて作成する。
三石由起子の本を参考にします。
* 参考にするもの
ペアレンツ・アカデミー 教材集四の「言葉図鑑」
三石由起子の本「天才児を創る」「天才児に育つ・赤ちゃん教育」
ドーマンの本「子どもの知能は限りなく」「読み方をどう教えるか」
3 歌と文字
・ 「私製一歌の本」漢字などできれば前もって扱っておくとよい。歌を真似できるようになれば、直接漢字にであっても支障はない。
・ 「私製= 歌の本」現在あるもの以外の本は、いくらでも作ります。
・ 「私製= 紙芝居枠の歌詞」の利用
・ テープ、CDの準備
テープは自分で操作できるようにして、10分のものを準備してあるが,どんな歌を選ぶか考えていくとよい。具体的に近々話し合ってダビングします。
* 満3歳までに200から300の歌を子供は楽しんで記憶してしまうといいます。 この絶好の機会を逃さず、漢字の「私製 歌の本」を手元に準備してやらぬ手はない。 ワープロを使って作るようにする。
4 絵本の「漢字混じり文」の作成利用法
・ 子供の好きな本を選んで、漢字混じり文を作る。何回も読んで楽
しむうちに、子供は漢字をたやすく記憶してしまいます。
・ 絵本は、教材集一など参考にしながら、両親が楽しみに選択して
下さい。ここでも、ワープロを利用するとよい。
5 英語を身につけていく
・ 英語の絵単語カード テープを併用する。
テープはできれば外国人に依頼する。
・ 英語の単語カード(ワープロ拡大文字) テープを併用する。
・ 慣用文(句)のカード(ワープロ拡大文字) テープを併用する。
慣用文例五〇〇、その他の本を利用する。
・ 英語の歌の私製本(ワープロ拡大文字) テープを併用する。
主としてマサー1グースを利用する。テープは手持ちのもの利用。
・ 英語の本の私製本(ワープロ拡大文字) テープを併用する。
レイディ・バードその他の本を利用する。
* 友美と英語の仲立ちをどう進めるか、試行錯誤を覚悟しておくが、いろいろ人の実践方法を調べて対処していきます。
6 ドッツ法
・ 数概念をつくるのに、ドッツ法を取り入れる。
「ドッツの効果的教え方」を通読して取りかかるとよい。
・ 『カード作成』が第一歩の仕事です。一枚に貼る数を違えないためには、一枚の必要ドッツを数えてまとめておき、貼っていくとよい。
・ 第一にも、第二にも、ドッツをすることは楽しいことだというのめり込みが基本の心得であり、試さないことが成功の秘訣だということを確信して始めなければならない。
・ 進度計画は、ドーマンの計画に準拠したい。
従って、ドッツの全課程をカレンダー式に一覧表にしておくようにします。
* 全課程終了後の学習内容リストや進度計画については、様子をみて立案していきます。 数字の導入については、友美の様子をみて考え取り入れるようにする。
7 ドッツ以外の目に見える数量的把握の方法 (今すぐでなくてよい)
・ 従来の方法・・おはじき、ブロック、切り取り図形、その他の利用は、ドッツの進捗状況をみながら考えていくようにします。
・ 知的発達の基礎概念(色・図形・大小・数・量・空間認識・比較・順序・時・お金)についてのカード利用の方法
* この他の方法については、今後の計画による。
視力の衰え 平成5年10月25日
この頃、夜空の星は右目だけで見ても左目だけで見ても上下の二点に見える。両目を細くして見ると一点に見える。上郷の下街道のネオンの夜景は、正常な人よりも美しく見えるのかもしれない。正常な人にはわからないし、私自身も10年程前まではわからなかったことである。
視力の老化は、夜景を美しく感ずることができる半面、不都合なことのほうが多くある。当然なことながら眼鏡なしでは新聞の文字がまず第一読めない。眼鏡をかけていれば素晴らしいご馳走なのに、眼鏡なしでは視覚からの充足感を欠いて、ご馳走の味も半減するという結果になってしまう。また活字に目を通しているときなど、老眼鏡のためか何時間も読み続けるということができない。目が疲れて眼鏡をはずしたときはあたり一面ぼゃっとして目がおかしくなってしまう。視力の衰えが人に迷惑をかけるようにはまだなっていない。だからこれは自分だけの問題なのである。
自明の論理 平成5年10月25日
よい野菜を作るのには、土作りを大事にすると共にその野菜に適する管理を大事にしなければならない。自明の論理である。
よい人を育てるには、環境を大事にすると共にその人に適する教育を大事にしなければならない。これまた自明の論理である。
己の経済も名誉も愛情も己だけの世界であればこと足りるが、人には己を養育してくれた両親がある。されば己の世界を構築することは己の崇高な権利であるが、両親の恩義に報いることは己の崇高な義務である。両親というものは子が孝養をつくしてくれることを望むものではなく、子が立派に人生を全うしてくれることのみ願うものである。従って己の両親に対する崇高な義務とは、両親が己に成したごとく己の子が立派に人生を全うしてくれることのみ願うことでこと足りる。即ち親孝行とは子孝行が本筋であってよいのである。北きつねが子に対するごとくである。
わが子が中学生になってから、人生に対する歩みがおぼつかないと悔いても最早詮方ないことである。知的内容においても心情内容においても、幼児期の親の見通しや実践なくしては、子が立派に成長していくという論理は成立しない。
自己世界の構築 平成5年10月25日
いつの世でも、経済的生活に価値をおく風潮が一般に強い。人そのものの誠実な成長に価値をおくとか、その人独自の自己世界の完成に価値をおくとか、清貧のなかに慎ましく生きることに価値をおくとか、そういう人が少ない。
私のいままでの知識と体験から、「自己世界の構築」こそは意識の如何を問わず生命体にプログラムされている目標そのものであると考えられる。自己世界のなかに平和も清貧も宗教も生存もすべて構築できるし、それは自然に即応し、動植物に即応し、宇宙存在そのものに即応することができる。科学に即応し宗教に即応することができる。平和に即応し、慈悲に即応することができる。あらゆる事物を内包する故に、愛や金や名誉や性の価値の位置づけも含まれるものである。
自己世界の構築をどう進めるか、それは最上の価値ある課題である。それ故一朝一夕で解く課題ではなく生涯取り組むべき課題である。それはまた己の課題であると共に、子に対する親の課題でもある。自己世界の骨組みの構築が進んだとき、哲学、宗教、人生の上での名言が雲霧離散し生活そのものとなる。
友美ちゃん 1 平成5年10月26日
『これは岡島さんちよ、お・か・じ・ま。岡島、岡島さんよ』
友美ちゃんは賢い。表札の岡島を覚えてしまうと、
『あっ、あっ』
といって、可愛い小さい手を差し出して私に教えるのである。岡島さんのおばあちゃんは1才4ヶ月の孫を子守っていた。別れぎわに、そのおばあちゃんが、
『バイバイ』
というと、右手を挙げ、手を開いたり閉じたりしたのである。思わず私はうれしくなる。
優しい両親に育まれてすくすく伸びている。
友美ちゃん 2 平成5年11月1日
ドーマンのいうたか這い、いわゆる赤ちゃんのハイハイであるのだが、友美ちゃんの10ヶ月検診のときと思うが、保健婦さんが足を真横に開いてくるくる回ったりはするが、ハイハイをしない友美ちゃんを見て、どこか医者に見せたらどうかというアドバイスをしたらしい。
秀はそれを聞いてきてひどく心配して話してくれた。
私は保健婦の不用意なアドバイスに腹をたてた。そうでなくてもすくすく育ってくれるよう願っている両親にとって、こうした無責任な指示は親を不安においやるものだからである。まして、友美ちゃんの成長の具合や発達過程をつぶさに承知している親にとってかわって、不安になるような考えを述べたことに、腹をたてたのである。
ともあれ、友美ちゃんは心身知能ともどもすくすく伸びている。一昨日、膝をまっすぐ立てたわけではないが、ちぁんとハイハイしたのである。腹筋と背筋が日毎に強くなってきている。
友美ちゃんに即して全てを考えること、友美ちゃんの世界構築が終始基本である。
つれづれなるままに(随筆)
1 自主とは、自己世界の構築の主人公になる意味である。
・自己世界の構築とは、生命体にプログラムされている不可思議な能力である。
・赤ちゃんの自我意識の構築も、生物プランの能力に支えられたものである。
2 自己世界の構築は何を意味するのか明らかにしておくことは、そのスタートの意義を確かにするためにも必須のことである。
3 世界平和の実現を目的にする場合、自己世界の構築が最短コースである。その論理が確立しないかぎり、stray sheep(迷える羊)の試行錯誤をくりかえすことになる。
4 ESPは、生物プランの完成のために付与されている不思議な能力である。
5 ESPの環境設定として最善なものは何であるかを明らかにすることは、両親にとって、わが子に対する最高の愛の証である。
6 人工衛星の軌道修正は、生死にかかわるために議論の余地はない。人の軌道修正も、そのレベルで考える要がある。
7 福祉社会とは、人間の野生エネルギーを剥奪するものである。
8 金と名誉と性欲は凡欲の代表であり、この執着を離脱しないと人間の価値を正しく観ることはできない。
9 儒教、仏教、キリスト教の教えは社会組織に代入するのではなく、自己世界に代入してこそ、その真価が発揮される。
10親孝行をするとは子孝行をすることである。
[後記]
表紙を「随想」としたのは、人からの批評や歌や旅行をのせたりしたので、本当は中味から「随想と雑記録」としたいが、あえて簡略に「随想」としたまでである。
掲載の順は雑然としている。書いた日付をすべてにわたり残してなかったこともあり、内容もばらばらだったこともあってこんなことになってしまった。退職前のものを「日記と随筆」一、二としましたが、表紙は「随想」としても内容的にみて三と四にしました。三のほうは退職後早期のものを載せ、孫のことなどもまとめて載せました。四のほうも雑然と載せたが、序文に書いたように人格形成の相と社会の歪みに目をむけて書いたものを主にしてまとめました。
徒然草のように、心に浮かぶよしなしごとをそこはかとなく書き記すことがよいがすべてを書き取捨選別して残すなどとてもできる技ではない。矛盾した表現もあると思いますが、それらの穴については埋める根拠や釈明することもあると理解していただきたい。人生の意味は、その生涯の過程にあると理解すれば事足りる。