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続折々の記 2018⑨
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「殉教・拈華微笑・天上天下唯我独尊 埴生の宿(歌) 「天上天下唯我独尊」の受けとめ ユネスコ(冒頭名句) 存在の意味 ユネスコ(無知偏見) 生命のとらえ 単数思考のすすめ 生命と単数思考 憲法(戦争放棄) 現代の課題 その一 …
【 03 】09/16~
09 16 (日) 私製本「日記と随筆」(四) その一
これらに共通する立場をどうとらえるか(論拠との関連)
殉教・枯華微笑・天上天下唯我独尊
人と話をしているとき、話の盛りあがりがうまくいかないことに、おりおりであいます。そうかというと、いつまで話していても時のたつのを忘れる場合もあります。一人一人の価値観とか人生観の相違によって、話が深まるとか、そうでないとか決まってくるように思えます。当然といえば当然のことといえます。
そこで、一つの方法として「殉教・枯華微笑・天上天下唯我独尊」の価値を共通化しておけば、話の盛りあがりが素晴らしいものになると思うがどうだろうか。別の言い方をするなら、親子の愛情とか、可憐な花や小さい虫の生命をいとおしむ心とか、最愛のものを失うことは自分の生とかえることのできないやるせないものである、など生まれながらに大脳にプログラムされているこうした美しい心を基本の立場とし、それを追究していけば、話が盛りあがるものと思います。根っこの価値観や人間観がばらばらである場合には、話の盛りあがりはみられないようになります。だから、たえず自分が人の美しい心と手をとりあい、話を美しい心とつなげてゆけば話は盛りあがると思います。
話の盛り上がりは、個人の存在価値のとらえかた如何によって左右されるのです。価値認識をおなじくする立場にある場合には、年齢とか役職をとわず、楽しい心が湧きあがるものであります。言語表現、文字表現によって思考内容を伝達することは、多少適確さをかくにしても、それは当然のことであり、なにもこだわることではありません。話によって思考内容を適確にしていくこともできます。
個人の世界観を知る方法には、五感をとおして生きざまを観とることが最良の場合があります。
たとえば今NHKで連続ドラマ「かりん」を放映していますが、主人公の千晶の母、晶子が速醸味噌の完成間近に過労で急死する場面がでました。父の友行は枕辺で一人黙して終日座し続けており、友行の養父母は味噌倉で愛しき娘の死を「ぎゃくだ!」といって悲嘆にくれる。祖父は孫娘が女学校当時歌ったうたを老妻にたずね「埴生の宿」を涙ながらに口ずさんだ。わが子への願いは、明らかに「埴生の宿」の歌詞の内容に重なっていたのであり、気丈の老母は夫のこころねをいたわりきれずよよとして泣き崩れた。言葉がもつ伝達方法だけでは絆を理解したり、絆を伝えることはできないのです。現行動を五感によって観とるしかありません。生死は今生の別れであり、言語に絶する悲しみであります。何人もそれを癒すことはできません。それは絆というほかないし誰しも認める真実であります。それはまた、老若を問わずその人の個人の世界観、生きざまを肌身に知っているからに他なりません。ドラマはそれを展開して見せてくれました。
話というものは、能弁であるからよいというものでなく、多くのことを知っているからよいというものでもありません。人を笑わせるからよいというものでもありません。お互いの、形而上の世界観構築のために有益なものであってこそ、素晴らしいものであるといえましょう。だから「殉教・枯華微笑・天上天下唯我独尊」の基盤の上にたってこそ、話がもつ豊かさが成立すると考えるのであります。
利己のための発想からは、その範疇を越えた話の進展にはなりにくく、顕勢の発想からは、無一物者に応じた話の進展にはなりにくいのです。だから生きざまを大事にしない発想からは、個人世界の構築に役立つ話にはなり得ないのは当然のことといえましょう。もちろん、どんな情報も話であるし、楽しい話もよいのです。いかなる話でも個人生活の向上に資するものでありたいし、他を揶揄すものであってはならないと思います。
埴生の宿 中等唱歌集・明治22年
埴生の宿 作詞・里見義 作曲・ビショップ
埴生の宿も わが宿
玉の装い 羨まじ
等閑なりや 春の空
花は主 鳥は友
おおわが宿よ
楽しとも 楽もしや
文読む窓も わが窓
瑠璃の床も 羨まじ
清らなりや 秋の夜半
月は主 虫は友
おおわが窓よ
楽しとも 楽もしや
この原曲はビショップ(Sir Henry Rowley Bishop)の Home Sweet Homeである。
矛盾をはらみつつ思考の林に彷徨 い、表現の湖畔に佇 む、将 に遊子である。
平成6年1月20日
自己世界構築の根拠
天上天下唯我独尊の受けとめ
0歳教育の心得の一つとして、私は「自己世界の構築」という言葉を使います。自己世界の構築は生命存在の生涯を通して、確立しておかなければならない形而上の原点だと思うからであります。小さい生命を育てる者にとって、赤ちゃんというものは生涯を通して自分で自己世界の構築をしていくものであるということを私たちは認識していなければならないのです。花は花の生涯をもち鳥は鳥の生涯をもっています。自分は自分の生涯をもたなくてはなりません。犬は犬の生涯をもっており、いつまでも親が干渉するものではありません。人は人の生涯をもち、いつまでも親が干渉するものではありません。だから、赤ちゃんが自己世界の構築をすすめていけれるための良い援助者でなければなりません。良い援助者であるというのは、自らが良い自己世界の構築者でくてはならないのです。
自己世界の構築は生命の発生そのものから生命体にプログラムされています。人為の如何ともしえない不可思議なプログラムが生命体にプログラムされています。細胞分裂にはじまる成長は、生涯を通して個体生命維持と個体活動を約束されています。それはホノグラムという概念によって説明できるものであります。鏡は実物を投影しますが、鏡をどんなに小さくしていっても、やはり投影できるものであり、それは鏡のまえに花があれば花を、生命の仕組みであれば生命の仕組みを、微塵になった鏡の一片はそれらを投影できるという概念であります。
一つの細胞にその種族のすべての可能性をプログラムされているというのです。超能力やテレパシーでさえプログラムされているというのです。生命体はそのプログラムに沿って成長発展しその生命を終えるというのです。狼に育てられれば、狼の環境になじむように、良い援助者に育てられれば、良い援助者の環境になじむように成長発展しその生涯を終わるのです。粘土細工の人形でない限り、独自のプログラムに沿って自ら成長発展します。これが自己世界の構築であります。
このように生涯を理解しますと、自分の生涯は自分だけのものであり今生の生涯は自分が築いているだけであるという認識に達しましょう。仏教に説く「天上天下唯独尊」は、こうした真理に基づいた言葉であり、世界の中には俺しかいないというような意味ではない。
赤ちゃんは自分を取り巻く刺激、環境に反応し自ら確かめ自らあらゆる情報をインプットしていきます。この難しい言語ですら数か国語もインプットし整理し記憶し活用していきます。まさに超能力をもってあらゆるものをインプットし自己世界の構築をすすめているのです。
大脳配線もまさに超能力をもって整理され確定されているのです。鳥のインプリンティングのように、周囲の環境に間違いなく反応し成長し続けるのです。ですから、環境をどうセットしてあげたらいいのかが、良い援助者の再重要の課題なのです。環境をどうセットしていくのかという課題は、ここでは触れてはおれない。とても大きな課題だからです。
ユネスコ憲章 冒頭の名句
戦争は人間の心の中ではじまるものであるから、
人間の心の中で、平和の防衛が建設されなけれ
ばならない。
CONSTITUTION
of the
United Nations of the Educational,Scientific and Cultural Organization
Since wars begin in the minds of men, it
is in the minds of men that the defences
of peace must be constructed.
存在の意味
あらゆる論理は人の心の奥にあるものに根をおろしていなければならない。 政治でも経済でも社会生活でも家庭生活においてでも、夏目漱石のいう凡欲すなわち金と名誉と女にかかわりなく、職業の貴賤や経済の貧富それに宗教の如何にもかかわりなく、むしろ他の生物すなわち花鳥や名もなき草や土中の生物、犬も猫も象も虎など生をもつものすべてに共通する、心の奥にあるものに根をおろしていなければならない。この論理をすすめていくと存在それ自体が自己撞着に至る。存在を自己撞着に帰結すると自然そのものをを肯定できないことになる。生物の To be (存在)という意味は、生命維持という生物本来にプログラムされている『生きたい』という意思そのものである。それを否定しないところに自然そのものがある。すべての生物存在は調和とバランスによって成立している。だから自己撞着の概念は除外する。
心の奥にあるものとは何か。それは己自身の心の奥ということにとどまらず、誰にも共通するものであるとともに、他の植物や動物にすら共通するものを対象としなければならない。それは己が花となり鳥となり動物になることを意味する。その真実とは一体なんであろうか。生物が本来、根源的にインプットされている『生きたい』という意思とはなんだろうか。
一つの答えは『快』である。快そのものが生につながる。快は概念用語であるから、悦という言葉でもよいし、楽という言葉でもよい。生の反対概念は死である。死の概念用語は悲であっても苦であってもよい。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のように一つの生命に心を添えることが絶対矛盾の自己撞着に到達し、その段階から、次の生命そのものにプログラムされている、自然から贈られた意思 To beを悟ったとき、第二段階を卒業して生死一如が生まれたのであろう。死生と苦楽は共に反対概念を表わす言葉であるが、生死一如となり苦楽一如となる。
反対概念は別として、生きたいという意思は「快」によってその目的の一つは報われる。快は死を拒否し苦を拒否する。快は生の円満な充足を求め、統括的満足を追究する。生の統括的満足は、その人の情報到達度によって千差万別の様相を呈する。その人の情報到達度というのは、mind-brain(心脳体)が得る情報量と質によって規定される。in-putの質と量によって規定されるといってもよい。このin-putの質と量は個体の環境によって大きく左右される。この環境というものは、大枠において現行動を制約するが、自らの意思によって環境を整備することもできる。環境もまた相依性をもっているのである。生は快を求め、快は統括満足を求め、統括満足は環境に規定され、環境は個人の意思によって補完される。生即快、生即楽は可能なのである。
生の様相はどのようであろうか。start-beginning-acting-finishing(発生、初期、活動期、完成期)の各段階に大別できるし、更にいくつかの periods(期)にわけることができ、period毎の存在達成の願いも生来大脳にインプットされているといわれている。生の様相を時間的にみれば、それぞれの課題がある。
生の様相を現行動としてとらえてみると、活動的なものと非活動的なものに分けることができる。活動的であれば、快の様相も活動的であり、統括的満足度も充実し、悦楽度も充実する。非活動的であれば、快の様相も非活動的であり、統括的満足度も薄れ、悦楽度も低く、エネルギーも不活発となる。生の様相がエネルギッシュであれば、生活をエンジョイできる、それは一環したよいリズムにのることとなる。生の様相にエネルギーが失われてくると、やがて生の終焉に近い様相となる。この生の様相は「気の様相」としてみても、様相の輪廻に相違はない。
ユネスコ憲章
(国際連合教育科学文化機構憲章)
前文第二段
相互の慣習と生活についての無知は、人類の歴史を通じて、世界
諸国民の間の猜疑心と不信との共通原因であり、それがため諸国
民の不和は、あまりにもしばしば戦争にまで勃発した。
いまや終焉した大いなるかつ恐るべき戦争は、人間の尊厳・平等・
相互尊重という民主的諸原則の否認と、右の諸原則のかわりに、
無知と偏見を通じて、人間と種族との不平等の教義の宣伝によっ
て可能とされた戦争であった。
(戦争の原因は無知と偏見にある)
生命のとらえ
母こそは命の泉・・・
母なる大地・・・
文部省唱歌でも歌謡曲でもいいのですが、歌詞は一つのまとまった考え方で作られているために、そこには童謡に見られるような四季とか草花とか母とか楽しさとか、そういったものが素直に表われております。文部省唱歌にしても歌謡曲にしても同じことがいえるわけで、愛情とか惜別とか慕情とか真実とか人生で出会うあらゆることが歌の対象になっております。歌詞は短詩形であるために濃縮された言葉が使われており、いろいろな意味をもった言葉を拾い出しやすいのです。そこで、母という言葉を拾ってみますと以外に多くあるので驚きます。一度はそれらの歌詞を集めてみたいと思っておりますが、今回は、生命そのものを考えてみたいと考えていましたので、冒頭の二つの歌詞をとりあげたわけです。母という言葉を心の中で大きくふくらましながら、自分の存在と活動についての考え方をまとめておこうと思います。
母こそは命の泉・・・作詞者はどのような思いでこういったのだろうか。富士見の役場近くにある公園に、伊藤左千夫の
寂しさのきわみに耐へて天地に 寄するいのちをつくづくと思ふ
という句があります。この句は、左千夫がなにを意味していたかわからないけれど、弱い人間と自然を対比して観ておって、自然があって自分があるという自分の在り様をしみじみ感じ、そうした気もちで自然を讃美するとともに、そうしている自分をとらえたものであろうと思います。人というものは思うように生きていけない極めて弱いものであります。だからそれを自分で悟り、その寂しさを乗り越えて、自然の雄大さに己を託して泰然として生きていくことがとても大切であると思います。また自分を、自然がある故にいろいろできる自分の幸せを、幸せであると思わなければなりません。自分が託する自然を、自分を養い育ててきた自然とみるとき、人間として自分を養い育ててきたもの・・・母、両親、家族、人様などを、母なるものと見做すこともできますから、左千夫は天地に寄するいのちの言葉の裏に、母なるものとの命の絆をしのばせていたかもしれません。ともかく、自然あっての自分であり、母あっての自分であることに間違いはありません。
母こそは命の泉・・・生命のバトンタッチとして、自分をどのように理解して人生観やら世界観を築いていったらいいのだろうか。生命発生時における一つの細胞が、人間になるためにあらゆる可能性を秘めてスタートするというのは、何を意味しているのだろうか。人はどう生きていったらいいのだろうか。こうした問いかけはいつでもどこででも、自分に発っせられる問いかけであります。即ち、深層自己の理解および生きざまの問であります。
お釈迦さまが自らの地位をすてて真実を求めたのも、達磨大師の面壁九年にしても、人の本来の在り方の探究や実践であったのではないかと思います。 それは良寛のように清貧を宗とした人々の生活に見ることができるものに違いない。 或いはまた、張道陵を開祖とする道教が中国の民間に流布され日本に渡り、今日まで水の神様や道具の神様として伝えているのも、人はどう生きていったらいいのだろうかの一つの答であると思います。ともかく母こそは命の泉であります。命を養うものは命の泉でありますが、ここでは生みの母を考えます。先に「一つの細胞が、人間になるためにあらゆる可能性を秘めてスタートする」と書きました。命の発生は、母があらゆる可能性を秘めてスター卜させるのではなくて、一つの細胞があらゆる可能性を秘めてスタートするのであって、昔いうところの『授かり』の哲学を心にとらえておかなければなりません。生命のスタートは人為ではなくて授かりなのであります。しかし生態的には母はあくまでも母胎であります。
母胎(matrics=マトリックス)は新しく伸びていく生命に可能性の源泉、可能性を探索するエネルギーの源泉、探索を可能にする安全な場所という三つのものを提供しているといわれております。生命体はこの母胎の中でもともとプログラムされている通りに、超能力でもって急速に何十万年もの人間としての進化の過程を一年たたずに完了し、自分で生まれてくるといわれています。
ですから母胎能力はこれまた誰から与えられたものというわけではなく、生命体自らマトリックス構築をするものであるといわざるを得ないのです。一般的には、男性であれ女性であれ自己マトリックスの構築が生命体にはもともとインプットされているといわれています。だからマトリックス構築は人間だけのことではなく、すべての生物本来の活動過程といえますし、そうすることが生命体の一つの目的であるといえるのです。生命のス夕ートと同じく、私たちが知性とよぶ大脳活動能力や神経系の活動能力、さらに身体細胞の一つ一つの活動能力がわずか一個の細胞の中に具備されていることになります。これらの能力は、生命体の維持とか人生観の構築とか目的行動の遂行とか、想像を絶する複雑不可思議な活動能力であって、それらが絡みあって生命体を維持していくのです。私たちは、一つの細胞がこのような言語を絶する驚くべき超能力をもっているということを、基本的に認識しておかなければなりません。これが私たちのスター卜の実相です。
母胎は、生命発生過程をプログラムされている生命体にとって、自己マトリックス構築のすてきなパラダイスといえましょう。このマトリックス構築は、環境に適応しての生命維持が大前提で進められていることに注意しなければなりません。この生命維持のための環境適応は、動物の生態をみても植物の生態をみても、そのことが明らかにわかります。私たちのあらゆる活動は意識の有無をとわず「生きる」ことが基本条件になっておるのです。「死にたくない」ことが存在の絶対条件になっていることを忘れてはなりません。
日本国憲法の前文には、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しようと決意した」と表現し、前文最後に
「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」としています。 さらに第九条で戦争放棄を明確にして、銃弾による殺傷を否定しています。
人の生存権は、簡単にピストル可否を論ずるようなレベルのものではなく、自己存在そのものに根ざしたものであります。
さて次にアマラ・カマラの話のように幼少時の環境のありかたによっては、狼少女になりかねませんから、または、育てようによっては反社会的な青少年になりかねませんから、6才までの実情をまとめてみます。
大脳生理学によりますと、大脳の旧皮質と新皮質の役割はそれぞれ違っております。旧皮質は40億年の進化の過程がプログラムされておって、旧皮質のプログラムにしたがって細胞は人間としての機能を組織化し、生後も大脳の新皮質が充分活動できるまでは、言語、音声、図形、空間などあらゆる分野での基本的部分の活動の準備をしていくといわれております。たとえば聞きとった言語音声を構造的に組織し、日本語として判るようになるとか、聞きとった音声をその通りに再生する喉周辺の筋肉対応がきまってくるとか、音声言語の習練ができるようになるためのいろいろの準備期間は、いいかえれば幼児は未成熟で生まれてくるため、大脳の旧皮質と新皮質の完全変換の時期は6才であるといわれています。マトリックス形成の時間的バリア(障壁)は大脳の旧皮質が主に働く3才までとしています。それからまた才能逓減の法則では、生命発生を100%とすれば6才で0%とし、幼児期のマジカル・パワーの活用をすすめています。絶対音感の形成バリアも、やはり5才までとしています。この絶対音感バリアの研究では鈴木鎮一氏の説くように、小さければ小さいほど短期間に絶対音感を習得できるといっているから、やはり才能逓減の法則を当てはめることができます。6才になれば大脳新皮質の資料収集指令や行動指令によって、諸能力の活動が全開するものと考えてよいと思います。
大脳の旧皮質の活動はバリアからいえばこのようだが、この役割に注意しなければなりません。井深大 氏は、大脳旧皮質活動時代の諸能力インプットは、パターン教育によるといっています。見たもの聞いたことそのままが大脳にプリントされるということなのです。旧皮質時代の見聞はすべてホログラムの材料になり、将来の知的活動や情緒性向や人格形成を決定していくことになるといいます。この意味では福沢輸吉のいう「背中をみて育つ」という表現は間違いのない一つの主張であるといえましょう。人間としての資質を大脳旧皮質時代に習得すれば、自己の独立独歩の基礎が完成され、大脳新皮質に移行してからは、まさに独立独歩の、自己世界の構築を始めることができるようになるのです。
単数思考のすすめ
単数思考ということばは、いままでに使われていないことばであります。あえて単数思考ということばを使うのは、集団思考という概念にたいして使いたいからという理由からであります。単数思考といいますと、なにか短絡的な思考という誤解を生じやすいし、また、個人思考というとらえかたに理解される心配もあります。けれども、あえてわたしが単数思考ということばにこだわるのは、つぎの理由からであります。 たとえば、学校教育のなかで問題になった「日の丸」「君が代」にたいするひとびとの意見なり、議論をきいていますと、賛成するひとびとは日本国民としての立場とか国家としての立場からの主張がおおくみられました。これにたいして反対するひとびとは個人の自由権としての立場や個人と国のつながりの立場からの主張がおおくみられました。わたしは前者の立場を、集団社会の在りかたを重視した考えかたと受けとめるのにたいして、後者の立場を個人の在りかたを重視した考えかたと受けとめてみるわけであります。この例では前者を集団思考とし後者を単数思考と区分けしてとらえてみるわけであります。さらにまた、湾岸戦争の場合に、戦争を肯定する場合と否定する場合に区分してみますと、あらゆる条件と歴史を調べ、正しいのはどちらかを判断し戦争を肯定したり反対したりする立場の集団思考と、いずれの国をとわず個人の生存権から判断して戦争を肯定したり反対したりする立場の単数思考とになります。
日本には社会組織を大事にする気風が強いと思われる。集団帰属とともに集団奉仕が歴史的宿業として意識下に組み込まれている。組織に奉仕する価値観は、個人生活に基づく行動価値観の上位におかれており、こうした価値基準が政治の腐敗とか専住問題のベースになっている。
生命のとらえと単数思考 平成6年10月25日
母こそは命の泉・・・
母なる大地・・・
歌になっている詩には、短詩形のためか真実の言葉を拾い出しやすい。母を表わす言葉は以外に多い。
母こそは命の泉・・・不可思議な能力をもっている生命体をどのように理解し自己の人生観なり世界観を構築していったらいいのだろうか。二つの細胞の合体による僅か一個の生命体がすべての可能性を秘めており、生物なるが故に生命発生のプログラムを付与されているというのは、どういう意味をもっているのだろうか。釈迦が自らの立場を捨てて真実を求めたのも、達磨大師の面壁も、張道陵を開祖とする道教が中国の民間に流布されたのも、人の本然の探究や実践であったと思われる。
ともかく「母こそは命の泉」である。母とは、個体発生過程をプロクラムされている生命体にとって、自己マトリックス構築のパラダイスといえよう。母自体が生命のマトリックスなのである。mama,mater,mather,matter,matricsなどの単語は同じ語源から派生した単語であり、このマトリックス(母胎)という言葉はラテン語では子宮を意味している。マトリックスは新しく形成される生命に、可能性の源泉、可能性を探索するエネルギーの源泉、探索を可能にする安全な場所という三つのものを提供している。一般的には性の如何を問わず自己マトリックスの構築が生命体にインプットされているという。だからマトリックス構築は個体本来の活動過程といえるし、そうすることが生命体の一つの目的であるといえるのである。したがって生命発生のスタートである一個の細胞の中に、私たちが知性とよぶ大脳活動能力や、神経系の活動能力、さらに身体細胞の一つ一つの活動能力が具備されていることになる。これらは生命体の維持とか人生観の構築とか目的行動遂行とかという、想像を絶する複雑不可思議な活動能力であって、生命体を維持していくのである。私たちは、一つ一つの細胞がこのような言語を絶する超能力をもっているということを基本的に認識しておかなければなりません。
このマトリックス構築は、環境に適応しての生命維持が大前提で進められている。動物にしても植物にしても、現在の生態からそのことが推測できる。私たちのあらゆる活動は意識的にも無意識的にも「生きる」ことが基本条件になっていて「死にたくない」ことが存在の絶対条件になっていることを忘れてはならない。
日本国憲法の前文には
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しようと決意した」と表現し、さらに前文最後に「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」としている。さらに第九条で戦争放棄を明確にして、銃弾による殺傷を否定した。 私は現在の自衛隊は憲法違反そのものであると考えている。
マトリックス構築
大脳生理学によれば、人間本然のマトリックス形成の時間的バリア(障壁)は大脳旧皮質が働く3才までとしている。それからまた才能逓減の法則では、生命発生を100%とすれば6才で0%とし、幼児期のマジカル・パワーの活用をすすめている。だから大脳の旧皮質と新皮質の完全変換の時期は6才であるといっている。絶対音感の形成バリアも、やはり5才までとしている。この絶対音感バリアの研究では鈴木鎮一氏の説くように小さければ小さいほど短期間に絶対音感を習得できるといっているから、やはり才能逓減の法則を当てはめることができよう。6才になれば大脳新皮質の資料収集指令や行動指令によって、諸能力の活動が全開するものと考えてよいだろう。
大脳の旧皮質の活動はバリアからいえばこのようだが、この役割に注意しなければならない。井深大 氏は、大脳旧皮質活動時代の諸能力インプットは、パターン教育によるといっている。見たもの聞いたことそのままが大脳にプリントされるということなのである。旧皮質時代の見聞はすべてホログラムの材料になり、将来の知的活動や情緒性向や人格形成を決定していくことになる。この意味では福沢輸吉のいう「背中をみて育つ」という表現は一つの主張であるといえよう。人間としての資質を大脳旧皮質時代に習得し、初めて自己の独立独歩の基礎が完成され、大脳新皮質に移行してからは、まさに独立独歩の、自己世界の構築を始めることになるのである。
[ホログラムとは一つの小さい部分に全体像があるという観念である。大脳コンピューターはあらゆるものを含めた地球全体のホノグラムであると考えるという]
幼児期の親の在り方は、幼児の自我を決定する上で重要な意味をもつ課題である。課題に応ずる第一の心得は、親の形而上の願いの心底に、「愛」とか「慈悲」というものが豊かにあることである。第二の心得として、マトリックス構築材料として何をどうしたらいいかを理解していることである。いいかえれば、どんな生育環境をセッ卜したらいいかということである。ごくおおざっぱに親の在り方を表現するならば、それは、愛(或いは慈悲)に支えられた言葉がけと愛に支えられた行動および知的環境づくりや情操環境づくりや健康環境づくりに尽きる、といってもよい。その環境如何によって、望ましいマトリックス構築が進むか、思わぬ大変な結果になるか決定される。
よい環境のもとですくすく伸びる子供達であれば、望ましい日本を築くことも平和な国際社会を築くことも、そう心配しなくても可能である。彼等がそうすることに重要な意味を見出して活動していくことは、ごく自然な成り行きであるからである。
青少年の非社会的行動が云々されるが、いつの時代でもどこの場所でも間違った親の在り方が彼等をそうさせたのであって、決して青少年の責任ではない。彼等をそうさせたものは、親の子に対する無知或は偏見以外のなにものでもない。非社会的行動をとる青少年を対象とする、何々活動とか彼々活動、或いは何々教育とか彼々委員会というのは、親子の在り方に気がつかない本末転倒の思考結果によって生ずるものであり、生命体が本来インプットされているマトリックス構築が疎外されてきた結果にほかならない。問題は、生命体の能力と能力展開の手法への無知偏見であった、といわなくてはならない。
自己確認が一応できたとすれば、次に自己存在の終焉を目指してどう対処したらよいかが課題となる。この課題もありふれた歌の歌詞に見出すことがでる。
君には君の道がある・・・
裏返していえば「僕には僕の道がある」という独立独歩の立場である。個体存在は個体生命を全うするのが哲理である。
この哲理の答えは『単数思考を重視せよ』ということである。政治、経済、文化といったあらゆる活動分野の中にありながら、なお複数存在は単数存在なくしはあり得ないからである。この観点から羅列的に論拠を提示したい。
・ 形而上或いは抽象論理の高揚は、単数存在の内容を高めるための一つの条件である。(少なくとも、環境に頓応するのが生物の条件だから)
・ 自己存在の意味と自己存在の終焉を概観するとき、単数思考の立場を失っては、その明確化を期することが不可能になる。
・ 「働かざるものは食らうべからず」の格言どおり、存在条件の基盤を明確にしておくことは必要である。財産から生じる利益によって生きるという考え方は、法的には一見合理的にみえるが、実は不当な利益によることを許諾して成り立つ論理であり、この価値観は自己存在そのものの崩壊への道程と心得なければならない。
・ 単数思考を重視するためには、一切の価値観の基盤の軽重を明らかにしておくことが重要である。簡単にいえば、ピストルは認めるが原爆は認めない戦争理論は、稚拙な論理矛盾で噴飯ものであり、単数と複数によって価値基準を変えるという価値矛盾の過ちであるから、こうした価値基盤を明らかにしておくことである。
・ 学問の目的は、真理を求め、自己世界を構築することにある。
・ 人権も単数思考の実現にとっては、法的な保障の一つである。(学校の児童生徒にまつわる校内諸規定は、単数思考を阻む内容が多い)
・ 信義こそ、単数を複数化するときの唯一の条件である。単数思考を重視する立場で、複数関係の在り方をとらえる場合の条件は、虚偽のない信頼関係しかない。
(選挙制度における、被選挙当選者の選挙者に対する無責任さは単数思考の観点からみれば法律上の規定不備を多く指摘できる。政治の不信感はわれわれ自身の単数思考の不徹底さに始まっている)
・ 単数思考を重視するために、時間的にも空間的にも一即多の概念を基底にすることも重要である。政治経済文化にしてもそれを推進する立場の人にとっては、平等原則に合致することが基本である。日本がよければいい、喬木村がよければいい、家族だけよければいい、今がよければいい、それでは崇高な単数思考は未熟なままに終焉するしかないし、生命体はそんな狭量思考でなくもっと壮大な統一思考をするようプログラムされている。
・ 複数社会においては、たとえ家庭内の夫婦親子兄弟においても、単数思考と単数活動は最も尊重されなければならない。生命体は温かい絆で結ばれることを本来的にプログラムされているからこそ、いま重要だと思われることは単数思考活動の尊重だと明確に表明しなければならない。
・ 単数思考の重要性を表記する意味は、実は生命体のスタートとフィニッシュ、別の言葉でいえば「人の一生」を直視したとき、生きる意味を終焉する立場でとらえ、生きていてよかったという『喜悦』の状態を懐に抱くことが、生命体の永遠の正体だと思うからである。釈迦に心を寄せる人々の中で、絵の心得のある人が描いた釈迦涅槃の図をみるとき、動物たちが「ああ、あのおじさんも死んじゃったの?」という、人間だけでなく大自然に抱かれて往生したという、その感動をひしひしと味わうものと思われる。生死の実相はそこにある。キリストの十字架クルスは「一粒の麦」で代表されているように思われる。人の生死の実相は、自然の中の一生命体としてとらえることが床しいものと私には感じられるのである。
戦 争 放 棄
憲法 第二章 第九条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを
保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
現代の課題 平成7年5月22日
麻原彰晃がやっと逮捕された。
オーム真理教事件にかかわって考えさせられることが多かった。このことは、ただ単に宗教の問題にとどまらず、各種教育問題や政治問題また日米の経済問題にいたる現代の病める課題に共通の原因があるように思われたからである。そこで現代の課題というタイトルで、わたしの意見をまとめようと思う。
自分が教職に籍をおいていたので、日本における教育の今日的課題については自分の意見をまとめようとしていた矢先でもあった。学校におけるいじめの問題は、関係筋のいう学校-両親-地域の連携を緊密にして対処するという表層的な手法では、一向に解決あるいは沈静化するとは思われない。そしてまた、文部省や学識経験者による試案によっても対処できるような類の課題ではないと私は考えていた。だから、独自の試案を個人的に書き残しておきたいと考えていた。
一方においては、政治家の倫理観の未熟さから生じている政治不信の問題やら日米間のギクシャクした経済問題など目にあまることが多かった。また自分が関係する選挙制度については、法の改正と実際の選挙における選挙違反とか投票率の低下或いは制度上の不備が気にかかっていた。また文化に対する一般の意識動向など、課題は多岐にわたっておこっている。
課題は多岐にわたっているといえるが、その根源には日本人の思考の在り方という思考の基本的部分に課題があると私は考えるようになった。だから個々のその時その時に出てきた問題に対処するのは、ちょうど歪んだ車輪をなおすのに一本一本のスポークをなおすようなもので、全体をなおすわけにはいかない。歪みをなおすのには車軸構造そのものの改善を計らなければならないように、私たちの人格形成そのものの成立過程に焦点をしぼって課題解決を計らなければ、成果はないと考えるようになった。そのような、自分でもわからないほどの深層部分に基本問題が横たわっていると思う。もちろん私一人で解決できるような課題ではない。
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まず教育問題について「いじめ」を頂点として考えてみようと思う。
この課題は、前に述べたように学校-家庭1地域の緊密な連携によって対処するとか、教育行政の制度的な手段とか学識経験者による試案などによって対処できるようなものではなく、もっと深層部分に課題の所在があるように思われる。いじめに対処した改革案は、教育がかかえている課題全体の表層部分にとどまるものである。
それでは深層部分の課題にはなにがあるのだろうか。私はいままでの対人関係の経験や、政治-経済-教育-文化の変容を考察しながら、日本には人格形成分野に欠落したものが生じた、と考えるようになった。そしてその欠落こそ、現代日本の深層部分のあらゆる歪みとなって随所に発生していると考えるようになった。その結果、教育における今日的課題も、人格形成の欠陥こそ「いじめ」の致命的な原因となっているという確信をもつに至った。従って、いじめや不登校にかかわる教育改善は、人格形成の根本修正が急務だと考えている。
それは何故か。
それは多くの大人が、終始、現代日本の社会組織を無意識的に肯定し、自己存在をその組織の一員として位置づけていることから始まっているからである。現代日本の社会組織体の一員としての価値を、自分の価値基準とし、すべてを取りしきっているという間違いを犯しているからである。そこには、「赤信号みんなで渡ればこわくない式」の集団思考が読み取れる。だから、よりよいものへの進取の気性や若さがうすれ、自由平等を希求する土壌が軟弱になり、寄らば大樹とか長いものには巻かれよという自分たちの過去の社会生活に価値をおくような退行的な社会が生じてきた。このようにして、若者が生来備えている溌剌とした進取の気性や天分が、じゅうぶん発揮できないような状況が生まれてきた。このような社会の中では、若者は自由な自己主張が限定され易く、たえず大人社会の価値観の範囲内でしか通用しないことになり、小中学生や高校生にしても、この範疇から逃れられないと認識せざるを得なくなった。 人は誰でも、賢人でも愚人でも洋の東西を問わず、生命体として母親の胎内でスタートした時点では、0スタートである。私のいままでの読書と考察の結果からいえば、生命体は『よりよき自己世界を構築する』というプログラムが根源的に付与されているという理解こそ、人の正しいとらえ方だと考える。この考え方はすべての思考活動の基盤になることだから、その意味を真剣に考え、今後の発想においては思考のバックボーンとして位置づけておかなければならない。生命体のエネルギーは、良いにつけ悪いにつけ、すべて外部情報を取り入れて取捨選択し自己世界を構築し続けるようになっている、と位置づけてよい。その区分は、宿業、養育、教育といわれ、初めて一人前となる。そうした外部環境によって人は成長する。
だから人格形成の段階は、宿業(0才教育)・養育・学校教育・自己研修の四つにわけるのがよい。この人格形成の四段階を、教育という言葉を使うとすれば、教育は教育者と被教育者の関係からなりたっている。
教育の根源は、真似てもらってもいい環境、見てもらってもいい・聞いてもらってもいい環境を、教育者が顕現することにある。
ことに宿業の段階は戻ることのできない大切な段階であり、いったん形成された価値観は容易には変えることができないものである。価値観の変容ということはほとんど不可能に近いと考えてよい。だからこそ、0才教育に該当する段階を宿業という言い方をしてもよいと私は考えている。仏教でいう宿業とは、祖先累代の業を我が身が宿すというふうに、今まではとらえていたが、それは誤った考え方で、実は、親子の間の人間形成に横たわる不可思議な伝承機能をさしているのである。
私たちの価値基準は、こうした本来の生命エネルギーの要求に対しては、根本的理解に欠けていたといわざるをえない。私自身がこうした考えを聞いたこともないし、本から読んだこともなかった。しかも学校教育にたずさわった者でさえ、といえるのである。やっとこの年になって0才教育の在り方を勉強いてしていくうちに、ピアスの「マジカル・チャイルド」に出あい、生命エネルギーの統括的解釈ができあがってきてから、ことの真相を実感したのである。親子の不可思議な伝承機能がはっきりしていなかったから、多くの人の価値基準のよりどころが、まだまだ不明確で曖昧であり、その場しのぎであり、時の社会情勢に順応するという、寄らば大樹式の閉鎖性を、かなりもっている状況であると思うのである。従って、望ましい生活環境を提供する価値基準を、社会通念としてまだまだ備えていないと今は考えている。
こうした意味において、教育社会では子供たちに望ましい教育環境を提供していたとは、とてもいえない。それだからこそ、人の中核となる「人格形成」を根底から再検討すべきなのである。
新聞紙上やテレビや何会、彼会の「いじめ」に対する議論は、いじめられた生徒と教育関係者の間に横たわるさまざまな在り方に集中し、その対応として、指導上の配慮だとか、関係機関の制度上の改善だとか、特別な指導教育者の配置だとか、いわば末梢的な課題が渦巻いている現状である。問題の深層はそんなことで解決できないところにある。
深層とはなにか。実は宿業教育の人間形成に欠落があった。簡単にいえば「いじめる人」がいなければ、今日のようないじめ問題はなかった筈である。
何故いじめる側に目を向けないのか。いじめをなくそうとするならば、いじめ側に目を向けなければその糸口は見つからない。0歳教育を中核として、「いじめる人」の人格構造を宿業教育の時期、妊娠から満3才までの時期の親の在り方を多角的に分析し帰納して、問題点を明らかにしなければならない筈である。この作業を通してはじめて、いじめの潜伏的な原因、深層をつきとめることができる。
次に、学校社会に見られるいじめ現象を、一般的な立場から考察していくことにする。
もともと伸びざかりの青少年は、本来明るく好奇心に満ち、柔軟性のあるしなやかな感受性と対応力を備えているものである。本人は意識的にはしゃべらないから大人にわからないのだが、それは大人の比ではない。
では、何ゆえ「いじめ」が生ずるのだろうか。
まず、青少年が八方塞がりの環境におかれていることに気づくべきである。学校では朝から晩まで、生徒はぎっしりつまったスケジュールに追いやられている。この物理的環境は心身両面にわたるものであり、大人でもよほど耐性の強い人でないと顎がでる筈である。試みに一週間でいいから、生徒になりかわって授業をうけてごらんなさい。この過密スケジュールの中にあって、勉強ができない劣等感とか、発言ができない寂しさとか、口にはだせない弱さを誰もがもちかかえ、授業をし、食事をし、掃除をし、全体行事に参加している。加えて、朝早くから部活動に参加し、放課後もまた遅くまで活動を続けなければならない。更に休みの日ですら部活動に参加しなければならないのである。
運動能力の未発達の子供や、巧緻性がまだ身につかない子供など、十人十色の集団の中で自分の立場をみつめたとき、勝敗の世界に駆り立てられたり、優劣の世界に立たさせられて、一体子供は何を感じ自分をどうみるのだろうか。やがては、自己世界を構築しなければならないという自分の将来を思い浮かべるとき、子供は一体何を感ずるのだろうか。大人がこうした教育環境に身をおくとき、それでも学校の教育方針に「まじめになって頑張りなさい」と一方的にいっていられるだろうか。子供たちは、人間性を歪められながら、それでも耐えて頑張っている。学校へ行かなければならないという思いで頑張っている。この耐性ときたら、それは大人の比ではない。
物理的環境をなんとかしなければならないことを理解しなくてはならない。このままでは、子供の自己存在の満足どころの話ではない。将来にはばたく若い青少年の姿も見えてこない。八方塞がりの状況はやがて、ゆっくりと怠惰の空気がたちこめてやる気が失墜しはじめ、この退行的な社会状況に無意識的に順応するようになったり、場合によっては、自己爆発へと進んでいくことになる。
いじめの素地は、見えないところでぐんぐん進行していると考えざるを得ない。いじめは、醸造発酵のように、始めはプツンプツンと出始め、やがてはブクブク泡を吹きはじめる可能性があると予測しなければならない。小さい甕の水は濁りやすく澄みやすいが、大きい甕の水は濁りにくいが澄みにくいという。大きい甕の水は一旦濁りはじめると、加速度的にじわじわ濁っていくと予測しなければならない。
自己存在の満足感に欠けるとき「いじめ」は生ずる。
第一に学校がかかえている八方塞がりの物理的環境を取り上げたのだが、いじめの根っこは単純ではない。続いて前にも触れたように、いじめのバックにあるものとして、親の愛の欠落を取り上げなければならない。親に愛がないということではなく愛の在り方が正常ではないのである。細かくいえば、一般的には世の中の変化に対応して価値観が変容してきており、子供の養育の内面の質が一様にかわってきているために、総体的に子供の資質が脆くなってきている。親の愛の在り方といっても、ことはそう単純にはいかない。親の愛の欠落、私自身も、実は戸惑っている大きな課題である。
「働かざる者は食うべからず」ということは、多くの人が聞いた言葉だろう。生きるということは、実は生命体を維持することであり、生命体を維持するということは実は食うことであり、食うことの重大性は、生体にとって基本的に欠くことのできない要件である。これとは少し異なるが「貧乏の教育」は人にとっては大事な要件だと私は考えている。貧乏の教育は、一体なにを昔の私たちに与えたのか。
昔は勤労の尊さ、ものの尊さ、お金の尊さがあった。我慢とか忍耐とか、挫けてはならない根性とか、祭りの喜びとか本を買ってもらえない悲しさもあった。それでも竹馬の友もあったし努力して成功する人もあった。
具体的には、一粒のご飯でも拾って食べないと目がつぶれるという収穫物への感謝とか、下駄スケートを欲しいとせがんで父がやっと買ってくれた時の感謝があった。リアカーに積んだ春蚕の繭を押していって龍東館にだした時の父の笑顔を見た安堵感があった。冬の夜更けに暗い電球の下でズボンを繕ってくれた母の手があった。それらから子供ながらいろいろ読み取っていた。お祭りに鯉の料理をしていた真剣な父の目、子供の頃へソ風呂で手足をいつも優しく洗ってくれていた母の手、こうした、ものや生活そのものに対する感謝の気持ちと質素や倹約の心構えなど、貧窮がもたらしてくれた尊い価値観であった。現代ではどのようにしてこうした価値観を体験できるのだろうか。囲炉裏端で家族そろって食べた粗末な食事もいまはない。今は食事の時間も父母や兄弟の勤務の関係からばらばらの時間になってしまった。一つの暗い裸電球の下で炬燵を囲んで話をし、遊んでいた頃の環境と、テレビを見てからは自分の部屋へひとり立ち去る子供の環境と、考えてみれば隔世の感がある。絆は人知れずだんだんと薄らいでいく。なんとかしたい、もがき悩んでもどうしたらいいか思案のしようもない。テレビにして然り、通信にして然り、自動車にして然り。物質文化は何を私たちにもたらしたのか、改めて問いなおさなければならない。
将来「貧乏の教育」は不可能になっていくのだろうか。私自身戸惑うのである。それでもなお、生命体の教育にとって「働かなくては食べていけない」生活体験が必要であり、それが人が生きる基本的要件であると考えなければならない。清貧の思想によせる思いと清富の思想の創造とを、改めて考えなければならない。
一方、生活の中に位置づいていた仏教や儒教の価値観が、生活の裕福さに反比例してどんどん薄れてきている。人としての倫理を、どのように各家庭では育てていけばよいのか。公教育での宗教教育は止められているが、人の心の中に倫理教育をしていかなくてよいのか。今の学校で行われている道徳教育では、古今東西の倫理に関する教育は全くといってよいほど行われていないが、それでよいのか。私は、改めて家庭教育や学校教育の中に、人倫の道をふんだんに与えられるよう配慮すべきだろうと考えている。
私たちはいろいろの生活の中で行動を起こすとき、いろいろの価値大系を無意識のうちにもっていて、その価値基準にそって言葉を発し行動をとっている。こうした価値基準の底辺にしっかり根をはっているものは、よりよく生きたいという基本的価値である。すべてはそこから出発する。死にたくない、ということが、生物すべてがもっている最大価値観であり、よりよく生きたいという最大価値観である。この最大価値観を静かに見守り育てていくのが、温かい優しい愛であり、慈悲だと思う。こうした意味で、私たちは愛についてもう少し考えを深めたり、考えをまとめたりする必要がある。
愛とは、人の幸せを願う心である。人の幸せを願うとは、人の
「よりよき自己世界を構築する」という本然のエネルギーの成
就を願うことである。
価値基準は常に愛に根ざさなければならないし、人格形成は愛の土壌においてできあがっていくものであるから、愛について深い認識、理解をもたなければならない。
親の愛情とは、子どもの幸福を願う心である。子どもの幸福を
願う心とは、子どものために幸福を信じて、何かをしてやるこ
とである。それは、愛する言葉であり、教えであり、与えるこ
とである。
勉強ができないという間違った劣等感を誰が育てたのか。勉強ができるという間違った優越感を誰が育てたのか。知能が低いという間違った屈辱感を誰が育てたのか。知能が高いという間違った自惚れを誰が育てたのか。運動ができないという間違った劣等感を誰が育てたのか。運動ができるという間違った優越感を誰が育てたのか。富を誇り貧を恥じる価値観を誰が育てたのか。平凡を卑下し非凡を迎合する価値観を誰が育てたのか。礼儀作法などの躾は誰がしつけたのか。それはほかならぬ私たちなのである。
私たちはこうした心の持ち方について、大きな過ちを犯し、気づかずにいたのである。ほおっておけば、こうした誤った感情、情緒、価値観を助長し、その結果いろいろな社会問題に振り回されることとなる。
こうした間違った価値観あるいは価値基準が、やがては個人の酸素欠乏をひきおこし、更に八方塞がりの環境に身をおかれて「いじめ」を引きおこしたり、人を死に追いやったり、極限では人を殺したりすることとなる。自分の存在感がさいなまれ、徐々にわからないところでいじめ要素が着々と増大していく。私たちは因果を知っているし、因果応報ということも十分知っている筈である。
繰り返していうのだが、車輪の歪みを是正するにはスポーク一本一本の修正では車輪の歪みを是正することはでない。だから、車輪の歪みを是正したいと考えるならば、車軸そのものから始めなければならない。サリン事件も「いじめ」事件も、小中学生の自殺事件も登校拒否も、応急的解決策だけでは問題の解決には決して至らない。問題は人そのものの「人格形成」の在り方を根っこから変えなければならない。教育はそうした「人格形成」の在り方を変える大切な領域であり、責任を負うものである。 さて、こうした問題点を「いじめ」という代名詞で扱うのだが、考える条件として基本的に人格形成の全体像を考えていなければならない。即ち、縦糸として生命体の完了を目指すことであり、横糸として愛に終始することである。
いじめ問題は、教育者の課題や制度上の課題や生活価値観と現実の対応の在り方など、多様な課題をかかえていることは私も承知している。個々の課題については、今後も考えをまとめるつもりである。 さしあたって、課題の二点について提言したい。
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提 言 [教育は人格形成を頂点としてとらえる]
1 宿業教育(0才教育)を設計すること。
子育ての原点を再確認すること。そのために、
・ 親たるもの誰もが、子供にたいする親の在り方を勉強して、充分
な知識と見識をもつこと。
ひとりひとりが実践すること。
子どもに真似てもらってもいい親(人の道を備えている親)とは
どんな親であればいいか、広さや深さの面からさぐり、内容を表
現できるまでに身につける。
・ 知育、徳育、体育は総合的活動の中でどのようにすすめたらよい
か学ぶこと。
先覚者の著書を調べて各自の考えをまとめ、実践方法をつくりだ
すこと。
価値観の大系、倫理の大系、知育の大系、健康の大系について、
その概要をつかむこと。
・ 0才教育(宿業教育)、幼児教育の在り方については、最先端の
研究成果を世界的規模で調査し続け、取捨採用を検討すること。
その内容は、
一生における0才教育の価値認識と、それに対応する親の在
り方
具体的な成長に即して、年間計画、月間計画、日々の計画具
体的な生活内容に盛り込んでいく内容
実践の記録、修正と今後への遺産
・ 保育園の教育の在り方を考えなおすこと。
研修と独創的運営の在り方
子どもを中心とした親と担任者の連携の在り方
・ 命の尊さ、自然との協調を体験する内容を強化する。
自然との交わりを計画的に多くとることは極めて大切なことであ
る。その交わりの中で、大小の動植物の観察や調査や記録などを
通して、科学的思考の素地を養うと共に、命に寄せる思いと命の
尊さを学ぶ。そういう活動を強化する。これは椋鳩十先生の生き
様を学ぶことに直結する。
・ 「幼児突然死症候群」「幼児虐待」について学習し、その意味を
知る。
この課題の問題点は、大人の身勝手な「自由平等権」「無知」に
由来する。だからこの二つの意味を「自他の生命の尊厳」という
枠内で詳細に検討する必要がある。たとえ何々群でなくとも、他
山の石になる。
2 義務教育の在り方を根本的にかえること
教育の権利義務は市町村がもつこと
・ 世界各国の義務教育を調べ、その長短を検討して独自の義務教育
の在り方を追求する。
・ 中央集権の教育システムの功罪を、世界各国の事例を参考にして
教育システムの在り方を追求する。
・ 教育の権限を地方に移す。
我々がすでに明治以降経験した通り、教育の国家統制は悪い場合
にはとんでもない結果を来たすことになる。その災いは、長く尾
をひくということを重々知っていなければならない。
ところが現在、国家統制の欠陥が人間形成を阻害し、教育の諸問
題の根本的原因となっている。それを洗い出すこと。
教育は、その地域住民が責任を持たなければならない。
・ 県の教育委員会およびその機能組織の功罪を検討する。
(寄らば大樹の価値観が平然とまかり通っている現状を改善する
ため)
・ 市町村立の学校教育は、地域の願いを再上位の学校目標にして学
校運営を計らなければならない。
校長は教育者としての確かな見識と、地域の教育委員会の願いを
検討し、自己責任において運営計画を立案し遂行しなければなら
ない。
・ 過密スケジュールの解消のため、一般社会と同じく、始業から下
校までの八時間制とする。休日の学校招集をしてはならない。
学校運営の改善をすること
・ 学校運営は、上級行政機関の干渉をうけることなく、創造的独自
性を発揮し運営計画を立案しなければならない。
市町村教育委員会の要望目標を取りいれ、校長は子供の代表機関
としての教育委員会にたいしてのみ責任をもち、運営計画を作ら
なければならない。
・ 個人の独自性を尊重する立場から、教育者の独自性を尊重すると
ともに、子どもの独自性を尊重すること。
真似てもらってもいい姿が教育者の基本的姿勢であるからである。
・ 教育者は子供を預かる立場から、保護者の指導権利と責任を持た
なければならない。
保護者は、指導事項に応じなければならない。
・ 自由平等の基本姿勢は子どもに保障しなければならない。
偏った価値観に基く生活上の自由平等については、社会生活を堕
落させ人間の品性をも蝕むような結果を招来するため、留意すべ
きことである。
・ 具体的には制服、髪形、履物の規制撤廃、部活動の撤廃、休日登
校の廃止、など、
服装や時間行使の自由を完全保障する。
教育者のみ服装や勤務時間外の時間については法的にも保障され
ているのに、子どもはそれらを無視され規制を強いられている。
子供たちにも当然保障しなければならない。
理由の如何を問わず人権侵害であり、撤廃すべきものである。
教育者にはもっと大事にすべき職責がある。
・ 学校教育のなかに、倫理観を培う時間をとり、自己存在の価値観
を築くことに重点をおく
今日の状況下では、心の基盤になる自己コントロールや「知と行」
の行動基盤になる宗教もしくは倫理について、「自己世界の構築」
の素材提供が適切におこなわれていない。そのため、子どもが自
ら価値基準を構築するのに困難な環境にある。
素材を提供したり環境設定をすることは、私たち大人が全責任を
負うべきである。
「いじめ」や非行の全責任は私たち親が負うべきであって、まち
がっても子どもたちの責任ではない、ということを十分知らなけ
ればならない。
西欧においては、多くの国で神学を修得単位に課している。東洋
においては多くの国では家庭がその責務を果たしている。もしそ
うだとすれば、日本では汗顔の至りといわざるを得ない。
西欧の学校教育はどうあろうとも、キリスト教や仏教、儒教など
の要点的価値観について学ぶことは、今後の倫理教育の上で極め
て重要なことである。早急に資料を作成すべきであろう。
憲法で宗教教育を禁じているが、特定の宗教教育そのものであっ
て、人の心の支えとなるという教義の中核を学ぶことは、一つの
宗教に偏しない限り宗教への心得を導くことであり、憲法違反に
は抵触しない筈である。
・ 精神生活の高揚をめざすこと
今日の世情をみるとき、経済価値観の偏重は人間性をもねじ曲げ
ることを忘れてはならない。
命の尊さ、自然との協調を体験する内容を強化する
・ 戦争、殺人の拒否を心の奥に堅持し、平和のために生きる生き様
を育てること。
戦争は、心の中から始まるものであるから、平和の砦は心の中に
築かれなければならない。<ユネスコ憲章前文の冒頭の名句>
動物の「生命の自然の姿」を知ることを基本とすること。
・ 日本の歴史的変遷を冷静に掌握すること。
ことに戦争懺悔と新しい日本が進むべき道を一人ひとりが自分の
心の中に築きあげること。
・ 世界のために「UNESCO」の内容理解と共に、その精神を身
につけること。<一生をかけてもよいだけの価値をもっている>
無知と偏見は排除されなければならない。
強者と弱者の価値観偏重は、やがては地球規模での環境破壊を進
めることを予知しなければならない。
・ いわゆる「青い地球の生大系」を維持するという、人類の義務と
責任をもてる学習をすすめること。
地球環境汚染の防止をどうすすめるか習得し実践する。
利益追及の企業活動と公害阻止の活動の在り方を学び対処の仕方
を習得し実践する。
・ 各国憲法と比較して、日本国憲法で大事にすべきものを身につけ
る。
以上、いじめ分野での提言を終りとする。個人の考えだけでは提案分野が偏っているから、弁証法の手法によったり、明治維新の「五ヶ条のご誓文」の如く、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」の流儀で、今後の課題としていきたい。