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続折々の記 2018⑩
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】09/28~ 【 02 】10/04~ 【 03 】10/04~ 続折々の記 2018⑩ 総目次
【 04 】10/06~ 【 05 】10/08~ 【 06 】10/17~
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東洋思想というバックボーン 夏目漱石の東洋思想 老子の思想(その一) 【以上01】 老子の思想(その二) 【以上02】 老子の思想(その三) 【以上03】 西欧と東洋の宗教の相違 眼横鼻直 道元が伝えたもの 灯台守・道教と親子・
文化と諸行無常の相 【以上04】卒寿を祝ってくれた喜寿の皆さん 自然破壊の様相・酷暑と洪水 NHKの健康長寿・検索より 産後92人自殺の衝撃・WEB特集 米ぬか健康法と利用 【以上05】
東洋思想というバックボーン
夏目漱石の東洋思想
老子の思想(その一)1~10
【 01 】09/28~
09 28 (金) 東洋思想というバックボーン
夏目漱石の東洋思想
東洋思想というのは、この言葉より以前漱石全集を手に入れて「草枕」を読んでいた時、次の文面とともに記憶に残っていたのが始めてだった。
前をみては、後えを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれという雲雀の印象が、昔はよく聞いた伊久間原の雲雀の鳴き声と重なったのだろうか、頭の片隅に残っていたのだろう。
忽 ちシェレーの雲雀 の詩を思い出して、口のうちで覚えたところだけ暗誦 して見たが、覚えているところは二三句しかなかった。その二三句のなかにこんなのがある。
We look before and after
And pine for what is not:
Our sincerest laughter
With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.
「前をみては、後 えを見ては、物欲 しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極 みの歌に、悲しさの、極みの想 、籠 るとぞ知れ」
なるほどいくら詩人が幸福でも、あの雲雀のように思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳 には行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛 の愁 などと云う字がある。詩人だから万斛で素人 なら一合 で済むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨 の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲 も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。
こうした漱石の爽快な詩情が私の頭の底に沈んでいたのだろう。 それとともに漱石がロンドンに留学していて、ノイローゼになったと人の本に紹介してあるけれど、私は全く違っていると思う。 彼は西洋から洋学あるいは精神的バックボーンをくみ取ろうとしていったけれど、そこには人のバター臭さと、日本人の買い被りの実態を痛感したのではないかと思っている。
のちに学習院で「私の個人主義」というバックボーンを表明しています。 漱石は文学を通して、人間の実存の底流に流れている清濁併せもつどろどろした心の様相を表現する流れを決意したに違いない。
東洋的な生活のとらえを端的に記した部分が取り上げられている。 それは次のように書かれています。
苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通 して、飽々 した。飽 き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞 するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界 を離れた心持ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌 の純粋なるものもこの境 を解脱 する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世 の勧工場 にあるものだけで用を弁 じている。いくら詩的になっても地面の上を馳 けてあるいて、銭 の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀 を聞いて嘆息したのも無理はない。
うれしい事に東洋の詩歌 はそこを解脱 したのがある。
採菊 東籬下 悠然 見南山
ただそれぎりの裏 に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗 いてる訳でもなければ、南山 に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的 に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。
独 坐幽篁裏 弾琴 復長嘯
深林 人不知 明月来 相照
ただ二十字のうちに優 に別乾坤 を建立 している。この乾坤の功徳 は「不如帰 」や「金色夜叉 」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後 に、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。
長い引用だったが、文学ばかりではなく音楽や絵画、仏教文化や儒教文化を取り入れてきた日本人の文化を取り入れる気質が底流にあるのだろうと思う。 今でも四国の巡礼は続き、書道や俳諧、尺八から琴あげれば限がない。 奈良平安時代の日本文化は、優雅な文化とともに控えめな静寂な文化が根づいたと私は思っている。
もったいない思想、奥ゆかしい思想、それらは外国の人々が来てみれば羨望の心地よさとして受け止められていく。 私たちはこうした多くの特徴を持った文化に育まれてきているから、自分ではあまり分からないでいます。
逆に現在では、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という風潮があり、自分の考えを社会に表示することに欠けることとなっている。 だが逆に東北震災後の日本人の秩序よくみんなで手を取り合う姿に接し、年来の思いもあって日本への帰化をした外国人がいました。 報道でも紹介していました。 ドナルド・キーンさんというアメリカの文学者でした。
どんな国家にせよ、人々は善人もいれば悪人もいる。 でも、集団を支えている底流には共通する生活感情が静かだがへこたれずに共通情緒として流れています。 日本には日本らしい共通意識が流れいると私は思っている。
こうした無意識化の潜在意識には、歴史から見てもいろいろとその根拠を見ることができると私は思う。
この記事に関連したものが昔書いた日記と随筆4にもある。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
老子の思想 心が楽になる老子の言葉 “ 『老子』は、『論語』と並ぶ中国の代表的な古典である。 孔子の『論語』が『孟子』とともに儒教のはじまりの姿を伝えるのと同じように、『老子』は『荘子』とともに老荘とか道家とかよばれる一派を形づくっている。 そして、中国の長い歴史を通じて、孔孟の儒教が表向きの正統的な思想であったのに対して、老荘の思想はその裏面をささえるものとしてあった。 ”今ここに二人の人物を登場させてみよう。
一人はいわゆる紳士であって、フク装も整って身だしなみもよく、世間の決まりごとはよく守って万事に勤勉で、きちょうめんである。 そして、自分だけがそうなのではなく人にもそのように勧め、みんなが紳士淑女になることで世の中がよくなると信じている。 多少窮屈な感じはするが、社会的にはいかにも信用はできて間違いのない人物に見える。
さて、もう一人はこれと反対のタイプである。 フク装のことなどは意に介せず、時にはだらしなくも見えるが、それだけ純朴で裸の人間味がある。 世間の決りや仕事のこともあまり気に留めず、時にはずぼらもするが、別になまけものでもすねものでもなく、大事なところは外さない。 こちらの方から前の人物を見ると、いかにもこせこせした小人物で、こんな人物が多くなると世の中はダメになると考えるが、前の人物からこちらを見ると、調子はずれのフ安定な人物で、社会の秩序を乱すことになると考える。
二つのこうしたタイプの人間は、われわれの近くにもいるであろう。 そして、この前者が儒家的人間に近く、後者が道家的人間に近いと言ってよい。 もちろん、表向きの顔で世の中の受け止めもよいのは前者である。 秀才型で社会的にも栄達に向かうものが多いが、それだけにまた苦労も多く浮き沈みもある。 後者のほうはそれに対して野人的である。 時にはチャンスに遭遇して大事を成し遂げるが、別に自分からそれを求めたのではない。 むしろおおむねは市井にあって悠々と自分の信ずるところを守って暮らすのであって、はたから見るとうだつの上がらぬ人生とも見えるが、本人は苦労もなく何の屈託もない。
さて、孔孟の方も老荘の方も、平和で安らかな人間の幸福を追求したという点では、変わりがない。 彼らの時代は春秋末期から戦国時代の中期という歴史の大変動期であって、上は諸侯のような権力者から下は農民に及ぶまで、うちつづく戦乱とそれに伴うフ安にかきたてられて、安らぐ時もないありさまであった。 この世界はいったいどうなるのか、安定した社会のなかで人々が幸福な暮らせるようになるのにはどうすればよいのか、それが思想家たちの重要な課題であった。 そして、孔孟の儒家の方では、高い道義的な理想をかかげて人々をそれに向かわせ、社会的な秩序を確立し安定した世界を築こうとした。 しかし、老荘の道家の方では、そうしたあるべき人間の姿の追及よりは、あるがままの本来の自然な人間にたちかえることによって、世界の争乱は静まり、人々の安定した暮らしが復活すると考えた。
そこで、儒家の思想が政治や社会に向かって強くまっすぐに進んだのに対して、道家の思想では、むしろ人間の本来的なあり方を追求し、その自然性を訴えることに主力が注がれた。 儒家の側でももちろん個人の人格が問題にされるが、それはあくまでも社会的人間としての人格であった。 道家の側でも、特に老子において政治的主張が多いが、それは要するに『無為自然』という政治の否定にも連なるような主張であった。 道家の人々は、人間の本来性を追及して、儒家のようにそれを社会的道義性の中だけで考えているのはだめだと考え、それを広い自然世界の中に開放してとらえようとした。 人間は人間の仲間どうしで暮らしているだけではない。 その背後には大きな自然の広がりがある。 そして、人間もまたその自然世界の万物のなかの一つだということに目覚めると、社会的人間としての枠でしか考えようとしない儒家思想の限界が明白になる。 それが道家の人々の立場であった。 『自然に帰れ』という、西洋では十八世紀になってルソーによって唱えられた主張が、ここ紀元前の中国で起こることになった。
道家の人々の思想は、それを自然思想という言葉でまとめるのがよかろうと、私は思っている。
1 トップページ
2 「道」に従った生き方 1~31
3 求めない生き方のススメ
4 やわらかに、しなやかに
5 あるがまま、「無心」に
6 生を楽しむ
7 老子にまつわる雑学
1 トップページ http://www.roushiweb.com/
「上善は水のごとし」をはじめ、数々の名言で知られる『老子』。しかし、実際に手に取って読んでみたことがあるという方は少ないのでは?
「難しい」と敬遠されがちな『老子』ですが、社会全体が閉塞感を抱えた昨今、その魅力に再び注目が集まっています。
「いい機会だから、読んでみようかな…」そう思われた方は、まずはこのサイトで、老子の教えの中身について軽くウォーミングアップを! 手ごわいというイメージが払拭され、『老子』そのものに対して、そしてその作者をより身近に感じていただけるのではないかと思います。
人生の壁にぶつかっている方、生きることが苦しくて仕方がないという方、日々の生活に希望を見いだせない方。 多くの方に、『老子』のメッセージが届きますように…!
2 「道」に従った生き方 http://www.roushiweb.com/category1/
老子の思想の根幹にあるのが、「道(みち)=タオTao」。
言葉で簡単に説明できるようなものではなく、あえて言うならば「万物の根源」のようなものです。 …と言うと、なんとなく「わかったような気」になるかもしれませんが、老子は、その「わかったつもり」さえも否定しています。
老子は、繰り返し、「道に従って生きること」の大切さを説いていますが、「道に従って生きる」とは、具体的にどのような生き方なのでしょうか。
01 『老子』の作者って誰?いまだ謎のヴェールに包まれている作者
http://www.roushiweb.com/category1/
いまだ謎のヴェールに包まれている作者
中国の「二大思想書」としても名高い『老子』。「“老子”って、人物の名前?それとも書物の名前?」…そんな疑問をお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんが、老子は書物の名前。紀元前403年~紀元前221年の「戦国時代」に書かれたとされていますが、その作者についてはいまだにハッキリとは分かっていません。
ただ、中国に伝わる歴史書『史記』(作者は司馬遷)によれば老子の作者は楚の苦県(現在の江南省鹿邑県)、曲仁里の出身で、「李耳たん(りじたん)」という人だったのだとか。(「老たん(ろうたん)」とも呼ばれます)
老子=世捨て人のようなイメージがついてまわりますが、もともとは周の書庫(図書館みたいなもの)に勤める役人だったようです。周の衰退を見て、その地を捨てて旅に出る(隠棲する)ことにしたそうで、その時に関所の役人に頼まれて書いたのが、この『老子』だったのです。
ちなみに、この『史記』では、『老子』の作者候補として、「老來子(ろうらいし)」という、老たん(ろうたん)とは全く別の人物も挙げられていますし、200歳以上まで生きた」という神格化された伝承も残されています。
孔子と面識があった?
中国の思想家といえば、やはり孔子がダントツに知名度が高いのではないでしょうか。孔子は、紀元前551年~紀元前479年に生きた人物ですので、理論上は、老子の作者とは時代が重ならないハズです。
しかし、『史記』には、孔子が『老子』の作者を訪ねたことがある…という非常に興味深いエピソードが残されています。具体的には、老子の作者が役人をしていた頃に、孔子が訪ねていって「礼」について教えてを乞うたのだとか。老子の作者は、「死んだ昔の人の言葉をありがたがっていてもそんなものにはなんの価値もない。だいたい、お前の態度が気に入らないね。その高慢ちきな気位と欲張り根性、野心を捨てたらどうだい?」
…と一蹴したというのです!
そして孔子は、老子の作者についての印象を、「初めて竜というものを見た」と、語ったのだとか…。あの孔子にそこまで言わしめる人物ってスゴイ!!
このエピソードが事実か否かは別として、それだけ、老子の作者は強烈な存在感の持ち主だったということなのでしょう。
実は馴染み深い言葉ばかり!
ちなみに、『老子』は正確には『老子道徳経』といい、上下二篇81章に渡って教えが説かれています。
「中国の思想書って難しそうでとっつきにくい」「読もうと思ったこともない」そんなイメージで、敬遠している方も多いかもしれませんが、実は、老子の作者が残した言葉は私たちの身の回りにも溢れています。
「上善は水の如し」(お酒の名前にも使われていますね)
「和光同塵」
「大器晩成」
「無為自然」
「大道廃れて仁義あり」
…これらの言葉は、誰でも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか? 上記はごく一例ですが、『老子』の作者の言葉には、時代を超えて人の心にじわじわと沁み入る深いメッセージが込められています。
生きにくい時代を、どう生きていけば良いのか。そういう気持ちで社会と、そして自分の人生と向き合っていけば良いのか…。『老子』は、その大きなヒントを与えてくれる書物と言っても過言ではありません。
02 「道」とはどのようなものか
http://www.roushiweb.com/category1/entry2.html
老子といえば、「道」
『老子』の思想の根幹を成すものが、「道(みち)」。英語では、Tao=タオと呼ばれるものです。言葉で説明するのは非常に難しいものなのですが、あえて言うなら
「天地が始まる以前から存在するもので、
万物の根源であり、それを支える自然の原理であり、永遠不変の真理のようなもの」
…そう言われても、「全くイメージが湧かない!」という方も多いでしょうね。
視覚的なイメージで言うと、ビックバンを想像すると分かりやすいかもしれません。実際、TV番組で老子の「道」を説明する際には、宇宙(ビックバン)の映像がよく使われていますし…。要するに、この世の本当の始まり。宇宙の始まりすら飛び越えて、もっともっと前にある“根源”が「道」なのです。
これが道だと説明できるものはない
「道可道、非常道。名可名、非常名」
(道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。)
老子によれば、「これが道だと説明できるようなものはない」のだとか。もしそんなものがあるのだとしたら、「それは道ではない」のだと言います。そして、これが「名」だと呼べるようなものもなく、そんなものがあれば、それは本当の「名」を表してはいない…。
この言葉から分かるように、「道」とは、私たち人間の小賢しい知恵や言葉で表現できるようなものではありません。それは、形もなければ音もない。何にも依存せず、何にも左右されず、ず~と変わらない。そもそも、「道」という名前すら“仮”のものであって、本当は名前すらない。名づけることすらおこがましい。…そういう崇高なものなんですね。
しかし、それほど実体のつかめない存在でありながら、「道」は万物の母であり、無限のエネルギーを秘めたものでもあります。だからこそ、その「道」にしたがって、あるがままに生きることが大事なのだと、その「無為自然」な生き方こそが理想なのだと老子は説いています。
「道」はからっぽ
ここまで読んで、
「う~む、ますます『老子』がわからなくなったぞ」
「要するに“道”ってなんなの!?」
…と、頭の中がこんがらがってきた方も多いかもしれません。
確かに、『老子』に書かれた「道」の教えは、ちょっと読者を煙に巻くようなところがあります。要するに何が言いたいのか、わかりづらい面があるんですよね。
ちょっと乱暴に解釈してしまうと、
「物事に名前をつけて、わかったような気になるんじゃないよ」
「人の言うことを鵜呑みにして生きるんじゃないよ」
「物事の名前に左右されず、根源的なものをよく見極めて生きるんだよ」
…ということを教えてくれているのです。
老子によれば、「道」とは「からっぽで何もない、姿も形もないもの」しかしながら、どれだけ使ってもいっぱいにはならず、底が分からないほど深い。だからこそ、万物を生み出すことができる…。
人間もこれと同じで、常にいっぱいいっぱいの状態では新しい何かを生み出すことは難しいですよね。ともすれば、自分を“満たす”ことばかりに躍起になりがちですが、本当は、からっぽになることこそが理想の生き方。満ちたままの状態に固執せず、“からっぽ”になる勇気を持つことが ある意味では最も“創造的”=クリエイティブな生き方と言えるのかもしれません。
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下平私見
この説明では、道教そのものや根本になるという『道」そのものが全くわからない。 私見であるが、「なぜ生きる」という課題としてとらえると、生存本能そのものに通ずるのではないかと思う。 そうだとすると、「なぜ生まれた」かが課題となり、「なぜ男女は好きになるのか」が課題となる。 「好きだから好きになる」それはそうに違いない。 でも、これでは「なぜ生きる」の問いの答えとしては納得できない。 そこで思うのだが、現代の生命科学といえばいいのか、NHKの「人体 神秘の巨大ネットワーク」を見ていると、「人は自分の意志で生きているのか」という問いに対し「YES!」と答え通すことはできなくなるのです。
自分の意志でなくても、怪我をすれば血が出て治 してくれる。 いびきをかいて寝ていても、心臓は動いてくれる。 赤ちゃんは生まれて二年もすれば、誰でもちゃんと日本語をしゃべれるようになる。
これらは、自分の意志ではなく「大脳に指令によってそうなるものではなく、それぞれの部署の細胞たちの連絡連携によって人は生かされている」ということになる。
「生きる」ということを根本的に大事にしようとするなら、儒教の考え方とか、道教の考え方とか、仏教の考え方とか、一つを選択することではなく、競合することではなく相互補填するする立場から、
生きていく根っこの心がけとして
母親が持つ子育ての心を中核に据えていい
と私は考える。
母親には命を救うためには自分の命を懸ける愛がある。 赤ちゃんの成長を願うために清廉な品性・知識・健康に導く環境整備の力がある。 母親の環境を整えてやる役目は父親にある。 これはちょっと言い過ぎかなぁ。
母親の役目は、赤ちゃんの生命を “不可思議な大自然の命の泉” から授 かった時から独り立ちができるまでの期間である。 それ以外の期間については母親の責務を問わなくてもいい。
これはキタキツネの母親の子育ての絶対条件に一致している。 或いはまた鳥の巣立ちまでの子育ての条件に一致している。 老子の説く道にも一致している。 キタキツネも鳥も人間も、子育ての時期が過ぎると一人で生きていく力を自分で磨いていくのが原則であり、その後はまた自分も親としての役目を果たしていくことになる。
ちょっと脇道へそれるけれど、60才過ぎに『タッチング』という本を手に入れた。 アメリカ人が書いたものだが、副題に ‘親と子のふれあい’ とあるが、親子の触れ合いの深浅がどれほど大事なことか、詳しく述べられている。 これも子育ての根底的絶対条件になってくる。 野に咲く草花も鉱山に咲く草花も、畑で人間が育てるナスにしても、メタセコイアにしても、命の泉になるその種子は吹けば飛ぶような小さなものなのに、自らの『いのち」が地に落ちて芽吹けば、どんな嵐が来ようがどんな暑さが来ようが、耐え抜いていく力を持って育っていけるのです。 それが命の実相 なんですね。 こんなに決めつけてすすめていってもいいのかなぁ。
いのち 生きる 子育て それを可能としているもの(動物であれば交接、植物であれば受精)は、不可思議な大自然理が生き物に与えた宝と言ってもいい。
母なるものは儒教も道教も仏教もすべて「道」を外れたものではない。 モーゼの十戒にしても、五か条の御誓文にしても、憲法九条にしても、黄金律にしても、もてなしの心にしても、キタキツネの母親の絶対条件に一致しているし、「道」を外れたものではない。
またちょっと話はそれるが、お経の「波羅密多心経」の解説(◆真言の意味の二節目)に次の考え方が出ています。
「智慧」はインドの言葉では女性名詞であり、「智慧」によって仏が生まれるということから、『大般若経』では「般若波羅蜜多は諸仏の母」と書かれ、後に密教に時代になると、「般若仏母」と呼ばれる女性の仏であると考えられるようになりました。『般若心経』にも「智慧」を女神のように考えていたという側面がすでにある程度あったのかもしれません。(以下略)
漱石は「則天去私」と言った。 西郷の「敬天愛人」という立場もある。 天命の語意を調べると、これまたいろいろとある。 お天 道 様 という言葉も子供の時から何度も聞いてきた。
「天」という概念は昔の中国で生まれた。 それは社会秩序を確立しようとした孔子の儒教に取り入れられた概念だった。 いわば支配系列の考え方で世の中の安定を図ろうとした考え方である。 日本で支配層が中国の考え方を導入したのはこの儒教である。 これに反し人の上下の識別に重きを置くのではなく、一人ひとりの心の中に安定した核心を作り上げてでないと世の中の安定は図れない、と考えたのが老子の道教であった。
母がもつ、子を授かり育てる力、命を懸ける愛の力、環境整備の力、この力はどこから生ずるのだろうか?
その根源は一つ、前に述べたように “不可思議な大自然の命の泉” と言っていい。 それは何か? 人にとってはすべて臍の緒を通してであり、その元となったのは性細胞の遺伝子に帰すると私は考える。 そりゃ当たり前だ、と同意するでしょう。
以上のことはすべていろいろの考えから帰納的にまとめた考えです。 従って、不可思議なこの世の中のエネルギー、不可思議な想像力の泉、不可思議ないのちの泉、それは卵子の一つの細胞であり、精子の一つの細胞の出会いにほかなりません。 人はこれを本能と呼んでいる。 これは地上の不可思議な意志といってもいいと思う。
帰納的に道教でいう “道” を母親の心といいましたが、では、母親の心を演繹的に展開すればどんなことになるでしょうか。
人を殺 してはなりませぬ、嘘 を言ってはなりませぬ、思いやりの心を持ちましょう、楽しく生活しましょう、こうなります。
儒教的に、孝行をつくしましょう、社会のためになりましょう、という理論に偏 っていくと、思 わぬ不 釣 り合 いが生まれやすいのです。
「道」は万物の母であり、無限のエネルギーを秘めたものでもあります。だからこそ、その「道」にしたがって、あるがままに生きることが大事なのだと、その「無為自然」な生き方こそが理想なのだと老子は説いたのではないだろうか。
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03 「無為自然」という考え方
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ここを開くと、HPの原文と図表が表示されるので、開いて利用すること。
この世は無常
ともすれば、悪よりも善、醜よりも美が重んじられるのが世の常。しかし、老子によれば、「悪があるから善があり、醜があるから美がある」つまり、物事は全て相対的であって、しかも様々な条件によって常に変化しているのだといいます。だからこそ、世間一般の価値観にとらわれ過ぎることは危険!余計な情報や一般論に惑わさることなく、言葉でよけいな説明を加えることなく、ただあるがままに、“自然”でいなさい。そうすれば、世の中の雑音に振り回されずに心穏やかに生きられるよ。これが、老子の思想で有名な「無為自然」の考え方です。
あるがまま生きる、「無為自然」な在り方
「聖人処無為之事、行不言之教」
(道にしたがう賢者は、よけいな振る舞いをせず、
言葉に頼らない教えを行うものだ)
老子によれば、「聖人」=道を知って道に従う賢者を意味しています。「道」とは、「これが道だ!」と説明できるようなものではなく、形もなければ音もない、何にも依存せず、何にも左右されないもの。だからこそずっと変わらない、この世の根源のようなものです。
どんな出来事があっても、言葉で余計な説明を加えて分かったような解釈をしたり、物事に干渉し過ぎたり、余計な作為をしたりせず、ただこの“道”に従い、自然体であること。
老子は、そんな「無為自然」な生き方ができる人こと“賢者”であり、そういった生き方が理想的だと考えていたようです。
確かに、会社の中を見回してみても、何かことあるごとに
「俺がやったんだぜ」
「俺のおかげなんだぜ」
…といわんばかりのアピールをする人がいる一方で、手柄を立ててもそれを鼻にかけるでもなく常に涼しい顔で次の一手を考えている人っていますよね。結果的には後者のほうがより大きな仕事を成し遂げますし、なにより人にも慕われます。
ことさらな作為はしないこと!
「道常無為、而無不為」
(道は常に何事もなさないが、それでいて全てを成し遂げている)
老子の教えの根幹を成す「無為自然」という考え方ですが、これは決して、「何もせずにボケっとしているのが良い」という意味ではありません。
「無為」=為すこと無しの「為す」とは、“わざとらしい振る舞い”のことです。
これは、政治家を例に挙げると非常に分かりやすいですよ。例えば、「私が当選したら、こんなことも、あんなことも実現してみせましょう!」…なんてマニフェストを掲げる政治家は、道に従う賢者ではありません。
老子の言う「無為自然」の理想を実現できるのは、わざわざ言葉で説明しなくても、
「気付いたら人々の生活が穏やかになっていた」
「自然と穏やかな暮らしに導かれていた」
…と、自然に天下を治められる政治家。そしてそれを、決して自分の手柄になどしたりしない政治家です。無為自然、物事がおのずと善い方向に導かれるような政治が理想形なのです。(「政治家=名誉職」という意識が根強い日本では、まだまだ難しいかもしれませんが)
少子高齢化、原発問題、年金問題、領土問題、TPP…と、国内外で問題が山積している今だからこそ、無為自然な政治をスマートに成し遂げてくれるような政治家の登場を期待したいですね。
果たして、そんな“できた”政治家が今の日本にいるのかどうかはともかくとして……。
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【平家物語冒頭の書き出し】
祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり…… えっ、どんな響き?
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽
「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である」
「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす」
「寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり」
※ 仏教の根本思想であり、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」
の三法印一つ‘諸行無常偈 ’の句による。
色はにほへど散りぬるを 我が世たれぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず
【方丈記】 鴨長明
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶ
うたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
【歎異抄】 唯円
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世 のひとつね
にいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。 この条、一
旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむ けり。そのゆゑ
は、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむここ ろかけたるあひだ、
弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のここ ろをひるがへして、他力
をたのみたてまつれば、真実報土の往生を とぐるなり。煩悩具足のわれ
らは、いづれの行にても生死をはなる ることあるべからざるを、あはれ
みたまひて願をおこしたまふ本意、 悪人成仏のためなれば、他力をたの
みたてまつる悪人、もつとも往 生の正因なり。よつて善人だにこそ往生
すれ、まして悪人はと、仰 せ候ひき。(第三条)
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04 「和光同塵」の意味
http://www.roushiweb.com/category1/entry4.html
和光同塵ってどういう意味?
「和光同塵」という四字熟語、中学の国語で習った記憶がありませんか? 成人してからも、採用試験のSPIの問題に出てきたりする言葉ですので、「あ~、見たことある」という方も多いのではないでしょうか。
「和光同塵」とは、簡単に言うと、「実力を隠して周りと調和すること」。優れた才能や知恵がありながら、それをことさらアピールすることなく、あえて“徳”を隠して俗世間と交わることです。
「俺ってスゲーだろ」的なアピールをする嫌味な人とは対照的な人物であり、そのような人を戒める言葉でもありますよね。「菩薩がその威光を和らげて、塵にまみれた俗世に仮の姿を現して人々を苦から救う」という意味で使われることもあります。
実はこの「和光同塵」、老子の言葉だったということをご存知でしょうか?
全てを“塵”と一つにする
「挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵」
(全ての鋭いものを鈍くして、もつれたものを解きほぐし、全ての輝きを
抑えてやわらげ、塵と一つになる)
鋭くとんがったものは全て鈍く“円く”し、煩わしくこんがらがったものは、全て解きほぐして、いたるところに舞い散る塵と一つになる。
…「和光同塵」の元になった老子のこの言葉を分かりやすく表現すると、「刺激的なことは穏やかに、複雑なことは単純にして世間と一つになれ。才能や徳は、ひけらかすべきものではないし、ギラギラと光らせるべきではないよ」…ということ。
要するに、「偉ぶらず、おごり高ぶらず、世間様と一つになりなさいよ」というメッセージですね。
これは、荘子の「愚なるが故に道なり」にも通ずる言葉。知恵や徳を有しながらも、あえてそれを表に出さずに控えめに、ひっそりと輝く…そんな生き方もあるということです。
無為自然にもつながる考え方
「和光同塵」の考え方は、老子の思想の根幹である
「無為自然」の思想にも通ずるものです。
つまり、どんな出来事があっても、自分の手柄を鼻にかけるでもなく余計な講釈をたれることもなく 功績にあぐらをかいて偉ぶるでもなく…。ただ「あるがまま」、自然体で、世間と交わって生きられる人こそが “賢者”=「聖人」だというのです。
この「和光同塵」「無為自然」の言葉を頭に置いて、みなさんも身近なところを見回してみてください。会社やプライベートでお付き合いのある人たちの中にも、「和光同塵」を地で実現している方、いませんか? そういう方が、どれだけいるでしょうか?
人間は誰しも、多かれ少なかれ
「自分をよく見せたい」
「他人から尊敬されたい」
「“すごいね”って言われたい」
…という気持ちを持っている生き物。普通に考えたら「和光同塵」な生き方は結構難しいのではないかと思います。
特に、「目立ってなんぼ」の現代社会では、「自分をどうアピールするか?」、自己プロデュース力こそ全てといった部分がありますからね。社会のシステム自体がそうなのですから、ガツガツした生き方を一概に「悪い」と批判することはできませんし、そもそも「良い」「悪い」を議論するようなことでもありません。
しかし、老子の思想が今もなお根強い人気を保っているということ、近年、再び注目され初めているということは、「俺が」「私が」という自己アピール合戦を繰り広げる現代社会に疑問を感じる人が増えているということのなによりの証拠ではないでしょうか。
老子のように、「道」の教えを求めて愚に徹する生き方こそ、これからの時代に“光”を与える新しい生き方なのかもしれません。
05 「上善は水のごとし」の意味は?
http://www.roushiweb.com/category1/entry6.html
水こそ理想の生き方!
いつでも蛇口をひねれば水が出てくる。そんな便利な環境に慣れている私たち日本人にとっては、水はいつでもあるのが当たり前。まじまじと、その動きに注目して見る機会も少ないのではないでしょうか?しかし、赤ちゃんに水を見せると、非常に強い興味を示します。実体があるようでいて、手にはつかめない。そんな水の流れを見て首をかしげ、手を伸ばしてその感触に驚き…。
確かに、改めて考えてみると“水”とは不思議な物体ですよね。
老子は、この“水”に理想の生き方を見出していました。水は、柔らかくしなやかでありながら、一方では硬いものを穿つ強さも持ち合わせていますよね。しかも、万物に恵みを与え、争うということなく低いところに留まろうとします。(水は高い所から低い所に向かって流れますよね)
そんなしなやかさと粘り強さこそ、“究極の理想”だと言うのです。
“最上の善”とは?
「上善如水」
(上善は水の如し)
老子は、現代でも語り継がれる様々な名言を残した人物として知られていますが、最も馴染みのある言葉が、この「上善如水」ではないでしょうか。もっとも、お酒の銘柄としても使われていますので、「飲み屋でよく耳にする」という方も多いかもしれませんが………。
この「上善如水」という言葉通り、老子は、“水”に「最上の善」というものを見出していました。 最上の善とは、争いを避けて生きること。
…というのも、老子が生きた時代(紀元前6世紀~紀元前4世紀)の中国は国同士の争いが絶えず、争うことで利を得ようという生き方が一般的だったからです。
当時は誰もが、
「人よりも上に行こう」
「人を蹴り落としてでも上を目指そう」
…そう躍起になって戦っていたことでしょう。そんな時代にあって、老子は、
「人と争わず、常に低いところに留まりなさい。まるで水のように」
…と、生き方の見本として“水”を挙げているわけですね。
ちなみに老子が考える理想の生き方とは、具体的には次のようなことです。「住まいはしっかりとした土地の上がよく、物の考え方は奥深いのがよく、人との交わりでは情の深いのがよく、言葉は誠実であるのがよい。
政治はよく治まり、事の処理能力は高いのがよく、行動は時を誤らないのがよい」
いずれも、現代にも通ずるところがありますよね。理想論といえば理想論なのですが……。
「競争しない」という生き方のススメ
「上善如水」や「無為自然」という言葉によく表れていますが、老子の基本的なスタンスは「競争しない」ということ。ともすれば私たち現代人は、「競争から降りて生きる」=負けを認めることと捉えがちですが…。
老子によれば、水のように「争わず、低きところに留まる」生き方こそ堅く強いものに打ち勝つことができる秘訣なのだとか。弱さに徹した水の性質を変えさせるものはない、だからこそ、水に勝るものはないのだと言います。
確かに、水は、その流れの力で少しずつ大きな物(土石)を動かすこともできますし、山を侵食することも、岩に穴を開けることもできますよね。流れに触れても、手には何も残らない。それなのに、何にも勝る力を秘めている。
やわらかでしなやかでありながら、実は何よりも強い!そんな“水”のような生き方ができれば、向かうところ敵ナシかもしれませんね。
06 自由な発想を大切にした老子
http://www.roushiweb.com/category1/entry26.html
相反するものにも目を向ける
ともすれば私たちは、「Aは大きいけどBは小さい」「Aは長いけどBは短い」「Aは明るいけどBは暗い」「Aは美しいけどBは醜い」…と、固定化した価値観で物事を判断してしまいがちです。
そして、例えば「美しいほうが良い」「醜いものは悪い」というように、一方的に“否定的”で、 非常に不自由な物のとらえ方をしてしまうのです。
しかし老子によれば、上記のような判断基準は非常に曖昧なもの。そして、相反する二つのものは互いに相対的で依存し合う関係なのだとか。つまり、「小があるから大がある」わけですし、「醜いものがあるから美という概念が存在する」のです。
しかも、物の見え方は、見る人の立場や置かれた状況に左右されます。ですから、世間でどう評価されていようが、個人によって感じ方は違うはず。「これはこうだ」と決めつけることなどできないのだからもっと自由な目線で物事を見たらどうだい?と、老子は教えているのです。
醜があるから美がある
「天下皆知美之為美、斯悪已」
(天下みな美の美たるを知る、これ悪のみ)
世間の人々はみな美しいものを美しいと認めている、しかしそこから醜悪なものが生まれてくる。
…例えば、手入れがよく行き届いたバラ園のバラは美しいですよね? それはもう、だれが見ても、美しい花は美しいのです。しかし、それを絶対的な価値観として固定化してしまうと、その対極にあるもの、たとえばドブ川の淵に咲く雑草などは「醜い」と捉えられてしまうかもしれません。
もっと露骨な例を挙げれば、クラスの中で「誰が見ても完ぺきな美人!」という女子がいたとして、その女子を“美”の基準にしてしまうと、逆に「クラス一のブス」も生まれてしまう!
このような考え方は「美醜」に留まらず「善悪」や「強弱」についても言えること。一般的な価値観に縛られて、美しいもの、善いもの、強いものばかり優遇していると、本当は価値があるのに世間から認められないものは社会から排除されてしまうことになってしまいます。
そこで老子は、
「善や美の押しつけから自由になれ」
「そうすればもっと自由に、ラクに生きられるよ」
…と教えているのです。
世間の“常識”から自分を解放しよう
老子が指摘しているように、私たちは知らず知らずのうちに、世間的な「善」「美」に縛られて物事を判断しています。
もちろん、道徳に外れたことをするのは問題ですが、例えば、
「結婚したほうが幸せだ」
「正社員で働いたほうが安定している」
「子供がいたほうが幸せだ」
「親は自分で介護すべきだ」
…等々。誰かにハッキリと諭されたわけではないものの、なんとなく社会の価値観に縛られて窮屈に感じていることって多いものです。
老子の教えにもあるように、私たちは、もっと自由であっても良いのではないでしょうか? そのためには、人生の一つ一つのステージにおいて選択に迷った時、「自分はなぜAを選ぶのか」、自分自身を納得させられる答えを持つことです。「なんとなく」「世間的にそういう流れだから」という理由で人生を進んでいくばかりでは、大きな失敗もないかもしれませんが、それなりの幸福感しか得られないでしょう。
自由であることには大きな責任は伴いますが、いつか「これは自分が選んだ人生なんだ」と、自信を持って人生を振り返ることができるでしょう。
07 老子が勧める「からっぽ」の境地
http://www.roushiweb.com/category1/entry27.html
「からっぽ」は誉め言葉!
「お前、中身、からっぽだな~」
…親しい人からそう言われたら、どんな気持ちになるでしょうか? 普通に考えたら、ちょっと失礼な発言ですよね。言われた側としては、「自分を否定された」と捉えてしまってもおかしくありません。
中身がからっぽ=何も考えていない、知識がない、思いやりがない…… ネガティブな思考の連鎖にさいなまれ、一気にブルーになってしまうかもしれません。
しかし、老子の思想を元に考えてみれば、「からっぽだな」は最大の誉め言葉になるのです。なぜなら、物がいっぱいに満ちた器は、それ以上何も入れられないですよね。 からっぽだからこそいろんな物を入れることができるし、それによって人の役に立つというわけです!
さすが!老子の思想はネガティブ思考に偏りがちな現代人の強い味方ですね!
道はからっぽ
「道沖、而用之或不盈」
(道は沖なれども、これを用うればまた盈たず)
道はからっぽで何もないようだが、使っても使っても無限の働きが出てくるものだ。…ここに出てくる「沖」とは、「何もない空虚な状態」を意味しています。老子が著書の中で繰り返し説いているように、「道」とはカタチもなく言葉で説明できるようなものでもありません。しかしながら、一方で、道とは「万物を生み出す根源である」。なぜなら、「からっぽ」だから。決していっぱいになってしまうことがないから、無限に物を作り出すことができる…というわけです。
わかったような、イマイチ納得できないような…複雑な思いの方も多いかもしれませんね。それならば、パソコンのハードディスクの容量にたとえてみましょう。次々にソフトをダウンロードし、仕事関係の資料もため込む一方。メールも整理せず受信しっぱなし。そんな状態が続いていたら、あっという間に容量オーバーですし、そうなるとパソコン上での作業でできない!何も生み出せない!!
…どうでしょうか? 老子の言う「からっぽ」の利点、イメージをつかんでいただけたでしょうか。
満ちている状態に固執しないこと!
「からっぽ」と言われて傷つくことがあるように、私たちは、“満ちていること”、いっぱいであることが良いことだという価値観に縛られ過ぎています。
お金も物も、不足しているよりもたくさんあったほうが良い。…確かに、その考え方も一理ありますし、間違いではありません。特に私たち日本人は、2011年3月11日の震災後にそれを身をもって痛感したはずです。
しかしながら、常に満ちている状態に固執していては、新しいものを受け入れることはできないでしょう。倉庫にだって、空きスペースがなければ新しい商品は入りませんよね? 在庫ばかり増やしても、それが建設的な方向につながらないこと少なくありません。
世の中は、常に動いています。今、“いっぱい”であることにしがみついていると、肝心なものを手にする機会を逃してしまうかもしれない…。プライベートにしてもビジネスにしても、そんな発想の転換が必要な時は必ず巡ってくるでしょう。
その時こそ、老子の言葉を思い出して、躊躇なく自分自身を“からっぽ”にできる潔さを身につけておきたいものです。
08 余裕があるくらいがちょうど良い
http://www.roushiweb.com/category1/entry28.html
何事も「余裕」がカギ!
「○日までにここまでやる」「納期は△日まで」「■時までに集合!」「袋一杯分まで詰め放題!」
…考えてみれば、私たちの日常にはそんな“ゴール“があふれています。
しかし、同じ約束をしたとしても、ゴールに至るまでのプロセスは人それぞれ! 制限いっぱい粘る人もいれば、ちょっと“余裕”を持たせて行動する人もいますよね。
例えば、1時間あれば到着する距離を車で移動する場合、約束の時間のギリギリ1時間前に出発する人もいれば、2時間前に出て、途中で休憩をはさんで移動する人……。「とにかく約束の時間に間に合えば良いじゃないか」と思われるかもしれませんが、ここには、意外と、その人の「生き方」、「人生に向き合うスタンス」が表れるものです。
老子によれば、物事には「余裕」が必要。無理をしても物事はうまくいかないし、その無理は長続きはしない…… というのが老子の教えなのです。
車のアクセルだって、ずっと踏みっぱなしでは疲れてしまいますよね? 確かに、約束の時間には間に合うかもしれませんが、運転だけでグッタリしてしまって、その後の商談に身が入らないようでは本末転倒!
ちょっと早く着いて、コーヒーを飲んで一服するくらいの余裕があったほうが、気持ち的にも肉体的にもラクではありませんか!?
器いっぱいの水はいつかこぼれる
「持而盈之、不如其已」
(持してこれを盈たすは、その已むるに如かず。)
器をいっぱいにしたままにしておこうとするのは、やめたほうが良い。……老子のこの言葉を理解するのに最もわかりやすいのは、器いっぱいに満たした水。タプタプに満ちた水をこぼさずに持っているのは難しいですよね? 器にちょっと余裕を持たせておけば、水を一滴もこぼさずに運ぶことだって可能です。
老子は、そこから転じて、「絶頂に達したものを維持しようとしても無理が生じる。だから、ずっと“満たした状態=てっぺん”にあることに固執するな。100点満点なんて取らなくても良いから、悠々と自然に、余裕を持って自由に生きろ」と教えています。
これは、老子と同じように中国を代表する思想家である孔子や孟子、いわゆる「儒家思想」とは対照的な考え方。 なぜなら、儒家思想は、どちらかといえば「完璧」を目指す思想だからです。 (「仁義礼智信」を重んじ、品行方正な“君子”を育てる思想)
ちょっと自分に無理をさせても“完璧”を目指して生きるか? それとも、常に“余裕”を持たせて、人生の景色を楽しみながら生きるか。あなたなら、どっちを選びますか?
“からっぽ”のススメ
物事に「余裕」を持たせることの大切さを説いた老子ですが、同様に、「からっぽ」であることも推奨しています。
「道沖、而用之或不盈」
(道は沖なれども、これを用うればまた盈たず)
老子の言う「道」とは、万物の根源。この世にある全ては、この「道」から生まれたのだと彼は考えていました。
老子によれば、その「道」は、からっぽで何もないようでいて、使っても使っても無限の働きが出てくるもの。だからこそ、次々と物を生み出すことができるのだといいます。
私たちは、どうしても、「余裕なくいっぱいいっぱいに満ちている状態」を好む傾向がありますが…。
実は、からっぽで余裕がありまくり!という状態のほうが、多くの物を受け入れることもできますし、同時に、新しいものを作り出して世に送り出すこともできる!
「自分ってからっぽだな」「自分って暇なやつだな」
…そんな思考にとらわれたら、「余裕」の意義を説いた老子の言葉を思い出してみてください!
09 老子に倣って”引き際”を見極めよ!
http://www.roushiweb.com/category1/entry29.html
地位や名誉に執着しない!
「新商品がここまでヒットしたのは○○さんのおかげですよ」
「○○さんがいなければ、ここまでうまくはいってませんでしたよ」
「○○さん、あんな賞を受賞するなんてスゴイですね!」
…どれも、耳障りが良いフレーズですよね。 どんな人でも、けなされるよりは誉められたほうが嬉しいし気持ちが良い! それはもう、どんなに本人が「そんなことはない」と否定しようが、 人間誰しもが持っている「承認欲」です。
しかし、老子は言います。「地位や名誉にしがみつかずに、さっさと退きなさいよ」と。引き際のタイミングを間違えるなよ、と…。
老子が挙げた“例え”として非常にわかりやすいのは、鋭く研いだ刃先。最初は切れ味が良く、気持ち良いくらいよく切れますが、徐々にキレが悪くなってきますよね?
それと同じように、人間も、富と地位はいつまでも続かない。執着せず、やり遂げたなら潔く身を引くべき! “引き際”を見極めよ、と老子は教えているのです。
潔く去るのが美しき姿
「功遂身退、天之道」
(功遂げて身退くは、天の道なり。)
仕事をやり遂げたらさっさと引退する。それが天の道である。そう語る老子の教えは、現代にも通ずるところがありますよね。経済界や政治の世界を見ていても、「この人、引き際を間違えたなあ」と思われる人のなんと多いことか! 一方で、小泉純一郎氏は良いタイミングで政界を去ったといえるのではないでしょうか。
とはいえ、「引き際の良さ」に関しては、本田宗一郎氏にかなう人物はいないでしょう。自動車のHondaが絶好調の時期に社長の座を退いた本田氏の引き際の良さは、経営者の間でも話題になったようです。
運気が上り調子であればあるほど、そして、組織において重要な地位にある人ほど、「自分ならまだまだできる」「自分がいなければだめだ」……と、その地位や成功に執着してしまいがちなもの。
しかし、そう思う時にはすでに“絶頂”の時期は過ぎていますし、また、その人の代わりになる人はいくらだっています。悲しいかな、それが人間社会の現実なのです。
老子は、それでも地位にしがみつくのは「天の道に反すること」とまで強く戒め、引き際を潔く決めることの大切さを説いています。
あの西郷隆盛も…
自らの引き際を的確に見極める手本として歴史上の人物に目を向けてみると……。あの西郷隆盛も、非常に引き際の良い人物だったことをご存知でしょうか?
西郷さんが残した言葉に、次のような有名なフレーズがありますが、まさにその潔い引き際を象徴しているよう!
「児孫の為に美田を買わず」
(子孫に財産を残さない)
自分が死んだ後のために財産を残したとしても、それが原因で親族間に争いが勃発することもありますし、その財産を当てにして働く意欲をなくしてしまうかもしれません。(今のご時世、そこまでの財産を残せるのはよほどの人物だと思いますが……)
極端な話、それはその家の破滅を招くことにもなり兼ねないのです。
やるだけやったら、「それはオレの功績だ」などとすがりつくのではなく「あとはよろしく!」と、潔く退く。老子は、そんな引き際の良さもまた「道」に従った自然な生き方だと説いています。
確かに、いつまでも元気で頑張れる人なんていませんし、築いた財産も使えばどんどん失われます。ず~っと衰えず、ず~っとNO1でいられるものなどないわけですから、「どのタイミングで退くか」、その「引き際」を見極めることがその人の「生き方のセンス」と言えるのではないでしょうか。
10 「無」の恩恵に目を向けよう
http://www.roushiweb.com/category1/entry30.html
落ち込んだ時こそ心にしみる老子の言葉
逆説的な表現で、社会の常識に鋭いメスを入れる。……それが、老子思想の“持ち味”ではないでしょうか。人によっては、「単に天邪鬼だっただけなんじゃないの?」「ひねくれた人だったんだね」というとらえ方をしてしまうかもしれませんが…。
どうしても、老子の思想を受け入れられない! と、嫌悪感を示す人がいる一方で、「精神的に弱っている時に老子の言葉に救われた」という人もいます。
中でも、「無」について説いた言葉は、自分自身の存在意義を見失った時に一筋の希望となること間違いなし! 「無」こそ、「有用」、「有益」の源である。一見、無意味に見える存在にこそ、「有」の源があるんだよ。
…そう教え説く老子の言葉は、「自分なんてダメな人間だ」「自分なんて生きていても役に立たない」と、自分を卑下するモードに入っている時に、明日を生きるパワーをくれます。
“無”こそ“有”なり!
「有之以為利、無之以為用」
(有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり)
何かが有ることで利益をもたらすのは、何もない無の働きによるものだ。この言葉を理解するには、コップでもお皿でも良いので何か“器”をイメージしてみるとわかりやすいでしょう。
器は、そこにからっぽ=“無”のスペースがあるからこそ役に立つものですよね?“無”がなければ、何も入れられません。
老子によれば、これは全てに通ずること。一見、何もない“無”は役に立たないように思われますが、実は、その“無”こそが有益な“有”につながるのです。
私たちの日常だってこれと同じ。「こんなこと、やって意味があるのかな」と思うようなことが、 実際は縁の下の力持ちになって全体を支えていたりするもの。空気だって、目には見えずまるで“無”のようでありながら、私たち全ての“生”を支えているわけですから…。
この世は“相対的”
「無があるから有がある」という言葉に関連して、老子は、固定した価値観にとらわれることへの苦言を呈しています。
「天下皆知美之為美、斯悪已」
(天下みな美の美たるを知る、これ悪のみ)
世間の人々はみな美しいものを美しいと認めている、しかしそこから醜悪なものが生まれてくる。 「無」があるから「有」があるように、「美」があれば「醜」があるというわけです。
老子によれば、この世には絶対的なものはなく、全てが相対的。そして、その相反する二つのものはそれぞれが独立して存在するのではなく互いに相対的で依存し合う関係なのだといいます。
「無」も「有」も、「美」も「醜」も、「善」も「悪」も。どちらが良い・悪いではなく、それぞれに意味があり、お互いの意味を支えているわけですね。
ですから、一般的に「有用だ」と評価されるものや「形」として目に見えるものだけにとらわれていては本当に大切なことを見逃してしまうかもしれません。
老子は教えています。 何の役にも立たない「無」こそ、「有」の存在を根本から支えているのだと。有用の用ばかりに目を向けるのではなく、「無用の用」を知るべきだと。
サンテグジュペリの『星の王子様』にも出てきますが、「本当に大切なものは目に見えないんだよ」。どうか、一番大切なものを見逃さないように!