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続折々の記 2018⑩
【心に浮かぶよしなしごと】

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                    老子の思想 (その三)21~31

【 03 】10/05~

 10 05 (金) 老子の思想     (その三)

 21老子が説く「道の法則」とは?
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追求できない3つのものとは?

『老子』には、何の知識もなく読んでいると、煙に巻かれるような、「おやっ?」と思う瞬間があります。おそらく、老子は意図的にそのような表現方法を使っていたのでしょうが、表現が非常に抽象的で、「なんのこっちゃ」と首をかしげてしまう部分も多いのです。

例えば、次の言葉…。

  「視之不見、名曰夷。
  聽之不聞、名曰希。
  搏之不得、名曰微。
  此三者不可致詰。故混而爲一」

  (これを視れども見えず、名づけて夷という。
  これを聴けども聞こえず、名づけて希という。
  これを搏えんとすれども得ず、名づけて微という。
  この三者は致詰すべからず。故に混じて一となる。)

  見ようとしても見えない。これを「夷」と呼ぶ。
    聞こうとしても聞こえない、これを「希」と呼ぶ。
  触ろうとしても触れない、これを「微」と呼ぶ。
    この3つは追求の仕様がない。

なぜならそれは全く同じものだからだ。

…見ようとして見えないもの、聞こうとしても聞こえないものつかもうとしてもつかめないもの。これだけから普通に考えると、「それって、“何もない”ってことなんじゃないの!?」と思ってしまいますが…。しかし、老子によれば、「何もない」のとは違うのです。そこに、老子の説く「道の法則」があります。

道の「姿」とは?

「視之不見…」のフレーズがイマイチ理解できなかった方は、次の言葉でさらに混乱することになるでしょう。しかし、これは、老子の「道の法則」の核心に迫る非常に意味深い言葉です。

   「其上不皦、其下不昧。
   繩繩不可名、復歸於無物。
   是謂無状之状、無物之象。
   是爲忽恍。
   迎之不見首、隨之不見其後。
   執古之道、以御今之有、以知古始。
   是謂道紀。」

   (その上はあきらかならず、その下くらからず。
   縄縄として名づくべからず、無物に復帰す。
   これを無状の状、無物の象と謂う。
   これを忽恍となす。
   これを迎うれどもその首を見ず、
   これにしたがえどもその後を見ず。
   古の道を執りて、もって今の有を御し、もって古始を知る。
   これを道紀と謂う)

茫漠としているが、上の方は明るくなく、下の方も暗くはない。ただぼんやりとしていて形容の仕様がなく、形のない状態に還っている。この姿なき形を「恍惚」という。迎えてもその前が見えず、従ってもその後ろが見えない。 これが昔から続く「道」の姿で、今の「有」を支配し、これによって万物の始まりを知ることが出来る。これを「道の法則」という。

…どうでしょうか? 「道」と言うと、前にも後ろにもず~っと長~く続いている一本の道路を想像しますが、どうやら、老子が説いた「道の法則」はその想像とはちょっと違っているようですね。

道って、要するにどんなものなの?

老子の言葉からストレートに解釈する限り、「道」とは、目で見て確認できるものではないようです。ですから、いわゆる「道路」のように、「あ~、ここまで来たんだあ。まだまだ先は長いな」…と、来し方行く末を“見て”確認できるようなものではありません。

しかし、「ない」わけではなく、確かに「有る」もの。そして、万物の「有」を支配している…。う~ん…と、このあたりから複雑になってきますね。

上に昇り行くからといって明るいわけではなく、下に沈んで行くからといって暗いわけではない。表現しようにも表現しようがなく、ふたたび、形のない「無」の世界へと立ち返っていく。…そこに確かにあるのに、しっかりとした形として確認しようがない。いわば、「空気」のようなものなのでしょうか。

老子が説いた「道の法則」は、なんでも「目に見えるもの」しか信じられなくなっている現代人には、どうにも理解しにくいものかもしれません。しかし、だからこそ、「目に見えない」「けれども大切なもの」に思いを馳せみるという心の余裕が必要なのではないでしょうか。

時代を超えて今でもなお『老子』が多くの人の心を引き付けているのは、そのような“無物の象”の価値に、私たちが本当は気づいているからなのかもしれません。

22 「道」と海

「道」は「無名」

老子思想の根幹を成す「道」という考え方。目で見たり、触ったりして確認できるような“実体”があるものではない…とされていますが、それでいて「万物の根源」でもある。

感覚的にはなんとなく理解できても、「わかったような、わからないような…」曖昧模糊とした“消化不良感”が残る思想でもあります。

そもそも、「道」という名前さえも“仮”のもの。それは、老子の次の言葉からもよくわかります。

   道常無名樸。
   雖小、天下不敢臣。
   (道は常に無名の樸なり。
   小なりといえども、天下あえて臣とせず)

「道」は永遠に無名である。手が加えられていない素材(伐りたての原木)のようなものだ。名もない素材は小さいけれど、誰もそれを支配することは出来ない。

…私たちが使っているテーブルやタンス、フローリングも、元をただせば、「森から刈り出した木」。切ったばかりの時は、「どんなものにもなり得る」素材なわけです。

この「樸」は、「人」に重ねて考えることもできます。生まれたばかりの赤ちゃんには、 何者にでもなり得る可能性と、(持って生まれた“才能”など、ある種の“限界”があるのは否めませんが…)本来は誰にも支配され得ない「自由」があるのです。

「道」は「海」とイコール?

「道は無名」の言葉に続いて、老子は次のように語っています。

「天と地は相合し恵みの雨を降らせるが、それは誰かが雨に命じて広くまんべんなく降らせているのでなくて、ひとりでに、自然に降っているのだ。  管理が始まると名前が出来るし、名前が出来ると適当なところでとどめる事を知らねばならぬ。これが『限度』であり、限度を知れば危険を免れることが出来る」

これはつまり、天地(=自然?)は誰かの管理下にあるものではないし、限度もない。本来は「名前」すらないものだ…と言っているようなもの。ここからも、「“道”とは、本当は名前すらつけられないようなものなんだ」という考え方が見て取れますよね。

さらに老子は、次の言葉で「道」と「海」の共通点について触れています。

   「譬道之在天下、猶川谷之與江海」
   (たとえば道の天下に在るは、なお川谷の江海に与するがごとし)

「道」は天下に有るすべてのものが行き着く所だ。すべての谷川が海に流れ込むのと同じように。

…これを読んで、「ああ、なるほど!」と納得する方も多いのでは? 海も、「命の源」と言われますからね。「生み出す」場所であり、同時に、「全てが還っていく場所」でもある。これが、「海」と「道」の共通点でしょう。

海のように優しく、厳しく

「落ち込んだ時に海を見ると気持ちが落ち着く」という方も多いのでは? 寄せては返す波をじっと眺めていると、引いていく波と一緒にネガティブな気持ちも海に吸収されていくようなそんな錯覚を覚えることがあります。

また、海の組成は羊水に似ているとも言われますから、どこかしら母親の胎内を思い出させる要素があるのかもしれません。

しかし、海はいつでもおおらかで優しいわけではありませんよね。東日本大震災では、大津波によって多くの方が失われました。海は、おおらかなやさしさに満ちていると同時に、時として激しく荒れ狂う“無情”な一面も持っているのです。

つまり、海もまた誰に管理されているものでもない“自然”なものであるため「限度」がないということ。本来は、「海」という名前さえつけられないものなのかもしれません。そこも、「道」と似ていますね。道もまた、仮に「道」と呼ばれているだけであって、本当は名づけて表現することさえできない「無形の“象”」ですから…。

広くまんべんなくゆきわたる“道”、そのあり方は、川という川が海に注ぎ込んで安んじるその様子にもたとえられますが、同時に、「人間だけをえこひいきして優しくしてくれるわけではない」という厳しさも持ち合わせているのです。

23 「罰」についての老子の考え方

「悪」の判断は難しい

何をもって「善」として、何をもって「悪」というか。古来、多くの哲学者たちが実に様々な持論を展開してきましたよね。

人間が、人間の行い(または考え方)を裁き、「罰」を与える…これ、よく考えると、非常に曖昧なものですし、だからこそ、場合によっては取り返しのつかない“危険”をはらんだ行為とも言えます。実際、冤罪によって「受けなくても良いはずの罰」を課せられ人生の大部分を失ってしまった方々もいらっしゃるわけですよね。

「悪」の判断は難しい。人に罰を課すのは難しい。それは、老子の言葉にもよく表れています。

   「勇於敢則殺、勇於不敢則活。
   此兩者或利、或害。
   天之所惡、孰知其故。
   是以聖人猶難之」

   (あえてするに勇なればすなわち殺、
   あえてせざるに勇なればすなわち活かつ。
   この両者はあるいは利、あるいは害。
   天の悪にくむところ、たれかその故を知らん。
   ここをもって聖人すらなおこれを難かたしとす)

   悪人がいた場合、勇気を持ってこれを殺すか?
   あるいは、勇気を持ってこれを殺さずに置くか…。
   この2つは、1つは利になり、1つは害になる。
   天が憎むのはどちらか分からない。
   誰も天意がどこにあるのか分からない。
   聖人にとっても、この判断は難しい。

悪は必ず罰せられる?

聖人でさえも、悪人をどう罰すれば良いのかはわからない。その判断は難しい…と、老子は言います。この言葉には、人が人に対して「善か悪か」の判断を下し、そしてしかるべき罰を与えるということの難しさが非常によく表れていますよね。

そもそも、人が人を裁く権利なんてあるのでしょうか? どんなに「善人だ」と言われる人の心の中にも、人を妬んだり、憎んだりする気持ちもあれば、「あれが欲しい」「もっとこうだったら良いのに」という“欲”もあるでしょう。どんなきれいごとを並べても、ゼロから100まで「他人を想う思いやり」しかない人なんていません。それが人間のありのままの姿でしょう。

そんな人間に、他者を裁く権利があるのかどうか…。その問に対する一つの答えとして、老子は次のように説いています。

   「天之道不爭而善勝、不言而善應、不召而自來、?然而善謀。
   天網恢恢、疏而不失」

   (天の道は争わずして善く勝ち、言わずして善く応ぜしめ、
   召さずしておのずから来まねき、?然として善く謀る。
   天網恢恢、疏にして失わず)

   「天の道」は争わずして勝ち、言わずして万物の要求によく応じ、
   招くことなく来させ、ゆっくりとしながらもうまく計画する。
     天の網は広大で網目は荒いが、決して漏らすことは無い。

…「言わずして万物の要求によく応じ、招くことなく来させ」というのはどういうことなのか、というと「予告せずに、しかも手の内を見せずに結果をもたらす」ということです。「今から悪者に罰を与えるぞ~」「逮捕するぞ~」などとおっぴらに予告することはありませんが、どんな悪事も見逃さずにとらえるのです。

すなわち、「悪事は必ず罰されるのだ」ということですよね。周りの人間や世間がお前をどう判断しようが、天は見ているぞ。…そのような“戒め”とも捉えられる言葉です。

◆人を裁くことの難しさ

人を裁き、罰を与えるということは、非常に難しくてデリケートな問題です。とりわけ、“死刑”については様々な考え方があり専門家の間でも意見が分かれるところですよね。

老子は、「罰として人を殺すべしと判決する人と、殺すべきではないと判決する人。どちらにも理にかなった部分はある」と、人によって判決が分かれることを認め、同時に、「誰が殺されるべきで、そしてその理由は何なのかこれは誰も知りようがない。聖人においてすら、このことは難しい問題なのだ」…と、“罰”の難しさも認めています。

しかし、最終的には、

   「人が裁こうが裁くまいが、罰を与えようが与えまいが、
   天はちゃんとしかるべき結果をもたらす。
   悪徳は必ず罰を受けるぞ」

…といった内容でまとめているのです。

見えないところにも、確かに“目”はあるんですね…。

24 死刑の是非

人民は死を恐れない

死刑制度の是非については、日本のみならず世界中で議論されてきましたよね。「廃止すべきだ」という反対論もあれば、「このまま維持すべきだ」という存続論もあり…。みなさんはどちらを支持しますか?

内閣府の調査によれば、日本では、「死刑を容認」するという人が圧倒的に多いのだそうです。ちょっと古いデータになってしまいますが、2010年のデータによれば、死刑容認派は過去最高の85.6%! 「どんな場合でも死刑は廃止すべき」と言う反対派は5.7%のみです。

人が人を裁く。しかも、「死をもって償え」を死刑をつきつける。これが正しいことなのかどうか、果たして、同じ“人間”にそんな権利があるのかどうか。非常にデリケートな問題ですよね。

老子は、この死刑の問題についてどう考えていたのでしょうか。その考え方をうかがい知ることができるのが、次の言葉です。

   「民不畏死、?何以死懼之。
   若使民常畏死、而爲奇者、吾得執而殺之、孰敢」
   (民、死を畏れざれば、いかんぞ死をもってこれをおそれしめん。
   もし民をして常に死を畏れしめて、而うして奇をなす者は、
   われとらえてこれを殺すを得るも、たれかあえてせん)

   民が死を恐れないならば、死刑でもって民を脅かす事はできません。
   だって、「死ぬのがこわくない」わけですから…。
   死刑は罰でもなんでもないわけです。

ただ、民が死を恐れるような状態、すなわち、あまりに平和で幸せで、「あ~、死にたくないなあ」と思っているような状態、これは話が別です。そんな幸せな世の中にあっても、それでもなお不正が働く人がいる場合は、「死刑」を課すことにズ~ンと意味が出てくるわけです。不正をした人を捕まえて殺してしまえば、他の人々は、「あ~、不正すると殺されちゃうんだ!嫌だよ、死にたくないよ」と、誰も不正をしなくなるだろう。…老子はそのように考えていたんですね。

死刑は誰にでもできるものではない

「死刑」が意味を成すのは、人々が死を恐れるほどに平和な世の中。いつ出兵を命ぜられるかわからない、常に死と隣り合わせの世の中では、死刑制度があっても全く意味がない…。

確かに、老子の言う通り、人々が死刑を恐れるのは、「死にたくないから」ですからね。別にいつ死んでもいいやと思っている社会で死刑を執行しても、その刑は罰として意味をなさないというわけです。

さらに老子は、次の言葉で「死刑」を執行することの難しさについても触れています。

   「常有司殺者殺。
   夫代司殺者殺、是謂代大匠?、
   夫代大匠?者、希有不傷其手矣」
   (常に司殺者ありて殺す。
   それ司殺者に代わりて殺す、
     これを大匠に代わりて?ると謂う。
   それ大匠に代わりて?る者は、
     その手を傷つけざることあるは希まれなり)

死刑は、死を司るもの、すなわち「死刑執行人」が行うものですが、この死刑執行人に代わって人を処刑するのは、大工を真似て木を削るようなもの。素人が大工を真似して木を削れば、手を負傷しないことはありえない!というのです。

これはすなわち、誰でも彼でもが死刑を執行して良いわけではない。人を人が裁くこと、人が人を「死」をもって罰することは、森で木を伐るごとくに難しいことなんだよ。ということですね。

ナゼ、死刑容認派が多いの?

老子の言うように、誰でも彼でもが、「死」をもって人を裁いて良いわけではありません。「アイツに恥をかかされた!倍返しで死刑にしてやる!!」…こんなことが認められていたら、世の中は毎日血なまぐさい事件の連続でしょう。

老子は、「死刑」そのものは認めていたのかもしれませんが、そこには厳然たる「ルール」があるべきであり、「単なる殺人と一緒くたにして考えるなよ」ということを伝えたかったのではないでしょうか。

それにしても、なぜ、日本では死刑容認派がこれほどまでに多いのでしょうか? 単純に、「死への恐れが凶悪犯罪の抑止につながる」そう信じている人が多いということ? つまり、老子の言う「平和な」世の中である証拠なのでしょうか?

しかし、残念ながら、過去の例を鑑みれば死刑を廃止した国でも凶悪犯罪の発生率はほとんど変わっていません。むしろ、「死刑を望んで凶悪犯罪を起こす」というケースすら増えているという現実…。「自分では死ぬ勇気がないから、悪いことして死刑にしてもらおう」なんて輩もいますので、死刑自体にはあまり意味がないようにも感じられます。

また、「死」というものに対する「実感」、リアリティが欠けていることも、「死刑容認派」が増えている原因なのかもしれません。いつ戦いが起こってもおかしくない、いつ、自分の、そして自分の大切な人の命が奪われてしまうかわからない。…そんな状況に身を置いたことがない世代にとっては、死刑はまさに「対岸の火事」。老子が言ったように、私たちはそれだけ「平和な」社会に生きているということの証なのかもしれませんね。

25 老子の教えを実行するのは難しい?

老子の言葉はシンプルだけど難しい!

老子と言えば、「無為自然」という言葉がメジャーですよね。すなわち、何事においても作為的なこと(わざとらしいこと)はせず、ありのまま、自然にゆだねておくのが理想的だ…ということです。

これだけ聞くと、「なんだ!老子の教えを実行するのは簡単じゃん!」と思われるかもしれません。

しかし、この「無為自然」というのは、決して「何もしないこと」ではありません。部下の教育に当てはめて言えば、何も指導せずに野放しにしておけば良いというのではなく、「何もしていないように見せかけて、それでいて相手のチカラを100%発揮できるような指導」の在り方が理想なわけです。

…どうでしょうか。

「う~ん。それって、教育する側が人徳者じゃないと実行するのは難しいかも…」と、ハードルが上がってしまったのでは?

この他にも、老子の教えには逆説的なニュアンスが含まれるものが多く、実行に移すのはなかなか難しいという特徴があります。

老子も自覚していた!

シンプルなようでいて、イザ実行に移そうと思うとなかなか難しい。それが老子の思想の魅力の一つでもありますね。

その点は老子自身もよくわかっていたよう。いや、むしろそれを狙っていたのかもしれませんね? 読者を翻弄するために、あえて逆説的な表現を使っていたのでは…。

   「吾言甚易知、甚難行」
   (吾が言は甚だ知り易く、甚だ行い難し)

私の言う事はどれも単純明快でわかりやすいものばかりだが、これらを実行に移す人物はほとんどいない。…これは、老子自身が、自分の教えが実行しにくいものであることをよ~くわかっていた証拠ですね。

「言っていることはバカでも分かる簡単なことなのに、なんでみんな実行してくれないのかな~。みんな、バカ以下なの?」…と、ちょっと小馬鹿にされているような感も否めませんが…。

老子思想の「本質」とは

老子は、決して、私たち読者を馬鹿にしているわけではありません。実行できないのは、私たちの側に原因があります。

老子に言わせれば、私たちは、老子の言葉の「要点」を理解できていないのだとか。

   「言有宗、事有君。
   夫唯無知、是以不我知。
   知我者希、則我貴矣。
   是以聖人、被褐而懷玉。」

   (言に宗有り、事に君あり。
   それ唯だ知ること無し、ここを以って我れを知らず。
   我れを知る者は希なるは、則ち我れ貴し。
   ここを以って聖人は、褐を被て玉を懐く)

   私の言葉や行いには要点があるのだが、
     人々はそれに気づかないでいる。
   だから私の言う事が理解できないのだ。
   しかし、それは、それだけ私という存在が貴重という事でもある。
   このように「道」を知った聖人は、粗末な衣服を着ていながらも
   心の内には大切な宝を抱いている。
   その貴さは上辺からは理解できないのだ。

…つまり私たちは、老子の言いたいことの「真理」が何であるかわかっていない。もしかしたら、分かろうとすらしていないのかもしれません。なぜなら、私たちには「見た目」の美しさだけで物事を判断してしまうクセがあるから。美しく咲く花に見とれるばかりで、その下の土に埋もれる真理を、「泥だらけになりながらも掘り起こしてやろう」という気がないからです。

老子の教えを実行しようと思うのであれば、生活の中に溶け込んでいるあらゆる物事にもっと目を向けることです。美しい花の根元の土や、ヘドロだらけの下水の中にこそ、真理は隠されているのかもしれないのですから…。たとえボロを着ることになったとしても、真理を見出してそれを実行に移すことができれば、心は老子の境地に近づくことができるのではないでしょうか。

26 老子の言う智者と学者の違いって何?

“智者”と“学者”って?

老子の言葉には、「智者」と「学者」の二つの言葉が登場します。私たちの一般的な感覚からすると、学者といえば、○○大学の教授だとか、名誉教授だとか、そこまで偉くなくとも、准教授とか助教とか。学問に携わる人で、なんらかの肩書きを持った人を思い浮かべますよね。

肩書き…、要するに、「ステイタス」です。

しかし、ステイタスがある人が、人間的に優れているかと言えば必ずしもそうとは言えません。部下(この場合は大学院生)の実績を自分のもののようにひけらかしたり、知識に胡坐をかいて、他の人を見下したり。アカデミックハラスメントが横行している研究室の教授は、得てして「智者」とは言えないレベルの人が多いようです。

つまり、学者=智者ではないということですよね。老子もまた、「学者」と「智者」は異なるものとして扱っています。そこで気になるのは、「智者」が一体どんな人物なのかということですが…。

道に従う人こそ、真の「智者」

「智者学者にあらず、学者智者にあらず」という言葉から分かるように、老子の中でも、智者と学者は明確に区別されていました。

すなわち、学者のような高いステータスを持っているからといって、その人が本当に優れているとは限らないというのです。

では、「智者」とはどんな人か?というと…。そこで出てくるのは、老子思想の中核である「道」です。道、すなわち、万物の根源たる「自然の法則」に従って生きている人こそ、真の「智者」である…というのです。

確かに、自然の法則を知っている人、あえてそれに逆らわない人は、妙な欲を出して失敗することもありません。人に接する時も、その人が自然から授かった「ありのまま」をそのまま受け入れることを心得ているので、争うことも、怒ることもありません。

これは、知識が豊富=「学がある」こととは違いますよね。学があっても、自然の法則を知らない人、それに従った生き方ができない人は「智者」とは言えないのです。

学ぶほどに智者から遠ざかる?

老子曰く、「道という自然の法則に聡い者こそが真の智者である」。しかし、智者だからと言って、学問的な知識が豊富か?といえば決してそうではありません。逆に、学問に通じていても、自然の法則に従った生き方をしているか? と言えば必ずしもそうではありませんよね。

だから老子は、「智者は学者ではないし、学者は智者ではない」…という言葉を残したわけですね。しかし、ここで一つ疑問が生じます。「学者だからといって智者とは限らないというのは納得できる。でも、智者の中には、学問にも長けた“学者”と呼ぶにふさわしい人もいるものなんじゃないの?」

…その疑問に対する一つの答えとして挙げられるのが次の言葉です。

老子は、「多聞なればしばしば窮す。中を守るに若かず」という言葉も残しているんです。これは、知識を蓄えるほどに賢くなる一方、既存の観念に縛られて、柔軟さを失ってしまうという意味。さらに、「真の知者は学ぶほどに中(虚心)にかえっていく」とも言っています。

つまり、真の智者は、知識をどれだけ蓄えようとも学者にはならない! どんどん自分の中を空っぽに近づけていけるということなんです。

コレ、できそうでいて難しいことですよ。「単に知識を覚えなければ良いだけなんじゃないの?」と思われるかもしれませんが、見聞きしたことは私たちの思考に確実になんらかのバイアスをかけてしまいますからね。

だからこそ、ホンモノの「智者」にはなかなかお目にかかることができないのです。

27 その成功は誰のおかげ?

全ては自然のルールの中で起こっていること

誰でも、自分の努力が報われれば嬉しいものですし、多かれ少なかれ「自慢したい」という自己顕示欲にも捉われることでしょう。人から認められたい! それは、人間であるが故に当然の欲求なのです。

しかし、そこで「どうだ~、俺ってスゲーだろ」とひけらかす人間と、「いえいえ、私の力なんてたかが知れていますよ」と謙虚になれる人間とでは人としての“格”が違います!

そもそも、成功は本当にあなた自身だけのものなのでしょうか? 家族や周りの人のサポート、タイミング、環境、そして運。何か一つが欠けているだけでも、その成功は為し得なかったものかもしれません。そう考えれば、全ては自然の摂理に従って「起こるべくして起こったこと」。100%あなただけの努力や実力のたまものだ!とは言い切れないのでは?

この成功は、自分の力だけで為し得たものではない。自然の中の大きな流れの中で起こったことであって、人智を超えたものの力が働いているんだ。…このように慎み深く捉えられる人は、自分の功績に胡坐をかいて他者をないがしろにしたりしないものです。

老子もまた、個人の成功の根本に「自然の力あり」と教えていたようです。

功成り事遂げて、百姓、皆我自然と謂えり

農業に少しでも携わったことがある方なら、その大変さがお分かりでしょう。まさに、自然の顔色ひとつで収穫が大きく影響されてしまうわけですから、育てる人がどれだけ努力しようが、結果は良くも悪くも左右されません。

   「炎天下の中、熱中症になるまで草むしり頑張ったのに」
   「雨の中、風邪を引いてまでシートをかけたのに」

…と嘆いても、厳しい自然の元では必ずしも豊作にならないことも多いもの。

しかし、プロの百姓というのは、たとえ豊作となった年でも「自然のおかげ」と言うものだと、老子は言います。つまり、自然の摂理、すなわち“道”というものをよく心得ているわけですよね。百姓にとっての豊作は、言い換えればその年の「成功」。しかしながら、その成功を「自分の努力のたまものだ」とは考えず、ただただ「ありがたい天の恵みだ」と感謝するだけ…。

老子はすなわち、他の分野についても、百姓のような在り方が理想なんだよと教えているわけです。

「おかげさまで」という謙虚な気持ちが大事

スポーツや文学、芸術の世界で何か賞を受賞した時、会見の場で、「これまで支えてくれた皆さんのおかげです」というコメントをする受賞者をよく見かけますよね。

あれこそ、老子の理想とする「お百姓さん」の姿。たとえ血反吐を吐くような努力の末に成功したとしても、「それは自然の力です」「周りがそうさせてくれたんです」と謙虚に受け止められるのが理想だと言うわけです。

実際、そういう謙虚な人は、バッシングの対象にもなりにくいですよね。TVの会見などを見ていると、正直、「この人、叩かれるのが嫌でこんなしおらしいことを言っているのかな?」「妬まれるのを避けるために、わざと謙虚にしているのかな」なんて穿った見方をしてしまうこともありますが…。なんだかんだ言って、世間様は、成功しても調子に乗らない人間が好きですからね。

しかし、他者の評価など関係なく、心から、「わたしの努力なんてたかが知れてますよ。全てはみなさんの力のおかげ。そして、自然の力がもたらした結果なんですよ」…と言えるような、そんな成功者になりたいものですね。

28 天は「善人」をえこひいきする?

全てが平等っていうのは不平等!?

老子の基本的な思想は、「万物は平等」。特定の人間に都合の良いえこひいきをしたりはしないんだよ、というものです。(天地は仁あらず、万物を以てスウ狗と為す 老子道徳教 第5章)

これだけ聞くと、

「え~、じゃあ、善人も悪人も同じってこと?」
「努力しようがしまいが、結果は同じなの?」

それって。。。逆に「不平等なんじゃないの!? …と思われるかもしれません。

その疑問はごもっとも! 誰って、努力したからには報われたいと思いますし、他者を貶めるような悪事を働いた悪人と、自分を犠牲にしてまでも他者に奉仕する善人とが全く同じ扱いを受けるというのは納得がいかない部分もありますよね。(もっとも、なにをもって悪人として、なにをもって善人と定義するか、その点も曖昧ではありますが…)

老子の思想は、ひねくれている。老子の思想は不平等だ! …そんな批判的な捉え方をしてしまう方もいらっしゃるかもしれませんがその前に、次の言葉にご注目ください。

善人だったら“えこひいき”してもらえるの!?

   「和大怨、必有餘怨。安可以爲善。
   是以聖人執左契、而不責於人。有徳司契、無徳司徹。
   天道無親、常與善人」

   (大怨を和すれば必ず余怨あり。
   いずくんぞもって善となすべけんや。
   ここをもって聖人は左契を執りて人に責めず。
   有徳は契を司り、無徳は徹を司る。
   天道は親なし、常に善人に与す)

   大きな怨みを和解させても、必ず後々も怨みが残るもの。
   これは決して良い事を成したとは言えない。
   だからこそ聖人は、御金を貸した借用書を持っていても、
   無理に相手から御金を取り立てることをしないのだ。
   つまり、徳の有る人間は契約書の紙の管理に関わり、
   徳の無い人間は厳しい金銭の取り立てに関わるのだ。

天界のやり方とは完全に公平であり、だからこそ天は常に善人にえこひいきをするのである。

…人の怨みは後引くもの。だから、なるべくなら怨みを買わないのが一番です。たとえ相手に非があるような場合でも、むやみに責めるべきではない。金銭の貸し借りがあったとしても、あえて取りたてたりはせず、貸しを残しておくくらいでちょうどよい。無理に暴力で取り返そうとするから怨みを買うんだからさ! 天とは完全に公平なものなので、例えば戦争をした場合、両国を公平に見て、善悪を総合的に判断して、徳が勝るほうの国家をえこひいきするものなんだ。…と言うのです。

現代の社会に当てはめて考えてみると…

結局のところ、天は、「公平だからえこひいきする」というわけで…。「なんだか、分かったような、イマイチ納得できないような…」と、煙に巻かれたような気持ちになっている方も多いのではないでしょうか?

(ちょっと強引に解釈すると)結局は、天も善人の味方をするんだということ。だから、「誰も見ていないから」と道に外れた行動をしてはいかんよ! 徳のある行動をするように心がけなさいよという戒めでしょう。

個人の人間関係に当てはめて考えてみると良くわかります。他人とひどく争えば、どのみち怨みは買いますよね。無理に和解しようとすると、かえって火に油を注ぐ事態になったりしますので、流れに任せて静観するほうが穏やかに解決したりするもの。

怨みの感情に任せて報復を企てる人もいるかもしれませんが、逆に、あえて貸しを残したままにしておく人もいます。どっちが「徳のある行動か?」は天が判断してくれます。ですから、自分にできることは、自分の良心に照らして「善人であろう」と心がけて行動することなのでしょうね。

そういう意味では、人間は悪人よりも善人が圧倒的に多いのでしょうね。そうでなければ、人類なんてとっくに絶滅させられているはずではありませんか!?

29 「自分」を大切にしよう

締め付けられるほどに逃げたくなる!

人間は、締め付けがキツくなればなるほど、逃げ出したくなるもの。子育てにおいても、会社での部下の教育においても、「アレもダメ、コレもダメ」「ああしなさい、こうしなさい」…と行動を制限しているばかりでは、嫌われるだけです。

自分の行動を制限されると、「自分は信頼されていないんだな」と、相手に対して不信感を抱くようになってしまいます。自分を信用してくれない相手に、心開けるでしょうか? 心を開けない相手のために、「頑張ろう」という気持ちになれるでしょうか?

結局は、反発心を生み出すだけ。子供は反抗的になってますます「イヤ、嫌!」とごねるようになるでしょうし、部下はやる気をそがれて仕事そのものに対する意欲を失ってしまうでしょう。

ですから、人に何かを教えたり、指導したりする立場になった場合は、相手の心や行動を押さえつけるばかりのやり方では逆効果なのです。

まずは、自分自身が相手を信頼することから! 「この人ならできる!」その前向きで適度な期待感がなければ、人は応えてくれないのです。(その期待感が大きすぎると、重いプレッシャーになってしまいますが…)

ところで、老子の生きた時代というのは、どうやら相当、民衆に対する締め付けが厳しかったようですね。住む場所にしろ、仕事にしろ、かなり不自由な時代だったことがうかがえます。

立場をわきまえた人は常に謙虚

   「民不畏威、則大威至。
   無狎其所居、無厭其所生。夫唯不厭、是以不厭。
   是以聖人、自知不自見、自愛不自貴。故去彼取此」

     (民、威を畏れざれば、則ち大威至る。
   その居る所をせばめること無く、その生くる所を厭すること無かれ。
   それ唯だ厭せず、ここを以って厭せられず。
   ここを以って聖人は、自ら知りて自ら見わさず、
   自ら愛して自ら貴しとせず。故に彼れを去てて此れを取る)

   民衆が追い詰められて支配者の威光を畏れなくなる時は、
     恐るべき事態に至るだろう。
   民衆の住む所を強制的に制限してはいけないし、
   民衆が生きるための仕事を圧迫してはいけない。
   そもそも、支配者が民衆を圧迫しなければ、
     民衆も支配者を嫌がることはない。

だから聖人は、自分の立場をわきまえて目立つことはしないものだ。聖人は、自分自身を大切にはするが、偉ぶるということはしないもの。つまり聖人は、控えめで謙虚な態度を取るものなんだよ。

…偉い立場にある人こそ、立場をわきまえて謙虚であれ。そのような意味にも取れるこの言葉。単純に、「偉ぶってると民衆はついてこないゾ~」という戒めとも捉えられますが、意外と奥が深いのは「自愛不自貴」という部分です。

これは、聖人だからといって自分をないがしろにして良いわけではない…そんな意味にも解釈できます。聖人=自分を犠牲にして他者に尽くすものというイメージがありますが、聖人が聖人たるためには、自分を愛せていなければいけない!

なぜなら…

自分で自分を愛せていますか?

自分を愛する心、すなわち「自尊心」がなければ、結果的には他人を愛することもできません。なぜなら、「愛して欲しい」という不足感が他人に向いてしまうからです。自分で自分を愛せない分、誰かに認めて欲しい!愛して欲しい!! すなわち、他人に愛を「与える」のではなく、常に、「受け取る」という受動的なスタンスになってしまうというわけ。

この「欠乏感」、「不足感」は、不満や不安を生む元凶。その不安感を埋めようとして、自分以外の人や物に対する執着が強くなってしまうのです。

老子が「聖人」と呼ぶ人たちは、身の丈を知って必要以上に求めない人。ということは、すなわち、自分自身を愛しているということになりますよね? 自分を愛せているから、心に飢えがない。だから、欲望に支配されるということもないですし、他人に対する執着もありません。

曲解かもしれませんが、他者への締め付けが強い人は、他人に執着することで自分の心の不安や不足感を埋めているのではないでしょうか?

まずは、自分の心を大切に。

自分自身を愛することから始めてみましょう。そうすれば、うまくいかない人間関係にも変化が表れるはずです。

30 良心に従って生きる

善人は損をする?

学校でも職場でも、掃除を率先して真面目にやる人もいれば手抜きをしたりサボったりする人もいますよね。

家庭でのゴミ出しも、真面目に分別して出す人もいれば、「面倒だから」と色んな物をゴチャ混ぜで出す人もいます。

真面目にやっている人から見れば、「自分はちゃんとやっているのに…。ちゃんとやらない人はズルい」と思えるかもしれません。こんな状況は不平等だ!と、憤りを感じる方も…。

いずれも、言い換えれば「道徳(良心)」の問題。一見、良心に従って行動した人は損をしているように見えるかもしれませんが、決してそうではありません。良心に従って行動する人間と、良心に従わない人間。老子によれば、「天はしっかりと見ています」

いますぐには両者の人生にはなんら違いが表れないかもしれませんが、長い目で見れば、必ずプラマイゼロになるようにできているもの。良心に従わない生き方をしていると、そのツケは必ずやどこかで現れるものです。

老子は、「道徳(良心)に従って正しく求める物は与えられる」という意味の言葉を残しています。これを逆に解釈すれば、「良心に従った生き方をしていないと、何も与えられない」ということですよね?

善人も悪人も平等なの?

   「道者萬物之奧。

   善人之寳、不善人之所保。
   美言可以市、尊行可以加人。
   人之不善、何棄之有。
   故立天子、置三公、
   雖有拱璧以先駟馬、
   不如坐進此道。
   古之所以貴此道者何。
   不曰求以得、有罪以免耶。
   故爲天下貴。」

   (道は万物の奥。
   善人のたから、不善人の保んぜらるる所なり。
   美言は以て市るべく、尊行は以て人に加ふべし。 
   人の不善なる者、何の棄つること之有らん。
   故に天子を立て三公を置くに、
   拱璧の以て駟馬に先つ有りと雖も、
   坐して此の道を進むるに如かず。
   古の此の道を貴ぶ所以の者は何ぞ。
   以て求むれば得、罪有るも以て免ると曰はずや。
   故に天下の貴と為る。)

道とは万物の奥義である。善人が大切にする宝であり、悪人が生活出来るのも道が存在するおかげ。綺麗事を言って尊敬を得る者もいれば、良い行動をわざと見せることによって人々に影響を与える者もいる。ある人間が悪人だからと言って、どうして見捨てることが出来ようか。

だから、天子が即位したり、三大臣(行政・軍事・司法)を任命する際、宝物を満載した四頭立ての馬車を献上することがあるが、(そんな事をするよりも)低くひざまずいて「道」を守るように進言したほうが良いのだ。

大昔の人々が道を大切に守った理由はなぜか? それは道に従って正しく求める物は与えられ、もし自分に罪があったとしても、徳に従って生きれば許されると昔から言われているからだ。だから道は、この世で最も貴いものなのである。

…ここで言う「道」とは、「道徳」=人間の良心と考えるとわかりやすいでしょう。(「万物の根源」と考えるとちょとわかりにくいので…)要するに、この世は道徳(人間の良心)によって生かされていて善人であろうが悪人であろうが、それは変わらないということなんです。

これだけ聞くと、良心に従った生き方をしている「善人」は損をすることになるのでは!?と思われるかもしれませんが…

自分の良心に照らして見よ

人間の良心に関するところでいうと、老子はまた、次のような言葉も残しています。

   「天道無親、常與善人」
   (天道は親なし、常に善人に与す)

これは、天界のやり方は完全に公平であって、だからこそ天は常に善人にえこひいきをする…という意味。つまり、最終的には良心に従った生き方をしている「善人」の味方をするものだから、誰かが見ていようがいまいが良心に従った行動をすることが大事なんだよ、という教えです。

二つの言葉を総合して解釈すると、道徳(良心)に従った生き方をしていれば、天は必ず見ていてくれる! だから、「マズイ!」と思うことがあるなら悔い改めて、自身の良心に従って生きるのがよろしい。…そんな意味でしょうか。

誰でも、良心がグラつくことあるでしょうし、「人生の最初から最後まで100%善人!」でいられる人は稀でしょう。言ってみれば、常に自分の良心との勝負を続けていかなければいけないということ。

ともすれば人は、他人の行いにばかり気を取られてしまいがちなもの。ですが、本当に厳しく見つめるべきは、自分の良心なのです。

31 味気ないものこそ、栄養バツグン!

味気ないものにも目を向けよ

老子の思想を理解する上で避けて通れないのが、「道」という概念。便宜上、「万物の根源」とか「真理」と訳されることが多いものの、実はそれも正解であって正解ではない…! そもそも老子の言う「道」とは形すらないものであり、非常に抽象的な概念。それを、老子が意図した通りに理解できる人は少ないのではないでしょうか。

老子に言わせると、道とは「つまらなくて味気ないもの」であり、人々を興奮させるような華やかさもないもの。…と言われてもちょっとイメージしにくいでしょうから、わかりやすい例を挙げましょう。

例えば、ここに数冊の本があるとします。グルメ、音楽、ファッション、旅行、温泉、芸能、アダルト。いろんなジャンルのものの中に、ポツンと東洋哲学の本を混ぜておきます。「さあ!興味にある本を選んでください」と言われた時、哲学書を選ぶ人はどれだけいるでしょうか? おそらく、大多数の方は

「なんだか難しそう」「哲学って理屈っぽいし」

…と、もっときらびやかで華やかでわかりやすい雑誌を選ぶのではないでしょうか。確かに、音楽や食事、洋服…どれも、私たちを楽しませてくれるものばかりです。しかし、それはごく一時のこと。楽しい時間が過ぎた後の、「なんだかむなしい」孤独感をどうすれば良いのか…。

「また新しい楽しみを探せば良いじゃん!」と思われるかもしれませんが、常に「何か物足りない」とう気持ちを抱えていきることは「心の平穏が保たれている」と言えるのでしょうか?

そこで老子は、あえて「味気ないもの」に目を向けなさいと教えているのです。

「道」を心に持って生きる

華やかで楽しいことばかり追い求め続ける人生。一見、幸せそうに見えますが、その反面、 「常に何か足りない」という物足りなさを抱えて生きることになります。

その「何か」は、どのようなものなのか?

老子曰く、それこそが物事の真理=「道」なのです。

   「執大象。天下往。往而不害。安平大。
   楽與餌。過客止。道之出口。淡乎其無味。
   視之不足見。聽之不足聞。用之不可既。」

   (大象を執れば、天下往く。往きて害あらず、安平太なり。
   楽と餌とは、過客も止まる。
   道の言に出だすは、淡乎としてそれ味わい無し。
   これを視るも見るに足らず。これを聴くも聞くに足らず。
   これを用いて既すべからず。)

大いなる道をしっかり心得ている人は、どこに行こうとも害に遭うことがない。心も平穏で大安心である。美しい音楽と美味しそうな食事には、旅人でさえも足を止めす。しかし、道行く人に「道」を言葉で呼び掛けても、つまらなくて味気無いので誰も足を止めず、通り過ぎてしまう。

このように「道」というものは、見ようとしても見えず、聞こうとしても聞こえないものである。しかし、道を心に持って生きれば、無限の働きをしてくれるものである。

「道」は私たちの中にある

老子の言葉はどれも、私たちに

   「本当に大切なものは何か?」

というクエスチョンを突き付けてきます。

美しい音楽や美味しいそうな食事があれば、それで満足ですか? 今まで素通りしてきた“味気ないもの”の中にこそ、あなたが本当に求めているものがあるハズ…。

勘違いして欲しくないことは、老子はなにも、「哲学を勉強しなさい」と教え諭していたわけではないということです。老子の言う「道」とは、この世界の真理であり、大自然の中や私たちの心の中にあるもの。(「良心」と言う人もいます)「これが道だ」とは決して断言できないものですから、ひょっとしたら、人によって全くことなるものなのかもしれません。

では、その「道」を得るにはどうすれば良いのか? まずは、自分の心の声を聴くことです。 TV、雑誌、ネット…あらゆる情報に囲まれている私たちは、自分の一生を左右する決断の場面でさえも、その答えを外から入ってきた情報にゆだねてしまうことがあります。そうではなくて、全ての情報をシャットアウトして、自分の中に入り込むのです。

見聞きした情報によって植え付けられた価値観や先入観からフリーになった時、自分の心には何が浮かんでくるのか? 自分は、本当はどうしたいのか? そこで見えてくる“ありのままの声”こそが、その人にとっての「道」なのかもしれません。「道」とは、他人の中に求めたところで見えてくるものではないのです。