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続折々の記 2018⑩
【心に浮かぶよしなしごと】

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                    西欧と東洋の宗教の相違
                    眼横鼻直 道元が伝えたもの
                    雑所感 (灯台守・道教と親子・文化と諸行無常の相)

【 04 】10/06~

 10 06 (土) 西欧と東洋の宗教の相違     仏教に通ずるプラスワン

キリスト教やイスラム教が求めている教義は、個人の心がけ個人の道義律であろうと理解しています。 仏教においても、人対人という社会的存在としての教義を持ちそれを規範とし道義律としています。

西欧及び中近東の宗教と東アジアの宗教の違いは、大雑把に言ってどんなことがあるのでしょうか。 そのことを長いこと考えてきました。 人対人が平等だという意識の持ち方において大きな特徴は、キリスト教もイスラム教も神の存在を想定して教義を組み立て人対人の平等を意識していますが、仏教では神の存在という概念を取り入れていません。 これは基本的な違いで、違いがあるとすればここに端を発しているように思うこととなりました。

西欧及び中近東の人々は、神の予言に従って人と人の社会的存在としての道義の在り方を信奉し、そのためには闘争すら認容してきました。

一方、『蜘蛛の糸』を読んでもわかるように、対人関係のみならず動ショク物にしても仏教においては『命』を大事にすることを根底としています。 自分自身への内観がプラスされているのです。 というより、シッタルタの第一歩の意識は始まったのは内観からでした。

自己存在の認識という、その第一歩が違っています。

自己存在の認識から言えば、認識の優劣にこだわることはなく、自他存在の根底においては <生きものはみな互いに手を取合って仲良く生きる> そのことが出来なくてはならないのです。 それができて個人としても、自己存在の悦楽が共有されるのだと思います。

社会生活一切がそこを基盤として伸びてゆくことが、世界の平安を生み出すことになるのだろうと思います。

『キリスト教やイスラム教の考え方』 『プラスワン』 それを大事に考えていきたいものです。

 10 06 (土) 眼横鼻直     道元が伝えたもの

 いつ私はこの言葉を知ったのだろうか。多分空海を調べていて知ったことだろう。

 改めてURLを調べてみると沢山のページが出ている。眼横鼻直についてのいきさつは直ぐにわかった。

 そのうちの一つ、大雄寺住職倉澤良裕さんのページの一節が次のようなものである。


 今から750余年前曹洞宗開祖道元禅師は、24歳の時中国に留学し、天童寺如浄禅師に学ばれ、28歳で帰国。帰国後の第一声が「空手還郷」クウシュゲンキョウ、「眼横鼻直」ガンノウビチョクというものでした。


 引用したページには三つ(大雄寺住職倉澤良裕・なるほど法話海潮音・甲州光沢山青松院)のデータを載せたのだが、「そのまま仏さま」という道元の基本感覚の説明は出てこない。

道元禅師からのメッセージを見ていると、その感覚が推察できそうです。


 1 無常ならざるもの  観無常心(かんむじょうしん)

  生まれたものは死に
  会ったものは別れ
  持ったものは失い
  作ったものはこわれます
  時は矢のように去っていきます
  すべてが「無常」です
  この世において
  無常ならざるものはあるでしょうか

 2 どう生きるか 随処作主(ずいしょさしゅ)

  生まれて死ぬ一度の人生を
  どう生きるか
  それが仏法の根本問題です

  長生きすることが幸せでしょうか
  そうでもありません
  短命で死ぬのが不幸でしょうか
  そうでもありません
  問題はどう生きるかなのです

 3 人生に定年はない 安身立命(あんじんりゅうみょう)

  人生に定年はありません
  老後も 余生も ないのです
  死を迎える その一瞬までは
  人生の現役です

  人生の現役とは
  自らの人生を悔いなく生き切る人のことです
  そこには「老い」や「死」への恐れはなく
  「尊く美しい老い」と「安らかな死」があるばかりです

 4 ひとの価値 無価大宝(むげたいほう)

  ひとの価値は
  地位・財産・職業に関係ありません
  知識・能力だけでひとを評価すると
  過ちを招きます
  知識を生かす心と行いこそ大切です
  ひとの価値は心と行いから生ずるのです

 5 最初の一歩 発菩提心(ほつぼだいしん)

  何ごとにおいても
  最初の一歩をまちがえると
  とんでもない方向へ行ってしまいます
  仏道の修行は
  自分が救われるためではなく
  世のため人のためにつくすことです

  この誓願から
  最初の一歩を踏み出しましょう

 6 はきものをそろえる 脚下照顧(きゃっかしょうこ)

  はきものをそろえると心もそろう
  心がそろうと はきものもそろう
  ぬぐときに そろえておくと
  はくときに 心がみだれない
  だれかが みだしておいたら
  だまって そろえておいてあげよう
  そうすればきっと 世界中の人の心も
  そろうでしょう

 7 正しい宗教 回心向大(えしんこうだい)

  自分の宗教を信ずるあまり
  他の宗教をそしり
  果ては憎しみ争うほど愚かなことがあるでしょうか
  正しい宗教は
  いつの時代にも
  人々を照らし 平和な生き方へと導くものなのです

  宗教者同士が刃をぬいて争うことがあってはなりません

 8 修せざれば現われず 修証一等(しゅしょういっとう)

  「知る」ということと
  「わかる」ことはちがうのです
  知っていても
  実行されなければわかったことにはなりません

  薬の効能書を読んだだけでは
  病気は治りません
  禅も実行してはじめてわかることなのです

 9 仏心のめざめ 度衆生心(どしゅじょうしん)

  仏心とは
  自分のことはさておいても
   世のため人のために
  つくそうという心に他なりません

  自分を中心とするから苦しむのです
  仏心にめざめれば
  苦労も生き甲斐に変わるのです

 10 大自然のめぐみ 青山緑水(せいざんりょくすい)

  米も野菜もいのちです
  肉も魚もいのちです
  これらのいのちのおかげで
  私たちのいのちも生かされています

  「いただきます」 「ごちそうさま」
  尊いいのちに感謝して食事をいただきましょう

 11 仏教の戒め 諸悪莫作(しょあくまくさ)

  生きものを殺さないとみずからに誓います
  与えられないものをむさぼり取らないとみずからに誓います
  欲するままにみだらな行いをしないとみずからに誓います
  嘘をつかないとみずからに誓います
  無明なる酒を飲まないとみずからに誓います


 12 足ることを知る心 少欲知足(しょうよくちそく)

  貧しいことが善でもありません
  豊かなことが悪でもありません
  貧富にかかわらず 貪欲の心がおこるとき
  人は美しい心を失います
  仏心とは 足ることを知る心のことです

 13 仏道の祈り 直下承当(じきげじょうとう)

  奇跡が起こることを望んだり
  超能力を得ることを祈ったり
  事業の利益を祈願する宗教もありますが
  仏教は 世を導き人を助けることを願う宗教です
  仏道の祈りは 親がわが子を思う祈りと同じなのです

 14 仏法は坐禅 還家穏坐(げんけおんざ)

  仏法は坐禅です
  坐禅はお釈迦さまのお悟りの姿です
  身を正し 息を整え 静かに坐る
  あなたも坐ってみませんか

 15 美しい地球よ永遠に 清風明月(せいふうめいげつ)

  満天の星が輝く地球よ!
  母なる太陽を慕いつつ 今日も銀河空間を渡る美しい地球よ!
  地球は青い一顆の明珠・・・・・・・
  一千一万一億一兆年 無量百千万億阿僧祇劫∞
  美しい地球よ永遠に!

 16 十方三世一切仏  弘法救生(ぐほうぐしょう)

  十方三世一切仏。じー ほー さん しーいーしーふー
  諸尊菩薩摩訶薩。しー そん ぶーさーもーこーさー
  摩訶般若波羅蜜。もー こー ほーじゃ ほーろーみー


雑所感  灯台守・道教と親子伝承・文化と諸行無常の相

灯台守

いろいろの人たちの教えを受けて、どうかしたらいいかを思うとき、この歌が無償に胸に浮かび日迫るのです。

喜びも悲しみも幾歳月
     二木紘三のうた物語より
     http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_5bce.html

  1 俺(おい)ら岬の 灯台守は
     妻と二人で 沖行く船の
     無事を祈って 灯(ひ)をかざす
     灯をかざす

  2 冬が来たぞと 海鳥なけば
     北は雪国 吹雪の夜の
     沖に霧笛が 呼びかける
     呼びかける

  3 離れ小島に 南の風が
     吹けば春来る 花の香(か)便り
     遠い故里 思い出す
     思い出す

  4 朝に夕(ゆうべ)に 入船出船
     妻よがんばれ 涙をぬぐえ
     もえてきらめく 夏の海
     夏の海

  5 星を数えて 波の音(ね)きいて
     共に過ごした 幾歳月(いくとしつき)の
     よろこび悲しみ 目に浮かぶ
     目に浮かぶ

《蛇足》(二木紘三) 昭和32年(1957)に制作された『喜びも悲しみも幾歳月』は、実在の灯台守の妻・田中キヨの手記に基づいて作られたものです。灯台守の夫婦を佐田啓二と高峰秀子が演じました。
 夫婦は、昭和7年(1932)の神奈川県観音崎灯台から始まって、北海道から九州まで各地の灯台を転勤して回ります。その間に家族が味わった哀歓や同僚たちとの交流がテーマになっています。

(寄稿の一つ)
この歌を聴く時、佐田啓二・高峰秀子主演の最初の映画を思い出します。子供ができた時の喜び、息子を亡くした時の悲しみが特に印象的でした。
しかし、その頃、私は生意気な高校1年生だったので、親の情愛の深さというものがよく分かりませんでした。自分が親になって初めて理解できるようです。
この歌を聴く時、イギリス民謡「灯台守」の歌詞を思い出します。「思えよ灯台 守る人の 尊きやさしき 愛の心」は、まさにこの夫婦の心なのでしょう。
映画の最後の方で、遠く海外に赴任する娘夫妻が乗った船に、老夫婦が灯台の灯をともし霧笛を鳴らすところは特に感動的でした。
それにしても、この映画や「二十四の瞳」といった、名もなく貧しく美しい人たちの物語が、銀幕からほとんど消えかかっているのは寂しいものです。
                       投稿: 矢嶋武弘
続いて次の歌もグッときます。

「灯台守」イギリス民謡から
     http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_d15e.html

  1 こおれる月かげ 空にさえて
     ま冬のあら波 寄する小島(おじま)
     思えよ灯台 守る人の
     尊きやさしき 愛の心

  2 はげしき雨風 北の海に
     山なす荒波 たけりくるう
     その夜も灯台 守る人の
     尊きまことよ 海を照らす

老夫婦となってみると、この歌もそうだが、次の言葉はわが身を顧みるのに限りがない。

道教と親子の伝承

孝経 古代中国の書物 開宗明義章第一
   身體髮膚、受之父母。  身体髪膚はっぷ、之を父母に受く。
   不敢毀傷、孝之始也。  敢えて毀傷きしょうせざるは、孝の始めなり。


身體髮膚の句はいつ誰から耳にしたのか、とにかく小さい時から聞いた句です。 「孝行をしたい時分に親はなし」とか、「(さればとて)石に布団は着せられず」という。 恩に報いることはすでに過ぎ、恩義は子供や孫の幸せを願う心にかえたい。

将に親がそうであったことは骨身にしみています。 親がわが子の養育に力を注いだように、子が親になれば、親のようになれるかどうかが課題なのです。 わが子が親になったらどうするか、爺や婆は孫子の成長を願うほかはない。

それが親心のすがたに違いない。 ボケてきても仕方あるまい。 けれども大事なことは黙って持っていなければなるまい。

古老の教えは今では懐かしい。 自分が間違っていたことは、振り子のように右に振れ左に振れて数限りもない。 ただ只管ひたすらにお許しを願うしかない。 合掌しかないのだ、寂しさはひとしおとなる。 90代となれば、一休さんの歌「正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」の心情も分らぬでもない。

文化と諸行無常のすがた

自分と花や木を、同列のいのちととらえるとき、その生滅の相を文化という断面としてとらえてみると、文化には有形無形の区別があったり精神文化とか物質文化とかあるにせよ、これもまた諸行無常の相として帰納できることとなる。

人が声を出してうたう音楽も、ノミをふるって刻んだ彫刻も、調べものに極めて重宝するパソコンも、時の窯に入れて300年も煮つめるとほとんど人の記憶には残らない。 無常の相である。

時の窯に入れて1000年も経過すると、全く人の頭に浮かぶものはなくなる。 無常の相である。