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続折々の記 2018⑩
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                    老子の思想 (その二)11~20

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 10 04 (木) 老子の思想     (その二)

11 老子が説く!理想のリーダー論
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理想のリーダーってどんな人?

国家であれ企業であれ、どんな人をリーダーに据えるかが“組織”のあり方を左右すると言っても過言ではないでしょう。

自らの権力を振りかざし、有無を言わせず部下を従わせるいわゆる“ワンマン”タイプのリーダーもいれば、どっちが上司なのかわからないような腰の低いリーダーもいます。最近は、モラルの低さから「ハラスメント」で訴えられる上司も増えていますが…。

老子によれば、リーダーとして最悪なのは部下にバカにされる人。次に好ましくないのは、周りから恐れられるリーダー。3番目は、親しまれて敬愛されるリーダー。

そして、最も理想的なのは、自分の存在を意識させないリーダー。

普通に考えると、周りから愛されるリーダーが理想的のように思われますが、そこは切れ味鋭い老子の哲学! 自分の功績はおろか、存在すら大げさに意識させることなく、組織を自然により良い方向に導くことがリーダーの本来の役割だと言うのです。

確かに、人間には承認欲や名誉欲がありますから、それらが邪魔して、ついつい「オレのおかげで」と自分の力をアピールしたくなってしまうもの。素知らぬ顔で部下のために行動するというのは、頭で理解するよりもずっと難しいことではないでしょうか。

“存在感”だけがあれば良い!

  「大上下知有之」
  (大上は下これ有るを知るのみ)

最上の君主というのは、人がみなその人がいることを知っているだけだ。…つまり、「ああ、そういえばそういう人がいたよね」と、“存在”だけが部下に意識されているようなリーダーが理想的だということ。そこには、「怖い」とか「親しみやすい」とか「ダメなやつだ」とか、個人的な評価は何も伴いません。それだけ、ニュートラルな存在であるということが理想だ、と、老子は言うのです。

老子によれば、真のリーダーには、巧みな話術も小賢しさも権力も要りません。ただ、国民(部下)の幸せために自分が為すべきことをし、それがあくまでも「自然にそうなった」かのように思わせること。

わかりやすく言えば、国民が「○○首相のおかげで生活がラクになった」と思っているようであれば、それはまだまだ理想のリーダーとは言えないわけです。「なんかよくわかんないけど、最近、暮らしやすくなったよね」…と思わせるくらい自然に世の中を良い方向に変えられる。それが、“老子的”理想のリーダーのあり方というわけです。

干渉しすぎは NG×

老子流“リーダー論”とも言える言葉はいくつかありますが、中でも老子思想の根幹に近いと言えるのが次の言葉。

  「道常無為、而無不為」
  (道は常に無為にして、而も為さざるは無し)

道は常になにごともなさないが、それでいて全てを成し遂げている。…“道”とは、『老子』の中にも繰り返し登場するワードで、「この世の万物の根源」を意味するもの。「からっぽなところから、次々と新しいものを生み出すことができる」と、記されています。

上記の言葉は、この“道”とリーダーを掛けたもので、「リーダーは、あえてわざとらしい振る舞いをせず、”道“に全てをゆだねていれば組織はおのずと良い方向に変化する」ということを意味しています。

余計なことをせず、自然にまかせる=「無為」と、本当に何もしないこととの線引きが難しいですが…。

少なくとも、部下に良いところを見せようとして空回りしてかえって信頼を失うリーダーの対極にあることだけは明らかですよね。

12 老子が「おしゃべり」を禁じたワケ

静かなのが自然な姿

家族や友達と話していて、話したくない、あまり触れて欲しくない話題になると無理にでも話題を変えようとして不自然に口数が多くなる…。そんな経験はないでしょうか?

おしゃべりになってしまう背景には、言い訳や自慢、嘘が潜んでいます。だから、「不誠実なおしゃべりは控えるように」と、老子は繰り返し戒めているのです。

  「希言自然。故ひょう風不終朝、驟雨不終日」
  (希言は自然なり。故にひょう風も朝を終えず、驟雨も日を終えず)

寡黙であることが自然の姿である。だから暴風も朝まで吹き荒れることはなく、豪雨も一日中降り続くことはない。

…おしゃべりと天気を掛けた、上記の言葉。もっとも、近年は、地球温暖化による影響で一日中雨が降り続くというケースも珍しくはないわけですが…。

天地でさえ、暴風や強い雨は長く続かないのだから、美辞麗句を並べて賢く立ち回ろうとしてもうまくいくわけがないよ、という老子なりの忠告です。

おしゃべりは信頼を失う?

『老子』には、とにかく「おしゃべり」を戒める言葉が多く記されています。「信足らざれば、信ぜられざること有り」も、その一つ。「不誠実なおしゃべりばかりしていると、人の信用を失うぞ」というメッセージです。

確かに、プライベートでもビジネスでも、「あの人、口だけは達者なんだけど手が動かないんだよな」…という残念な人、いませんか? 本人にはそんな気はないのかもしれませんが、傍から見ると“知識をひけらかしたい人”“スゴイって誉めてほしい人”…と捉えられてしまうことがあります。

老子の言うように、人から信頼されたいと思うのであれば美辞麗句や知識を並べるのではなく「希言」=おしゃべりでないことを目指してみてはいかがでしょうか。

巧言令色鮮なし仁

口数が少なく寡黙な姿こそが自然なあり方である。そう教えていた老子の、“おしゃべり”に関するもう一つのメッセージ。それは、「巧言令色鮮なし仁」です。

これは、「口先のうまい者や見せかけばかりの者にロクな奴はいない」という意味。老子は、誰かに言葉巧みにだまされたことでもあったのでしょうか? そんな野暮な推測をしてしまうほど、言葉巧みな人を嫌っていた様子がうかがえますよね。

しかし、老子の言うことも一理あります。みなさんにも経験はありませんか? 真実や本音を語ろうとするとき、人は言葉を選ぶものです。場合によっては、その言葉を裏付けるデータを集めて肉付けすることさえあるかもしれません。

逆に、その場を取り繕おうとする時は、“形だけ”のもっともらしい言葉がいくらでもあふれてくる…。データも根拠もいらない、単語の羅列です。

  「自分はしゃべり過ぎてはいないだろうか」
  「自分の言葉に“心”はあるだろうか」
  「自分は言葉に“真実”を込めることができているだろうか」

…と、時には自分を振り返ってみることも大切です。セールスなどの仕事をしている人は、その振り返りがきっかけで業績にも変化が表れることもあるハズ。

もし“実”のないおしゃべりが過ぎているようなら要注意! 老子の戒めを思い出し、単なる「口だけの人」に成り下がらないように…。

13 老子の思想は儒家への批判?

儒家とは?

「儒家思想」という言葉をよく耳にしますが、「儒家」=中国の哲学者?というところまではわかっていても、そもそもそれがどのような思想なのか説明できる方は少ないのではないでしょうか。

いわゆる「儒家」の代表格ともいえるのが、孔子(紀元前552~479年)。儒教の開祖と呼ばれている人物です。「儒家思想」の特徴をざっくりと一言で表すと、「仁・義・礼を重んじることが社会を安定させる」という考え方。どういうことかとういうと、「血族的な関係や主従関係を重んじることが安定した社会をつくることにつながる」という考え方です。両親や先生に対する感謝や尊敬の気持ちを大切にし、それを「礼」として表すことを重んじていました。

また、“学ぶこと”の大切さを説いた点儒家の特徴。人は学びによって自分自身を向上させることができ、結果的にはそれが、家を・国を・天下を発展させていくことにつながる…。だからこそ、儒家思想では「人は常に学び続けることが大事だ」と教えていたのです。

このような儒家思想に対して、真っ向から異を唱えていたのが我らが老子です!

老子と儒家の決定的な思想の違いは

まず老子は、儒家思想の最大の特徴である「礼」に噛みつきました。

朝・晩に顔色をうかがい、食事の世話をする。(現代の日本であれば)盆・正月に実家に帰って両親の様子を伺う。…これらの行動は全て、非常に「形式的」なこと。一見、とても「親孝行」に見えますが、そこに感謝や、相手を思いやる真心がなければなんの意味もありません。

老子曰く、儒家がそのような形式的な“礼”を重んじるのは「世の中が乱れている」という証拠。 「人々が心を失ってしまっている」ことに他ならない…と。心から感謝する気持ちがなくなってしまったから、それを補うために“形式的な礼”が必要になったのだ、と。

確かに、定まった形式に倣って行動しているだけでは、相手に対して感謝も真心も伝わりません。 本当は面倒くさくて帰省なんてしたくはないのに、「お盆だから」」「正月だから」と、ラッシュのさなかに人混みに揉まれて帰省する…そこになんの意味があるのでしょうか? 単にエネルギーを消耗するだけではありませんか!?

そんな行動は、孝行でもなんでもない! 確かに、老子の言う通りですよね。

理想の政治は「なにもしないこと」?

さらに老子は、「学んで知識を身に着けること」を推奨する儒家思想に対しても異を唱えていたことで知られています。

むしろ老子は、「知識は少ないほうが良い」と教えていました。(これは、国を治める政治家に向けてのメッセージですので、私たちのような一般庶民に当てはめるとちょっと議論がズレてしまうかもしれませんが) 老子は、「国を治めるリーダーが余計なことをすればするほど国はうまく治まらなくなる」と考えていたようで、「国を治める者はなにもしないのが望ましい」と説いていたのです。

何もしないのに(…というよりは、一見「何もしていないように見えるのに」が正解ですが) その国はうまく治まっている。みんなHappyだよ♪…というのが老子の理想。

ことさらに「自分がこんな政治をしたおかげで国民がこんなに幸せになったんだぜ」と実力をひけらかすのは本当の政治家とは言えないと、老子は考えていたのです。

余計な知識に頼り過ぎず、あるがまま、「自然」の教えに従って生きよ。万物の根源である”道”に従った政治をすれば、国は安らかに治まる。

…このような老子の思想は、儒家とは正反対の考え方。「儒家思想と並ぶ中国の二大思想」として、今なお生き続ける所以なのです。

14 個性を生かせるリーダーこそ本物!

適材適所を実現するのが真のリーダー!

誰にでも“個性”というものがあり、1人1人、持ち味が違いますよね。これはもう、言うまでもないことです。

しかし、その個性をどこまで生かせるか? 十二分に生かして社会的に活躍できる人もいれば、残念ながら個性を生かしきれず、「宝の持ち腐れ」状態のままで一生を終える人もいますよね。

その命運を分けるのは…、“環境”と“人との巡り合わせ”と言っても過言ではないでしょう。とりわけ、会社などの組織においては、個性を生かすも殺すも、「どのようなリーダーの元に配置されるか」に左右されてしまう面があります。

  「聖人常善救人、故無棄人」
  (聖人は常に善く人を救う、故に人を棄つること無し)

聖人は常に人を救うことにすぐれ、人々を決して見捨てない。…老子のこの言葉にも表れているように、よきリーダーはどんな人間の個性も上手に生かすもの。それぞれの個性をつぶしてしまうことなく、適した持ち場を与えるものです。まさに、「適材適所」ですね。

優れた人は、言葉で人を傷つけない

さらに老子は、「善く言うものは瑕?なし」という言葉で、「優れたリーダーの発言は人を傷つけない」とも教えています。一人ひとりの個性を生かし、キツイ言葉で部下を傷つけたりしない。…まさに理想の上司像ですね!

実際は…といえば、みなさんも周りを見回してみてください。どうしても、要領の良い人、いわゆる“仕事がデキる人”のところに仕事は集中しがちですよね。あからさまに態度に出すと「パワハラ」になってしまいますが、やはり上司だって生身の人間。「使える部下」にはそれだけ期待して目をかけるでしょうし、逆に、実力がイマイチ「使えない部下」は扱いがぞんざいになりがちです。

また、いくら管理職とはいえイライラすれば口調もキツクなりますし自分の管理不行き届きだとわかっていても、部下がミスをすれば罵りたくもなるでしょう。

老子の言うような理想的な指導の在り方を実現するには、よほど強い“自制力”がなければ難しいのです。

優れた人は“跡”を残さない

老子はまた、「善く行くものは瑕?なし」という言葉も残しています。これは、「優れた人は、自分が通った“跡”を残さない」ということ。たとえ大きな成功を収めたとしても、それを「自分がやった」「自分の功績だ」…などと声高にアピールすることはないよ、というのです。

どんなに出来の悪い部下であっても「何かしら役に立つ個性を見つけ」、その個性を生かし、それによって部下を救い上げ、さらには大きな成功を収めたとしてもそれを自分の功績とはしない。…これが、老子の言う「リーダーの理想像」というわけですね。

確かに、考えてみれば、リーダーの仕事は「人の個性を生かして、それを組織の業績に結び付ける」こと。決して、「自分が、自分が!」としゃしゃり出ることではありませんよね。

あくまでも、リーダーは“裏方”。何事にもわざとらしい形をとらず、自然にさりげなくスマートに対処する。部下には、「ただ、そこにいる」という存在だけを感じさせることができれば…それで十分なのです。

「俺ってスゴイだろう」アピールが過ぎる上司も多いと思いますが、さて、みなさんの上司はどうでしょうか?

15 笑われても「道」を貫く老子の覚悟

笑いたいやつには笑わせておけば良い

どんな世界でも、誰かが理想を説くと「そんなの理想論じゃん!」「そんなのできるわけないよ」…と全否定したり、一笑に付すタイプの人っていますよね。

否定された時にはムッとしたり、嫌~な気分になったりしますが…。大きな視点で考えてみると、全ての人に受け入れられるよりも否定的な人、小ばかにして笑う人がいるくらいのほうがありがたいのかもしれません。

それだけ、そのアイデアがブラッシュアップされることにもつながりますからね。最初から万人に受け入れられてしまっては、そのアイデア自体、それ以上の発展が止まってしまうことにもなり兼ねません。笑う人がいる、ということは、それだけその案に“伸びしろ”があるということなのでしょう。

老子もまた、自らが説いた「道」の思想について、「笑う人がいるくらいでちょうど良い。笑われるくらいがいいのだ」と言っています。

笑われるくらいでちょうど良い

  「下士聞道、大笑之。不笑不足持為道」
  (下士は道を聞いては、大いにこれを笑う。笑わざれば、以て道と為すに足らず)

つまらない人間は「道」の話を聞くと大笑いする。笑われないようなものは「道」とする価値がない。…老子曰く、「優れた人は、道の話を聞くとすぐに実行しようとする。普通の人は、半信半疑で聞いている。つまらない人間は、ばかにして大笑いする」

しかし、老子は、自分の思想を笑う人間がいるという現実を否定的に捉えていたわけではありません。そもそも、「道」の概念が非常にわかりにくく理解されにくいものであることは十分に自覚していたようですし、全ての人にわかってもらおうとも思っていなかったご様子。

「自分の生き方についてまともに考えたこともないようなつまらない人間にすぐに受け入れられるようなものなら、わざわざ“道”を説く必要なんてない」…とまで思っていたようにも伺えますね。

本当に大切なことはいつか分かる

「道」の思想を説いた時、それを聞いた相手がどんな反応をするか。老子は、これでもって、相手の「人としてのレベル」を見極めていたような節もあります。

「なるほど、確かに私たちは大事なことを忘れていますね。形式に捉われ、私利私欲にまみれていきている…。こんなんじゃダメですね。私も“道”に従う努力をします!」

…と前向きにとらえて自ら実践しようとする人間は、「まあ、骨があるじゃないか」というレベル。

「う~ん。なんかよくわからんないけど、言ってることは正しいような? でも、本当にそれって正しいのかな?やっぱりよくわかんないな」

…と、わかったようなわからないような感じで半信半疑な様子で聞いているのは「まあ、普通だよね」というレベル。

そして、

「そんなのただの理想じゃん。道なんてどこにあるんだよ。バッカじゃな~い」

と、笑う人間。これは、「お前こそ、ばかばかしい生き方をしているんじゃないか」というレベルの つまらない人間…。

しかし老子は、自分の思想を笑う人間をバッサリと切りすててしまうほど料簡が狭い人間ではありませんでした。

「まあ、そういう人もいるさ。そういう人だって、いつか、何が本当に大切なことかわかる日が来るだろう。その時、いかに自分がバカバカしい生き方をしていたか気づくさ」

と、温かい目で寛容に受け入れていたよう。

確かに、老子ほどの思想家であっても、自分の考えや価値観を人に押し付けることはできません。さすがは、「価値観の多様性」を説いた思想家ですね!

16 家の中でも真理は悟れる

遠くに行くことだけが全てではない

グローバルな世の中になり、海外へ行くことや海外の学校で学ぶことは別段、珍しいことではなくなってきましたよね。その気になれば、人はどこまでだって遠くへ行けるのです。

そんな世の中にあってさえ、なんとなく、「海外留学する」という響きには独特の「特別感」がありますよね。国内の大学へ進学するよりも、もっと多くのことを学べるような…。

しかし、老子の教えによれば、遠くに行ったからといって必ずしも真理に近づけるとは限りません。 学校どころか、外に一歩も出ずに天下の全てを知ることだってできる! 窓の外を見なくても、天の法則を知ることもできる! …というのです。

余談ですが、数年前に公開された『みなさん、さようなら』という映画は、この老子の教えに通ずるものがあると思います。ネタバレになってしまいますのでストーリーにはあまり詳しく触れませんが…。

概要は、12歳で「この団地から一歩も出ずに暮らしていく!」と決心した青年が、そこで恋をしたり、就職(団地内にあるパン屋)したりしながら、一人、また一人と団地から引っ越していく同級生を見送るというストーリー。

彼は団地から出るための最後の階段を一歩も降りられない状態でありながらも、「団地の中で一生過ごす」という青写真を自分なりにしっかり構築していました。学校に行けずとも、ラジオで英語を学び、自主トレで身体を鍛え、就職も果たす。

結局、最後は親の死をきっかけにして団地の外へ出ていくのですが、彼はあの狭いコミュニティーの中で確かに“人生の真理”をつかみとっていたと思われます。

外へ出ずに全てを知る

  「其出弥遠、其知弥少」
  (その出ずること弥いよ遠ければ、その知ること弥いよ少なし)

出かけていくのが遠くなればなるほど、知ることはますます少なくなっていくものだ。“真理”に近づこうとしてどんどん遠くへ行けばいくほど、知れることは少なくなっていく。

…一見、逆説的にも思えるこの言葉。老子がここに込めたメッセージをストレートに言うと、「外を見る前に、まずは自分自身の内側を見よ」ということです。

さきほどの映画の例にも表れているように、その人の人生にとって何が“真理”なのかは、その人にしか決められないこと。無数にある選択肢から自分の人生の在り方を一つ一つ選び取り、その積み重ねの中にぼんやりと見えてくるものが“真理”なのではないでしょうか。それが「正しいか」「間違っているか」は、他人には判断できないことです。

海外に行けば、確かに、日本では触れることができないような多様な考え方に出会うことができるでしょう。日本にこもっているだけでは出会えないような様々な人種の人々と交流を深めることもできるでしょう。

しかし、日本しか知らないからこそ見えてくる“真理”もあるハズ。「遠くにいかなきゃ」「経験を積まなくちゃ」と焦るよりも、まずは今・ここでできることを積み重ねて自分の内側を充実させることを優先させるべきなのかもしれませんよ。

真理は足元にある?

遠くに行けばいくほど、真理は見えなくなる。

老子のメッセージからもうかがえるように、人生の“真理”に近づきたいと思うのであればまずは自分の内側、そして足元に目を向けることが先でしょう。

例えば、季節の移ろいを知りたいのであれば、わざわざ遠方まで紅葉や桜を見に行かずとも、身近な自然の中にもその変化は表れているものです。

朝夕の空気の感触や散歩道の樹木の色、花壇に咲く花の顔ぶれ…そういったものを見るだけでも季節が確実に動いていることを感じ取ることができるハズ。

老子は、「一歩も外へ出ることなく全てを知り、目で見ることなくすべてをありのままに理解できる人」を指して「道と一体になった聖人」と表現していますが、それほどだいそれたことではなくても、自然の理を知ることは可能です。

今まで見過ごしていて身近な自然に、目を、耳を、心を傾けること。まずはそこから始めてみませんか?

17 老子も嫌った軽々しい約束

軽々しい約束にご注意

頼まれると、どうしても「嫌」とは言えない。断れない…。そんなご自身の性格に辟易しているという方も多いことでしょう。

無理な約束をすれば自分が苦しむだけだとわかっているのに。自分の首を絞めるだけだとわかっているのに。

それでも軽諾してしまうのは、その心のどこかに
  「相手に良く思われたい」
  「相手に嫌われたくない」
  「使えない奴だ、と思われたくない」
そのような気持ちが潜んでいるのではないでしょうか。

確かに、無理なお願いを聞いてもらえると、人は「この人、頼りになるな」「ありがたいな」と思うもの。「コイツ、意外と使えるやつじゃん!」と、見方や評価が180度変わることだってあり得ます。

しかし、もしもその約束を果たせなかったら…。「なんだよ、できるって言ったくせに」「無理なら最初からそう言えよ」と、信用を失うことになってしまいますよね。

老子もまた、軽諾を戒める言葉を残しています。軽諾=軽々しい約束をするのは、そもそも誠実さに欠けているから。実行可能かどうか不確実なことは約束すべきではない、と、老子は教えていたようです。

span style="background-color:YELLOW">安請け合いは信用を失う

  「軽諾必寡信」
  (軽諾は必ず信寡し)

安請け合いは信用を失うものである。…軽諾の弊害は、まさに老子のこの一言に尽きますよね。

相手のために良かれと思って軽々しく交わした約束も、それが果たされなければただの“嘘”。老子に言わせれば、
  「安請け合いをするような人間はそもそも誠実さに欠けているんだ」
  「だから信頼が薄いんだぞ」
…というわけです。

仕事であれプライベートであれ、ついつい「いいですよ」「できますよ」「了解しました」…と軽諾してしまいがちな人にとっては耳の痛い言葉ですよね。

しかし老子の言う通りで、本当に人から信頼されたいと思うのであれば、それが本当に自分にできることかどうかを熟慮してから返事をすべきなのです。

逆に、なんでもかんでも「OKですよ」「わかりました」「まかせてください」…と軽諾(一見、快諾なのですが…)する人との付き合い方には注意が必要とも言えるでしょう。

span style="background-color:YELLOW">誠実さを大切に

老子が、なぜ軽諾を戒めたのか。それは、言うまでもなく「信義」「誠実さ」に欠ける行動だからです。

…ということは、すなわち、老子もまた「信」というものを非常に大切にしていたということに他なりません。それが表れているのが、次の言葉です。

「信足らざれば、すなわち信ぜられざることあり」

誠実さや信義が足りないと、人から信用されなくなるものだ。…逆に言えば、人から信用されたいのであれば誠実さを見せるべき。人に誠実さを示したいのであれば、軽々しい軽諾なんてすべきではないよ…と、前項の言葉につながっていく教えです。

できるかどうかわからない約束をしなければいけない場面に立たされた時は、「その瞬間に、相手の目にどう映るか」ではなく、「自分は本当に相手に誠意を見せることができるかどうか」を先々に起こり得るかもしれないリスクも見越した上で判断するべきです。

ついつい「いいですよ」と軽諾してしまいそうになった時は、老子の言葉を思い出して冷静になりましょう!

18 「常」を知るべし

自然に帰れ

老子思想の中核となる考え方、それは「自然に帰る」ということ。自然に帰る…って、シンプルなことのようでいて、実は非常に難しいことですよね。

しかし、必要以上に複雑に考えることはありません。老子が大事にして欲しいと思っていたのは、 生き物としてのごく自然な感覚。水が一定の方向に流れていくように、私たちもまた、「不変の道=常」に従って生きて行けば良いのです。

お腹が空いたら食べ、眠くなったら眠り、子や親を愛し、命を大切にする。ことさらに自分を大きく見せようと見栄を張ったりせず、知っていること以外は口に出さず…。

一言でいえば、「無理をしない」ということです。例えば、実際よりも背を高く見せようと思って無理して背伸びすると、うまくバランスが取れずに転んでしまったりしますよね?

「痩せて見えるように」とサイズの小さいジーンズを履けば、思うように身動きが取れなくなってしまったり。はたまた、「痩せよう」と思って無理に食事を制限すれば、栄養不足で倒れてしまうかもしれません。

眠いのに、無理をして徹夜して勉強しても、逆に頭が働かずに赤点を取ってしまうことも…。

このような“無理の弊害”は、人生全般について考えられることです。だからこそ、「常の道」に従って生きたほうが良いのだと老子は勧めているわけです。

「常」に戻れ

2013年現在、世の中は、「携帯電話=スマートフォン」と言えるほどスマホ市場が拡大していますが…。その一方で、従来型の携帯電話(ガラケー)のニーズも高まっているのだとか。通話のしやすさ、操作性、バッテリーの持ち時間…スマホと比較して、ガラケーに軍配が上がるポイントも多く、 なにより、そのシンプルさを支持する根強いファンがいるようです。

この現象、次の老子の言葉にも通ずるものがあります。

  「知常日明、不知常、妄作凶」
  (常を知るを明といい、常を知らざれば妄作して凶なり)

不変の道(=常)を知ることを明智といい、これを知らなければでたらめな生き方をして禍いを招いてしまう。…物事の根本(=常)を知らずにでたらめに効率や利便性を追求しても、それは「明知」とは言えません。実はガラケーの段階で、携帯電話としての「根本」は全て出来上がっていたのではないでしょうか? そこからさらなる機能性を追求するあまり、メーカー各社は、顧客のニーズを読み違えていたのでは…?

選べる機種のラインナップすら縮小している昨今、「やっぱりガラケーが一番だ」と、流行りに流されずにガラケーに還っていく。これは、ある意味では「常」を知っている人の賢明な判断と言えるのかもしれません。

本当の意味での「エコ」とは…

スマホVSガラケーの話にもつながることですが、昨今の世の中は「エコ」の意味をはき違えているようです。

  「シンプルな生き方に戻ろう」
  「地球に優しい生活に還ろう」

…一見、老子の「自然も帰れ」「常の道に従え」という言葉に従っているような流れにも見えますが、実際はその逆。エコだなんだと言っても、私たちは車を捨てられません。車で移動する、という利便性を手放す勇気すらないのです。

シンプルに、ありのままに…と言いながら、「どうすればもっと効率よく生きられるだろうか」と、 心が定まらない毎日を送っている。これは、老子に言わせれば、「妄作している」状態。「常の道」に従った生き方には程遠いと言えるでしょう。

「エコ」を叫ぶのならば、その前にまずは自分自身の生活をもう一度根本から見つめなおしてみましょう。案外、その「エコ意識」は、単なる“ポーズ”かもしれませんよ。

19 老子が仁を説いたのはなぜか

大いなる道に従え

老子の代表的な名言に、次の言葉があります。

  「大道廃、有仁義。智慧出、有大偽」
  (大道廃れて仁義あり。智慧出でて大偽あり)

…みなさんも、一度は耳に(あるいは目に)したことがあるフレーズではないでしょうか。これは、「真実の道が衰退して、仁義や正義をことさら強調するようになった。智慧がはびこるようになって、大きな偽りが生まれた」という意味。

やたらに「仁義だ」「正義だ」と“押しつける”人や、自分の知識をひけらかす人への皮肉を込めた言葉だと言われています。

「わざわざ仁義だの正義だのを強調しなければいけないのは、人々の心にそれがない証拠だ。本来は、それが心に備わっているのが自然なカタチ。周りからやいのやいのと強要されなければいけないのは、人としての“真実の道”が失われてしまったからではないか」

…老子はそのように考え、“道”が失われつつある世の中を嘆いていた様子がうかがえますね。

儒家への痛烈な批判

老子の名言、「大道廃れて…」は、実は、孔子をはじめとする儒家思想に対する痛烈な批判だったとも捉えられます。なぜなら、「仁義や正義を強調している」その張本人が、孔子ら“儒家”だったからです。

仁義や孝行、慈愛、忠義…。儒家思想は、そのような形式的なものを重んじていました。ちょっと乱暴な解釈かもしれませんが、「心がこもっていないとしても、形式だけは大切にしよう」と、そんなニュアンスを感じ取ることもできます。

これに噛みついたのが、老子です。大切なのは、心から自然に湧き上がる感謝であり、正義であって、それがないのに形式上だけ取り繕っても意味がない!というわけです。

確かに、わざわざ「仁義だ」「孝行だ」と言葉で教えなければいけないというのは、人間本来の「心」が失われていることの表れなのかもしれません。本来、家族仲がうまくいっていれば親を大切に思う気持ちは自然に湧き上がってくるものでしょう。ことさらに「孝行」を説かなければいけない世の中は、人々が大事なものを失っている証拠なのでは…。

同様に、国家(や組織)が安定していればわざわざ仁義だの忠義だのを教え説く必要はないハズです。

思考や分別を超えた次元のもの

老子曰く、仁義だの忠義だの孝行だの…と、上っ面な道徳観や価値観の押しつけが始まったのは、人々が「道」を忘れてしまったからなのではないか、と。

「道=この世界の万物の根源、自然の摂理」は、人間の思考や分別をはるかに超えた、別の次元のものです。この「道」を忘れていなければ、仁義や慈愛、忠義、孝行といったものは、わざわざ他人から押し付けられなくても自分の中から自然に湧き上がってくるはずなのです。

それがないということは、人々が“道”を見失っている証拠。だから、大きな嘘や偽りがはびこるのだと、老子は危惧しているわけです。

次々に新しい手口の詐欺事件が発生し、大金をだまし取られる人も少なくない現代社会もまた、人々が「道」を見失っている状態なのかもしれませんね。

もっとも、政治家が大嘘をついて週刊誌を賑わわせるのが日常茶飯事になっている世の中ですから、人を導く立場である人がそんな状態であるなら、なおさら世の中に嘘・偽りがはびこるわけですね。

20 老子の「道」と「ロゴス」

「ロゴス」って何?

西洋の哲学書を読んでいると、「ロゴス」というキーワードがよく登場します。「なんのこっちゃ?」と思う方も多いかもしれませんね。

ロゴスとは、「概念、意味、論理、説明、理由、理論、思想」…と言った意味を持つ言葉。「言語、論理、真理」の意味で使われることが多いですね。よく、「ロジカルな説明」という表現を耳にすることがありますが、これは、要するに「論理的に説明する」という意味ですね。

実はこの「ロゴス」という言葉、老子の「道」に近い概念だと言われることも多いんです。なぜかというと、もともとは、「ロゴス=宇宙の根源的な定め」として用いられていたからです。

ちなみに、そのような考え方を提唱したのはヘラクレイトス。当時の哲学(ギリシャ哲学)では、「宇宙の原理を解き明かすこと」が目的として発展していたため、そのような定義に至ったのでしょう。

確かに、老子が言う「道」も、宇宙の根源を意味する言葉。「ロゴスと共通する概念だ」と思われても不思議はないのですが…

「道」は“ロゴス”的な解釈はできない

確かに、「ロゴス」と「道」の概念は似ています。しかし、老子の言う「道」とは、本来は言葉にすらできないもの。名前をつけて呼ぶことすらできないほど、実体のない曖昧なものなのです。しごく、ぼんやりとしていてとらえどころがないもの、それが「道」なのです。

ですから、「道はロゴスとは違う」「ロジックで説明できるものではない」…というのが、老子思想の研究者たちの見解のようですね。

そのように考えてみると、「道」とは不思議な概念ですね。「万物の根源」でありながら、明確な物体ではなくぼんやりしていてハッキリとはとらえられない…。ぼんやりとしてとらえどころがない中に物質が存在する。要するに、「万物の根源」とは一体いかなるものなのか言葉にして定義することはできない。そんなことをすること自体がおこがましい。…そのような解釈でしょうか。

老子によれば、その「とらえどころがなくぼんやりとしている」中に、象(かたち)があるのだとか。そしてその中に、信(まこと)があるのです。

「道」は目に見えず、名もなきもの

老子によれば、「道」とは目に見えず、本来は名もなきもの。あくまでも、老子が、仮の名として「道」と呼んでいたに過ぎないのです。これに対して「ロゴス」は、言語=名に集約されるものですから、ここから考えても道とロゴスに似て非なるものと言えます。

ややこしいですね。しかし、老子の「道」にある「信」は、ギリシャ哲学のロゴス的な「真理」とは一致しません。「唯物的」なものではなく、いわば「唯心的」なものと言って差し支えないでしょう。

老子が繰り返し述べているように、「多言」は「道」の教えに反するもの。ですから、ロゴス=言葉を重ねれば重ねるほど、「道」の本質からズレていってしまうのです。

「う~ん、わかったようで、なんだかよくわからないゾ」という方は、素粒子のようなイメージで考えてみると「道」の本質を捉えやすいかもしれませんね。どちらも、肉眼では見えないけれど、確かに「ある」ものですから…。

そのような意味では、老子の思想は現代物理学の要素を多分にはらんでいると言えるのかもしれません。