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続折々の記 2019⑦
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芭蕉の辞世 心して味わう
真実を語る少女に続こう グレタさんのスピーチ
いじめ」が絶対なくならない理由
市教委の残酷すぎる言動 日本の学校は地獄か
子どもの自殺率が2010年以降、急上昇 2010年以降
【 08 】09/23~
09 23 (月) 芭蕉の辞世 心して味わう
夜明け前、不思議な夢を見た。
すばらしい超能力 <http://park19.wakwak.com/~yoshimo/moto.03.html>(ESP=Extra Sensory Perception)をまとめてきた体験があったから、この夢を見たのかもしれません。
それで頭をかすめたのは 松尾芭蕉の辞世の句 (https://cazag.com/1873) でした。
旅に病で夢は枯野をかけ廻る たびにやんでゆめはかれのをかけめぐる
彼は51才、元禄7年10月12日(新暦11月28日頃)大阪御堂筋で病死。 亡くなる前に、門人曽良に書き取らせたと言われております。
中国詩人に学び東洋的な心情を育てて旅をつづけた彼にとっては、人生の喜怒哀楽はもちろんにしても人生と自然の絆の体験を通して、現代社会では理解しがたい生涯を送ったに違いない。
この句の旅とは何ぞや、自分自身の歩んできた足跡に相違ない。 その旅で痩身の衰えを自覚し自らの終焉が近いことを悟った。 だが心に浮かぶ幾多の喜怒哀楽の思い出はなつかしく、生涯を締めくくる言葉もわからない ……… 。
私はそんなふうに思う。
既に私はまもなく91才を迎える月日を送ってきたことになる。 自分の生涯は何という言葉で締めくくればいいのか? まさに誰でもかわからないが、理想をもち夢を抱きながらも自分勝手に生きてきた思いが残るのだ。
秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉
てんでに生を享 け、てんでに去 っていく。
Something great(サムスィンググレイト=大自然の不可思議な素晴らしいエネルギー)はそのように仕組んでいるのだろう!
古き友人は去り、兄も姉も去ってしまった。
世にいう永眠! 永い眠りにつく …… 、生涯の締めくくりにはその言葉が、自分自身にとっては温かい気がする。
裏を見せ表を見せて散る紅葉 良寛
やせ蛙まけるな一茶これにあり 一茶
雀の子そこのけそこのけお馬が通る 一茶
やれ打つな蝿が手をすり足をする 一茶
我ときて遊べや親のない雀 一茶
真実を語る少女に続こうGreta Thunberg(当時15歳)
グレタさん の スピーチ
2019年02月18日 04時27分33秒
https://ameblo.jp/bvl5555/entry-12440844692.html
ポーランドのカトヴィツェで開催された #COP24(#気候変動枠組条約 第24回締約国会議 - 2018年12月開催)で、世界の注目を集めたスウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥーンベリさん Greta Thunberg(当時15歳)による スピーチ を日本語化をしました。私はグレタ・トゥーンベリといいます。15歳です。スウェーデンから来ました。
「クライメート・ジャスティス・ナウ」の代表として演説しています。
スウェーデンは小国なので、私たちが何をしようと問題ではないと言う人がたくさんいます。
でも私は、どんなに小さくても変化をもたらすことができると学びました。
もし、たった数人の子どもが学校へ行かなかっただけで世界中の注目を集めることができるのなら、 私たちが真に望めば力を合わせて何ができるかを想像してみてください。
しかしそのためには、それがどんなに不快なことであっても、はっきりと発言しなければなりません。
あなた方は人気低落を恐れるあまり、環境に優しい恒久的な経済成長のことしか語りません。 非常ブレーキをかけることだけが唯一の理にかなった対策なのに、
あなた方は私たちをこの混乱に陥れた、あの悪いアイデアを推進することしか口にしません。
それは大人気のない発言です。
その重荷をも、あなた方は私たち子どもに負わせているのです。
でも私は人気取りのことは考えません。
私は気候の正義と生きている惑星のことを考えます。
私たちの文明は犠牲にされています。
ごく少数の人たちが莫大なお金を稼ぎ続ける機会のために。
私たちの生物圏は犠牲にされています。
私の国のようにお金持ちの国の人たちがぜいたくな生活をするために。
その苦しみは、少数の人のぜいたくのために、多くの人たちが払う代償なのです。
2078年に、私は75歳の誕生日を迎えます。
もし私に子どもがいたら、一緒に過ごしているでしょう。
子どもたちは私にあなた方のことを尋ねるかもしれません。
まだ行動できる時間があるうちに、なぜあなた方は何もしなかったのかと。
あなた方は、自分の子どもたちを何よりも愛していると言いながら、その目の前で、子どもたちの未来を奪っています。
政治的に何が可能かではなく、何をする必要があるのかに目を向けようとしない限り、希望はありません。
危機を危機として扱わなければ、解決することはできません。
化石燃料は地中にとどめ、公正さに目を向けなければなりません。
この制度の中で解決することがそれほど難しいのであれば、制度そのものを変えるべきなのかもしれません。
私たちは、世界の指導者たちに相手にしてほしいと懇願するためここへ来たのではありません。 あなた方はこれまでも私たちを無視してきました。
そしてこれからも無視するでしょう。
私たちは言い訳を使い果たし、時間も使い果たそうとしています。
私たちは、あなた方が望もうと望むまいと、変化は訪れると告げるためにやって来ました。
真の力は人々のものなのです。
ありがとうございました。
【下平】なんと、説得力のある話し方でしょうか?
人工衛星は必要であれば必ず軌道修正をしなければなりません!
今まさにこの少女は、世界号という人工衛星の軌道修正の必要を警鐘し続けているのです。
日本の学校から「いじめ」が絶対なくならない
シンプルな理由
だから子どもは「怪物」になる
内藤 朝雄
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50919
最近、また「いじめ」が大きなニュースとなっている。なぜいまだに根本的な解決にいたっていないのだろうか。
いじめは80年代なかば以降、人びとの関心をひく社会問題になったが、いじめ対策は効果をあげていない。
それは、学校に関する異常な「あたりまえ」の感覚が一般大衆に根強く浸透してしまっているからである。マス・メディアや政府、地方公共団体、学校関係者、教委、教育学者や評論家や芸能人たちがでたらめな現状認識と対策をまき散らし、一般大衆がそれを信じ込んでしまうためでもある。
私たちが学校に関して「あたりまえ」と思っていることが、市民社会のあたりまえの良識を破壊してしまう。この学校の「あたりまえ」が、いじめを蔓延させ、エスカレートさせる環境要因となっているのだ。
きわめてシンプルな「いじめ対策」
いじめを蔓延させる要因は、きわめて単純で簡単だ。
一言でいえば、①市民社会のまっとうな秩序から遮断した閉鎖空間に閉じこめ、②逃げることができず、ちょうどよい具合に対人距離を調整できないようにして、強制的にベタベタさせる生活環境が、いじめを蔓延させ、エスカレートさせる。
対策は、次のこと以外にはまったくありえない。
すなわち、①学校独自の反市民的な「学校らしい」秩序を許さず、学校を市民社会のまっとうな秩序で運営させる。②閉鎖空間に閉じこめて強制的にベタベタさせることをせず、ひとりひとりが対人距離を自由に調節できるようにする。
このことについては、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書)を読んでいただきたい。これを読めばいじめについての基本的な認識を手にすることができる。
まず、本稿執筆時に注目を浴びたいじめ報道を手がかりに、私たちが学校という存在をいかに偏った認識枠組で見ているかを浮き彫りにしていこう。
福島原発事故のあと横浜に自主避難していた子どもが、何年にもわたって学校でいじめを受けていた。そして何年ものあいだ、教員たちはいじめを放置した。その経緯のなかで150万円もの金をゆすられたと保護者は訴えた。金を払ったのはいじめから逃れるためだったと被害者は言う。いじめ加害者たちはおごってもらったのだと言う。
メディアはこれを報道しはじめた──。横浜市の岡田優子教育長が、「金銭授受をいじめと認定できない」と発言したのに対し、被害者側が「いじめ」認定を求める所見を提出したのが報じられると、世論が沸騰し、さらに報道が大きくなった。
「横浜いじめ放置に抗議する市民の会」は金銭授受を「いじめ」と認めるよう、2千人ほどの署名を添えて市長と教育長に要望書を提出した。これと連動して、他の地域でも原発避難者の子どもが学校で迫害されたという報道がなされた。
学校のような生活環境では、ありとあらゆることがきっかけとして利用され、いじめが蔓延しエスカレートしやすい。原発事故からの避難者にかぎらず、学校で集団生活をしていれば、だれがこのような被害をこうむってもおかしくない。
問題の本質は、学校が迫害的な無法状態になりがちな構造にある。
もちろん原発事故の問題が根幹にあるのではないかと疑われるケースもある。たとえば以下は、保護者が実名で訴えたものだ。
福島第一原発に近い地域で被曝をさけようと給食を食べない生徒に、他の生徒たちが暴力を含むいじめをした。暴力を止めさせるよう親が申し入れをしたところ、教員は「安全」な給食を食べろと圧力を加えるのみで、暴力を放置した。
このことを保護者が訴え続けてもメディアは取材すらしない。保護者はYouTubeで英語字幕をつけて発信し、これには海外からの英語コメントがたくさんよせられた(この件に関してメディアは取材をして、事実関係を調べるべきではないだろうか)。
いじめは教育の問題なのか?
まともな市民社会の常識で考えれば、他人をいためつけ、おどして、その恐怖を背景に金をまきあげれば犯罪である。「おごってもらっただけだ」という言い訳は通用しない。
たとえば、暴力団が何年ものあいだいためつけ続けた被害者に対して、恐怖を背景に大金を「おごり」名目で巻き上げた場合と同じことが、いじめの加害者たちについてもいえる。
学校をなんら特別扱いしないで見てみよう。すると、地方公共団体が税金で学習サービスを提供する営業所(学校)内部で、このような犯罪が何年も放置されたということが、問題になるはずである。
しかも公務員(教員)がそれを放置していたことも重大問題である。公務員は、犯罪が生じていると思われる場合は、警察に通報する義務がある。知っていて放置した公務員(教員)は懲戒処分を受けなければならない。
このような市民社会のあたりまえを、学校のあたりまえに洗脳された人は思いつきもしない。ここで生じていることは無法状態であり、犯罪がやりたい放題になることである。これは社会正義の問題である。
ここで「いじめ」という概念の使い方について考えてみよう。
筆者は「いじめ」という概念を、ものごとを教育的に扱う認識枠組として用いていない。人間が群れて怪物のように変わる心理-社会的な構造とメカニズムを、探求すべき主題として方向づける概念として「いじめ」を用いている。
それに対して、誰かに責任を問うための概念としては、「いじめ」という概念を使うべきではない。責任を問うために使うものとしては、侮辱、名誉毀損、暴行、強要、恐喝などの概念を使わなければならない。
だが、多くの人びとは「いじめ」という言葉をつかうことでもって、ものごとを正義の問題ではなく、教育の問題として扱う「ものの見方」に引きずり込まれてしまう。市民社会のなかで責任の所在を明らかにするための正義の枠組を破壊し、それを「いじめ」かどうかという問題にすりかえてしまう。
そして悲しいことに、学校で起きている残酷に立ち向かおうという情熱を持っている人たちも、そのトリックにひっかかってしまう。
認定すべきは、犯罪であり、加害者が触法少年であることであり、学校が犯罪がやり放題になった無法状態と化していたことだ。そして責任の所在を明らかにすることだ。
警察が加害少年を逮捕・補導する。犯罪にあたる行為を行った加害者が責任能力を問えない触法少年であれば、児童相談所に通告し、場合によっては収容する。
被害者を守るために加害者を学校に来させないようにする。放置した教員を厳しく処分する。加害者の保護者は、高額の損害賠償金を被害者に払う。学校が無法状態になりがちな構造を制度的に改革する。
それにしても、公的に責任を問う局面で犯罪認定すべきところを「いじめ」扱いでお茶を濁すこと自体が不適切なのに、さらにそのなけなしの「いじめ」認定すら教育長はしない。その意味でこの教育長は解職すべきであるし、市長が動こうとしなければ次の選挙で落とすべきである。
もちろん起きていることは、責任を問う局面で犯罪であり、かつ、場の構造を問う局面で「いじめ」である。これが「いじめ」でなくて、何を「いじめ」というのかというぐらい、「いじめ」である。中井久夫氏がいうところの透明化段階にまで進行した「いじめ」である(中井久夫「いじめの政治学」『アリアドネからの糸』(みすず書房)所収)。
もっとも重要なことは、加害者たちは学校で集団生活をおくりさえしなければ、他人をどこまでもいためつけ、犯罪をあたりまえに行うようにはならなかったはずである、ということだ。
つまり、学校が人間を群れた怪物にする有害な環境になっているということが、ひどいいじめから見えてくる。これが根幹的な問題なのだ。
外部の市民社会の秩序を、学校独自の群れの秩序で置き換えて無効にしてしまう有害な効果が学校にはある。これは、たまたまいじめが生じていない場合でも有害環境といえる。
「学校とはなにか」─それが問題だ
最も根幹的な問題は、「学校とはなにか」ということであり、そこからいじめの蔓延とエスカレートも生じる。
わたしたちが「あたりまえ」に受け入れてきた学校とはなんだろうか。いじめは、学校という独特の生活環境のなかで、どこまでも、どこまでもエスカレートする。
先ほど例にあげた横浜のいじめが、数年間も「あたりまえ」に続いたのも、学校が外の市民社会とは別の特別な場所だからだ。社会であたりまえでないことが学校で「あたりまえ」になる。
学校とはどのようなところか。最後にその概略をしめそう。
日本の学校は、あらゆる生活(人が生きることすべて)を囲いこんで学校のものにしようとする。学校は水も漏らさぬ細かさで集団生活を押しつけて、人間という素材から「生徒らしい生徒」をつくりだそうとする。
これは、常軌を逸したといってもよいほど、しつこい。生徒が「生徒らしく」なければ、「学校らしい」学校がこわれてしまうからだ。
たとえば、生徒の髪が長い、スカートが短い、化粧をしている、色のついた靴下をはいているといったありさまを目にすると、センセイたちは被害感でいっぱいになる。
「わたしたちの学校らしい学校がこわされされる」
「おまえが思いどおりにならないおかげで、わたしたちの世界がこわれてしまうではないか。どうしてくれるんだ」
というわけだ。
そして、生徒を立たせて頭のてっぺんからつま先までジロジロ監視し、スカートを引っ張ってものさしで測り、いやがらせで相手を意のままに「生徒らしく」するといった、激烈な指導反応が引き起こされる。
この「わたしたちの世界」を守ることにくらべて、一人一人の人間は重要ではない。人間は日々「生徒らしい」生徒にされることで、「学校らしい」学校を明らかにする素材にすぎない。
多くのセンセイたちは、身だしなみ指導や挨拶運動、学校行事や部活動など、人を「生徒」に変えて「学校らしさ」を明徴(めいちょう)するためであれば、長時間労働をいとわない。
その同じ熱心なセンセイたちが、いじめ(センセイが加害者の場合も含む)で生徒が苦しんでいても面倒くさがり、しぶしぶ応対し、ときに見て見ぬふりをする。私たちはそれをよく目にする。
ある中学校では、目の前で生徒がいじめられているのを見て見ぬふりしていたセンセイたちが、学校の廊下に小さな飴の包み紙が落ちているのを発見したら、大事件発生とばかりに学年集会を開いたという(見て見ぬふりをされた本人(現在大学生)の回想より)。こういったことが、典型的に日本の学校らしいできごとだ。
こういった集団生活のなかで起きていることを深く、深く、どこまでも深く掘りさげる必要がある。
さらにそれが日本社会に及ぼす影響を考える必要がある。学校の分析を手がかりにして、人類がある条件のもとでそうなってしまう、群れたバッタのようなありかたについて考える必要がある。
学校で集団生活をしていると、まるで群れたバッタが、別の色、体のかたちになって飛び回るように、生きている根本気分が変わる。何があたりまえであるかも変わる。こうして若い市民が兵隊のように「生徒らしく」なり、学習支援サービスを提供する営業所が「学校らしい」特別の場所になる。
この「生徒らしさ」「学校らしさ」は、私たちにとって、あまりにもあたりまえのことになっている。だから、人をがらりと変えながら、社会の中に別の残酷な小社会をつくりだす仕組みに、私たちはなかなか気づくことができない。
しかし学校を、外の広い社会と比較して考えてみると、数え切れないほどの「おかしい」、「よく考えてみたらひどいことではないか?」という箇所が見えてくる。
市民の社会では自由なことが、学校では許されないことが多い。
たとえば、どんな服を着るかの自由がない。制服を着なければならないだけでなく、靴下や下着やアクセサリー、鞄、スカートの長さや髪のかたちまで、細かく強制される。どこでだれと何を、どのようなしぐさで食べるかということも、細かく強制される(給食指導)。社会であたりまえに許されることが、学校ではあたりまえに許されない。
逆に社会では名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、軟禁監禁、軍隊のまねごととされることが、学校ではあたりまえに通用する。センセイや学校組織が行う場合、それらは教育である、指導であるとして正当化される。
正当化するのがちょっと苦しい場合は、「教育熱心」のあまりの「いきすぎた指導」として責任からのがれることができる。生徒が加害者の場合、犯罪であっても「いじめ」という名前をつけて教育の問題にする。
こうして、社会であたりまえに許されないことが、学校ではあたりまえに許されるようになる。
全体主義が浸透した学校の罪と罰
学校は「教育」、「学校らしさ」、「生徒らしさ」という膜に包まれた不思議な世界だ。その膜の中では、外の世界では別の意味をもつことが、すべて「教育」という色で染められてしまう。そして、外の世界のまっとうなルールが働かなくなる。
こういったことは、学校以外の集団でも起こる。
たとえば、宗教教団は「宗教」の膜で包まれた別の世界になっていることが多い。オウム真理教教団(1995年に地下鉄サリン事件を起こした)では、教祖が気にくわない人物を殺すように命令していたが、それは被害者の「魂を高いところに引き上げる慈悲の行い(ポア)」という意味になった。また教祖が周囲の女性を性的にもてあそぶ性欲の発散は、ありがたい「修行(ヨーガ)」の援助だった。
また、連合赤軍(暴力革命をめざして強盗や殺人をくりかえし、1972年あさま山荘で人質をとって銃撃戦を行った)のような革命集団でも、同じかたちの膜の世界がみられる。
そこでは、グループ内で目をつけられた人たちが、銭湯に行った、指輪をしていた、女性らしいしぐさをしていたといったことで、「革命戦士らしく」ない、「ブルジョワ的」などといいがかりをつけられた。そして彼らは、人間の「共産主義化」、「総括」を援助するという名目でリンチを加えられ、次々と殺害された。
学校も、オウム教団も、連合赤軍も、それぞれ「教育」、「宗教」、「共産主義」という膜で包み込んで、内側しか見えない閉じた世界をつくっている。そして外部のまっとうなルールが働かなくなる。よく見てみると、この三つが同じかたちをしているのがわかる。
漫画家・エッセイストの田房永子は「膜」という語を用いて痴漢や強姦者やストーカーなど個人の独善的で歪んだファンタジーと行動様式を描く。筆者が難解な用語を用いて理論的に探究してきた心理-社会現象を、「膜」という直感に近い語によって、一般向けに平易に説明できることに気づいた。田房氏の卓越した言語感覚に敬意を表したい。
http://www.lovepiececlub.com/lovecafe/mejirushi/2014/08/19/entry_005292.html
このようにさまざまな社会現象から、学校と共通のかたちを取り上げて説明するとわかりやすい。あたりまえすぎて見えないものは、同じかたちをした別のものと並べて、そのしくみを見えるようにする。たとえば、学校とオウム教団と連合赤軍をつきあわせて、普遍的なしくみを導き出すことができる。
こうして考えてみると、学校について「今まであたりまえと思っていたが、よく考えてみたらおかしい」点が多くあることに気づく。
これらのポイントに共通していえるのは、クラスや学校のまとまり、その場のみんなの気持ちといった全体が大切にされ、かけがえのないひとりひとりが粗末にされるということだ。全体はひとつの命であるかのように崇拝される。
この全体の命がひとりひとりの形にあらわれたものが「生徒らしさ」だ。だから学校では、「生徒らしい」こころをかたちであらわす態度が、なによりも重視される。これは大きな社会の全体主義とは別のタイプの、小さな社会の全体主義だ。
大切なことは、人が学校で「生徒らしく」変えられるメカニズムを知ることだ。それは、自分が受けた洗脳がどういうものであったかを知る作業であり、人間が集団のなかで別の存在に変わるしくみを発見する旅でもある。
ある条件のもとでは、人と社会が一気に変わる。場合によっては怪物のように変わる。この人類共通のしくみを、学校の集団生活が浮き彫りにする。
学校の全体主義と、そのなかで蔓延しエスカレートするいじめ、空気、ノリ、友だち、身分の上下、なめる-なめられる、先輩後輩などを考えることから、人間が暴走する群れの姿を明らかにすることができる。学校という小さな社会の全体主義とそのなかのいじめを考えることから、人間の一面が見えてくる。
わたしたちは長いあいだ、学校で行われていることを「あたりまえ」と思ってきた。あたりまえどころか、疑いようのないものとして学校を受け入れてきた。
だからこれを読んだ読者は、「こんなあたりまえのことをなぜ問題にするのだろうか」と疑問に思ったかもしれない。だが、その「あたりまえ」をもういちど考え直してみることが大切だ。
理不尽なこと、残酷なことがいつまでも続くのは、人がそれを「あたりまえ」と思うからだ。それがあたりまえでなくなると、理不尽さ、残酷さがはっきり見えてくる。逆にあたりまえであるうちは、どんなひどいことも、「ひどい」と感じられない。歴史をふりかえってみると、このことがよくわかる。
これを読んで心にひっかかっていたものが言葉になったときの、目から鱗が落ちるような体験を味わっていただければと思う。もっと知りたいという方は、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』を手に取ってください。
<続編>
日本の学校は地獄か…
いじめ自殺で市教委がとった残酷すぎる言動
茨城県取手市・中3女子自殺事件【前編】
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52631
いじめ問題、変わらぬ構造
いじめによる生徒の自殺が、次々報じられている。
学校でおきる残酷なできごとも、その報道のされかたも、同じことが繰りかえされているとしか言いようがない。
いったい、何がどうなっているのか。どうすれば解決できるのか。
まずは単純明快な正解を示そう。
日本の学校制度は何十年も変わっていないのだから、不幸な結果の生じやすさも同じである。学校制度を変えるほかに、有効な手立てはない。
しかし、いじめを構造的に蔓延・エスカレートさせる学校制度の欠陥を、メディアは問題にしない。
日本の学校は、生徒を外部から遮断した閉鎖空間につめこみ、強制的にベタベタさせるよう意図的に設計されている。これは世界の学校のなかで異常なものである。
生徒を長時間狭い場所(クラス)に閉じこめ、距離のとれない群れ生活を極端なまでに強制する学校制度が、人間を群れたバッタのような〈群生体〉に変える。そして、いじめ加害者を怪物にし、被害者には想像を絶する苦しみを与える。
学校で集団生活を送りさえしなければ、加害者は他人を虫けらのようにいたぶる怪物にならなかったはずだし、被害者は精神を壊された残骸や自殺遺体にならずにすんだはずだ。原因は、学校のまちがった集団生活にある。
学校であれ、軍隊であれ、刑務所であれ、外部から遮断した閉鎖空間に人を収容し、距離をとる自由を奪って集団で密着生活をさせれば、それが悲惨で残酷な状態になりやすいのは理の当然である。こんな簡単なことが、教育評論家やテレビのプロデューサーたちには、どうして理解できないのだろうか。
いじめが起きていない局面でも、学校は、人間関係をしくじると運命がどう転ぶかわからない不安にみちた場所になる。
この不安(友だちの地獄)のなかで生徒たちは、多かれ少なかれ、付和雷同する群れに魂を売り渡し、空気を読んで精神的な売春にはげみ、集団づくりの共鳴奴隷・共生奴隷として生きのびなければならない。
学校は、人のことが気になりすぎて自分を失う怖い場所なのだ。
日本の子どもの自殺率が2010年以降、急上昇している
2019年3月13日(水)16時00分
舞田敏彦(教育社会学者)
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/03/2010-6.php
<スマホ普及の時期と重なる10代前半の自殺率の際立つ上昇。ネット、SNS上のパトロール、相談体制の強化が求められている>
景気回復と自殺対策の成果があってか、国民全体の自殺者数は減少傾向にある。2000年の年間自殺者数は3万251人と3万人を超えていたが、2017年には2万465人と大きく減った(厚労省『人口動態統計』)。この間に自殺者は3分の2に減少したことになる。
しかし、子どもの場合はそうではない。思春期の10代前半を見ると、年によって凹凸はあるが、おおむね増加傾向にある。2016年の年間自殺者は71人だったが、2017年では100人と大幅に増えている。中学生の自殺が頻繁に報じられていることからも実感があるかもしれない。
ここ数年の観察だけでは状況判断を誤るので、戦後初期からの長期推移を描いてみる。自殺者の実数よりも、当該年齢人口で割った自殺率のほうが正確だ。上述のように2017年の10代前半の自殺者は100人で、同年10月時点の当該年齢人口は543万2000人だ。よって人口100万人あたりの自殺者数にすると18.4人となる。この値を自殺率とする。
<図1>は、このやり方で出した子どもの自殺率の推移だ。年による凹凸が激しいので、3年次の移動平均(当該年と前後の2カ年の平均値)の曲線も添えた。こうすることで、大局的な推移も読み取りやすくなる。
青色の自殺率の実値をみると、凹凸しながらも上昇傾向で、最新の2017年の数値が最も高くなっている。子どもの自殺率は戦後最高だ。赤色の移動平均から、凹凸を排した滑らかな傾向を見て取れるが、2010年以降の上昇が際立っている。スマホの普及期と重なっていることが分かる。
ネットいじめ、自殺勧誘サイト......思い当たる事象は数多くある。自我が未熟な青少年には、情報化社会の影の部分が直接、投影される。ネットパトロールの強化やSNSを通じた相談体制の強化、といった対策が求められる。自殺対策の中身は年齢層によって異なるが、その対象は中高年の世代から子ども・若者へと重点を移す時に来ている。
次のページ動機で「いじめ」は多くない
子どもの自殺の心理として、「苦しみが永遠に続くという思い込み」「心理的視野狭窄(自殺以外の解決手段が浮かばなくなる)」というものがある(文科省『教師が知っておきたい子どもの自殺予防マニュアル』2009年)。こうした認知の歪みを是正する必要がある。
それでは、子どもの自殺動機にはどのようなものが多いのか。いじめを苦にした自殺が多いと思われるかもしれないが、データで見るとそうではない。過去5年間の小・中学生の自殺動機を示すと、<表1>のようになる。延べ数467件の内訳だ。
首位は「家族からのしつけ・叱責」、2位は「親子関係の不和」、3位は「学業不振」となっている。いじめや学友との不和よりも、家族関連の要因が多いことが分かる。
日本の人口構成が逆ピラミッドになる中、子どもへの期待圧力が強まっている。過度の期待で子どもを自殺未遂に追い込んだ親の事例もあるが(「神童に過度の期待、子供の自殺未遂で気づいた親の愚かさ」NEWSポストセブン、2019年2月23日)、養育態度の歪みには注意しなければならない。
少なくなった子どもが大事に育てられる時代と言われるが、「生きづらさ」の指標とも言える自殺率をみると、<図1>のグラフの通りだ。あと少ししたら人口比の上で「子ども1:大人9」の社会になるが、その時にはどうなっているか。
「教育に関心がある」などとあまり言わないほうがいい。教育については誰もが語れるが、逆ピラミッドの人口構成で「一億総教育家」の社会になったら、子どもは潰されてしまう。自殺対策の重点は子どもに移すべきだが、教育の重点は子どもから大人にシフトするべき時だ。人生100年、かつ変動の激しい現代では、全てのステージの人が生涯、絶えず学習を続けなければならない。
<資料:厚労省『人口動態統計』、警察庁『自殺の状況』>より