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続折々の記 2020⑥
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 02 】08/31~
(考 最長政権:2)
     失速アベノミクス、口にせず幕
  08/31
(考 最長政権:3)
     対等な日米関係、姿見えぬまま
  09/01
(考 最長政権:4)
     森友・加計…説明責任果たさず
  09/02

 08 31 (月) (考 最長政権:2)      失速アベノミクス、口にせず幕

昨日に続き、安倍政権の批正。

(考 最長政権:2)その一 2020年8月31日 5時00分

失速アベノミクス、口にせず幕

   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14603791.html

 政権発足から9カ月後の2013年9月。米ニューヨーク証券取引所を訪れた安倍晋三首相は、約300人の金融関係者らを前に、力強くこう訴えた。

 「Buy my Abenomics(アベノミクスは買いだ)」

 政権交代前にマイナスだった成長率がプラスに転じたという経済指標を示し、「日本経済は極めて好調だ」と自信も見せていた。

 12年末に政権に返り咲いた首相が真っ先に打ち出したのは、大規模な金融緩和と財政出動、規制改革などの成長戦略という「3本の矢」で、経済を立て直す戦略だった。世界経済の回復も追い風に、円安も進んで株価はぐんぐん上がり、「アベノミクス」は安倍政権の代名詞になった。

 それから約7年8カ月を経た、8月28日の辞任表明会見。約1時間の会見のなかで、首相は一度も「アベノミクス」という言葉は口にしなかった。

 当初こそ勢いのあったアベノミクスだが、株価や企業業績が好調でも、賃上げなどが進まず、消費は盛り上がりを欠く。物価もなかなか上がらなかった。首相自ら経済界に賃上げを要請し、「官製春闘」とも呼ばれたが、大幅な賃上げにはつながらない。目標だった名目3%成長を達成した年もほとんどなかった。足元では、株価は政権発足時の2倍以上で推移しているが、先の見えないコロナ禍が日々のくらしと経済に不安を投げかける。

 アベノミクスの失速が色濃くなるなか、首相が実績としてこだわり続けたのは、「政治的な目標」と言い切る雇用の指標だ。

 人手不足ともあいまってコロナ前までは失業率は下がり、有効求人倍率は上がり、最低賃金の引き上げも進んだ。雇用者数(役員を除く)も昨年10~12月期には過去最高となった。

 「20年続いたデフレに3本の矢で挑み、400万人を超える雇用をつくり出すことができました」

 辞任表明会見で在任中の実績を問われた首相が触れたのも、雇用だった。

 同時にこの間、非正規社員は正社員の倍近く増え、非正規の割合は4割近くになる。実質賃金の伸びも、マイナスの年が多かった。

 政権発足と同じ12年12月に始まった景気回復は実感が乏しいまま、世界経済の失速で18年10月をピークに後退期に入る。政権が誇示した「戦後最長の景気回復」は、幻に終わった。

 (2面に続く)

(考 最長政権:2)その二

誇った株高、偏った恩恵 「3本の矢で好循環」欠いた成長


写真・図版 写真・図版 【写真・図版】アベノミクスが目指した「経済の好循環」

 (1面から続く)

 安倍晋三首相は「輪転機をぐるぐる回し、日本銀行に無制限にお札を刷ってもらう」と公言し、2012年、政権交代を果たした。

 就任直後の翌年1月。日銀に「物価上昇率2%」の目標をのませた。白川方明(まさあき)総裁の後任には、金融緩和に積極的な財務省出身の黒田東彦(はるひこ)氏を起用する。黒田氏は「次元の違う金融緩和」として国債を大量に買い入れることを宣言し、株高や円安は一気に進んだ。

 株価上昇は政権交代の成果をわかりやすく印象づけ、支持率は上がる。株価重視は政権の一貫した姿勢となった。しかし問題は、その恩恵が、株のような資産を持たない人にも行き渡るかどうかだった。

 首相は14年1月、自ら名付けた「好循環実現国会」で、力強く語っている。

 「日本経済も、3本の矢によって、長く続いたデフレで失われた自信を取り戻しつつあります」

 「景気回復の実感を、全国津々浦々にまで、皆さん、届けようではありませんか」

 金融緩和で大量にお金を市場に流して金利を引き下げ、巨額な財政出動で景気を底上げする。

 企業の投資を促す成長戦略にも取り組む。TPP(環太平洋経済連携協定)や欧州との貿易協定をまとめあげ、法人税の実効税率を引き下げた。

 「3本の矢」で企業が潤えば賃金アップにつながり、消費が活発になる。大企業だけでなく中小企業も地方も、一人ひとりも潤っていく。こうした好循環が実現するとして、首相は選挙の街頭演説などでも「アベノミクスは失敗していないが、道半ば。この道をしっかりと力強く前に進んでいく」と訴えた。

 ところが、好循環はなかなか実現しない。首相は「ドリルの刃となって、あらゆる岩盤規制を打ち破っていく」と述べてきたが、肝心の成長戦略が力不足だからだ。

 内閣官房による今年3月末時点の自己評価でも、政権の成長戦略に盛り込まれた評価可能な政策目標137項目のうち、予定通りに進んでいるのは、女性の就業率の引き上げや中小企業の輸出額など、半数以下の63項目だった。

 製造業の生産性の向上といった残りの項目では、計画通りの成果をあげられずにいる。経済の実力を示す潜在成長率は0・9%で、政権発足直後とほとんど変わっていない。

 日本経済への成長期待を持てない企業は、新たな投資や賃上げより、利益をため込む。内部留保とも呼ばれる企業の利益剰余金は、安倍政権下で1・5倍に増えた。一方で、働き手の取り分である労働分配率は、ほぼ右肩下がりだった。

 東海地方の非正規社員のある30代の女性も、雇用の改善を実感できないでいる一人だ。首相は「『非正規』という言葉をこの国から一掃します」と訴えてきた。女性は正社員の事務職などをめざしたが、10年以上、受付や接客の派遣社員のままだった。「一掃どころか、非正規は広がった」。首相が辞任表明の会見で「雇用をつくり出すことができた」と語るのを見て、「首相には本当に見えていないんだ」と思った。

 首相に近い内閣官房の幹部でさえ、「成長率が上がっていないのは事実。経済の好循環もうまく回っておらず、厳しい状況だ」と認めている。

 ■選挙へ看板連発、増税2度延期

 春先からの新型コロナウイルス対応をめぐる混乱ぶりでは、長期政権として腰を据えて取り組むべきだったデジタル化などの対応がほとんど進んでいなかった実態も明らかになった。

 行政手続きの多くは、いまだに書類や押印が必要で、10万円の一律給付や雇用調整助成金では、オンライン申請でも時間がかかったり、システムトラブルがあったりと大混乱した。省庁間のテレビ会議システムも不十分で、キャッシュレス化も進んでいない。

 いずれも以前から課題として認識されていたもので、首相も3年前に「生産性革命」を訴え、官民でデジタル化に取り組むはずだった。ところが改革は進まず、今年7月に内閣府の有識者の懇談会がまとめた検証でも「オンライン化やデータの利活用は進んでいない」などと酷評された。

 安倍政権は発足以来、「女性活躍」や「地方創生」「1億総活躍社会」「働き方改革」「人づくり革命」と、数々の看板政策を打ち出した。しかし、その成果を十分に検証しないまま、新たな看板を重ねて「前進」を強調する姿勢が目立った。

 安倍政権の経済政策は、支持率を引き上げて政権浮揚につなげ、選挙を乗り切る道具としての意味あいも大きかった。その典型が、消費税率10%への引き上げを2度延期したことだ。

 1度目は14年11月。景気悪化を理由に延期し、その「信を問う」として衆院を解散して圧勝した。このとき「再び延期することはない」と断言していた。

 16年6月には「これまでのお約束とは異なる新しい判断」として、再延期を表明。「アベノミクスを力強く前に進めていくか、あるいは後戻りするのか、これを決める選挙だ」と国民に呼びかけ、1カ月後の参院選の勝利につなげた。

 一定の支持率を保った最長政権は、最終的には消費税率を2回引き上げ、10%にする。

 17年9月には少子高齢化を「国難」と位置づけ、増税分の税収で保育所や幼稚園を無償化する使い道の変更を決めた。同時に「国難突破解散」だとして衆院を解散し、勝利した。

 ところが、「国難」とまで呼んだ少子高齢化の対策は進まない。「20年度末にゼロ」とした待機児童数は19年でも1万6千人を超え、合計特殊出生率は政権発足前の水準に戻った。医療や介護の分野でも、一部で受益と負担の見直しを進めるのにとどまる。

 短期目線の経済・財政運営が続き、国の予算編成では毎年のように大規模な補正予算を組み、経済対策を繰り返した。毎年の施政方針演説でほぼ言及している財政再建の目標も、実現のめどは全くたたない。

 そして日銀が国の借金である国債の4割超を保有する、異常な状態が続く。

 政権は7年8カ月という歴代最長に及んだが、借金など負の遺産をさらに積み上げ、中長期の視点から取り組むべきだった課題も多く残した。(編集委員・伊藤裕香子、榊原謙、津阪直樹)

(考 最長政権:3)その一 2020年9月1日 5時00分

対等な日米関係、姿見えぬまま

   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14605348.html

 対面の14回を含め、2人の首脳会談は51回目だった。安倍晋三首相は31日、電話でトランプ米大統領に辞任を決めた経緯を説明。「大統領との深い信頼関係のもと、日米関係がこれまでになく強固になった」と強調すると、トランプ氏も「日本の歴史のなかで最も偉大な首相だ」とたたえた。

 首相は政権復帰した2012年、民主党政権時代を「外交敗北」と批判。歴代政権が踏み込まなかった集団的自衛権の行使容認を、日米の「信頼の絆」とみて同盟強化に取り組んだ。

 首相はどんな外交を思い描いていたのか。自著では「集団的自衛権の行使とは米国に従属することではなく、対等となること」だと強調。一方、「戦後の歴史から日本という国を日本国民の手に取り戻す戦い」とも語っている。「対等」な日米関係構築と、戦後のアジアでの「謝罪外交」に区切りをつける――。そうした「安倍外交」像が浮かび上がる。

 首相は14年、集団的自衛権の行使容認を、憲法改正ではなく、憲法解釈変更という荒業で道筋をつけた。米側が求めてきた特定秘密保護法も整備した。

 首相は28日、辞任表明の記者会見で「集団的自衛権にかかる平和安全法制を制定した。助け合うことができる同盟は強固なものとなった」と自賛。米側も「大きな業績。米国や豪州などと一緒に積極的な役割を果たす用意があることを示した」(マイケル・グリーン元米国家安全保障会議アジア上級部長)と評価する。

 首相は大統領選でトランプ氏が勝利すると「トランプ詣で」や「ゴルフ外交」で接近。米国第一を振りかざす同氏の扱いに各国首脳が苦慮するのを尻目に、個人的関係を作り上げた。

 そんな首相にもトランプ氏は不満をぶつけた。集団的自衛権行使容認にかじを切っても、日米安保条約を「不公平な条約」と主張。武器購入を迫り、首相もこれに応じた。「君たちはもっと我々を助けないといけない」と米軍駐留経費負担増を求める構えもみせる。

 首相の辞任表明を受け、米ニューヨーク・タイムズは首相を「予測不能なトランプ大統領の機嫌をとってきた」と表現した。一方、外務省幹部は「型破りなトランプ氏の対日批判を巧みにかわした功績は大きい」と首相を擁護する。

 ただ、首相が同盟強化の先に見据えた「対等」の姿とはどんなものだったのか、見えずじまいだった。

 (3面に続く)

(考 最長政権:3)その二

拉致「痛恨」、米に翻弄され


写真・図版 【写真・図版】「安倍外交」の当初方針と現状

 (1面から続く)

 蜜月を築いたはずのトランプ米大統領に翻弄(ほんろう)されたのが、対北朝鮮政策だ。

 政権復帰を果たした2日後の2012年12月28日、安倍晋三首相は拉致被害者家族会のメンバーを官邸に招き、こう力説した。「もう一度首相に就いたのも、何とか拉致問題を解決しなければとの使命感からだ。必ず安倍内閣で解決する」

 小泉政権で官房副長官だった安倍氏は小泉訪朝で拉致被害者5人の帰国が実現すると、北朝鮮の「一時帰国」との要求を拒み、日本政府内でも「恒久帰国」を主張。こうした拉致問題への強い姿勢が首相の政治的原動力にもなった。

 首相は、17年9月の国連演説でも「必要なのは対話ではない。圧力だ」と各国に呼びかけ、対北強硬姿勢に同調するよう促した。

 しかし、当初「あらゆる手段を通じて北朝鮮への圧力を最大限まで高めていくことで一致した」はずのトランプ氏が金正恩(キムジョンウン)・朝鮮労働党委員長に接近。首相の対応は揺らいだ。

 トランプ氏が18年3月に米朝会談実施を表明すると、首相は「北朝鮮の変化を評価する」。その後、米朝の駆け引きの中で会談中止が発表されると「トランプ大統領の判断を尊重し支持する」と二転三転した。

 結局、同年6月に米朝首脳会談が実現すると、「相互不信の殻を打ち破り、日本と北朝鮮が直接向き合い、解決していかなければならない」と「前提条件なしの対話」を呼びかけた。

 だが、「圧力」をめぐる日米の足並みの乱れを前に、北朝鮮は呼びかけに応じず、新型ミサイルの発射実験を着々と進めた。

 28日の辞任会見で、首相は「ありとあらゆる可能性、様々なアプローチ。私も全力を尽くしてきたつもりだ」と強調したが、「拉致問題をこの手で解決できなかったことは痛恨の極みだ」と悔しさをにじませた。

 ■対ロ・韓国、「戦後の総決算」未完

 首相は3選を果たした18年9月の自民党総裁選のころから、「戦後外交の総決算」を訴え始めた。

 「東アジアでは冷戦終結後も戦後の枠組みが長らく残ってきた」。首相が挙げたのが、北朝鮮のほか、北方領土問題の解決だった。「領土問題を解決して平和条約を締結する。私とプーチン大統領の手で必ずや終止符を打つ」。同年11月、シンガポールで日ロ首脳会談を終えた首相はそう語った。

 従来の4島返還から事実上の2島返還にかじを切った日本。だが、プーチン氏はしたたかだった。外交成果を急ぐ首相の足元を見透し、「(北方領土の)島々に米国の新しい攻撃兵器が出現しないという保証がどこにあるのか」と日米同盟への揺さぶりもかけた。

 交渉頓挫の理由を、ある政府関係者は「『4島返還』を要求すべきだとする外務省と、『2島』を探って経済関係強化を模索する官邸の路線対立で、ロシア側の意図と出方を正確に読み切れなかった」と語る。

 「戦後外交の総決算」では具体的な言及はないが、歴史問題の克服も首相の念頭にあったに違いない。

 15年に発表した戦後70年の「安倍談話」では「痛切な反省と心からのおわび」に触れる一方、「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」とも訴えた。

 「謝罪外交」からの脱却に向け、首相も当初は韓国との和解に尽力した。同年12月、当時の朴槿恵(パククネ)政権と慰安婦合意にこぎつけた。

 だが、韓国で文在寅(ムンジェイン)政権が誕生すると、韓国政府は慰安婦合意を空文化。さらに徴用工問題で関係が悪化し、安倍政権も「(合意は)1ミリも動かさない」(菅義偉官房長官)と反発した。

 歴史問題は依然横たわる。「総決算」は未完のまま、首相は政権を去る。

 ■対中牽制か連携か、政府内に対立

 安倍外交で、良くも悪くも「変容」したのが、対中政策。中国を軍事的な脅威とみるのか、経済的パートナーとみるのか。日本政府内でも揺れ動いている。

 首相は12年の再就任の直前に執筆した英語論文で、対中牽制(けんせい)のため、日米豪印の4カ国が連携する必要を説いた「安保ダイヤモンド構想」を発表。「南シナ海は『北京の湖』になっているかのようだ」と、対中国脅威論を主張していた。

 だが、18年の訪中を機に首相は経済重視にシフトしはじめた。同年の訪中で、首相は「発展した中国と日本がついに共に世界に貢献する時代がやってきた」と強調した。政権内で安保より対中経済関係を重視する声が強まり、「競争」から「協力」へ転換。第三国市場協力など連携を強めた。

 政府内には、経済と安保を組み合わせた「経済安保戦略」を策定しようとの動きもあったが、政府関係者は「首相側近が『対中』(牽制)と見なされるから出すな、と反対した」と明かす。

 中国への柔軟姿勢には、国内から「香港での人権弾圧や尖閣諸島への領海侵犯を繰り返す中国に対して物が言えない。屈従外交だ」(小池晃・共産党書記局長)と批判の声があがる。ただ、こうした首相の対中姿勢に、中国も「歴史問題」を封印するなど、日本の対応が功を奏している面もある。中国への硬軟織り交ぜた対応は不可欠だ。

 問題は、政府内で外交・安保重視の「対中牽制派」と、経済重視の「経済連携派」が路線対立し、政策のすりあわせが不十分なことだ。路線対立と主導権争いから首相の統率を欠けば、対ロ北方領土交渉の失敗の轍(てつ)を踏みかねない。

 特に米中対立が激化し、米政権が対中強硬姿勢を強め、日本に同調を求めてきたらどう対応するのか。日本にグランドデザインがなければ、混乱は必至だ。

 (編集委員・佐藤武嗣、園田耕司=ワシントン、二階堂友紀)

(考 最長政権:4)その一 2020年9月2日 5時00分

森友・加計…説明責任果たさず

   https://digital.asahi.com/articles/DA3S14606871.html

 7年8カ月続いた歴代最長政権の後半、森友学園や加計学園をめぐる問題など、安倍晋三首相自身や身内に関するさまざまな疑惑が浮上した。

 なぜ、説明責任が果たされないまま政権を維持することができたのか。

 モリカケ問題が連日報道される中、ある政権幹部はこんな指摘をしている。「問題は完全に政治化し、国民が『反安倍か、親安倍か』『好きか、嫌いか』になっている。ファクト(事実)かどうかは力がなくなっている」。疑惑が持ち上がってもコアな支持層には響かない、との自信を示したものだ。

 政権が疑惑に向き合おうとしない姿勢は、森友問題が象徴的だった。

 約8億円の大幅値引きなど数々の異例な対応に、首相の妻・昭恵氏が建設予定の小学校の名誉校長だったことの影響が疑われた。追及が始まったころ、首相は「私や妻が関係していたことになれば首相も国会議員も辞める」と発言した。

 その発言後、財務省の佐川宣寿(のぶひさ)理財局長(当時)が「主導」した公文書の改ざんで、昭恵氏の記述が消された。この問題が発覚すると、首相は妻の関与について「贈収賄は全くない、という文脈の中で一切関わっていないと申し上げた」と定義の範囲を狭めた。

 昭恵氏の記述を消すなどの公文書改ざんを強いられたことを苦に、財務省近畿財務局の職員が自殺した。職員の妻は今年3月、「首相の国会発言が改ざんの原因を作った」と訴えて再調査を求めた。しかし、首相は応じなかった。

 森友問題に続き、加計学園の獣医学部新設問題が浮上した。学園の理事長は、首相が「腹心の友」と認める間柄。「総理のご意向」と書かれた文書の内容が報じられると、菅義偉官房長官は「怪文書みたいな文書」と切り捨てた。しかし文部科学省の再調査で文書の存在が確認された。

 追及が強まり、支持率は急落したが、ある政府高官は「世論の批判は一過性。国民はすぐに忘れてしまう」と冷静だった。事実、首相はモリカケ問題が注目を集めたあとの総選挙で勝利した。

 8月28日の辞任会見。「国民に疑問を持たれた問題に、十分な説明責任を果たしたとお考えか?」との質問に、首相はこう答えた。「十分かどうかについては、国民の皆様が判断されるんだろうと思っております」

 (3面に続く)

(考 最長政権:4)その二

記録も記憶もなくす官僚


写真・図版 【写真・図版】疑惑に対する安倍政権の対応

 (1面から続く)

 「記録はない」「記憶にない」。疑惑の真相究明を避ける安倍晋三首相と足並みをそろえるように、官僚たちはそう連発した。

 「もう既に開催が終わりましたので、破棄させていただいております」

 昨年5月21日の衆院財務金融委。首相主催の「桜を見る会」の参加者について尋ねた共産党の宮本徹議員に対し、内閣府幹部はそう答弁した。

 宮本氏が桜を見る会にかかった費用や人数がわかる資料を内閣府に請求したのは同月9日。一方、政府側の説明によると、資料請求があった約1時間後に内閣府はその年の会の招待者名簿を大型シュレッダーにかけていた。保存期間が1年未満の文書とされている、との理由からだ。

 森友問題でも、財務省の佐川宣寿理財局長(当時)が「ございませんでした」と説明した学園側との交渉記録は、その時点では存在していた。さらに、佐川氏の答弁に合わせた公文書の改ざんが同省理財局ぐるみで行われた。

 加計学園の獣医学部新設問題では、不都合な内容の文書や証言が明らかになっても、関係する官僚が「記憶にない」と繰り返した。

 愛媛県の文書に面会した記録があると指摘された元首相秘書官の柳瀬唯夫氏は、「記憶の限りでは愛媛県や今治市の方にお会いしたことはない」と記載内容を認めなかった。

 文部科学次官だった前川喜平氏のようなケースはまれだった。前川氏は、在任時に和泉洋人・首相補佐官から「総理は自分の口からは言えないから、私が代わって言う」と言われ、獣医学部新設への対応を促されたと明らかにした。

 しかしその証言も、和泉氏は「こんな極端な話をすれば記憶に残っている。そういった記憶はまったく持っていない。従って言っていない」と否定した。

 ■人事掌握と恐怖感、忖度の土壌

 モリカケ問題では、官僚による「忖度(そんたく)」がたびたび取りざたされた。政権の意に沿う対応を優先し、市民への説明は二の次。そんな疑いが社会に広まった。

 「政治の要求を下請け作業的に進めるだけになっていないか」。文部科学省の局長経験者はいまの霞が関をそう評する。「官僚が政治におもねることは昔もあった。ただ、近年は『全体の奉仕者』の精神を失ってきていると感じる」

 背景として挙げるのが、政権が14年5月に内閣人事局を新設して省庁の幹部人事を握ったことだ。「処遇を見せられ、上ばかりを見る『ヒラメ』が増えた。行政の中立性や使命感が薄れたと思う。人事の制度を変えることでどのような副作用が起きるのか、見過ごされてきたのではないか」

 安倍政権では「官邸官僚」の存在も際立った。厚生労働省のキャリア官僚だった神戸学院大学の中野雅至教授(行政学)は、首相や官房長官に近い官邸官僚からの非公式な指示が飛び交うことで、意に沿う対応ができなかった場合の恐怖感が現場で増していったとみる。

 「怖さが拡大していくことで官邸官僚という虚像が膨らみ、権力を恐れる体質が強まった。その結果、政権に都合の悪い答弁や説明を避け、国会や世間に対する説明がおろそかになった。その最たる例が財務省の公文書改ざんだ」

 官僚が「献身的」に守った政治家も、不誠実な言葉を上書きした。財務省の公文書改ざんに関する調査報告書を発表した会見で、麻生太郎財務相は改ざんの原因を「それが分かりゃ苦労せん」と言い放った。

 NPO法人「情報公開クリアリングハウス」の三木由希子理事長は「政治家が責任を取らないので現場の官僚たちが対応しなければならなくなり、結果に合わせて記録を消したり、改ざんしたりする。それが続くと、官僚は記録そのものをしなくなる」と語る。「公文書問題は霞が関の官僚たちだけの問題ではなく、政治家の問題だ」

 ■コロナ禍、世論見誤り支持率急落

 世論の動向を意識する安倍政権は、首相がこだわりを持つ一方で、国民の賛否が分かれる政策を選挙の合間を縫うように押し通してきた。特定秘密保護法、安全保障法制、「共謀罪」法。政権の支持率は一時的に下がっても、好調な経済を背景に再び回復させる強さを持っていた。

 しかし、こうした強気の政権運営もコロナ禍で潮目が変わる。

 当初は「インフルエンザと変わらない」と軽視していたが、クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の対応のまずさに始まり、2月末の学校の全国一斉休校の要請や布マスクの全戸配布など、場当たり的な対応が繰り返された。

 持続化給付金の再委託問題や観光支援策「Go To トラベル」事業など、重要な対策の決定経緯に野党から疑問が突きつけられたが、十分な説明が尽くされないまま進められた。コロナ対応への批判は高まっていった。

 「なぜ評価してくれない」。首相は当時、周囲にそう語っていたという。

 政府関係者の一人は、「安倍首相の言うことを誰も信じなくなっているということなんだよ」とこぼしていた。

 5月には、役職定年になる検察幹部を政府の判断で留任させられるようにする検察庁法改正案が廃案に追い込まれた。かつての安倍政権なら、世論の反対を受けても押し切ったはずだった。しかし、ツイッター上で「#検察庁法改正案に抗議します」とのハッシュタグ付きの投稿が広がり、著名人も声を上げ、瞬く間に数百万へと拡散した。

 政権は「世論のうねりは感じない」(政府高官)と世論を見誤る。これを機に政権の支持率は急落し、辞任表明まで復活することはなかった。