【目次へ】 自分を振返ってみる 「時の流れ」
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続折々の記 2020⑧
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 05 】10/06
補聴器 「やがてわが身」が分かる
私のkindle 好都合なもの
青空文庫 電子図書館
腰椎を丈夫にする方法 二つの検索結果
生命と自我 神とは何か
10 06 (火) 自分を振返ってみる 機械も古くなると上手く動かすことになる
momo. が 1200 となった。 よく重ねてきたものだと思う。
12月8日 がくれば 満92才 となる。
まだまだ子供たちの迷惑にはならないようにと思っている。 晴耕雨読の隠居生活と言ってもいい。 けれど晴耕雨読の隠居とは人の言葉であって、読書に関しては視力が衰えて乱視でもあり、ものの30分とはもたない。 一反歩そこそこの畑の面積で朝から夕方まで働いているわけではない。 仕事にしても腰に負担になる仕事はこれも、ものの4~50分もすればもうお手上げである。 お茶の時間になれば腰に根がはえて1時間たっても嫌にはならない。
でも畑仕事は面白く楽しく畑で野菜の手入れをしている。 野菜はかわいいのです。 いのちを持っているかと思うと愛おしくなるし、今度は何をしてやろうかと楽しみにもなる。 気楽な楽しい隠居生活で、正規に働いている人達に申し訳ないとも感じています。 90才になる頃から考え方が懐古調となり、物事の変化の姿をあれこれまとめて考えるようになった。 とは言っても実のところ、一つのことを続けてまとめ上げて考えるということは出来なくなった感じで、あっちのことを思いやり、こっちのことも思いやり、とめどもない思考世界をふらついているざまである。
たとえば、生命(いのち)とは何だろうとか、生きているとは何の意味があるのかとか、健康ってどう保たれるのだろうかとか、他人(ひと)が聞いていれば可笑(おか)しいことばかりである。 自分でも可笑しいと思うんだから他人が聞けば可笑しいのは当然のことだ。
小さい時を思い出して懐かしく思い、眠くて仕方ないようになって死ぬのだろうかとか、そう思う反面元気で生きていたいと思ったりする。 モーゼのおじさんは十戒を授(さず)かったもので、自分で十戒を作ったことはないとすれば、きっと偉い人達からその考えを教えられたのだろうとか、アフリカを40年もモーゼはみんなを連れて彷徨(さまよ)って旅をつづけたって本当かなぁとか、年寄りになってみるとそんなようにもなるのかなぁと思う。
そして、昔の大人の人たち、殊に身近な親兄弟や叔父叔母から受けた事柄を回想するようになった。 そうすることを思うと、やっぱり父母(ちちはは)を一番大事にしなくてはいけないと思う。 だから前に書いたように、大勢を率いて生きていくのには神という概念を持たせる必要があったし、命の伝承は考えても考えてもわからないので、神を信じ偶像は作るなと言っています。 実は生命(いのち)とは自分を作っている手や足でありしかもそれは親譲りの伝承であることを、モーゼに真実を伝えたというその訓戒を、突き止めていた人たちがいたと考えることになったのです。
そしてその信念というものは、私自身の核心にもなってきているのです。 親を大事にする、それが直接理解する一番手っ取り早いと考えたに相違ありません。 ですから、モーゼが授けられた訓戒とは5番目に挙げている父母を敬えと言うことが中核であり延長線上のことが十戒には書かれていると考えていいのです。
この延長線上で不変なことは、だれでも父母があるから言うことで、言い換えれば、人間社会では人を大事にすることが全ての根本であるとしていいのです。
神についての考え方が生まれたことは、前にも書いてきたように村上和雄がぶちあたった細胞の遺伝子の無限の能力は something great だと表現しているものであり、私はそれをモーゼは神(= God)という言葉で表現したのだと理解し、そう考える以外に神の意味を言葉として言い表すことはできないと考えるようになってきたのです。
野菜作りが愛おしいと書いたのは、実はこんな考えを持つようになっていたからと言えるのです。 すべての生き物は命を持っていますし、人間と同じように自分を作り出した親とか種子にによってこの世に生を得ていることに、改めて驚愕しました。
私の来し方の総まとめは、いのちは親ありてこそということに帰しました。 そしてそのことによりすべての私自身の言動は根底に親あってこそと生じてきていると理解できるようになったのです。
私が気養子として子供たちの前に立って二番目の卒業生が七日に訪(たず)ねてきてくれました。 10月27日は満81才になると知らせてくれその自家用車ナンバーは1027と教えてくれました。 懐かしい話も尽きせぬ間に時間がたちまた別れました。 私は思い返してみると、自分に関しての話が多かったことを反省しました。 これはこれからは気を付けなければならないと思いました。
話の中で良寛の句
うらをみせ おもてをみせて ちるもみじ
の良寛が訓えてくれたことを感謝して、年寄りの心がけとして話しました。 人に話をすると、自分でもそのことを脳裏に呼びおこし意識できるので、教え子の訪問に感謝しています。
人の生涯を終えるときに、こんな気持ちになれたらと願っています。
教師を去ってから思い出を書いたとき、親の心がけとして大事なことは
見られてもいい 聞かれてもいい 真似されてもいい
このことが一番大事だと感想として、書き残しました。
親から子への伝承として、親の後ろ姿の大切さは古来からの伝言のように聞いたことでした。 昔の親たちの教えはすばらしいことが多かったとおもいます。
「時の流れ」その断面ようすを「世情変態如雲(世情の変態は雲の如し)」と扁額で見たことがあった。 その雲の小さい水滴の一片としての自分が、生涯を閉じる場合どうなのか。 それは蜘蛛一匹の終焉や一年草の草花の黙って枯れゆく姿と同様、それぞれが対応すれば事足りるのです。 小さい子供の手命とのようなモミジの葉っぱのように心得てもいいのでしょう。
あした9日は台風14号がくるようです。
補聴器
補聴器……都合いいものを作ってくれた。 大昔はどうしていただろうか、ふと思うとよくもこんな都合のいいものが作られるようになったものかと感心する。
父が老年になってから補聴器をしていた。 しばらくしてから、補聴器を外してその後そのままでの生活を普段通りにしていた。 気には止めてもいなかった。
どうして外していたのか分からなかった。
自分が耳が遠くなって困ったなと思っていたが、知人に勧められて補聴器を調達した。 やがてわが身の順番だった。
都合はいいのだが、それがアダとなって機械音がガンガン耳に入るのである。これには閉口するしかない。 人とお話しているのには誠に重宝なのだが、この時に機械音が入ると頭の中が音、音、音でごちゃごちゃになる。 機械音を聞き取るには不向きなのであることが分かってきた。
都合はいいが、不都合なこともある。 一人の場足は補聴器はないほうがいい。 今日は台風で雨降りだった。 この雨の音が耳障りになって五月蠅いことおびただしい。
10 10 (土) 私のkindle これまた好都合
No. 作品名 作者名 . 01 . 夏目漱石全集 夏目漱石 03 島崎藤村全集 島崎藤村 04 吉川英治全集 吉川英治 05 江戸川乱歩作品集 平井太郎 06 宮沢賢治全集 宮沢賢治 07 柳田国男作品集 柳田国男 08 山本周五郎全集 山本周五郎 09 芥川龍之介全集 芥川龍之介 10 赤ちゃん教育 久保田競・カヨ子 11 平家物語 池澤夏樹 12 枕草子 方丈記 徒然草 . 酒井順子, 高橋源一郎他 . 13 腰痛 きょうの健康 14 応仁の乱 菊池 寛 15 学問のすすめ 福沢諭吉 16 奇跡のメモ術 池田義博 17 源氏物語 01 桐壺 紫式部 1 18 こころ 夏目漱石 19 サピエンス全史(上) ノア・ハラリ 20 神代秘史百話 酒井勝軍 21 日本古代史の謎Ⅰ 青松光晴 22 日本古代史の謎Ⅱ 青松光晴 23 育児の秘密 Newsweek 25 理想の子育て Newsweek 26 学ぶ力の伸ばし方 Newsweek 27 心と体、成長の秘密 Newsweek 28 21世紀の資本論 トマ・ピケティ 30 歴史の勉強法(1) 長月七紀 31 歴史の勉強法(2) 長月七紀 32 貧乏物語 河上 肇 33 文章力の鍛え方 樋口裕一 34 ほめる技術 鈴木義幸 35 … … 36 … … 38 … … 39 … … 40 … …
10 17 (土) 読書案内 電子図書館、青空文庫
電子図書館、青空文庫 (クリック)
青空文庫をクリックして本を読もう。 どちらからでも検索できます。
公開中 作家別
公開中 作品別
たとえば、芥川龍之介の作品「蜘蛛の糸」を読みたいとする。 芥川龍之介の作品は沢山あるから作品別ではさがすのにこまる。 この時は、作家別で調べると直ぐわかるからクリックする。 現われた芥川龍之介の作品名から「蜘蛛の糸」を探してクリックする。
こうすると、目当ての「図書カード」欄がでるので、そこの〔いますぐXHTML版で読む〕をクリックすると「蜘蛛の糸」の作品が出るのです。
慣れてくれば、簡単に作品を呼び出せるようになり都合この上もない。
10 12 (月) 京都「祈りのコース」 若かったらこのコースを歩きたい
NHKTVでちょっと紹介されて、「あゝ、この道を歩きたい」と思った。 山岳仏教として比叡山の最澄と高野山の空海この二人の壮絶な修行と実践は、今でも私たちの心の中に脈々として伝わっている。 四国の民衆に溶け込んだ遍路の旅は体験した。 一方の宮廷に取り入れられた密教では荒苦行を前提とした僧侶集団の話は聞くが体感したことはない。
弥陀の本願と一隅を照らす訓(おし)えは、道元と日蓮を含めて日本人の生活の中に底流として大事な位置づけをしている文化であると私は感じている。
歴史・文化を体感!
京都の自然と文化を一緒に楽しめる
「京都ならではのトレイルコース」
https://kyoto-gakuren.jp/wp/trail/
京都府山岳連盟ではトレイル委員会を中心に、京都市街を取り囲む山々に全長約80キロのコース、京北エリアを一周する全長約40キロのコースを整備してまいりました。
伏見稲荷駅~ケーブル比叡駅をつなぐ「東山コース」、ケーブル比叡駅~二ノ瀬までの「北山東部コース」、二ノ瀬~清滝を歩く「北山西部コース」、清滝~苔寺へとつづく「西山コース」、細野~余野~大森~山国~弓削~熊田~細野、山国~黒田と大自然を満喫できる「京北コース」と京の山々を取り囲む6つのコースを歩きながら、自然や文化を体感・体験できます。
まだ知らない新しい京都に、出会える「京都一周トレイル®」
あなたの身近なところから歩いてみませんか?
初心者の方でも安全に楽しめるよう、コースには標識を設置しています。
京都一周トレイル詳細案内
pdf トレイルを歩く1(京阪伏見桃山~稲荷奥社)
pdf トレイルを歩く2(稲荷~蹴上)
pdf トレイルを歩く3(蹴上~北白川)
pdf トレイルを歩く4(北白川~ケーブル比叡)
pdf トレイルを歩く5(ケーブル比叡~大原戸寺)
pdf トレイルを歩く6(戸寺~山幸橋)
pdf トレイルを歩く7(山幸橋~高雄)
pdf トレイルを歩く8(高雄~嵐山)
pdf トレイルを歩く9(嵐山~苔寺)
pdf 七福思案処周辺地図
pdf トレイルコースで使用可能なトイレ位置
コースのご紹介
trail_map 「京都一周トレイル」が商標登録されました。
「京都一周トレイル」は2016年11月、「京都一周トレイル会」の登録商標となりました。
京都府山岳連盟では、京都一周トレイル会と共にトレイル道の整備を行っております。今後も登録商標となった「京都一周トレイル」のさらなる価値の向上、また京都が持つ登山文化の発展・創造に京都一周トレイル会と共に努めてまいります。
10 13 (火) 腰椎を丈夫にする方法 二つの検索結果
腰痛の85%を占めているのは、腰痛症であるという。 その原因は、筋肉や関節の場合と椎間板の場合が最も多いという。
腰椎は背骨の部分で、尾骶骨の上の5つの背骨からできている。 この5つの背骨を支えているのは腹筋と背筋であり、老化が始まると運動と筋力の衰えの悪循環が始まるという。
コピーして利用するのがいい。
一つの方法
腰痛を改善する体操~腰痛予防・慢性腰痛・ぎっくり腰・腰椎椎間板ヘルニア
https://www.nhk.or.jp/kenko/atc_950.html
2019/04/08 — 腰椎椎間板ヘルニア」のケースでも、お尻から脚にかけての痛みやしびれが強まらなければ、この体操で改善する場合があります。 ... JavaScriptを有効にする方法は、お使いのブラウザのヘルプを参照してください。 ... 慢性腰痛」や「腰への負担で起こる腰痛」を改善するには、腰以外の関節をやわらかくする体操も効果的です。 ... うつぶせになり腰を反らしていく体操ですが、反らしたときに、お尻・太ももではなく、腰に痛みが強くなった場合は、改善の兆候です ...
これは検索の初めの解説です。
もう一つの方法
高齢者でも楽にできる腰痛体操 | 今日から始める腰みがき ...
https://patients.eisai.jp/koshimigaki/motion/index.html
毎日10秒ずつ増やし、3~5分保つことを目標とする。 上体前倒し: 息を吐きながら体の力を抜いて上半身を前に倒し10秒保つ。朝昼晩5~10回。 片脚あげ: 背中をつけたまま片脚をあげて10秒保ち、腹筋と脚の筋肉を強くする。朝昼晩左右交互 ...
これも検索の初めの解説です。
生命と自我 神とは何か
前から自分の考えを書き残してきていますが、角度を変えてみてみようとします。
敬神崇祖という言葉がある。 いつから使われたか調べたが出てこない。
言葉の源を調べてみると、この文字自体は漢字であり神を敬い祖先を崇める意味である。 これは間違いない使い方でしょう。 「かみをうやまい そせんをあがめる」とか「カミヲウヤマイ ソセンヲアガメル」これは発音通り日本語の平仮名と片仮名である。
漢字はもともと中国の文字ありそれを日本人は使わせてもらったものであろう。 漢の音読みは「かん」しかなく、日本で使う場合は多くは今の中国の意味と理解し、訓読みはない。 神の漢字は音読み「しん」「じん」、訓読み「かみ」が普通である。
なぜこの言葉を取り上げたかというと、モーゼの十戒の中核を表している言葉だと考えるからであり、私の解釈で言えば、神は細胞でありその伝承はすべて親子間だから、「神を敬い」親子のつながりである「祖先を崇める」と考えているからです。
いろいろ考えてみて一番大事なのは自分にとっては神よりも親なのです。 親は人を作り出したからです。 親あってこそ自分であり、母あってこそ自分であるのです。 自分の源は祖先である親であり母なのです。 ですから根本は父母(ちちはは)こそ最大に大切にし敬(うやま)わなくてはならないのです。
神とは何か?
村上和雄の理論から、私は神とは生き物を作り支えている細胞だといえるからなのです。 更に続ければ、細胞の中の遺伝子だといいます。 遺伝子の働きを調べていると、だれが考えても不思議なほどの能力がありその能力を something great と村上和雄は名付けています。 人も動物も花も木も、すべて細胞からできています。 さらに言えば、家そのものすべては生命をもっていた細胞が本体と言えるのです。
三度の食事をするとき、望ましい食膳の言葉は「いただきます」という考えを表現することが大事なことなのです。
なぜか?
動物はすべて、自分も含めて他の生命を食しなければ死に至るからです。 シェクスピアのハムレットのセリフ 「 to be or not to be (存在すべきか否か) 」 生か死か このセリフはここでは可笑しいのですが、他の生命を奪わなくては死ぬほかはないのです。
人としては他人を殺してはならないことが大切なことであり当然のことですが、動物は他の生物の命を奪わなくては死に至ることも当然のことなのです。
だから合唱して「申し訳ありません。 あなたの命をいただきます」と言い、許しを請うこととお願いをすることを誰が始めたのか知りませんが私たちは伝承しているのです。 悪い気持ではなく感謝の気持ちすらするのです。 これが「いただきます」の本旨なのです。
これこそ絶対矛盾の自家撞着なのです。 けれども私たちはこの自家撞着なしには生きていけないのです。
生命(いのち)はどうしてこんなことになっているのか?
朝焼け小焼だ、大漁だ
大羽鰮(おおばいわし)の 大漁だ
浜は祭りのようだけど、
海のなかでは 何万の、
鰮(いわし)のとむらいするだろう
山口県の浜育ちだった金子みすゞの「大漁」という詩です。
「蜘蛛の糸」の作品を残した芥川龍之介の心には、人間の良心と凡欲に悩む様子が巧みに表現されています。
私の戦争拒否は人の生と死にかかわる体験を通して、あらゆる思考の底流となっています。 これは別のことですが社会全体にかかわることになるから、大事にしているのです。
その中味を言えば、人のため国のためというプロパガンダによって戦争も誘発され、その結末は我が子の死に苦しむ親や兄弟の死に苦悶する姿は誰が何と言おうとも社会悪でしかないからなのです。
生と死と簡単に言っても、中味は物凄い人間感情の疾風怒濤の荒波に漂(ただよ)うような情緒を生むことにかかわるのです。
命こそ尊い授かりものなのです。
一体、命の願いは何なのでしょうか。
命の願いは何か?
もとになっているのは、生きる死ぬにかかわることだと言ってもいい。 私自身、この思いをしたことがありますが、実は生か死かという論理上の思考ではなくあくまで自分の判断より本能的なものに起因しているように思います。 わかりやすい例を見ていきます。 第一に子孫を残すということでしょう。 誰でもテレビで見ている光景があります。 鮭の一生のことです。
検索で「鮭の一生」を見ると、
壮絶…過酷…感動の鮭の一生 2007年02月20日鮭は知っての通り、産卵を終えると皆、力尽きて死んでしまう これは私が under line した部分ですが、鮭は本能のままに最後の力をふり絞って子孫を残し、歓喜の絶頂で死ぬのではないかと私は感じています。
1/27、『釣りロマンを求めて』にて村田基のロシア極東でのサーモンフィッシングが二週に渡って放送された。
原生のままの姿を残すオハタ川。
毎年川の流れが変わるこの川は、護岸も何も無い、自然がありのままに残っている。
その中で生まれた鮭達は、四年間海で成長した後、100km川を溯上。さらに上がって産卵しにくるとのこと。
鮭は知っての通り、産卵を終えると皆、力尽きて死んでしまう。
海にいれば餌はたくさんあるし、逃げ場も広い。
川じゃ釣人、クマなんかにすぐ狙われてしまう。
そんな危険を侵してまでも、鮭達は一斉に産卵場を目指す。
本能ってのはほんとにすごい。
鮭達が死を覚悟してるのかどうか、そもそも死というものを理解してるのかすらわからないけど、野生の力強さをとても強く感じた。
そこには鮭達の『信念』のようなものがあるような気がした。
果たして人間はこの鮭達のように強い信念を持って生きることができるだろうか?
何故か?
彼らはこの世にはないような喜びの感動の極致の表情をしてると思われるのです。 凄いなあ、とすら私を感動させるのです。 これこそ、自分でできる命の最上の歓喜の達成感だと私は解釈しているのです。 事の真相は鮭達に聞いて答えを出してもらわない限り分かりません。
人間だって喜びの極致には鮭と同じではないか、と感ずるのです。 たしか京都だと思いますが、歓喜仏を見たことがあります。
鮭の最後を見たり鈴虫の最後を見たりしているから、何故なのか考え「性交後に死を迎える生きもの」の言葉で検索してみると、あるある、いろいろ出てきた。
タコの最期は涙なくしては語れないほどに尊い
雄も雌も子孫を残す瞬間のために命を捧げるタコの死
稲垣 栄洋 : 静岡大学農学部教授
https://toyokeizai.net/articles/-/295054
鈴虫(スズムシ)の飼育と観察をしてみるのブログ 3.鈴虫の一生
https://suzu-mushi.at.webry.info/201008/article_7.html
タコの最期の項は静岡大学教授稲垣栄洋ですが、この話は『生き物の死にざま』という自分で書いた本から抜粋したものだと言います。 昨日アマゾンに発注して今日配達してくれることになっていますので、この本を見ればほかの生き物の例が出ていると思います。
ほんとに今日 10/16 本が来ました。
鮭やタコや鈴虫ばかりでなく、命の終焉について読み取れることと思います。 私は人間ですから「性交後に死を迎える生きもの」のことを推量するのですが、性交後になお生きている事実は多くの動物と同じです。
子孫を単数で残す動物や複数で残す動物にしても、その後も同じように子孫を残す本能は継続されます。 では歓喜の極(きわみ)一度で死を迎える生きものと、繰り返す生きもが死を迎える生きものとの違いはどこにあるのか。
死を迎える本能、生命 を支えている細胞遺伝子は、このことにどう対処しているのだろうか。
本能を論理的に理解すること自体、それは不可逆的なことではないのか。 はたと先詰まりの感がした。孫子 が希望をもって生きて生きていけること、それを夢見て安らかに眠りにつける、そんな風になればと願っていたがどうなのか。
自然の死をそのように考えていたがそれが正道なのか否か自信はない。
手掛かりはないのか、調べているうちに「かんながらの道」というブログに出会いました。
「かんながらの道」
カグヤ社長(野見山広明)の blog
子どもたちの未来を願い徒然なるままに書き綴るの惟神の道
http://www.caguya.com/kannagara/?p=5386
« 真の悦び~新しい可能性~ | main | 自学自習の心得 »
2013年11月19日 投稿者: 野見山広明
生存本能の本質
気候変動を感じていると、本来のあり方というものを見つめる機会が増えてきます。
人間は、自然を征服できると思うように傲慢になってきたのは科学技術の進展と関係が深いように思います。科学で証明できることが、さも真実なのだと思い込まされる教育を受けるからかもしれません。
誰かが自然から抜粋して具体的に発明した一部の技術を応用してつくった機械や、その知識が至上の価値であると思い込まされるからかもしれません。
科学で証明できないものは全部宗教や呪術の類だと、分別されるところから人間以上の存在を敬わず畏れないようになってきたのかもしれません。西洋ではエコロジーとか言いますが、何をもってエコロジーだというのか甚だ狂った考え方のように思います。自然という絶妙微細なものを人間がコントロールすることなど不可能なことです。
「エコロジー」とは、本来生態学という意味をもつ言葉です。最近は、環境保全や地球環境に負荷をかけないという意味で用いられるようになりました。自然環境保護運動や、人間生活と自然との調和、共存をめざす考え方しかし今の人類は勘違いをさせられそもそも自然というものや宇宙というものは、解明されているかのように語られますがその実は少しも解明できてはいません。否、科学では解明できず証明できない何かがあることをいつも究極には辿りつきます。その時だけ科学では証明できないものがあるとはじめて受け容れているのです。こんなことでどうするのだろうかと疑問に思います。
本来、自然など征服できるはずもなく、また科学も万能ではありません。その思想そのものが歪んでいるのに気付かないというのはなぜだろうと感じるのです。本来は、敵わないものであることを当然とし、その自然に敬意を払い、自らを従え天地に融和しつつ、慎ましく生きてきたからここまで生き残ってこれたのが我々人類のように思います。
今では、科学で証明されないものは否定するかのように伝統文化や職人たちの技術、伝承されたものが消失してきています。ここに大変な危機感を覚えますし、未来の子どもたちのことを思えば義憤が激しく沸き立ちます。
今まで数千年も廃れてこなかった生きる智慧を全部捨てていくのです。これがどれだけ危険なことであろうかと実感するのです。実は、滅ぶというのは今まで大切にしてきたことを手放すということなのかもしれません。伝承されてきたものを入れかえるということは、かつてそこまで経験してきたものを捨てるということになるのかもしれません。
だからこそ、先人たちは家訓を遺し、先祖代々で得た経験を様々なカタチにして私たちに譲ってきてくださったのでしょう。その譲られたものを有難いと学んだのがかつての私たちの謙虚な直毘霊 だったのでしょう。
直毘霊・原文 - 本居宣長研究ノート「大和心とは」もう一度、様々なことを省みる必要性を実感します。そこにはまず科学で証明できないものでも信じられるくらいは刷り込みを取り除かなければならぬように思えてなりません。自然の直観や野生の勘、血の絆など、古来からの叡智を現代へ持ち込むことかもしれません。
皇大御國スメラオホミクニは、掛カケまくも可畏カシコき神御祖カムミオヤ天照大御神アマテラスオホミカミの、御生坐ミアレマセる大御國オホミクニにして、
萬國に勝スグれたる所由ユエは、先 ヅこゝにいちじるし。國という國に、此 ノ大御神の大御德オホミメグミかゞふらぬ國あらめや。
大御神、大御手オホミテに天アマつ璽シルシを捧持サゝゲモタして、
御代御代に御ミしるしと傳ツタはり來キつる、三種ミクサの神寶カムダカラは是ぞ。
萬千秋ヨロヅチアキの長秋ナガアキに、吾御子アガミコのしろしめさむ國なりと、ことよさし賜タマへりしまにまに、
天津日嗣アマツヒツギ高御座タカミクラの、天地の共動ムタウゴかぬことは、既ハヤくこゝに定まりつ。
天雲アマクモのむかぶすかぎり、谷蟇タニグクのさわたるきはみ、皇御孫スメミマノ命の大御食國オホミヲスクニとさだまりて、天下アメノシタにはあらぶる神もなく、まつろわぬ人もなく、
いく萬代を經フとも、誰タレしの奴ヤツコか、大皇オホキミに背ソムき奉マツラむ。あなかしこ、御代御代の間アヒダに、たまたまも上伏惡穢奴マツロハヌキタナキヤツコもあれば、神代の古事フルコトのまにまに、大御稜威オホミイツをかゞやかして、たちまちにうち滅ホロボし給ふ物ぞ。(以下省略)
それが生存本能の本質というものです。
時代は過渡期に入っているからこそ誘惑や落とし穴に嵌らないように細心の注意を払い、神代から連綿と結ばれてきた初心を省み、正しく伝承していく自分へと心を高め、魂を優先する実践を積み重ねていこうと思います。
ちょっと読みずらかったと思います。 別の解説を見ていると国学者としての本居宣長の考えでは、下記のように天孫降臨という言い伝えのように、もともと神道に基づいて神を敬い天孫族のリーダーとしての天皇を中心とする考えを強く打ち出していると思われます。
天照大神と伝えたのは、神それ自体を動植物すべての生きもの(いのち)を含め、人類としては女性を中心とした考えをもって天照大神の表現をし、太陽をもって国旗にしているとも考えられるのです。
モーゼの十戒を別の表現としてまとめた意味にも理解できるのです。 モーゼの十戒については国学者にも伝えられていなかったはずです。 本居宣長の「直毘霊」を、このように推論するのは間違いかもしれませんが、私はそんなようにも考えられると思うのです。
本居宣長「直毘霊」 (〔知の快楽 哲学の森に遊ぶ〕より抜粋)
https://philosophy.hix05.com/Japanese/Norinaga/norinaga08.nahobi.html
わが国は、もともとが人心おだやかで、こざかしいことを言わなくともよく治まっていた。それは皇祖神である天照大神が垂れた教えを歴代の天皇が守ってきたからであって、それらが守られている限り、わが国は自然と治まるようにできているのである。「何事でも、おおらかで用が足りることは、おおらかなままがいちばんよいのだ。それゆえわが国の古は、そうしたこうるさい教えもなにもなかったけれど、下が下まで乱れることなく、天下はおだやかに治まって、皇位は幾久しく伝わってきたのである」(同上)というわけである。
調べていると、調べものと関係はないのだが、面白いデータが多くあるURLですので取り上げておく。
知の快楽 哲学の森に遊ぶ
https://philosophy.hix05.com/
日本語と日本文化
https://japanese.hix05.com/index.html