【目次へ】 私の生滅
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続折々の記 2021①
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 05 】02/03
転機は二度
02 03 (水) 私の生滅 転機は二度
一杯の 飲みたる水の 味わいを
問う人あらば 何と答えん
いつ憶 えたのかわからない。 自分の体験そのものは誰にもわからないという意味でした。
体験といえば生活すべてが体験といえる。 ちょうどコロナウイルスの生滅と同じように、自分の生涯の中で大きな転機と言えば二度あったと思います。
初めの転機というのは戦時中の予科練と戦後の学校生活の体験であり、もう一つは親指の骨折によって市立病院での治療中読書によってモーゼの十戒から受けた生命 びろいの体験でした。
私のいのちの生滅とは実体験による二つのエポック(epoch〔épək〕=画期的なでき事)と勝手に思っているだけのことです。
【戦時中の予科練と戦後の学校生活の体験】
戦後になってから日本の戦争は軍国主義によるものであるということで、思考の全体から言えば拒否感が動いていた。 後になってみると、世の中は民主主義の言葉で法のもとで自由権平等権平和主義の言葉を理解し、思想そのものはその理解に染め抜かれていたと感ずる。
では、民主主義の考えは良かったのかと聞かれれば、一概にそうだとは言えない。 若者にとっては明日という言葉には希望に対する明るい夢がいつもある。 戦時中だから夢はなかったかと言えば、決してそうではなかった。
釧路の鶴居村へ勤労奉仕で4ヶ月行く十勝平野を走る列車で
花もつぼみの若櫻 五尺の命ひっさげて
国の大事に殉ずるは 我等学徒の面目ぞ
ああ紅の血は燃ゆる
恥ずかしさも遠慮もなく、青春そのままの気持ちでこうした歌をうたったものでした。
土浦の予科練第一練兵場では、特攻隊として巣立った先輩の出発に、飛びゆく戦闘機を「帽ふれ!!」の号令一下、総員で帽子を振って送り出した。 予科練の訓練は若者たちの若さ一杯の気迫で、食事も電信もカッター(短艇)も真剣な気持ちの中でも愉快に過ぎていった。 ホームシックという言葉すら知らず楽しいといえば楽しい訓練でした。
ところが忘れもしない、6月10日、日曜日で朝食にイカが出た。 「今日も空襲警報か?」そんな会話もして食事が終わった。 そのとたん警報が鳴って退避活動となった。 いつもはあの固い短靴(軍靴)をはいて10分ほどの駆け足で防空壕へ避難したが、その日は土浦警衛隊として初めて第一練兵場の東側べりにあった防空壕へ退避待機していた。
しばらくして「サァ~サァ~サァ~ッ」と音がきこえ、「アッ、爆弾だァ!!」東京育が叫んだ。 みんなして親指で耳をほかの指で目を覆った。 爆弾の破裂音が続いた。
でて見ると、予科練司令の防空壕が防空壕一つむこうの場所にあって、指揮刀をふりかざし司令部本館前の「士官防空壕の救助に迎え!!」という叫びがあった。 それに応じ班員は正面の士官防空壕へ全力疾走した。 すでに近間の兵によって救出活動が始まっており、「貴様らは格納庫(航空機の格納)の救出へ迎え!!」の指示で霞ケ浦湖畔の格納庫へ向かった。
かけつく寸前に拡声器による「敵機襲来至急避難せよ!!」の放送が鳴り渡り、私たちはみな思い思いの場所へ命がけで逃げまどったのである。 誰がどこへ逃げたのか何もわからなかった。 自分自分で散らばった。 私は馬鹿みたいに東側にある防空壕へ逃げていった。 もっと近くへ逃げた人が多かったと思う。
防空壕へたどり着くや否や、「ドカ~~ン~ !!」入り口に達した途端だった。 「ナム八幡(ハチマン) ! 」目をつぶって中腰になったまま無意識にそう思った。 爆弾の轟音を聞きながら、そのままでいたことがわかり「まだ生きていた」とわかり目を開いた。 目の前まで入口の板壁が押し壊されていた。 防空壕の入り口には爆風を防ぐために盛り土があったが、僚友の吉田は首まで泥に埋まっていた。 逃げてきた格納庫横の盛り土には背中から頭にかけて鮮血にまみれて倒れた人が見えた。 逃げて飛び込んだ壕の右手前10m程のところは爆打の破裂ですり鉢のように掘れ泥が流れ込み始めていた。 壕の左裏にも爆弾が落ちたのだ。
目を開けて2~3秒の瞬間にしてもこの情景が眼前に広がっていた。 ほかのことは何もわからない。
入り口の左側から並木君が「やられた!!」と叫びながら左手首をおさえて現れたのだ。 これも瞬時のことだった。
「そんなことじぁ、駄目だ!!」私は彼の手首をとらえ出血部分の肘寄りを手拭いで止血した。 衛門横の病棟に目をやると炎で燃えている。 だが、街道へ出るしかないと咄嗟に思って連れ出した。 僚友の吉田は泥を跳ねのけて出たのだろうが、私は何も見ていなくて行動した。 後になってから何のことだと自分の不分別、不注意にあきれた。
痛みに耐えている並木には、左手で支えながら彼の右わきの下を左手で支え、10数メートル歩き始めたころ彼の歩みは力ないものに変わってきた。 フト彼の足へ目を落としてみると、何と左足の腿(モモ)の肉が剥(ハ)がれて垂れ下がっているではないか!! 私は口には出さなかった。
そんな時に、また指令防空壕の上から「全員、第二練兵場へ至急避難せよ」の命令が下ったのだ。 「ヤァ! 困った」どうしようもない、並木も号令は聞いている。 私は彼を地面に寝かせ、「あとで来るでナ」と言って走り去った。
第二練兵場へ避難してからは敵機襲来はなかった。 分隊、班ごとに集合してみると、東京生まれの小柄で白い丸顔の班友がいなかった。 彼は自分たちの兵舎の警衛用の防空壕にいたはずだった。 その兵舎の防空壕へ全員でいってみると直撃弾跡しか見当たらない。 みんな黙りこくって探したが骨も服も見つからなかった。 何ということだ!! ズボンの左内側へ42分隊第6班白川義雄と記名した一片の布切れだけが見つかった。
戦後になりこの二つのことは誰にも話さなかった。 80過ぎになって自分の過去を話した。 予科練の歌も歌うことはなかった。
戦争の悲惨さは一人だけのことではなかった。 ことに愛しいわが子を失った両親の心を思うにつけ涙せずにはいられなかった。 また死ぬかもしれない戦友を置き去りにしたことを思うと、悔恨の罪に襲われてどんな人にも話せなかった。
このことは、私の戦争拒否の心を決定づけた。 それはずっと心の中で命についてのこだわりの見えない底流となって続いていたのです。
土浦の爆撃で千葉の茂原航空基地へ移動しました。 何回か爆撃を受けました。 海軍ではというと偏るでしょうが、食糧事情は家にいた時より潤沢でまたうまかった。 敗戦となって土浦へ戻り、八月末に除隊となりました。 上野駅からの下町一望は戦禍一色、お風呂屋の煙突だけはあちこちに見えたが見るべき建物とてない情景で唖然としました。
八幡駅で電車を降り帰郷となったが、何と言って帰ったものかわからなかった。 「ただいま」とは言ったがよく記憶にはない。 白米を一斗缶で下げてきたこと、名称は海軍上等飛行兵(敗戦付与階級)で、支給金付与300円(紙幣)こんなお金は見たこともなかった。
ともかく戦争は終わった。 そして復学した。 翌年三月は卒業であった。 当時は進路指導とか就職斡旋とかそうした手段は皆無であった。 父親の勧めの話で長野青年師範学校へ進学、後で分かったが400名希望で80名合格、下伊那では二つ上が4人・一つつ上が2人・同じ年が2人・一つ下が1人の9人、戦後だから多くは助教員・高等○○専門・海兵・中等学校卒などでした。
私にとって長野の三年間は生まれ変わりの出来事だった。 財産はなく暮らしに余裕はなかったし、学費はどうするなどは考えたこともなかった。
この三年間は戦争体験を土台にした考えの継続だった(後でそう感じた)。 自分で好きな教科といえば理数関係だったが、自分の興味をそそる授業は少なかった。 いきおい頭に流れている「どうして戦争に負けたのか」という悩みが先行したと思う。 歴史の勉強をするには長野図書館を利用する以外になかった。 古本屋で本を買う余裕はない。 学校生活の中で授業以外で私の印象に強く残ったのは、歴史学習の狙いと平和への願いだった。
歴史の学習は何に役立てるか、それは「学んだことをそれからの生活に役立てる」とう大類伸さんの歴史の本のはしがきから教えられて知った。 ふつう知られている別の「温故知新」という言葉で私は理解している。
もう一つは戦争拒否に直結する言葉、平和を目的にするということで、これはユネスコを学んで得た宝であった。 浅川小学校の老先生の方から、一緒にクリスマス一夜をしましょうと誘われて、そこでユネスコを知り学んだことだった。 平和の原則は無知と偏見を取り払うことだという心構えだった。 偏見の意味使い方は理解できるが無知という言葉は訳語が不適切であった。 老先生からお聞きしたユネスコについては、仙台協力会で編集された毎日新聞出版の本を手に入れて学んだことでした。
That since wars begin in the minds of men, it is in the minds of men that the defences of peace must be constructed;
戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
That ignorance of each other’s ways and lives has been a common cause, throughout the history of mankind, of that suspicion and mistrust between the peoples of the world through which their differences have all too often broken into war;
相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信を起こした共通の原因であり、この疑惑と不信の為に、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。
That the great and terrible war which has now ended was a war made possible by the denial of the democratic principles of the dignity, equality and mutual respect of men, and by the propagation, in their place, through ignorance and prejudice, of the doctrine of the inequality of men and races;
ここに終わりを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代りに、無知と偏見を通じて人種の不平等という教養を広めることによって可能にされた戦争であった。
ignorance 無知、無学 ; (of+名)、~を知らないこと
prejudice 先入観、偏見
戦争の原因は、相互の学びの不足から生じていると理解しなければならない。 そのために生涯をかけてユネスコの精神を実践化していきたいものだと私は感じていた。
こうして、温故知新とユネスコの理解は私の腹の底のほうへ位置づいていったと思います。 それに加えて知識の貧困さが大きな衝撃でした。
戦時中であり、貧しかったこともあり、学問の大切さにはトンと気にしてはいなかった。 そんなことは知らなかった。 中江藤樹の話は教えとして聞いてはいたし、二宮金次郎の歌も唄ったし、耳には入っていた。
けれども、学ぶことがどれほど大事なことかについては自分を取り巻く環境もなかった。 というよりその心がけは全くなかった。 勉強はできたほうがいいとは思っていたけれど、けれどけれどの話しか出てこない。
ただ、叔母から漱石の「三四郎」はいい本だよと聞いたことは後々の漱石を読むきっかけになっていた。
一番面食らったのは英語でした。 英語教師は戦地で負傷したのか片足不自由な植木先生でした。 初めて教室へ入った先生は「あっ、このクラスはまだプリント渡してなかったか?」と言ったかと思うとチンからチンから階下の職員室へ行ってプリントを持ってきて配ってくれた。
わら半紙へ筆記体のガリ版プリントである。 「じゃあ、私が読んでみる」と言って英語の授業が始まった。 私はどこを読んでいるのか全く分からなかった。 寮へ帰ってから同室の友達に聞いたら同じように全くわかなないと言う。
大学ノートへ片っ端から書きとって簡易コンサイスの辞書で調べとりが始まった。 この訓練は一年時代中ずっと續いた。 二年生になってようやく進めている予習の意味が少しずつわかり始めた。 やっと興味をもって予習できるようになった有様でした。 長商卒の小島君は英語授業の途中挙手をし、「先生の so~that… の解釈は20世紀の訳し方で今は、とても~だから…である、と訳します」と発言した。 私は驚いた。 彼の学識は学識としていいが、先生と対等な立場で問答をするなど想像すらしなかったのである。
そう言えば、宇野校長の着任の挨拶で 「君達の第一の目標は学問である。 第二に…学問である。 第三にも学問である」と。 こんな言い方であったればこそ脳裏にいつまでも残った。 宇野校長は学問に励んだのだろう。 竹の繊維を調べ通して鋼鉄の弾性より竹の弾性は強いことを証明して博士号を得たと耳にしました。 血圧が高かったために冬の長野の朝だったからか倒れて帰らぬ人となってしまった。
学問の大切さは、宇野校長の言葉を聞いたせいなのかその後も論語を読んでも「学而第一」の言葉は修正忘れえない言葉となってきたのかと思う。
学ぶということは、真似るということであるという確信に達した。 教壇を去ってからの感想として、親の在り方は 「見られてもいい、聞かれてもいい、真似されてもいい」 その一語の覚悟があればいいという感想を書き残した。 このことは自分の教育者としての体験から身に染みて理解することとなった言葉であった。
このような生き方から、自分のホームページの願いを 「0歳教育」 としていろいろと自分の考えもまとめたのです。
そして、91歳になってから図らずも親指第一関節切除というとんでもないことを引き起こしたのです。 これ以降は家内に聞いてもらえば老衰が知らず知らずのうちに身に迫っていたことが判ると思います。
【すべては太陽あってこその体験】
それでも、市立病院の入院生活の一ヶ月足らずだったが、モーゼのアフリカ放浪の苦節を読み、神から授かったという十戒のもとになったいる旧約聖書の「出エジプト記」を見て筑波大の分子生物学者村上和雄著「生命 の暗号」で表現されている 「 something great (何か偉大なもの) 」 細胞こそ、生命を支えているであり、あらゆる生きものを創りあげたものであり、人間を創りあげたものだと理解したのです。 そして細胞をバックアップしているものこそ太陽という大自然の不思議な力なのです。
すべての存在は太陽あってこそ、だと私は理解しています。
いきなり、こんな記事表現を読むと「何だって?」となってしまいます。
神とは何か、主とは何か、普通に暮らしていると何のことかわかりません。 実は「創世記」(口語訳)の第1章を見るとはっきり書かれていました。
第1章
1 はじめに神は天と地とを創造された。
2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
8 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。
9 神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。
10 神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。
11 神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。
12 地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。
13 夕となり、また朝となった。第三日である。
14 神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、
15 天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。
16 神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。
17 神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、
18 昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。
19 夕となり、また朝となった。第四日である。
20 神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。
21 神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。
22 神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海たる水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。
23 夕となり、また朝となった。第五日である。
24 神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。
25 神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。
26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
29 神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。
30 また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。
31 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。
さて次に、モーゼの十戒の一番目から四番目までは「神」についてのことであり、神の説明ですが、この説明は合理的でないことは誰でもわかります。 実は「出エジプト記」(口語訳)第20章を見ると、モーゼの十戒の内容の中核は「父と母を敬え」であると私は理解しています。 それは12番目にはっきり書かれていました。
第20章
1 神はこのすべての言葉を語って言われた。
2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
7 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。
8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。
12 あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
13 あなたは殺してはならない。
14 あなたは姦淫してはならない。
15 あなたは盗んではならない。
16 あなたは隣人について、偽証してはならない。
17 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。
18 民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た。民は恐れおののき、遠く離れて立った。
19 彼らはモーセに言った、「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞き従います。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう」。
20 モーセは民に言った、「恐れてはならない。神はあなたがたを試みるため、またその恐れをあなたがたの目の前において、あなたがたが罪を犯さないようにするために臨まれたのである」。
21 そこで、民は遠く離れて立ったが、モーセは神のおられる濃い雲に近づいて行った。
22 主はモーセに言われた、「あなたはイスラエルの人々にこう言いなさい、『あなたがたは、わたしが天からあなたがたと語るのを見た。
23 あなたがたはわたしと並べて、何をも造ってはならない。銀の神々も、金の神々も、あなたがたのために、造ってはならない。
24 あなたはわたしのために土の祭壇を築き、その上にあなたの燔祭、酬恩祭、羊、牛をささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨んで、あなたを祝福するであろう。
25 あなたがもしわたしに石の祭壇を造るならば、切り石で築いてはならない。あなたがもし、のみをそれに当てるならば、それをけがすからである。
26 あなたは階段によって、わたしの祭壇に登ってはならない。あなたの隠し所が、その上にあらわれることのないようにするためである』。
旧約聖書の創世記と出エジプト記を見ると、神という概念・主という概念をまとめ上げた先人の賢い知恵におどろきます。 口語訳の表現を見ていると、ばらばらの原稿なり考え方を寄せ集めたと思われます。 だが、人がもつ想像力とか不安とか依頼心とかそうしたものをまとめ意識化を図り安心感をもたせ希望を与えた手法とみるとき、賢い結論をよく出したものだと感心せざるを得ないのです。 三人寄れば文殊の知恵の表現の通りです。
自分の粗相から命の在り方に気づき、生きものすべての根強さすべてに感謝することと、鮭の一生に見る子孫の伝承と喜悦をもって宗とする生き様を知ることができ、正・明・和の古語に思いをはせ明るい思いをさせてもらいました。
ですから前にも書いたように朝の勤行をつづけているのです。
お地蔵さまと同じように生命 を大事にします
すべての細胞は連絡しあいながら生命を支えて
その願いを 私に託しております
私は 強く 正しく 朗らかに 生命を伝え
悦 びを宗 として
生涯を送ろうと思います
昨年の親指骨折によって「イヴの七人の娘たち」に端を発した日本の祖先への望郷の念から、いろいろの本を読みました。