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続折々の記 2021①
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 09 】04/03
自然のままに
コロナウイルス第四波始まる
台湾を学ぶ必要があった
健康と呼吸法
かかとで呼吸する
04 03 (土) 季節の断面 自然のままに
春の彼岸も過ぎ、朝6時というと西山の擂粉木山に陽がさし始め30分後旧飯田市の段丘にも陽があたります。
温暖化によって、桜の満開で花弁は風に誘われて散りはじめました。 一週間くらいは早まったと思います。 それに今年は31日と1日の空は、風越山は見えないほどの黄砂でこんなことは今までに経験したことはなかった現象でした。
黄砂とは別だが、坪庭の花桃は見事な紅色で咲きほこり、すぐ近くの雪柳これもまた咲きほこった。 庭先のライラックは芽吹いて葉ものびはじめた。
柿の芽はふくらみはじめた。 もう炬燵の用はなくなった。 まさに春は全力で新たな日をくり広げはじめているのです。
ナスを植える場所は畝たて機で掘り、今日はたい肥や肥料をやって下準備をするつもりでいる。 働いていると腰を曲げなければならない。 伸ばすと痛い。 しばらくすると真っ直ぐな姿勢でも痛みはなくなる。 おかしなものだ。 少し働いていると、長く働いたように感ずるし、お茶休みにすると腰に根がはえる。 これも年を取った現在の感想なのです。おかしなものです。
けれども、今年は筋肉を丈夫にすることが一つの目標でもあるので、できるだけ動くことにしたい。
時の断面は以上です。
04 01 (木) コロナウイルス第四波始まる 台湾を学ぶ必要があった
新聞記事の罹患者変化を見て驚くではないか。
そけは、棒グラフで示されたコロナウイルスの罹患者数の変化でした。 しつっこい細菌である。 前から触れてきたように、世界で起きている核爆発による恐怖も世界の国対立のの構図も金融の不安定も地球規模での温暖化も今度のウイルスの発生にしても、すべては人間がひきおこした結果であり、世界中の人たちを不安にさせています。
今こそ私たちは、それらの現象認識をはっきりとしなければなりません。
ウイルス細菌の発生は、単にそのことだけの対処にとどまるべき課題ではないのです。 日本の政界では、代議士の選挙が続きます。
私たちが選挙の際基本的に心に決めていなければならないことは、世界の安定による平和なのです。 平和と言っても、そのなかみを表す言葉はいろいろあります。
これも前から言ってきた言葉ですが、民主主義という言葉はいろいろの矛盾を含んでいますから使わず、もっと合理的な言葉でなくてはならないのです。
一人ひとりの心の願いをそのまま受け止めて、その願いを実現する発言や活動をしてもらわない限り代議士の意味はありません。 ですから世界の安定による平和を考えている候補者は誰なのか、を一人一人が責任をもって投票しなければならない。
大事な議決の場合に党議拘束をするような政党は時代に沿わない考えなのです。 私はそう考えています。
新聞一面のコロナウイルス罹患者数の棒グラフは、いろいろと考えさせてくれました。
パソコンがこわれてしまったので、この棒グラフを載せることができません。 メールが修復したら載せようと思っています。
04 04 (日) 健康と呼吸法 かかとで呼吸する
健康と呼吸法
かつての日本人は、強い呼吸力を持っていました。大人も子供も、武士も職人も、呼吸というものが生活の一部になっていたのです。
火をおこす、水をくむ、土を耕す、稲を刈る、薪を割る、重い物をかつぐ…。
どれもみな、腹の底に深く息を吸ったり、ぐっと止めたり吐いたりしなければ、力を込めることができない動きです。
2020.11.25 今日の言葉
かかとで呼吸する
『臨済録』で「一無位の真人」が説かれていることは小欄でたびたび述べているところです。 この「真人」と表現したところに臨済禅師の面目があります。
もっとも、「真人」という言葉は、魏晋南北朝時代に漢訳仏典において、「阿羅漢」の訳語としても使われていたそうです。
鈴木大拙先生は、その著『臨済の基本思想』において、
「心と云ひ、性と云ひ、見と云ひ、用と云ひ、知と云ふところに、禅の特性を見よと云ってもよいが、自分の考えでは、臨済の人思想に至りて、これらの寧ろ抽象的なものが具體化して現はれると云ひたいのである」
と書かれています。
同じく大拙先生は、『東洋的な見方』のなかで、
「一無位の真人の意味が深い。 無位とは、階級のないこと、数量ではかられぬこと、対峙的相関性の条件を超脱したということ。 真人には道教的臭味があるが、仏者もよくこの字を使うこともある」
と書かれているように、もとは道教において使われた言葉だったようです。
『荘子』の「大宗師篇」に「真人」についての記述がございます。
『国訳 漢文体系』から、読み下し文を参照してみます。
「何をか真人と謂う。古えの真人は、寡(か)に逆らわず、成を雄(ほこ)らず、士をはからず。然るが若き者は、過(あやま)つも悔いず、当たるも自得せざるなり。然るが若き者は、高きに登るも慄(おそ)れず、水に入るも濡れず、火に入るも熱からず。知の能く道に登仮するや、此くの若し」
というものですが、読み下しだけでは意味が取りにくいと思います。
同じく漢文体系の「通釈」を参考にしてみますと、
「むかしの真人は、失敗にさからいもせず、成功を鼻にもかけず、仕事らしい仕事もしない。
こういうふうだと、しそんでも後悔などせず、うまくいっても得意にならない。
こういうふうだと、高いところに登っても平気だし、水に入っても濡れず、火に入っても火傷をしない。知が道に到達した様子は、こういったものだ」
というのです。
更に『荘子』では、
「古えの真人は、其の寝ぬるや夢みず、その覚むるや憂い無し。其の食は甘からず、其の息は深深たり。真人の息は踵(かかと)を以てし、衆人の息は喉(のど)を以てす。屈服する者は、其の嗌言(えきげん)哇(あい)するが若(ごと)く、其の耆欲(しよく)深き者は、其の天機浅し」
と説かれています。
こちらも漢文体系の「通釈」を参照します。
「昔の真人は、眠っているときには夢を見ず、起きているときには心配がなかった、うまい物を食べるわけでなく、呼吸はゆったりとしている。
真人は踵で呼吸し、衆人は咽喉で呼吸する。
人の議論に屈服しないものは、咽喉から出る言葉があたかも咽喉につかえた物を吐き出すように出てくるし、欲の深いものは、心の働きが浅い」
ここに説かれている「真人」というのが、『荘子』において理想の人物であり、道教の目指すところでもあるのでしょう。
たしかに素晴らしい人物像であります。
「士をはからず」というのが解釈の難しいところで、講談社学術文庫の訳では、「万事をあるがままに任せて思慮をめぐらすことがなかった」となっています。
とりわけ、「真人の呼吸は踵を以てす」の一言は、白隠禅師もよく引用されています。
「其の息は深々たり」という様子を表しているのです。
喉で息をするのでもなく、胸で息をするのでもなく、腹式呼吸というものでもなく、もっと身体の奥深くまで息をして、踵まで達するというのです。
一歩一歩静かに歩いていると、この踵で呼吸していることが味わえるようになります。
しかしながら、『臨済録』で説かれる真人はこういう理想の人物ではありません。
今この生身の身体に生きてはたらいているものにほかなりません。
「心法無形(むぎよう)、十方に通貫す」というものであり、それは「眼(まなこ)に在っては見と曰い、耳に在っては聞(もん)と曰い、鼻に在っては香(か)を嗅ぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉(しつそく)し、足に在っては運奔(うんぽん)す」
というように、常にはたらいているものです。
遠い目標とする人物像ではなくて、今現にはたらいているものであります。
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踵(かかと)で呼吸する
2015/7/30 2019/3/14 呼吸法, 心と体, 足について
不安な時、落ち着かない時、忙しくて時間に追われている時・・・ 「何かが自分の中でしっくりこない」、そんな気持ちになったりしませんか? それもそのはず。きっとそんな時は、しっかり呼吸できていないのです。 しっくりこないのは、具体的に言えば、「地に足が着いていない状態」ゆえなのです。 じゃあ、どうすれば、地に足着いた状態にできるのでしょう? それには、「足の裏=踵(かかと)で呼吸すること」
白隠禅師(はくいんぜんじ)
昔むかし、この日本の江戸時代。白隠禅師という、それはそれは大きな働きをした禅宗のお坊さんがおりました。この方は駿河の国・原宿(現在の沼津市)に長沢家の三男として生まれました。
十五歳の時に出家し、十九歳より旅に出て諸国を修行し、ついに五百年間に一人と言われるほどの高僧となり、やがて臨済禅中興の祖と仰がれるようになりました。
生涯に大量の禅画を残し、好んで釈迦、観音、達磨などを描き、それらの作品は現在、松蔭寺に保存されています。当時、こんな歌が詠まれました。
「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」
あの富士山に並び賞されるほどの素晴らしいお坊さんだということです。その活躍は多くの庶民を苦しみや絶望の淵から救い、また様々な健康法に関する本を書いて大衆の健康にも寄与しました。
●白隠禅師像(静岡県・松蔭寺)
さて、そんな白隠禅師が生前残した言葉に、こんなのがあります。
「衆人(しゅうじん)の息は、喉(のど)をもってす。
真人(しんにん)の息は、踵(くびす)をもってす」
どういう意味かというと、衆人とは「一般の人たち」のこと。真人とは「悟った人」のこと。喉は「のど」、踵とは「かかと=足の裏」ということになります。「一般人はのどで呼吸するけれど、悟った人はかかと=足の裏で呼吸する」というわけです。
といっても、これはあくまでも例えであって、実際、足の裏に呼吸器があるわけではありません。
この世に生きる人々は、日常あれやこれやと頭を使い過ぎ、気が上のほうにばかり行って、下半身がおろそかになってしまっているのがほとんど。これを「地に足が着いていない」状態と言います。
本来、深く正しい呼吸ができた時には、自然とその呼吸はあたかも踵=足の裏でしているかのように感じられるものです。充分な呼吸ができた時には、下半身にも気が充満し、地に足も着いて、自分の内側にしっかりと精神の土台のようなものができあがります。
目指すべきはそのような呼吸。
・・・しかし、具体的にはどのようにすれば良いのでしょう?
様々な指導家が様々な呼吸法を説いていますが、私が時々行うのは次のような方法。特別難しいものではなく、意識とイメージさえ活用すれば、誰でもできるようになります。
まずは、行う前に立って目をつぶり、自分の重心がカラダのどのあたりにあるかを確認しておくと良いでしょう。地に足が着いていないと感じる時や、不安な時、何かに追われている時というのは、大体、重心が高い位置にあって不安定なものです。そんな重心の位置を覚えておきます。
■踵(かかと)呼吸法■
① あおむけに寝て、伸びを3回くらいしてからフーッと「ため息」を3回つきます。そして、頭を左右にゴロンゴロンと転がして準備完了です。
② 足の裏に意識を向け、どんなふうに感じるかを意識します。ムズムズする、ジーンとする、冷たい、温かいなど。
③ 足の裏の感覚に注意を向けたまま、鼻から吸った息を足の裏から吐くつもりで呼吸します。(足の裏の感覚が息を吐くと強まる感じをイメージします)
④ 吐く息とともに、強くなる足の裏の感覚を感じながら、10~30回を目安に呼吸を数えます。(途中で数が分からなくなっても構いません。)*数は、30、29、…と数え、数字を少なくしていく方がリラックス効果があがります。
このように呼吸できたら、再び静かに立ち上がって目をつぶってみます。
どうですか。先ほどよりも重心が低い位置に移動し、地に足が着いた心地がしませんか?
心が落ち着き、じっくりとモノゴトを判断できるようなゆったりとした自分を発見されるかも知れません。
踵でする呼吸。 ぜひ、あなたの慌ただしい日常の、マストアイテムのひとつに加えてみて下さい。
★あの帯津先生だって参考にしています。白隠禅師は日本におけるボディワークのスーパースター!