【目次へ】 沖縄の地位協定とコロナ 不条理の典型
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続折々の記 ⑩
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】11/29~ 【 02 】12/01~ 【 03 】12/21~
【 04 】01/05~ 【 05 】01/17~ 【 06 】02/01~
【 07 】02/03~ 【 08 】02/06~ 【 09 】02/09~
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【 04 】01/05
未来のデザイン
(未来のデザイン:6)グリーン 再エネ、翼は小さくとも
グリーン 気候危機、残された時間は
沖縄の姿、数字は語る
SDGsの時代、世界市民とは
非戦託す、寂聴さんの遺言 16年夏の未発表エッセー「いい戦争などはない」
2022/01/05 (天声人語)
地位協定とコロナ 日米の不平等な課題
在日米軍という存在が、日本政府や自治体の手の届かないところにある。そう痛感させた出来事の一つが、沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落だった。2004年、大学本館に激突して炎上し、地元の消防がかけつけた。しかし火を消し止めた後、現場から締め出されてしまう▼米軍が黄色いテープを張りめぐらし、消防だけでなく警察にも現場検証を許さなかった。中に入れたのはピザの配達ぐらい。そんな理不尽さを許したのが日米地位協定である。米軍の特権を認めるこの協定は、オミクロン株の抜け穴にもなったようだ▼日本政府はこの1カ月余り、外国人の新規入国を停止するなど水際対策を強めてきた。しかし米軍関係者は地位協定により例外扱いで、米本土から直接、基地に入ることができる。基地の中では年末から集団感染が起きていた▼それがオミクロン株かどうかの検査をさせてほしいという沖縄県の申し出も、個人情報保護を理由に断られた。そうこうするうちに県内に感染が拡大し、政府はまん延防止等重点措置を使わざるを得なくなった▼水際対策は時間をかせぎ、医療体制などを整えるための手立てである。そこに政府のコントロールの及ばない部分があることは、明らかに検疫体制の欠陥だろう。しわ寄せは、基地のある地域を直撃する▼玉城デニー知事が指摘する通り「構造的な問題」だが、そこに切り込む姿勢は日米双方とも見られない。当局者たちの頭の中に、黄色いテープが張られているのだろうか。
下平評
「自由・平等・博愛」について「宝のお部屋」へも私見を述べた。沖縄の日米地位協定はその典型とみていい。誰が何と言おうと不条理である。
未来のデザイン
(未来のデザイン:プロローグ)未来は来るのか、作るのか?
歴史をひもとくと、感染症のパンデミック(世界的な大流行)は社会の変化を加速させ、時に大きな変革をもたらしてきた。いま私たちが直面するコロナ禍は、未来をどう変えるのか。将来世代の視点に立ってコロナを考えた時、私たちは何をすべきなのか。
ドリカムがコロナ下のライブに秘めた思い 変わる時代を一緒に歩もう
(未来のデザイン:1)未来は来るのか、作るのか?
望ましい未来をたぐり寄せるために今、何をすべきか――。この大きな問いと向き合うために、歴史上数々生み出されてきたのが「未来予測」だ。しかし、未曽有といわれるコロナ禍によって、多くは覆された。あるいは、加速する変化を捉えようと、新たな「予測」が世界中で生まれた。人々の不安を映すように、書店では各業界の展望が掲載された「業界地図」が売れている。未来を語ることに、どんな意味を見いだすことができるか。コロナ禍前から新しい未来を「つくろう」と模索してきた過疎の村の現場などから、その手がかりを探る。
奪われる資源、進む未来の植民地化 我々が「よき祖先」となるために
今こそ未来を語ろう 樹齢100年の森が過疎の村に教えてくれたこと
吉田美和×中村正人に聞く未来予想図 歌えない暗闇を越えてその先へ
(未来のデザイン:2)野生
新型コロナウイルスはコウモリ由来とされる。今回のパンデミックは、「人獣共通感染症」の脅威を浮き彫りにした。このリスクに備えることはすなわち、人と「野生」との関係を捉え直すことだ。世界的な森林開発などの影響で両者のすみかの境界は揺らぎ、野生動物の「密集」が進む地域もある。ウイルスがひとたび種の壁を越えれば、人やモノのグローバルな移動が加速する中で、感染は広範囲に広がる。
コロナ禍は自然のしっぺ返しか 「密」なイノシシから考えるリスク
島に住む元ちとせさん コロナ禍で見た東京の空に「人の営み」考えた
野生との距離を保つことは可能か。かねて対策の必要性を訴えていた専門家の声を、私たちの社会はなぜ受け止めてこられなかったのか。
(未来のデザイン:3)仕事 コロナ禍の中でも、私たちの暮らしは続いた。機械化が進んだ今も、日常生活に欠かせない供給網の最前線を支えているのは、人の力。その存在のありがたさが見直される機会でもあった。 だが、必要不可欠なはずの仕事を担う現場は、低賃金や劣悪な労働環境といった問題を抱えるところが少なくない。
将来的には、こうした仕事はAIやロボットに置き換わる可能性が高いとも指摘される。労働力不足を補うという点では「朗報」だが、働く人たちの側から考えると、事はそう単純ではない。
サンデル教授と未来の「働く」を考える 最高の民主主義に続く道とは
ゴミの収集停止、苦情ではなく感謝届いた コロナで気づいた当たり前
動歴史は変わるのか
歴史を振り返れば、感染症は人類の「未来」を何度も変えてきた。幾多の流行が多くの人の命を奪い、社会が抱えていた問題をあぶりだし、変革をもたらした。医療や科学技術を進歩させ、「根絶」に成功した感染症もある。だが、技術革新で人類が世界中を移動し、工業化のために「密」を生み出し、国を超えて争いを仕掛けるたびに、新たな感染症が人々を襲った。将来、新型コロナのパンデミックを振り返れば、歴史をどう変えたと語られるのだろうか。
(未来のデザイン:4)いのち ワクチン進歩、常識破り
新型コロナに対応するワクチンは、発生から1年たらずで実用化にこぎつけた。驚くべきスピードをもたらしたのは、これまで積みかさねられてきた医療技術の急速な発展だ。3Dプリンターによる人工臓器や血液によるがんの早期診断、ウェアラブル透析……。はるか先と思われていた「未来」はコロナ禍で引き寄せられ、もう目の前にせまっている。日本の平均寿命はこれから、さらに延びる。 テクノロジーに支えられた「人生100年時代」は、万人に幸せをもたらすのか。病の苦しみから逃れた先に、なにが待っているのか?
余命2年宣告、科学者は「サイボーグ」を選んだ 老いの概念が変わる
平野啓一郎さんが考える日本の弱点 現実の理不尽に目をつむるな
(未来のデザイン:5)つなかり
政府が2016年に示していた未来社会のかたちがある。「ソサエティー5.0」。バーチャル空間(仮想空間)とリアル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、人間中心の、幸福を実感できる社会を実現するというものだ。それは、5年ごとに改定されている科学技術基本計画の中で、カギになる概念として位置づけられた。
コロナ禍で、その「融合」は現実のものとなったかに見えた。しかし、技術だけで孤独は癒えず、不安は解消されなかった。かつての「青写真」から抜け落ちていたものは何だったのか。
顔見ぬ人から届いた1万1千円 孤独な父親、つながり求めたSNS
(未来のデザイン:6)デザイン
新型コロナのパンデミックは、地球規模の災厄から、ほとんどの人が逃れらないことを再確認させた。人類の生存に関わる脅威という点では、地球温暖化による気候危機はより深刻で明白だ。
科学は、2050年までに二酸化炭素の排出を実質ゼロにする「脱炭素社会」を実現することが必要だとしている。コロナが引き起こした経済危機の中で、未来を先取りした大変革への流れが加速している。一方、今後温暖化した地球で暮らす現実にも向き合わなければならない。私たちにその準備ができているのだろうか。
ハチドリの努力から火星移住まで 気候変動、生き残るため舵を切る時
「攘夷論に近い」気候変動への意識、危うい日本 安宅和人さんの警鐘
2022/01/09 (未来のデザイン:6)
グリーン 再エネ、翼は小さくとも
【ハチドリ電力などが所有する太陽光発電所。パネルの下では麦の種まきが行われていた=千葉県匝瑳市、藤原伸雄撮影】
神奈川県鎌倉市のJR大船駅前の一角にたたずむ「和酒bar Tae」。暗めの店内に設置された間接照明の柔らかな明かりが、各地の銘酒と店主の渡辺妙子さんがつくる小料理を浮かび上がらせる。「お客さんはやっと以前の7割程度まで戻ってきたかな」
2年弱、新型コロナウイルスに振り回された。休業や酒類の提供自粛が要請されるたびに店は休んだ。2021年10月中旬にようやく再開した。
その間に店の電気を再生可能エネルギー(再エネ)に切り替えた。
「気候変動で魚の生態や農家の作物に影響が出ると、普段から聞いていた」
コロナ禍で、地球のことを考えなければ、くらしていくことはできないと、改めて思い知った。毎日使う電気も見直そうと考えた。
店を支えるのは、再エネ実質100%の電気を扱う「ハチドリ電力」(福岡市東区)。代表の小野悠希さん(26)は、ビジネスで社会問題の解決をめざす「ボーダレス・ジャパン」(東京都)に就職した18年から1年間、ミャンマーで農家の支援事業に携わった。
帰国後、スウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥンベリさん(19)をニュースで知った。自分と同じ、未来を担う若者が気候変動は人類の存続に関わる「気候危機」だと訴える姿に感銘を受け、小野さんも勉強を始めた。
「気候危機はもう手遅れだという専門家の意見もあった。そんな状況で、自分には何ができるだろうか」
*
考えた末、国内で出る温室効果ガスの約4割を占める発電からの排出を減らそうと、ハチドリ電力を立ち上げ、20年8月から電力の提供を始めた。「人生をかけて再エネの普及に取り組む覚悟を決めた」と話す。
昨冬には寒波で電力需給が逼迫(ひっぱく)。本来なら利用者に電気代金のしわ寄せが行くはずだったが「環境のために一歩を踏み出した人を大切にしたい」と、自社で負担をかぶった。
名前の由来は南米の民話にある。
森で火事が起き、多くの動物が逃げる中、1羽のハチドリがくちばしに水を蓄えて運び、必死に火を消そうとした。「そんなことしても無駄だ」と冷ややかな動物たちに、ハチドリは言った。「私は私にできることをしているだけ」――。
民話はそこで終わる。
でも、小野さんはその先を考えた。
「小さなハチドリだけでは無理かもしれないが、ハチドリの姿に心を動かされた他の動物たちが協力して水をかけてくれれば、火事は消えるかもしれない」
気候危機に対しても、このハチドリのような精神で取り組みたい。名前にはそんな思いを込めた。
小野さんは言う。「個人ができることには限界はある。それでも、ベターな選択を積み重ねれば、きっと社会は変わるはず」。企業や個人からの問い合わせは、今も相次ぐ。21年末、契約は5500件を超えた。
20年10月、政府が温室効果ガスの排出を50年に「実質ゼロ」にすると宣言。国内外で、コロナ禍からの復興に気候変動対策を盛り込む動きが広がる。経済産業省の担当者は「脱炭素はサプライチェーンにも求められる。再エネのニーズは増えていく」と話す。
昨年末の千葉県匝瑳(そうさ)市。同社などが所有する太陽光発電所のパネル下にある畑で、大麦の種がまかれていた。約半年後には大きく成長し、実りを迎える。
(2面に続く)
グリーン 気候危機、残された時間は
【移転予定地から見た屋野忠弘さん宅。家の向こうに君谷川、その更に奥に江の川が流れている=島根県美郷町】
(1面から続く)
■脱炭素事業、石油業界からも コロナ禍で落ち込む需要、新たな収益源探る
コロナ禍からの復興と併せて、気候変動対策を進める「グリーン・リカバリー」の動きが世界に広がっている。
石油販売などを手がける光南工業(愛知県豊田市)は昨年3月、同県刈谷市のガソリンスタンドを水素ステーションに変えた。「脱炭素に向けて何をやるのか、選択肢の一つ」。岡田高郁取締役は話す。
経済産業省のまとめでは、1990年代半ばには全国に約6万カ所あった給油所は、その後四半世紀でほぼ半減した。低燃費なハイブリッド車の普及などで需要が減った。
そこにコロナの影響も加わった。「企業がテレワークに切り替わり、定着したことによる影響は大きい」。強まる脱炭素の流れで需要はさらに減ると見込まれ、「減り方の想像がつかない」と話す。水素ステーションは未来に備えた事業の多角化の一環だ。今はグループの親会社の送迎バスなどで利用されている。
石油元売り大手も脱炭素事業に乗り出す。
出光興産は電気自動車(EV)のカーシェアリングサービスを岐阜県や千葉県の石油販売会社と協力し展開。今春から本格的にサービスを始める予定だという。同社の広報担当者は「サービスステーション(SS)は重要な社会インフラで、崩壊させてはいけない。エネルギー企業として脱炭素には取り組まなければならないし、SSの新たな収益源を提案したい」と話す。
*
コロナ禍でも再エネやEVなど、世界のエネルギー転換への投資は堅調だ。ブルームバーグNEFによると、2020年は前年比9%増で、5千億ドル(約58兆円)を超えた。
日本政策投資銀行によると、21年度の設備投資は計画も含めて前年度比12・6%増と回復。3割の企業が省エネや再エネなど脱炭素関連投資を拡大するとしている。
道しるべもある。
国際エネルギー機関(IEA)は21年5月、50年の脱炭素社会実現に向けた工程表を発表した。
それによれば、35年には内燃エンジン車の販売を終え、40年にはすべての発電を実質排出ゼロにするなどの必要がある。
一方、コロナ禍で世界的に経済活動が停滞した20年でも化石燃料からの二酸化炭素(CO2)排出量は前年比5・4%減。経済回復を急ぐ動きから、21年の排出量は過去最高レベルに戻るとみられる。
脱炭素の流れは強まっているが、それでもまだ足りない。道のりは険しく、残された時間は少ない。
■脅威増す大雨、集落ごと引っ越し 「住み続けたい思いあるが、安全には代えられん」
気候変動の影響は、すでに世界各地に及ぶ。日本にも、移住を余儀なくされる人がいる。
20年7月、島根県美郷町の介護施設長、屋野忠司さん(50)は、自宅の窓から外を見た。水が、県道を浸し、家の前の車庫にまで迫っていた。
2年前の西日本豪雨の光景と重なった。約半世紀ぶりの豪雨に襲われ、屋野さん宅を含む、川沿い約700メートルに点在する5軒すべてが浸水した。この日は前日の降り始めからの降水量が150ミリを超えた。庭先に置いていたボートを出して近所の人たちに声を掛けたり、流されていく物資を拾ったりしてこぎ回った。
父、忠弘さん(79)が避難した集会所で切り出した。「こりゃどうしようや。住んどりゃれんで」。おにぎりをほおばっていた住民たちがうなずいた。
地区では、梅雨時と台風の季節に大雨が降る。近年は規模が増していると感じていた。話し合った末に、国の事業を活用して、集落で移転することを決めた。
集会所のすぐ裏手、標高47メートルの山の中腹へ引っ越すことになった。築20年ほどの家は、取り壊される。忠弘さんは「住み続けたい思いはあるが、水につかると家自体も弱くなる。未練はあるが、安全には代えられん」と話した。
激甚化する豪雨災害に備えようと、移住を検討する自治体は、東北や関東にもある。国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の報告書の執筆に加わる平林由希子・芝浦工大教授は「日本は世界的に見ても、洪水が多く、移住は対策の一つになりえる。温暖化により産業の継続が厳しい場所からも、将来ほかの地域へ移るケースが増える可能性がある」と話す。
世界銀行によると、50年までに世界の各国内だけで、計2億1600万人以上が、干ばつや高潮など、気候変動の影響で移住を迫られる恐れがある。
*
今後30年で、気候危機が深刻化する地球から飛び出し、別の星への移住を真剣に考える人たちもいる。
米テキサス州のボカチカビーチ。銀色に輝くロケットが、発射試験を待っている。米宇宙企業スペースX社が開発するスターシップだ。創業者のイーロン・マスク氏は電気自動車テスラで、移動の脱炭素化に先駆けた。次ににらむのが、火星への移住だ。
21年4月の記者会見では「我々は地球だけにとどまっている種であって欲しくない」などと語った。マスク氏のツイッターなどによると、30年代には基地を作り、50年には100万人を移住させるとの計画だ。
だが、大気の組成も平均気温も放射線も地球とは大違いだ。住めるようにするには、大がかりな「工事」が必要になる。米航空宇宙局(NASA)で火星探査を研究したジョエル・レビーン米ウィリアム・アンド・メアリー大教授は「火星を『地球化』するよりも、地球の大気を変える方が簡単だろう」と話す。
火星移住を目指して、地球の温暖化対策に行き着いた日本の研究者もいる。東大工学部3年の村木風海(かずみ)さん(21)は、CO2が大気の95%を占める火星について研究する中で、CO2を除去するスーツケース大の装置を開発した。「世界の人々が排出を今すぐ止めても、海面上昇は続く。CO2の回収に頼り切ってはいけないが、最後の手段ではなく、やらなければならない技術だ」
世界では、気候を改変しようという研究が進む。
気候変動の危機感は、21年11月の気候変動枠組み条約締約国会議(COP26)で、世界がさらなる対策強化に合意するのを後押しした。12月には、気候変動の予測に役立つ研究に取り組んだ真鍋淑郎さんが、ノーベル物理学賞を受賞した。
ベストセラー「シン・ニホン」著者で慶応大教授の安宅和人さんは「人類の多くは現在のようには生活を続けられなくなる、と世界は真剣に思っている。21年は、生き残るにはラジカル(根本的)にかじを切る必要があると全世界的に認めた年になった。何とか未来を変えようという運動が始まっている。急がないと間に合わない」と話す。
(根本晃、大野晴香、香取啓介、石山英明、ワシントン=合田禄、企画のグラフィックは加藤啓太郎が担当しました)
=おわり
2022/01/09 (復帰50年)
沖縄の姿、数字は語る
今年の5月15日、沖縄の日本復帰から50年になる。豊かさを示す指標はよくなる一方、本土との格差もある。基地の負担割合は増し、沖縄戦の爪痕も残る。沖縄は、そして日本は、何が変わり、何が変わっていないのか。数字をもとにこの半世紀を振り返る。
■出生率1.86、全国トップ
日本の人口が減少に転じる中、沖縄県は右肩上がりが続く。復帰後1.5倍に増え、終戦直後の1946年(約51万人)と比べると3倍近くになった。女性1人が一生の間に産む子どもの数「合計特殊出生率」は1.86(20年)と、全国平均(1.34)を大きく上回り1位。人口の8割は那覇市など沖縄本島の中南部に集中し、人口の偏りに伴う不均衡な経済発展や、都市部の交通渋滞が課題だ。
■収入低水準、製造業育たず
18年度の県内総生産(名目値)は4兆5056億円と復帰時の9.8倍。一方、収入は低水準が続き、国の各主要統計では全国平均の8割ほどにとどまる。米軍統治下で極端な輸入型経済がつくられ、製造業が育たなかったことも背景にある。子どもの貧困率は16年公表の県調査で29.9%と全国平均の2倍、大学等進学率は全国最下位の39.65%(19年)と、福祉や教育面での格差も大きい。
■主力産業、コロナで苦しく
かつて3K(基地、公共事業、観光)と言われた沖縄経済だが、現在は観光が主力産業に成長した。当初は戦没者慰霊から始まり、75~76年の沖縄海洋博や、航空各社のキャンペーンも背景に順調に拡大。観光客数は18年度に1千万人を突破した。県民総所得に占める観光収入は6.5%から14.6%に。しかし新型コロナで20年以降激減し、社会情勢に左右されやすい側面も浮き彫りになった。
■米軍関係者、5万人駐留
沖縄本島のあちこちで、フェンスに囲われた米軍基地が広がり、沖縄本島の14.6%を占める。米軍統治下の沖縄には、全国的な反基地運動の高まりを受けて本土から米軍部隊が次々と移転した。米軍は民有地を強制的に取り上げて基地を造成。国土面積の0.6%の沖縄に国内の米軍専用施設の7割が集中し、約5万人の米軍関係者が駐留する。米兵による事件や米軍機の事故も後を絶たない。
■砲弾や爆弾、1906トン残る
77年前の沖縄戦で使われた砲弾や爆弾は約20万トン。一部は不発弾として埋もれ、戦後2千件近い事故が起き、700人以上が亡くなった。復帰後は自衛隊が毎年500件超を処理しているが、県の推計では21年3月時点で約1906トンが残る。近年の処理ペースでは、すべての処理にあと100年近くかかる計算だ。沖縄戦では日米などで20万人以上が亡くなり、まだ多くの遺骨が地中に眠る。
■戦争と向き合いたい ガレッジセールの川田さん
本土に復帰した1972年に生まれた世代は、沖縄で「復帰っ子」と呼ばれる。お笑いコンビ「ガレッジセール」の川田広樹さん(48)は、その一人だ。復帰50年に向けて復帰っ子の仲間と、映画制作に乗り出している。
川田さんは那覇市生まれ。22歳で上京し、同級生のゴリさんとのコンビで人気を博してきた。印象に残る「復帰」は、卒業式や成人式。人生の節目節目で「復帰っ子おめでとう!」と祝われてきた。ただ、「自分が生まれたときなんで、復帰は記憶にない。全然ピンとこなかったんですよ」と言う。
復帰50年に思いを巡らせるきっかけは2020年夏。地元の友人の比嘉盛也さん(49)から「復帰っ子でなにかやらないか」と声をかけられた。当初はお祝いイベントをイメージした。しかし、比嘉さんと一緒に離島の伊江島へ渡ったとき、年配の男性から聞かされた沖縄戦体験に心を動かされた。
男性は「米軍に捕まればひどい目に遭う」と、家族が家族を手にかけて「集団自決」しようとしていたことを語り、「逃げることは『生きる』ということだ」と教えてくれた。
「小学生のときにも平和学習は受けましたが、大人になり、家庭を持ったからなのか、重く響いた」
沖縄戦から始まった米軍統治があり、そこからの日本復帰半世紀。川田さんは比嘉さんと21年5月、復帰っ子を中心とするグループ「結(ゆい)515」を設立し、沖縄戦の映画制作を開始した。「沖縄の歴史」と「命」がテーマだ。
団体名の「結」は沖縄の方言でつながり。「ぼくはまだ沖縄戦を受け止めることで精いっぱいですが、まずはここから向き合いたい」と川田さんは話す。映画は5月発表予定。収益はもう一つの活動の柱、子どもたちへの支援にあてる。
■選挙と行事、目白押し
沖縄では今年、大型選挙が相次ぐ。名護市長選が1月23日投開票。同市辺野古への米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設工事を進める自公政権が支援する現職と、反対する「オール沖縄」勢力が推す新顔との一騎打ちの見込み。5月15日に本土復帰50年を迎え、6月23日は沖縄戦で組織的な戦闘が終わったとされる「慰霊の日」。9月29日は知事と宜野湾市長の任期満了となる。
また今年はほぼ5年に1度開かれている「世界のウチナーンチュ大会」がある。沖縄からの移民やその子孫が集まり、親交を深める。前回は28カ国・地域から約7千人が参加した。
◆この特集は国吉美香、藤原慎一、棚橋咲月、吉本美奈子、後藤隆之、黒瀬昌明、グラフィックを甲斐規裕が担当しました。
2022/01/09 朝日教育会議
SDGsの時代、世界市民とは
■創価大×朝日新聞
SDGs(持続可能な開発目標)の実現に向けて、国境を超えて活躍する「世界市民」の存在が求められている。2021年に創立50周年を迎えた創価大学は「『世界市民』としてSDGsの時代を生きる」をテーマに、朝日新聞社と大型教育フォーラム「朝日教育会議2021」を共催。国際社会で必要とされる人材や役割について議論した。
【昨年12月4日に開催。インターネットでライブ動画配信された】
■基調講演 日本を多角的に捉え直し、繁栄志向から転換 日本総合研究所会長・多摩大学学長、寺島実郎さん
SDGsの考え方は、どのあたりから始まったのでしょうか。1972年に、世界の科学者や経済学者が集う民間組織ローマクラブが発表した、「成長の限界」という報告書につながります。資源浪費や環境悪化について警鐘を鳴らす内容でした。
では、今日(こんにち)SDGsに取り組むには何をすべきか。まずは日本が置かれている現実としっかり向き合わなければなりませんが、戦後の社会科学教育がそれを阻害しているとも言えます。例えば、多くの日本人が米国の影響を受け過ぎており、米国を通して世界を見ている。欧州や途上国など多角的な視点から世界を見なくてはなりません。
また、高校教育で日本史と世界史を別々に学んできたことで、近代日本がどのように世界とつながり、どんな道を選択してきたのかを理解していない人があまりにも多い。日本の近代史をグローバルヒストリーの中で捉えられていないのです。
そして近年、ヒトゲノム解析のような生命科学や、AI(人工知能)などの情報科学が日々進化し、人間としての真価が問われるようになりました。コロナ禍によって、戦後の日本人が信じてきた「繁栄が平和と幸福をもたらす」という思想が揺らぎ始めたようにも見えます。
こうした背景をふまえ、日本経済の実態を表す数字を見ていきましょう。
戦後の日本は鉄鋼や自動車、エレクトロニクスなどの産業で外貨を稼ぎ、「工業生産力モデルの優等生」として成長を続けてきました。IMF(国際通貨基金)などの資料によると、世界の国内総生産(GDP)に占める日本の割合は、1994年時点で18%近くまでありました。2000年には14%に下がったものの、依然としてアジア随一の経済大国でした。それがリーマン・ショックなどを経て、20年には6%まで減少しています。IMFの見通しでは、30年には4%まで落ち込むと予想されています。
日本政府の調べでは、かつて国家の経済力を示す指標であった粗鋼生産力は、この20年で21・9%減少しています。エチレンや自動車など、ほかの基幹産業の生産力もおよそ2割減。私たち国民の生活は、現金給与総額が00年~20年の間に8・5%減少し、全世帯の消費支出も12・3%減りました。
第2次安倍政権が掲げた「アベノミクス」は金融緩和や成長戦略によってデフレを脱却し、年間の名目GDP600兆円を目指すものでした。ところが、20年度のGDPは約536兆円にとどまりました。政府は「コロナの影響」とし、一切の反省がないままです。こうした数字が示す日本の現実から目をそらしてはいけません。
一方、日本を除くアジア諸国のGDPの総和は00年~20年の間に、7%から25%まで増加。世界における日本の存在感は薄れ、中国をはじめとするアジア各国が台頭する時代にシフトしました。
日本が持続可能な発展をとげるためには、どのような方向に進めばいいのでしょう。デジタルトランスフォーメーション(DX)に代表される「イノベーション」は大きな活力となります。しかし、国民が本当に幸せに暮らすためには、これまでの「繁栄のための産業」から、「安全・安定のための産業」へと意識の変革が必要です。
重要になってくるのが、成長志向の中で置き去りにされてきた産業基盤の強化、つまり「ファンダメンタルズ」です。食品関連では生産、加工、流通などの産業を強化し、食料自給率を70%まで上げるべきだと考えます。医療や防災関連産業の強化も急がれます。
複雑化する社会を生き抜くためには、「知の再武装」が必要です。大学は18歳の若者を対象にした教育が中心でした。しかし今後は現役社会人やリタイア世代など、より幅広い年代の人が大学で学ぶようになるでしょう。教育が果たす役割はますます大きくなると考えています。
*
てらしま・じつろう 早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了後、三井物産に入社。米国三井物産ワシントン事務所長、三井物産常務執行役員などを歴任し、現職。国土交通省など国の審議会委員を多数務めてきた。著書やメディア出演も多数。
■パネルディスカッション
パネルディスカッションでは寺島さん、創価大学の馬場善久学長、国連難民高等弁務官事務所のナッケン鯉都・駐日首席副代表、SDGs市民社会ネットワークの新田英理子理事・事務局長の4人が登壇し、議論した。
(進行は中村正史・朝日新聞社教育コーディネーター)
◇
――SDGsへの取り組みが広まっています。世界から日本を見た時、現状をどう捉えていますか。
ナッケン 国連の仕事でフィジーやイタリア、エチオピア、ベトナムなどを経て、22年ぶりに帰国しました。海外からの視点で日本の立ち位置を考えた時、まだまだ課題が山積していると感じます。ジェンダー問題もその一つです。さまざまな立場の人が声を上げることで、社会が変わるきっかけになるのではないのでしょうか。
新田 日本のCSO(NPOやNGOなどの市民社会組織)をつなぐネットワーク組織で、SDGs達成に向けた政策提言やコンサルティングをしています。各国の達成状況を分析した「持続可能な開発レポート2021」で、日本は前年から順位を下げ、18位でした。中でも、ジェンダー平等や気候変動対策など五つの項目で、「深刻な課題がある」と指摘されています。SDGsという言葉は広まりましたが、私たちにはまだやれることがあるはずです。
――SDGsという言葉を聞かない日はありません。一方、SDGsに関する議論は表面的なものが多く、根本的な解決につながっていないという批判もあります。
寺島 日本には5万を超えるNPOがあるそうですが、その多くが厳しい経営状況の中で活動しています。例えば米国では非営利団体に寄付をすると、その金額に応じて税制優遇が受けられる制度が定着しています。すると、「応援したい」「共感できる」と感じる団体に寄付をするインセンティブ(動機付け)となり、誰もが「一人一つのNPO」を持つようになります。日本においても社会全体でNPOやNGOの活動を支える仕組みに変えていく必要があります。
またジェンダー問題に関しては、最近、上場企業の役員に女性の姿が目立つようになってきました。「飾り」のようなポジションではなく、経営本体を支える女性たちが現れ始めているのです。これは一筋の光だと言えます。
馬場 大学も真剣に取り組まなくてはなりません。本学では2000年ごろから、平和や人権など、地球規模の課題について学ぶ共通科目を設けています。また、世界63カ国・地域の227大学と協定を結び、多くの学生が海外で学んだり、留学生と交流したりしてきました。核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のベアトリス・フィン事務局長など国内外の識者による講演会も開催し、多様な考えに触れる機会を提供しています。
――SDGsの実現に向け、国際社会で活躍する「世界市民」の育成が求められています。
寺島 少し前まで日本の産業界のトップ層は、海外で経験を積んできた人たちで占められていました。しかし、世界における日本の存在感が薄れてきて、今では真の意味で国際的に活躍する日本人が少なくなっています。そんな内向きになった社会でグローバル人材を育てるには、学生のうちから海外に出て、体験することが重要です。
ナッケン 世界を知るためには、まず日本を知ることが大切です。戦争体験や公害問題など、自分の国の歴史を知った上で初めて、相手の痛みを自分事として理解できるようになります。
馬場 「世界市民」とは相手の立場で考え、痛みを理解し、他者と協力できる人だと考えています。本学では10年度から、国際社会での活躍を目指す学生に向けて、学部横断型の「世界市民教育プログラム」を開始しました。少人数制のきめ細かい指導のもと、実践的な英語力を身に付け、ゼミや海外短期研修などで問題解決力を磨いています。
寺島 近年の教育は、専門性を高める方向に向かっています。しかし、SDGsのような大きな課題に立ち向かうには、さまざまな知を結集した「全体知」が必要です。コロナ対策において、ウイルス学や経済学などの専門家がチームで取り組んでいるように、いろいろな知が集まって初めて困難を乗り越えることが出来ます。
――コロナ禍でさまざまな社会問題が浮き彫りになりました。
新田 NPOやNGOは、社会に潜む問題にいち早く気づき、世の中に知らせるアンテナだと思っています。コロナ禍をきっかけにネットカフェ難民や外国人労働者の問題などが危機感をもって報じられるようになりましたが、ずっと前から警鐘は鳴らされていました。コロナ禍で問題に気づいた人たちが自ら考え、行動に移してくれることを期待しています。
ナッケン 世界的に見ても、日本人が困難を乗り越えていく力は素晴らしいと感じています。大きなピンチをチャンスに変え、新しい社会を築いていければよいと思っています。
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ばば・よしひさ 創価大学学長 1953年生まれ。創価大学経済学部卒業、カリフォルニア大学サンディエゴ校経済学研究科博士課程修了。創価大学経済学部教授、副学長などを歴任し、2013年より現職。専門は計量経済学。
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なっけん・りつ 国連難民高等弁務官事務所駐日首席副代表 国際基督教大学卒業、ニュースクール大学非営利団体経営修士課程修了。国連開発計画のエチオピア国連常駐調整官事務所長、国連人口基金のスリランカ事務所代表などを経て、2021年6月より現職。
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にった・えりこ SDGs市民社会ネットワーク理事・事務局長 1970年生まれ。富山県高岡市出身。大学卒業後、民間企業などを経て、98年より日本NPOセンターに勤務、2014年から事務局長。17年からSDGs市民社会ネットワークと兼務し、19年より現職。
■最前線での活動、原点は大学時代 会議を終えて
「世界市民」「SDGs」をキーワードに、時宜を得たテーマで議論が展開された。参加者の関心は高く、事前に「SDGsでは温暖化は解決しないのでは」など多くの質問が寄せられていた。本番前に4人にこのことを話すと、「本当のことを話しましょう」と士気が上がった。
寺島実郎さんの基調講演は「SDGsは、ともするときれいごとになる。薄っぺらい、表面的な議論ではすまない」という刺激的な言葉から始まり、SDGsの本質を解き明かした。国連やSDGsの最前線で活動するナッケン鯉都さん、新田英理子さんは、これまでの経緯と現在の活動を語り、寺島さんに「この人たちは本物」と評された。
創立50周年を迎えた創価大学の中長期計画「グランドデザイン2021―2030」の四つの柱は、教育、研究と並んでSDGs、ダイバーシティーだ。国連関係の機関など海外で活動する卒業生も多い。議論の中では、人材育成のために大学教育の重要性が指摘され、「学ぶこと、知ることが大事」と各自が語った。ナッケンさんも新田さんも大学時代の体験が今の活動の原点にある。
寺島さんが語った「一人一つのNPOを持とう」というのは、私たちが具体的に行動するための手がかりになると思った。(中村正史)
<創価大学> 1971年創立。建学の精神に「人間教育の最高学府たれ」「新しき大文化建設の揺籃(ようらん)たれ」「人類の平和を守るフォートレス(要塞〈ようさい〉)たれ」を掲げ、東京都八王子市にある広大なキャンパスに8学部10学科をもつ。国際交流が盛んで、多様な人々と合意形成を図り、価値創造を実践する「世界市民」の育成に取り組んでいる。
■朝日教育会議2021
9の大学と朝日新聞社が協力し、様々な社会的課題について考える連続フォーラムです。「教育の力で未来を切りひらく」をテーマに、来場者・視聴者や読者と課題を共有し、解決策を模索します。概要紹介と申し込みは特設サイト(https://aef.asahi.com/2021/別ウインドウで開きます)から。すべてのフォーラムで、インターネットによるライブ動画配信を行います。(来場者募集の有無はフォーラムによって異なります)
共催大学は次の通りです。大阪公立大学、共立女子大学、創価大学、拓殖大学、千葉工業大学、東京女子大学、東京理科大学、法政大学、早稲田大学(50音順)
2022/01/09
非戦託す、寂聴さんの遺言 16年夏の未発表エッセー「いい戦争などはない」
瀬戸内寂聴さんが生前に発表しなかった、ひとつの原稿がある。2016年夏、朝日新聞の連載に寄せられた直筆エッセーだ。タイトルは『いい戦争などはない』。「非戦を通すことが、日本人の正しい生き方である」と結んでいる。昨年11月に99歳で亡くなるまで記者の手元に残されていた。秘書によると、未発表原稿はほかに見つかっていないという。(岡田匠)
■日本人の生き方説く
寂聴さんは15年6月から亡くなる1カ月前の昨年10月まで全76回、朝日新聞に「寂聴 残された日々」を連載した。未発表原稿は原稿用紙3枚。16年8月の連載第15回に向け、記者が「戦争について書いてほしい」と依頼した。「よろこんで書くわよ」と応じてくれ、ファクスで原稿が寄せられた。
だが数日後、寂聴さんから「ふるさと徳島の阿波踊りを書きたくなった」と連絡があった。『平和だからこそ阿波踊り』と題した原稿が届き、掲載した。徳島で開いていた文学塾「寂聴塾」の塾生たちと阿波踊りに参加した思い出を振り返り、「今年はぜひ踊りにきませんか」と誘われたことを記している。
当時94歳。80代後半になっても阿波踊りに参加した寂聴さんだが、92歳のときには背骨の圧迫骨折や胆嚢(たんのう)がんの手術を受けた。遠出するときには車いすが多くなった。それでも、阿波踊りの8月が近づくと、「今年こそ行きたい。最後になるかもしれないから。でも、この足がねえ」と話していた。連載第15回の前に塾生から誘われ、戦争中は中止になった阿波踊りに、行きたいけれども行けない胸の内を書きたくなったのだろう。
未発表となった原稿には、戦時中の体験や中国からの引き揚げ、そして平和への思いがつづられている。生原稿は、瀬戸内寂聴記念室のある徳島県立文学書道館(徳島市)、ファクスで届いた原稿は朝日新聞が保管している。寂庵(じゃくあん)の了承を得て掲載した。
徳島県立文学書道館の学芸員の竹内紀子さんは「戦時中の多くの思い出をコンパクトにまとめた原稿は非常に珍しい。日本人の生き方を説いた最後の一文は、まさに寂聴さんの遺言といえる」と話している。
■(寂聴 残された日々)いい戦争などはない 真実を知らなかった私たち
連日のように知友の死が報じられるこの頃である。私はすでに満九十四歳になっている。知友も、九十を越し、それより若くても八十代の終(おわ)りである。いつ死んで不思議ではない、と思いつつも、病気と聞いても見舞(みまい)に行く元気もなくなった自分の老衰に呆(あき)れている。
私や友人たちは、大正生(うま)れだから、みんな九十前後になっている。口々に、「なぜ死なないのだろう。もう生き飽きたわ」と、腹立たしそうに言う。青春をまさに戦時中に送った私たちは、結婚の相手は大方戦争に捕られ、トラック一杯の女に男は一人など言われた青春時を送り、中には五度も結婚し、五人の夫に戦死された友人もいた。旧(ふる)い名の通った生家の呉服屋を守るために、何度もした結婚であった。
戦時中は大本営発表だけを信じさせられ、負けていることは知らされず、勝った勝ったと、提灯(ちょうちん)行列をしていたのである。
私の小学生の頃は、日本は世界三大国の一つだと教えられていた。戦争には負けたことはなく、危(あぶな)くなったら神風が吹くと信じさせられていた。召集令状が来ることは一家の名誉であり、町内をあげて祝い、見送った。姉と二人姉妹で、出征する若い男のいなかったわが家は、いつでも、肩身のせまい思いをしていた。ようやく姉の夫として結婚してくれた義兄が出先の満州で応召された時は、町内にふれ歩いて自慢した。義兄は満州で敗戦になり、ソ連へつれてゆかれ、六年も帰らなかった。
*
私は結婚して夫の任地の北京へ渡り、そこで終戦を迎えた。夫は私より九歳も年長で、三十二歳にもなって北京で応召した。生後まだ誕生日も迎えていない女の子を抱え、私は途方に暮れたが、すでに内地との文通も絶えていたので、故郷に告げることもできなかった。
昭和二十年の六月出征した夫は、どこへ行ったとも不明だった。応召の直前、ドイツ系の大学から北京大学に移っていた夫の給料は、日本から来る筈(はず)が、郵便も届かなくなり、全く来なかった。
焦って走り廻(まわ)り漸(ようや)く就職した私の初出勤の日の正午すぎ、運送屋のその家で天皇のラジオの声を聞かされた。波の音のような間にキイキイした声だけが伝わり、何のことかわからない。突然、店の主人がわっと泣き「負けた!」と叫んだので、私はそのまま走りだし、子守(も)りにあずけている子供の許(もと)に帰っていた。午前中働いた報酬を貰(もら)いそこねてしまった。
*
それから、夫が帰り、引揚(ひきあ)げまでの苦労は、当時の人々と同様人並(ひとなみ)に味(あじわ)ったが、それらはすべて小説家になってから書き尽(つく)している。四歳の子を夫の許に置いて家出するなど、敗戦がなければ、思いもよらないことであろう。
戦争で私は、変(かわ)った。変ったことを、今も後悔していない。ひ孫も生れ、今は娘や孫ともつきあっている。
いい戦争などは決してない。非戦を通すことが、日本人の正しい生き方である。
■使命を背負い探った、作家としての伝え方 小説家・平野啓一郎さん、未発表原稿を読んで
瀬戸内寂聴さんと親交のあった小説家の平野啓一郎さんに未発表原稿を読んでもらい、話を聞いた。
◇
戦争経験者が少なくなり、晩年は自分自身が語っていかないといけないということも、社会的な使命感として感じていらした。特に、この原稿を書かれたときの政治状況をうれえていた。
歴史修正主義が広がり、大陸侵略にしても朝鮮半島の植民地化にしても、日本の戦争を肯定する言説が盛んになっていた。安倍政権による解釈改憲・安保法の成立もあり、他方で他国へのバッシングなど悪いナショナリズムのあおり方が蔓延(まんえん)していた。それに対する警戒感を強く持ち、事実を伝えなければいけないという思いがあったのだろう。
非常にいい文章だが、阿波踊りのことを掲載したくなった気持ちもわかる。政治的な発言をする人たちに社会が頼りすぎている。瀬戸内さんは政治参加に熱心だったとしても、一作家だから、いつもその問題を引き受けて、発言し続けることに一種の疲労感もあったと思う。
僕も新聞のインタビューを受けると感じる。新聞が社説で書けばいいことを作家や知識人にインタビューという形で語らせ、自分たちは何も書かないと、疲れてくる。瀬戸内さんは戦時中、信じていた報道にだまされた経験がある。戦争という原体験を通じ、政治そのものとメディアの両方に強い警戒感を持っていた。
阿波踊りは、寂聴連を持っていたし、その時期の話題でもあり、書きたいテーマだったと思う。もちろん作家だから、ストレートな政治的なメッセージではない形で、そのことを訴える内容のほうがいいと考え直したのかもしれない。 政治的な文章は文学的な内容ではない。戦争はよくないと当たり前のことを言わなければならず、それを書くにあたって、実体験ではない別の方法から書きたくなったと想像する。阿波踊りへの思い入れをつづりながら、平和の話に結びつけたかったと思う。99歳まで書き続けることは、すごいこと。ほかの人にはできないし、非常に尊敬している。(談)
■「命ある限り言い続ける」
原稿につづられた戦争体験は、平和を訴え続けた寂聴さんの原点だ。
寂聴さんは1940年、東京女子大学に進み、真珠湾攻撃の日は大学の寮で迎えた。在学中に結婚。大学を繰り上げ卒業して北京に渡った。
敗戦翌年に引き揚げ、夫と娘と長崎・佐世保に着いた。窓ガラスがなくなった列車で徳島に向かう途中、焼け野原となった広島を見ている。徳島に着くと、母と祖父が防空壕(ごう)で焼死したことを知らされた。
寂聴さんは生前、「正しい戦争と教えられてきたが、戦争に負け、自分の愚かさに気づいた。自分の目で見て、耳で聞き、心で感じたことだけを信じて生きていくと決めた」と話していた。
流行作家になった寂聴さんは73年、51歳のときに岩手・中尊寺で得度した。作家として書き続けながら僧侶としても反戦を訴えた。
寂聴さんが何度も語っていた言葉だ。「戦争にいい戦争はない。愛する人が殺し、愛する人が殺される、それが戦争です。お釈迦さまは『殺すなかれ、殺させるなかれ』とおっしゃった。命ある限り、戦争をするなと言い続ける」
■瀬戸内寂聴さんと戦争
<1922年> 徳島市生まれ
<41年> 東京女子大在学中、太平洋戦争開戦
<43年> 結婚。大学を繰り上げ卒業し、北京へ
<44年> 長女出産
<45年> 夫が現地召集。終戦
<46年> 夫と娘と中国から引き揚げ
<73年> 岩手・中尊寺で得度
<74年> 京都・嵯峨野に寂庵を結ぶ
<87年> 岩手・天台寺の住職就任
<91年> 湾岸戦争に反対して断食
<2003年> イラク戦争に反対して朝日新聞に意見広告
<08年> 憲法9条京都の会結成
<15年> 安全保障法制をめぐり国会前で抗議
<21年> 11月9日、99歳で死去
「今を生きるあなたへ」 瀬戸内寂聴 SB新書 \990
最後のメッセージ 寂聴
若き日に薔薇を摘め。トゲで傷ついてもすぐに治ります
見返りを求めないのが本当の愛情です。「渇愛」ではなく、「慈悲」の心で
「私なんか」と自分を否定せずに、「私こそは」と思って生きなさい
好きなことが、その人の才能です。何歳になろうが好きなことは見つかります
いい波が来たら見逃さずに乗りなさい。都合が悪いことは忘れても構いません
この世に変わらないものなどない。苦しみや悲しみもいつかは変化する
「あの世」があるかどうかわからないが、あると思ったほうが楽しい
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2022/00/00
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