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続折々の記 2022 ④
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】05/06~     【 02 】05/08~     【 03 】05/10~
【 04 】05/15~     【 05 】05/16~     【 06 】05/18~
【 07 】05/18~     【 08 】05/26~     【 09 】06/04~

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【 04 】05/15
     基地負担、続く50年   人:人=国:国
        基地負担、続く50年
        米軍、沖縄に遠ざけた
        写真で振り返る1971年5月15日 5・15、あの日の沖縄
        いちからわかる、沖縄の復帰50年
        復帰後の沖縄に生まれた表現者 山城知佳子さん、石川竜一さん
        問い続ける、あの日に決めたけれど
        
 2022/05/15 復帰50年 基地はなぜ動かないのか
 基地負担、続く50年   人:人=国:国

人:人=国:国  この原則が踏みにじられているのは何故か、それが問題の根幹にあると私は思う。

それでは、紙面を見ていこう。

【写真・図版】「祖国復帰闘争碑」が立つ沖縄本島最北端の辺戸岬。復帰50年の節目に多くの人たちが訪れていた。沖合には与論島が見える=14日午後、沖縄県国頭村、藤脇正真撮影

 柔らかな日差しが朝の教室に差し込んでいた。▼2面 海兵隊維持 求めた日本政府 ▼5面 写真で振り返る1971年5月15日 ▼6~7面 本土と沖縄の米軍基地 ▼29面 復帰後の沖縄に生まれた表現者 ▼31面 結婚祝いの「憲法手帳」いまも

 1972年5月15日、静岡市。小学2年の田中千香子さん(58)は教室で、先生が来るのを待っていた。二重まぶたが印象的な、20代後半くらいの女性。やさしくて、みんなから慕われていた。ただ、この日、教卓の前に立つと、表情はゆがんでいた。

 「私の生まれた沖縄というところは、みんなの住む日本に帰ってきます」

 「でも、私は少しもうれしくありません」

 静岡駅前や、東京・銀座のデパートでは「復帰セール」や記念メダルの即売会が催され、新聞には「日本でいちばん『太陽に近い場所』」とうたった航空会社の広告が並んでいた。

 先生もきっと喜んでいるはずと思っていた。予想もしていなかった言葉に、なんで?とは聞けなかった。
    *
 土砂降りの雨だった。

 1972年5月15日、那覇市。36歳の中学教員だった山城正二さん(86)は公園で、ずぶぬれになりながら拳を突き上げていた。

 米軍統治下、事件事故は頻発し、まともに裁かれることもなかった。祖国への復帰を果たし、基地のない平和な島を取り戻す。その願いが裏切られ、1万人もの人たちが声をあげた。「本当の『復帰』のための闘いはこれから始まる」

 手元には希望もあった。「復帰のために沖縄の人々が一生懸命になっている」「少しでも役に立つよう努力し心から祈ります」。高校生、銀行員、主婦。本土に住む、見ず知らずの人たちから届いた手紙だった。

 復帰までの7年間、雑誌や新聞で見つけた名前と住所に宛てて、力を貸してほしいと手紙を送り続けた。

 ただ、復帰を境に返信はめっきり届かなくなった。
    *
 静岡の田中さんは20歳を過ぎ、沖縄へ遊びに行くようになった。雑誌で目にしたサンゴの海に憧れた。ツアーで沖縄戦の戦跡を案内されると「こういうことをしに来たわけじゃないのに」と思った。ただ、延々と続く米軍基地の広さに衝撃を受け、あの日の先生の思いにふれた気がした。

 結婚し、2人の娘を育てた。親の介護にもおわれ、沖縄からは遠ざかった。ニュースを聞くと、ときどき先生を思った。少女が被害に遭う事件が胸に迫った。

 沖縄の見たいところだけを見る。そんなずるさが自分にはあったのか。先生の言葉があったから、気づけたのかもしれない。ただ、先生に伝えるべき言葉は今も見つからない。
    *
 山城さんは復帰40年を迎える頃、かつて返信をくれた人たちに手紙を書き送った。地元の名護市の海は、県内の米軍基地の移設先となっていた。変わらぬ実情を知ってほしかった。多くは宛先不明で戻ってきた。

 車で北へ約40キロ。かつての「国境」が見える辺戸(へど)岬にこの10年、足を運び、観光客らに声をかけている。

 「先日も、女性が被害に遭う事件がありました」「県民の7割が反対しても、その声は無視される」

 あの日、望みをつないだ祖国が、遠くかすむ。復帰とは何だったのか。(福井万穂)
    ◇
 沖縄の日本復帰から15日で50年。国土面積の0・6%の沖縄県に、全国の米軍専用施設の約7割が集中し、騒音や環境汚染、米軍人らの事件事故が相次いでいる。15日は午後2時から記念式典が沖縄と東京の2会場で開かれる。県と政府の共催で、沖縄会場では、岸田文雄首相や玉城デニー知事が式辞を述べる。天皇、皇后両陛下はオンラインで出席する。玉城知事は13日、式典を前に「先人たちの労苦と知恵に学ぶとともに、沖縄の歩みや、平和を愛する心、沖縄の自然や文化、将来の可能性を発信する機会にしたい」と話した。

▼2面 (復帰50年 基地はなぜ動かないのか:1)海兵隊維持 求めた日本政府
米軍、沖縄に遠ざけた

【画像・図表】
1 沖縄返還交渉時、外務省に勤めていたころの話をする加藤良三さん=東京都新宿区、小林一茂撮影
2 沖縄の琉球新報記者として復帰前後に東京で取材した元編集局長の三木健さん=沖縄県浦添市、木村司撮影
3 沖縄返還と米軍基地をめぐる動き
4 「関東計画」と米軍の沖縄移駐

 佐藤栄作首相・ニクソン大統領・屋良朝苗(やらちょうびょう)琉球政府主席という3人が日米琉のトップに選ばれたのは1968年11月。役者がそろい、沖縄返還交渉は本格化していく。

 その11月のことだ。沖縄・嘉手納で、寝静まる人々を轟音(ごうおん)と爆風が襲った。ベトナムへの出撃を繰り返してきたB52爆撃機が嘉手納基地で爆発、炎上。事故の恐れを指摘してきた地元議会はその日のうちに「基地撤去」を決議した。

 米軍基地反対の声は、沖縄からだけではなかった。1月には佐世保で米原子力空母エンタープライズ入港をめぐるデモがあった。3月には東京・王子でデモ。6月には九州大へジェット機が墜落した。沖縄国際大の野添文彬准教授によると、オズボーン駐日米公使は「大衆の要求は爆発寸前のレベル」と警告する書簡を本国に送った。

 「米軍の存在を視界から遠ざけようとしている。日本人は占領の痕跡を減らしたいと望んでいる」と米公文書には記されている。

 こうして米国は、片手で沖縄返還交渉を進めながら、もう片方の手で在日米軍基地を整理する構想を練り始めた。

 70年12月には、三沢・横田・厚木・横須賀・板付などの閉鎖や大規模な部隊移転を柱とする計画をまとめた。73年1月には、関東地方の空軍基地を横田に集約する「関東計画」も日米合意された。

 だがこうした流れに、沖縄は取り残された。

 「沖縄返還の基本的な前提は、在沖米軍の削減ないし縮小ではなく、その機能の維持にある」と米側の態度は硬く、削減どころか、ベトナム帰りの部隊が再駐留し、本土の再編のあおりで横田のF4戦闘機部隊が嘉手納に移された。

 72年の復帰をまたいで実現されたのは、沖縄ではなく本土の米軍基地の削減だった。

 71年から73年で、米軍基地面積は、本土で214平方キロから102平方キロに半減。沖縄では、324平方キロから275平方キロと、15%減にとどまった。全国の米軍専用施設の7割が沖縄に集中する構図は、ここから始まる。

 沖縄の基地を減らす試みもあった。

 野添准教授によると、米国務省内では73年、普天間飛行場について「人の多く住む地域を低く飛び、目立った騒動を引き起こす」と問題視され、沖縄からの海兵隊撤退も検討された。

 それを引き留めたのは、ほかならぬ日本政府だった。防衛庁幹部は同じ年の日米協議で、米側が有事に対応するという「目に見える証拠を維持しなければならない」と海兵隊の維持を求めたという。

 復帰前に那覇空港にいた米軍のP3対潜哨戒機は75年、嘉手納へ移された。当初、米側は岩国と三沢を含めた玉突き移転を提案していた。

 これへの日本側の反応が米公文書に残っている。

 福田赳夫外相は、本土移転は「政治問題を引き起こす」ので、「本土ではなく、沖縄の別の基地に」と求めた。そして外務省の吉野文六アメリカ局長は、沖縄にとどめておくためならば「いかなる資金も支出する用意がある」と伝えた。

 沖縄は米軍の収容先のように扱われ、基地問題は沖縄の中に閉じ込められた。米国は「返還後の数年で東京は積極的に沖縄の基地を受け入れようとした」と分析した。

 復帰の3年後。沖縄県金武村(現金武町)である事件が起きた。海水浴に来た女子中学生2人が米兵に石で殴られ、気絶した間に暴行された。

 国会で、日米地位協定の改正について問われた外務省の山崎敏夫アメリカ局長はこう答えた。「駐留軍というものがおる以上、若干のそういう不祥な事件が起こることは当然であるわけでございます」

 ■「本土並み」沖縄の声棚上げ 「あれ以上、削減できなかった」

 元駐米大使の加藤良三さん(80)は返還交渉の際、外務省で沖縄の米軍基地の縮小に取り組んだ。

 スタートは、基地がいくつあるのかを把握する「土俵づくり」からだったという。政府は1969年3月の衆院で「150少しぐらい」あるとし、1カ月後の参院では「約120カ所」と答えた。日本の求めで米側が出した地図には163カ所が記されていた。

 当初から、基地を大きく返還させるのは難しいと感じていたという。「米側は『一括して継続使用でいいじゃないか』と来ますから『それじゃダメだ』と」

 「目玉」とされた那覇空港などの返還には全力であたり、それ以外は「できる限り少なく」という方針だった。「極東最大級と言われた嘉手納基地を返還しろといっても無理ですよ。しかし周辺を1インチでも削れないのかといったら、議論の余地はある」

 本土の基地は大なたを振るうような変化が起きた。「しかし同じことを沖縄で求められても困る。そこまで減らせないことも肌で感じていました」。70年6月、外務省は「現在の70%前後に縮小すれば、国民の目には整理統合が行われたと映る」と米側に伝えている。

 結果的には、復帰後も87カ所が米軍に提供され、基地は8割が残った。「ギリギリまで頑張ったつもりです。あれ以上は削減できなかった」

 復帰時の基地のあり方は「ゴールではなく、出発点という気持ちだった」と加藤さん。では沖縄のどんな未来を想像していたのか。「正直、そこまで具体的には考えていませんでした」

 琉球新報の元編集局長、三木健さん(82)は復帰前後、東京を拠点に取材した。何度も上京してくる屋良主席の姿とともに、焦りを募らせたことを覚えている。

 象徴的だったのは「本土並み」という言葉をめぐる沖縄と日米の落差だった。

 沖縄は、「本土並み」に基地を減らしてほしいと要求していた。日米間では、復帰後も沖縄の基地の自由使用を認めるのかが焦点の一つだった。69年11月、沖縄返還合意とともに首脳会談で確認された方針は「本土並み」。これは沖縄にも本土と同様に日米安保条約を適用することを意味した。

 返還合意に向けた交渉を、三木さんはつぶさに追いかけた。首脳会談直前、渡米する佐藤首相に面会するため、屋良氏が上京。1カ月近くかけてまとめた文書を携えていた。

 「本土並み基地ということに疑惑と不安を感じております」「形式的な法律制度上の本土並みでは納得できません。基地の内容についても十分考慮され、犠牲が続くことのないよう」

 「沖縄からの最後の訴えです」と屋良氏は立ち上がり、佐藤首相の前で読み上げた。三木さんは振り返る。「基地の密度や規模、機能について問いただす屋良氏の訴えは、日米間でまともに議論された記憶はない。本土並みというあいまいな言葉で、国民世論は沖縄返還を歓迎していった」

 復帰当日。三木さんは東京・日本武道館と沖縄・那覇市民会館で同時開催された式典を、東京で取材した。

 沖縄の澄んだ空をイメージした青い背景に掲げられた日の丸を前に、佐藤首相は万歳三唱した。お祝いムードに包まれる会場。沖縄の会場では屋良氏が「これからもなお厳しさは続き、新しい困難に直面するかもしれない」と語っていた。
 三木さんは言う。

 「領土の返還を果たしたからこその万歳だった。私たち沖縄県民の要望は、この先、果たされるのか」

 何のための、誰のための返還だったのか。棚上げにされた課題が、そのまま残された。普天間飛行場の南4キロほど、東シナ海を見下ろす自宅で三木さんは今、そう考えている。(編集委員・谷津憲郎、木村司)

 ◇沖縄の基地問題はなぜ、大きく進展しないのか。基地集中はどのようにしてできあがり、いまにいたるのか。その構造や背景をときほぐし、日本にとって沖縄復帰50年とは何か、を考えます。

▼5面 (復帰50年)写真で振り返る1971年5月15日
5・15、あの日の沖縄

【写真】
1 沖縄県豊見城村(現・豊見城市)の上田小学校では、復帰を考えるクラス別討論会を開いていた。「ふっきしても」「アメリカ軍はでていかない」「きちはそのまま残る」と黒板に書かれている
2 那覇市の琉球銀行で使い慣れた米ドルを日本円に交換し、見慣れない1万円札をじっと見る女性
3 午前0時、沖縄全島に復帰を告げるサイレンが鳴り響いた。沖縄県庁の知事室周辺(後方の建物)の窓はこうこうとあかりがついていた
4 午前0時、東京都板橋区のバス会社の寮で、復帰を伝えるテレビの映像に合わせて沖縄県人の家族らがハブ酒で乾杯した。郷里の祝い唄も飛び出し、三線に合わせて歌って踊って喜び合った
5 石垣市の白保集落では未明に、復帰を祝うちょうちん行列があった。沿道の家々からも「バンザイ」「バンザイ」の声がかかった
6 午前7時30分、B52戦略爆撃機に給油するため、米空軍嘉手納基地を発進するKC135空中給油機。ベトナム戦争で、米国は北ベトナムへの全面爆撃を再開したばかり
7 那覇市の国際通りでは夕方、自衛隊配備や米軍基地の存続を伴う復帰は「沖縄処分」だと反対するデモが行われ、大勢の人々がその様子を見ていた

 1972年5月15日。降り続く雨の中、沖縄は、本土復帰の日を迎えた。「街は静かで、人通りも少なかった。当初あった復帰歓迎の熱気は失われていた。米軍基地が残ることや経済への不安が大きくなっていた」。取材をしていたカメラマンはそう話す。

 ベトナム戦争が激化する中、米軍基地からは、いつもと同じように米軍機が飛び立った。クラス別の討論会で、「復帰」について小学生が書いた「きちはそのまま残る」という不安は、いま、現実となっている。

 50年前の「復帰の日」に撮影された写真から、当時を振り返る。

▼6~7面 (復帰50年)本土と沖縄の米軍基地 
いちからわかる、沖縄の復帰50年

 沖縄の本土復帰から、15日で50年。沖縄が期待したのは、米軍基地の負担が「本土並み」に軽くなることだったが、この半世紀でより縮小が進んだのは本土の米軍基地だった。沖縄への負担の偏りは、どうつくられたのか。

 ■返還、本土が優先 米軍への反発、解消狙う

 第2次世界大戦の敗戦後、日本は連合国に占領された。1952年のサンフランシスコ講和条約発効で主権を回復するが、同時に日米安全保障条約が結ばれ、50年代の日本には少なくとも33都道府県に300以上の米軍基地があった。面積の比は、本土が9割、沖縄が1割。当時、米軍への反発は、本土でも沖縄でも起きていた。

 米国は、沖縄に部隊の一部を移し、本土の反発を抑えることを狙う。本土の基地は返還が進み、米軍統治下の沖縄では約2倍に拡大された。58年には本土から米軍地上部隊の大半が退き、60年ごろには基地の割合は半々となる。70年代には首都圏の空軍を横田基地(東京)に集約する「関東計画」で基地はさらに縮小され、一部の部隊がまた沖縄へ移された。

 この50年ほどで本土の基地は6割以上減ったが、沖縄での返還は3割余。国土面積0.6%の沖縄に7割の米軍専用施設が集中する状態が続いている。

 ■首都圏で一気に縮小 去った米兵、消えた政治対立

 東京都西部の中核であるJR立川駅(立川市)。北口には大型デパートやホテルが立ち並び、モノレールが通る。一帯はかつて、米軍立川基地だった。

 駅前の映画館「シネマシティ」の相談役、鈴木宏兒さん(81)は、当時をよく覚えている。前身の映画館は、基地のフェンスの目の前。米軍機がエンジンをふかすと、木造の劇場は震えた。洋画の上映館には、日本人女性を連れた米兵が多く訪れた。周囲の繁華街も、米兵相手のバーやキャバレーでにぎわった。

 立川は「デモの街」でもあった。1955年に基地の拡張計画が浮上し、住民らが猛反発。砂川闘争に発展した。デモ隊は連日、映画館前の通りを練り歩いた。内輪でけんかになった学生たちが映画館のロビーに飛び込んでくることもあった。

 米兵相手の商売で栄えた立川で、基地を語ることはタブーだった。77年、立川基地は全面返還され、米兵がいなくなり、政治対立も消えた。鈴木さんは「返還されてよかったとか、困るとか、そういう会話はこの街になかった」と話す。

 沖縄が復帰したこの時期、首都圏のほかの米軍基地も一気に返還が進んだ。調布飛行場(東京都調布市)周辺の米軍住宅は味の素スタジアムや東京外国語大学のキャンパスに、「グラントハイツ」と呼ばれた一帯は光が丘団地(練馬区)などに変わっている。

 ■「住民生活より米軍」いつまで 沖縄テレビキャスター・平良いずみさん

 米軍基地が集中した沖縄で、何が起きてきたのか。現地で取材を続ける沖縄テレビのキャスター・平良いずみさん(45)に聞いた。

 忘れられない体験があります。2004年にあった沖縄国際大への米軍ヘリ墜落事故。大学の壁が黒く焦げ、周辺の住宅にも機体の破片などが飛び散り、赤ちゃんが寝ていた部屋の窓ガラスが割れていました。

 なのに、日米地位協定が壁になって、警察すら現場に近づけない。本土の関心も低く、全国に放送できたのはわずか30秒。「日本という国はどうなっているの」と思いました。

 沖縄では、米軍は身近な存在です。親族が米軍基地で働いたり、米軍関係者と結婚したり。「賛成、反対」と簡単には割り切れません。

 けれど、ヘリの窓が小学校に落ち、川から発がん性が疑われる有機フッ素化合物が高濃度で検出される。戦闘機が深夜、未明に離陸するのも日常。新型コロナウイルス対策でも、米軍関係者は日本政府の水際対策をすり抜けていました。住民生活より米軍の都合がいつも優先されてしまう。基地問題は、命や暮らしに関わる問題なのです。  16年には、20歳の女性が米軍属の男に殺害される事件が起きました。当時育児休業中でしたが、約6万5千人(主催者発表)が集まった抗議集会に8カ月の息子と参加しました。息ができないほどの暑さの中、汗と涙を流す参加者たち。「いつまでこのような状態を続けるのか」。私たちは常に問い続けています。
 (6面に続く)

 (7面から続く)
 ■復帰とは――50年前、立法・行政・司法の権利が日本に返還

 復帰から半世紀を迎え、沖縄県内でも「復帰」を知らない世代が多くなっています。一方で、今も「真の復帰とは何か」といった問いが続いています。

 Q 「復帰」って何のこと?

 A 沖縄は戦後27年間、米軍の統治下に置かれました。日本国憲法が適用されず、立法・行政・司法といった施政権は米国が握っていました。その施政権が1972年5月15日に日本に返還されたことを、沖縄の日本復帰と呼んでいます。

 Q どうして米国に支配されたの?

 A 日米が戦った太平洋戦争の末期、沖縄では激しい地上戦が行われました。日本は本土への上陸を遅らせようと、沖縄で時間稼ぎの作戦を立て、戦闘が長引いた結果、県民の4人に1人が亡くなったと推計されています。1945年8月に日本は無条件降伏を受け入れ、米国を中心とする連合国に占領され、米軍は全国各地に駐留しました。その後、日本は米国などと結んだサンフランシスコ講和条約(1952年発効)によって独立を回復しますが、沖縄は、奄美(53年復帰)や小笠原(68年復帰)とともに日本から切り離されました。

 Q 米軍統治下の沖縄ではどんなことが起きたの?

 A 東西冷戦の時代、米軍は沖縄を「太平洋の要石」として軍事拠点化しました。武装兵が住民を強制排除し、ブルドーザーで田畑や家屋をつぶして基地に変えていきました。その強権ぶりは「銃剣とブルドーザー」と呼ばれます。

 6歳の女の子が米兵に性的暴行を受けて殺害される事件や、小学校に米軍機が墜落して児童ら17人が死亡する事故など、米軍関係の事件・事故が多発しました。沖縄側に米軍人らを裁く権限がなく、理不尽な無罪判決が少なくありませんでした。

 ■沖縄の願い実現?――基地負担「核抜き・本土並み」ならず

 Q 復帰は、どうやって実現したの?

 A 強制的な土地接収に対する「島ぐるみ」の運動など、米軍の圧政に対し、住民は声を上げ続けました。60年に教職員や様々な住民組織によって「沖縄県祖国復帰協議会」が設立され、復帰運動が本格化します。基本的人権や言論の自由のない状態から「平和憲法の下への復帰」がスローガンとなりました。

 佐藤栄作首相は65年8月、日本の首相として戦後初めて沖縄を訪問し、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとって戦後が終わっていない」と演説。米側との返還交渉を進めていきます。

 このころ米国は、ベトナム戦争に介入するなか、自由に使える沖縄の基地の重要性が高まる一方で、戦争の泥沼化で苦しい財政事情を抱えていました。沖縄を日本に返すことで統治や基地維持にかかる費用を抑えながら、基地の自由使用を引き続き確保することをめざします。

 沖縄返還を求める声と基地への反発は、日本本土でも沖縄でも広がり、日米関係を安定化させる必要にも迫られていました。日米は69年11月、沖縄を72年に返還することで合意しました。

 Q 沖縄の願いがかなったんだね?

 A そうとは言えません。日米は沖縄の基地負担を「核抜き・本土並み」とすることを基本方針としましたが、現実はその逆ともいえる結果となりました。

 日米交渉の最大の焦点は、沖縄に配備された「核兵器」の扱いでした。佐藤首相は67年、「非核三原則」を表明し、米国に沖縄からの核の撤去を求めます。しかし、最終的にニクソン大統領との間で「重大な緊急事態の際には、米国は再び沖縄に核兵器を持ち込む」という合意議事録をひそかに交わしました。この「核密約」は94年以降明らかになります。

 「本土並み」についても、日本政府は沖縄にも日米安保条約を適用することを目指し、米側と合意します。一方で、米軍が基地を復帰前と同じように使うことを認める合意が秘密裏に交わされるなどしました。

 ■問題は解決?――事件事故・騒音…「真の復帰」続く議論

 Q 復帰の日はどう迎えたの?

 A 復帰後も米軍基地が残ることが分かってくると、「基地のない平和な島」を望んでいた沖縄の住民には、不安や失望が広がっていきました。

 復帰記念式典で、佐藤首相は「戦争によって失われた領土を平和のうちに外交交渉で回復したことは史上きわめてまれ」と歴史的偉業を強調し、「日米友好のきずなの強さを痛感する」とあいさつしました。一方、沖縄の屋良朝苗(やらちょうびょう)知事は感激や日米政府への感謝を述べた後、「必ずしも私どもの切なる願望がいれられたとはいえないことも事実。これからもなお厳しさは続き、新しい困難に直面するかもしれません」と語っています。

 Q 50年が経って、問題は解決したの?

 A 現在も、全国の米軍専用施設の7割が、国土面積の0.6%しかない沖縄に集中するなど、復帰時の問題は残されたままです。

 米軍に「特権的」ともいわれる地位を認めた日米地位協定によって、米軍が関係する事件事故は捜査に制約がかかり、司法が違法と何度も認めているにもかかわらず米軍機の騒音被害は制限できません。近年は、環境汚染や感染症でも、協定によって原因究明や対策が妨げられる事態も発生しています。

 「真の復帰とは何か」。そうした議論が今も続くゆえんです。

 ◆記事を国吉美香、福井万穂、山中由睦、木村司、紙面編集を伊藤賢、グラフィックを岩見梨絵が担当しました。沖縄に関する報道について、ご意見・感想をお寄せください。福岡本部報道センター(s-shakai@asahi.comメールする)まで。

▼29面 (復帰50年)復帰後の沖縄に生まれた表現者
山城知佳子さん、石川竜一さん

【写真・図版写真】「彼方(Anata)」(2022年,8画面による展示のうち4面) Chikako Yamashiro,Courtesy of Yumiko Chiba Associates

 沖縄で生まれ、活動する映像作家の山城知佳子さん(46)と写真家の石川竜一さん(37)は沖縄戦も本土復帰も直接的には知らない世代。復帰50年を機に、沖縄を撮影し、表現してきた2人が思いを語った。(松沢奈々子、編集委員・大西若人)

 ■目の前の生活、政治に直結 映像・山城知佳子さん

 《6月19日まで、東京都現代美術館で新作「彼方(あなた)」を発表している。海岸で若い人々の間にぽつんと高齢者が立つ映像作品だ》

 男性は、87歳の父です。父には認知症の初期症状が表れていて、最近は、よく知っているはずの場所を初めて見たかのように楽しそうに報告してくれます。

 忘れられない戦争の記憶から離れ、初めてまっさらな状態で島を見られたんじゃないかと想像しました。

 《沖縄戦や本土復帰は、若い世代にとっても「過去」ではないという》

 今日も飛んでいるオスプレイが地響きのように腹の中まで震わせる。3年前の県民投票の結果が出ても何も起こらない。諦めさせようとする政府にがっかりします。若い世代にも、トラウマというより新しい傷になっています。

 《さらに、「記憶」はある部分、映像によって形づくられていると感じる》

 私たちが沖縄戦のことを考えるとき、戦争のフィルム映像を自分の記憶のように脳内で再現します。でも映像は米軍側が撮ったものです。その中に、ブルブル震えてカメラを見つめる女の子の映像がありますが、2年半前に子供ができてから、まるっきり違って見える。もう抱きかかえにいってしまいそうになりました。カメラの後ろにどういう人がいたのか考えると、どんなに恐ろしかったか。

 当時の敵国が撮った映像を自分の記憶とし、そこに子供を抱く肉体的な感覚がねじれつつもつながる。もうこういうことは二度と起こしてはいけないんです。

 《元々は画家を目指し、沖縄県立芸術大学で学んだ》

 大学で琉球史を学び、沖縄が何を失ってきたのか考え始めました。ただ、那覇市の新興住宅地で育った私は、ウチナーグチを話せないし、三線(さんしん)や琉球舞踊もできない。琉球時代につながる、そうした型を持つ人と違い、私には、表現をのせる器がなかった。

 そこで映像を使い、今の状況をある切り口で示し、矛盾や不条理、それでも生きようとする人々の強さを表現してきたつもりです。沖縄がテーマというより、目の前の生活を表現しようと。ただその生活が政治に直結している。

 《復帰50年を迎えた》

 当時は、生命や人権が踏みにじられていた状態よりも、日本の憲法で基本的人権が守られるという選択をしたんだと思う。まず復帰し、そのあと良い状況にもってゆくつもりだったのでしょうが、あまり良くはなっていないと思います。でも沖縄には諦めない作法、哲学があります。そこが頼りなんです。

 ■掘り下げて、押し寄せた不安 写真・石川竜一さん

 僕にとって復帰や終戦は、「お祭り」という印象があります。日常に非日常が入り込んでいるような、ひとまず第2次世界大戦に区切りがついたという「イベント」の形で存在しているんです。

 作品を発表するにつれ、沖縄の歴史に触れる機会は多くなりましたが、沖縄戦や本土復帰をちゃんと理解し、のみ込めているかと言えばそうじゃない。ロシアによるウクライナ侵攻もそうですが、今も戦争が起こりうる社会システムの中にいることを考えると、今後もずっと腑(ふ)に落ちることはない。

 《沖縄国際大学在学中に写真を始め、沖縄の人の日常や事象を撮ってきた。2017年には自室と軍用機が飛ぶ空の写真を組み合わせた作品「home work」を横浜市で発表した》

 僕の部屋から見える景色には、戦闘機やヘリコプターがある。日常的なものだけど、改めて社会と個人のなかで見ようと掘り下げたら、現実的な不安が押し寄せてきて、全然違うものになった。だからタイトルは、「家で撮った仕事」と、社会と自分の生活につながる未解決な課題をかけて「宿題」にしたんです。

 《戦争を知らない世代が増えていくなか、できることは写真を通して考え続けることだ》

 沖縄の人にとっては身近でも、県外の人が見れば特別なものにうつるかもしれない。それでも、自分たちと何らかのつながりがあると思ってくれている印象もある。ぎりぎりのところでつながっているというか。僕の作品を通して、沖縄や本土復帰への思いを共有できるのはとてもいいし、様々な考えを知ることは自分にも必要なこと。考え続けるためのキャッチボールの手法が僕にとっては写真で、そういうところから目をそむけないでいたいです。

▼31面 (復帰50年 それぞれの沖縄)結婚祝いの「憲法手帳」いまも
問い続ける、あの日に決めたけれど

【写真・図版】金城健一さん

 日暮れ時から始まった結婚披露宴に正装で臨んだのは、27歳の金城(きんじょう)健一さんと一つ年下の玉城(たまき)弘子さん、その親族を除けば、わずかしかいなかった。なぜこの日に、という声も金城さんの耳に届いていた。

 1972年5月15日、那覇市。沖縄は27年間に及んだ米国統治の歴史に終止符を打ち、日本に復帰した。2人はこの日、式を挙げた。

 しかし沖縄は、喜び一色とは到底言えなかった。広大な米軍基地の8割が、復帰後もそのまま残る。午後には土砂降りの中で抗議集会が開かれ、約1万人が集まった。金城夫婦の友人たちも、集会でこぶしを突き上げ、ずぶぬれの雨具姿で披露宴に駆けつけた。

 当時、那覇市役所で市長秘書を務めていた金城さんに、来賓の平良良松市長が小さな冊子を取り出して渡した。表紙には「憲法手帳」とあった。「これが君たちへのお祝いだ」

 沖縄は、日本国憲法の外に置かれていた。復帰とは、平和主義を掲げ、基本的人権を保障する憲法下の日本へかえること。手帳には憲法全文や返還協定が印刷され、数万部が沖縄の自治体や学校に配られた。

 本土では平和憲法の形骸化が言われて久しかった。77歳になった金城さんは振り返る。「基地なき島という望み続けた形ではない、迷いながらの復帰だった」。だからこそ、復帰の日に人生の節目を重ね、記憶に残し、復帰の意味を問い続けたかった。

 とはいえ、まさか50年後も問い続けることになるとは思ってもいなかった。
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 1945年2月、沖縄本島北部の大宜味(おおぎみ)村で生まれた。直後に沖縄戦が始まり、家族は8月まで山中を逃げ惑った。

 「あんたの泣き声で壕(ごう)を追い出された」と何度も姉たちから聞かされた。父は本島南部で戦死。詳しい場所はいまも分からない。

 高校1年のとき。沖縄の戦後について原稿用紙5枚にまとめて校内の弁論大会で発表すると、鳥取での全国大会出場が決まった。「パスポート」を持っての、初めての本土行きだった。

 講堂を埋める聴衆に思いをぶつけた。「基地の中の苦しみを誰が筆をもって言い尽くせましょう」

 そのときの会場の反応を、金城さんは忘れることができない。

 《関係ない!》

 《米軍に言え!》

 容赦のないヤジに衝撃を受けた。演説は約7分。最優秀賞に選ばれたが、講評で「内容が政治的すぎる」と言われた記憶もある。

 好きこのんで、基地に囲まれた日常を過ごしているわけじゃない。なのに痛みを訴えると、政治的と批判される。

 ふるさとに戻った金城さんを明暗二つのニュースが待っていた。一つは受賞を祝うパレードの実施。もう一つは米軍からの通知。金城さんの通う高校のグラウンド造成に軍のブルドーザーを出して協力していたが、あの弁論ではもう応じない、という内容だった。
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 結婚後、那覇市議を4期務め、その後市職員に戻って定年まで勤めた。沖縄の問題を話してほしいと、本土から講演に招かれたこともある。沖縄の思いを分かってもらえるようになったかな、と思っていた2013年、あの弁論大会を思い出させる出来事があった。

 普天間飛行場(宜野湾市)への米軍オスプレイの配備に抗議して、沖縄県内全市町村の首長らが東京・銀座をデモ行進したときだ。沿道からヤジが飛んだ。

 《日本から出て行け》

 《バイコクド!》

 みながそんな気持ちでないとは分かっている。でも「一緒ですよ、あの時と。変わっていないのかとショックでした」。

 国土の0・6%の面積に米軍専用施設の7割が集中する。なぜこの過剰な負担を背負い続けなければいけないのか。「でもちっとも答えてくれない。だから同じ問いを繰り返さざるを得ないんです」

 普天間の名護市辺野古への移設をめぐって、選挙や県民投票のたびにノーと言っても無視される。だが他県が米軍配備に難色を示すとあっさり撤回される。国民は、法の下に平等であるという憲法の精神はどこへいったのか――。

 50年前の復帰記念式典のあいさつで、当時の屋良朝苗(やらちょうびょう)知事は「沖縄は歴史上、常に手段として利用されてきた」と訴えた。

 戦争中は本土決戦までの時間稼ぎの「捨て石」であり、戦後は米軍基地の置き場として、戦力不保持をうたう憲法9条と日米安保体制の矛盾を埋めてきた。

 金城さんは言う。「政府は、沖縄をできるだけ利用したいと思っているんですよ、いまも」
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 50年を弘子さんとともに歩み、孫6人にもめぐまれた。弘子さんはウクライナの戦禍に心をいため、最近こう詠んだ。

 《銃を持つロシアの兵に聞かせたい亡友が歌「一本の鉛筆」》

 美空ひばりの「一本の鉛筆があれば/戦争はいやだと私は書く」という歌から引いた。

 沖縄の日本復帰から50年、そして二人の金婚となる15日、ともに沖縄本島最北端・辺戸(へど)岬へ行く。「祖国」に最も近い場所として、かつては望郷と連帯の象徴の地だった。「いまはさみしさと怒りの気持ちです」。金城さんはあの憲法手帳を持って行く。(編集委員・谷津憲郎)