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続折々の記 2022 ④
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【 05 】05/16
50年、「平和の島」達成されず 続く過重な基地負担 沖縄知事、式典で訴え
対話、失ったまま 首相、「見える成果」路線踏襲
沖縄の「様々な課題」に言及 「豊かな未来が築かれることを願う」
基地・子どもの貧困…「今」を知って
2022/05/16 復帰50年 基地はなぜ動かないのか
続・基地負担、続く50年 人:人=国:国
人:人=国:国 この原則が踏みにじられているのは何故か、それが問題の根幹にあると私は思う。
それでは、紙面を見ていこう。
(復帰50年)
50年、「平和の島」達成されず 続く過重な基地負担
沖縄知事、式典で訴え
【写真・図版】復帰50年を迎えた15日、普天間飛行場が見える嘉数高台公園には多くの人が訪れていた=15日午後、沖縄県宜野湾市、吉田耕一郎撮影
沖縄の日本復帰から50年となった15日、「沖縄復帰50周年記念式典」が沖縄県宜野湾市と東京都の2会場をつないで開かれた。岸田文雄首相は、沖縄の基地負担軽減のために全力で取り組んでいくことを強調。玉城デニー知事は、過重な基地負担が50年経っても続く現状と経済的な課題を訴え、復帰の意義について国民全体での認識の共有を求めた。▼2面=対話失ったまま、26面=陛下「様々な課題」、27面=沖縄の心
式典は、県と政府の共催で、沖縄と東京の会場が中継でつながれた。沖縄の会場に岸田首相や玉城知事らが出席。天皇、皇后両陛下がオンラインで出席し、衆参両院の議長やラーム・エマニュエル駐日米国大使らが東京の会場で登壇した。
沖縄は、国土面積の0・6%に全国の米軍専用施設の約7割が集中し、米軍機の騒音や米軍人らの事件事故、環境汚染などが課題となっている。
岸田首相は式辞で、戦後27年にわたって米軍統治下に置かれた沖縄の復帰について「戦争によって失われた領土を外交交渉で回復したことは史上まれで、日米両国の友好と信頼によって可能になったもの」と振り返った。「沖縄の歩んだ歴史に改めて思いをいたし、県民のひたむきな努力に深甚なる敬意を表したい」と語った。
沖縄の基地負担に関しては「重く受け止め、基地負担軽減に全力で取り組む」と強調。米海兵隊キャンプ瑞慶覧(北中城村など)の一部地区について返還に先立って県民が利用できるようにすると述べた。
続いて登壇した玉城知事は、復帰時の「沖縄を平和の島とする」という目標が「復帰から50年経ってなお達成されていない」と訴えた。
復帰から10年ごとに更新される沖縄振興計画などで「本土との格差は縮小され、社会経済は着実に進展した」と述べた一方で、1人当たりの県民所得が全国平均に達していないことを挙げて「自立型経済の構築はなお道半ば」と指摘。子どもの貧困など「依然として克服すべき多くの課題が残されている」と語った。政府に対し、復帰の意義と恒久平和の重要性について国民全体での認識の共有を図り、平和で豊かな沖縄の実現に向けて取り組むよう求めた。
天皇陛下は「沖縄には、今なお様々な課題が残されています」とし「広く国民の沖縄に対する理解が更に深まることを希望する」などと述べた。(光墨祥吾、高橋杏璃)
▼2面=(復帰50年)対話失ったまま
対話、失ったまま 首相、「見える成果」路線踏襲
【写真・図版】式辞を述べて席に戻る岸田文雄首相(左)。右は沖縄県の玉城デニー知事=15日、沖縄県宜野湾市、上田幸一撮影】
沖縄が日本に復帰して半世紀が過ぎた。岸田文雄首相と、沖縄県の玉城デニー知事は、記念式典で沖縄戦や米国統治といった歴史を踏まえ、新たな未来をそろって語った。ただ、象徴的な米軍基地の問題をめぐる長い対立解消への道筋が見いだせぬまま、選挙イヤーの山場が近づく。▼1面参照
「沖縄の皆様には大きな基地負担を担っていただいている。政府として、このことを重く受け止め、引き続き、基地負担軽減に全力で取り組む」。岸田文雄首相は15日の記念式典の式辞で強調したが、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設問題には言及しなかった。
岸田政権は辺野古移設を「唯一の解決策」とし、埋め立て工事を進めてきた安倍晋三、菅義偉の両政権の政策を引き継ぐ。海底の軟弱地盤を受けた政府の設計変更を承認しない沖縄県側との対立が続いており、法廷闘争に発展して長期化する可能性もある。
首相はこの日、2024年度以降に返還予定の米軍キャンプ瑞慶覧(北中城村など)を視察し、一部を返還前から緑地公園として日米で共同使用し、県民が利用できるようになるとアピールした。部分返還などで「目に見える成果で地元の信頼を得る」(官邸関係者)という安倍政権時からの戦略を踏襲したものだ。
日本を取り巻く安全保障環境は、中国の海洋進出や、ロシアのウクライナ侵攻など厳しさを増す。政府は同盟国・米国との関係を重要視し、米軍との協力を強化。10日前には岸信夫防衛相が、オースティン米国防長官と辺野古移設について協議し、「今後の着実な進展のため、引き続き日米で緊密に協力していく」と確認した。
首相は式典後、記者団から移設問題を問われたが、「『唯一の解決策』であるということで県民の皆さん方にご説明をし、ご理解をお願いしている」と従来の説明を述べるにとどめた。
国が沖縄に基地負担を強いる構図は復帰後、歴代の自民党政権でも変わっていない。ただ、過去には沖縄の苦難の歴史に思いをはせ、対話を重視した政権もあった。橋本龍太郎元首相は知事らと会談を重ね、米国から普天間飛行場の全面返還合意につなげた。続く小渕恵三元首相もサミットの沖縄開催を決めた。
しかし、安倍政権以降、移設問題と沖縄の振興予算を「アメとムチ」のように絡めるなど、対話の姿勢は失われた。
今回の復帰50年では、参院が採択をめざした決議案をめぐり、野党が加筆した日米地位協定の「見直しの検討」に自民党が削除を要求。15日までに採択が間に合わない事態も起きた。
「聞く力」をアピールする岸田政権は、首相や松野博一官房長官が、地元住民らと車座対話を重ねるなどしているが、沖縄県側が求め続ける日米両政府と県による3者協議には応じていない。(西村圭史、松山尚幹)
■基地も経済も、知事苦慮
玉城知事の式典あいさつで、約1800字に「辺野古」はなかった。代わりに触れたのが、辺野古移設断念を盛り込み、復帰50年にあわせてまとめた「新たな建議書」の実現だ。報道各社に事前配布した文書にはない「県民が渇望」という言葉も使った。
辺野古移設ノーという譲れない一線を維持しつつも、政府との全面対決の構図は演出しない。そんな意図がにじんだ。「基地問題をクローズアップするのかどうか、あいさつの文言調整は式典前日まで続いた」と、県幹部は明かす。
辺野古移設を巡っては、玉城知事が昨年11月に設計変更を不承認としたが、国は矢継ぎ早に対抗措置に出た。承認するよう、拘束力のある是正指示を出したのは4月28日。その期限として設定したのが、復帰50年翌日の16日だった。
一方、県内では、県民の関心は基地から経済にシフトしつつある。朝日新聞などが実施した世論調査では、県の最重要課題について基地問題26%、経済振興38%だった。1人当たりの県民所得は全国最低の水準で、18年度に1千万人を超えた観光客も新型コロナの影響で激減。低迷する経済に加え、基地問題で民意が一顧だにされないことへのあきらめが指摘されている。
安倍政権以降、辺野古に反対する知事のもとで沖縄振興予算が減額されている。基地も、経済も。復帰50年のこの先も、重い課題を巡ってぎりぎりの県政運営が求められる。式典後、玉城知事は記者団に語った。「50年経ち、沖縄で取り残されている課題は何か。県民の声を聞き、知事としての仕事を全うしたい」(光墨祥吾、山中由睦)
■参院選・知事選、「正念場」の一年
今年の沖縄は選挙イヤーでもある。1月の名護、南城に始まり、石垣、沖縄の各市で選挙が続いた。夏には参院選があり、9月の知事選が最大の決戦の場となる。
「この勢いを参院選、知事選につなげたい」。これまでの4市長選すべてを制した自民党の茂木敏充幹事長は今月2日に沖縄で、記者団にそう語った。市長選と同様、経済振興に焦点を当て乗り切る構えだ。
しかし、自民は参院沖縄選挙区で2013年から3連敗している。知事選でも前知事の翁長雄志(たけし)氏、現知事の玉城デニー氏に連敗。選挙区が広がると、身近な生活支援策だけでなく、県全体や国政とも関わる基地問題や米軍への対応がより問われるとの見方が強い。自民関係者は「有権者は、知事には辺野古移設反対を貫いてほしいという思いが強いだろう」。この先の選挙は簡単ではないとみる。
一方、玉城知事や知事を支える政治勢力「オール沖縄」も苦しい局面が続く。
「オール沖縄の本来の姿は失われた。選挙の敗北が続いたことで足並みは乱れつつある」。県政与党の県議は、現状をそう語る。
今月2日には、故・翁長前知事の後継として、那覇市長になった城間幹子氏が引退を表明。「自公政権対『オール沖縄』の選挙構図は那覇市ではなくてもいい」とも語り、10月の那覇市長選に向けて後継指名もせず、オール沖縄側に衝撃が走った。
県政与党の別の県議は「もう一度、辺野古移設反対でまとまる必要がある。いずれにしても、これからが正念場だ」(上地一姫、光墨祥吾)
■米大統領「貢献に感謝」
バイデン米大統領は15日、沖縄県民あてのメッセージを発表し、「民主主義、自由、法の支配への日本の支援と、このような理念の前進に向けた沖縄の貢献に深く感謝する」とした。
バイデン氏は、沖縄戦について「第2次世界大戦のなかで最も凄惨(せいさん)な戦いの一つ」とした上で、「日米関係は戦場での敵同士から共通の目的で結ばれた同盟国へと変貌(へんぼう)を遂げ、今では最も緊密な同盟国となった」と評価。「現在、日米同盟は、共通の価値観と自由で開かれたインド太平洋という共通のビジョンに基づき、かつてないほど強固になっている」と述べた。
▼26面=復帰50周年記念式典 陛下「様々な課題」
沖縄の「様々な課題」に言及
「豊かな未来が築かれることを願う」
【写真・図版】沖縄復帰50周年記念式典にオンラインで出席した天皇、皇后両陛下=15日午後2時8分、皇居・御所「大広間」、宮内庁提供
天皇、皇后両陛下は15日、沖縄県と東京都で同時開催された「沖縄復帰50周年記念式典」にオンラインで出席した。両陛下は、沖縄に思いを寄せてきた上皇ご夫妻の姿勢を継承。天皇陛下はこれまで、沖縄の人々の多くの苦難を「決して忘れてはならない」と述べるなど、思いを寄せ続けている。
皇居・御所から出席した陛下は「おことば」で、「沖縄には、今なお様々な課題が残されています」と言及。「今後、若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解が更に深まることを希望するとともに、今後とも、これまでの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願っています」と続けた。
陛下や秋篠宮さまは幼少期から上皇ご夫妻を通じて沖縄の歴史や文化を学んだ。疎開経験のあるご夫妻は沖縄を繰り返し訪れ、戦没者を慰霊。退位までにご夫妻で計11回訪れた。
上皇さまは天皇としての最後の誕生日を前にした会見で、戦後の平和と繁栄が多くの犠牲と国民のたゆみない努力で築かれたことを忘れず「戦後生まれの人々にも正しく伝えていくことが大切」と述べた。
ご夫妻はお子さま方を同席させ、沖縄から訪れた「豆記者」と呼ばれる少年少女と交流。6月23日の「沖縄慰霊の日」などに黙祷(もくとう)を捧げてきた。上皇さまが即位後は陛下や皇后さまが豆記者と交流し、代替わり後は秋篠宮ご夫妻が引き継いでいる。
陛下はこれまでに沖縄に5回足を運んだ。戦後70年にあたる2015年の誕生日前の会見では「戦争を体験した世代から戦争を知らない世代に、悲惨な体験や日本がたどった歴史が正しく伝えられていくことが大切」と述べた。
豆記者を十数回引率した川満茂雄さん(75)は「上皇ご夫妻の平和に対するお気持ちは大切にされつつも、ご自身のお考えや新たな視点で県民とご交流いただければ」と話す。(多田晃子)
■天皇陛下、おことば全文
沖縄復帰50周年に当たり、本日、沖縄と東京をオンラインでつなぎ、記念式典が開催されることを誠に喜ばしく思います。
先の大戦で悲惨な地上戦の舞台となり、戦後も約27年間にわたり日本国の施政下から外れた沖縄は、日米両国の友好と信頼に基づき、50年前の今日、本土への復帰を果たしました。大戦で多くの尊い命が失われた沖縄において、人々は「ぬちどぅたから」(命こそ宝)の思いを深められたと伺っていますが、その後も苦難の道を歩んできた沖縄の人々の歴史に思いを致しつつ、この式典に臨むことに深い感慨を覚えます。
本土復帰の日、中学1年生であった私は、両親と一緒にニュースを見たことをよく覚えています。そして、復帰から15年を経た昭和62年、国民体育大会夏季大会の折に初めて沖縄を訪れました。その当時と比べても、沖縄は発展を遂げ、県民生活も向上したと伺います。沖縄県民を始めとする、多くの人々の長年にわたるたゆみない努力に深く敬意を表します。
一方で、沖縄には、今なお様々な課題が残されています。今後、若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解が更に深まることを希望するとともに、今後とも、これまでの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願っています。
美しい海を始めとする自然に恵まれ、豊かな歴史、伝統、文化を育んできた沖縄は、多くの魅力を有しています。沖縄の一層の発展と人々の幸せを祈り、式典に寄せる言葉といたします。
◆式辞(要旨)
■岸田首相
先の大戦で地上戦の舞台となった沖縄は戦後、連合国による占領が終了した後も長きにわたり、米国の施政下に置かれた。沖縄復帰はこのような苦難を乗り越え、沖縄県民そして国民全体の悲願として実現した。戦争によって失われた領土を外交交渉で回復したことは史上まれなことであり、日米両国の友好と信頼により可能となったものだ。
1人当たり県民所得の向上、子どもの貧困の解消などの課題は、今なお残されている。沖縄の潜在力を最大限に引き出し、「強い沖縄経済」を実現していく。
復帰から50年が経つ今もなお、沖縄の皆様には大きな基地負担を担っていただいている。政府としてこのことを重く受け止め、引き続き基地負担軽減に全力で取り組む。これからも、日米同盟の抑止力を維持しながら、基地負担軽減の目に見える成果を一つ一つ着実に積み上げていく。
■玉城・沖縄県知事
沖縄県は多くの国々との交流の中で独特の文化を育み、歴史を刻んできた。しかし先の大戦では凄惨(せいさん)極まる地上戦により、県民は耐えがたい苦難を経験した。戦後、米国の統治は27年間に及んだが、50年前の本日、日本復帰を果たした。
本土との格差は縮小され、社会経済は着実に進展。今後の発展がますます期待されている。
しかし全国平均に満たない県民所得や、子どもの貧困など、克服すべき多くの課題が残されている。
他方で50年経った現在も、米軍専用施設の70・3%が集中し、米軍人・軍属による事件・事故、騒音、環境汚染など、県民は過重な基地負担を強いられ続けている。
県と政府が共有した「沖縄を平和の島とする」という目標は達成されていない。政府は、国民全体の認識の共有を図り、平和で豊かな沖縄の実現に誠心誠意取り組んでいただきたい。
▼27面=(復帰50年)強く願う、沖縄の心
基地・子どもの貧困…「今」を知って
【写真・図版】式典であいさつする県民若者代表の普天間真也さん(右)と平敷雅さん=15日、沖縄県宜野湾市、上田幸一撮影
日本復帰50年の節目を迎えた沖縄。いまだ米軍基地が集中し、貧困など社会問題も山積するなか、記念式典の会場に祝賀ムードは薄かった。登壇者や招待客たちは、半世紀の歩みを受け止めつつ、次の時代への希望を見いだそうとした。▼1面参照
沖縄の会場となった沖縄コンベンションセンター(沖縄県宜野湾市)では、対馬丸記念会代表理事の高良政勝さん(82)が県民代表として登壇した。岸田文雄首相らを前に「私たちが望んだ沖縄県は、まだ道半ばの感があります」と訴えた。
太平洋戦争中に米潜水艦に撃沈された学童疎開船・対馬丸に乗っていた。判明しているだけで児童784人を含む約1500人が犠牲になり、4歳だった自身も家族9人を亡くした。
那覇市で歯科医院を営みながら、対馬丸の悲劇を伝えてきた。世界平和の発信地となることを願ってきたのに、いまだに沖縄のどこを見ても米軍基地がある。
「この50年、生活や食べ物は変わったが、こんな小さな島に基地を集中させている。本質的には何も変わっていない」。式典後にそう語った。
若者代表として登壇した一人、那覇市出身の大学2年、平敷雅(へしきみやび)さん(20)は、子どもの貧困問題に取り組むボランティア団体の共同代表だ。「貧困状態の子どもに手をさしのべ、新たな問題に立ち向かう」と宣言。「戦争や基地とともに、沖縄の貧困の問題も知ってもらいたかった」と取材に話した。
式典には約800人の県民らが招待された。
宜野湾高校2年の仲里吏梨花(りりか)さん(17)は、真剣な表情で聴いた。自宅は普天間飛行場(宜野湾市)の近く。小学生の時、平和学習で祖父に沖縄戦の体験を聴こうとしたが、祖父は無言になり、涙がほおをつたった。「70年以上経ったのに、思い出すくらい悲惨だったんだ」と思い知った。
いまも自宅周辺は米軍ヘリが飛び交い、「基地反対」のプラカードを持った人たちを見かける。「あの人たち、いつも大変だね」ともらすと、父から「お父さんが子どものころからだ。現状が変わらないからね」と諭された。「基地があるのが普通という考えを変えないといけないのかも」と思うようになったという。
宜野湾市の渡嘉敷喜代子さん(82)は琉球政府の職員として働き、復帰後は県の教育委員などを務めた。50年前は式典会場の隣にある与儀公園で、土砂降りの中、基地が集中したままの復帰に抗議する集会に参加したという。
この日も朝から大粒の雨が降った。「50年前と変わらず基地は集中し、我慢させられている」。復帰は何だったのかと感じている。
ただ、式典に続いて開かれた行事で、沖縄の若者たちが琉球舞踊や島唄を披露する姿を見ていると、沖縄が上げてきた声を、将来につなげてくれるのでは、とも思った。「若者を見て希望が見えた。期待したい」と話した。(西岡矩毅、小川詩織、伊藤和行)
■望んだ形ではないけれど/元々私たちの土地なのに
この日、沖縄と本土でそれぞれ復帰50年の意味をかみ締める人たちがいた。
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那覇市の国際通り沿いの広場では、伝統演舞の「エイサー」や「旗頭」が披露された。小波津正光さん(47)は「望んだ形ではないし、決してお祝いではないけれど、それぞれの復帰50年を振り返ってもらう機会にしたい」と話し、豪快に太鼓をたたいた。
米軍嘉手納基地を一望できる嘉手納町の道の駅「かでな」の展望台には、多くの人の姿があった。
返還が進まない米軍普天間飛行場のある宜野湾市の呉屋盛順さん(70)が、幼稚園児と小学生の孫3人と展望台を訪れていた。「復帰から50年で何も変わらず、基地は日常の風景になった。孫たちにはなぜこの風景ができたのか、勉強してほしい」と話した。
復帰の日に約1万人が集まり、「本土並み復帰」が実現しなかったことに抗議した那覇市の与儀公園。近くに住む島袋福保さん(78)は、ベンチに座って静かな公園を眺めていた。半世紀前、雨の中で泥だらけになって抗議した。都市化は進んだが基地負担は減らない現状に、「反対の気持ちは今もあるけど、意味はなかったのかな」とこぼした。
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南風原(はえばる)町では小学5、6年生約40人が復帰当時を知る世代と復帰について学ぶワークショップがあった。6年生の照屋穂(すい)さん(11)は「今も基地が広いから、自分たちの住んでいる場所がすごく狭く感じる。元々自分たちの土地なのに、なんで入っちゃダメなの?と思う」と話した。
那覇市の元教師、上里愛さん(83)は50年前のこの日、現在の豊見城(とみぐすく)市の小学校で、復帰について議論する授業をした。児童たちは「ふっきしても」「アメリカ軍は出ていかない」「きちはそのまま残る」などと意見をまとめた。「(黒板に書かれた内容と現状が)あまり変わっていないことがショック。子どもたちが言った通りだった」
東京・銀座周辺。米軍基地内の地主で作る「沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック」などの市民団体のデモ行進があった。参加者は「辺野古基地建設を中止せよ」などと訴えた。
沿道にいた東京都小金井市の会社員女性(52)は「基地を負担させてきたことが申し訳ない」。一方、ウクライナ危機を受け、抑止力を高めるため基地が必要だという思いは強まった。「日本全体で基地を引き受けないといけないと思うけれど……」と話した。
■ブラジル、県人会「心は一つ」
ブラジルのサンパウロでは現地時間の14日夜、沖縄県人会が日本復帰50周年を記念する祝賀会を開いた。半日ほどの時差があり、日本はすでに節目の日を迎えている時刻。日系人ら150人が集い、昔話に花を咲かせたりカチャーシーを踊ったりして旧交を温めた。
県人会の上原テリオ副会長は「沖縄の人々は戦争で、また米軍統治下で並大抵ではない苦労をした。だが、それらを乗り越えての今がある。沖縄の兄弟姉妹と我々も心は一つだ」とあいさつした。(サンパウロ=軽部理人)
■平和になりたい、50年前の詩
沖縄県沖縄市の河野立子さん(60)は先月、長年暮らした山口市から約40年ぶりにふるさとに戻った。父親が昨年亡くなり、高齢の母親が心配だったからだ。
自宅は米軍嘉手納基地から約2キロ。帰省しても何となく目をつぶってきたが、頭上を飛ぶ米軍機の猛烈な騒音に、不条理な現実を思い出させられる。
沖縄が復帰した1972年5月15日、小学5年だった河野さんの詩が朝日新聞に載った。タイトルは「私のねがい」。「ばく音 ひきにげ B52 苦しかった沖縄」「復帰で 沖縄はほんとに すくわれるのだろうか」。子どもが米軍関係の事件事故に巻き込まれる現実を訴えたかった。最後は「日本の人々よ それに答えて 沖縄を 平和な県にしてほしい」と添えた。
でも、「50年たっても危険と隣り合わせの『普通じゃない暮らし』は現在進行形でした」と話す。
本土の大学に進学。卒業後、山口県で高校の生物の教員として約35年間働いた。結婚して2人の子どもを育てた。基地近くで暮らす今も、米軍基地は本土に引き取ってほしいと思う。
本土で負担を引き受ける側の苦悩も見てきた。普天間飛行場(宜野湾市)から8年前、米軍岩国基地(山口県岩国市)に空中給油機が移転された。山口では抗議が起きた。「基地負担を押しつけるのも押しつけられるのも苦しい」と話した。
15日は、復帰50年の式典をテレビで見ながら食事の用意など家事をこなす一日だった。(渡辺洋介)
■私のねがい
復帰は パスポートなしで 本土への行き来ができる。 算数の本に出ているような 円生活に入る。
1ドルは308円にかわり お店では 今、わたしの着ている 7ドルのスカートが 2156円になる。 お米が バナナが ノートが 何でもかんでも ×308 きっと、頭が こんがらがるだろうな。
毒ガス ばく音 ひきにげ B52 苦しかった沖縄。
復帰で 沖縄はほんとに すくわれるのだろうか。 沖縄には 日本復帰で 平和になりたいという 強い強いねがいがある。
日本の人々よ それに答えて 沖縄を 平和な県にしてほしい
(1972年5月15日の朝日新聞より)。
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◆日付 2022/00/00
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