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【 02】08/31
A 91歳ゴルバチョフ氏「早急な平和交渉を」ウクライナ危機への視座課
連載「プーチンの実像」
①(2015年) プロローグ
②(2015年) 第一部「KGBの影」①
③(2015年) 第一部「KGBの影」②
2022/08/31 朝日新聞デジタル記事・ウクライナ情勢
https://digital.asahi.com/articles/ASQ3B51K1Q39PLZU001.html?iref=pc_rellink_01
ゴルバチョフは語る 西の「約束」はあったのか NATO東方不拡大
編集委員・副島英樹2022年3月12日 9時00分
コメント 藤田直央さん
【写真・図版】2020年夏の国際平和シンポジウム「核兵器廃絶への道」(長崎市、朝日新聞社など主催)に動画メッセージを寄せたゴルバチョフ元ソ連大統領
ロシアのウクライナ軍事侵攻によって、世界は今、米国が広島、長崎に原爆を投下して以降、初めて核兵器が実戦使用されるかもしれないという事態に直面している。
A 91歳ゴルバチョフ氏「早急な平和交渉を」 ウクライナ危機への視座
連載「プーチンの実像」
かつての冷戦時代、ソ連と米国は競って核兵器を増やした。1980年代後半、「核戦争に勝者はない」との認識で合意し、初の核軍縮と冷戦終結に導いたのが、ソ連書記長だったゴルバチョフ氏(91)と故・レーガン米大統領だった。
それから30年余りを経て起きた今回のウクライナ危機。大きな要因の一つが、旧ソ連に対抗する西側の軍事同盟、北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大である。
冷戦終結後、ソ連と東欧諸国が加盟していたワルシャワ条約機構は91年に解体された。
一方、冷戦終結時に16カ国だったNATO加盟国は、90年に統一された東西ドイツのほか、99年に旧ワルシャワ条約機構加盟国のチェコ、ハンガリー、ポーランドが加わるなどし、現在は30カ国まで拡大した。
旧ソ連を構成していたウクライナもNATO加盟を希望し、NATO側は2008年に将来的な加盟を認めることで合意していた。
NATOの東方拡大を、ゴルバチョフ氏はどう見ていたのか。
ゴルバチョフ氏は18年に出版した回想録「ミハイル・ゴルバチョフ 変わりゆく世界の中で」(筆者訳、朝日新聞出版)で、「NATO拡大について」の項目を立てている。詳細は後に紹介するが、まずはNATO東方拡大の危険性を指摘していた米国の専門家たちの意見に触れておきたい。
生かされなかった「警告」
かつてソ連大使も務めたジョージ・ケナン氏は、98年5月のニューヨーク・タイムズ紙でこう述べた。「私はそれ(NATOの拡大)は、新たな冷戦の始まりであると思う。ロシア人は強く反発するだろうし、ロシアの政治にも影響を与えるだろう。それは悲劇的な過ちだ」
この発言を自著「核戦争の瀬戸際で」(松谷基和訳、東京堂出版)の第20章「途切れたロシアとの安全保障の絆」の中で引用しているのが、90年代のクリントン政権時代に国防長官を務め、NATO拡大に慎重な姿勢をとってきたウィリアム・ペリー氏だ。
ペリー氏は、「核兵器なき世界」を掲げたオバマ元大統領に影響を与えた「4賢人」の1人だ。共著「核のボタン」(田井中雅人訳、吉田文彦監修・解説、朝日新聞出版)の中でこう述べている。
「冷戦終結とソ連崩壊は米国にとってまれな機会をもたらした。核兵器の削減だけでなく、ロシアとの関係を敵対からよいものへと転換する機会だ。端的に言うと、我々はそれをつかみ損ねた。30年後、米ロ関係は史上最悪である」
米軍将校から歴史家に転じたアンドリュー・ベースビッチ氏は自著「幻影の時代 いかに米国は冷戦の勝利を乱費したか」(METROPOLITAN BOOKS)で、米国が冷戦の勝利を過信して道を誤ったと指摘している。
ベースビッチ氏は20年6月の朝日新聞のインタビューでこう述べた。
「ベルリンの壁崩壊を目の当たりにして、米国の政治家や知識人は古来、戦史で繰り返された『勝者の病』というべき傲慢(ごうまん)さに陥り、現実を見る目を失ったのです」
冷戦後の「米国の覇権」を支えたのがNATOの東方拡大だった。
シュルツ元国務長官ら、冷戦末期にソ連との核軍縮条約交渉の実務を担当した人々は、NATO拡大がセンシティブな要素をはらむことを理解していた。
だが、「お互いに敵とみなさない」との東西和解の合意にもかかわらず、クリントン政権はNATO拡大に舵(かじ)をきった。
ロシアのエリツィン大統領は難色を示したが、駆け引きの末、99年に東欧3カ国がNATOに加わった。
エリツィン氏は、退任後の00年に出した回想録「大統領のマラソン」(AST出版)の中ではこう記している。
「私は世界に向けてこう語った。これ(NATO東方拡大)は誤りだ。新たな東西対立へとおとしめることになるだろうと。残念ながら、その通りになった」
ロシアのウクライナ軍事侵攻という事態は、これらの警告が的中した現実だ。
NATO不拡大の「約束」あったか
NATO拡大をめぐって今でも論争になっているのが、統一ドイツのNATO加盟の交渉にあたり、ゴルバチョフ氏が「NATO不拡大を約束されたのか否か」である。
発端になっているのが、90年2月9日のゴルバチョフ氏とベーカー米国務長官(当時)との会談記録(日本語訳は筆者)だ。問題の箇所は、ベーカー氏の次の文言である。
「もし米国がNATOの枠組みでドイツでのプレゼンスを維持するなら、NATOの管轄権もしくは軍事的プレゼンスは1インチたりとも東方に拡大しない。そうした保証を得ることは、ソ連にとってだけでなく他のヨーロッパ諸国にとっても重要なことだ」
ゴルバチョフ氏の回想録「変わりゆく世界の中で」によると、ゴルバチョフ氏は「ベーカー氏の言葉や、統一ドイツの軍事政治的地位をめぐる当時の議論を反映した他の資料は、数多くの臆測や思惑の対象となった。ある人々は、ゴルバチョフにはNATOを拡大しないという保証がなされたと言う。別の人々は、ゴルバチョフはNATOを拡大しないという保証は得ていなかった、もっと食い下がるべきだった、そうすれば中東欧諸国のNATO加盟問題も後で起きることはなかっただろうと語る」と記し、以下のように説明している。
「保証」はもっぱら統一ドイツに関して与えられたものであり、90年9月12日署名のドイツ最終規定条約で具現化された。
これは、旧東ドイツ領への外国軍の配置や核兵器とその運搬手段の配備を禁止し、西ドイツの兵力を大幅に削減するものだった。
ゴルバチョフ氏はこう問いかける。「あの時、旧東ドイツ領だけではなく、東方全体へのNATO不拡大問題を提起すべきだったのか」と。
そしてこう続ける。「この問題を我々が提起するのは単に愚かなことだったであろう。なぜなら、当時はまだワルシャワ条約機構も存在していたからである。あの当時こんなことを言っていたら、我々はもっと非難されていただろう。我々自身が西側のパートナーにNATO拡大のアイデアをこっそり届け、ワルシャワ条約機構の崩壊そのものを早めてしまった、と」
少なくともゴルバチョフ氏は「約束はなかった」と述べている。これはプーチン大統領の主張と食い違う。
プーチン氏は、ゴルバチョフ氏が口約束で済ませたのがミスだったとみている節がある。いま、米国などにNATO不拡大の確約を文書で求めるのはそのためだろう。
ゴルバチョフ氏は、NATO東方拡大のプロセスはドイツ統一とは別の問題だったと指摘する。その始まりは、ドイツ統一で成し遂げた合意の精神や相互の信頼が壊れてから何年か後のことだったとみる。
「もしソ連が維持され、すでにソ連と西側の間にできていた関係が保たれていたら、NATOの拡大は起きなかっただろうし、双方は別の形で欧州安全保障体制の創設にアプローチしていただろう。そしてNATOもまた、とりわけ現在、90年夏に採択されたロンドン宣言の条文が忘れられていなかったら、違った性質を帯びていたことだろう」
90年7月のロンドンでのNATO首脳会議で出された宣言はワルシャワ条約機構の加盟国に対し、「互いに敵とは見なさない」と表明し、NATOの政治的機構への発展、冷戦の遺物を克服するための貢献などがうたわれていた。
ゴルバチョフ氏は、統一ドイツのNATO加盟について「米国とソ連をはじめとする東西諸国の共同作業だった」と考えている。
ソ連側に2700万人もの犠牲を出した独ソ戦の相手国であるドイツ国民の統一の希望をかなえ、統一後のドイツがNATOに加盟することを認めたからだ。ソ連国内の反発を抑え、国民を納得させる必要があった。
西側がその経緯を忘れたかのように、「勝者」として振る舞うことに、ゴルバチョフ氏は強い反発を示している。そこがプーチン氏と共通する点だ。ゴルバチョフ氏は21年11月に朝日新聞に掲載された「私の視点」で述べている。
「我々は冷戦に終止符を打った。米国の政治家は冷戦での共通の勝利を確認する代わりに自らの《冷戦での勝利》を表明した。ここに、新しい世界政治の基盤をぐらつかせた誤りや失敗の根がある。勝利者意識は政治でのあしき助言者であり、モラルを欠くものだ」
これは、先に触れたベースビッチ氏がインタビューで語った言葉とも重なる。「『共存条件』を外交を通じて探ることが必要です。安全保障上の基礎的な要求を互いに尊重し合い、軍拡競争を防ぐのです」
問われる米欧の「勝利者意識」/筆者はこう考える
ウクライナをめぐって今起きている現実は、冷戦終結と統一ドイツのNATO加盟の後、米欧がとってきた対ロシア政策と密接に関係している。そこから目をそらしてはならない。東西冷戦が終結したのに、なぜ西側軍事ブロックのNATOだけがその後も残ったのか。
統一ドイツのNATO加盟は「東西の共同作業」だったはずなのに、なぜ米国は「冷戦の勝者」として一極支配を進め、国際秩序を主導するのか。
ロシア側から見ればNATOもEUもロシアを排除する「壁」に見える。軍事機構の存続は敵性国家を必要とし、領域外にも出て組織の存続を図るものになるからだ。
今回の事態は、あらゆるものを犠牲にして軍事力という暴力を先に使ったプーチン大統領の敗北だろう。たとえ地上戦で勝ったとしても、国際世論を敵に回した時点で敗北だ。
しかし、いったん戦争が始まってしまえば、「死ぬか生きるか」の論理が優先し、市民の命が巻き込まれていく。合理的判断を失った核保有国のリーダーの振る舞いにおびえ続けることになる。
戦争は、起こさせないことこそ重要だ。NATO拡大をめぐる経緯と問題点を見つめ直すことは、その一助になると信じる。
◇
ゴルバチョフ氏株主のロシア紙「今こそ行動を」
ゴルバチョフ元ソ連大統領が株主を務めるロシアのリベラル紙「ノーバヤ・ガゼータ」のムラトフ編集長が3月2日、プーチン大統領がウクライナ侵攻で核兵器による威嚇をエスカレートさせていることに警鐘を鳴らし、「今こそ行動する時だ」との声明を出した。
昨年ノーベル平和賞を受賞したムラトフ氏の声明は、17年に同賞を受けた核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)のフィン事務局長と連名で、ロシア語と英語で発表された。日本のNGO、ピースボートが日本語訳をサイト(https://peaceboat.org/40640.html別ウインドウで開きます)に公開している。
声明では、「かつてないほどの核紛争の脅威が今、目前にある」と指摘。「核使用の準備がもたらす世界の平和と安全への前例のないリスクと、プーチンの行動とレトリックがもたらす直接的な脅威について警告する」としている。
さらに、ロシアは早急に事態を緩和する措置を講じるべきだとし、核戦力の臨戦態勢レベルの引き上げの取り消し、ウクライナからの撤退、自国が保有する核兵器の廃絶などを求めた。
そして、「核兵器が存在する限り、核兵器が使われる脅威は決してなくならない」とし、「今こそ行動する時だ」と呼びかけた。(編集委員・副島英樹)
コメント
藤田直央 (朝日新聞編集委員=政治、外交、憲法) 2022年3月12日16時34分 投稿
【視点】冷戦後になぜ米欧とロシアの間で安定が生まれず、NATOの東方拡大が起きたのか。そこに米国の「勝利者意識」(ゴルバチョフ氏)と、ロシアの反発がどう影響したのかは、今回のウクライナ侵攻の背景として検証され、教訓とされるべきだ。日本では今世紀に入り「日米関係が良ければ良いほど、アジア諸国との関係もうまくいく」と語った首相がいるが、全くそうなっておらず、東アジアの「安定」はますます軍事的均衡への依存を強めている。冷戦終結を「共通の勝利」にできなかったと悔いるゴルバチョフ氏の言葉は、そんな日本と東アジアにとっても重い。
A
https://digital.asahi.com/articles/ASQ346679Q33PLZU006.html
91歳ゴルバチョフ氏「早急な平和交渉を」 ウクライナ危機への視座
ロシアのウクライナ侵攻を受け、モスクワのゴルバチョフ財団が2月26日、一刻も早い戦闘停止と和平交渉開始を呼びかける声明を出した。元ソ連大統領で財団総裁のミハイル・ゴルバチョフ氏(91)は約30年前、米ソ冷戦を終結に導き、ノーベル平和賞を受賞した。ロシアの侵攻という事態にまで陥ったウクライナの問題を彼はこれまでどうとらえていたのか。自叙伝からたどってみたい。
まず、財団が出した声明の全文は次の通りだ。
「相互の尊重」「双方の利益」
「2月24日に始まったウクライナでのロシアの軍事作戦に関連し、一刻も早い戦闘行為の停止と早急な平和交渉の開始が必要だと我々は表明する。世界には人間の命より大切なものはなく、あるはずもない。相互の尊重と、双方の利益の考慮に基づいた交渉と対話のみが、最も深刻な対立や問題を解決できる唯一の方法だ。我々は、交渉プロセスの再開に向けたあらゆる努力を支持する」
注目されるのは、「相互の尊重」と「双方の利益」という表現だ。
旧ソ連の指導者として、冷戦を終結させたゴルバチョフ氏は、ウクライナをめぐる問題の根底にあるものを見据えてきました。最悪の事態に発展したいま、その視座から何を学べるでしょうか。
対立ではなく協調を模索し、人類共通の利益を優先するというゴルバチョフ氏の「新思考外交」の理念がにじんでいる。
この新思考が、「核戦争に勝者はない」というレーガン米大統領との合意を可能にし、米ソ初の核軍縮条約を引き寄せた。それは冷戦終結、ドイツ統一、そして統一ドイツのNATO加盟につながっていく。
これはまさに米ソをはじめとする東西諸国の共同作業だった。ゴルバチョフ氏は「ヨーロッパ共通の家」構想も唱えた。
ゴルバチョフ氏は国内でもペレストロイカ(改革)で民主化を進めたが、急進改革派と守旧派の双方から揺さぶられた。
1991年12月25日、核兵器の権限を新生ロシアのエリツィン大統領に引き渡す命令に署名し、ソ連大統領を辞任した。その後はゴルバチョフ財団総裁として、さまざまな提言を世界に発信してきた。
今年3月2日、ゴルバチョフ氏は91歳の誕生日を迎えた。いつものように財団本部のオフィスに仲間が集まった。
世界各国からお祝いメッセージが届いた。プーチン大統領も祝電を寄せた。
財団関係者によると、ゴルバチョフ氏はコロナ対策もあって病院の部屋で過ごし、お祝いの会にはリモートで参加したという。
会には、プーチン政権を批判してきたリベラル紙「ノーバヤ・ガゼータ」のムラトフ編集長も姿を見せた。
報道の自由を貫いて昨年のノーベル平和賞を受賞した。2日にはちょうど自紙のサイトに、プーチン大統領の核による威嚇に警鐘を鳴らす声明を出した。
ゴルバチョフ氏は同紙の株主で、90年にノーベル平和賞を受賞した際には賞金で同紙のコンピューターを買いそろえた。
記者(副島)は2年前、ゴルバチョフ氏にインタビューした。ゴルバチョフ氏は「ノーバヤ・ガゼータ」について、改革の一環として進めたグラスノスチ(情報公開)を体現したものだと答えた。
こうした事実はゴルバチョフ氏とプーチン氏との今の関係性も物語っている。ゴルバチョフ氏の側近は今年1月、「もう長い間、2人はコンタクトをとっていない」と記者に明かした。
母なるウクライナ
ゴルバチョフ氏は2017年に出した自叙伝「オプチミストのままで」(AST出版)の中で、「ウクライナ危機」の項目を立ててこの問題を論じている。
「我々ロシア人ほどウクライナのことを気にかけている者はいない」と書き出し、「私の母はウクライナ人だった。妻のライサもウクライナ人だった。これはプロパガンダとして扱ってはならない問題だ。ロシアとウクライナの間に敵意をあおり、両国の関係を悪化させることに関心を持ち、それが必要とする誰かがいる」と書いている。
ゴルバチョフ氏は危機の原因を、2013年の欧州連合(EU)とウクライナの連合協定をめぐる署名問題だったとする。
「この問題がロシアとウクライナの関係にどう影響するかを顧みることなく検討された事実に、私は最初から胸騒ぎがした」。ロシア・ウクライナ・EUの〈トライアングル〉を築くため、交渉と調整のメカニズムを模索する必要があったが、EU側がロシアとの協力を一切拒否した、とゴルバチョフ氏はみた。
「ウクライナのヤヌコビッチ大統領(当時)は自身の政治的利益を優先し、結局はEUとの協定書に署名しない決定をした。これはウクライナの多くの人に理解されず、デモと抗議が始まった。最初は平和的だったものの、次第に急進派や過激派、扇動集団が主導権を握るようになった」
ゴルバチョフ氏は、14年1月にプーチン大統領とオバマ米大統領(当時)に公開書簡を送り、大規模な流血を防ぐために交渉のイニシアチブをとるよう呼びかけたと明かしている。
「私の書簡は文字通り魂の叫びだった。しかし、それは届かなかった」
14年2月のヤヌコビッチ政権崩壊後、親ロシア派勢力が南部クリミア半島を押さえた。ロシアは同年3月、クリミアを一方的に併合した。
自叙伝の執筆時点でゴルバチョフ氏は、ウクライナ問題の解決策は、14年9月と15年2月、ウクライナ政府と同国内の親ロシア派との間で交わされた停戦合意協定「ミンスク合意」の達成に尽きるとしている。
だが、ロシアはウクライナがこの合意を履行していないと主張した。今年2月にはついに、プーチン大統領が合意を破棄して軍事侵攻に踏み切ってしまう。
ゴルバチョフ氏は自叙伝で、「ウクライナ国民のためになるのは、民主的なウクライナであり、ブロックに属さないウクライナであると私は確信している。そうした地位は国際的な保障とともに憲法で裏付けられなければならない。私が想定しているのは、1955年に署名されたオーストリア国家条約のようなタイプのものだ」と述べる。
これは、第2次世界大戦時の連合国がオーストリアの主権回復を認めた条約だ。オーストリアはその後、永世中立を宣言した。
ゴルバチョフ氏が強調しているのは、国際関係における信頼の概念だ。それは、「双方がお互いを尊重し、お互いの利益を考慮するときに現れてくる」と述べる。
そして西側が冷戦で「勝利」を表明し、信頼は損なわれたとゴルバチョフ氏は指摘した。
「西側はソ連崩壊後のロシアの弱体化を利用した。国際関係での平等の原則は忘れ去られ、我々はみな、今のような状況に置かれていることに気づいた」
ロシアが最も神経をとがらせてきた北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大についてはこう記す。
「NATO軍とロシア軍はごく最近までお互い離れたところにいたが、今は顔をつきあわせている。かつて我々は、ワルシャワ条約機構を解散した。当時ロンドンでNATO理事会の会合が開かれ、軍事同盟ではなく、政治が軸となる同盟が必要だという結論に至った。これは早々と忘れられた。NATOがこの問題に立ち返るのを私は望んでいる」
ゴルバチョフ氏は80年代後半、「(複雑な世界情勢を)我々は手を取り合ってそこから抜け出した」とし、こう続けた。
「もちろん、当時と現在とがまったく同じだというわけではない。だが、教訓を引き出すことはできる。それは、現状から抜け出るためにはまず、お互いを尊重し、対話を重ねるということだ。それがなければ、何も変えることはできない」
冷戦後を見つめ直す必要
ウクライナに軍事侵攻し、「核大国」を誇示して威嚇するプーチン大統領の行動は決して容認できない。一刻も早い停戦に向けて各国は尽力すべきだ。
ただ、冷戦終結とソ連崩壊から30年以上たった今、なぜ今回の事態が防げなかったのかを冷静に振り返り、見つめ直す必要がある。
留意しておくべきは、西側が冷戦終結後の対ロシア戦略を誤り、東西をカバーする安全保障の国際管理に失敗したという現実だ。
ゴルバチョフ氏の視点は、事態を読み解くための一つのヒントになるかもしれない。(編集委員・副島英樹)
連載①「プーチンの実像」(2015年) プロローグ
https://digital.asahi.com/articles/ASQ2T32GGQ2SDIFI00Z.html
プーチンが旧知の柔道・山下泰裕に見せた「おっかない顔」
ウクライナ侵攻に踏み切ったリーダーの源流に迫る
駒木明義2022年2月26日
ロシアのウラジーミル・プーチン大統領(62)が、戦後の国際秩序を揺さぶっている。1年前には、軍を投入し、ウクライナのクリミア半島を一方的に併合。当時、核戦力を臨戦態勢にする用意があったとまで今月、明かした。米国への敵意をむき出しにし、エネルギーや金融の分野では中国に接近。シリアや北朝鮮問題でもカギを握る。北方領土問題の打開を目指して安倍晋三首相が接近を図る日本もその言動を注視する。プーチン氏とはどんな人物なのか。
その瞬間、それまでにこやかだったプーチンの顔色がさっと変わった。
「山下さん。安倍首相はあなたにそう言ったのかもしれないが、日本が今やっていることは、その言葉とは正反対じゃないか」
ロシアのプーチン大統領とは、どんな人物か。欧米への敵意をむき出しにし、ウクライナに軍事侵攻した今、2015年に展開した連載「プーチンの実像」をアーカイブ配信します。(年齢や肩書は当時。敬称略)
プーチンのいらだちは、ウクライナ危機を理由に日本が対ロ制裁に踏み切ったことに向けられていた。
2014年8月31日、ウラル山脈南部の都市チェリャビンスクで開かれた柔道世界選手権の最終日。ロサンゼルス五輪柔道金メダリストの山下泰裕は、貴賓席にプーチンと共にいた。
プーチンの表情が一変したのは、山下が安倍から託された「2人のリーダーシップで日ロ関係を劇的に改善させたい」というメッセージを伝えたときのことだった。
長年の交流がある山下は、「これまで私に見せたことがない、おっかない顔だった」と振り返る。
プーチンの表情はしかし、すぐに緩んだ。我に返ったように「まあ、ここでそれを話してもしかたがない。ヨシ(元首相・森喜朗)に直接聞いてみよう」とつぶやいた。9月初めにモスクワを訪れる森との会談がこのときに固まった。
写真・図版プーチンの怒りの本気度
2014年8月31日、ロシア・チェリャビンスクで開かれた柔道世界選手権を観戦するプーチン大統領。このとき、山下泰裕氏(左下)と会話を交わした==ロシア大統領府提供
2013年4月、日本の首相として10年ぶりにロシアを公式訪問した安倍は、北方領土交渉の再スタートでプーチンと合意した。2人の関係がぐっと近づいたのは、2014年2月のソチ冬季五輪開会式。ロシアの反同性愛法などを批判する欧米の首脳の多くが出席を見合わせる中、安倍はあえて出席した。プーチンはソチ郊外の公邸で、日本から贈られた秋田犬を連れて安倍を出迎える気配りを見せた。
しかし3月にロシアがウクライナから一方的にクリミア半島を併合。さらにウクライナ東部で親ロシア派とウクライナ政府軍の戦闘が激化。プーチンは主要国(G8)首脳会議から排除され、孤立を深めていく。
対米関係やG7の連携を重視する日本も、対ロ制裁に追随した。プーチンは5月、各国の記者との会合で日本の制裁について「驚いた。(北方領土)問題の交渉も中断するつもりなのか」と語った。このとき日本の外務省関係者は、プーチンの怒りの本気度を測りかねていた。
だが、8月に旧知の山下に見せた表情は、日本と安倍に対するプーチンの不信が深いことをはっきりと物語っていた。(2015年3月29日掲載)(駒木明義)
コメント プチ鹿島(時事芸人) 2022年3月23日12時51分 投稿
【視点】ここ数日、本棚から引っ張り出して再読していたのが『プーチンの実像 証言で暴く「皇帝」の素顔』でした。これは2015年10月に朝日新聞国際報道部(駒木明義、吉田美智子、梅原季哉)が出した本です。新聞の連載をまとめた本は当時の雰囲気がわかるし加筆されたものとあわせて読むと時事ネタ資料として便利です。
本書はプーチンがクリミア半島を併合(2014年)したあと「プーチンとはいったい何者だろうか」という疑問に対しての「中間報告」としていた(まさに中間報告ですね)。
山下泰裕氏や森喜朗氏のプーチン像は意外や「人たらし」だった。しかし「あの愛想の良さは、典型的なKGBだ。警戒することをおすすめする」という証言があった。相手の警戒心を解き、信頼させる手腕こそスパイに不可欠だと。なるほど。
森氏とプーチン氏が2000年に朝食を共にした際、プーチンがNATOを激しく非難していた様子も書かれています。この時からそうだったのだなとあらためてわかる。
本の後半には「一貫して言えることは、プーチンはとにかく体制の転覆を忌み嫌う」「プーチンはさらに先に進む」「今後のロシアと欧米の関係や、制裁の行方、ひいてはプーチンの政権基盤を大きく左右するのは、もちろんウクライナ情勢だ」などとも書かれていた。
日々のニュースで「これからどうなる」という視点も大事ですが、「過去にどう報じられていたか、書かれていたか」を読みなおしてみるのも”今”のニュースを追う上で大切だと思いました。
連載②「プーチンの実像」(2015年) 第一部「KGBの影」①
底冷えがする夜だった。1989年12月5日。旧東ドイツ・ドレスデンの秘密警察シュタージ支部は、外気とは裏腹に、約5千人の民衆で熱気に満ちていた。東西冷戦の象徴「ベルリンの壁」崩壊から1カ月、約200キロ南のドレスデンでも、民主化を求めるデモ隊が押し寄せていた。
幼少期の夢は「スパイ」…プーチンとKGB 当時から「敵はNATO」
「私たちの(情報を記録した)資料を返せ」。興奮した民衆は雄たけびをあげ、壁をよじのぼった。ほぼ無抵抗の支部を占拠し、約6時間たったころ、群衆の中から「KGBも占領してやろう」と声があがった。15人ほどのグループが約100メートル離れた旧ソ連の国家保安委員会(KGB)の支部に向かう。
当時、旧東独の政府系研究所のエンジニアだったジークフリート・ダナートグラプス(82)も、その中にいた。「シュタージの建物をあまりに簡単に占拠できたので、みんなKGBもできると確信していた」
深夜にもかかわらず、KGBの支部があるコンクリート造りの建物は、いつも通り明かりがついていた。1メートルほどの高さの鉄製の門の前にたどり着くと、警備の兵士が慌てて中に入って行くのが見えた。少しして、「制服を着ていなければ将校とは思えないほど、小柄でやせ気味」の男が出てきた。
ロシアのプーチン大統領の実像に迫る連載です。第一部では、KGBエージェントとしての経験が現在に投げかける影を追います。
男は門から少し離れた位置に立ち、デモ隊をじっと見ながら告げた。
「ここに侵入することは断念しろ。武装した同僚に、ここを守るよう指示した。もう一度言う、立ち去れ」
男の脇の兵士は、銃で武装している。侵入すれば撃つ、という意思表示だった。ロシア語のなまりが少しあるものの、流暢(りゅうちょう)で正確なドイツ語。とても静かだが、断固とした口調にダナートグラプスは「本当に撃つ気だ」と感じた。
デモ隊はこの警告に驚き、恐れをなして、すぐに引き揚げた。わずか5分の出来事だったが、ダナートグラプスには今も残る鮮烈な印象を残した。後に、ロシア大統領エリツィンの後継者を巡る報道で、この小柄な男が、当時37歳だったプーチンだったと知る。
ダナートグラプスはプーチンをこう評価する。「武装していない将校が言葉を発しただけで、群衆は去った。権力で人を意のままに動かすことができる人間だということだ」
75年にKGBに入ったプーチンは、外国に勤務したいという願望がかない、85年から90年までドレスデン支部で北大西洋条約機構(NATO)の情報収集などの任務にあたった。妻、娘2人と共に暮らし、お気に入りのバーに頻繁に顔を出すなど、生活を楽しんでいたようだ。それが、突然断ち切られた。
KGBドレスデン支部があったこぢんまりとした白い建物は現在、哲学者で思想家のルドルフ・シュタイナーが提唱した教育の研修施設になっている。KGBの元施設というイメージを払拭(ふっしょく)するために、周囲を囲む高さ約2メートルのコンクリート壁は改築し、低くしてあるという。
取材に訪れた時、プーチンが25年前の1989年に下りてきた階段周辺には、中高校生ぐらいの子どもたち数人が集まっていた。私が記者だと知ると、中に招き入れてくれた。1階の通りに面した大部屋の窓のカーテンを開けると、デモ隊が詰めかけた門がみえる。
近くにあった旧東ドイツ秘密警察のシュタージ支部は数時間にわたり、デモ隊に占拠された。その騒がしさを聞きながら、プーチンも同僚たちと、こうして外をうかがったのだろうか。
この日ドレスデンで起きたことについて、プーチンは多くを語っていない。大統領に就任した2000年に出版されたインタビュー本で、わずかに次のように振り返るのみだ。
「群衆が私たちの建物の周りに集まってきた。脅威は深刻だった。我々を守るために少しでも動こうとする者は誰もいなかった。我々は、(ソ連と東ドイツの)国家間、機関間の合意の枠内で、自分たちで対処する用意はあった。我々は、その用意があることを(群衆に)示さざるを得なかった。それは、必要な印象を与えた。しばらくの間ではあったが」
「対処する用意があること」を示す。それがまさに、ダナートグラプスの脳裏に今も焼き付くプーチンの行動だった。
プーチンはインタビューで「我々は」と語っている。しかし建物にいたKGB要員のうち、実際にデモ隊と向き合って矢面に立ったのはプーチンだけだった。
ドレスデンでプーチンのKGBの同僚だったウラジーミル・ウソリツェフは、チェコのプラハで会った私たちに、次のように証言した。
「私は事件の当時は、ドレスデンを離れていた。後になってその場に居合わせた同僚たちから何が起きたのかを聞かされたとき、私は驚かなかった。プーチンは勇敢な男で、本物の戦士だと知っていたからだ。よほどの強い神経と決断力がなければ、柵を越えてなだれ込もうとしている群衆と一人で向き合うことはできない。プーチンが、そうした資質を誰の目にもわかるように示したのは、このときが最初かもしれない」
ウソリツェフが聞いた話によると、プーチンは自ら自動小銃を手にとって「柵を越えた者には誰であれ発砲する」と警告したのだという。銃を持った兵士をプーチンが従えていたというダナートグラプスの目撃証言とは少し食い違う。ただ、プーチンがただ一人でデモ隊を解散させたという点では一致している。
刻まれた国家崩壊の脅威
11月にベルリンの壁が崩壊してからというもの、プーチンらドレスデンに駐在していたKGBの要員は機密書類の破棄に追われていた。東ドイツという国家そのものが終わろうとしていることは明らかだった。
デモ隊が詰めかけたときも、その作業は終わっていなかった。だからこそ、なんとしても建物への乱入は防がねばならなかった。
プーチンは前記インタビューで次のように語っている。
「我々はすべてを廃棄した。連絡先、ネットワーク。私自身、膨大な文書を焼却した。焼却炉が破裂するほどだった。昼も夜も焼却した」
KGBの要員として築き上げてきたすべてのものが価値を失い、逆に自分たちの安全を脅かす危険物になっていた。
詰めかけたデモ隊をいったん追い払った後、プーチンは東独駐留ソ連軍に電話で救援を要請した。しかし返ってきた答えは「モスクワからの指示がないと何もできない。だがモスクワは沈黙している」。プーチンが「もうソ連も長くない」と実感した瞬間だった。
揺らぐことなど想像もしていなかった国家のあっけない崩壊。怒りにかられて押し寄せるデモ隊。ドレスデンでの体験がプーチンのその後に決定的な影響を与えたことは想像に難くない。
プーチンについての著書がある独週刊誌「フォークス」モスクワ支局長ボリス・ライトシュスターは、「プーチンはドレスデンで、民衆が権力に牙をむくことによって、国、そして自身の穏やかな生活が崩れ去るのを目の当たりにし、一種のトラウマ(心的外傷)を負った」と考える。
ロシアでの反体制派に対する弾圧や、ウクライナへの介入について「民衆が抵抗をみせる度に、プーチンの前にドレスデンの亡霊がよみがえり、プーチンは不安を払拭(ふっしょく)するために威圧的な行動に出ている」と語る。(駒木明義、吉田美智子)
「私有財産は、誰も侵す権利ない」
東ドイツ・ドレスデンでKGBのプーチンの同僚だったウラジーミル・ウソリツェフに会ったのは、チェコの首都プラハだった。先方が指定した場所に現れたのは、豊かなひげを蓄えた温厚そうな初老の紳士。「ウソリツェフ」はKGB時代からの偽名で、本名は教えられないという。写真撮影も断られた。
ウソリツェフはドレスデンで、プーチン一家と同じKGB官舎に住んでいた。ウソリツェフの妻が、プーチンの幼い2人の娘の子守をするほど、家族ぐるみのつきあいをしていた。
ウソリツェフが今もはっきりと覚えているプーチンの言葉がある。
「私有財産は、神聖なものだ。誰もそれを侵す権利はないはずだ。それが、社会を発展させる原動力になる」「自分の労働の結果を子孫に引き継がせる相続の権利も非常に重要だ」
プーチンは、折に触れてこうした持論を熱っぽく繰り返していたという。
共産主義を旗印に掲げるソ連の体制を擁護する使命を帯びていたKGB。その要員としては許されない思想だった。「表沙汰になれば組織を追われるか、逮捕されかねない意見だった」とウソリツェフは語る。
だが、2人はKGBの建物のどこに盗聴器がしかけられているか熟知していた。誰にも聞かれる恐れがない片隅に陣取り、5歳年下のプーチンと本音の議論を交わす時間をウソリツェフは気に入っていた。
ベルリンの壁崩壊後、KGBに押しかけたデモ隊を冷徹に追い払ったプーチンだが「彼らの気持ちはよく理解していた。共感していたと言ってもよい」とウソリツェフは振り返る。
「我々は東ドイツの国民が抑圧的な体制を憎んでいる様子を見ていた。当時の東ドイツが火薬庫の上に座っているような状態だったことははっきりしていた」
新たな祝日に込めた「国のかたち」
プーチンはソ連の復活を狙っているのではないか――欧米では、しばしばそんな見方がささやかれる。
しかし、旧東独ドレスデンのKGB支部で、プーチンの同僚だったウソリツェフの見方は異なる。「プーチンはソ連に対して、その閉鎖性を理由に、いつも批判的だった」
私有財産や相続権を認めるべきだという考えを、プーチンはウソリツェフにはひそかに明かしていた。
プーチンの信念を象徴する決断が、11月7日(旧暦10月25日)に祝われてきたロシア10月革命記念日の廃止だ。大統領も2期目に入り、権力基盤を盤石にした2005年のことだ。
革命記念日は、レーニンが率いるボリシェビキが権力を奪取した、いわばソ連の誕生日。長く5月9日の対独戦勝記念日と並ぶ重要な祝日だった。ソ連を解体して急進的な経済改革を推し進めた初代大統領エリツィンでさえ、「和解と合意の日」と名前を変えた上で祝日として残していた。
革命記念日に代わる新たな祝日としてプーチンが選んだのが、11月4日。1612年、皇帝の血が途絶えて混乱の渦中にあったロシアに攻め入ったポーランド軍を、立ち上がったロシア国民軍が撃退した日だとされている。だが、多くのロシア人にはなじみが薄い。
新しい祝日を「国民統合の日」と名付けたプーチンは当時、その意義をこう語っている。「異なる宗教、民族、階層の人々が、祖国を救うためにそのとき団結した。真の国民的統合だった」
ここに、プーチンが共産主義に置き換えようとするロシアの「国のかたち」が見える。多宗教、多民族の国民が、混乱に付け入ろうとする外敵から国を救うために団結して戦うのがロシアだ、というわけだ。では、プーチンが頭に描く今の「外敵」とはなんだろうか。
「スパイになりたい」
話を冷戦末期の東ドイツ・ドレスデンに戻す。
KGBの要員だったプーチンの任務とは、どんなものだったのだろうか。当時の同僚だったウソリツェフは、こう説明する。「私たちが対象としていたのは、第一に西ドイツ。特に、北大西洋条約機構(NATO)の動向だった。中でも、ソ連に対する核ミサイル攻撃に向けた準備の動きをつかむことが、最重要任務だった」
KGBが持つすべての「目」と「耳」を動員して、動向を追っていた。NATO軍の戦車が格納庫を出たといった細かい情報もモスクワに報告されていたという。非常に困難な任務だった。
プーチン自身が端的に語っている。「私たちは『主たる敵』に関するあらゆる情報に関心を持っていた。主たる敵と考えられていたのは、NATOだった」。2000年に出版されたインタビュー本の中での発言だ。
日常的な業務もあった。東ドイツ情勢の観察と分析だ。こちらはずっと簡単な仕事だった。
当時の東ドイツは、秘密警察「シュタージ」を始めとする治安機関が社会の中に監視の網を張り巡らせていた。ウソリツェフには、その密度はソ連の5倍にも10倍にも感じられた。プーチンは「30年前のソ連のような厳しい全体主義国家だった」と語っている。
プーチンは子供時代に「スパイになりたい」という夢を抱き、KGBに入って念願の国外勤務のチャンスをつかんだ。視野を広げ、ソ連を改革する必要性を痛感していた。しかし、実際に暮らしていたのはソ連以上に息苦しい東ドイツだった。西側の空気に浸る機会はなかったようだ。プーチンは、00年にロシア大統領に就任してからも、KGB時代のNATOへの不信感をそのまま抱いていた様子を、日本で見せていた。
「なぜ包囲網敷く」漏らした不信感
プーチンはソ連崩壊まで16年間に及ぶKGB時代、北大西洋条約機構(NATO)を「主たる敵」とする仕事をしてきた。
それから約9年後の2000年9月、プーチンはロシア大統領として、日本を公式訪問した。当時首相だった森喜朗は、元赤坂の迎賓館で朝食を共にしながらプーチンから聞かされた話を今でもはっきりと覚えている。
この年、森がプーチンとじっくり話す機会はすでに3回目。4月にはロシアのサンクトペテルブルクを訪ね、大統領就任直前のプーチンと丸一日共に過ごした。7月には主要8カ国(G8)首脳会議の議長として沖縄でプーチンを迎えた。二人の間には打ち解けた雰囲気ができていた。
「いいか、ヨシ」と、プーチンは語りかけた。
「ロシアは、自由と民主主義、法の支配という価値観を米国や日本と同じにした。これは決して簡単なことではなかったんだ」
「ところが欧州はどうだ」と、プーチンは顔を曇らせた。「相も変わらずNATOでロシアの包囲網を作ろうとしている」
「ソ連は冷戦が終わってロシアに変わったときに、ソ連の中の共和国を全部解放した。東欧の国々もみな解放した。彼らは自由になった。それは、良かったと思う。彼らはEU(欧州連合)に入るという。それも構わない。経済は大事なことだろう」
「だが、なぜNATOに入るのか。米国と一体になって包囲網を敷く。軍事同盟じゃないか。そんなことのために自由にしたわけじゃないんだ」
そこまで言い切った後、プーチンははっと気づいたように言葉を継いだという。
「という連中が、我が国には多いんだよ」
欧米のロシア「包囲網」へのプーチンの不信感は、今のウクライナ問題につながっている。森は当時を振り返ってそう感じている。(2015年4月配信)
コメント
遠藤乾 (東京大学大学院法学政治学研究科教授) 2022年2月28日23時53分 投稿
【視点】 タイムリーなアーカイブ発信。2015年の連載時にも読んでいたはずだが、改めていまよむと、新しく気づかされることもある。
その一つが、「だが、なぜNATOに入るのか。米国と一体になって包囲網を敷く。軍事同盟じゃないか。そんなことのために自由にしたわけじゃないんだ」という興味深いプーチン発言。かつてソ連のくびきの下にあった東欧諸国が敵視するNATOに加盟するのを不可解に思っている。それだけでなく、ロシアが彼らを自由にしたと考えている。一種のオーナーシップ(所有感覚)をもっているのがわかる。
東欧諸国がNATOに入ろうとするのは、アメリカがけしかける以上に、みずからそれを望むから。その希求の源泉は、プーチンその人に中にあるようなロシア(旧ソ連)の東欧に対する視線、とりわけオーナーシップ感覚であることに、彼自身気づいていない。そのナチュラルなまなざしが怖いのだ。だからアメリカに頼るのだ。それが彼にはわからない。
彼はピアノが弾けるようだが、シナトラは歌えまい。一種の悲劇である。
連載③「プーチンの実像」(2015年) 第一部「KGBの影」②
https://digital.asahi.com/articles/ASQ2T32L2Q2SDIFI01B.html?iref=pc_leadlink
幼少期の夢は「スパイ」…プーチンとKGB 当時から「敵はNATO」
1990年1月に、プーチンはKGBの要員として5年あまりを過ごした東独・ドレスデンを後にして故郷のレニングラード(現・サンクトペテルブルク)に戻る。ベルリンの壁崩壊から2カ月、プーチンがドレスデンのKGB支部に詰めかけたデモ隊に単身で向き合って解散させてからわずか1カ月。歴史の歯車は、誰も想像しなかった速度で回り始めていた。
レニングラードへの異動――それは、必ずしも恵まれた処遇ではなかったと、プーチンの同僚だったウソリツェフは語る。
ロシアのプーチン大統領とは、どんな人物か。欧米への敵意をむき出しにし、ウクライナに軍事侵攻した今、2015年に展開した連載「プーチンの実像」をアーカイブ配信します。(年齢や肩書は当時。敬称略)「国外で働いたKGB要員にとって、成功とはモスクワに行くことだった。東ドイツ勤務の場合、だいたい30~40%がモスクワに引き立てられた。プーチンはそこには入らなかった」
だが、それがプーチンの能力が低かったことを意味するわけではないと、ウソリツェフは強調する。
「昇進には能力以外に、コネが必要だった」
プーチン自身は、かつてインタビューに対して、モスクワで働かないかという話があったが断ったと語っている。国にも組織にも将来がないと感じたからだという。真相はわからない。
ただ、ウソリツェフは、プーチンと「盗聴される心配がない片隅」で本音の話を交わすときも、昇進の希望は聞いたことがないと証言する。「もっと高尚なテーマを議論したよ。法のこと、宇宙のこと、哲学や文学。誰にどんなコネがあるなんて話はしたことがない」
プーチンはしかし、周囲の人たち、特に年長者を魅了する不思議な力を持っていた。それが、一介のKGB要員から大統領へと駆け上がる原動力の一つになったと、ウソリツェフは考えている。そんな力の片鱗(へんりん)を、プーチンは日本でものぞかせていた。(駒木明義)
「あの場にいた全員がしびれました」。柔道のロサンゼルス五輪金メダリスト山下泰裕が振り返るプーチンのスピーチとは。講道館、柔道着姿のあいさつで魅了
柔道のロサンゼルス五輪金メダリスト山下泰裕は、プーチンと初めて会った日のことを、今でも鮮明に覚えている。2000年9月5日。プーチンがロシア大統領として訪日した3日間の最終日、自身の希望で柔道の聖地・講道館を訪れた。
山下は事前に外務省から一つの頼み事をされていた。「できれば、プーチン大統領が柔道着を着ないようにお願いします」
プーチンは講道館から、大統領専用機が待つ羽田空港に向かう予定だった。着てしまうと時間が読めなくなり、首都高の交通規制を含む警備態勢に大きな影響が出る、という理由だった。
山下は、講道館の4階でプーチンを出迎えた。だがこのとき、プーチンはすでに自分の柔道着を小脇に抱えていた。
「どこで着替えたらいいかな?」
これが、山下が初めて聞いたプーチンの言葉だ。
今であれば、外務省は「プーチンが柔道着を着ないように」とは言わなかったかもしれない。当時は大統領に就任してわずかに4カ月。それまでほぼ無名で、前大統領エリツィンとその取り巻きに選ばれた操り人形という見方さえあった。
柔道着に着替えたプーチンは、道場であいさつの言葉を語った。
「講道館に来ると、我が家に帰ったような安らぎを覚える」と、プーチンは切り出した。
「私だけではない。世界中の柔道家がそう感じるはずだ。講道館は柔道家の大事なふるさとだからだ。柔道が世界に広がったのはすばらしいことだ。だが、もっと大切なのは、柔道を通じて日本の文化、日本の心が世界に広がっていく。このことに価値がある」
山下は当時を振り返って「あの場にいた全員がしびれました」と語る。(駒木明義)
細やかな気配り、「人たらし」の才能
2000年9月に講道館を訪れたプーチンが、周囲の人々を味方につける力を見せつけたのは、行事の最後でのことだった。
講道館は、プーチンに6段の段位を贈った。黒帯を外して、6段以上の者だけに許される紅白の帯を締めるよう促されたプーチンは、なぜかそれを断った。少しがっかりした空気が道場にひろがるのを予期していたかのように、プーチンはマイクを取った。
「私は柔道家だ。6段がどれほど重いものかを、よく知っている。光栄なことだが、残念ながら私の実力は、まだこの帯を締められるほどではない。ロシアでさらに練習を積み、早くこの帯を締められるような柔道家になりたい」
万雷の拍手。山下泰裕は「その場にいたみんなが、大統領のことを大好きになった」と振り返る。
プーチンを知るロシア人の多くが、接した人々を魅了する「人たらし」の才能があると語る。「あの愛想のよさは、典型的なKGBだ」と評する者もいる。相手の警戒心を解き、信頼させる手腕が、情報入手を仕事とするスパイに不可欠なのは、うなずける。
だが、東独ドレスデンでプーチンの同僚だったウソリツェフは「プーチンの魅力は本物だった」と語る。ウソリツェフが考える「典型的なKGB」は、大統領府長官セルゲイ・イワノフ。愛想は良いが、どこか仮面のような表情だ。
「プーチンは違う」。講道館のエピソードを知らないはずのウソリツェフだが、「プーチンは、目上に対して敬意を込めて礼儀正しく接する姿勢を柔道を通じて身につけたのではないか」と推測していた。特に年長者はプーチンに「とろけるように」心酔する者が多かったのだという。
プーチンの細やかな気配りに、初対面で強い印象を受けたもう1人の日本人が元首相・森喜朗である。
プーチンの目から涙が流れた
森喜朗がプーチンと初めて会ったのは、2000年4月29日のことだった。会談場所はプーチンの出身地、サンクトペテルブルクのロシア美術館だ。
病に倒れた小渕恵三の後を継ぎ、森が4月5日に首相に就任した直後。一方のプーチンも、3月の大統領選に勝利したばかり。就任式前で、肩書はまだ大統領代行だった。
通訳だけを交えた小人数の会談。プーチンは座るやいなやこう切り出した。
「あなたの父親はシベリアに抑留されていたのか?」
「いろいろと調べているもんだな」と、森は思った。森の父茂喜は、石川県根上町の町長としてソ連との交流に尽力。根上町の姉妹都市となったバイカル湖に近い町シェレホフには、茂喜の遺骨を分骨した墓がある。ただ、終戦は南方で迎えたため、シベリアには抑留されていない。
ちなみに、初対面の相手に家族の情報をぶつけるのはプーチンの常套(じょうとう)手段だ。06年11月、首相に就任した安倍晋三との最初の会談でも「あなたの父親は外相として、ソ連と日本の関係発展に大きな貢献をされた」と、安倍晋太郎元外相に触れた。いかにもKGBらしいやり方だ、と評する日本の外交関係者もいる。
森はプーチンに、父親とソ連の縁を説明した。
ソ連嫌いの息子の自分にも行く機会をつくっておこうと、父茂喜が生前からソ連に墓を置くよう言い残していたこと。母親が年に2回、ロシアを訪れて墓参りをしていること。母親が死んだら遺骨を一緒に入れてやろうと思っていること。
聞いているプーチンが次第に真顔になっていった。
自分の骨も持って行くことになるだろう。「私はロシアに眠ることになる」と森が言ったところで、プーチンの目から涙が流れた。
KGB出身の冷たい男と聞いていたけれど、どうも様子が違うと、森は感じていた。
「なぜこの車に乗せたか分かるか?」
森喜朗がプーチンと初めて会った2000年4月29日、2人は朝から深夜まで一緒に過ごした。
森はその間、幾度となくプーチンの細かい気配りに感心させられた。
一つ例を挙げる。サンクトペテルブルク市内を車列で移動するとき、2人にはそれぞれ専用車が用意された。だがプーチンは森に「一緒に乗ろう」と声をかけた。乗り込んだのはプーチンの車ではなく、後続の警護用の四駆だった。
プーチンは「なぜこの車に乗せたか分かるか? 私の車は狙われるかもしれないからな」と、冗談を飛ばした。狭い車中で打ち解けたことが、今も続く2人の交友の出発点となった。
プーチンは、ロシア側の通訳は降ろし、日本側通訳を同乗させた。これもまた心遣いだと、森は思った。
森だけではない。プーチンは大統領1、2期目の2000年から08年の間、「人たらし」ぶりを発揮したのか、欧米の多くの首脳と親密な関係を築いた。
前独首相シュレーダーはプーチンの盟友と呼ばれ、引退後に両国を結ぶガスパイプライン会社の役員に就任した。元イタリア首相ベルルスコーニは、今もしょっちゅう会う間柄だ。前仏大統領サルコジや、イラク問題で対立した前米大統領ブッシュとも、個人的にはウマが合ったようだ。
だが12年に4年ぶりにプーチンが大統領に復帰したとき、G8には、気心の知れた首脳は皆無になっていた。特に米大統領オバマとの関係は、はた目にもとげとげしいほど。ウクライナを巡る混迷の一因はこんなところにもある。
ウクライナ問題が起きる前、あるロシア外務省の元幹部は私に語った。「今のG8でプーチンが気を許せるのは、安倍晋三首相ぐらいだ」。それだけに、日本が対ロ制裁に加わったことはプーチンにとって心外だったのだろう。連載のプロローグで紹介したプーチンの不信感の根っこがここにありそうだ。(2015年4月配信)
コメント おおたとしまさ(教育ジャーナリスト) 2022年2月28日20時31分 投稿
【視点】私のコメントプラスのアイコンの写真は、ロシアでロシア人のカメラマンに撮ってもらったもの。たまたまロシア語に訳されている著書があったため、モスクワで開かれるブックフェアに招かれて、講演やら対談やらをする機会に恵まれた。3年ちょっと前のこと。そのときに撮ってもらった写真だ。
<モスクワ訪問記>
https://ameblo.jp/toshimasaota/entry-12425454418.html
私が会ったロシアの人たちは、陽気でいてかつ律儀でしかもタフな印象だった。浮ついたところがない、信頼できる人たちという印象を受けた。そして意外だったのは、彼らの多くがプーチンのことを政治家として尊敬していたこと。豪腕振りに対する恐れもなくはないが、それ以上に、決して私利私欲に走る人物ではないという信頼を勝ち得ているようだった。そのうえで、彼のリーダーシップを高く評価しているように感じられた。
それなのに……。いまロシアの人たちは、心底プーチンに失望しているはずだ。プーチンはもっとも敵に回してはいけない相手を敵に回したと思う。
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WTO加盟を機に、中国が規模に見合う責任も果たす。日本と世界の期待は、いまだ実現していない。 (敬称略)(編集委員・吉岡桂子、北京=西山明宏)
中国がレアアース゜対日輸出を制限 (検索ページ)
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中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)設立 (検索ページ)
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