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続折々の記 2022 ⑨
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 07】09/03
懐かしい歌 少年の心
2022/09/03
その一 貴様と俺とは同期の桜
同期の桜 歌詞と原曲について
西條八十『戦友の唄(二輪の桜)』を原曲とする戦時流行歌
「貴様と俺とは」が歌い出しの『同期の桜』は、太平洋戦争時に兵士らの間で歌われた戦時流行歌。
原曲は、西條 八十 (さいじょう やそ)作詞、大村能章作曲による『戦友の唄(二輪の桜)』(1938年出版)。歌詞は後掲する。
元々は陸軍兵士を意図とした歌だったが、帖佐 裕(ちょうさ・ひろし)海軍大尉が海軍兵学校向けに替え歌した。ただし、帖佐氏による歌詞は現在の1番・2番・5番部分で、「航空隊」に関する3番と4番は作者不明。
戦後、終戦まで海軍航空隊に所属していたスター歌手の鶴田浩二が、特攻隊員の心情を綴った日記を曲を伴奏に読み上げレコード化。一般の国民にも広く知られる流行歌となった。
『同期の桜』
貴様と俺とは 同期の桜
同じ(兵学校)航空隊の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと散りましょ 国のため
貴様と俺とは 同期の桜
同じ(兵学校)航空隊の 庭に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
なぜか気が合うて 別れられぬ
貴様と俺とは 同期の桜
同じ航空隊の 庭に咲く
仰いだ夕焼け 南の空に
未だ還らぬ 一番機
貴様と俺とは 同期の桜
同じ航空隊の 庭に咲く
あれほど誓った その日も待たず
なぜに死んだか 散ったのか
貴様と俺とは 同期の桜
離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
春の梢に 咲いて会おう
原詩「二輪の桜」について
『同期の桜』歌詞の原詩とされる、西条八十「二輪の桜」について若干補足。これは少女向け雑誌「少女倶楽部」昭和13年(1938年)2月号に掲載された詩。
1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件を発端とする第2次上海事変が発生。この事変で恋人を失った少女のために、次のような「二輪の桜」が雑誌に掲載された。
君と僕とは二輪のさくら
積んだ土嚢の陰に咲く
どうせ花なら散らなきゃならぬ
見事散りましょ 皇國(くに)のため
君と僕とは二輪のさくら
同じ部隊の枝に咲く
もとは兄でも弟(おとと)でもないが
なぜか氣が合うて忘られぬ
君と僕とは二輪のさくら
共に皇國(みくに)のために咲く
昼は並んで 夜は抱き合うて
弾丸(たま)の衾(ふすま)で結ぶ夢
君と僕とは二輪のさくら
別れ別れに散らうとも
花の都の靖國神社
春の梢で咲いて会ふ
<引用:西條 八十『二輪の桜』雑誌「少女倶楽部」昭和13年(1938年)2月号より>
ここでの「君」は少女、「僕」は少女から見た恋人を意味する。
原曲『戦友の唄(二輪の桜)』
雑誌「少女倶楽部」に掲載された原詩を元に、戦時歌謡『戦友の唄(二輪の桜)』が昭和14年(1939年)7月に発表された。歌詞は3番まで。
一 君と僕とは 二輪の桜
同じ部隊の 枝に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
なぜか気が合うて 離れられぬ
ニ 君と僕とは 二輪の桜
積んだ土嚢の 影に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
見事散りましょう 国のため
三 君と僕とは 二輪の桜
別れ別れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
春のこずえで 咲いて会う
<引用:西条八十『戦友の唄(二輪の桜)』作曲:大村能章>
3番までのこの曲を海軍兵学校向けに替え歌した『同期の桜』も、当初は3番までの歌だったが、後に「航空隊」向けに歌詞が追加され、全部で5番までの曲になっている。
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その二 そうだその意気
一 なんにも云えず 靖国の
宮のきざはし ひれ伏せば
熱い涙が こみあげる
そうだ 感謝の その気持
揃う 揃う気持が 国護る
二 雁の鳴きわたる 月の空
今夜いまごろ 戦地では
弾丸たまを浴びてる
朋友ともがある
そうだ 済まない その気持
揃う 揃う気持が 国護る
三 戦に勝つにゃ お互いが
持場 職場に 命がけ
こんな苦労じゃ まだ足りぬ
そうだ その意気 その気持
揃う 揃う気持が 国護る
四 かがやく勲 皇軍に
まけず遅れず がっちりと
共に戦う 銃後軍
そうだ 進めば 盛り上がる
凱歌 凱歌明るい 大アジア
作詞は西條八十、作曲は古賀政男で、歌は霧島昇、李香蘭、松原操。「国民総意の歌」の副題がある。
愛国心、私が少年の頃に刻み込んでいた愛国心。 日本の国の存亡にかかわるためなら、みんなのために命をかけて戦おう。 純心そのものでした。 そしてそれは、尊い心がけでした。 戦友が直撃弾でふきとび、班員みんなで探しても頭も手も足もみつからなかった。 ただ一つ、はいていたズボンの左の内側にそれぞれ自分で書いてわかるようにした名札だけが見つかっただけでした。
白川君の親に届いたのは、名残のその布きれ一切れだけだったのです。 特攻機を送った「帽振れ!」の号令で真剣になって帽子を振ったのも忘れることはできないのです。 土浦の爆撃は6月10日の朝食後でした。 その日に限って所属分隊は兵舎まわりの警備隊として残っていたのです。 白川君の爆死と共に、私が手助けした他班の並木君の左手首の負傷と左脚裏大腿部のひどい外傷(本人は気がつかなかった)を負っていたのを、支えていたのに「総員第二練兵場へ避難せよ!」の厳命によつて彼には防毒面の袋を枕にして置き去りにし、自分は厳命どおり第二練兵場へまっしぐらに走り去ってしまったこと。 80才過ぎまでそのことは誰にも話せなかった。
戦争は、生きるか死ぬかの戦いなのです。 人のこころ根は死をもかえりみることなく、ひたすら国を守るための一心を貫くものなのです。 死をのりこえて進む、真剣さをもつのです。
今は衰えた老人になって、「いのちの目指すもの」を求め、それを最高の目標にして生涯を閉じたいと願っているのです。
そんな折、
貴様と俺とは 同期の桜
同じ(兵学校)航空隊の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと散りましょ 国のため
を口づさみたくもなるのです。 人のために青春を懸けた懐かしさもあるのです。
なんにも云えず 靖国の
宮のきざはし ひれ伏せば
熱い涙が こみあげる
そうだ 感謝の その気持
揃う 揃う気持が 国護る
白川義男君の死も忘れようがありません。
人を困らせるような政治家を育ててはならないのです。
以上終り。
更に続けよう。
国を憂えおもう気持が、子どもの頃の胸にしっかり位置づいていたと思うからです。
橘中佐
尋常小學唱歌 橘中佐 作詞 作者不詳 作曲 岡野 貞一
かばねは積りて 山を築き
血潮は流れて 川をなす
修羅の巷か 向陽寺(しゃおんずい)
雲間をもるる 月青し
「味方は大方 うたれたり
しばらく此処を」と 諌むれど
「恥を思えや つわものよ
死すべき時は 今なるぞ」
更に、橘中佐が陸軍の軍神といわれてたのに対し、海軍の軍神としては広瀬中佐がいた。 これも老境を迎えた人たちにとっては懐かしい歌の一つであろう。
参考のため 橘周太 を開いてほしい。
こちらも
橘周太~大正天皇の教育係をつとめた軍神、遼陽会戦に散る を開いてほしい。
広瀬中佐
文部省唱歌 広瀬中佐 著作権:消滅(詞・曲)大正元年十二月 尋常小学校唱歌四
轟く砲音(つつおと)飛び来る弾丸
荒波洗うデッキの上に
闇を貫く中佐の叫び
「杉野は何処(いずこ)杉野は居ずや」
船内隈なく尋(たず)ぬる三度
呼べど答えず探せど見えず
船は次第に波間に沈み
敵弾いよいよ辺りに繁(しげ)し
今はとボートに移れる中佐
飛び来る弾丸(たま)に忽(たちま)ち失せて
旅順港外恨みぞ深き
軍神広瀬とその名残れど
日露戦争中の明治三十七年三月二十七日、朝日水雷長であった広瀬中佐 (当時少佐) は旅順港の閉塞作戦に参加、第一回に続いて第二回目は福井丸を指揮して四雙を沈め、部下七十余名をボートに移したが、杉野兵曹長の姿が見えないのに気が付いた。
参考のため 広瀬武夫 を開いてほしい。
こちらも 広瀬武夫少佐が戦死~日露戦争第二次旅順港閉塞作戦 を開いてほしい。
海ゆかば
小学校の校庭で戦死者の村葬が行なわれた時にはこの歌も力いっぱいに歌った。
海ゆかば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
顧みはせじ
歌詞は、『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」(『国歌大観』番号4094番。『新編国歌大観』番号4119番。大伴家持作)の長歌から採られている。 作曲された歌詞の部分は、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)の引用部分にほぼ相当する。
この歌詞には、1880年(明治13年)に当時の宮内省伶人だった東儀季芳も作曲しており、軍艦行進曲(軍艦マーチ)の中間部に聞くことができる。戦前においては、将官礼式曲として用いられた。
参考のため 海ゆかば を開いてほしい。
こうした肝(キモ)っ玉は、日本は聖徳太子あたりから独立国としての形態が整えられ、その後は「大君」と言われる所謂天皇制が安定していたことに依っていると思われます。
第二次世界大戦後、アメリカの統治下の形態をとっていたため国民は大きくその影響を受けて、いわゆるアメリカ化して、私たちの多くは日本人としての自尊心から外れてきていると、私は思っています。 自尊心というとわかりにくいけれど、お金が多い少ないの感覚が強くなり人としての品性から外れることが多くなってきているのです。
以上の歌と無関係ながら、少年時代の懐かしい歌がある。 それは次の歌だが、やっと見つけました。 薩摩守(サツマノカミ)です。
薩摩守
栄華の春も 移ろえば
雲 北嶺に むらがりて
六波羅の夢 破れよと
荒(スザ)ぶは 木曽の青嵐
雲井の空と 分かれては
末 八重潮の 波枕
さだめの果てを 行くわれと
悟れどかなし 歌の道
野山に屍(カバネ) さらす身の
師の御情(ミナサケ)を 蒙(コウム)りて
一首を集(シュウ)に とどめんと
たたくもおわれ 夜半の月
かたみを遺(ノコ)す 武士(モノノフ)の
名は千載の 言の葉に
昔ながらの 香を留(ト)めて
誉もゆかし 山ざくら
これは昭和10年の「新訂高等小学唱歌(第一学年)」から出ている歌です。 このデータに解説されているものを次に載せます。
薩摩守とは清盛の末弟の忠度のこと。忠度は優れた武将であると同時に優れた歌人でもあった。木曾義仲の来襲によって都から落ちのびるが、わずかな手勢で危険をおかして京へ舞いもどる。その理由は、歌の師である俊成に会い、中断されていた勅撰和歌集に自分の歌を入れてもらうためである。
その歌道にかける執念の激しさに、俊成も動かされ、必ず歌集に採録することを約束する。忠度は安心して死地に赴く。平家が滅びて後、千載和歌集が編まれることになり、俊成は約束どおり、忠度の歌を入れようとするが、罪人の歌を実名で入れるわけにはいかず、「詠み人知らず」の歌として採用することで、忠度との約束を果たす。
さざなみや志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな
‘高校古文『さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな』わかりやすい現代語訳’によれば次のような解説をしています。
志賀の都は荒れてしまいましたが、長等山の山桜だけは昔ながらに美しく咲いていることですよ
平家物語によるとこの歌は、平忠度が三位俊成卿(藤原俊成)に託した巻物の中に詠まれていたものです。忠度は藤原俊成に歌を師事していました。
長等山 ながらやま
滋賀県大津市中西部にある山。長柄山、長良山とも書き、志賀山(しがやま)ともいう。標高354メートル。三井(みい)寺(園城(おんじょう)寺)の背後にあり、西は京都の如意(にょい)ヶ岳に続く。古くから景勝地として知られ、多くの歌に詠まれた。なかでも、平忠度(ただのり)が都落ちする際に詠じた「さざなみや志賀の都は荒れにしをむかしながらの山桜かな」(『千載(せんざい)集』)や、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)の「さざなみの長柄の山の長らへて楽しかるべき君が御代(みよ)かな」(『拾遺(しゅうい)集』)は有名。東麓(とうろく)の長等公園は桜の名所として知られる。[高橋誠一]
出典 小学館 日本大百科全書
以上「懐かしい歌 少年の心」を終わります
今日は9月4日です。 9月になって一度に秋がきた感じで、テッポウユリはみんな自分の種を残すために子房を天に向け実入りに夢中のようです。 夜になると、ギ、ギ、ギ、ギ、・・ とオカメコーロギとかミツカドコーロギノーの恋のさそい鳴きが始まっています。