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続折々の記 2022 ⑨
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 08】09/06
     利己心を離れて、義を重んじたい   軌道修正はあちこちに
        『生き物の死にざま』にあるサケの記事
        ウミガメが卵を孵化するのは満月の時が多い

 2022/09/06
利己心を離れて、義を重んじたい   軌道修正はあちこちに

最近目につくこと、といえばこんなこと
いのちの願いは世界共通であったこと、そのために目につくことを拾い上げたい。

  いのちの伝承の把握の仕方
  環境の対応作りと対策方法
  感謝と報恩と実践
   実践法 …
   「指触るゝことのみばかり思えただ 返らぬ昔知らぬ行く末」


まずはこんなタイトルを三本柱としたい。

最近までの個人的な願いはこんな風でした。 「命を大切にしたいということを柱にした思い」どうしてこんな言葉でまとめたのかを表現するとすればこんなことを土台にしていた。 朝起きてから玄関の錠を外し、父が佐渡で手に入れ10cm程のお地蔵さまに手を合わせこんなことをしゃべって祈るのです。

 「お地蔵さま、お早うございます。 私もいのちを大事にいたします。 いのちは細胞に支えられ、(いのちの)願いをそれぞれの生きものに任(マカ)せております」

報恩 これだけでいいのか、野菜を作りながら考えいた。 野菜もいのちを授かり一生懸命に生きています。 お地蔵さまへの願いは自分よがりであって、野菜を勝手にとってきて、自分達が食べている。 人の勝手な考えではないか。

それで自分の考え方の軌道修正をしなければならないことに気づいたわけです。 ではどう考えるのか。 辿りついたのは太陽の力であり、それだけでは野菜は土地の恩恵を受けていることも含めなくてはならなかった。 天地を含め宇宙の恩恵もある。

こうしてこれらすべてを含めて、大自然の恵みと言えばいいのか。 土地も気候も月も太陽も、宇宙すべての運行の恵みではないのか。 今までのお地蔵さまへの挨拶も、単に「いのちは細胞に支えられ」では片手落ちの考えだったと思う。 ではどう言えば、すべて含まれるのだろうか。

 「お地蔵さま、お早うございます。 私もいのちを大事にいたします。 いのちは大自然に支えられ、生き物はすべて細胞に支えられ、(いのちの)願いをそれぞれの生きものに任(マカ)せております」

こんなことで、任されたいのちの願いを求め続けることができるのだろうか。 すべてのいのちは、その源へつながっているのです。

何百年も、何万年も、命はつながってきているのです。 自分も命のつながりの一つを担(ニナ)っていることになります。 このことを「いのちの伝承」という言葉が受けもっているのです。

いのちの伝承は、自分一人ではできないのです。 人間で言えば、男と女が懸命な努力をして今日を迎えているのです。 この努力こそより良いいのちの伝承のために必要なことであり、そしてまた、最高の歓びでもあるのです。


なんでこんな言い方をするのか。 生まれて、生きて、いのちを残し、死んでいく。 この事実を深く理解するために『生き物の死にざま』の記事を読んでいただきたい。

『生き物の死にざま』にあるサケの記事

 サケは生まれ育ったふるさとの川へと戻ってくると言われている。

 彼らにとっては、長い長い旅路であったことだろう。

 川で生まれたサケの稚魚は川を下り、やがて外洋で旅を続ける。日本の川で生まれたサケは、オホーツク海からベーリング海へ進み、そこからさらにアラスカ湾を旅する。

 大海原を移動しながら暮らすサケの生態は十分には明らかにされておらず、謎に満ちている。しかし、川に遡上してくるサケは四年目の個体が多いことから、サケたちは海で数年間暮らし、成熟して大人になったサケたちが生まれた場所を目指して最後の旅に出ると考えられている。

 故郷の川を旅立ってから、再び故郷に戻ってくるまでの行程は、一万六〇〇〇キロメートルにも及ぶと言われている。この距離は、地球の円周の半分にも達しそうな距離だ。その旅は危険に満ちた壮絶なものだったことだろう。

 それにしても……サケたちは、どうして故郷の川を目指すのだろう。

 人間も、年齢を経ると故郷が恋しくなるという。サケたちも、あるときふと故郷のことを思い出すのだろうか。

 もちろんサケたちが故郷を目指すのには理由がある。サケたちは故郷の川に遡上して卵を産む。そして新しい命を宿すと、自らは死んでゆく宿命があるのだ。

 サケたちにとって、故郷への出発は、死出の旅である。

 彼らはその旅の終わりを知っているのだろうか。もし、そうだとすれば、彼らを危険に満ちた死出の旅に誘うものは何なのだろう。

 サケたちにとって次の世代を残すことは重要な仕事である。しかし、何も卵を産むのは故郷の川でなくてもよさそうなものだ。

 どうしてこんなに困難な旅をしてまで、故郷の川を目指すのか。そして、いつからサケたちはそんな一生を送るようになったのか。残念ながら、その理由は明確にはなっていない。

 生物の進化をたどると、かつてすべての魚類は海洋を棲みかとしていた。やがて、魚類は多種多様な進化を遂げて、海は食うものと食われるものという厳しい弱肉強食の世界となっていった。そして、捕食者から逃れるために、食われるものであった弱い魚の一部は、住みやすい海から逃れて、魚にとっては未知の環境である河口へと移り住んだのである。

 河口は海水と淡水が混ざる汽水域と呼ばれる場所である。海の塩分濃度に適応した魚たちにとって、そこは命を落としかねない危険な場所である。それでも、迫害を受けた競走に弱い魚たちは、そこに住むしかなかった。

 しかし、やがては餌を求める捕食者たちも汽水域に適応して侵出してくる。すると、弱い魚たちは逃れるようにさらに塩分濃度の低い川へと向かい生息地を見つけていったのである。現在、川や池に棲む淡水魚は、こうした弱い魚たちの子孫であると考えられている

 ところが、こうした淡水魚たちの中には、再び広い海に向かうことを選択したものもいる。サケやマスなどのサケ科の仲間がその例である。

 サケやマスなどのサケ科の仲間の魚は寒い地域の川に分布している。このような水温の低い川では十分な餌がない。そのため、一部のサケ科の魚たちは餌を求めて再び、海洋に出るようになったと考えられている。そして、餌の豊富な海で育つことによって、たくさんの卵を産むことのできる巨大な体を手に入れるようになったのである。

 それでは、どうして、餌の豊富な海へ向かったサケ科の魚たちは、卵を産むときには、川をさかのぼるのだろうか。

 海は天敵が多く、危険に満ちた場所である事実は、現代でも何一つ変わらない。進化したサケたちにとっても海は危険な場所なのだ。

 たくさんの卵を産むとは言っても、無防備な卵を海にばらまけば、大切な卵は恐ろしい魚の餌食になるだけだ。そのため、サケは大切な卵の生存率を高めようと、自らの危険を顧みずに川に戻るのである。

 母なる川を目指すサケたちの死出の旅。

 それにしても遠く離れた故郷の川に、どのようにして迷わずたどりつくことができるのだろう。サケたちは川の水の匂いで、故郷の川がわかるとも言われているが、そんなことだけで故郷がわかるのだろうか。本当に不思議である。

 長く危険な旅の末に、なつかしい川を探し当てたとしても、まったく安心することはできない。

 故郷の川とはいえ、海水で育ったサケたちにとって、塩分の少ない川の水は思いのほか危険なものでもある。そのため、サケたちは自分たちの体が川の水に慣れるまで、しバラクは河口で過ごさなければならないのだ。

 このとき、サケたちは姿を変えていく。その体は美しく光沢し、赤い線が浮かび上がる。まるで、成人の儀式を祝う鮮やかな民族衣装のようである。

 オスたちの背中は盛り上がって筋肉隆々だ。下あごは曲がって、何とも男らしい姿になる。ふるさとの川を目指す最後の旅を控えて、鋭い目は自信に満ちあふれているように見える。メスたちは、体全体が美しく丸みを帯びて、まばゆいほどに魅力的だ。どのサケも、川を下った稚魚のときとは見違えるほどに立派に成長している。

 準備が整いサケの遡上が見られるのは、秋から冬にかけてである。

 サケたちはいよいよ群れとなって川へと進入する。なつかしい故郷を目指す旅とはいえ、もうここからは自分たちの暮らしてきた海ではない。故郷を目指すサケたちには、容赦なく困難が襲いかかる。

 河口では、川を上るサケを待ち受けて、漁師たちが網を打つ。網につかまっては、一巻の終わりだ。

 何とか漁師をかいくぐったかと思えば、次はクマの爪が水の中へと襲いかかってくる。川を上りきる前に命を落とすサケも多い。

 しかし、困難は終わらない。

 川と海とはつながっているから、さかのぼれば上流にたどりつけると思うかもしれないが、それは昔の話である。

 現在では、川の水量を調節したり、土砂の流失を防ぐための堰や、水資源を確保するためのダムなどの人工物が河川のあらゆる場所に作られて、サケの針路を阻(ハバ)む。

 巨大な建造物を目の前にしてサケたちは何度もジャンプを試みる。何度、失敗しても、何度、打ちのめされても、サケたちは挑戦をやめようとはしない。これが祖先たちの克服してきた自然の滝であれば、祖先がそうしたように滝を越えていくこともできるのであろう。しかし、サケたちの前にあるのは、先人たちが経験したことのない巨大なコンリートの壁である。

 多くのサケたちは、これを乗り越えることができず、故郷を見ることなく力尽き、死んでしまう。

 最近では、「魚道」と呼ばれる遡上する魚たちのための通り道が設けられることもあるが、必死なサケたちにそんなことはわかるはずもない。偶然に魚道に出くわした一部の魚が、そこを遡上していくだけで、魚道を利用する魚は人間が思うほど多くないと言われている。多くのサケは魚道に気がつかないまま、志半ばにして旅を終えることになる。

 上流部に進めば川は浅くなり、ごつごつとした川底の石が行く手を拒む。それでもサケたちは、体を左右にゆすりながら、必死に川を上っていく。それはもはや泳いでいるというより、のたうちまわっているようにしか見えない。美しかったサケの体は、傷つき、ひれも尾もボロボロになる。それでも、彼らは少しずつ、しかも確実に上流を目指していく。

 何が彼らを、ここまでかきたてるのだろう。

 川の上流部にたどりつき、卵を残したサケたちは、やがて死にゆく運命にある。

 彼らは、この旅のゴールに死が待っていることを知っているのだろうか。

 サケたちは、河口から川に進入すると、もはや餌を獲ることはない。海を棲みかとしてきた彼らにとって、川には適当な餌がないという事情もあるだろう。しかし、彼らはどんなに空腹になっても、どんなに疲労がたまろうと、上流を目指して、川を上り続ける。時間を惜しむかのように、残された時間と戦うかのように、彼らはただ、ひたすらに上流を目指し続けるのである。

 まるで、死が近づいていることを知っているかのように、彼らは他のものには目もくれずに、ただ上り続けるのである。

 サケたちは死に向かって川をさかのぼる。そして、川をさかのぼる力こそが、彼らの生の力なのだ。

 そして……ついに、と言うべきだろう。彼らは故郷である川の上流にたどりつく。迎えてくれるのは、なつかしい川の匂いだ。

 サケたちはここで愛すべきパートナーを選び、卵を残す。この瞬間、この時のために、彼らは長く苦しい旅を続けてきたのだ。

 サケのメスは川底を掘って卵を産むと、オスのサケは精子をかける。そして、オスに守られながらメスは尾びれで優しく砂利をかけて産卵何処を作るのである。

 サケは繁殖行動が終わると死ぬようにプログラムされている。最初の繁殖を行った後、サケのオスも死へのカウントダウンが始まるが、彼らは自らの命が続く限り、メスを探し続け、自らの体力の限り、繁殖行動を繰り返す。こうして、オスのサケの命は尽きてゆく。

 卵を産み終えたメスの方は、しばらくの間、卵に覆いかぶさって卵を守っている。しかし、やがて彼女もまた力尽き、横たわる。

 過酷な旅の末に体力を消耗したわけではない。大仕事を終えたという安堵感に力が抜けてしまったわけでもない。

 メスのサケもまた、繁殖行動を終えると死を迎えるようにプログラムされているのだ。そして、無事に繁殖行動を終えたとき、その運命を知っていたかのように、サケたちは静かに横たわるのである。

 人は死ぬ間際に、生まれてからの一生を走馬灯のように思い返すという。サケたちはどうだろう。彼らの脳裏に浮かぶ思いは何だろう。

 苦しそうに、しかし満足げに彼らは横たわる。もはや体を支える力もない。できることは、ただ、口をパクパクと動かすことだけだ。

 そして、彼らは静かに死を受け入れる。故郷の川の匂いに包まれて、彼らはその生涯を終えるのである

 次々と息絶えたサケたちを、せせらぎが優しくなでていく。

 この小さな川の流れが、次第に集まって、大河となる。そして、その流れは大いなる海原へとつながっているのだ。

 季節はめぐり、春いなると、産み落とされた卵たちはかえり、小さな稚魚たちが次々に現れる。

 川の上流部は大きな魚もいないので、子どもたちにとっては安心な場所である。しかし、水が湧き出したばかりの上流部には、栄養分が少なく、子どもたちの餌になるブランクトンも少ない。

 ところが、である。

 サケが卵を産んだ場所には、不思議とプランクトンが豊富に湧き上がるという。

 息絶えたサケたちの死骸は、多くの生き物の餌となる。そして、生き物たちの営みによって分解された有機物が餌となり、プランクトンが発生するのである。このプランクトンが、生まれたばかりのか弱い稚魚たちの最初の餌となる。まさに、親たちが子どもたちに最後に残した贈り物だ。

 やがて、サケの子どもたちが、川を下る日が来ることだろう。そして、海で成長した彼らは、この故郷の川を思い、故郷の旅に出る日も来るのだろう。

 父もその父も、母もその母も、誰もがこの旅を経験してきた。子どもたちもその子どもたちにも、この旅は受け継がれていくことだろう。

 こうして、サケの命は循環しているのだ。

 しかし現代、サケたちが直面する現実は厳しい。

 堰やダムによって川の上流部の多くは海とつながっていない。

 さらに、人々はサケを好んで食べる。メスのサケが腹に宿したいくらも人間の好物だ。

 そのため、ほとんどのサケたちが河口で人間たちに一網打尽にされる。もちろん、すべて食べてしまってはサケがいなくなってしまうから、サケを守るために腹からは卵が取り出され、人工的に孵化が行われる。そして、生まれた稚魚が川に放流されるのである。

 サケの命はつながっている。

 しかし、もはやサケにとっては自らの力で卵を産むことも、故郷の川で死ぬことも果
たせぬ遠い夢なのである。



サケの生涯には感動し理解できるが、どうしてそれまでの苦難の道を父のように母のようにできるのだろうか。 サケの卵にいのちのプログラムが備わるのは何故だろうか。

卵によるいのちの伝承はサケだけではなく、ウミガメの満月の産卵と孵化後の海の生活状況にしても、母のように行動できるのはどうしてだろうか。

ウミガメが卵を孵化するのは満月の時が多い
   http://endangered-species.biz/archives/1943
   2018/9/29

私たちが住む地球に一番近い星である月。
この月は私たちの暮らしの中でとても大きな役割をしていて、月の満ち欠けが様々な生態に関係あることが分かってきました。
ウミガメもそうなのでしょうか?
今回はウミガメの産卵と孵化が月の満ち欠けとどのような関係があるのか見ていきます。

1 ウミガメの産卵と孵化との月の関係

ウミガメは生まれてからずっと海で過ごしていますが、産卵時には陸に上がります。

産卵どきは満月が多いとされ、その理由は満月時は大潮になるからだそうです。

大潮になると、潮が満ちたとき母ガメが目はより奥の方へと泳いで行けるため、上陸後から産卵場所への距離が短くなります。

また、産み落とされた卵は潮が引くため、海水を被る確率が低くなります。

産卵後の母親は潮の引きを利用して早く沖の方へ流されることができるのです。

もっとも安全であるという面から、月明かりがない新月に産卵すると言われていましたが、ウミガメは陸上ではとても目が悪く、月明かりを当てにして海へ戻ると言われているため、新月での産卵は逆に少ないようです。

ウミガメの孵化と月の関係を調べると、やはり関係があるようです。

産み落とされた卵は約2ヶ月で孵化するのですが、孵化したウミガメは、満月または満月前後の夜に一斉に砂の中から脱出します。

この時、海の音を元にタイミングを図っているみたいです。

理由もウミガメの産卵後と同じく潮が満ち海へ戻りやすいのと、目が見えないため月明かりが一番明るい満月時を選び、月明かりを辿りながら海へ向かって進んでいくようです。

ウミガメが海の満ちを読むことができるのは、月の引力を感じることができるからです。

なので、大潮時に産卵したり、砂中から脱出できるのは、ウミガメが月の引力を感じることができ、引力が大きい時が大潮だということを理解しているためです。

2 まとめ

ウミガメは潮が満ちる満月を産卵、そして孵化した後の脱出には、月の引力を知ることができるからなのです。

私たち人間には、さほど関係のない月の満ち欠けですが、産卵や脱出を図るウミガメにとっては潮の干満は大切なことのようです。


「いのちの伝承」は何百年も続いています。
   ……… 生まれて、生きて、いのちを残し、死んでいく ………


サケもウミガメも、卵として生まれ「いのちの伝承」を確実に継承してきたのです。 どうして親の姿とか環境とかわからずに、親と同じような生涯を迎えることができるのでしょうか。 不思議でなりません。 調べてみると生物は、卵生生物と卵胎生物に分かれており人間は卵胎生物であることが理解できます。

では卵生生物の生態を見てみましょう。 「胎生と卵生の違いに見る動物の生存戦略」(クリック)によれば始めはみな♂と♀による卵の形態での生命発生であることが理解できる。 ここから卵生か胎生かその生物の生存戦略だというのです。

仕組みはわかった。 では卵生生物は生命発生のDNA遺伝子によってその卵には、生涯の生きざまがプログラムされているのだろうか。 「卵生生物の卵には生涯の生きざまがプログラムされているのか」(クリック)の言葉で検索してみてもいろいろの解説は解りますが、卵への生態プログラムのインプットという言葉はありません。

従って、 「親と同じような ……… 生まれて、生きて、いのちを残し、死んでいく ……… という個々の生物の生態は、受精によるDNA遺伝子の仕組みの中で伝承されている」 と結論づけて考えるようにしました。

こう結論したことで、サケやウミガメも私たちと同じような「いのちの伝承」が行なわれていると考えてもいいのです。

さて、以上で いのちは大自然に支えられ、生き物はすべて細胞に支えられ この内容で一応納得できました。

続いて大事にしたいことは次の (いのちの)願いをそれぞれの生きものに任(マカ)せております のことです。

「いのちの願い」とは何だろうか。 これをはっきりしておかなければなりません。 この続きは 続折々の記 2022 ⑩ 【 01 】09/08~ で扱います。