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続折々の記 2022 ⑨
【心に浮かぶよしなしごと】
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【 04】09/02
     連載「プーチンの実像」(幼少期の夢は「スパイ」…)
        ⑥「プーチンの実像」(2015年) 第三部孤高の「皇帝」①
        ⑦「プーチンの実像」(2015年) 第三部孤高の「皇帝」②
       

連載J⑥「プーチンの実像」(2015年) 第三部孤高の「皇帝」①
「皇帝に喝采です」…思わず緩んだ口元
プーチン、絶対的権力と対立
   梅原季哉、駒木明義2022年2月26日
   大統領になった後にロシア国内で絶対的な権力を手にする一方で、
   欧米との対立を深めていくプーチン氏の姿に迫ります。

 ロシア大統領ウラジーミル・プーチン(62)は2014年10月16日、人口約700万人という小国セルビアの首都ベオグラードで、政府系紙ポリティカの軍事記者、ミロスラブ・ラザンスキ(64)に会った。

 旧ユーゴスラビアの一角を占めたセルビアは、ロシアと同じスラブ系で、第1次世界大戦を共に戦ったという意識も強い。ただ、最近は欧州連合(EU)入りをめざすようになり、微妙なバランスを保っている。

 プーチンはこの日、「ベオグラード解放」70周年記念式典に出席。旧ソ連赤軍と、旧ユーゴスラビア地域の共産ゲリラ・パルチザンが、ナチスに勝った戦いだ。「絆」が、念入りに演出された。

 プーチンの握手は、力強かった。壁際に、ぶ厚いブリーフケースを持ったロシア軍高級将校がたたずむ。有事に備え常に控えている核ミサイル発射指令の担当者に違いない。軍事畑が長いラザンスキは確信した。

 ラザンスキはプーチンとの事前の書面インタビューをこの日、記事にした。プーチンはベオグラードに来てから彼をコーヒーに招いた。大統領報道官のペスコフと通訳のみが同席した。

 会ったのはわずか5分余り。ロシアびいきのラザンスキは最後に思わず称賛の言葉を口にした。「ツァー(皇帝)に喝采です」。プーチンは無言だったが、わずかに口もとを緩めた。

大統領になった後にロシア国内で絶対的な権力を手にする一方で、欧米との対立を深めていくプーチン氏の姿に迫ります。  セルビア訪問の背後でプーチンは、ロシアによるクリミア併合以来混迷するウクライナ情勢への対応に追われていた。

 セルビアとロシアを結ぶ「絆」の一つが軍備だ。ラザンスキが「新式兵器をセルビアに売却する考えは」とただすと、プーチンは「まず君たちの側が関心を示す必要がある」とだけ応じた。EU入りを視野に欧州に接近しようとするセルビアを自国の勢力圏にとどめたい願望と裏腹になった、牽制(けんせい)の言葉だった。

 ロシアとセルビアが互いの結びつきを強調する根底には、かつてセルビアが自治州として領有し、紛争をへて2008年に独立を宣言したコソボをめぐる双方の思惑が存在する。セルビアにとっては、コソボ独立を認めないロシアの存在は後ろ盾として重要だ。

 ロシアにとってはどうか。冷戦後、米ロ関係が緊張緩和を基調としてきた中、99年のコソボ紛争は転機となる摩擦だった。だがプーチンにとって「コソボ」は、単なる過去ではない。ウクライナ紛争で孤立する中、不公平感をかき立てられる対象なのだ。

 昨春に「住民投票でウクライナからの離脱を選んだ」とクリミアを併合して以来、ロシアは制裁下で米欧から孤立を深める。米欧は軍事力も使った上で、コソボの自決権を認めて勝手に独立を認めておきながら、なぜクリミアでは自決権を認めず、ロシアの軍事介入を批判するのか、という反発の念が働いている。

 2014年10月のセルビアへの公式訪問で、同国大統領トミスラブ・ニコリッチとの会談に臨んだプーチンは、そこでもコソボに言及した。ロシアは「国際法と正義という原則に基づく立場を取ってきた。我々は常にセルビアを支持してきたし、今後もそうする。ロシアは友情を取引しない」。コソボ独立を認めない立場を再確認した。

 プーチンはその夜、イタリア・ミラノへ向かった。ミラノでアジア欧州会議(ASEM)の合間に、ウクライナ情勢について協議するはずだったドイツ首相メルケルとの会談は、ベオグラードでの日程が押した影響で4時間遅れた。

 プーチンはまさにそのウクライナについて、ラザンスキとの書面会見で強い懸念を示していた、ロシアの勢力圏を離れようとする新政権の動きを、「民族主義者や過激派の違憲クーデター」ととらえ、ナチス再来にまでなぞらえて不快感をあらわにした。

 99年6月11日。当時は米国の国務副長官だったストローブ・タルボット(69)は、交渉に訪れたモスクワで、ロシア政府の外交軍事政策を取りまとめる安全保障会議書記だったプーチンと初めて出会った。議題は、コソボだった。

 タルボットが2014年、米国の政治報道サイト、ポリティコに寄稿した文章によると、プーチンは初対面の席で、タルボットが大学時代に論文を書いたロシア詩人2人の名前を口にしたという。タルボットに関する個人ファイルの細部まで目を通した上で、お前のことは知っている、とわからせる意図が透けて見えた。

 タルボットは2014年、自らが所長を務めるブルッキングス研究所のネット番組で、その時の印象を語っている。「最初から彼は本質をみせていた。『警官』だ。もっと正確にいえば、(ソ連秘密警察)KGBの男、それも防諜(ぼうちょう)畑だ」

ロシア軍急展開、一触即発

 米軍が主導する北大西洋条約機構(NATO)は99年春、コソボ問題での「人道的介入」として、主にセルビアを対象とした空爆作戦を開始した。ロシアと中国が反対したため、国連安全保障理事会の決議なしで踏み切った作戦だった。結局は同年6月、セルビア側が事実上降伏する形で、軍や治安部隊をコソボから撤退させ、国際管理下に移す和平案がまとまった。

 タルボットがモスクワでプーチンと会った前日、国連安全保障理事会が、NATO主導でコソボの治安維持にあたる国際部隊KFORの創設などを柱とする決議を可決した。翌日に、NATO地上軍部隊が北上してコソボに入り、KFOR第一陣になるはずだった。

 ロシアも、このKFORに加わる意向を示していた。タルボットのモスクワ訪問は、その条件を詰めるのが目的だった。ロシアは、KFORの傘下でも自国が指揮権を持つ独自の軍管区を要求した。同じスラブ系としてセルビアの後ろ盾となり続けてきた立場から、セルビアの安全地帯確保がねらいと思われた。

 だが、タルボットたちは「エリツィン大統領は体調不良」と伝えられた。飲み過ぎでほぼ人事不省、という意味だった。代わって対応に出てきたのがプーチンだった。前年夏からKGBの後継組織FSB長官を務めていたプーチンは、NATO空爆が始まった4日後の99年3月29日、安全保障会議の書記となっていた。

 米ロが交渉に入った矢先、セルビアの現地で事態が急展開した。

 西隣のボスニア・ヘルツェゴビナで、NATOが主導する和平安定化部隊(SFOR)の一員として駐留していたロシア軍部隊が国境を越えセルビアに入り、南下しているとの動きが伝えられた。車両に記された「SFOR」の最初の1文字を「K」に書き換えてある、との情報だった。

 米政府やNATOは、自分たちの許可なしに動き出したロシア軍の真意をつかめず、混乱に陥った。

 タルボットは事実関係をプーチンにただした。米軍との交渉で、独自判断でのコソボ入りもちらつかせていたロシア軍幹部の名を挙げたが、プーチンは「そんな者は知らない」と退けた。プーチンは、ロシア軍の動きは何かの手違いで、米ロ間の合意形成を妨げるような「厄介なことは何も起きない」と保証した。

 だが、それはまったくの空手形だった。翌12日早朝、コソボの中心都市プリシュティナに、ロシア軍の空挺(くうてい)部隊約200人の姿があった。NATOの機先を制する一番乗りだった。彼らは空港一帯を占拠した。

 タルボットはポリティコへの寄稿で、「プーチンは冷静に、自信たっぷりに、厚顔無恥にうそをついた」と形容している。

 一触即発の危機だった。幸いその中で、現場の英軍司令官が機転を利かせ、NATO軍首脳からのロシア部隊排除命令を無視した。追加部隊を投入するための領空通過許可を周辺国がロシアに出さなかったこともあり、事態はやがて収束。ロシア軍とNATOの全面衝突は、回避された。

 だが、だまし討ちのように機先を制する形で部隊を投入し、空港を制圧するパターンは、15年後の2014年春、ウクライナをめぐる危機の中で再現される。(梅原季哉、駒木明義)

「コソボの先例」クリミアで再現

 真意をさとられずに、部隊を迅速に投入する――。1999年6月、セルビアが事実上の国際管理下へ明け渡したコソボへの国際部隊展開をめぐり、ロシアが試みたこのパターンが、15年後の2014年春、ウクライナ危機の中で再現された。

 記章を外したロシア軍の特殊部隊が、クリミアの中心都市シンフェロポリの空港などに入った。当初は軍事介入を否定していたプーチンも、併合の翌月には、「我が軍はクリミアの自衛勢力の背後にいた」と認める発言をしている。

 その裏に、99年のコソボと似た形を見て取ったのが、「厄介なことは何も起きない」と当時プーチンから空手形を切られた元米国務副長官、ストローブ・タルボット(69)だ。ワシントンのシンクタンク、ブルッキングス研究所所長を務めるタルボットは、この件での取材を断った。だが、自らの寄稿や発言で繰り返し、15年間離れた二つのできごとを結びつけている。

 プーチン自身が、クリミア併合時、コソボを意識したことを隠そうとしていない。併合当日の2014年3月18日、クレムリンでの演説の中で、「コソボ」という単語を6回も使っている。

 「西側の諸君が自ら作ったコソボの先例では、コソボが一方的にセルビアから分離することは合法で、中央政府の許可は必要ないという点で彼らは一致した。まさにクリミアが今していることだ」「何らかの理由で、コソボのアルバニア人に許されることが、ロシア人やクリミアのウクライナ人らには許されない」「二重基準ですらない。驚くべき粗雑な皮肉だ」

 では、なぜコソボの独立をロシアが認めないのか、プーチン自身にも論理矛盾があるのは確かだ。

 だが、プーチンと会見したセルビア人記者のラザンスキは語る。「コソボはロシアが米欧に裏切られたと感じた最初の例。直近の例がウクライナだ」

冷めたG8熱、主要国と距離

 プーチンは明らかに高揚していた。はしゃいでいたと言ってもいいぐらいだ。

 2006年7月15~17日、ロシアはサンクトペテルブルクを会場に、初めて主要国首脳会議(G8サミット)の主催国を務めた。ホスト役のプーチンは期間中、3日連続で記者会見を開いた。他国のサミットではあまり見ない光景だ。

 最終日の会見で、プーチンは満足げに振り返った。「最高レベルの専門家も加わり、何カ月もの間、周到な準備をしてきた」

 記者との質疑では、こんなことも言っている。

 「ブッシュ米大統領に私は完全に同意する。私たちの関係は根本的に変わった。敵でなくなっただけでなく、互いを対抗する相手とはみなさなくなった」

 あれから8年。ロシアは2014年、ウクライナのクリミア半島を併合したことで、G8から追放された。

 その前から、プーチンのG8に対する態度も、すっかり冷ややかになっていた。12年5月、4年ぶりに大統領に返り咲いた直後に米国で開かれたG8サミットを欠席し、メドベージェフ首相を派遣した。G8について「様々な意見が交わされることなく、一つの意見が支配してしまっている」と批判もしている。

 ロシアがG8の完全なメンバーとして認められたのは、02年にカナダ・カナナスキスで開かれたサミットでのことだった。06年のサミットをロシアで開くこともこのとき決まった。

 そのためにロシアが解決すべき約50の課題を整理してプーチンに示したのが、00年から05年までG8でプーチンを補佐する「シェルパ」を務めたアンドレイ・イラリオノフ(53)だ。当時の苦労を振り返りながら、G8から追放されたプーチンについて「とても遠いところに行ってしまった」と語る。「最も豊かで民主的な国々がロシアを、プーチンを、仲間として迎え入れたはずなのに」

 プーチンはその後、どう変わったのだろうか。(駒木明義)

敵対者の牙抜き、絶対権力を手中

 プーチンが大統領に就任した2000年から5年間経済担当の顧問を務めたアンドレイ・イラリオノフ(53)は、元側近たちの中でも、プーチンへの批判の激しさで知られている。イラリオノフが研究室を置く米ワシントンの「ケイトー研究所」を訪ねた。

 ケイトー研究所は、政府の役割の極小化を求める米国の「リバタリアン」を代表するシンクタンク。イラリオノフ自身、温室効果ガス排出規制に反対するなど、徹底した自由化論者として知られている。

 プーチンが政権の座についてからの変化について、イラリオノフは語る。

 「00年の大統領選は人為的に操作された選挙だったが、プーチンが手にした権力には限度があった。しかし今、プーチンは権力を完全に独占してしまった」「この15年間を振り返ると、敵対勢力を消去していくプロセスが異常なほど巧みに進んだと分かる」

 政治的な野党勢力だけではない。エリツィン時代に影響力を振るった実業家や、国家の権力に時に公然と挑戦した地方の有力首長らも、牙を抜かれた。

 イラリオノフは今のロシアを「極めて厳しい権威主義体制」と評する。権力が私生活の領域にまで干渉するような全体主義に「近いところまで来ている」。

 イラリオノフはプーチン自身が周到に作り上げた体制だと主張する。

 一方でイスラエルの情報機関「ナティーフ」の元長官ヤコブ・ケドミは、プーチン自らが知らず知らずのうちにこうした権力構造を招き寄せたと分析する。

 「プーチンが取り立てた人間を注意深く見ると、軍か(KGBなどの)特務機関のどちらかだ」

 自分と同じように「服従することに慣れた人物」で周囲を固めていった。旧ソ連共産党などの官僚組織で力を発揮した人物は遠ざけられた。

 結果としてできあがったプーチンの絶対的な権力基盤は、危うさも秘めている。

所在不明「事件」が突きつけた疑問

 2015年3月、プーチンが10日間にわたって所在不明となる「事件」が起きた。3月5日にイタリアのレンツィ首相と会談したのを最後に、メディアの前に姿を見せなくなったのだ。

 大統領府は「国際女性の日」の3月8日、プーチンが各界で活躍する若者の母親らと面会したと発表した。しかし、実際にはこの催しは8日よりも前に行われていたことをロシア・メディアが暴露。さらにプーチンが予定していたカザフスタン訪問をキャンセルしたことで、ロシア社会は一時騒然となった。

 背中の古傷の再発、インフルエンザ、愛人に子供が誕生という説も飛び交った。ウクライナ問題を巡る政権内部の対立について書いた外国メディアもある。

 結局プーチンは16日に、キルギスのアタムバエフ大統領との会談に現れた。「ゴシップがなければ退屈だろう」と冗談を飛ばし、騒ぎは収まった。だが「プーチンがいなくなったらロシアはどうなってしまうのか」という疑問を人々に突きつける出来事だった。

 2000年から05年にプーチンの経済顧問を務めたイラリオノフ(53)に、この問いについて聞いたのは、「行方不明事件」よりも前のことだった。

 「ロシアと中国を比べてみるのが面白い。共に権威主義的な体制だが、中国では、権力者を選抜するメカニズムが機能している。民主的ではないが、共産党内で次の権力者は長い時間をかけて周到に選ばれる」とイラリオノフは語った。

 「だが、ロシアにそんなものは存在しない。中国が制度化された専制国家だとすれば、ロシアは制度化されていない専制国家だ。指導者が交代するとき、ロシアではどんなことだって起きる可能性がある。経済的に発展した国で、こんな例はまずあり得ない」

 プーチン自身、エリツィン側近の手で大統領の座に据えられた。次の指導者がどこからどのように現れるのか。まだ誰にも分からない。(2015年4月配信)

連載⑦「プーチンの実像」(2015年) 第三部 孤高の「皇帝」②
「皇帝に喝采です」…思わず緩んだ口元 プーチンと絶対的権力

   梅原季哉、駒木明義2022年2月26日

 ロシア大統領ウラジーミル・プーチン(62)は2014年10月16日、人口約700万人という小国セルビアの首都ベオグラードで、政府系紙ポリティカの軍事記者、ミロスラブ・ラザンスキ(64)に会った。

 旧ユーゴスラビアの一角を占めたセルビアは、ロシアと同じスラブ系で、第1次世界大戦を共に戦ったという意識も強い。ただ、最近は欧州連合(EU)入りをめざすようになり、微妙なバランスを保っている。

 プーチンはこの日、「ベオグラード解放」70周年記念式典に出席。旧ソ連赤軍と、旧ユーゴスラビア地域の共産ゲリラ・パルチザンが、ナチスに勝った戦いだ。「絆」が、念入りに演出された。

 プーチンの握手は、力強かった。壁際に、ぶ厚いブリーフケースを持ったロシア軍高級将校がたたずむ。有事に備え常に控えている核ミサイル発射指令の担当者に違いない。軍事畑が長いラザンスキは確信した。

 ラザンスキはプーチンとの事前の書面インタビューをこの日、記事にした。プーチンはベオグラードに来てから彼をコーヒーに招いた。大統領報道官のペスコフと通訳のみが同席した。

 会ったのはわずか5分余り。ロシアびいきのラザンスキは最後に思わず称賛の言葉を口にした。「ツァー(皇帝)に喝采です」。プーチンは無言だったが、わずかに口もとを緩めた。

大統領になった後にロシア国内で絶対的な権力を手にする一方で、欧米との対立を深めていくプーチン氏の姿に迫ります。

 セルビア訪問の背後でプーチンは、ロシアによるクリミア併合以来混迷するウクライナ情勢への対応に追われていた。

 セルビアとロシアを結ぶ「絆」の一つが軍備だ。ラザンスキが「新式兵器をセルビアに売却する考えは」とただすと、プーチンは「まず君たちの側が関心を示す必要がある」とだけ応じた。EU入りを視野に欧州に接近しようとするセルビアを自国の勢力圏にとどめたい願望と裏腹になった、牽制(けんせい)の言葉だった。

 ロシアとセルビアが互いの結びつきを強調する根底には、かつてセルビアが自治州として領有し、紛争をへて2008年に独立を宣言したコソボをめぐる双方の思惑が存在する。セルビアにとっては、コソボ独立を認めないロシアの存在は後ろ盾として重要だ。

 ロシアにとってはどうか。冷戦後、米ロ関係が緊張緩和を基調としてきた中、99年のコソボ紛争は転機となる摩擦だった。だがプーチンにとって「コソボ」は、単なる過去ではない。ウクライナ紛争で孤立する中、不公平感をかき立てられる対象なのだ。

 昨春に「住民投票でウクライナからの離脱を選んだ」とクリミアを併合して以来、ロシアは制裁下で米欧から孤立を深める。米欧は軍事力も使った上で、コソボの自決権を認めて勝手に独立を認めておきながら、なぜクリミアでは自決権を認めず、ロシアの軍事介入を批判するのか、という反発の念が働いている。

 2014年10月のセルビアへの公式訪問で、同国大統領トミスラブ・ニコリッチとの会談に臨んだプーチンは、そこでもコソボに言及した。ロシアは「国際法と正義という原則に基づく立場を取ってきた。我々は常にセルビアを支持してきたし、今後もそうする。ロシアは友情を取引しない」。コソボ独立を認めない立場を再確認した。

 プーチンはその夜、イタリア・ミラノへ向かった。ミラノでアジア欧州会議(ASEM)の合間に、ウクライナ情勢について協議するはずだったドイツ首相メルケルとの会談は、ベオグラードでの日程が押した影響で4時間遅れた。

 プーチンはまさにそのウクライナについて、ラザンスキとの書面会見で強い懸念を示していた、ロシアの勢力圏を離れようとする新政権の動きを、「民族主義者や過激派の違憲クーデター」ととらえ、ナチス再来にまでなぞらえて不快感をあらわにした。

 99年6月11日。当時は米国の国務副長官だったストローブ・タルボット(69)は、交渉に訪れたモスクワで、ロシア政府の外交軍事政策を取りまとめる安全保障会議書記だったプーチンと初めて出会った。議題は、コソボだった。

 タルボットが2014年、米国の政治報道サイト、ポリティコに寄稿した文章によると、プーチンは初対面の席で、タルボットが大学時代に論文を書いたロシア詩人2人の名前を口にしたという。タルボットに関する個人ファイルの細部まで目を通した上で、お前のことは知っている、とわからせる意図が透けて見えた。

 タルボットは2014年、自らが所長を務めるブルッキングス研究所のネット番組で、その時の印象を語っている。「最初から彼は本質をみせていた。『警官』だ。もっと正確にいえば、(ソ連秘密警察)KGBの男、それも防諜(ぼうちょう)畑だ」

ロシア軍急展開、一触即発

 米軍が主導する北大西洋条約機構(NATO)は99年春、コソボ問題での「人道的介入」として、主にセルビアを対象とした空爆作戦を開始した。ロシアと中国が反対したため、国連安全保障理事会の決議なしで踏み切った作戦だった。結局は同年6月、セルビア側が事実上降伏する形で、軍や治安部隊をコソボから撤退させ、国際管理下に移す和平案がまとまった。

 タルボットがモスクワでプーチンと会った前日、国連安全保障理事会が、NATO主導でコソボの治安維持にあたる国際部隊KFORの創設などを柱とする決議を可決した。翌日に、NATO地上軍部隊が北上してコソボに入り、KFOR第一陣になるはずだった。

 ロシアも、このKFORに加わる意向を示していた。タルボットのモスクワ訪問は、その条件を詰めるのが目的だった。ロシアは、KFORの傘下でも自国が指揮権を持つ独自の軍管区を要求した。同じスラブ系としてセルビアの後ろ盾となり続けてきた立場から、セルビアの安全地帯確保がねらいと思われた。

 だが、タルボットたちは「エリツィン大統領は体調不良」と伝えられた。飲み過ぎでほぼ人事不省、という意味だった。代わって対応に出てきたのがプーチンだった。前年夏からKGBの後継組織FSB長官を務めていたプーチンは、NATO空爆が始まった4日後の99年3月29日、安全保障会議の書記となっていた。

 米ロが交渉に入った矢先、セルビアの現地で事態が急展開した。

 西隣のボスニア・ヘルツェゴビナで、NATOが主導する和平安定化部隊(SFOR)の一員として駐留していたロシア軍部隊が国境を越えセルビアに入り、南下しているとの動きが伝えられた。車両に記された「SFOR」の最初の1文字を「K」に書き換えてある、との情報だった。

 米政府やNATOは、自分たちの許可なしに動き出したロシア軍の真意をつかめず、混乱に陥った。

 タルボットは事実関係をプーチンにただした。米軍との交渉で、独自判断でのコソボ入りもちらつかせていたロシア軍幹部の名を挙げたが、プーチンは「そんな者は知らない」と退けた。プーチンは、ロシア軍の動きは何かの手違いで、米ロ間の合意形成を妨げるような「厄介なことは何も起きない」と保証した。

 だが、それはまったくの空手形だった。翌12日早朝、コソボの中心都市プリシュティナに、ロシア軍の空挺(くうてい)部隊約200人の姿があった。NATOの機先を制する一番乗りだった。彼らは空港一帯を占拠した。

 タルボットはポリティコへの寄稿で、「プーチンは冷静に、自信たっぷりに、厚顔無恥にうそをついた」と形容している。

 一触即発の危機だった。幸いその中で、現場の英軍司令官が機転を利かせ、NATO軍首脳からのロシア部隊排除命令を無視した。追加部隊を投入するための領空通過許可を周辺国がロシアに出さなかったこともあり、事態はやがて収束。ロシア軍とNATOの全面衝突は、回避された。

 だが、だまし討ちのように機先を制する形で部隊を投入し、空港を制圧するパターンは、15年後の2014年春、ウクライナをめぐる危機の中で再現される。(梅原季哉、駒木明義)

「コソボの先例」クリミアで再現

 真意をさとられずに、部隊を迅速に投入する――。1999年6月、セルビアが事実上の国際管理下へ明け渡したコソボへの国際部隊展開をめぐり、ロシアが試みたこのパターンが、15年後の2014年春、ウクライナ危機の中で再現された。

 記章を外したロシア軍の特殊部隊が、クリミアの中心都市シンフェロポリの空港などに入った。当初は軍事介入を否定していたプーチンも、併合の翌月には、「我が軍はクリミアの自衛勢力の背後にいた」と認める発言をしている。

 その裏に、99年のコソボと似た形を見て取ったのが、「厄介なことは何も起きない」と当時プーチンから空手形を切られた元米国務副長官、ストローブ・タルボット(69)だ。ワシントンのシンクタンク、ブルッキングス研究所所長を務めるタルボットは、この件での取材を断った。だが、自らの寄稿や発言で繰り返し、15年間離れた二つのできごとを結びつけている。

 プーチン自身が、クリミア併合時、コソボを意識したことを隠そうとしていない。併合当日の2014年3月18日、クレムリンでの演説の中で、「コソボ」という単語を6回も使っている。

 「西側の諸君が自ら作ったコソボの先例では、コソボが一方的にセルビアから分離することは合法で、中央政府の許可は必要ないという点で彼らは一致した。まさにクリミアが今していることだ」「何らかの理由で、コソボのアルバニア人に許されることが、ロシア人やクリミアのウクライナ人らには許されない」「二重基準ですらない。驚くべき粗雑な皮肉だ」

 では、なぜコソボの独立をロシアが認めないのか、プーチン自身にも論理矛盾があるのは確かだ。

 だが、プーチンと会見したセルビア人記者のラザンスキは語る。「コソボはロシアが米欧に裏切られたと感じた最初の例。直近の例がウクライナだ」

冷めたG8熱、主要国と距離

 プーチンは明らかに高揚していた。はしゃいでいたと言ってもいいぐらいだ。

 2006年7月15~17日、ロシアはサンクトペテルブルクを会場に、初めて主要国首脳会議(G8サミット)の主催国を務めた。ホスト役のプーチンは期間中、3日連続で記者会見を開いた。他国のサミットではあまり見ない光景だ。

 最終日の会見で、プーチンは満足げに振り返った。「最高レベルの専門家も加わり、何カ月もの間、周到な準備をしてきた」

 記者との質疑では、こんなことも言っている。

 「ブッシュ米大統領に私は完全に同意する。私たちの関係は根本的に変わった。敵でなくなっただけでなく、互いを対抗する相手とはみなさなくなった」

 あれから8年。ロシアは2014年、ウクライナのクリミア半島を併合したことで、G8から追放された。

 その前から、プーチンのG8に対する態度も、すっかり冷ややかになっていた。12年5月、4年ぶりに大統領に返り咲いた直後に米国で開かれたG8サミットを欠席し、メドベージェフ首相を派遣した。G8について「様々な意見が交わされることなく、一つの意見が支配してしまっている」と批判もしている。

 ロシアがG8の完全なメンバーとして認められたのは、02年にカナダ・カナナスキスで開かれたサミットでのことだった。06年のサミットをロシアで開くこともこのとき決まった。

 そのためにロシアが解決すべき約50の課題を整理してプーチンに示したのが、00年から05年までG8でプーチンを補佐する「シェルパ」を務めたアンドレイ・イラリオノフ(53)だ。当時の苦労を振り返りながら、G8から追放されたプーチンについて「とても遠いところに行ってしまった」と語る。「最も豊かで民主的な国々がロシアを、プーチンを、仲間として迎え入れたはずなのに」

 プーチンはその後、どう変わったのだろうか。(駒木明義)

敵対者の牙抜き、絶対権力を手中

 プーチンが大統領に就任した2000年から5年間経済担当の顧問を務めたアンドレイ・イラリオノフ(53)は、元側近たちの中でも、プーチンへの批判の激しさで知られている。イラリオノフが研究室を置く米ワシントンの「ケイトー研究所」を訪ねた。

 ケイトー研究所は、政府の役割の極小化を求める米国の「リバタリアン」を代表するシンクタンク。イラリオノフ自身、温室効果ガス排出規制に反対するなど、徹底した自由化論者として知られている。

 プーチンが政権の座についてからの変化について、イラリオノフは語る。

 「00年の大統領選は人為的に操作された選挙だったが、プーチンが手にした権力には限度があった。しかし今、プーチンは権力を完全に独占してしまった」「この15年間を振り返ると、敵対勢力を消去していくプロセスが異常なほど巧みに進んだと分かる」

 政治的な野党勢力だけではない。エリツィン時代に影響力を振るった実業家や、国家の権力に時に公然と挑戦した地方の有力首長らも、牙を抜かれた。

 イラリオノフは今のロシアを「極めて厳しい権威主義体制」と評する。権力が私生活の領域にまで干渉するような全体主義に「近いところまで来ている」。

 イラリオノフはプーチン自身が周到に作り上げた体制だと主張する。

 一方でイスラエルの情報機関「ナティーフ」の元長官ヤコブ・ケドミは、プーチン自らが知らず知らずのうちにこうした権力構造を招き寄せたと分析する。

 「プーチンが取り立てた人間を注意深く見ると、軍か(KGBなどの)特務機関のどちらかだ」

 自分と同じように「服従することに慣れた人物」で周囲を固めていった。旧ソ連共産党などの官僚組織で力を発揮した人物は遠ざけられた。

 結果としてできあがったプーチンの絶対的な権力基盤は、危うさも秘めている。

所在不明「事件」が突きつけた疑問

 2015年3月、プーチンが10日間にわたって所在不明となる「事件」が起きた。3月5日にイタリアのレンツィ首相と会談したのを最後に、メディアの前に姿を見せなくなったのだ。

 大統領府は「国際女性の日」の3月8日、プーチンが各界で活躍する若者の母親らと面会したと発表した。しかし、実際にはこの催しは8日よりも前に行われていたことをロシア・メディアが暴露。さらにプーチンが予定していたカザフスタン訪問をキャンセルしたことで、ロシア社会は一時騒然となった。

 背中の古傷の再発、インフルエンザ、愛人に子供が誕生という説も飛び交った。ウクライナ問題を巡る政権内部の対立について書いた外国メディアもある。

 結局プーチンは16日に、キルギスのアタムバエフ大統領との会談に現れた。「ゴシップがなければ退屈だろう」と冗談を飛ばし、騒ぎは収まった。だが「プーチンがいなくなったらロシアはどうなってしまうのか」という疑問を人々に突きつける出来事だった。

 2000年から05年にプーチンの経済顧問を務めたイラリオノフ(53)に、この問いについて聞いたのは、「行方不明事件」よりも前のことだった。

 「ロシアと中国を比べてみるのが面白い。共に権威主義的な体制だが、中国では、権力者を選抜するメカニズムが機能している。民主的ではないが、共産党内で次の権力者は長い時間をかけて周到に選ばれる」とイラリオノフは語った。

 「だが、ロシアにそんなものは存在しない。中国が制度化された専制国家だとすれば、ロシアは制度化されていない専制国家だ。指導者が交代するとき、ロシアではどんなことだって起きる可能性がある。経済的に発展した国で、こんな例はまずあり得ない」

 プーチン自身、エリツィン側近の手で大統領の座に据えられた。次の指導者がどこからどのように現れるのか。まだ誰にも分からない。(2015年4月配信)

連載⑦「プーチンの実像」(2015年) 第三部 孤高の「皇帝」②
「話を信じない」「別世界に」プーチンと話す欧州リーダーの苦悩
   駒木明義、吉田美智子2022年2月26日

 2015年3月にプーチンが10日間行方知れずになった事件が浮き彫りにした事実がもう一つある。大統領府が発表するプーチンの動向に、うそがあることだ。

 3月8日にプーチンがモスクワでロシアの母親たちと会ったという発表は、事実ではなかった。
ロシアのプーチン大統領とは、どんな人物か。欧米への敵意をむき出しにし、ウクライナに軍事侵攻した今、2015年に展開した連載「プーチンの実像」をアーカイブ配信します。(年齢や肩書は当時。敬称略)
 こうした例があることは、以前から外交関係者の間では知られていた。

 「プーチンがモスクワのクレムリンで集中的にこなした公務を、大統領府はいくつかの日付にばらして発表しているようだ」と、あるモスクワ駐在の外交官は指摘する。プーチンがクレムリンで執務する日は発表より少ない。その分、モスクワ郊外の公邸やロシア南部ソチで長い時間を過ごしているらしいのだ。

 だが、もっと深刻なのは、大統領府よりも、プーチン本人の言葉の信用だ。

 「ウクライナ危機で生じた最大の問題は、プーチンの言葉を誰も信じなくなったことだ」。大統領就任前に長時間インタビューをしたゲボルクヤンは語る。

「その言葉を、誰も信じなくなった」。欧州各国との溝が深まるプーチン。そんな彼を「報じられているのとは全く違う」とかばう重鎮とは。

 プーチンは2014年3月4日、ウクライナのヤヌコビッチ政権が崩壊してから、初めて記者会見を行った。

 「クリミアのロシアへの編入を検討しているか」と問われたプーチンは「検討されていない」と断言。クリミアに突然現れた正体不明の武装兵については「地元の自衛部隊だ」と説明した。「(ロシア兵にそっくりの)軍装品は店で買える」とまで言った。

 いずれも後に、プーチン自身が説明を覆した。政権崩壊直後からクリミア併合の準備に着手していた。現れたのはロシア兵だった。

 プーチンは2015年4月16日、テレビで「ウクライナにはロシア部隊はいない」と述べた。ロシアでもそのまま信じる者は多くないだろう。

 ゲボルクヤンは言う。「西側(の首脳)は、プーチンと同じテーブルに座って話はするだろう。だが、もう何も信じない」。プーチンと向き合わねばならない欧州の首脳らの苦悩は深い。(駒木明義、吉田美智子)

「シュレーダーは真の友人だ」

 ロシアがウクライナのクリミア半島を併合してからわずか1カ月後の2014年4月下旬。ドイツ各紙の1面に載った写真が、読者に衝撃を与えた。

 後ろ姿のプーチンと抱き合った男が極上の笑顔を見せている。ドイツの前首相シュレーダー(71)だ。シュレーダーが、70歳の誕生会をプーチンの故郷サンクトペテルブルクで開き、プーチンを出迎えた瞬間だ。

 2人の仲をドイツメディアは「男の友情」と呼ぶ。プーチンが大統領に就任した2000年の首脳会談で意気投合。「友情」の証しだろうか。シュレーダーは首相退任後、両国を結ぶガスパイプライン会社の役員となった。

 後任のメルケル政権で外務省国務大臣(外務副大臣に相当)を務めたゲルノート・エルラー(70)は、2人の関係の深さを身にしみて感じたことがある。

 エルラーは08年、チェチェンなどロシア南部の若者と欧州の若者を交流させる計画を前首相のシュレーダーに提案した。すると、わずか数日後にプーチンとの会談がセットされた。

 モスクワに飛ぶと、クレムリンの小会議室の卓上に、主だったドイツ紙の記事がずらりと並んでいた。

 プーチンはKGBで身につけた滑らかなドイツ語でエルラーに語りかけた。「シュレーダーによろしく。私はドイツで起きていることは全てフォローしている。彼は真の友人だ」

 エルラーは振り返る。「シュレーダーは当時、いつもプーチンへの批判に反論してかばっていた。プーチンは新聞でそれを知ってうれしかったのだろう」

 シュレーダーは2014年出版されたインタビュー本でこう語っている。「プーチンの印象は、報じられているのとは全く違う。驚くべきユーモアの持ち主で、リラックスできる話し相手だ」

 プーチンはシュレーダーや日本の森喜朗のように、心を許す相手には愛敬ある一面を見せる。しかし今、そうした外国首脳はほとんどいなくなってしまったようだ。

メルケル氏「彼は別世界にいる」

 ドイツのメルケル政権で外務省国務大臣(外務副大臣に相当)を務めたゲルノート・エルラー(70)は、2008年にモスクワでプーチンと会ったとき、強烈なオーラを感じた。

 「彼が入ってきた時、広い部屋がたちまちプーチンで満たされたようだった」。ドイツの前首相シュレーダーのことを話すときは、とてもうれしそうな様子だった。

 だが、シュレーダーの下で外相を務めたヨシュカ・フィッシャー(67)は、プーチンに手厳しい。プーチンは12年、4年ぶりに大統領に復帰して、「全く変わった」と語る。「明らかに新帝国主義的な考え方が支配するようになっている」

 フィッシャーの説明はこうだ。

 ロシアでは、石油や天然ガスの輸出国であり続けるか、利益を経済の近代化に投資するかという論点がある。プーチンは今も近代化の重要性を強調しているが、実際には有力者に利益を分配して権力基盤を固めるために、前者の道を進んでいるというのだ。

 欧州連合(EU)の欧州委員長としてプーチンと20回以上会談したというジョゼ・マヌエル・バローゾ(59)も、大統領に復帰してからのプーチンは以前と異なるという見方だ。2014年末のインタビューに「経済の近代化よりも、軍事力の強化や(外国との)対立を強調するようになった」と証言した。

 ただ、今も変わらない点がある。プーチンと欧州を取り持つ役割をドイツが担っているということだ。

 2015年2月、ロシア、ウクライナ、ドイツ、フランスの4首脳がベラルーシで、ウクライナの停戦を目指して徹夜で協議した。関係者によると、話し合いを終始引っ張ったのはドイツのメルケルだった。プーチンとロシア語でささやき合うこともあったという。

 だがメルケルのプーチン観は、シュレーダーとはまったく異なる。欧米メディアによると、メルケルは2014年3月、米大統領のオバマに電話でこう語った。

 「プーチンは(我々とは)別の世界に住んでいる」

諦めきれない一大自由経済圏構想

 プーチンのドイツ人脈は、政界だけでなく経済界にも及んでいる。自動車大手、旧ダイムラークライスラーの元役員で、ロスチャイルド欧州の副会長、クラウス・マンゴルト(71)もその一人だ。2000年から10年間、ドイツ企業の旧ソ連・東欧への進出を支援するドイツ産業連盟東方委員会の委員長だった。

 プーチンと知り合ったのは、ダイムラーで東欧を担当していた92年ごろ。当時プーチンは、サンクトペテルブルクで外資を次々に導入していた。今も数カ月に1度プーチンに会うというマンゴルトに、フランクフルトで話を聞いた。

 「プーチンはドイツ人の気質を愛している。例えば、時間厳守、規律正しさ、仕事に対する強い意志、そして国際的な感覚だ」とマンゴルトは語った。プーチンはKGB時代に、東ドイツで5年間過ごした。「経験を通じて、ドイツに対して強い好感を抱いたのではないか」

 だがマンゴルトはあるとき、プーチンが失望を口にするのを聞いた。

 「私は君たちに対していつも、何度も提案をしてきたのに、どうしてそれを受け入れないのか?」

 プーチンの「提案」とは、「リスボンからウラジオストクまで」つまりユーラシア大陸の西端から東端までを広大な自由経済圏にしようという構想だ。

 プーチンは10年ごろから、繰り返しこの夢を語っている。大統領の座を一時離れて首相だった時期だ。

 だが提案は、欧州からほぼ黙殺された。マンゴルトは、プーチンが12年に大統領に復帰してから強硬姿勢に転じたのは、欧州への失望が一因だと考えている。

 プーチンはクリミア半島を併合した直後の2014年4月にも、テレビ番組であきらめきれない様子で語った。「リスボンからウラジオストクまでを欧州にする。それができれば、私たちが世界で相応の地位を占めるチャンスが生まれる」

 ロシアはまだ「相応の地位」さえ得ていない。それがプーチンの実感だろう。

拒絶しているのは、どちらの方か

「プーチンは変わった」「欧米を敵視するようになった」――こうした見方に対して、プーチン自身はどう答えるだろうか。最近の発言から、その考えを推し量ることができる。

 「KGBの対外諜報(ちょうほう)部門で20年近く働いた私でさえ、共産党の一党支配が崩れれば、すべてが根本的に変わるのだと思っていた。だが、そうではなかった」。プーチンは4月26日に放映されたテレビ番組でこう語った。「結局のところ、イデオロギーとは関係ない地政学的利益があるのだ」。冷戦が終わっても、大国同士は自国の影響が及ぶ範囲を巡ってぶつかり合う、という世界観だ。

 プーチンはKGB時代から、共産主義に疑問を抱いていた。ソ連崩壊を挟む時期に、生まれ故郷のサンクトペテルブルクで外国企業の誘致に奔走した。

 しかし、ソ連崩壊後も北大西洋条約機構(NATO)は拡大を続け、ロシア国境にまで迫った。「リスボンからウラジオストクまで」を経済圏にしようというプーチンの呼びかけは、顧みられなかった。

 欧米の方こそ、ロシアを拒絶している――プーチンは、そう言いたかったのかもしれない。

 プーチンはテレビ番組の中で、こうも言っている。「彼ら(西側)は、私たちが人道支援を必要としているような時だけ、私たちを好きになるようだ。よし、それならジャガイモを送ってやろう、というわけだ」

 ロシアを弱体化させようとする策謀が実際にあった。プーチンは2014年12月の年次教書演説で、そんな見方を示した。「誰がどのように我が国の分離主義やテロを支援したか、よく覚えている」「我が国をユーゴスラビアのような崩壊と分裂のシナリオに向かわせたかったことは疑いない」

 経済危機の中、国民の目を外敵に向けさせて団結を促す狙いもあるだろう。だが、打ち解けて話せる欧米の首脳がいなくなってしまったプーチン自身も、不信感のとりこになってしまっているようだ。

つながりかけた日ロのパイプ

 この連載のプロローグで、プーチンが2014年、柔道の山下泰裕に語った言葉を紹介した。ロシアとの関係を深めたいという首相安倍晋三の言葉と、日本の対ロ制裁は「正反対じゃないか」と批判したのだった。

 安倍が訪米を終えた今、プーチンは再び不信感を深めているかもしれない。問題は4月29日に安倍が米議会で行った演説の一節だ。

 「日本は米国と共に、冷戦に勝利した」

 冷戦の勝者のように振る舞っているとして米国を常々批判しているプーチンにとって、これは受け入れ難い言葉だろう。

 2014年10月、世界の有識者との討論会で、プーチンは語った。「米国は自身を、冷戦の勝者だと宣言した」「『勝者』と称する者が、自分たちの利益のためだけに、全世界を塗り替えようとしている印象だ」

 プーチンの言葉は、裏を返せばロシアが「冷戦の敗戦国」として扱われることに対する拒絶でもある。

 「ソ連崩壊後、ロシアは自発的に……ここを強調するが、自発的に、そして意識的に、歴史的とも言える自制の道を歩んだ。自らの領土や生産力、そうしたものを放棄したのだ」。プーチンは2015年4月26日のテレビ番組でこう語った。

 共産主義を捨て、ソ連の一部だった国々の独立を認めたのは、ロシア国民が自ら下した歴史的決断だった。冷戦に敗れて支払った代償ではない。プーチンはこうした考えを、2000年に当時の首相森喜朗にも語っている。

 プーチンは、クリミア半島併合の際に核戦力を臨戦態勢に置く可能性があったことを認めるなど、最近ロシアが核大国であることを誇示する発言を繰り返している。これも、周辺国を威嚇するだけでなく、「ロシアが軽視されるのは我慢ならない」という心理が大きく働いているようだ。

 ウクライナ危機が今後どう展開するかについては、プーチンを知る人々の間でも見方が分かれる。

 イスラエルの情報機関「ナティーフ」の元長官ケドミは、クリミア半島併合の真の狙いが「ウクライナに領土問題を作り出し、NATO(北大西洋条約機構)に加盟する可能性をつぶすことにあった」と見ている。領土問題を抱えている国は、軍事同盟であるNATOには原則として加盟できないからだ。それなら、一応の目的はすでに達せられたことになる。

 一方、プーチンの元経済顧問イラリオノフは「侵略は誰かに止められるまで続くことは、歴史が示している。ナチスドイツも、あなたには悪いが、かつての日本もそうだった」と述べ、「プーチンはさらに先に進む」と断言した。

 ここでも問題は、プーチンの真意を理解できる他国の首脳がいないことだ。

 話を日本に戻す。12年、プーチンが4年ぶりに大統領に復帰したときには日本との関係強化を真剣に検討していたことがうかがえる。

 大統領選投票日のわずか3日前の3月1日、朝日新聞主筆らとの会見で「引き分け」による北方領土問題解決を呼びかけた。国の指導者が選挙直前に領土問題で「引き分け」を口にするのは危険とも言えるが、ロシアのテレビは当時、この発言をそのまま報じた。

 大統領復帰後の12年9月には、ウラジオストクで開いたアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議でボランティアを務めた学生ら500人に、横浜と東京への船旅をプレゼントして慰労した。

 「プーチンは西のパートナーをドイツ、東のパートナーを日本にしたいと考えている」という見方を示す外交関係者もいた。

 13年4月の安倍訪ロをきっかけに首脳間のパイプもつながりかけた。それが今、再び切れようとしている。

 日本からすれば、原因を作ったのはロシア側だ。ウクライナの政権崩壊に乗じてロシア軍部隊をクリミア半島の空港、議会、軍事施設などに展開して掌握。一気に領土を広げた手法は近隣諸国と領土を巡って緊張関係にある日本にとって、とても容認できない事態だ。

 だが、ロシアの大きさと日本からの近さ、中国や北朝鮮、韓国などアジア太平洋の国々との関係、プーチンへの権力の集中、そして北方領土問題の存在を考えれば、パイプを切ってしまって済むような簡単な相手ではないこともまた確かだ。(2015年4~5月配信)

連載⑧「エピローグ」(2015年)
「プーチンの実像」から7年、再び起きた混乱
取材記者が振り返る

 ロシアのプーチン大統領が、隣国ウクライナへの全面攻撃に踏み切った。しかし、プーチン氏がウクライナの領土を踏みにじったのはこれが初めてのことではない。2014年2月から3月にかけて、クリミア半島を占領したのだ。くしくも今回と同じ、冬季五輪とパラリンピックにかけてというタイミングだった。

 クリミア占領は、今回の事態と密接につながっている。プーチン氏はクリミア占領と機を同じくして、ウクライナ東部の武装勢力を支援し、ウクライナ政府の支配が及ばない地域を作り出した。それが、今回の侵攻を正当化する口実として使われた。

 ウクライナ側からみれば、8年にわたるロシアとの戦いの末に、今の事態があるといえる。

 連載「プーチンの実像」は、ロシアによるクリミア占領を受けて、「プーチン氏とは何者か」という疑問に迫ろうとした企画だ。取材はモスクワ支局長の私と、吉田美智子ブリュッセル支局長、梅原季哉ヨーロッパ総局長の3人が手分けしてあたった。

 当時、自らに課した取材のルールが一つある。それは「プーチン氏に直接接したことがある人へのインタビューを重ねて、人物像を描こう」ということだった。

 誰でもネットを通じて世界中の情報を瞬時に入手できる現代にあって、特派員の役割とは何だろうか。それは、現地に記者がいないとできない、ルポとインタビューに集約されるのではないか。そんなことも当時考えたことを覚えている。

 取材地はロシア国内だけでなく、ワシントン、ロンドン、パリ、テルアビブ、東京など、世界各地に及んだ。取材の結果は、15年3月から5月にかけて、33回の連載で読者に紹介した。

 今回、この連載を再構成して、朝日新聞デジタルの読者のみなさんにお届けすることになった。

 読み返すと、今の状況を予言しているような場面もある。プーチン政権初期に大統領顧問を務めたイラリオノフ氏は「侵略は誰かに止められるまで続くことは、歴史が示している。ナチスドイツも、あなたには悪いが、かつての日本もそうだった」と述べて「プーチンはさらに先に進む」と断言していた。

 北大西洋条約機構(NATO)への敵意や、国家が崩壊することに対する病的なまでの恐怖感などの源泉もうかがい知ることができる。

 一方で、プーチン氏の思考様式や人間性を理解することを目指したために、今の目で見ると甘すぎると感じられる記述があるかもしれない。その点は、率直に批判を仰ぎたいと思う。

 20年の憲法改正で、プーチン氏は36年まで大統領を務めることが可能になった。プーチン氏を理解する必要性はますます高まっている。

 なお、この連載は大幅に加筆した上で、2019年に朝日文庫から『プーチンの実像 孤高の「皇帝」の知られざる真実』として出版されている。手にとっていただければ、幸いだ。(朝日新聞論説委員・駒木明義〈前モスクワ支局長〉)

『プーチンの実像 孤高の「皇帝」の知られざる真実』(朝日文庫)の紹介はこちら





 WTO加盟を機に、中国が規模に見合う責任も果たす。日本と世界の期待は、いまだ実現していない
。 (敬称略)(編集委員・吉岡桂子、北京=西山明宏)

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下平評

◆日付  2022/00/00
     

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