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続折々の記 2022 ⑨
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④「プーチンの実像」(2015年) 第二部「権力の階段」①
⑤「プーチンの実像」(2015年) 第二部「権力の階段」②
連載④「プーチンの実像」(2015年) 第二部「権力の階段」①
梅原季哉、駒木明義2022年2月26日
「日本に来ていたらしい」
大統領就任4年前、プーチン訪日の理由
プーチンは、この時期に初めて日本を訪れていた。日本外務省の招待で、1995年2月の9日間に、東京、大阪、京都を訪問。42歳のプーチンは阪神大震災から1カ月後の騒然とした日本社会に触れたはずだ。
それから4年後の99年、プーチンが当時の大統領エリツィンから首相に指名されたころ、外務省のロシア担当者はぼやいていた。
「プーチンという男は、どうやら日本に来ていたらしい。だが困ったことに、当時の日本の関係者は、誰も彼を覚えていないんだ」
「いずれ市長とか、議会で影響力を持つ人物ぐらいにはなると思っていた」。だが、わずか5年後に大統領に上り詰めるとは想像もしなかったという。
玉木は、プーチンがKGB出身だと知らなかった。柔道に親しんでいたことも知らなかったという。では、なぜ玉木は推薦したのか。
KGBを離れ、サンクトペテルブルク副市長から大統領へと権力の階段を駆け上がるプーチン氏の軌跡を追います。
プーチンが自由主義と市場経済という西側の価値観をロシアに広げる旗手になり得ると考えたからだ。「当時、ロシアに来る外資や合弁の半分ぐらいがサンクトペテルブルクだった。それを手がけたのが彼だった」
玉木が覚えている当時のプーチンは、元首相の森喜朗や柔道の山下泰裕が語るどこか愛嬌(あいきょう)があるプーチン像とは、かけ離れている。
「サプチャークが各国の総領事を集めてブリーフィングをするようなとき、第1副市長の彼が必ず後ろに控えている。何も言わずに、じーっと見ている。陰気で、笑顔も見せない。良い第一印象を与えるような人物じゃなかった」
地味で仕事一筋の男。それが、玉木が知るプーチンだ。当時のプーチンは「灰色の枢機卿」という異名を取っていた。ロシアでは、表舞台に立たずに陰で影響力を振るう実力者を指す言葉だ。(梅原季哉、駒木明義)
クーデター阻止へ、期せずして「共闘」
プーチンは1991年6月、改革派の市長サプチャークが率いるレニングラード(現サンクトペテルブルク)の渉外委員長に就任。西側企業の誘致に本格的に取り組み始めたときに起きたのが、当時のソ連保守派によるクーデター未遂だ。
8月19日、「非常事態国家委員会」を自称する保守派8人組が権力の掌握を発表。ソ連大統領だったゴルバチョフは、滞在中のクリミア半島の別荘に幽閉されていた。首謀者の8人には、ヤナーエフ副大統領のほか、国家保安委員会(KGB)トップのクリュチコフ議長が加わっていた。
プーチンはこのとき、まだKGBを兼務していた。KGBに前年に出した辞表が、受理されないままになっていたという。
だが、サプチャークの妻リュドミラ・ナルソワは、クーデターの阻止に立ち上がったサプチャークを、迷うことなく支えるプーチンの姿を覚えている。「クーデターの時、プーチンは夫と共にありました。ずっと傍らに寄り添っていたのです」
プーチン自身は、2000年のインタビューで「テレビで首謀者の顔ぶれを見て」クーデターの失敗を予期したと語っている。
サプチャークと共に市庁舎に泊まり込んで、クーデターへの抵抗を続けた。市内に出ると、どこでも市民からの熱烈な支持を受けた。「クーデター首謀者の命令には断じて従わないと決めた」。それをはっきりさせるため、8月20日、KGBへの2回目の辞表を提出したという。
クーデターを21日に失敗に追いやった立役者は首都モスクワで市民に抵抗を呼びかけたエリツィンだ。当時、ソ連を構成するロシア共和国の大統領だった。
事件で共産党の権威は失墜。ソ連は崩壊への坂を転がり落ちる。その引き金を引いた出来事で、プーチンは期せずしてエリツィンと共闘していた
自由化一辺倒ではなかった資源戦略
1990年代半ばまでサンクトペテルブルクで改革派のサプチャーク市長を支えたプーチン。外国銀行や企業を次々に誘致した彼が、経済自由化論一辺倒だったかと言えば、そうでもない。
プーチンは大統領就任後、民間石油会社「ユコス」の解体や、日本企業が参加する天然ガスプロジェクト「サハリン2」の「乗っ取り」とも言われた国営企業参入で物議を醸した。それを予言するかのような論文を、プーチンはこの時期に著している。
表題は「市場関係形成という条件下での地域の鉱物原料の基盤再生についての戦略的計画策定」。市場経済を導入するロシアは資源をどう戦略的に利用するべきか、という内容だ。218ページの論文で、プーチンは97年、経済学博士候補の学位を得ている。
論文を巡っては「水準に達していない」「不適切な引用がある」といった説が米国メディアなどをにぎわせたことがある。それはここではおくとして、問題はその内容だ。
プーチンに学位を与えたサンクトペテルブルク国立鉱山大学の学長、ウラジーミル・リトビネンコ(59)に説明を聞いた。
「国家に資金がない段階では、資源は企業の管理に任せる。国に余裕ができた段階で調整役としての役割を強化するべきだ、ということが書いてある」「まさに、大統領就任後のプーチンが実現したことだ」
経済を発展させるのは国の強化のためというプーチンの考えがにじむ。東ドイツやソ連のあっけない崩壊を体験したことが影響しているかもしれない。
論文の面倒を見たリトビネンコは、その後3回の大統領選でプーチンの選対幹部を務めた。北極圏のリン鉱山を開発する肥料メーカーの株主となり、「ロシア一裕福な学長」とも呼ばれる。プーチンの「サンクトペテルブルク人脈」に連なる一人だ
具体的で現実的、指導者の資質
プーチンに1997年に経済学博士候補の学位を授与したサンクトペテルブルク鉱山大学は、1773年に女帝エカテリーナが設立した由緒ある大学だ。論文の指導役を務めたのが1994年から学長のウラジーミル・リトビネンコ(59)。学長室で話を聞いた。
リトビネンコは自身について「教育界の人間であり、実業家でもある」と語る。学者出身だが、リン鉱山開発を手がける肥料メーカーの株を持ち「ロシア一裕福な学長」とも呼ばれる。「資源関係の政治にもかかわっている。私の活動は、プーチンと結びついたものだ」と断言してはばからない人物だ。
プーチンと初めて会ったのは副学長だった90年代初め。プーチンが改革派の市長サプチャークと共に仕事を始めたころだった。
「私は元々官僚というのはまったく好かない。だがプーチンのことはとても気に入った。具体的で現実的な答えをすぐに出してくれるからだ」。リトビネンコは、こんなプーチンに政治指導者の資質を感じたという。「言ったことに責任を持つ点でも、他の幹部連中とは異なっていた」
相談事の際に、よく聞かされたせりふがある。「私にも分かるように、具体的に説明してくれ。もっと踏み込んで!」
プーチンがいつも社会の反応を気にかけていたことも印象に残っている。あるとき、こんなことを言われたという。「それは現実的で賢明な案だとは思うが、世の中には理解されないだろう。その点は私が助けよう」
プーチンはKGB要員として勤務した東ドイツで、権力から人心が離れる怖さを身にしみて感じていた。プーチンは2014年12月の記者会見でも、支持率を気にする様子をみせている。「国家の安定性は国民の支持に基づいている」「そうした支持が(今のプーチン政権に)あることについては、議論の必要がないと思う」
地味な役職から驚くべき出世
イスラエルの情報機関はモサドだけではない。「ナティーフ」もその一つだ。冷戦時代、旧ソ連や東欧でしばしば差別的な扱いを受けていたユダヤ人の人権状況に目を光らせ、イスラエルへの出国を支援。ユダヤ人ネットワークを通じた情報収集と分析も手がけた。
プーチンがサンクトペテルブルクで頭角を現し、その後モスクワで権力の階段を駆け上った92~99年に、ナティーフ長官だったのがヤコブ・ケドミ(68)だ。プーチンと当時親交を深めたケドミに、イスラエルのテルアビブで会った。
だが、まずはこの時期のプーチンの歩みを振り返っておきたい。
サンクトペテルブルクの副市長だったプーチンは96年、市長のサプチャークが市長選で落選したのを機に市庁舎を去る。当選したヤコブレフ(70)から副市長に誘われたのを断った。プーチンの忠誠心の厚さを示す有名なエピソードだ。
プーチンは知人のつてでモスクワに移った。大統領府総務局次長という地味な役職だった。だがその後、驚くべき出世を遂げる。
97年、大統領府副長官。98年、KGBの主要な後継組織、連邦保安局(FSB)長官。99年3月、安全保障会議書記を兼務。8月に首相。そして12月、大統領エリツィンの電撃辞任に伴い大統領代行となる。
ナティーフ長官だったケドミがプーチンを初めて目にしたのは、91年ごろ。このときはサプチャークに付き従う姿を見ただけだ。
プーチンがモスクワに移ってから、折に触れて意見交換するようになった。「FSB長官になる前のプーチンは、何にでも興味を持っていた。長官になってからは、テーマごとに話すようになった」「大統領になってからも、例えばソ連に生まれてイスラエルに住む人々の考えを知りたがっていた」。そんなケドミに尋ねた。「プーチンはなぜ大統領になったのだろうか」と。(2015年4月配信)
連載⑤「プーチンの実像」(2015年) 第二部「権力の階段」②
駒木明義2022年2月26日
「日本に来ていたらしい」
大統領就任4年前、プーチン訪日の理由
プーチンは1996年、サンクトペテルブルクからモスクワに移り、大統領府総務局次長に就任。その後わずか4年で大統領にまで上り詰めた。プーチンが東ドイツのKGB支部で見せた度胸や、サンクトペテルブルクで発揮した行政手腕だけでは説明できない理由が、そこにあるはずだ。
この時期にイスラエルの情報機関ナティーフの長官としてプーチンと親しく接したヤコブ・ケドミ(68)は「プーチンは完全に論理的に大統領に選ばれた。彼は最善の選択肢。言葉を換えれば、最も問題が少ない選択肢だった」と語る。
誰が選び、誰にとって最善だったのか。それは第一に、ロシア大統領エリツィンが健康を損なっていた政権末期に権力を操った政商・故ボリス・ベレゾフスキー。第二に、エリツィンの「セミヤー(家族)」と呼ばれた側近グループだ。
「プーチンを大統領にする準備をしている。だけど、一つ問題がある…」。エリツィンの側近グループの中心的存在がかつて語った「問題」とは。
彼らは、政治的基盤や経済的な力がある者がエリツィンの後継大統領となって実権を握ることを恐れた。
プーチンにはそんな恐れがないと思われた。「モスクワでプーチンは、自分の約束を守る人物だということを実証していった。FSB(連邦保安局)長官や安全保障会議書記といった立場でも、忠誠心を発揮していた」とケドミは語る。
「KGB時代にさかのぼっても、プーチンは指揮官ではなかった。小さな部署さえ指揮したことがない。誰かに仕えることに慣れた人間だ。自分が大統領になることなど考えたこともないはずだ」
エリツィン取り巻きが求めた後継者像をケドミは「無菌状態の人物」と表現する。背後関係を持たず恐れる必要がない人物。プーチンはぴったりに見えた。
だが、それは誤算だった。プーチンは「忠誠心」を自分を大統領に据えた彼らには示さなかった。国に仕えることが自分の役割だと考えたようだ。ベレゾフスキーはまもなく失脚。2013年、ロンドンで客死を遂げることになる。(駒木明義)
紹介本、エリツィン側近がお膳立て
1999年の大みそか。ロシアの初代大統領ボリス・エリツィンが電撃的に辞任を表明した。8月に首相に就任したばかりのプーチンが、大統領代行となった。47歳だった。
この少し前のこと。パリに滞在中のジャーナリスト、ナタリヤ・ゲボルクヤンに、電話がかかってきた。前大統領府長官ワレンチン・ユマシェフ(57)からだった。彼は「セミヤー(家族)」と呼ばれたエリツィンの側近グループの中心的存在。後にエリツィンの娘タチヤナの夫となる。
「ナタリヤ、モスクワに来る用事を作れないかな」
ゲボルクヤンはモスクワに飛んだ。クレムリンに招かれたのは、エリツィンが辞任表明をする直前か直後のことだったという。
ユマシェフは言った。
「我々は、プーチンを大統領にする準備をしている。だけど、一つ問題がある。誰もプーチンのことを知らないんだ。彼について本を出さなきゃならない」
「OK。モスクワ、サンクトペテルブルク、(旧東独の)ドレスデンそれぞれ1カ月取材して、本を書いてみましょう」とゲボルクヤンが答えるのを、ユマシェフが遮った。
「いやいや。3月にはもう大統領選だよ」
押し問答を経て、ゲボルクヤンが提案したのが、プーチンへのインタビューをそのまま本にするというアイデアだった。
「発言には一切手を付けないと約束する。縮めたり、おもしろい部分を選んだりすることはさせてもらう」
それでもユマシェフは難色を示した。言葉をそのまま、というのはリスクが大きい。プーチンが、しっかりした受け答えができるかも分からない。しかし、もう時間がなかった。最後は渋々同意したという。
エリツィンの取り巻きたちは、プーチンがインタビューに応じる能力があるのかさえよく知らないまま、大統領の座に据えようとしていた。
インタビュー、意表突かれた雄弁ぶり
2000年3月の大統領選に向けた「プーチン本」を、本人へのインタビューの形にすることに、エリツィンの取り巻きたちは同意した。
しかし、インタビューを任されたナタリヤ・ゲボルクヤンは不安だった。KGBのOBには何人も取材してきた。てんで話が下手な者も多かった。
そこでゲボルクヤンは、旧知のジャーナリスト、アンドレイ・コレスニコフにも加わってもらうことにした。「良い警官と悪い警官」が容疑者を尋問するように、役割分担をしてプーチンを揺さぶり、話を引き出す狙いだった。プーチンのスタッフとなっていた元記者のナタリヤ・チマコワも同席した。
だが、ゲボルクヤンの心配は杞憂(きゆう)だった。実際に会ってすぐ、プーチンはとにかく多弁だと分かった。「話すことが苦にならない様子だった。むしろ気に入っているように見えた」
インタビューはたいてい夜、軽食を取りながら。机の上にはウォッカやビールも並んでいたが、プーチンは手をつけなかった。
厳しい質問にも臆することなく答えた。ゲボルクヤンは話を聞きながら、ユマシェフらエリツィンの側近が「何でも話せ」とプーチンに言い含めていたのだろうと感じていた。プーチンと彼らの力関係は当時、そんなところだった。
プーチンの突出した雄弁術は、大統領就任後もいかんなく発揮されている。
象徴的なのが、毎年恒例となった「大記者会見」。内外の1千人以上の記者を一堂に集めて質問を受ける。補佐官の助けも借りず、手元の資料もほとんど見ない。当意即妙のユーモアや皮肉を交えたやりとりは、全ロシアに生中継される。08年は、4時間40分に及んだ。
ゲボルクヤンらによるインタビュー本は、今に至るまでプーチンを知るための最良の一冊だ。だが、文字どおりは受け止められない内容もある。
プーチンは2000年の初めての大統領選に臨む直前に、詳細なインタビューに応じた。15年を経て読み返すと、意外に思われるような言葉にも出くわす。
ハンガリーの民主化運動をソ連軍が鎮圧した1956年の「ハンガリー動乱」や、チェコスロバキアの改革運動「プラハの春」を68年にソ連軍主体のワルシャワ条約機構軍が弾圧した介入について問われたプーチンは、当時こう断言した。
「大きな過ちだった。私たちが東欧でロシアへの憎悪に直面しているのは、この過ちの結果なのだ」
ウクライナのクリミア半島にロシア軍を投入して併合、さらにウクライナ東部の親ロ派を軍事支援して欧州の対ロ感情をかつてなく悪化させているプーチンの言葉とは思えない。
インタビューにあたったゲボルクヤンは、プーチンの本心からの言葉ではなかったと感じている。
「選挙を前に語られたということを忘れてはいけない。56年と68年の出来事を恥と考える知識人層にも受け入れられる必要があった」「なによりプーチンは、ソ連の行いを断罪したエリツィンの後継者として登場した。『ソ連は国益を守った』なんて言ったら大騒動になっていただろう」
一方で今日のロシアを予見していたかのような言葉もプーチンは残している。
冷戦終結について問われたプーチンは、米国の元国務長官キッシンジャーから「ソ連が東欧から早急に出て行くべきではないと私は考えていた。世界のバランスが急に崩れるからだ」という持論を聞かされた経験を紹介した上で、こう言った。
「キッシンジャーは正しかった。あれほど慌てて(東欧から)出て行かなければ、私たちは多くの問題を避けられただろう」
ロシアの勢力圏が縮小した結果、北大西洋条約機構(NATO)の東方への拡大を招いたことに、強い嫌悪を抱いていることをうかがわせる発言だ。
長期政権「国民はうんざり」、かつて批判
プーチンは2000年のインタビューで、こんなことも語っている。1982年から98年まで西ドイツと統一後のドイツ首相を務めたヘルムート・コール(85)が、ヤミ献金疑惑に見舞われたことへの感想だ。
「不思議なことは何もない。コールほどの強力な指導者であっても、一人の指導者が16年も続けば、どんな国民でもうんざりする。それを彼らは早く理解するべきだった」
プーチンも00年5月に大統領に就任してからまもなく15年になる。途中で4年間メドベージェフにその座を譲ったが、その間も首相を務め、事実上の政権トップだった。
かつての自分の言葉をプーチンは今、どう聞くだろうか。
インタビュアーのゲボルクヤンは今のプーチンについて「自分以外誰も信用できない。『権力者のわな』から抜けられなくなっている」と感じている。
「彼はクレムリンの窓越しに世界を見ている。周囲のみんなから『あなたの支持率は80%を超えています』と聞かされれば、自分は国に欠かせない存在だという確信を深めてしまう。それにロシアでは、引退したらその2日後に自分がどうなってしまうか分からないという不安もある」
ゲボルクヤンはプーチンに会った当初から、大統領候補として望ましい人物ではないと感じたという。「KGBというシステムから生まれてきた人物」「戦術はあっても戦略はない」というのが、ゲボルクヤンが感じた人物像だった。プーチン政権と決別したゲボルクヤンは今、パリに本拠を置いて活動している。
一方、彼女と共にインタビューをしたアンドレイ・コレスニコフはプーチンのことが気に入った様子だったという。その後もプーチン担当を続け、最も信頼を勝ち得ている記者と目されている。大統領就任前のプーチンは、間近に接した2人の記者に対して、まったく異なる印象を与えていた。
いつもと違う「大記者会見」
大統領就任前のインタビューで能力の一端を見せたように、世界の指導者の中でも、プーチンほど弁が立つ者はなかなかいない。
特に、内外の記者1千人以上を集めて開く「大記者会見」は年末恒例の晴れ舞台。だが2014年12月は、これまでと少し様子が違った。
集まった記者らは、会見場入り口で警備員に荷物を調べられ、ペットボトルやプラカードを没収された。
記者たちが質問権を得ようと、さまざまに工夫したプラカードを掲げるのがこれまで会見の名物だったのが様変わりした。ウクライナ問題でロシアが国際的に批判される中、生中継中に騒ぎを起こされるのを恐れてとった措置だった。
質問をさせてもらえる記者も、ロシアメディアでプーチンを担当する「クレムリン・プール」と呼ばれる、いわばプーチン番の記者が目立って多かった。
こんな場面もあった。
ある記者が、ロシア南部チェチェン共和国のカドイロフ首長の無法ぶりを指摘。「あなたは法律家として、ロシア憲法の擁護者として、住民を守るつもりがあるのか」と迫った。
プーチンは少し困ったように、記者を指名したペスコフ報道官に聞いた。「なんで君は彼女にしゃべらせたんだ?」
ペスコフは「悪かったです」と応じた。
質問をしたのは、クセニヤ・サプチャーク。プーチンがかつて仕えた元サンクトペテルブルク市長サプチャークの娘だ。今は、反政権ジャーナリストとして知られている。
プーチンとペスコフのやりとりは、プーチンとサプチャーク家の因縁を知っている者には冗談交じりに聞こえたかもしれない。それでも、批判的な質問を嫌がるようなプーチンの姿は極めて珍しい。8割を超える空前の支持率を誇る政権に差すかすかな影を見る思いがした。
「大記者会見」は、前年より約1時間短い3時間10分で終了した。(2015年4月配信)
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