一、建前としての『孝経』
宣長は儒教を建前ばかりで真情に欠けていると非難しています。儒教においては「孝」が最も重視された徳です。中国では大家族制度の下で門閥制度が発達し、家族・親族・一門の団結が政治的・経済的な地位の安定をもたらしました。そこで家を隆盛させ連綿と継承することがなりより大切だとされたのです。親を敬って大切にすることは、家族的結合を強化し、継続させるうえで、一番大切なことです。そこで「孝」が徳の中心だと言われるようになったのです。儒教が中国で支配的な思想として二千年近く君臨してきた最大の理由は、孝を中心道徳に据えてきたからだと言われています。それは家父長的な大家族制度に最も適合したイデオロギーだったからなのです。
孝を説いた儒教の経典は『孝経』です。「身體髪膚、受之父母、不敢毀傷、孝之始也(身体髪膚、これ父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり)」で有名ですが、若い世代の人はほとんど知らないのではないでしょうか。私は戦後生まれですが、戦前の日本の修身教育では『孝経』が重視されていたそうです。東アジア文化を理解するには『孝経』の位置づけが一つのポイントになります。四書五経に入っていないにも係わらず、『孝経』の持つ意義は絶大で、超時代的に全ての法規の大前提の自然法的規定が『孝経』でうです。『孝経』の意義が絶大だったことを証明した名著に桑原隲蔵著『中国の孝道』(講談社学術文庫)があります。伊藤仁斎は『論語』を「宇宙第一の書」と賞揚しました。孔子の言行が生々しく伝わっていますので、確かに『論語』の方が思想的な含蓄がありますが、後世をより強く規制したのはむしろ『孝経』だったのです。『孝経』によって儒学は人々の精神生活を根底から支配する儒教に成長したと言えるでしょう。
ところで『孝経』はあくまで建前の世界を支配していました。儒教は親孝行の大切さを説くときでも、情に訴えるのではなく、理に訴えたのです。「孝」の原理はあらゆる社会関係をも貫き、天地自然の原理も「孝」に基づいているのだから、孝を大切にして生きることが根本であると説いています。なるほど孝を尽くさなければならないのだなと理窟ではよく分かるのです。親不孝などとんでもない罪悪だと分かります。『孝経』では強盗殺人よりも「親不孝」の方が凶悪なのです。「五刑之屬三千、而罪莫大於不孝(五刑のたぐひ三千、而して罪は不孝より大なるはなし)」とあるのですから。新井白石の『折りたく柴の記』に、嫁が夫の失踪を届けたところ、それがきっかけで夫の両親に殺されていたことが判明し、親を訴えた「不孝の罪」にあたるか老中で議論になり、白石に諮問があったことが記されています。もし両親に殺されたのではないかと思って訴えたのなら、この嫁は「不孝の罪」で死刑にしなければならないところだったのです。
もちろん具体的に親不孝な言動があれば、それだけで不孝罪に問われたり、左遷や降官させられることがあり、政敵やライバルを陥れる為に親不孝のでっち上げが盛んになされたようです。藤田友治によりますと、『三国志』の著者である陳寿は親の葬儀に疲れて婢に丸薬を作らせていましたが、それを咎められて左遷されてしまったということです。つまり親の葬儀に当たってはひたすら死者を悼み自分の体に構ってはならないのです。
『孝経』の教えに基づいて孝子や孝女が輩出しました。『中国の孝道』によりますと、親が病に臥しますと体によいからといって、自分の股肉を切って食べさせたり、死を覚悟で自分の肝臓まで食べさせる狂気の沙汰まで起こり、度々禁令が出されたようです。しかし裕福な家庭ならいざ知らず、一般の家庭では目立った親孝行などなかなかできないものです。狭い家で家族が増えてきますと、老人の存在は面倒がられ、邪魔物扱いされがちです。
二、本音としての『父母恩重経』
自分を守り育ててくれた父母に感謝し、老後は安楽に暮らせるように息子や娘が愛情を籠めて面倒を見るのが、家族制度を大切にして生きる場合に求められる当然の義務です。ところが現実にはなかなか親の面倒を見れないばかりか、足腰が弱り、物ごとの判断も鈍くなり、草臥れてきた段階の親につい辛く当たるようになってしまいがちです。年老いた両親に辛く寂しい老後が待ち受けているのです。改めて親孝行の大切さを訴える必要があります。
そんな場合は『孝経』のように孝行を理で諭しても効果は余りないのです。理窟では理解できても年寄りに構う余裕がないとかいう態度でどうしても横柄な扱いになってしまうのです。そこで今度は仏教の側から親孝行の大切なことを説いた『父母恩重経』を検討しましょう。
このお経は、唐代に中国で作られました。釈迦没後五百年間の「正法」の時期に作られたお経は、解脱して仏陀になった人が書かれたもので正式のお経と認められたのですが、それ以後の「像法」「末法」の時期にはいくら修行したところで悟りに到達することはあり得ませんから、唐代にできたお経は偽経なのです。それでいくと『父母恩重経』も偽経です。
このお経は、理で諭すことはしないで、専ら情に訴えている点に特色があります。まさしく建前は抜きに、ずばり本音だけでストレートに真情を突き刺しているんです。『孝経』は父親を尊ぶことが中心で、家父長家族の秩序維持が眼目ですが、『父母恩重経』はエロス的交流の深い母親への慕情を喚起することが狙いです。儒教に対する本居宣長の関係を考えますと、自然に『孝経』に対する『父母恩重経』の関係を思い起こしてみたわけです。
『父母恩重経』は吉川英治の『宮本武蔵』で又八の母、本位田のお杉が親不孝のやくざ者に読ますために千部写経の願を立てたという設定で紹介されています。では大変感動的なので、主な内容を紹介しておきましょう。
・・父にあらざれば生まれず 母にあらざれば育たず ここをもって 気を父の胤に稟け 形を母の体内に託す この因縁を以ての故に 悲母の子を念うこと 世間に比いあることなく その恩、未形に及べり 始め胎を受けしより 十月をふるの間 行、住、坐、臥 もろもろの苦悩をうく 苦悩休む時なきが故に 常に好める飲食衣服を得るも 欲執の念を生ぜず 一心ただ安く生産せんことを思う
月充ち日足りて 生産の時いたれば 業風ふきて是を促がし 骨節ことごとく痛み苦しむ 父も心身おののき 懼れ 母と子とを憂念し 諸親眷族みな苦悩す すでに生れて草上に堕つれば 父母、欣び限りなく 猶、貧女の如意珠を得たるが如し
・・その子、声を発すれば 母も此の世に生まれ出たるに似たり 爾来 母の懐を寝処とし、母の膝を遊び場とし 母の乳を食物となし 母の情けを生命となす 母にあらざれば、着ず脱がず 母飢えに中る時も 哺めるを 吐きて子に啗わしめ 母にあらざれば養われず その闌車を離るるに及べば 十指の爪の中に子の不浄を食う
・・・計るに人々 母の乳を飲むこと一日八十斛 父母の恩重きこと 天の極まり無きがごとし 母、東西の隣里に傭われ 或は水汲み、或は火焼き 或は碓き、或は磨ひく 家に還るの時 未だ至らざるに わが児家に啼き哭して 我を恋い慕わんと思い起せば 胸さわぎ心愕き 乳ながれ出でて堪うる能わず 乃ち、 走り家に還る児、遙かに母の来るを見 脳を弄し、頭をうごかし 嗚咽して母に向う 母は身を曲げ、両手を舒べ わが口を 子の口に吻く 両情一致 復たこれに過ぐるものなし
・・二歳、懐を離れて始めて行く 父に非ざれば火の身 を焼く事を知らず 母に非ざれば刀の指を堕すを知らず 三歳、乳を離れて始めて食う 父に非ざれば毒の命を落すを知らず 母に非ざれば薬の病を救うを知らず 父母、外の座席に往き 美味珍羞を得るあれば みずから喫わず懐に収め 喚びて子に与え、子の喜びを歓ぶ
・・子、やや成長して 朋友と相交わるに至れば 父は子に衣を索め 母は子の髪を梳ずり 己が美好はみな子に捧げ尽し 自は故を着、弊れたるを纏う
・・既に子、婦を索めて 他の女子を家に娶れば 父母をば転、疎遠にして 夫婦は特に親近にし 私房の中に語らい楽しむ
・・・父母年高けて 気老い、力衰えぬれば 倚る所の者はただ子のみ 頼む所の者はただ婦のみ しかるに朝より暮まで 未だ敢て一たびも来たり問わず 夜半衾冷ややかに 五体安んぜず、復談笑なく 孤客の旅寓に 宿泊するが如し
・・或は復、急に事ありて 疾く子を呼びて命ぜんとすれば 十たび喚びて、九たび違い 遂に来たりて給仕せず 却って怒り罵りていわく 老い耄れて世に残るよりは 早く死なんに如かずと 父母聞きて怨念胸に塞がり 涕涙、瞼を衝き目くらみ 噫、汝幼少の時 吾れにあら ざれば養われざりき 吾れに非ざれば育てられざりき
このお経は仏教のお経ですから、家を捨てて出家した僧侶が書いたものです。父母の恩を強調して、親孝行を説くのは、脱俗的な仏教の立場からは次元が低い問題です。でも衆生済度の大乗仏教としては、むしろ民衆の生活倫理の教導は極めて重要だったのです。それを主情的な説き方で行えたところに仏教の柔軟性、大衆性が感じられます。為政者の立場からではなく、被治者の立場に徹して説いているところも、宣長を考えるに当たって念頭に置いて欲しいところです。
(下平・追記 『父母恩重経』を理解するに父母がわが子に接する本義と、後年に至り父母が老衰し、それを眼にしても老父母の思いを理解できない。 ここで初めて我が子を慈しみ我が孫の幸せを願う無償の愛の道が開けます。 老父母が幸せに生きる道は、あくまで親孝行でありそれが子孝行につながっていることを悟らなければならないのです。)
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