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折々の記 2011 B

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】04/03〜     【 02 】04/05〜     【 03 】04/15〜
【 04 】04/20〜     【 05 】04/25〜     【 06 】05/02〜
【 07 】05/05〜     【 08 】05/13〜     【 09 】05/15〜

【 08 】05/13

  05 13 三宜亭命名由来、下農の新渡戸稲造の扁額
  05 14 いまなお消えない9つの謎 週刊朝日 談 [DAN]
  05 14 首都圏直下大地震の戦慄 週刊朝日 談 [DAN]
  05 14 3度目の水素爆発の危険性 週刊朝日 談 [DAN]

 05 13 (金) 三宜亭命名由来、下農の新渡戸稲造の扁額

龍東下久堅以南の幹事(千代の熊岡平次・林節男)招集による、下農24期卒、一組同級会は最終回となりました。

  龍西南から 岡山 深志  小林 雅夫  横井 三郎  常盤 昭夫  堀尾 広実  田島 正道 
  龍東南から 熊岡 平次  林   節男  下平 好上

05 10 五時から三宜亭で挙行。



三宜亭を調べる

    http://sangitei.seesaa.net/ <天空ブログ【飯田城温泉 天空の城 三宜亭本館】>
     “天空の城 三宜亭本館”は、飯田城址の高台に建つ、味覚・眺望・天然温泉のお宿です。
     このブログでは、三宜亭本館の様々な情報をお届けします。
    http://sangitei.seesaa.net/article/26268311.html <三宜亭本館 名の由来>
    http://sangitei.seesaa.net/article/25708839.html <飯田の名水>
    http://sangitei.seesaa.net/article/26423556.html <飯田城内を歩こう 【山伏丸】>
    http://sangitei.seesaa.net/category/2006401-1.html <飯田城 歴史探訪>
    http://sangitei.seesaa.net/category/2006402-1.html <周辺観光情報 天空ブログ>

☆            ☆            ☆            ☆            ☆

三宜亭本館名の由来 by 女将 児島敏子

三宜亭(さんぎてい)は今から約130年くらい前、明治初期に廃藩置県で飯田城が取り壊された後、山伏丸(かつて武器弾薬庫のあった場所)跡に最初は料亭として出来ました。

その当時の趣味人たちが酒を酌み交わしながらゆっくりと時を過ごしていたところ、この地方の歌人上柳外川(うえやなぎがいせん)が祝いに歌を詠んでやろうということになりました。

“月雪の 眺めのみかは 咲く花も 幾代の春に 匂う宿かな・・・”

この歌にある雪月花に因み、『春に花よし、秋に月よし、冬に雪よし』で三つ宜しいから・・・ということで、やはりこの地方の文人でも画人でもあった大平小洲(おおだいらしょうしゅう)が、三宜亭と命名してくださいました。

 大平小洲  本名 新八郎 ; 嘉永2年(1849)〜昭和5年(1930) ; 飯田市千代に生まれる
         師 渡辺小華 ; 千代村の戸長、県会議員選出
         昭和天皇・山階宮妃殿下・東宮妃殿下に作品献上
         写実性にすぐれた南画で花鳥画を得意とする



下農の新渡戸稲造扁額

■ 「少年よ、大志を抱け」 扁額

校長室には、「Boys, be ambitious.」の扁額が掲げられています。

 クラーク博士のこの有名な言葉を筆で書いたのは、札幌農学校(今の北海道大学)第2期生の新渡戸稲造です。北海道大学の学長室にも同様の扁額が掲げられているそうです。

 クラーク博士のこの言葉の続きを紹介します。

  Boys, be ambitious!
  Be ambitious not for money or selfish aggrandizement,
  not for that evanescent thing which men call fame.
  Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.

  少年よ、大志を抱け。
  金銭や自分自身のための功績でなく、
  世にいう名声というあのはかないもののためにではなく、
  人間として大成するための大志を持ちなさい。

 昭和4年(1929 年)7/1 新渡戸稲造先生が来校し講演、その時揮毫していただいた。
   新渡戸稲造先生の書 「Boys、be ambitious!」 少年よ大志を抱け
   新渡戸稲造先生の書 「山登如學」 学ぶことは山に登るが如し

☆                         ☆                         ☆

http://www.nitobebunka.ac.jp/morimoto_institute/morimoto_ins027.php
新渡戸文化学園
2008年(平成20年) 探訪記 by 学園長 森本晴生
下伊那農業高等学校訪問

■ 新渡戸先生の揮毫「学如登山」と「Boys, be ambitious !」

2008年7月(二回目は2008年10月)、長野県飯田市にある下伊那農業高等学校を訪問した際、農場の脇に石碑があり、「Boys, be ambitious! Inazo Nitobe」と刻まれているのに出会いました。

   Boys, be ambitious !

新渡戸稲造 筆
 Inazo Nitobeと署名。




そこに書かれた説明によると、昭和4年7月1日に新渡戸稲造先生
  (このときは、東京女子経済専門学校 --東京文化短期
   大学の前身-- の校長でした。)
がこの学校を訪問して講演した際に揮毫され、それを卒業生が母
校に学ぶ生徒が朝夕このクラーク先生の名言を肝銘するようにと、
昭和34年にこの石碑を建てたそうです。







   学如登山

新渡戸稲造 筆
文字は右書きになっています。




あとで校長の斎藤先生にお目にかかったところ、この揮毫は校長室にあり、さらに「学如登山 稲造」(学ぶことは山に登るが如し)が玄関にあり、入学式などでこの2枚の揮毫の話を生徒にしていると伺いました。

また、新渡戸稲造揮毫による碑を作った創立30年(昭和34年)頃に、額の複製と10枚程度作り、1/10, 2/10のように番号を付けて数カ所に配ったそうですが、現在はどこに複製があるのか分からないそうです。

本学園のホームページ(この部分)を見た方が、同じものが自分のところにあると斎藤先生に連絡して来たそうで、多分それは上に述べた複製の一つであるようです。

☆                         ☆                         ☆

創立90周年記念 パンフレット
長野県下伊那農業高等学校
平成22年10月23日

■ 新渡戸先生の揮毫 「Nature is …」

この扁額はもともと龍峡ホテルにあったもので、吉川建設KKから寄贈されたものといいます。

Nature is not new;but rarely is she more beautifully clad than here and now. Nitobe.

直訳 : 「自然は新しくない。 しかし、自然が今ここほどに美しい粧いをしているのは、滅多にはない」
      当地の景勝地・天竜峡に寄せられた賛辞で、「彩雲閣天龍峡ホテル」に掲げられていたもの
      である。

      clad   clothe の過去・過去分詞形
            clothe (しばしば受身)…を(…で)すっかりおおう;…を(…に)隠す((in, with ...)

      rarely  まれに, たまに;たまにしか…しない
           [語法]
           文修飾語として用いた rarely は seldom, hardly と同じく, 強調のため文頭にきたときには,
           主語と動詞[助動詞]との語順倒置が起こる
           【例】  Rarely have I enjoyed an evening quite so much.
                こんなに楽しい夜を過ごしたことは今まで数えるほどしかありません

 05 14 (土) いまなお消えない9つの謎・首都圏直下大地震の戦慄・3度目の水素爆発の危険性

きょうは「週刊朝日 談 [DAN]」が取上げている表題に心惹かれる思いが強かったからです。

早速転載します。



☆                         ☆                         ☆

http://www.wa-dan.com/article/2011/05/post-97.php
9.11 いまなお消えない9つの謎
国際情勢解説者・田中宇が語る
週刊朝日 談 [DAN]
週刊朝日2010年9月17日号配信

イラク戦争の大義名分だった「大量破壊兵器」はなかった。湾岸戦争の油まみれの鳥もイラクではなく米国のせいだった。発生から9年を迎える対テロ戦争の原点、9.11事件にも「公式発表」とは別の真実が隠されているかもしれない。「9.11は仕組まれたテロ」との見方を示してきた国際情勢解説者、田中宇さんに聞いた。

 9・11事件は、アラブ人の若者たちによって準備され、米国の防衛網の盲点を突いて実行されたという、一般に信じられているストーリーでは説明できないことが多すぎます。

 むしろブッシュ政権は、2001年9月11日に大規模なテロ事件が起きると知りつつ放置したか、もしくは事件の計画そのものに関与していたと考えたほうが無理がないのです。

 米国は、約40年間続いた冷戦に代わる構造を再構築するために、新たな戦争を望んでいた。そのきっかけとして、9・11が起きたのではないでしょうか。

 9・11から始まったテロ戦争という有事体制の中で、米国メディアがいや応なしに体制に引きずられるのは当然です。一方、インターネットは、その埒外にあるため、公式発表への疑問点も数多く報じられてきました。それは事件直後から今日まで続いています。

 9・11を考える入り口として、ここでは重要な疑問点を挙げてみます。

    *

(1)ワールド・トレード・センター(WTC)ビルはなぜ崩壊したのか?

 WTCのツインタワーは旅客機が突っ込んだ後に崩壊しましたが、その様子を見た多くの建築専門家が「あらかじめ爆弾が仕掛けられていたのではないか」と指摘していました。爆弾を次々に爆破させてビルを解体する「制御解体」との見方ですが、米政府は調査結果をもとに、それは根拠のない間違いと一蹴しています。

 「旅客機の衝突による衝撃と火災によって崩壊した」という公式発表が出ると、報道もその線に沿ったものになっていきました。

 しかし、最近になって米国の建築家グループが、ツインタワー崩壊は「制御解体」だったとして、米政府に再調査を求めています。自然落下に近いスピードで崩れ落ちたことなど、公式発表の内容では説明できない、としています。指摘される「制御解体」であったとしても、「だれが、どのように爆発物を仕掛けたか」との疑問は残ります。

(2)旅客機が衝突していない第7ビルはなぜ崩壊したのか?

 ツインタワー崩壊の約7時間後、近くにあるWTC第7ビルが崩れ落ちました。公式説明ではツインタワー崩壊の影響と火災が原因とされていますが、旅客機も衝突していない第7ビルが崩壊したのは、やはりビル解体に用いられる「制御解体」と見るのが自然です。謀略説を分析する人々の間では、この崩壊は「WTC7にも爆弾が仕掛けられており、犯人の手違いで爆破時刻がずれたのではないか」と考えられています。

(3)ビル崩壊の現場を十分な検証もせずに片づけたのはなぜなのか?

 ツインタワーの崩壊現場はただちに撤去作業が行われ、崩壊原因を特定するための十分な証拠調べが行われていなかった、という指摘が出ています。

◆ペンタゴン衝突、穴が小さすぎる◆

(4)米国防総省(ペンタゴン)ビルにできた穴は、なぜ衝突したとされる旅客機の大きさより小さいのか?

 ペンタゴンにはハイジャックされた旅客機が突っ込んでビルの一部が破壊されたとされていますが、公開された事件直後の写真を見ると、ビルの壁面にできた穴は旅客機が突っ込んだにしては小さすぎます。さらに旅客機の残骸などの証拠物も映っていません。ビルに突入した際に旅客機の機体が破壊されたとされ、機体の一部もペンタゴン周辺から見つかったとされています。だが、後に公表された激突の瞬間を映した監視カメラの映像にも機体は映っていません。

(5)米軍の緊急発進はなぜ遅れたのか?

 ハイジャックされた旅客機に対して、米軍は戦闘機を緊急発進させて旅客機を捕捉したり、撃墜したりする態勢を整えています。事件当日も米連邦航空局から米軍に緊急発進の要請が出されましたが、実際に戦闘機がニューヨーク上空に到着したのは、2機目の飛行機がWTCビルに激突した数分後でした。

 ペンタゴンに衝突したとされるハイジャックされた旅客機に対しても、ニューヨークから戦闘機を回しても間に合う時間的余裕がありましたが、戦闘機はその後3時間ほどニューヨーク上空を旋回し続けました。

 ペンタゴンがあるワシントンDCの守備は、15キロほど離れたアンドリュー空軍基地が担当していますが、この日はなぜか、約200キロ離れたラングレー空軍基地から3機の戦闘機が緊急発進しています。結果としてテロは阻止できませんでした。

(6)刑事捜査もせず、なぜ戦争に突き進んだのか?

 日本の警察・司法当局は、オウム真理教による一連のテロ事件を刑事事件として捜査し、教祖の松本智津夫(麻原彰晃)被告に死刑判決を下すなど、刑事手続きにのっとって解決しました。

 ところが米政府は「首謀者ビンラディン、実行犯19人。悪いのはタリバーンとアフガニスタン」と一方的に宣言し、実行犯への刑事手続きを踏まないまま、戦争へと突き進みました。

(7)ビンラディンはなぜ9・11事件の容疑で指名手配されていないのか?

 米連邦捜査局(FBI)のウェブサイトに、「もっとも重要な10人の指名手配犯人」の欄があり、オサマ・ビンラディンも、その中に含まれています。

 しかし、その容疑は、1998年8月にケニアとタンザニアの米国大使館が爆破され、200人以上が死んだ事件に関与したとあるだけで、9・11事件への言及が一切ありません。

 容疑の欄には最後に「その他、世界各地のテロ事件への関与も疑われている」と付け加えられているので、ここに9・11事件が入っているとも考えられますが、ビンラディンの事件への関与は薄いという意味にもとれます。

(8)容疑者の人違いはなぜ起きたのか?

 FBIは事件から3日後、主犯格のモハメド・アタをはじめ19人の実行犯のリストを発表しました。続いて実行犯の顔写真も公開しましたが、後に何人かは人違いだったとわかっています。最初にWTCに突っ込んだ旅客機をハイジャックしたとされたサウジアラビア人は、実際はモロッコに住む事件と関係のない人物でした。

 ところが、FBIはその後の発表でも、なぜか最初に発表したのと同じリストを使い続けました。

(9)度重なる警告はなぜ「無視」されたのか?

 2001年7月、イタリア・ジェノバで主要国首脳会議(G8)が開かれた際、イスラム過激派組織が飛行機で会議場に突っ込むテロ計画があるとの情報を、エジプト当局がイタリア当局に伝え、ジェノバでは厳戒態勢がとられた。この時点で、アメリカ当局は飛行機がビルに突っ込む形式の自爆テロがあり得ると十分、認識していたはずです。

 01年6月、ドイツの情報機関はアメリカでのテロ計画を察知し、米当局に通告していた。事件の1カ月前には、イスラエルの情報機関の幹部が「米国内にはビンラディンと関係する200人規模のテロ組織があり、米国内の有名な建造物を標的にしたテロ攻撃を起こそうとしている」と、FBIと米中央情報局(CIA)に報告しています。

 これらの警告は、すべて表向きは"無視"されました。

    *

 私の見方が、米国の繁栄を信じて追従する日本政府、さらにはメディアにとって受け入れがたい、というのは理解できます。しかし、9・11に対して今後は「当局が事件発生を黙認ないし誘発したのであるなら、その理由は何なのか」といった、突っ込んだ分析が必要です。公式発表を支持する立場からであっても、ジャーナリズムには事件を表面的に報じるだけでなく、本質を問う解説記事が求められると思います。 (構成 本誌・堀井正明、佐藤秀男)

    ◇

たなか・さかい 1961年生まれ。東レ勤務を経て共同通信社に入社。その後、マイクロソフト社で本格コラムサイト「MSNジャーナル」を立ち上げる。現在は独立して国際ニュース解説記事を配信している。『米中逆転』(角川oneテーマ21)、『タリバン』(光文社新書)、『仕組まれた9.11 アメリカは戦争を欲していた』(PHP研究所)など著書多数

☆                         ☆                         ☆

http://www.wa-dan.com/article/2011/04/post-95.php
地震学の権威が警告していた
首都圏直下大地震の戦慄
「茨城県沖」が不吉な兆し
週刊朝日 談 [DAN]
週刊朝日2011年4月29日号配信

多くの人々の命を奪い、身も心も震え上がらせたマグニチュード(M)9・0の衝撃から1カ月余り。あの日から続く大規模な地震は私たちの暮らしを脅かし、列島を揺らし続けている。「いつかは来る」と懸念される首都圏直下型地震は、東海地震は、ついにやってくるのだろうか。11年前、不気味な兆しを本誌は聞いていた。

 それにしても3月11日に東日本大震災が襲ってから、日本列島を揺さぶる地震のなんと多いことか。

 4月11日、福島県浜通りを震源とするM7・1の大きな揺れが起きた。その後も▽12日朝に千葉県北東部で震度5弱▽同日午後、福島県浜通りなどで震度6弱▽13日、茨城県北東部で震度5弱など、衰える気配は一向にない。首都圏やその他の地域を第二、第三の震災が襲う恐怖を感じている人も少なくないだろう。

 本誌はとりわけ、ある地域で起きつつある不吉な「兆し」に着目した。

 ある地域とは「茨城県沖」と「茨城県南部」のことだ。

 というのも、かつて本誌の取材に対して、次のような説を唱えていた地震学の権威がいたからである。

「茨城県沖での大型地震は、首都圏直下大地震の引き金となる可能性がある」

 その人、東京大学名誉教授の溝上恵(みぞうえめぐみ)さんは、「地震防災対策強化地域判定会」の会長を1996年から2008年まで務めるなど、地震予知の研究に情熱を注ぎ、昨年1月に73歳でこの世を去った。

 溝上さんは、茨城県沖地震と周辺地域の地震が連動することに注目して、1980年代から論文を発表してきた。茨城県沖が関東直下の地震につながるという仮説を大約すると、次のようになる。

 (1)茨城県沖では約20年ごとにM7クラスの地震が起きている
 (2)この地震は茨城県南部の地震と連動する
 (3)前記の二つの地震がプレートに影響して南関東直下地震を誘発する


 この「溝上説」を詳しく見ていく前に、まずは地球レベルで地震が起きる仕組みをおさらいしておこう。

 地球の表面は十数枚のプレートでおおわれていて、年に数センチのスピードで動いている。プレートが沈み込むところには海溝やトラフと呼ばれる、長く深い海底の谷ができる。

 大きな地震はプレートの境目で起こることが多い。世界の観測史上、4番目に大きいM9・0を記録した3月11日の地震は、北米プレートと太平洋プレートの境界付近で起きたものだ。

 日本列島は北米プレートとユーラシアプレートの上にのっていて、太平洋プレートとフィリピン海プレートが、押しながらその下に潜り込んでいる。

 とりわけ関東地方は「北米」「太平洋」「フィリピン海」という三つのプレートがぶつかり合う、世界でもまれな地域で、それが地震の多さにつながっている。

 北米プレートの下にフィリピン海プレートが潜り込み、そこで引きずられたゆがみが相模湾のプレート境界ではじけたのが、1923年9月1日に起きた関東大震災だ。M7・9、南関東一円を震度6以上の激しい揺れが襲い、沿岸一帯は大津波に見舞われ、14万人を超す犠牲者が出た。

 その後、南関東地方は目立った大地震に襲われることはなく、おおむね静穏な状態が続いてきた。海溝でプレートがはねあがる関東地震タイプの大地震は200年から300年間隔で繰り返すとされているので、次に起きるまでにまだ相当の時間が残されていそうだ。

 ではまだ安心かというと、そうではない。

 これまで述べてきたプレート境界型とは別に、阪神・淡路大震災に代表される、活断層の活動などで起きる直下型地震がありうるのだ。溝上さんは00年、本誌にこう語っていた。

「関東大震災から77年がたって、そこで放出されたゆがみの3分の1が再び蓄えられているとみられる。これは三浦半島の先端の沈み込みのデータなどからも裏付けられます。次の関東大震災まで100年以上の時間があるとはいえ、ゆがみが徐々に蓄えられてきたことから、南関東が再び地震の活動期に入る条件は整っているのです」

 そのゆがみは、首都圏でM7前後の直下型地震を引き起こすのに、十分な量という。溝上さんはこのように語っていた。

「直下型といっても、地表近くの活断層が動く地震から、それぞれのプレート境界で起きるもの、プレートの内部で発生するものと、さまざまなタイプがあります。なかでもフィリピン海プレートの沈み込みに伴って、その上面で起きる比較的大きな直下型地震は、(海溝型の)関東地震に向けてゆがみの蓄積が進むと起きやすくなることが知られています」

 それでは、溝上さんが言う、茨城県沖と南関東の直下型地震はどのようにつながるのだろうか。

 まず、溝上さんは、茨城県沖の大地震と茨城県南部の大地震とが、ほぼ20年のサイクルで周期的に連動を繰り返す「法則性」に着目した。

 茨城県沖の地震は太平洋プレートをおさえつけていた「つっかい棒」が部分的に外れることを意味する。これで太平洋プレートの沈み込みが促進され、フィリピン海プレートを刺激して茨城県南部の地震が起きる。

◆M6以上が7回、これが前触れか◆

 さらに、この茨城県南部の地震の刺激を受けたフィリピン海プレート上面で、たまっていたゆがみを解放する動きが引き起こされ、南関東直下の地震につながるというわけだ。

 実際、関東大震災の前後でも、この三者のつながりがはっきりと表れた。

 大震災が迫った1923年5月から6月にかけて、M7・3を最大規模として、M6以上の地震が茨城県沖で6回も観測されている。同様に、21年から3年連続で茨城県南西部でも大きな地震(M7・0、M6・1、M6・1)が起きた。

 茨城県沖は、もともと「地震の巣」と呼ばれるほどの地震の多発地帯で、年に1回はM6クラス前後の地震が、そして20年に1回程度はM7クラスの地震が起きるとされる。

「しかし、1、2カ月の間にM6を超える地震が6回も立て続けに起こることは、きわめて稀(まれ)といわねばならない」


 溝上さんは著書のなかでそう指摘している。

 では、時計の針を現在に進めてみよう。

 3・11の直後から気象庁が震源を「茨城県沖」としたM6超の地震を拾い出してみた。11日から14日にかけてM6以上で震度4以上の地震はすでに7回あった。すべて3・11の巨大地震の余震とみられるが、「きわめて稀」なことがわずか4日の間に起きているのだ。

 溝上さんによると、茨城県沖―茨城県南部―南関東直下という三者のシンクロは近年にも見られた。11年前、こう語っている。

「三者がシンクロした第一波は1980年から92年までがピークでした。南関東で被害をともなった八つのM6クラスの地震が起きたのですが、その前兆のようにやはり茨城県沖と茨城県南部で地震が連続して起きたのです」

 92年のピークから、20年になろうとしている。幸いなことに、茨城県沖に比べると、茨城県南部では3・11以後それほど目立った地震は起きていない。だがこれら二つの地域で地震が連動する兆候が見えたとき、それはいよいよ直下型地震が首都圏を襲うシグナルになるかもしれない。

 と、原稿を書き終えようとしていた4月16日午前11時19分ごろ、東京の編集部でやや強い揺れを感じた。テレビには「震度5強 茨城県南部」の文字が。これはやはり不吉な兆しなのだろうか。


  ◆「大地動乱の時代」に備えよ 首都圏直下型を3・11が早める!?◆

 国内観測史上最大となった「3・11」の巨大地震は、これまでの地震学の常識も根底から揺さぶったようだ。京大防災研究所の遠田(とおだ)晋次准教授はこう話す。

「発生から1カ月がたってわかってきたことは、福島県の浜通りなど歴史的に地震の少なかったところで大きな地震が発生している。これまでの常識でははかれないほど、陸地にかかる力が変わってしまったということです。この変化がどこにどういう形で結びつくかは、はっきり言ってわからない」

 また別の地震学者もこう吐露する。

「今回のM9の巨大地震は内陸で多くの地震を誘発していますが、その原因はひとつでなく、いろいろな要因が合わさったものと考えられます。その影響は今後何年も続くと思われますが、現在の地震学の力量ではどこで何が起きるのか予測するのは難しい」

 それでも、私たちが過去の歴史に学ぶことは多い。「溝上説」とは別の角度から、首都圏を襲う地震の可能性を考察してみよう。

 1923年9月1日に起きた関東大震災は、まず神奈川県西部の地底で岩盤の大破壊が始まり、ほぼ同時に東京でも揺れた。小田原とその周辺は大きな被害を被った。つまり「小田原地震」と「関東地震」が同時に起こったのだ。

 小田原では記録が残っている1633年の「寛永小田原地震」以降、およそ70年の間隔で計5回、大きな地震に見舞われている。

 このうち、1703年の元禄関東地震と、1923年に関東地震と一緒に起きた地震は、ともに相模トラフで起きたプレート境界型で、ほかの3回は直下型だ。また同じ小田原周辺でも、地震が起きる場所や規模にばらつきがある。このため、専門家の中には「同列に論じるのはおかしい」といった意見もあるが、神戸大学名誉教授の石橋克彦さんは、この小田原地震の規則性に着目して「マジック・ナンバー70年」と名づけた。

 石橋さんは76年に「東海地震説」を提起し、現在の地震予知研究態勢のきっかけをつくったひとりだ。また97年、震災と原発事故が同時に起きる今回のようなケースを「原発震災」と名づけ、警鐘を鳴らしてきた。

 94年に出版した『大地動乱の時代』(岩波新書)のなかで、石橋さんは小田原地震が規則的に繰り返すだけでなく、小田原と関東、東海などの巨大地震との間に見られる規則性に注目し、こう説いた。

「今世紀末から来世紀初めごろに小田原地震、東海地震、首都圏直下地震が続発し、それ以後首都圏直下が大地震活動期に入る公算が強い」

 17世紀以降に関東、東海地方で起きた主な大地震を示したものだ。ここからは、関東地震は小田原と同時であることのほかに、東海地震は小田原から数年以内に起こること、などが見てとれる。

◆一極集中の弊害、いま改めるとき◆

 さらに「70年」をひとつの単位(T)と考えると、おおよそ東海地震は2T、関東地震は3Tで、また首都圏直下型の地震については、Tまたは2Tごとに活動期と静穏期が繰り返しているように見える。

 石橋さんは、小田原地震の震源域に「西相模湾断裂」と呼ぶフィリピン海プレートの切れ目があると推定、そこを「大地震の住みか」とみている。

「関東地方の下には、相模湾奥から房総沖まで南東に走る相模トラフから、フィリピン海プレートがほぼ北向きに無理やり沈み込んでいます。相模湾の西側の伊豆半島は、同じフィリピン海プレートにのっていますが、昔の海底火山が大きくなったものなので、やや温かくて、軽くて沈み込むことができず、箱根山の北方で本州に衝突しています。小田原付近の地下には、東側の沈み込むフィリピン海プレートと西側の沈み込めないフィリピン海プレートの境目に『西相模湾断裂』がほぼ南北に延びていると考えられます。ここは普段は固着していますが、その付近の無理な変形が限界に達すると、固着が激しく破壊して小田原地震を起こすのです」(石橋さん)

 そして先ほど見たように、重要なのは、小田原地震は東海、関東の巨大地震と連動する可能性がある点だ。


 この三つの地震は、フィリピン海プレートを介して、互いに作用を及ぼしている。地震によって小田原でゆがみが解放されると、プレートを引き留めていたブレーキがひとつ外れたようになり、東海、関東の巨大地震につながっていく、と推測される。

 最後に小田原地震が起きた1923年からすでに88年たっており、統計上はいつ起きてもおかしくないところに、「3・11」が起きた。石橋さんは、これによって小田原地震がいよいよ起こりやすくなったばかりか、いまや「小田原」を待たずに首都圏直下地震が起きる可能性も出てきたと指摘する。

 というのも、関東地方の地下は、先ほども見たように、上から陸のプレート(北米)、フィリピン海プレート、太平洋プレートという、複雑な三重構造をなしている。これら三つのプレートは、普段は相互に固着しつつ動いているので、長年の間に接触面付近で無理な変形がたまり、数十年から数百年に一度程度、接触面のあちこちで固着が破壊する。

 それが多くの場合、M7クラスの首都圏直下地震となって、さまざまな場所や深さで起こる。石橋さんは言う。

「3・11の巨大地震は、岩手県から茨城県南部までの東方沖で、西に傾いて下がっている、太平洋プレートと北米プレートの境界面の、非常に広い範囲の固着が壊れて起きました。この巨大地震の影響は、広い範囲の力のバランスがどう変わったかを計算して議論されることが多いのですが、プレートの運動の進展という見方も大事です」

 つまり、広大な領域の抵抗が外れたために、太平洋プレートは関東地方の下とフィリピン海プレートの下へ、より動きやすくなったと考えられる、というのだ。

「首都圏直下地震を引き起こす地下のプレート接触面に沿う変形が、少し上乗せされるような動きが生じたと推定されます。したがって首都圏直下地震が起こりやすくなったと言えます」

 さらに、相模湾から関東地方の下に沈み込んでいるフィリピン海プレートを、太平洋プレートが今までよりも余分に地下深くに引きずり込む動きも生じた可能性があると指摘する。

「この動きは、西相模湾断裂に沿う変形を増大する要因になりますから、小田原地震も起きやすくなったと考えられるのです」

『大地動乱の時代』のなかで石橋さんは、東京圏の大震災は全国を麻痺(まひ)させ、さらに世界中をも混乱させるとして、東京一極集中の弊害と地方分権の必要性を説いた。
「動乱」を乗り切る知恵を、いまこそしぼるときだ。家庭でも、できることから始めよう。 (本誌取材班=佐藤秀男、篠原大輔、大貫聡子、堀井正明)

■日本列島付近の海溝型地震の発生確率

<海溝名:領域または地震名>
(1)予想地震規模(マグニチュード)
(2)地震発生確率
(3)最新発生時期
     *
<千島海溝沿い:十勝沖>
(1)8.1前後
(2)【10年以内】ほぼ0%
   【30年以内】0.3〜2%
   【50年以内】20〜30%
(3)7.3年前
     *
<千島海溝沿い:根室沖>
(1)7.9程度
(2)【10年以内】5〜10%
   【30年以内】40〜50%
   【50年以内】80%程度
(3)37.5年前
     *
<日本海東縁部:秋田県沖>
(1)7.5程度
(2)【10年以内】1%程度以下
   【30年以内】3%程度以下
   【50年以内】5%程度以下
(3)−
     *
<駿河トラフ:東海地震>
(1)8程度
(2)【10年以内】−
   【30年以内】87%
   【50年以内】−
(3)118.8年
     *
<南海トラフ:南海地震>
(1)8.4前後
(2)【10年以内】10〜20%
   【30年以内】60%程度
   【50年以内】90%程度
(3)64.0年前
     *
<南海トラフ:東南海地震>
(1)8.1前後
(2)【10年以内】20%程度
   【30年以内】70%程度
   【50年以内】90%程度もしくはそれ以上
(3)66.1年前
     *
<日向灘および南西諸島海溝周辺:安芸灘〜伊予灘〜豊後水道のプレート内地震>
(1)6.7〜7.4
(2)【10年以内】10%程度
   【30年以内】40%程度
   【50年以内】50%程度
(3)−
     *
<相模トラフ:大正型関東地震>
(1)7.9程度
(2)【10年以内】ほぼ0〜0.1%
   【30年以内】ほぼ0〜2%
   【50年以内】ほぼ0〜7%
(3)87.3年前
     *
<相模トラフ:その他の南関東のM7程度の地震>
(1)6.7〜7.2程度
(2)【10年以内】30%程度
   【30年以内】70%程度
   【50年以内】90%程度
(3)−

※地震調査研究推進本部「海溝型地震の長期評価の概要」から(2011年1月1日現在)

☆                         ☆                         ☆

http://www.wa-dan.com/article/2011/04/post-94.php
福島原発、3度目の水素爆発の危険性
「安定した」は真っ赤な"嘘"
週刊朝日 談 [DAN]
週刊朝日2011年4月22日号配信

福島第一原子力発電所が三度(みたび)、大きな水素爆発を起こす危機に直面している。もしまた爆発すれば、これまで以上の大量の放射性物質が広範囲にばらまかれる可能性がある。にもかかわらず、政府は原発周辺住民の「一時帰宅」を検討し始めた。政府の鈍い対応に、原発を進めてきた専門家からも強い危機感が出ている。

「福島第一原発で、再び水素爆発の危険が迫っています。すでに燃料が溶けて膨大な放射性物質が出ているところに爆発が重なれば、深刻な放射能汚染が起きかねません」

 こう警告するのは、元日本原子力学会会長の田中俊一氏ら、これまで日本の原子力開発を進めてきた政府機関のOBたちだ。

 水素爆発といえば、地震翌日の3月12日に1号機が、14日には3号機が起こし、それぞれ建屋上部を吹き飛ばした。地震による津波で炉心の冷却システムがダウンし、圧力容器内が高温になったことで、燃料棒の被覆管が水と反応して水素が発生したためだった。

 一方で東京電力によると、すでに1号機は燃料の7割が、2号機と3号機は約3割が損傷しているという。専門家は、「燃料棒のかなりの部分がすでに溶け、それが圧力容器の底にある制御棒を出し入れする穴のシールを溶かし、外に滴り落ちている」とみる。つまり被覆管の大半はすでに溶けてなくなっている可能性が高く、水と反応したくてもないはずだった。

 なのに、なぜ再び水素が発生するのか? 冒頭の田中氏の説明はこうだ。

「強い放射線を受けると、水自体が水素と酸素に分解する『放射線分解』が起きます。被覆管がなくなっていても、燃料が放射線を出しているかぎり水素が出るのです」

◆情報「5重の壁」政府の動き鈍く◆

 水は冷却水として圧力容器内に大量に注入されてきた。しかも、地震直後は淡水が調達できずに海水を入れた。海水からは酸素が出やすい。前2回と同様の水素爆発の条件がそろっていることになる。

 もし爆発で圧力容器が破壊されると、損傷した燃料本体が外に飛散する。放出される放射性物質は、前2回の水素爆発で漏れた量とはけた違いに大きくなる。

「ざっと計算しても、前2回の合計の10倍でしょう」(放射線の専門家)


 すでに原発周辺で深刻な土壌汚染が明らかになっている。このうえ爆発が起きれば被害は致命的になり、首都圏にまで汚染が広がりかねない。

 そして、この田中氏らの心配を裏付けるように、燃料損失が最も大きかった1号機の圧力容器の圧力が、3月下旬から上がり始めている。二つある計器のうち、一つは3気圧程度だったのが4月9日には約9気圧にまで上がった。

 これまで水素は圧力容器の安全弁から格納容器へ抜けていた。しかし、格納容器に注入された冷却水で弁が詰まり、圧力容器から出なくなったためではないかと、田中氏は推測している。

 東京電力は7日未明、1号機に窒素を注入し始めた。窒素によって、水素と酸素が化合して水素爆発するのを防ぐことができるからだ。

 ただ、注入しているのは圧力容器の外側にある格納容器内だけだ。経済産業省原子力安全・保安院の担当者はこう説明する。

「放射線分解で出る水素は多くなく、爆発の可能性は低い。格納容器より小さい圧力容器が爆発する可能性はさらに少ない。万が一、格納容器が爆発しても、建屋とは違って容器が頑丈なので、現在の避難地域を変更するほどの被害はありません」

 保安院の予測では、爆発しても、原発から20キロ地点の被曝量は0・028ミリシーベルトと、屋内退避の目安(10〜50ミリシーベルト)より十分小さいのだという。

 しかし、内閣府原子力安全委員会の代谷(しろや)誠治委員の意見は正反対だ。

「水素爆発が起きても今と変わらないなら、窒素を注入するなどという判断にはなりません。爆発すれば中にあるものが全部出て、非常に大変な事態になる。風向きによっては、避難区域にとどまるとはいえないでしょう」

 どちらが安全側に立っているかは一目瞭然だろう。

 にもかかわらず、東京電力の勝俣恒久会長は「原子炉は多少安定してきた」と言い、枝野幸男官房長官は避難中の原発周辺住民を近く「一時帰宅」させることを明らかにした。もし、一時帰宅中の住民を水素爆発が襲ったら? 代谷委員は明言する。

「一時帰宅には原則反対です。水素爆発はそのリスクの一つです」

 政府は福島第一原発の現状を、どこまで理解できているのだろうか? こうした疑念は今や、原発を推進してきた専門家たちからも出ている。

 原子力安全委員会専門委員の奈良林直(ただし)・北海道大学大学院教授は、今の政府の対応をこうみる。

「原発には放射能を防ぐ『5重の壁』〈注〉があると言われてきました。今回の津波で残念ながら破られましたが、代わりにより強固だったのが情報伝達の『5重の壁』です」

 メーカーと東京電力、原子力安全・保安院、原子力安全委員会、官邸という五つの関係機関の間で意思疎通が悪く、知恵が集まらないうえに、判断に時間がかかっているという。前出の代谷委員が言う。

「原子炉の状況について、保安院から安全委員会に明確にお伝えいただいたことはありません」

 こうした「壁」にじゃまされて、意思疎通はこんなに複雑な経路をたどっているという。

「例えば、東芝や日立製作所などのメーカーが東電に提案しても、それを東電や保安院がチェックし、さらに原子力安全委員会がダブルチェックして、問題があれば保安院から東電、メーカーに戻され、それが繰り返されてから、やっと官邸に届いて、ようやくゴーサインが出るといった具合のようです」(奈良林氏)

 その影響はすでに表れている。

 東京電力は4月4日から、高濃度の放射能汚染水の保管場所を確保するため、比較的汚染度の低い水1万1500トンを海へ放出した。この結果、全国漁業協同組合連合会は激しく抗議し、東電の勝俣会長が陳謝した。

 しかし、この汚染水は、動かない冷却システムに代わって原子炉に注入した冷却水が漏れ出たものだ。これからも出るし、保管場所がなくなればまた海に流さなければならない。

「これでは悪循環です。汚染水は安価に入手できる除去装置で浄化してから、再び冷却水として炉心に注入すればいい。そうすれば、冷却水を新たに調達する必要もないし、汚染水を海へ流す必要もなくなります」(同)

 先週、問題になった作業用トンネルから海への汚染水流出も同じだ。コンクリートからおがくず、新聞紙まで投げ入れても止まらず、凝固剤でようやく止めた。しかし、汚染水自体は処理されないまま残っている。再び増えてあふれ出ないか、不安な日々が続く。

 いずれも目先の問題に対処するだけで、根本的な問題に向き合えていない。

 そもそも、炉心安定に不可欠な冷却システムは一体いつ、どうやって回復するのか。東電や保安院は会見で、冷却システムがある建屋の地階が汚染水につかっていることでシステム自体に近づけず、めどが立たないとしている。

◆収束させないと見放される原発◆

 しかし、ある専門家は、
「冷却ポンプが地下にあることは事前にわかっていた。あれほど大量の水を原子炉に注入したのだから、いずれ地下に水があふれてポンプが水没することは十分予想できたはずだ」
 と指摘する。

 ここでも奈良林氏らは、外付けの冷却システムの新設を政府に提案している。

 圧力容器へ冷却水を送ったり、容器内の水を受けたりするためのタンクには、マンションの屋上などにある受水槽を使う。一つの容量は小さくても、つなげればいい。何よりマンション用ならすぐに調達できる。同じく冷却器にも、ビルの屋上などに設置されている市販品を使う。

「発電所の冷却装置は原子炉のフルパワー時を想定して巨大な装置になっていますが、福島第一の各原子炉の燃料はすでに0・2%程度の熱量しかありません。コンクリートブロックや鉄板を重ねて遮蔽すれば、市販の装置で十分です」(奈良林氏)

 加えて、放射性ヨウ素やセシウムを除去する「放射能浄化装置」を組み込めば、汚染除去が同時にできる。塩分の蒸留装置まで組み込めば、事故直後に海水を注入したことで炉内に付着しているはずの塩分を取り除くこともできる。

「発注してトラックに積み込み、原発敷地内で設営しても1カ月程度でできるはず。事故直後に始めていれば、今ごろはもうできているのですが」

 そう言って、奈良林氏は苦笑した。

「想定外の、未曽有の天災だった」−−今回の原発事故について、東電も保安院もよくこの表現を使う。

 大手メーカーの元原子力プラント設計者は指摘する。

「すべての交流電源が喪失して、冷却システムがダウンすることを想定していなかったのは、日本の原子力発電所の設計と建設を進めてきた自負と責任からも痛恨です。この事態を何とか収束させなければ、結果的に原子力が国民から見放されてしまいかねません」

 奈良林氏も、かつて東芝の研究者として原発トラブルに対応した経験を踏まえて、こう話す。

「原子力防災の基本思想に『深層防護』という言葉があります。ある手段がダメだった時を想定して、あらかじめ次の手段を用意して多段的に対策を施すことなのですが、今回は目の前で起きたことにかかりきりになって、まるで『もぐらたたき』です」

 果たしてこの現状で、住民が「一時帰宅」できる日は来るのだろうか。

◆米国頼みの「汚染マップ」作り 20キロ圏内を"敬遠"? 行政の壁◆

 政府は4月7日、福島第一原発事故で避難生活を強いられている半径20キロ圏内の住民の一時帰宅を段階的に始めると明らかにした。住民から「貴重品を取りに帰りたい」などの要望が強いためだが、原発は今なお、冷却システムが回復しない危機的状況が続いている。一時帰宅しても大丈夫なのか。

 現在、20キロ圏内は放射能が強いことから「避難指示」が出ていて、住民はほとんどいない。このため、一帯の放射線濃度は東京電力が独自に測定した値しか公表されていない。一時帰宅をさせるには別途、政府による汚染調査が不可欠だ。

 政府が進めている20キロ圏内の唯一の調査は、文部科学省と米国エネルギー省(DOE)による合同調査「航空機モニタリング」だ。小型機に検査機を積み込んで、福島第一原発から80キロ圏内の空中や地表面の放射線濃度を測定する。

 文科省原子力災害対策支援本部はこう話す。

「高度150メートルから、地上のシーベルト値とベクレル値を推定できます。結果は4月中旬に公開予定で、一時帰宅への判断材料になると思います」

 ただ、放射性セシウムなどは重く、すでに多くが空から地表や樹木の上に落ちている可能性が高い。高空から、これらを正確にキャッチできるのだろうか。調査の実務を担当する原子力安全技術センターの担当者が解説する。

「汚染濃度は距離の二乗で減衰します。ですから、高度と照らして数値を補正しなければなりません。これに飛行速度などを加味して、地上での実測値との誤差を20%以内にします」

 担当者は自信を見せるが、20%もの誤差があって大丈夫なのだろうか。

 そして、問題は精度だけではない。

「事故以降、国内の航空機はこの20キロ圏内の飛行を禁じられています。でも、米国機なら日米地位協定に基づき、航空法の適用除外になり、飛行が可能なのです」(文科省の担当者)

 汚染地域の調査は日本ではできないから、米国に頼むというのだ。

 また、このシステムは未完成でもあるらしい。

「完成まであと1年残っていることは事実です。米国のように核実験をしていないので、日本では地上が放射能汚染されるという状況がこれまでありませんでした。このため、実地テストができなかったのです」(同)

 さらに、この調査は放射線のうち放射性ヨウ素などが出すγ線しか検知できない。α線やβ線を出す放射性物質の汚染は調べられないのだ。

 元日本原子力学会会長の田中俊一氏はこう訴える。

「一時帰宅を許可するならば、20キロ圏内にきちんと人が入って調査した結果を公表すべきでしょう。それにより、どの地点に何時間ぐらいいてもいいのかがわかります。最終的には、より詳細な汚染マップを作って判断する必要があります。すぐに作れるものでもない。今から地道に調査すべきです」

 これに対して、文科省はさらなる調査に消極的だ。

「文科省の調査範囲は20キロ以遠です。20キロ以内に入れるのは原子力安全・保安院ですから」

 その原子力安全・保安院は、「私たちは事業者(東電)の監督機関であり、汚染調査のスキルは持っていない。保安院が汚染調査をする予定はありません」(広報)

 結局、詳しい汚染マップができるのかも、よくわからない。

 住民の方々を思えば、一刻も早い一時帰宅は必要だ。しかし、だからこそ、「安全軽視」ではいけないのではないだろうか。 (本誌取材班=三嶋伸一、堀井正明、大貫聡子、作田裕史)

 〈注〉「5重の壁」とは(1)原子炉建屋(2)格納容器(3)圧力容器(4)燃料棒の被覆管(5)燃料を焼き固めたペレット .



 《下平記》途中まで「B」を使ったり「COLOR」を使ったりしたが、老生自身が恐怖にさらされました。
 すべて大事なことであり、すべての人たちが共通認識をして、行動を起こさなくてはならないと思います。