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折々の記 2011 C

【心に浮かぶよしなしごと】

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【 03 】06/10

  06 10 霞ヶ浦海軍航空隊爆撃炎上の日
  06 11 週刊朝日2011年6月10日号配信 「原発と人間」
  06 14 検察審査会の実態@
  06 16 児童虐待のない世界に

 06 10 (金) 霞ヶ浦海軍航空隊爆撃炎上の日

◆ 霞ヶ浦海軍航空隊爆撃炎上の日

昭和20年6月10日だから、通称予科練の兵舎、霞ヶ浦海軍航空隊が爆撃の惨禍をうけてから、満66年になります。

‘連続テレビ小説 おひさま’で次歌が歌われていました。

 ★兵隊さんよありがとう
   昭和14年(1939年)の作品です。 朝日新聞社の企画募集の応募当選歌です。
   【皇軍兵士に感謝する歌】として児童向けに作られた歌です。

   1、肩をならべて 兄さんと 今日も学校へ 行けるのは 兵隊さんの おかげです
     お国のために お国のために 戦った 兵隊さんの おかげです

   2、夕べ楽しい 御飯どき 家内そろって 語るのも 兵隊さんの おかげです
     お国のために お国のために 傷ついた 兵隊さんの おかげです

   3、淋しいけれど 母さまと 今日もまどかに 眠るのも 兵隊さんの おかげです
     お国のために お国のために 戦死した 兵隊さんの おかげです

   4、明日から支那の 友達と 仲良く暮らして 行けるのも 兵隊さんの おかげです
     お国のために お国のために 尽くされた 兵隊さんの おかげです
     兵隊さんよ ありがとう 兵隊さんよ ありがとう

国家間のプロパガンダ (プロパガンダ (propaganda) は、特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する宣伝行為である) によって、個人的には何の恨みつらみがない兵隊の殺しあい、国家間の国益と称するプロパガンダに操られての破壊と殺戮 ……… それが戦争でした。


◆ビルダーバーグ会議 出典 : フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ビルダーバーグ会議(ビルダーバーグかいぎ、英語:The Bilderberg Group, Bilderberg conference, Bilderberg Club, Bilderberg Society)は、1954年から毎年1回、欧米各国で影響力を持つ王室関係者・欧州の貴族[1]や政財界・官僚の代表者など約130人が、北米や欧州の各地で会合を開き、政治経済や環境問題等の多様な国際問題について討議する完全非公開の会議である[2]。ビルダーバーグ・クラブ、ビルダーバーグ・ソサエティとも呼ばれる。「陰のサミット」と呼ばれることもある。出席者リスト、議題は公表され、欧米のジャーナリストも招待されるが、会議での討議内容は非公開であり記事になることはない[3]。

また、日本を含めて、非欧米諸国からの参加者は中東、イスラエルを除きほとんど存在しない[4]。

歴史 [編集]ジョセフ・レティンガー(Joseph Retinger)[5]、オランダのベルンハルト王配[6]らの働きによって創設された。冷戦中に、欧州の北大西洋条約機構(NATO)加盟国と米国の橋渡しを目指したとされる[7]。第1回は1954年5月29日から31日にオランダのオーステルベーク(Oosterbeek)[8]のビルダーバーグ・ホテル(the Hotel de Bilderberg)[9]で開かれた[10]。

1970年代頃からその存在を一般に知られるようになった。

◆秘密クラブ「ビルダーバーグ」  出典 : フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
<http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/bilderberg.html>

このサイトは是非開いて読むこと。

プロパガンダ一歩前の秘密クラブであり、『ビルダーバーグ倶楽部−世界を支配する陰のグローバル政府』著者:ダニエル・エスチューリン/山田郁夫=訳が出版されている。

内容説明に次のような表現が出ている :

衝撃のノンフィクション! ビルダーバーグ、それは世界の有力な政治家、銀行家、多国籍企業が秘密裡に組織した国際機関。

政治、市場経済、戦争を仕切る権力者たちが目論む、「新たな世界秩序」樹立計画の驚愕の内実。

ビルダーバーグは、何もかも見通す監視機能を備えた陰のグローバル政府だ。密室の年次総会では、悪魔的な計画をいかに実行するかが決まる。

決まれば、すべてが必然となる。戦争、飢饉、貧困、政府転覆、それに加えて思わぬ政変や社会変動、あるいは通貨価値の変動などが突然起こるのだ−(本文より)


  「ビルダーバーグ会議」に続いて「プロパガンダ」の理解を深めておきたい。


◆プロパガンダ 出典 : フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

プロパガンダ (プロパガンダ (propaganda) は、特定の思想世論意識行動へ誘導する宣伝行為である)

こうした考えで、例えば軍事紛争の解決として次のような宣伝活動が行われるという。

戦争遂行のためのプロパガンダ

国家が戦争を遂行するためには、国民に戦争するしか道がないことを信じ込ませるために国策プロパガンダが頻繁に行われる。イギリスの政治家アーサー・ポンソンビー[7]は、第一次世界大戦でイギリス政府が行った戦争プロパガンダを分析して、以下の10の法則を導きだした。

  1. われわれは戦争をしたくはない。
  2. しかし敵側が一方的に戦争を望んだ。
  3. 敵の指導者は悪魔のような人間だ。
  4. われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命(大義)のために戦う。
  5. そしてこの大義は神聖(崇高)なものである。
  6. われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが、敵はわざと残虐行為におよんでいる。
  7. 敵は卑劣な兵器や戦略を用いている。
  8. われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大。
  9. 芸術家や知識人も正義の戦いを支持している。
  10. この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である。

フランスの歴史学者であるアンヌ・モレリは、この10の法則が第一次世界大戦に限らず、あらゆる戦争において共通していることを示した。そして、その著作[8]の日本語版の辞のなかで、「私たちは、戦争が終わるたびに自分が騙されていたことに気づき、『もう二度と騙されないぞ』と心に誓うが、再び戦争が始まると、性懲りもなくまた罠にはまってしまう」と指摘している。


土浦の空爆の後始末が終わってから、千葉県茂原の海軍基地へ移動してからのことでした。 その日、P51というアメリカの格好のいい軍機が飛来し機銃掃射を受けました。 マフラーを首に巻き飛行帽子をかぶった姿は予科練の飛行兵と何も変わりません。 この日の夜、第六班はガヤガヤ話をしながら風呂場へ入っていきました。

この時でした。 「今日の戦闘で高射機関銃座の戦友が死んだのだぞ !!!」 その一喝でシュンと静まり返りました。 いまも鮮明にその場の空気が脳裏に残っています。


戦争とは何なのか

国家間の手前勝手なプロパガンダによって人の闘争心を煽りたて
国内法を無視しての国家間の <破壊> <殺人> が公然と行なわれることなのです。
その結果、 死んだものは何の保証もなく 勝ったものも何の保証もなく
戦争を引き起こした人は、莫大な権益を得ることになる
これを 「死の商人」 という。

戦争とは 法律を無視した、殺戮と破壊、そのものなんです。


手のこんだプロパガンダによって、善良な市民の判断力を麻痺させるのです。 拝金思想、秘密思想、不条理の横行、こうした特異な体質を持つ人たちの集団がうまい汁を吸おうとするのです。

善良な市民は「兵隊さんよありがとう」という気持になりきって、戦争という悪魔のレールに乗っかって「破滅の世界」(=相互の殺し合いの世界)へひた走るのです。 

軍備は必要だという考え方は、悪魔のレールを敷くのを手伝うという、おろかな転落の一途に踏み込むことに間違いありません。

 06 11 (土) 週刊朝日2011年6月10日号配信 「原発と人間」

週刊朝日「談」は次のように伝えています。

http://www.wa-dan.com/article/2011/06/post-109.php
週刊朝日「談」
ジャーナルが伝えたゲンパツ緊急増刊  「朝日ジャーナル 原発と人間」
週刊朝日2011年6月10日号配信

横尾忠則さんが描いた表紙が印象的な「朝日ジャーナル」が5月24日に発売された。2009年4月の復刊以来、3号目となる今回のテーマは「原発と人間」。「朝日ジャーナル」は常に原発問題を世に問うていた。ジャーナルが報じてきた原発問題とは何だったのか

「朝日ジャーナル」(1992年休刊)は、88年4月から90年3月の丸2年にわたり「今週のゲンパツ」という連載記事を掲載し、原発の問題を多角的に報じていた。

 88年4月は、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故から2年が経とうとしていた時期に当たる。また、同年2月に行われた四国電力・伊方原発での出力調整試験をめぐり、「チェルノブイリ事故の再来を招きかねない」として前年暮れから激しい抗議運動が行われていた。

〈長くくすぶり続けていた原発に対する不安が、一挙に顕在化している。万一大事故が起こったら、という仮定の話だけでなく、廃棄物処理、エネルギー・コストなど、多方面から光をあてつつこの問題を考えてゆきたい〉

 88年4月1日号の連載第1回の前文にはこう書かれている。そして、「『浜岡1号緊急停止せず』のなぜだ!」と題して、同年2月に起きた中部電力・浜岡原発1号機の再循環ポンプ停止事故を検証している。この事故では原子炉が緊急停止せず、12時間も稼働を続けたことなどが問題となっていた。

 筆者の小村浩夫・静岡大教授(肩書は掲載当時。以下同)は、
〈原発についていつもいわれてきた「多重防護だから安全」などという話は簡単につぶされてしまったわけで、原発には重大な設計ミスが本来あることになってしまった〉
 と指摘している。同じ号で中村謙・朝日ジャーナル記者は「なにがどう危ないかが見えない危なさ」のタイトルで記事を執筆。事故当時の原子炉の様子を住民側に明らかにしない中部電力の姿勢を問題視した。

〈知らしむべからずの電力の体質自体が最も危ないのだとはいえないだろうか〉

 88年6月、日立製作所の子会社で原子炉の設計に携わっていた田中三彦氏は、東京電力・福島第一原発4号機の圧力容器製造の最終工程で、許容範囲を超えるゆがみが発生し、修正作業が行われていた事実を原発シンポジウムで明らかにした。

 これを受けた88年7月15日号では、「福島第一4号炉に硬くてもろーい整形手術『黙ってられない』と元原子炉設計者が告白」のタイトルで田中氏の告白を紹介している。

〈4号炉は"普通とはちがう"ことをまず知ってもらい、後遺症の程度を専門家に委ねたいと思った。でも、国や電力会社は騒ぎを鎮めることにだけ注意を向けている〉

 4号機は3・11の巨大地震が起きたとき、定期検査のため運転停止中だったが、〈工場内では本気で"つくり直し"も議論されたほどの大きなトラブル〉(田中氏)を抱えたまま長年運転されてきたことになる。そして、3月15日、4号機は水素爆発を起こした。

 田中氏は「朝日ジャーナル 原発と人間」でも、「設計に没頭した日々の中で守った良心と拭いきれなかった不安」と題した記事を執筆。原子炉設計に携わっていた当時を回想している。

 東電・福島第二原発の問題を指摘したのは元原発設計技師でフリージャーナリストの西岡孝彦氏だ。第二原発3号機では89年1月、再循環ポンプが破損し、金属片などが圧力容器の中に侵入する事故が発生した。

「巨大技術が負う危険な宿命/福島原発が壊れるわけ」(89年9月22日号)で西岡氏は、この事故を〈前代未聞の大事故〉とし、最新の設計が自慢だったはずの3号機の事故の原因は〈設計ミスと施工ミス、検査ミス〉と指摘している。

 これに対し、電気事業連合会は〈配管を例にあげますと、一一〇万キロワットクラスでパイプの総延長は一七万メートル、溶接部が三三万カ所もあるんです。厳重な管理をしても、どうしてもいくつかの悪いケースが出てしまいます〉とコメントしている。巨大で複雑なシステムであるため、原発に少々の"不具合"が生じても仕方がないというのだ。

 この事故でのもう一つの問題点は東電が速やかに事故を公表しなかったことだ。西岡氏はこう結論づける。

〈世界一の電力会社と世界有数の原発メーカーが造った日本を代表する原発が壊れ続けても、何の不思議もない。東電のいうように「開かれた原発」が実行され、利害のない第三者に監視されない限り、秘密主義の原発は、これからもますます壊れ続ける〉

過去の問題点がフクシマに凝縮

「今週のゲンパツ.」最終回は90年3月30日号に掲載された「漂流する"日の丸"プルトニウム」。原発の稼働によって生み出される使用済み核燃料の再処理問題に焦点を当てたものだ。

 当時、日本は使用済み核燃料の再処理を海外に委託。取り出されたプルトニウムを持ち帰り、高速増殖炉(プルトニウムを燃料として、燃やした以上に新たなプルトニウムを増殖する原子炉)などに利用する計画だった。ただ、プルトニウムは核兵器製造に転用できるため、長距離の海上輸送には「核ジャック」などの危険がつきまとっていた。

 児玉哲明・朝日ジャーナル記者は記事を次のように締めくくっている。

〈非核三原則の国が、核兵器材料の保有大国になり、"海のチェルノブイリ"を起こしかねない国として、国際的注視を浴びる日は、そう遠い将来ではないかも知れない〉

"海のチェルノブイリ"は起こらなかった。しかし、福島原発事故によって海洋汚染を起こしている日本は今まさに"国際的注視"の的だ。当時の記事を読むと、そのなかで指摘された原発や電力会社の問題点が、今回の福島原発事故に凝縮されているかのように思える。

「今週のゲンパツ.」に、海外の原発事情などについて複数回にわたって記事を執筆し、緊急増刊号でも「脱・国際『原子力村』のすすめ」を執筆したジャーナリストの鈴木真奈美さんがいう。

「88年ごろはチェルノブイリ事故の問題点が国際的にもようやく整理されてきた時期です。原発に関して地元、裁判、科学者、海外など、いろいろな視点から掘り下げ、具体的な問題提起をしました。それを反原発グループの機関紙ではなく、ジャーナルという商業誌でやったことに大きな意義があったと思います」

 それから約20年が経った。

「日本の原子力政策、原子力産業が海外に打って出ようという大きな『転換期』を迎えている中で今回の事故が起きました。日本の原子力発電とは何だったのか、あらためて社会全体に問いかける必要があるのではないでしょうか」(鈴木さん)

 地震列島の上に54基もの原発を抱える現実に、われわれはどう向き合えばいいのだろうか。「朝日ジャーナル 原発と人間」はその命題に取り組んだものである。

 06 14 (火) 検察審査会の実態@

Google に載っている検察捜査会の関連サイトを見ると、‘検察審査会とは’だけで約 1,390,000 件のサイトが (0.19 秒)で検索されます。 そのものすごい情報量に驚くほかありません。

盲人の象観察のたとえのように、大海原に漂う木の葉のような小船に乗って外国へ行くようなものです。 何をどう考えてよいのやら見当もつきません。

ニュースで見たように、くじ引きの11人の平均年齢が30.9才で総て非公開の審査による結果によって疑わしい人の黒白を付けるというのは無謀といえば無謀な制度です。

ちなみに、グーグルで‘検察審査会’を検索しますと、フリー百科事典『ウィキペディア』出典の解説が載っています。

その中に、問題点として次の記事が載っています。

問題点 <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E5%AF%9F%E5%AF%A9%E6%9F%BB%E4%BC%9A>

@検察審査会の問題点は国会でも取り上げられ、検察審査会の議事、審査過程の情報公開がなされておらず、審査員の個人情報を保護した上で議事録を公開すべきとする意見[5]

A弁護士の中から選ばれる審査補助員が審査員に専門的助言を行うが、審査補助員の発言内容の誤りをチェックする方法が実質なく、審査補助員の発言に疑義がある場合の会議録の当該部分の公開などを求める意見[6]が出されている。

B国家訴追主義を原則とする日本の現行法上、刑事訴追は国家が責任を持つこととなっている。訴追権限を一部の国民に付与することによって、多数決による「理由なき起訴」が可能となり、その審査の判断基準があいまいであり、適正手続きによらず人権が不当に脅かされる危険性があることから憲法違反のおそれがある[7][8]

C検察審査員の選抜方法も適正さに欠ける上に審査員の素性が明かされることも無く(裁判員でも、会社員や主婦など職業に関する大まかな素性は明かされる)、法律論に基づいた適法・妥当なものではなく、感情論やムードに作用される可能性があることから、強制起訴権限を行使させる妥当性に問題がある

Dまた、検察審査会の行使する権限は内閣が責任を負わないため、濫用があっても防ぎようが無く、三権分立に反する行政無責任の法制度であるという旨の批判もある[9][10][11]

E検察官が起訴する場合よりも検察審査会が起訴議決をすることによって、今まで以上に無罪判決が出る可能性があるが、この点についても、検察審査会によって間違った強制起訴がなされた場合、いったい誰が責任をとり、誰がどのように謝罪するのか、損害を回復するための措置を、誰がどのようにしてやってくれるのかといった疑問点も出されている[12]

F指定弁護士は補充捜査を行うことができるが、検察内部からは検察審査会が捜査段階の証拠だけで起訴できると判断したのだから、補充捜査の必要などないとの意見も出ている[13]

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@検察審査会とは 約 1,390,000 件 (0.19 秒)

検察審査会 - Wikipedia
検察審査会(けんさつしんさかい)とは、検察官が独占する起訴の権限(公訴権)の行使に民意を反映させ、また不当な不起訴処分を抑制するために、地方裁判所またはその支部の所在地に設置される、無作為に選出された国民(公職選挙法上における有権者)11 ...

裁判所 | 検察審査会の概要
これまでに全国の検察審査会が審査した事件数は15万件に上り,その中には,交通事故や窃盗など身近で起こる事件だけでなく,水俣病事件,日航ジャンボジェット機墜落事件, 薬害エイズ事件,明石花火大会事件といった社会の注目を集めた事件もあります。 ...

裁判所 | 検察審査会
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検察審査会の概要 - 検察審査員・補充員とは - 検察審査会ってどんなところ

検察審査会 とは - コトバンク
知恵蔵2011 検察審査会の用語解説 - 起訴に関する検察官の裁量権の適正な行使に民意を反映させるため、英米の起訴陪審から示唆を得て設けられた制度。審査会は、各地方裁判所の管轄区域に1つ以上設けられ、有権者から、くじで選ばれた11人の検察審査員で ...

検察審査会とは - はてなキーワード
2011年5月31日 ... 検察審査会とは - 検察審査会制度とは,国民の中から選ばれた11人の検察審査員が検察官の不起訴処分の当否を審査するもので,検察官の職務の上に一般国民の良識を反映させ...

検察審査会を仕分けしろ!: きっこのブログ
2010年4月27日 ... これで、検察は、これからまた小沢一郎のことを捜査して、3ヶ月後までに起訴するかどうかの答えを出さなきゃいけなくなった。そして、もしもまた「不起訴」にした場合には、もう一度、検察審査会が召集されて、2回目の検察審査会 ...

検察審査会とは - 新語時事用語辞典 Weblio辞書
検察審査会とは?新語時事用語辞典。 公訴権の実行に関し民意を反映させて適正を図るための機関。検察官の公訴を提起しない処分の適否を審査する。地方裁判所またはその支部の所在地に置かれ、審査員はその区域の有権者の中から抽籤(ちゆうせん)で選出...

Egawa Shoko Journal: これでいいのか、検察審査会
2010年7月23日 ... 東京都内の飲食店経営会社の社長から現金約30万円を脅し取ったとして6人が恐喝で逮捕され、不起訴となった事件で、東京第4検察審査会は、この会社の役員1人について「 起訴相当」とする議決をした。 東京地検はこの6人を、「起訴猶予」 ...

検察審査会法
第十二条 市町村の選挙管理委員会は、第十条第一項の規定により選定した検察審査員候補者の予定者について、死亡したこと又は衆議院議員の選挙権を有しなくなつたことを知つたときは、前条の規定により検察審査員候補者予定者名簿を送付した検察審査会 ...

検察審査会の小沢一郎氏“強制起訴”議決の意味|山崎元のマルチスコープ ...
2010年10月6日 ... 検察審査会の再度の議決で小沢氏の強制起訴が決まった。プロである検察官は起訴した場合には有罪でなければならないと考えているようだが、素人たる検察審査会は十分疑わしいので結論は裁判で得たらいいと考えた。正しいのは素人の方だ。

検察審査会とは のニュース検索結果

検察官調書全て不同意 明石花火事故で指定弁護士
協議後に記者会見した指定弁護士は理由について「検察審査会の議決に基づく神戸地検の再捜査は明らかに不起訴に向けたもので、弁護側に有利な調書が作られているため」と説明した。 弁護側は「検察官の権限を行使する指定弁護士が、検察官調書を不同意に ...

A極秘文書の公開 約 761,000 件 (0.15 秒)

B情報公開法 約 20,600,000 件 (0.05 秒)

行政機関の保有する情報の公開に関する法律
第十二条の二 行政機関の長は、開示請求に係る行政文書が独立行政法人等により作成されたものであるときその他独立行政法人等において独立行政法人等情報公開法第十条第一項 に規定する開示決定等をすることにつき正当な理由があるときは、当該独立行政 ...

独立行政法人等の保有する情報の公開に関する法律
第十三条 独立行政法人等は、次に掲げる場合には、行政機関の長(行政機関の保有する ...

行政機関の保有する情報の公開に関する法律 - Wikipedia
行政機関の保有する情報の公開に関する法律(ぎょうせいきかんのほゆうするじょうほうのこうかいにかんするほうりつ、平成11年法律第42号)は、国の行政機関が保有する情報 の公開(開示)請求手続を定める日本の法律である。1999年5月14日公布、2001年4 ...

総務省|情報公開制度
「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」(平成13年4月1日施行)及び「独立行政法人の保有する情報の公開に関する ... 法制度の概要 情報公開制度や開示請求手続き説明資料等制度紹介パンフレット、開示請求書等の様式など; 情報公開法の制度運営の ...

情報公開法
2001年4月1日から情報公開法が施行されます。この法律によってどのような情報がどのように公開されるのかを、消費者の立場からみてみましょう。ここでは消費者・市民が情報公開法を活用するために、特に重要な条文についてのみ解説しています。 ...

情報公開法とは - はてなキーワード
正式名称は「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」。1999年に成立、2001年4月に施行された。 ... 防衛研究所図書館、外務省外交史料館、宮内庁書陵部などの公文書については、情報公開法の施行とともに新たな利用規則を制定しており、これによって ...

情報公開法
日本の情報公開法は、アメリカ情報自由法で認められているような司法権の介入、 すなわち裁判所のインカメラ審理、ボーンインデックス提出命令などを明記していない。 その代わり、情報公開審査会というものを設置し、行政上の救済措置がおかれている。 ...

行政法講座 1 「情報公開法」
世界の主要先進諸国の中で情報公開法の制定が最も遅れたのが日本である。イギリスでは判例法として早くから確立しており、アメリカは1966年、ドイツは1976年、 フランスは1978年に制定している。行政文書の適正な開示がなされなければ、薬害 ...

情報公開法
◎2005年12月16日 「情報公開法施行令等の一部改正(行政文書の開示の実施方法の追加・手数料の額の引下げ等)」が発表され ... 2005年3月29日の情報公開法の制度運営のあり方に関する検討会報告書を受けて、「情報公開に関する公務員の氏名・不服申立て ...

情報公開法22日決定 - MSN産経ニュース
2011年4月21日 ... 政府は22日の閣議で、情報公開法改正案を決定する。行政機関が非公開とした文書の公開を首相が「勧告」できる新制度を導入。情報公開訴訟の提訴先を全国8カ所の高裁所在…

C小沢一郎と検察審査会 約 638,000 件 (0.23秒)

検察審査会の小沢一郎氏「強制起訴」について - 保坂展人のどこどこ日記
2010年10月5日 ... 昨日の午後、岩波書店で今度フォーラムをやる岡本厚さん(『世界』編集長)と話している時、東京第5検察審査会が「起訴相当」の議決をしたというニュースが流れた。小沢 氏の「強制起訴」が決まったのだ。その直後、この「起訴相当」の ...

検察審査会の小沢一郎氏“強制起訴”議決の意味|山崎元のマルチスコープ ...
2010年10月6日 ... 検察審査会の再度の議決で小沢氏の強制起訴が決まった。プロである検察官は起訴した場合には有罪でなければならないと考えているようだが、素人たる検察審査会は十分疑わしいので結論は裁判で得たらいいと考えた。正しいのは素人の方だ。

東京第5検察審査会「小沢一郎起訴相当」決議を会計的に解析する 会計の ...
2010年10月29日 ... 東京第5検察審査会「小沢一郎起訴相当」決議を会計的に解析する | 東京第5検察審査会 が、政治資金団体陸山会の土地購入をめぐる政治資金収支報告書虚偽記載事件において、 2回目の起訴相当決議を行った。改正検察審査会法の規定に基づき、 ...

何がかわいそうって、小沢一郎ではなく、検察審査会の皆さんに決まっ ...2010年10月10日 ...
検察が間違った判断をしたり、実はフロッピーの魔術や政治の圧力で「検察が総力をあげて起訴できな」い事があるから、検察審査会があるのではないのだろうか。前田武彦じゃなかった前田恒彦みたいなのが、小沢一郎バンザイやフロッピーの ...

検察審査会の小沢一郎「起訴相当」議決には2度驚いた! - 上脇博之 ...
2010年4月28日 ... (1)小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入を巡る事件で、東京地検特捜部は、今年2月4日、当時の事務担当者・石川知裕衆議院議員ら3名を起訴し、 小沢氏を不起訴にした。

小沢一郎が検察審査会を「ブラックボックス」という理由: 情報紙 ...2010年10月10日 ...
小沢一郎が検察審査会を「ブラックボックス」という理由. 小沢一郎民主党元代表が今回の検察審査会の強制起訴の結論に批判的な発言をしたことに対し、大手マスコミや、小沢 氏に批判的な勢力は「市民目線」を錦の御旗に、それに楯突くの ...

小沢一郎氏を起訴相当とした検察審査会の議決: 極東ブログ
2010年4月28日 ... 被疑者 小沢一郎 不起訴処分をした検察官 東京地検検事 木村匡良 議決書の作成を補助した審査補助員 弁護士 米沢敏雄 2010年2月4日に検察官がした不起訴処分(嫌疑不十分)の当否に関し、当検察審査会は次の通り議決する。 ...

小沢一郎が検察審査会によって強制起訴になりました。 私は、小沢一郎 ...
回答(21) - 2010年10月5日
小沢一郎が検察審査会によって強制起訴になりました。 私は、小沢一郎の支持者でも有りませんし、どちらかと言うと ... 「疑わしきは罰せず」とは、裁判に際し、拘束して有罪性が担保されている時の格言です。裁判にさえかけずに、疑わしきは ...

超速news ニュース速報保存館 : 【小沢一郎/裏金問題】検察審査会 「不 ...
2010年7月15日 ... 【小沢一郎/裏金問題】検察審査会 「不起訴不当」議決. 1 :しいたけ
◆I.Tae1mC8Y @ おじいちゃんのコーヒーφ
★:2010/07/15(木) 14:42:03 ID:???0: 民主党・小沢一郎前幹事長について、 別の検察審査会は「不起訴不当」を議決。 ...

小沢一郎、検察審査会は、結局、不起訴か? - 文藝評論家=山崎行太郎の ...
2010年7月15日 ... 新しい情報によると、小沢一郎に関する検察審査会の判断は、中途半端な結論とは言いながら、不起訴ということになるらしい。今後の政局の動向を左右するのは、やはり小沢 一郎だろうから、小沢一郎に関する検察審査会の判断がどうなるか ...

■ 必見サイト

@  http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2010/10/post_678.html
   検察審査会決議は何が問題か

       @この中の【動画】音声三部構成は役に立つ
       Aこの中のコメントから「文書テキスト‘k 検察審査会決議’」を印刷したもの
       Bこの中に「検察審査会決議をめぐる法律問題」(PDF)がある

A http://www.mori-yuko.com/
   民主党 森ゆうこ公式サイト

       この中の森ゆうこ資料サイトから
       http://my-dream.air-nifty.com/siryou/files/110209haifusiryou.pdf
       検察審査会の謎を解明せよ

 06 16 (木) 児童虐待のない世界に

児童虐待はどうして起こるのか?

虐待する親自身が、自分の出産時に産んでくれた親との絆が充分できなかったことに、総ての原因があります。

人は自己存在を100%容認しています。 それぞれみんな自己存在を主張しているのです。 社会生活の中で共通認識を共有できる場合にはトラブル起こらないのです。

共通認識が成立しないときには、自己認識をお互いに主張することになります。

子育ての認識となっても、この原則はそのまま通用しています。

それを理解するために、次の学習をする必要があります。



 @ 『Magical Child』 誰も知らなかった脳発達のプログラム

わが子を産んで育てる最大級にランクしなければならないことは、子育ての智慧を身につけておくことです。 老生が教壇に 立っての37年間、一貫してそれぞれの子供たちが「自分を築きあげれる」ことを願ってきました。

けれども、学習成績とか人柄とかそうした人の基本的な部分について、如何ともし難いことがあることの壁に直面せざるを得なかった。

それは、自分で親になり子供を育てているうちに、そのことに直面することができました。 子供は自分で自分を築くものであること、親の言う通りにはならずに親のする通りになるということでした。

あの小さな胸を痛め、「私はどうしようもない」と自分を責める姿に接して、励ますには励ましたんですが、その子の悲しむ心を癒すことはできませんでした。

50才頃になって「塾なんかもういらない」という七田真さんの本を手に入れたのを始めとして〔 0歳教育参考資料 〕にあげたような本を読みまくりました。 

そうして行き着いた最高峰に位置する本が、“ジョセフ・ピルトン・ピアスの『マジカル・チャイルド育児法』(誰も知らなかった脳発達のプログラム)だったのです。

これは親になるすべての人に、読んでほしい。

今でも検索で見ますと、この本は手に入れることができます。

   最初は読みにくいかと思いますが、慣れてくれば筋が通っていて判ります。
   第2章、第7章、第10章など絆に触れています。
   全体を通してみますと、命の不思議な仕組みが泉のように湧き出してくる感じのする本です。


 A 『胎児は見ている』 最新医学が証かした神秘の胎内生活

著者はトーマス・バーニー、翻訳は小林登、祥伝社から出ています。 

   一章 驚くべき胎児の“秘められた能力”
       …… 何と、彼らは母親の思考や感情を読み取ることすらできる ……
   二章 自己を主張する小さな命
       …… その感情の働きは、成人のそれに劣らない ……
   三章 母親と胎児の情報交換システム
       …… “きずな”を深めあうための三つのチャンネルとは何か ……
   四章 一生を左右する出生時の記憶
       …… その瞬間、胎児は強烈な“快感”を体験する ……
   五章 出生体験は性生活をも決定する
       …… 異常な分娩は、子どもの性格にどんな影響を与えるか ……
   六章 愛情こそ、何にも勝る栄養素
       …… 何と、愛情に飢えた新生児はバタバタと死んでいく ……
   七章 未来を担う新生児のために
       …… 健全な社会人を育てるための妊娠・出産・育児の知恵 ……

この本も検索で見ますと、手に入れることができます。


 B 「心の原風景」〜苦悩の克服

    http://homepage3.nifty.com/genfukei/index.htm
    「心の原風景」〜苦悩の克服
    末永 遍


   「心の原風景」にはこんなことが載っています


殺伐とした現代にあって、私達の心はどうあれば良いのでしょう。 人の心とは本来どんなものなのか、それを私達は忘れているのかもしれません。 心とはどういうものか、そして心の状態次第でどんな事態が起こるのか、等について考えてまいります。

 当サイトでは「人間の心とは本来どういうものか、心がどうであれば幸福になり、どうであれば不幸になるのか」といった「原理」を述べております。それは私が様々なことを学び、自分自身も苦悩を味わってようやく気づいたものであります。しかし「原理的なこと」のみを述べていたのでは解りにくいですから、読者さんにとって解りやすいよう、世の中の諸問題を例に挙げて「応用例」とし、実生活でお役立ていただけるよう、工夫しております。そのため当サイトは一見したところ、非常に多くの事柄について書かれたもののように見えてしまうでしょう。しかし私は当サイトで、あくまでも一言か二言でまとめられるような原理を述べているに過ぎないのです。

 人間の為す事、人間の行動はすべて「こころ」から出ております(こんな簡単なことさえ解らない方がおられるので困ってしまいますが)。よって、「人間の心とはどういうものか」ということを理解すればするほど、人間社会の諸問題についても、その原因や解決方法がよく解ってくるのです。そして人間の心について深く理解した者同士は、細かい点では違った意見を持つことがあっても、物事の大筋では同じ見方・考え方をしますので同じような結論にたどり着くのです。よって当サイトで述べていることも、昔から多くの人が説いてきたことと同じものになっています。


   一 幸、不幸の分かれ道


 人間はどんなにお金を得てもどんなに地位や名誉を得ても満足しません。若さも美貌もいつまでも続くものではありません。
 そもそも人生の終わりに当たって、死後の世界までお金や地位を持っていくことなどできません。どんなに美しい肉体も朽ちて滅んでいきます。

 なぜお金や地位を得ても満足しないかと言えば、人間は「心の生き物」だからです。
 心が満足しなくては、他に何を得てもそれが幸福に直結することはないのです。
 確かに生きていく上でお金もモノも大切です。しかし必要以上にお金やモノを求めるのは苦しみの原因にしかなりません。それらを大量に得たとしても、人間の欲には際限がありませんから常に不満を持つこととなり、心は欲の塊になり、持っても持ってももっと欲しくなり、いつまでも幸福を味わうことはできません。また周囲の人々はライバルでしかなくなり、友情も愛情も味わえなくなります。不安を抱えながら他者と戦う人生になってしまいます。

 ではどうあれば幸福を感じることができるでしょうか。
 答は簡単です。お金やモノ、地位や名誉、自分の肉体などへの、一切のとらわれを捨てることです。
 とらわれを捨てた時、初めて心が安らぎます。

 とらわれの軽い心を築いていくうちに、自然に、愛情が湧いてきます。頭で考えるのとは違う、智慧というものも湧いてきます。それが人間の本来の姿だからです。人間は心の奥底に深い智慧や愛情を宿しているのです。しかしとらわれることで心の表面しか働かなくなるのです。
 たとえて言えば、海面に波が立つと海底の様子が見えなくなるようなものです。海面を静めてみれば、海底の豊かな生物たちが丸見えになるでしょう。その時に「海」というものの本当の姿が見えたということになるでしょう。

 とらわれのない状態とは、偏りのない状態のことです。とらわれるから働きすぎたり怠けすぎたり、厳しくなりすぎたり甘くなりすぎたりします。とらわれがない時、最もちょうど良い状態になります。これを「中道」の状態と言います。幸福は中道に入った時に味わうことができます。幸福な人生とは中道に沿った人生のことです。

 行為だけでなく、心に何を思うか、それも幸・不幸を左右します。「ああしなくては、こうしなくては」などと思い詰めてばかりいたのでは幸福ではありません。
 心がモノや「自分」という人間(の名誉など)、時には「理想」というものにとらわれるから苦しくなるのです。
 よって心に思うことに関しても中道である必要があります。

 要するにとらわれのない目で見て、とらわれのない心でものを思い、語り、とらわれのない心で行動し、とらわれのない心で生活し、努力し、目標を持ち、時に振り返って反省する、そういったことが大切になります。ものごとは「どういう心で見るか」によって全く違って見えてくるのです。とらわれた心では正しく見て取ることはできません。

 ここで述べていることをすんなりと理解するためにも、ある程度、心のとらわれを捨てる必要があります。心がお金やら名誉やら、さまざまなことにとらわれていたのでは「何が正しくて何が間違っているか」など解りはしないのです。

 逆に、心のとらわれを捨てていくことで、人間は「何が正しくて何が間違っているか」を、他人に教えてもらわずとも判断できるようになっていきます。「今の苦しみの原因は何か」といった因果関係も解ってきます。心の奥から智慧が湧いてくるからです。

 とらわれのない心は子供の頃の心に似ています。いつも明るく光が差し込んでいて、温かく、生きとし生けるものへの愛に満ちており、希望があり、感動しやすく、冒険心や好奇心に満ちており、毎日の生活に驚きや楽しみを見出すことが容易で、ゆったりして、それでいて活力があり、みずみずしく、柔らかく、しなやかな強さがあり、安心感を伴っています。

 そのような心こそ、人間本来の心です。そういう心を取り戻しますと、人間として正しくありたいと思うだけでなく、苦しむ人々を助けたいとか、間違った社会を正したいという思いに駆られるようになります。自分だけでなく他人をも「本来の姿」に戻してあげたい、幸福へと導きたいと思うようになるのです。自分一人が幸福になって終わり、ということでは済まないのです。

 自分は今、何にとらわれているか、それに気づくことから「幸福への道」は始まります。つまり自分が幸福になる上で必要な物は自分の心と体だけであり、自分を観察して自分を変えていくことで幸福になるのです。社会を変えることも必要ではありますが、いかなる社会に住んでいようと、自分の心次第で幸福になれるのです。よって自分の不幸を他人のせいにするのは、子供ならばともかく、大人においては、間違っているのです。

 とらわれを捨てていくということは決して虚しいことではありません。確かにこれまでに興味を持ってきたものがつまらなく思えてはくるでしょうが、その代わり、「豊かな心・光差す心」という掛け替えのないものが手に入りますし、人間を初めとする生きとし生けるものに、兄弟姉妹のような親しみを感じるようになります。他人のことが我がことのように思えてきます。また、信じられないでしょうが、様々なことが不思議なくらいうまく運ぶようにもなるのです。まさかと思われるならば試してみて下さい。

 幸福への道は決して遠いところにあるのではありません。あなたの中にあるのです。目の前にあるのです。その道を踏み出す第一歩は、あなた自身が踏み出す以外ありません。誰一人、その一歩のためにあなたの手を引くことも背を押すこともできないのです。あなたが自分の意志で踏み出すしかないのです。

 誰でも必ず幸福になれるのです。


   二 心の諸問題


 人間の心は本来、何者にもとらわれない、自由で独立したものであり、自分の心を支配できるのは自分だけです。
 幸・不幸は心で感じるのですから、「幸福を感じることのできる心」を築いていく必要があり、それには心のとらわれを捨てていくしかありません。

 ところが人間は金やモノにとらわれ、そして何より、「自分」という人間にとらわれます。
 具体的には自分の地位や名誉、いわゆる世間体にとらわれます。
 こういったとらわれがあるために、人に自分をより良く見せようと思い、苦しむのです。

 つまり、自分を見る世間が悪いのではなく、世間に自分をより良く見せようとする自分自身に問題があるのです。他人のせいではないのです。しかしそこを理解できず、他人のせいにする人が多すぎます。苦しみの原因は自分の心、とらわれた心にあるのです。

 また、人間の価値を、お金を稼ぐ能力で測ったり、その他の能力で測ってしまいがちですが、能力で人の価値を決めるのは間違いです。
 どのくらい「人間本来の心」を保っているか、そこで人間の価値を決めるべきです。いかにお金があろうと地位が高かろうと、人間本来の姿から遠く離れた人を尊敬するのは間違いです。いかにお金を稼ぐ能力が低かろうと、それで卑屈になるのも間違いです。

 怒りも恨みも妬みも、モノや自分自身へのとらわれから生じ、自分自身を苦しめます。そのような思いを捨てなくてはいつまでも苦しみから逃れられません。欲望に振り回されない心、足ることを知った円満な心を築いていく必要があります。

 とらわれを捨てた心は穏やかで素直であり、信念や志によって支えられており、自由で、それでいて義務感や責任感もあり、一人の人間として独立しております。何ものも自分の心を侵すことはできないのです。つまり、真の意味で自分を不幸にできるのは自分だけなのです。そして真に自分を幸福にできるのも自分だけなのです。

 そういうことを、本来は、誰でも心の奥で解っているはずなのです。その「心の奥の声」に素直に従って生きるのが正しいのです。


   三 男女の問題


 男と女は肉体が違います。肉体と心は互いに影響を及ぼし合います。よって男の心と女の心は違うということになります。そういったことは現代科学で証明されつつあります。

 そもそも自然界が男と女を造った以上、それぞれ何かしら役割分担があるはずです。男の心と女の心が違っている以上、ものの考え方も違い、得意分野が違ってくるのが当たり前です。「男女の生物学的な違い(セックス)と社会的な違い(ジェンダー)は別だ」というのは間違いであり、社会的な役割は生物としての違いから自然に発生します。ジェンダーはセックスから自然発生するのです。

 そもそも外で働いて金を稼いでくる行為を、家庭を守る行為よりも重要なことだなどと勘違いするから、家庭を守ることに意義を見いだせなくなり、「外で経済活動に加わらなくては人間として価値がない」かのように誤解するのです。これはみな、金というものを基準にした考え方であり、「経済の奴隷」としての考え方だと言えます。

 経済の奴隷であることをやめて広く見渡してみれば、「子供を産む」という、女性にしかできない役割は、「未来の社会を築く」という、立派な社会貢献であります。こんなに重要な役割を放棄して、自分が社会で直接貢献(あるいは自己実現)しなくては気が済まないというのは、いささか自然に反していると言えます。少子化が進めば人類は絶滅するわけですが、それは「女性が子供を産まない」ということが自然の摂理に反したあり方だということを意味します。

 男と女は違うのですから、互いに違いを理解し合い、相手を見下すことなく、相互に尊重し合い、補い合い、感謝し合い、手を取り合って生きていくのが正しい男女のあり方です。

 真の男女平等は互いの違いを無視することではなく、逆に互いの違いを尊重し合い、生かし合い、男は男として、女は女として認められることで初めて成り立つでしょう。

 また、女性が安心して子を産み育てられるようにするには、今のように「人を簡単に解雇する社会・人間を金儲けの道具として扱う社会」であってはいけないでしょう。将来に対して安心感がなくては子を産むことができません。社会のあり方を少し昔に戻さなくては、女性たちは子を産む気にはなれないでしょう。ただ、その「少し昔」というのは、安定雇用の時代でもあるとともに、女性がまだ本格的に社会進出しなかった時代ということになるでしょう(さもなくば、子を持つ女性の働き方に大きなゆとりを持たせる必要があるでしょう)。
 社会に出る自由・権利はもちろん女性も持って然るべきですが、女性の皆さんには「将来の社会を背負っているのは私たち女性だ」という誇りを取り戻していただきたいところです。
 男性は現代社会に貢献し、女性は未来社会に貢献するということになるでしょう。男が子を産めない以上、そういうことになるはずです(独身のまま、子を産まずに生きる女性を否定する気はありませんが、人間社会全体を大雑把に見ればこういうことになるでしょう)。

 また、男女関係が乱れに乱れていますが、相手を愛する前に肉体関係を持ってしまうと、相手を愛しているのかそれとも単に相手に性的欲求を持っているだけなのか区別がつかなくなるでしょう。真の愛情を味わえなくなってしまいます。これは人間として非常に不幸なことですし、真の愛情を知らない人が子を持った場合、その子も真に愛されずに育つかも知れません。そうなればその子は不幸な大人になります。これでは人類の未来は真っ暗です。
 真の愛情を知るためにも、簡単に肉体関係を持つことは避けるべきです。

 そして、自由だ権利だと言って離婚したりシングルマザーになったりすると子供がいかに苦しむかということを考えなくてはなりません。自分の幸福しか考えない人は結果的に不幸になります。他者の幸福を考える人こそ、結果的に幸福になります。

 男と女は助け合わなくては生きていけませんし、社会が成り立ちません。互いに蔑視したり敵視したりするのをやめ、歩み寄り、語り合い、理解し合い、信頼関係を築き、手に手を取り合ってより良い社会を造っていこうではありませんか。


   四 家庭問題


 家庭は社会の最小単位です。人間にとって最も安全で、心安らぐ、愛に満ちた充電場所であらねばなりません。

 ところが権利意識に目覚めた人間は、家族すら大切にできなくなり、銘々が勝手に生きて他者に愛情を注がなくなってきました。

 その結果はどうでしょう。子供たちは愛情不足のために自信が持てず、成長しても自分を肯定できず、他人の目ばかり気にして、「自分が周囲に受け入れられているか」ということばかり心配するようになりました。逆に、愛情と甘やかしの区別がつかない親が子供を自分のおもちゃのように思って甘やかした結果、子供は成長して身勝手に振る舞い、罪悪感も持たず反省もできなくなっています。

 ご老人も安心して生活できなくなりました。それ以前に、家庭の核である夫婦が、互いに譲り合うことができなくなり、自我をぶつけ合い、家庭を崩壊させています。

 家庭は安全な充電場所どころか、最も危険な場所になりつつあるでしょう。悲劇を生む温床にもなっています。

 その原因はひとえに、自分のことしか考えないあり方、自我・我執にあります。なぜ自分を少しだけ犠牲にして大切な家族にその分を譲る、という簡単なことができないのでしょうか。それぞれがほんの少しずつ譲り合えば、それだけでもずいぶんと違った家庭になるはずです。

 他方で、家族それぞれが遠慮ばかりして本音を言えない、という家庭もあります。愛情による信頼関係ができていない家庭です。家族に対してすら、自分をよく見せようとして仮面をかぶります。これはもはや家族とは言えません。赤の他人です。

 再び家庭を安全な場所に戻して行かなくてはなりません。それには家族の誰かに期待するのではなく、あなたが、まず率先して愛情表現をすることです。感謝の言葉を口にすることです。家族のための行為をすることです。「なぜ私が」、「あの人が先にやればいい」などと言っているといつまでたっても幸福な家庭にはなりません。

 そして、子供は一人の人格であり、親のおもちゃではありません。子の個性を尊重して受け入れるべきであり、子を自分の思い通りにしようとして思い通りにならないと虐待するとか、ペットのように「自分の疲れを癒してくれる存在」として甘く扱うなど、自分本位な育て方をしていると子供が健全に育ちません。その場合、その親は、成長した我が子が精神を病んだり異常行動を取ったりすることで自分自身も悩まされることになります。自分のしたことが子供に表れて自分に返ってきます。

 家庭を再び愛に満ちた、寛容な、包容力のある、明るいものにしていかなくてはなりません。夫婦が愛し合い、老人が知恵を生かし、子供が伸び伸びと育つ、光に満ちた場所にしていきましょう。


   五 社会人問題


 人間は一人では生きていけないために社会というものを作りました。つまり、そもそも社会は助け合いの場であって、戦いの場ではないということです。それがいつの間にか、弱肉強食の戦いの場であるかのようになってしまいました。

 本来は、富める者は貧しき者を、強き者は弱き者を、優れた者は劣った者を助ける場であり、相互に生かし合い、補い合って感謝し合う場であったはずです。それを現代人はすっかり忘れています。

 いかに能力の高い者であっても必ず、他者のおかげを被らなくては生きていけません。こんな簡単なことも解らない者は能力が高いとは言えません。
 他者のおかげを被っていることが解ったならば、そのことを感謝し、自分もまた他者のために尽くすことで社会はより良いものへと発展していきます。
 度を超えた競争は、人間の心をすさませ、敗れた者の怨念を生み、勝者はやがてもっと強い者に敗れて仇を討たれ、それが延々と続くだけの世となります。

 社会は自分の力を誇示したり、その力を自分一人のために生かそうとする場ではありません。それぞれが自分にできることを請け負って、役割を忠実に果たして、誰もが安心して暮らせるように努力していく場です。身勝手な生き方をする人が増えれば増えるほど、その人たち自身はもちろんのこと、社会全体が不幸になっていくばかりです。

 人間を金儲けの道具のように思って使い捨てる企業はあってはならず、また労働者も、自分一人の利益を引き出すために企業を食い物にするようであってはならないでしょう。労使がともに感謝し合うようでなくては良い職場にはなりません。

 ただ、基本的には、いかなる社会であろうと、一人一人が心のとらわれを捨てていくことで幸福になることができます。よって、不幸をすっかり社会制度のせいにするのは間違いです。
 とはいえ、そういう人は多くはいませんから、自分の心を見つめることのできない人たちのためにも、やはりできるだけ良い社会を作っていかねばなりません。

 社会においては、立場が上であればあるほど、自我を脇に置いて人々のために奉仕しなくてはなりません。上の人たちが率先して身勝手な生き方をしていたのでは社会は成り立ちません。

 また、一般の人たちも、上の人たちのせいにばかりするのではなく、各自が自分の人生に責任を持ち、自らできる範囲内で社会を正していく努力をするべきです。「生きづらさ」を社会のせい、上の人たちのせいにばかりしていてはいつまでたっても幸福にはなれません。「いつか誰かが何とかしてくれるだろう」と思うのではなく、自分が今できることをしていくのです。それなくして社会の改善は不可能です。

 互いに奉仕し合うことで社会は良くなっていくということを思い出して下さい。「まず周囲の人が私に奉仕すべきだ」と思うのではなく、まず自分が手本を見せることです。それにより周囲の人も少しずつ変わっていきます。社会は個人で成り立っているのですから、まずあなたという個人が動く必要があります。

 ここでも他の問題と同様、我執を捨てて、つまり自分へのとらわれを捨てて、他者を生かし、互いに生かし合うことの重要さがお解りになるでしょう。


   六 人間関係全般


 現代人は人に良くしてもらうことばかり求め、自分が人のために尽くすことも感謝することも、恩に報いることも考えなくなりました。
 みんなが権利ばかり主張し、求めるばかりで与えなくなったならば、社会はそれで崩壊しますし、個人の幸福もあり得ません。

 人間関係で悩む人が多いですが、大抵は自分を他人に良く見せたいとか他人に良くしてもらいたいという欲求が満たされないことからくる悩みでしょう。
 他人に親切にしてもらいたければ、まず自分が日頃から周囲の人に親切にすることです。与える前から要求するようでは何も得られません。当たり前のことです。

 人に良く思われたいという思いは自分のことしか考えないことからくる思いです。そういう思いが強ければ強いほど苦しくなります。
 自分という人間を少し脇に置いて、相手のために尽くしてみれば、結果的に相手に良く思ってもらえます。ただし、相手に良く思ってもらいたくて尽くすのであれば、そういう下心を見抜かれてかえって嫌われます。

 簡単なことなのであって、とにかく自分を思う心を軽くしていき、相手を思う心を強めていけばいいのです。「人にこうしてもらいたい、自分はこれだけしてやったのだから報いが欲しい」といった思いが強ければ強いほど、人間関係は悪化していきます。

「この人は私のために何をしてくれるのか」を考える前に、「私はこの人のために何をしてあげられるか」を考えましょう。そういう、自我を脇に置いた生き方をしていれば、自意識過剰になって人目ばかり気にすることもなくなり、人から愛されもしますし、余計なストレスを感じずに済むでしょう。

 我を張れば張るほど、その人の対人関係は悪化し、孤立していきます。


   七 禅僧 山田無文禅師の言葉


「大学で一箇半箇の秀才ばかりを教育しておる先生もあるが、秀才の教育ならば、誰でもすることだ。自分の身のまわりのこともできないような知恵遅れの子供たちを、自活のできる子供に育てていこうと教育している先生たちこそ、本当の先生ではないか。本当の菩薩行ではないか。
 秀才ばかりが集まる大学では、その秀才のために、先生が手も足も出ん始末だ。このごろも、ある精薄の学校の運動会に行った。ヨーイドンで走る。一番先を走っておる子が、途中で靴のヒモがとけて、そのヒモを結んでおった。すると、後から行ったものが皆それを追い越さずに、靴のヒモを結ぶまで待っておった。それからまた皆な一緒に走り出した。これこそ仏さまだ。人をおしのけて、自分の成功だけを考えるような利口者はここにはおらん。秀才教育が本当か。この知恵遅れの子供たちが自活できるように教育していくのが本当か。」

「良寛はうたっておる。

  形見とて何か残さむ春は花
       夏ほととぎす秋はもみじ葉

良寛が死んでも残す物は何もない。本来無一物だ。良寛が死んだら一箇の無縫塔を残してやる。それは何か。春は花、夏ほととぎす、秋はもみじ葉。全世界がそのまま良寛だ。春は花を残しておくから皆さんよろしくご覧なされ。夏にはほととぎすの鳴き声を残しておくから、良寛の形見だと思って聞きなされ。秋には全山一杯の紅葉を残しておくから皆さんよくご覧なされ。全宇宙が良寛だ。良寛はもうそこらにはおらんが、後に残った全世界がそのまま良寛だ。良寛はそう言って亡くなった」

「蓮の花と蓮根と全然別の物だと言うならば、分別に落ち、対立的な意識に落ちてしまう。何もかも対立で、そこに調和の世界というものはなくなってしまう。凡夫と仏とは対立だ、金持ちと貧乏人とは対立だ、資本家と労働者とは対立だ、ということになると、お互いが調和のできる世界というものはなくなって来る。心境未だ忘ぜず。心は主観であり、境は客観である。主観と客観とは別物でないというのが、仏法でなければならん。見る我と見られる花とは別物ではない。見る我と見られる月とは別物ではない。心境不二だ。そこに仏法というものがある。
 ノーベル文学賞の川端さんの講演ではないが、「日本の美と私」という題を書かれて、それを消して「美しい日本の私」という題に直された。
「はなはだおこがましい演題だが、この『の』の字に複雑な意味があります。美しい日本を語ることは私を語ることです。私を語ることは、美しい日本を語るよりほかに語ることはない。美しい日本と私とは別物ではないから、美しい日本の私であります」
と。そこが心境不二だ。見る我と見られる世界、主観と客観とは別物ではない。親と子ではない、親の子であり、子の親である。先生と生徒ではない、先生の生徒で、生徒の先生だ。社長と社員ではない。社長の社員、社員の社長でなければならん。これが東洋流、日本流である。これがヨーロッパ流に、親と子、先生と生徒、社長と社員になるからいかん。
(中略)
そういう対立的な意識になって来ると、対立は対立を生んで、解決する時はなくなって来る。ゲバ棒を振るっておる学生がそれだ。大学は敵だ、教授は敵だ、政府は敵だと、すべてを敵だと思っておる考え方がヨーロッパ的だ。ゲバ棒を振るっておるやつが、今度は内輪もめをしてくる。内ゲバだ。その中でまた分かれて来る。このごろは内々ゲバだ。これでは平和の来る時はない。広島の原爆反対の運動でも、二つにも三つにも四つにも分かれる。おかしな話だ。原爆をやめよ、そういう恐ろしい武器を捨てようという運動だったら、人類全体が団結せねばいかんはずだ。皆が納得せねばいかんはずだ。そこに対立的な宗派根性があるから、思想の対立や団体の対立があるから、収まる時は来んのである。(中略)そういう理論上の対立、感情上の対立、思想の対立、そういう対立のあるうちは平和などは来るはずはない。」

「真に悟りの眼を開いて、我というものがなくなり、我の分別がなくなり、我の判断がなくなり、鏡のような清浄(しょうじょう)な心になるならば、山が来れば山を映し、河が来れば河を映す。花が来れば花を映し、鳥が来れば鳥を映す。鏡は、山とも河とも思わん。花とも鳥とも思わん。皆な同じことだ。前に来たものは現象として皆な同じことだ。富士山を大きいとも思わん、道端の石コロを小さいとも鏡は思わん。太平洋を大きいとも、茶碗の水を小さいとも思わん。太平洋を大きいと見ていくのは、人間が生まれてから覚えた知識だ。茶碗の水はわずかだというのは、経験から出た判断だ。そういう人間の判断や知識にとらわれるからいかん。生まれたままの心は、鏡のような心は、神のような心は、太平洋も茶碗の水も同じ価値に認めていかなければならん。富士山も石コロも同じことだ。金持ちも貧乏人も、年寄りも赤子も、善人も悪人も、同じこことして受け取っていかなければならん。しかも、前に坐ったものと鏡に映ったものとは同じだから、心境不二、我と相手とは別物ではない。前に坐った者が泣けば、鏡の中も泣く、前に坐った者が笑えば、鏡の中も笑う。相手の悲しみを我が悲しみとし、相手の喜びを我が喜びとする、それが鏡でなければならん。神の心であり、仏の慈悲でなければならん。」

「心眼を開いて見るならば、見るものがすべて新しく、見るものがすべて美しく、見るものがすべて真実である。(中略)見渡す限りのお浄土である。
(中略)眼さえ開ければ、このままがお浄土、成仏のはずである。(中略)心眼を開くことが、禅ということでなければならん。人生の一番大事なことでなければならん。社会を改造する前に、自分の心の眼を開かねばいかん。無眼子(むがんす)がなんぼ騒いでも社会の改造はできん。心の眼を開くならば、足元の石ころが光明に輝き、頭上の青葉がそのままお浄土の光明に輝かねばならんはずだ。
(中略)道端の一木一草、スミレの花、タンポポの花、若草の芽がいちいち呼び掛けて来る。いちいち光っておる。」

「人間の値打ちは銭を儲けることではない。出世をすることではない。物が豊かになることではない。何もない所で楽しめる心の豊かさをつかむことが一番大事ではないか。心さえ豊かになれば、天下に求めるものは何もない。そういう境地を開かねばならないし、そう開かれるものを皆な持っておるのだ。その心をほっておいて物の世界にばかり走るから、今の世の中、生き甲斐がないと言われるのだ。何がなくても、食うものがなくても、着るものがなくても、このままで満たされておる人は、どこへ行こうが、どこに坐ろうが天下太平だ。」

「何も寺で坐るだけが坐禅ではない。その時その時、その場その場、自分を忘れることが坐禅だ。何もかも忘れてその事その事になることが坐禅だ。このごろもタクシーの運転手がなかなかいいことを言うておった。
「私はこうしてハンドルを持っておる間が極楽ですよ。ハンドルを持っている間は何も考えません。借金のあることも考えません。夫婦喧嘩をしたことも考えません。子供のことも考えません。考えたら事故を起こしますから、ハンドルを持った間は何も考えんことにしておる。何も考えんということが一番嬉しいことですなア」
と。運転手の坐禅だ。なかなか悟っておるではないか。そう分かるならば、十方壁落(へきらく)無く、四面亦た門無しだ。十方世界、どこへ行っても壁はない。自分を閉ざすものは何もない。東西南北どこへ行こうと思いのままだ。そういう境地がそこに開かれなければならん。」

「このごろ、カナダの首相が万国博に来て、禅の話を聞きたいとわざわざ妙心寺にやって来た。山内を拝観して、霊雲院を訪ねて来た。飛行機の中でも禅の本を読んで来たという。大学教授から総理大臣になったほどの男だから学者だ。なかなか厳しい質問をした。三十分しか時間がなかったが、最後に、
「私のような政治をやっておる俗物が、禅を分かるにはどうしたらいいか」
と言うから、老衲(引用者註・ろうのう・自分のこと)、話してやった。
「ヘリゲル博士の弓と禅という本を読まれたかどうか知らんが、ヘリゲル博士は日本へ来て弓道をやって禅が分かったと言われた。的(まと)が自分になる、これが弓道だ。的が自分になれば、当てようと思わんでも的に当たる。そこでヘリゲル博士は弓をやって禅を悟ったと言われるのである。人民が自分になる。それがあなたの禅だ。人民の苦しみが、あなたの苦しみになる。人民の喜びがあなたの喜びになる。人民が自分になった時、あなたは無になるのだ」
こう言ったら、「よく分かった」と言って帰って行った。」

「趙州和尚は、「如何なるか是れ石橋(引用者註・「石橋とは何ですか」という意味)」と問われ、「驢(引用者註・ろ・ロバのこと)を渡し馬を渡す」と答えたが、この境界が分かるか、どうじゃナ。道踏めども怒らずだ(引用者註・道はどんなに踏まれても怒らないという意味)。表の大道はバスも通れば、トラックも通れば、犬も通れば、猫も通る。馬が小便もすれば、牛がクソも垂れる。しかも黙って、黙々としてすべてを渡しておる。驢を渡し馬を渡すだ。こういう趙州の境界が分かるか、どうじゃナ。すべてを乗せて、我を殺して黙々として、我見人見すべてを殺し尽くして(引用者註・自分の立場からの見方や思慮分別に基づく見方を捨てて)、衆生済度(引用者註・人類救済のこと)をしていかれる趙州の境地だ。(中略)

 人をのみ渡し渡しておのが身は
      岸に上らぬ渡し守かな

修行者はこういう境地でなければならん。(引用者註・「他人をひたすら救って、自分自身の救いは考えない」といった意味)
 先師清拙和尚(引用者註・せいせつおしょう・無文禅師の師匠)がよく話されたことじゃ。徳光院におって、龍淵老漢(引用者註・清拙和尚の師匠)のところで悟後の修行をし、最後の仕上げをして、印可をもらった。龍淵老漢に、
「おまえのような横着なやつは一ぺん四国を遍路して来い。四国を乞食して回って来い」
と言われて、四国八十八カ所を遍路して回った。阿波の一番から土佐へ出て、伊予へ出て、伊予の大洲を通って、大洲の先へ行くと、十夜(とよ)ヶ橋というところがある。弘法大師が遍路をされる時に、その村へ来て、「旅の出家だが、今夜一晩泊めてもらいたい」と言って頼んだところが、どこの家でも断られた。とうとうその橋の下で野宿をされた。その野宿をされた時に、弘法大師が歌を作られた。

 行きなやむ浮世の人を渡さずば
      一夜(ひとよ)も十夜(とよ)の橋と思ほゆ

旅の出家に一晩の宿を貸す人間が一人もおらん。こんな邪険な村はない。こういう邪険な世間の人を救ってやらなければならんのや。どうしたら救えるかと思って、橋の下で一晩野宿したら、一晩が十晩ほど長かった、とうとう寝ずに夜が明けてしまった、と。それが十夜ヶ橋という橋だ。お大師さんが橋の下で野宿をされたというので、今では石のお大師さんが、下に祀ってある。その橋の上に来ると遍路さんたちは、お大師さんが下にいらっしゃるというので、そこだけは草鞋(わらじ)を脱いで渡ることになっておる。清拙老漢は皆が草鞋を脱ぐのを見て、
「何だ、何で草鞋を脱がねばならんか。俺も弘法も同じことではないか。俺はそんな素人(しろうと)の遍路みたいに草鞋なんか脱ぐかい」
と、堂々と大手を振って橋を渡った。橋を渡って向こう側に着くと、そこに立て札がある。十夜ヶ橋のいわれと弘法大師の歌が書いてある。

 行きなやむ浮世の人を渡さずば
      一夜(ひとよ)も十夜(とよ)の橋と思ほゆ

何度か読むうちに、涙が出て涙が出て、どうにもしようがない。「俺が悪かった」、こう言って、またもとへ戻って草鞋を脱いで渡ったということだ。こういう話をよくされておったものだ。あの豪放磊落(引用者註・ごうほうらいらく・大胆で小事にこだわらないさま)な和尚にもそういう涙があるのだ。驢を渡し馬を渡す。石橋になって、黙々として、行きなやむ浮世の人を渡して行かなければならん。そういう趙州の境界が分かるか、どうじゃ。この境界を、ひとつしっかりと味わってもらわなければならん。」

医師といい、宗教家(特に禅僧)といい、人を病から救う、人の命や心を救う、迷える人々に光を与える……これ以上の仕事がこの世にあるのでしょうか。


   ● 愛情不足で育った場合


 愛情というものがいかに人間にとって不可欠なものかを考えてみましょう。
 子供の頃から、親をはじめとする周囲の人から愛されなかった、あるいは愛されてはいたものの、愛情表現を充分にしてもらえなかった場合、どんな人間になるでしょうか。

 まずとにかく自分を肯定できなくなります。
 「愛されていない」という思いは「自分はダメな人間だ、この世に必要のない、この世にいるべきでない人間だ」という思いにつながります。従って、自信というものを全くもてません。何かをする場合、常に「どうせ失敗するだろう」と思ってしまいます。  新しい環境に入っていくことをひどく恐れます。その環境にいる人たちが自分を受け入れてくれるとは到底思えないから、そしてその環境でやるべきことを、自分はうまくやっていけないはずだと思いこむからです。

 何とかして人に気に入られよう、愛されようと必死になります。そのためにいわゆる「良い子、良い人」を演じて疲れ切ってしまいます。その様子は見ていて痛々しいほどです。常に自分をより良く見せようとし、それがかえって人の反感を買い、嫌われ、また自信を失うという悪循環に陥るかもしれません。自分にも完璧を要求しますが、人にまで高度なことを要求しがちで、寛容になれません。

 自己否定が原因で摂食障害(拒食症・過食症)、リストカットなどの自傷行為、果ては自殺といった方向に進みがちです。また、愛情不足の人の心には怒りが渦巻いている場合も多いため、攻撃性が外に向けば他者を害する(言葉で傷つけたり、暴力をふるう)ことにもなりかねません。その結果やはり人に嫌われて悪循環に陥ることがあります。

 自信がないわけですから、いわゆるオドオドした人間になりがちで、そういう人はいじめられやすいわけですから、またしても自信を失い、人間不信になり、不登校・出社拒否になって引きこもったりし、悪循環に陥りがちです。

 どこにいても安心できず、常に悪いことが起こるような気がします。また猜疑心の強さも尋常ではなく、自衛のためにナイフを持ち歩くこともあるかもしれませんし、人の厚意を悪意と受け取ったり、非常にねじれた解釈をしがちです。逆恨みをしやすいでしょう。それがもとでやはり人間関係のトラブルを起こし、悪循環にはまりやすいでしょう。

 異性の愛情を求めて次々と肉体関係を持ち、それがもとで周囲の同性から嫌われたり、異性からも信頼されなくなったりと、またしても人が信じられない状況を自分で作り出してしまいます。

 ざっと見ただけでもこれだけ挙げられるのです。いかに愛情不足が大きな問題か、お解りでしょう。子を持つ方々は仕事にばかり熱中なさらず、子供との対話になるべく時間を割いてください。家族旅行などに行くよりも、じっくりと対話をする方がずっと効果があります。

 愛情不足で育った方は、決して絶望する必要はありません。
 人間の心には、どんな育ち方をしようと、人を愛する心が必ずあります。ですからまず、あなたご自身が人を愛し、人のために尽くしてみることです。そうすれば自分に価値があるということも解ってきますし、人を愛する人はまた人からも愛されます。そこで初めて愛されるということがどういうことか体験できるわけです。
 いきなり人を愛すのが難しければ、ペットなり、野鳥なり、植物なり、何でも結構ですから愛してみることです。そうすることで心が健全になっていきます。引きこもっている方も、まずは小さな鉢植えでも買ってきてもらって、毎日水をやり、言葉をかけ、愛情を注いでみてください。
 愛情不足が原因で苦しんでいる方は非常に多いと思われますが、決して諦めないで下さい。

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◇ 愛情不足で育った場合 (下平・記)

‘「心の原風景」〜苦悩の克服’では上記のように述べています。 いろいろの取組の角度とか全体構造から考えてみますと、それはそれでよいのです。 それでも、子育ての本義を考えてきますと、これだけの説明で止めてはいけません。

それは最初に述べたように、人の資質の角度付けは、基本的に生命の天与から満三歳ころまでに仕組まれてしまうからです。

愛情不足の最大原因は、胎内環境・出生環境・幼児期環境で自然のマトリックスがなかったことに起因しているのです。


児童虐待はどうして起こるのか?

虐待する親自身が、自分の出産時に産んでくれた親との絆が充分できなかったことに、総ての原因があります。

人は自己存在を100%容認しています。 それぞれみんな自己存在を主張しているのです。 社会生活の中で共通認識を共有できる場合にはトラブル起こらないのです。

共通認識が成立しないときには、自己認識をお互いに主張することになります。

子育ての認識となっても、この原則はそのまま通用しています。



… 『Magical Child』の本のカバーより … 
最新脳科学が発見した胎児期から幼少年期にかけての脳発達に関する驚くべき新事実を紹介しつつその意味を探り、<自然>が人間の赤ん坊の脳に組み込んだ無限の創造能力を全面的に開花させるにはどうすべきかを具体的に詳述。
さらに、近年増悪の一途をたどる諸々の青少年問題は、胎児期にはじまる母体との<きずな>づくりの失敗に端を発しており、出産・育児にまつわる過ちを正すことなしにその根本的解決はありえないと強調する親、教育関係者はもとより、これから子どもを持つ可能性のある人すべてに読まれるべき総合的人間教育論。

人間の<心/脳>システムは、現在知られている使われ方とは根本的に異なった、より広範な機能を果たすべく設計されている。
人間の遺伝子の中には、想像力に満ちた驚くべき可能性が組み込まれ、開花のときを待っている。
心の内に眠る可能性は奇跡的としか言いようがない。
そしてわれわれは、この可能性を表現したいという原衝動を持ってこの世に生を享けるのである。



 C 児童虐待の実態

   <http://dailynews.yahoo.co.jp/fc%2Fdomestic%2Fchild_abuse%2F#backToPagetop>
   児童虐待 - Yahoo!ニュース#backToPagetop

   09年度に児相で対応した虐待の件数は4万4210件で過去最悪を更新。強制立ち入り調査は1件のみ。

ニュース

過去最多の1853件、県児相の児童虐待相談/神奈川(カナロコ)15日 - 23時0分
10年度の児童虐待相談・通告数、過去最多の1047件/川崎市(カナロコ)11日 - 8時30分
児童虐待:10年度は82件減1593件 相談体制充実の札幌、大幅減 /北海道(毎日新聞)10日 - 10時50分
「妊婦健診の未受診は虐待リスクが高い」大阪産婦人科医会が報告書(産経新聞)10日 - 0時20分
<柏・男児餓死>母親、育児放棄の疑い「健診が不十分」(毎日新聞)8日 - 23時48分
体重5キロ…3歳男児が餓死 育児放棄か 母親を聴取(産経新聞)8日 - 11時24分
<2歳男児餓死>体重5キロ、母から聴取 千葉・柏(毎日新聞)8日 - 2時31分
児童虐待:相談、最多の724件 「市民関心、大幅増に」−−広島市児相 /広島(毎日新聞)7日 - 15時38分
岡山市の対応、検証始まる 長女監禁死事件(産経新聞)7日 - 7時55分
<大阪乳児虐待>傷害致死容疑で父親を再逮捕 大阪府警(毎日新聞)5日 - 23時26分



◇知性と智慧

 『二 心の諸問題』 の中の 7 には「 7 知性と智慧」があります。 それは次のように解説しています。

 知性とは外から入ってきた情報・知識をもとに何らかの認識を作り上げていく機能をいうようです。そのため、限界があるわけです。人が一生の間に知りうることは大型コンピュータ一台が保持している情報より少ないかも知れませんから。
 しかし教養というものは、私が考えるには、人格・品性の陶冶(とうや)に結びついた理解力や知識をいうのではないでしょうか。どんなに物知りでも、人格・品性が劣っていれば「教養がない」と言われても仕方がないでしょう。

 そして今、偏差値の高い大学を出ても、知識を人格の陶冶に結びつけることのできない人が多く、そういう人は「高学歴・無教養」といわれるようです。こういう人は社会に迷惑をかけることが多いでしょう。なまじ頭が良いため、知恵(悪知恵)が働き、仕事もできるでしょうが、人格も品性も磨かれておりませんから、周囲の人に不快な思いをさせることが多く、かつ、自分の逃げ道は常に用意していて、責任は取らなくて済むようになっているのでしょう。そういう人が今の日本をリードしているわけです。
 世間も、こういう人を「立派な人」と呼んでいるようではいけないでしょう。

 一方、智慧(ちえ)というものがあります。
 これは心から湧いてくるもので、無尽蔵のようです。それはあらゆる場面において臨機応変に対処でき、適切に判断し、また善悪の判断のような難しいことも難なくできるものです。本物と偽物の区別もつけれられます。人の心を見抜くようなこともできるようですし、先見の明を発揮することもできるようです。
 智慧は頭脳に頼った「知性」とは比較にならないほど深いもののようです。そしてこれは誰の心にも眠っているというのです。もちろん学歴とは全く関係ありません。仏教では仏智などといいます。
 ではどうやって智慧を発揮したらよいのでしょうか。
 やはり例によって心のとらわれを捨てていくしかないでしょう。少しやってみれば解りますが、「仏智」とまではいかずとも、心のとらわれを捨てていくことで、物事の判断が難なくできるようになっていくことを体験できるでしょう。

 例えば理屈っぽい人は「善」だの「悪」だのと言われると、「何をもって善といい、何をもって悪というのか、神でもないくせにそんなことがどうして解るのか、お前は何様だ」などと言うものですが、心のとらわれを捨てていくことで難なく善悪の判断ができるようになっていきます。しかも自信を持って判断できるようになります。理屈屋さんは頭と口に頼ることが多く、試すことを面倒くさがりますが、頭の中で遊んでばかりいないで、まあ試してみて下さい。

 知識偏重主義になり、知識を多く持つ人が偉い人のように思われ、みな必死に知識を追い求めているようですが、智慧の前には知識など大したものではないということを、皆さんに身をもって体験していただきたいと思います。(もちろん、知識は知識で役には立ちます。)

 知識のない人を馬鹿にするのは間違いです。知識のない人を馬鹿にするような人こそ、智慧のない、心にとらわれの多い、心の醜い、不幸な人です。

(加筆文)  現代日本、特にウェブ上では、人の言うことの「言葉じり」をとらえて重箱の隅をつつくような「揚げ足取り」をし、相手が黙ればそれで議論に勝ったと思うような浅はかな人物が大勢います。小さな知識を見せびらかし、相手の発言の全体像を捉えることもできず(あるいは敢えて全体像を捉えようとせず)、相手のほんのちょっとした一言に噛みついて攻撃する輩が大勢います。こういった人々が力を持ちつつあるのは危険なことですが、これらの人々はみな「私には小賢しさや小さな知識はあっても智慧というものは全くありません」と吐露しているようなものであり、恥を知るべきです。智慧ある人は物事の本質を見抜き、全体像を捉えるのです。



東日本大震災によって、‘自分はどうしてあげればよいのか’という気持で胸を締めつけられ続けました。 「心のあり方はどのようであればよいのか」そのことが最大の、そして目の前の大問題になりました。

相手をやりこませて意気がる政治家には人としての品格も優しさも感じません。 尊敬も感じません。 苛立ちが重なっていくだけなのです。

こんな心の持ちようでは自分が崩壊していきそうです。