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折々の記 2011 D

【心に浮かぶよしなしごと】

【 01 】07/20〜     【 02 】07/27〜     【 03 】08/01〜
【 04 】08/03〜     【 05 】08/09〜     【 06 】08/14〜
【 07 】08/19〜     【 08 】08/22〜     【 09 】08/25〜

【 02 】07/27

  07 27 赤はあか 白はしろ
  07 28 短時ミラクル料理革命
  07 30 父方従兄弟の葬儀
  07 31 大きな古時計
  07 31 林芋村の歌碑

 07 27 (水) 赤はあか 白はしろ

■色紙の言葉



      赤はあか 白はしろ


      斑はまだら


      それがいい

          辛卯文月       水鏡



■山上億良

   山上億良の貧窮問答歌は誰でも一度は目にしたことのある万葉集に載っている歌です。 
   それはこんな問答となっております。
問いの部分

原文

 風雑(まじ)へ 雨降る夜の 雨雑へ 雪降る夜は 術(すべ)もなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜ろいて 咳(しわぶ)かひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 髭かき撫でて 我を除(お)きて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻襖(あさぶすま) 引き被(かがふ)り 布肩衣(かたぎぬ) 有りのことごと 服襲(きそ)へども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢え寒(こご)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 吟(によ)び泣くらむ 此の時は 如何にしつつか 汝(な)が世は渡る

堅塩:固まりになっている粗製の塩、上質の塩に対する語  取りつづしろひ:少しずつ食べる  麻襖:麻でつくった粗末な夜具  服襲へ:着重ねる  吟び泣く:力のない声で呻き泣くこと



風まじりに雨が降り、その雨にまじって雪も降る、そんな夜はどうしようもなく寒いから、堅塩を少しずつなめては糟湯酒をすすり、咳をしては鼻水をすすり上げる。たいして生えているわけでもない髭を撫でて、自分より優れた人はおるまいと自惚れているが、寒いから麻でつくった夜具をひっかぶり、麻布の半袖をありったけ重ね着をしても、それでも寒い。こんな寒い夜には、私よりももっと貧しい人の親は飢えてこごえ、その妻子は力のない声で泣くことになろうが、こういう時には、どうやってお前は生計を立てていくのか。

解説

「貧窮問答歌」は問いとその答えで構成されており、ここまでは問いの部分にあたります。非常に寒くつらそうなのが伝わってきますが、これはまだましな人のようです。次の答えの部分で、もっと貧しい人の様子が描かれています。

答えの部分

原文

天地(あめつち)は 広しといへど 吾が為は 狭(さ)くやなりぬる 日月(ひつき)は 明(あか)しといへど 吾が為は 照りや給はむ 人皆か 吾のみや然る わくらばに 人とはあるを 人並に 吾も作るを 綿も無き 布肩衣の 海松(みる)の如(ごと) わわけさがれる かかふのみ 肩にうち懸け 伏廬(ふせいお)の 曲廬(まげいお)の内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂え吟(さまよ)ひ 竃(かまど)には 火気(ほけ)ふき立てず 甑(こしき)には 蜘蛛の巣懸(か)きて 飯炊(かし)く 事も忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端きると 云えるが如く 楚(しもと)取る 里長(さとおさ)が声は 寝屋戸(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ 斯(か)くばかり 術無きものか 世間(よのなか)の道

    世間を憂しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

山上憶良頓首謹みて上(たてまつ)る

わくらばに:たまたま  海松:海藻の一種  かかふ:ぼろのこと  伏廬:屋根が低くつぶれたような家  曲廬:曲がって傾いた家  甑:米を蒸す道具  ぬえ鳥:「のどよふ」にかかる枕詞  いとのきて:極端に  楚:細い木の枝でつくった鞭  憂しとやさしと:耐え難い、身もやせるように感じる



天地は広いというが、私にとっては狭くなってしまったのだろうか。太陽や月は明るく照り輝いて恩恵を与えて下さるとはいうが、私のためには照ってはくださらないのだろうか。他の人も皆そうなのだろうか、それとも私だけなのだろうか。たまたま人間として生まれ、人並みに働いているのに、綿も入っていない麻の袖なしの、しかも海松のように破れて垂れ下がり、ぼろぼろになったものばかりを肩にかけて、低くつぶれかけた家、曲がって傾いた家の中には、地べたにじかに藁を解き敷いて、父母は枕の方に、妻子は足の方に、自分を囲むようにして、悲しんだりうめいたりしており、かまどには火の気もなく、甑には蜘蛛の巣がはって、飯を炊くことも忘れたふうで、かぼそい力のない声でせがんでいるのに、「短いものの端を切る」ということわざと同じように、鞭を持った里長の呼ぶ声が寝室にまで聞こえてくる。世間を生きてゆくということはこれほどどうしようもないものなのだろうか。

    この世の中をつらく身も痩せるように耐え難く思うけれども、飛んで行ってしまうこともできない。
    鳥ではないのだから・・・。

解説

読んでいて胸が痛くなるような詩です。必ずしも実体をそのまま欠いたものとは言えませんが、作品を裏付けるような現実が存在したことは否めない事実です。ちなみに出典は「万葉集」です。
■色紙について
色紙の文言(モンゴン)は老生の表現です。 実はこの言葉は何であっても構いません。 「アリはアリ、バッタはバッタ、それがいい」と言ってもよいのです。 

在るがままは、在るがままでいいのです。 漱石は49才で亡くなりましたが、自己解釈の根拠を即天去私の四文字に集約したのは間違いのない判断だったと思います。

「それがいい」の‘が’が適切なのか、‘で’が適切なのか迷うところです。 「五蘊皆空度一切苦厄」の度の中核になるものこそ、自己解釈の根拠になるところと思います。 「君は君、わたしはわたし、それがいい」

彫刻は素材をいかように彫ったとしてもいいけれど、命をもっているものを己の思い通りにしようとなるとそれは無理筋で、自己解釈の根拠に齟齬があるのです。
■山上億良:その生涯と貧窮問答歌
    http://manyo.hix05.com/okura/okura.hinkyu.html
   山上億良:その生涯と貧窮問答歌  壺齋散人による

このサイトは本人のプロフィールによると、老生より20才若い方です。 タイトルにあるように生涯の概要と貧窮問答歌に付いてわかりやすい解説を載せています。 ですから、是非開いて一読することをお勧めします。
■壺齋散人による解説

@ 山上億良を調べていると、「山上億良:その生涯と貧窮問答歌」の冒頭の説明が参考になります。
山上億良は、人麻呂、赤人を中心に花開いた万葉の世界にあって、他の誰にも見られない独特の歌を歌い続けた。億良は人麻呂のように儀礼的な歌を歌わず、赤人のように叙景的な歌をも歌わなかった。また、万葉人がそれぞれに心をこめた相聞の歌も歌わなかった。彼が歌ったのは、世の中の貧しい人たちの溜息であり、子を思う気持であり、老残の身の苦しさであった。

A 同じ壺齋散人による「山上憶良:子を思う歌(万葉集を読む)」を見ると、次のような解説も載っている。
  子等を思ふ歌一首、また序

    瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ
    いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて
    安眠(やすい)し寝(な)さぬ(802)

  反歌

    銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(803)

旅先で瓜を出されて食っていると、子どもの顔が思い出される。その子は恐らく、瓜が好物だったのだろう。次に栗を出されて食うと、いっそう子どもの顔が思い出される。子どもとはどこからやってきた賜物なのだろう。その顔がまぶたのうちに焼きついて、寝ることもできない。実に慈愛に満ちた、人間の情愛がここにはある。

反歌は、億良の数ある歌のうちでも、とりわけて有名なものである。この一首には、弱いものへの同情と、幼いものへの慈愛を身上とした、ヒューマンな歌人億良のエッセンスのようなものが籠められている。

万葉集巻二にある次の歌は、大宰府時代に大伴旅人の催した宴会の席上、中座する言訳に億良が即興に作った歌だと思われている。

  山上臣憶良が宴より罷るときの歌一首

    憶良らは今は罷らむ子泣くらむ其も彼の母も吾を待つらむそ(337)

幼い子やその母が、私を今か今かと待っていますので、ここらで中座させていただきたい、そんな気持ちを歌ったのであろう。ユーモアの中に、妻子を思いやる老人の暖かい雰囲気が伝わってくるようである。
■ 色紙と山上億良
なぜ億良について長々と述べたかといいますと、今回の東日本大地震の恐怖と、地獄を再現したような巨大津波の壮絶さ、 さらに原子力発電所の放射線漏れによる居住地放棄、……などなど言葉として言えないような物凄い災害を目にした私たちはニュースを見たり聞いたりするたびにとめどなく涙が流れ、胸が締めつけられていたからです。

世界の多くの人たちから善意の義援金が寄せられ、国内国外にかかわらず人としての心にも涙があふれたのです。

ひるがえって、世界のどの国にしても、金持ちは金に執着しているのです。 アメリカの資産家も日本の資産家も中国の資産家ですら、お金をはたきだして気の毒な人を救ってやろうとする自己解釈の根拠をそなえていない。 戦争という人殺しさえまだ理屈をつけて金儲けのために推し進めているのです。

人が一番大事にしなければならない‘自分とは何者か’という自己解釈と根拠を持っていないのです。

東日本の大震災によって老生の生きる意味についての考え方が間違いなく根をだんだん深くはってきています。
 07 28 (木) 短時ミラクル料理革命

2011年07月27日放送 『ためしてガッテン』を見て、目からうろこが落ちました。 本当のことは本当 !!  理屈に合っていました !!


早速今朝コピーをしました。 

    http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20110727.html
    <暑さも光熱費も激減!時短ミラクル料理革命>

   フタの実力大実験
   蒸気があればなんでもできる!
   蒸気マジックでラクラク調理術

 07 30 (土) 父方従兄弟の葬儀

父方の従兄弟 宮脇初恵(通称初っちゃ) が20日98才で亡くなりました。 父は三人兄弟の末子でした。 長姉が桐生家本家へ嫁ぎ、次姉が‘加志屋’へ嫁ぎました。 長姉は男と女の二人産みました。 次姉は女三人産みました。 20日に亡くなったのは次姉の長女です。 大正3年生まれだというから、老生より15才も年長で子どものころは‘おばさん’の意識しかなかった。

加志屋の従兄弟は、みんな親切で老生を大事にしてくれました。 この‘おばさん’たちのリーダーが‘初っちゃ’で、「よし(好)や」、「よし(好)や」と声をかけてくれましたから、年をとっても懐かしいのです。

戸間口は西向きで、入ると土間が右のほうへ抜けていました。みんな本を読んだらしく家の裏手の屋根裏部屋へ登ると、いろいろの本がありました。 子どもの頃でしたから後片付けをしなかったのでしょう、「よしが来ると、二階へのぼったものだった」と言われました。 ‘ニタリ柿’の味も残っています。 お墓の百日紅のツルツル感も残っているし、堤(ツツミ)での水浴びも覚えています。

子どもの頃の記憶は誰でも後々まで残るんです。 それだけに思い出と感謝の気持ちも強いのです。 しっかりと、‘初っちゃのご冥福’を祈ってきます。

▲ かえるの会あり。 

機械は錆びると動かないし、細胞は古くなると動かない。 水鏡

 07 31 (日) 大きな古時計

〔 曲 〕
<大きな古時計 二木紘三のうた物語>


       百年休まずに  チクタクチクタク
      おじいさんといっしょに  チクタクチクタク
      いまはもう動かない   その時計



   大きな古時計

     アメリカ民謡、作詞:不詳、作曲:H.C.ワーク、 日本語詞:保富康午

 1 大きなのっぽの古時計
   おじいさんの時計
   百年いつも動いてた
   ご自慢の時計さ
   おじいさんの生まれた朝に
   買ってきた時計さ
   いまはもう動かない その時計
   (*)百年休まずに
      チクタクチクタク
      おじいさんといっしょに
      チクタクチクタク
      いまはもう動かない その時計

 2 なんでも知ってる古時計
   おじいさんの時計
   きれいな花嫁やってきた
   その日も動いてた
   うれしいこともかなしいことも
   みな知ってる時計さ
   いまはもう動かない その時計
   (* 繰り返す)

 3 真夜中にベルがなった
   おじいさんの時計
   お別れのときがきたのを
   みなにおしえたのさ
   天国へ昇るおじいさん
   時計ともおわかれ
   いまはもう動かない その時計
   (* 繰り返す)

《蛇足》 ヘンリー・C・ワークは多くのフォークソングを作りました。この曲は、最も成功した作品の1つで、1876年に作られました。この年、アメリカで最も流行った歌が、この歌と「I'll Take You Home Kathleen」でした。

 アメリカでは、この歌はよくブルーグラスとして演奏されます。ブルーグラスは、ケンタッキー州の山岳地帯の民謡から1940年代に派生したカントリー‐ミュージックで、バンジョー、マンドリン、ギターなどで演奏される曲形式です。

 訳詞は3番までですが、原詞は4番まであります。また、原詞が「90年」となっているところを、訳詞では「百年」としていますが、これは語呂の関係でしょう。

 grandfather clockまたはgrandfater's clockは、床置きで背の高い箱形の振り子時計を指す普通名詞になっています。grandfatherだけでも、そのような時計を指すことがあります。これは、C・ワークのこの歌から生まれた言葉です。

 私の祖父は、1週間に1回、隠居部屋のボンボン時計のネジを台に乗って巻いていました。
 その時計は、「おじいさんの身長より高かった床置きの時計」とは全然違い、明治後半〜昭和30年代にかけて、日本の多くの一般家庭にあった八角形の柱時計でした。1時間ごとに打つその時鐘は、今も耳の奧に残っています。

 祖父は、私が中学1年だった3月のある夜、午前1時のボ〜ンという音が鳴ったあと、長男と次男(つまり私の父と叔父)に抱きかかえられ、息子2人の名前をかすかに呼んでから息を引き取りました。
 時計は、その後10数年動いていました。

(二木紘三)

なぜ‘おじいさんの時計’か?

きのう初っちゃの葬儀では、昔からのことを回想して感謝し冥福を祈りました。 夜もじっとそのことを思い、人の生涯の意味をあれやこれや考えていました。

そうして、おじいさんの時計を思い出したのです。 

 07 31 (日) 林芋村の歌碑

きょうはテレビ放送で紹介されていた「売木村の夏祭り 8:00より」へ行ってきました。 トウモロコシを買うのが主たる目的でした。 

平谷村から売木村へ行く途中で林芋村の碑が目にはいり、下条中学勤務時代に藤本三郎先生からお聞きしていたことを思い出して返りにカメラに収めてきました。

【左は拡大図 : 右は林芋村の歌碑】 2011/07/31撮影

  深雪せる野路に小さき沓の跡
  われこそ先に行かましものを
                      林 芋村

歌碑は下伊那郡平谷村、国道153号線と国道418号線の交差点から売木村へ行く国道418号線を1km余進んだ左手の道沿いにあります。 気をつけていけば見落とすことはありません。

解説はPCサイトを参考にします。

平谷村>歴
http://www.vill.hiraya.nagano.jp/contents/0reki.html

林 芋村[芳弥](はやし うそん)
平谷尋常小学校で教員を勤め、教育に対する情熱や苦悩を多くの短歌に残しました。

   深雪せる野路に小さき沓の跡われこそ先に行かましものを

 平谷から売木村へ向かう道ばたの入川地籍にこの歌を刻んだ歌碑があります。この歌は、林芋村先生が雪の朝、今の平谷湖のそばの入川の家から学校へ行こうとするとき、わら沓で深い雪を踏んでいった子どもたちの小さな足あとを見つけ、厳しい冬の朝にも、黙々と自分より先に学校に向かっていった子どもたちへの愛情と自責の念をうたったものです。

林芋村の碑

 林芋村(本名・林芳弥)先生は、千代(現在の飯田市)に生まれ、大正4年(1915)から平谷に代用教員として勤められ、昭和4年4月2日までの15年間という長い間、平谷の学校で教鞭をとられました。芋村先生は、昭和4年4月3日植林デーの日に、息子さんと二人で植林作業中、太い古木の下敷きになってしまい44歳の若さでなくなられてしまいました。

 芋村先生は苦労して尋常科正教員の資格をとりました。(大正11年12月)そのころの教員資格は、試験に合格することによって、次々と上級の資格へ進んだのです。芋村先生が代用教員から、尋常科正教員の資格をとるまで何年もかかって苦労したのは、先生の頭脳のせいではなく、お金と時間の余裕がなかったからでした。芋村先生は、年老いた母と子どもを養育し、谷間の畑を開墾しながら、平谷の子どもたちの教育に情熱を注ぎました。よく詠まれた短歌の中にも、このような「貧乏ひまなし」の状態の中で、独学で努力した歌が残っています。

出典:平谷村誌、民俗資料選集・中馬の習俗(文化庁文化財保護部編)

  http://w2.avis.ne.jp/~kakumatu/23_03bunnka.htm
   <林 芋村>

そして昭和4年4月3日植林中に、太い古木の下敷きになり44歳の若さで亡くなったのでした。

その10年後、教え子たちが「10銭」ずつ出し合ってお墓の碑を建てました。

また「深雪せる・・・」の碑は、林先生が亡くなった3年後に同僚だった『西川繁次郎先生』が、林先生の人柄を残そうと当時のお金で15円(今なら20万円位)の石碑を建てたということです。

  http://park15.wakwak.com/~yoshimo-2/moto.99.html
   <藤本三郎先生講演>

 実は、林先生の歌にこういう歌がございます。

  たらちねの親の心し思いやれば 吾の過ち耐えられなくに

 心しのしは強めのしですね。だから親の心をで結構ですね。親の心し、親の心を、その心をっていう強めの助詞ですね。たらちねの親の、子供を思う心を、しみじみと思いやってみると、俺の日々やっていることの過ちの多いことに、申し訳ない気持ちに耐えられなくなってしまうわ、子供を頼むと言って学校へ頼んでいる親の気持ちを考えれば考える程、俺の日々やっていることが大変に悔やまれて、もう耐えられなくなるよ、というのを、たくさん作られた歌の中から拾い出してみたんです。