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折々の記 2011 D
【心に浮かぶよしなしごと】
【 01 】07/20〜 【 02 】07/27〜 【 03 】08/01〜
【 04 】08/03〜 【 05 】08/09〜 【 06 】08/14〜
【 07 】08/19〜 【 08 】08/22〜 【 09 】08/25〜
【 05 】08/09
08 09 長崎市長の平和宣言
08 12 リニア中央新幹線の心配
08 13 信州のカッパドキア撮影 ■鏝絵(こてえ)
08 09 (火) 長崎市長の平和宣言
6日に続いて長崎市長の「平和宣言」を記録しておきたかった。
長崎市|平和・原爆|長崎平和宣言
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/peace/japanese/appeal/
平成23年長崎平和宣言
今年3月、東日本大震災に続く東京電力福島第一原子力発電所の事故に、私たちは愕然としました。爆発によりむきだしになった原子炉。周辺の町に住民の姿はありません。放射線を逃れて避難した人々が、いつになったら帰ることができるのかもわかりません。
「ノーモア・ヒバクシャ」を訴えてきた被爆国の私たちが、どうして再び放射線の恐怖に脅えることになってしまったのでしょうか。
自然への畏れを忘れていなかったか、人間の制御力を過信していなかったか、未来への責任から目をそらしていなかったか……、私たちはこれからどんな社会をつくろうとしているのか、根底から議論をし、選択をする時がきています。
たとえ長期間を要するとしても、より安全なエネルギーを基盤にする社会への転換を図るために、原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進めることが必要です。
福島の原発事故が起きるまで、多くの人たちが原子力発電所の安全神話をいつのまにか信じていました。
世界に2万発以上ある核兵器はどうでしょうか。
核兵器の抑止力により世界は安全だと信じていないでしょうか。核兵器が使われることはないと思い込んでいないでしょうか。1か所の原発の事故による放射線が社会にこれほど大きな混乱をひきおこしている今、核兵器で人びとを攻撃することが、いかに非人道的なことか、私たちははっきりと理解できるはずです。
世界の皆さん、考えてみてください。私たちが暮らす都市の上空でヒロシマ・ナガサキの数百倍も強大になった核兵器が炸裂する恐ろしさを。
人もモノも溶かしてしまうほどの強烈な熱線。建物をも吹き飛ばし押しつぶす凄まじい爆風。廃墟には数え切れないほどの黒焦げの死体が散乱するでしょう。生死のさかいでさまよう人々。傷を負った人々。生存者がいたとしても、強い放射能のために助けに行くこともできません。放射性物質は風に乗り、遠くへ運ばれ、地球は広く汚染されます。そして数十年にもわたり後障害に苦しむ人々を生むことになります。
そんな苦しみを未来の人たちに経験させることは絶対にできません。核兵器はいらない。核兵器を人類が保有する理由はなにもありません。
一昨年4月、アメリカのオバマ大統領は、チェコのプラハにおいて「核兵器のない世界」を目指すという演説をおこない、最強の核保有国が示した明確な目標に世界の期待は高まりました。アメリカとロシアの核兵器削減の条約成立など一定の成果はありましたが、その後大きな進展は見られず、新たな模擬核実験を実施するなど逆行する動きさえ見られます。
オバマ大統領、被爆地を、そして世界の人々を失望させることなく、「核兵器のない世界」の実現に向けたリーダーシップを発揮してください。
アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国など核保有国をはじめとする国際社会は、今こそ核兵器の全廃を目指す「核兵器禁止条約(NWC)」の締結に向けた努力を始める時です。日本政府には被爆国の政府として、こうした動きを強く推進していくことを求めます。
日本政府に憲法の不戦と平和の理念に基づく行動をとるよう繰り返し訴えます。「非核三原則」の法制化と、日本と韓国、北朝鮮を非核化する「北東アジア非核兵器地帯」の創設に取り組んでください。また、高齢化する被爆者の実態に即した援護の充実をはかってください。
長崎市は今年、国連や日本政府、広島市と連携して、ジュネーブの国連欧州本部に被爆の惨状を伝える資料を展示します。私たちは原子爆弾の破壊の凄まじさ、むごさを世界のたくさんの人々に知ってほしいと願っています。
「核兵器のない世界」を求める皆さん、あなたの街でも長崎市と協力して小さな原爆展を開催してください。世界の街角で被爆の写真パネルを展示してください。被爆地とともに手を取り合い、人間が人間らしく生きるために平和の輪をつなげていきましょう。
1945年8月9日午前11時2分、原子爆弾により長崎の街は壊滅しました。その廃墟から、私たちは平和都市として復興を遂げました。福島の皆さん、希望を失わないでください。東日本の被災地の皆さん、世界が皆さんを応援しています。一日も早い被災地の復興と原発事故の収束を心から願っています。
原子爆弾により犠牲になられた方々と、東日本大震災により亡くなられた方々に哀悼の意を表し、今後とも広島市と協力し、世界に向けて核兵器廃絶を訴え続けていくことをここに宣言します。
2011年(平成23年)8月9日
長崎市長 田上 富久
長崎市長の平和宣言は、一人の日本人として、老生の心に深く深くしみこみました。 有難うございました。
(長崎市長の田上富久(たうえとみひさ)を理解するためには‘田上富久’を閲覧すればいい)
時あたかもリーマンショック以来、アメリカの政治経済の根幹が倫理規範をなくし徹底した守銭奴になってから世界中がこの時流に埋没してしまった様相を呈しています。 ドル不安による世界中の株価低落が続いています。 日本も同様です。 さらに日本の円が買われて円高になり、今日は一時的にせよ1ドル76円台になりました。◆素敵な歌「長崎の鐘」をどうぞ !!
自由主義経済の修正方途が見出せず、「お金をためて何で悪い?」という思想が大手を振ってまかり通っています。 軍需産業が戦争に直結していることを百も承知しながら「お金をためる」ために、殺戮兵器を作っていても法律の規制は何にもありません。 殺戮をものともしない世界経済のあり方は早急に修正しなければなりません。
軍需産業以外の経済活動にしても、企業のため、地域のため、国益のため、という個人尊厳を考慮に入れない経済活動の実情は、倫理の法規制を根底に据えなければならないのです。
誰でもいい、旗印をあちこちで揚げてほしい。
世界中が経済不安におののいています。
藤山一郎 長崎の鐘
検索によりお聴き下さい
何度聞いても美しい名曲。 作詞、作曲、歌唱、全てが揃うと、-ここまで素晴らしいものになるんですね! 以前、藤山先生のステー-ジでは、その透き通る柔らかな美声に窓ガラスがピリピリ振動する-と聞いたことがありました。 さすがです〜♪
長崎の鐘 サトウハチロー作詞・古関裕而作曲
こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
こころの罪を うちあけて
更け行く夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
◆「長崎の鐘」
概要
長崎の鐘は永井隆が執筆した随筆。1949年1月に出版され、紙不足の当時としては空前のベストセラーとなった。同書をモチーフとした歌謡曲はヒット。さらに松竹により映画化され、版を重ねることになった。
随筆
作品は、1946年8月には書き上げられていたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲によりすぐには出版の許可が下りず、GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、1949年1月、日比谷出版社から出版された。
歌謡曲
藤山一郎、池真理子の歌謡曲。作詞サトウ・ハチロー、作曲古関裕而。
1949年7月1日コロムビアレコードから発売された。
また、本作品発売の2ヶ月後、永井一家と交流のあった植本一雄の作詞・作曲による藤原義江の歌謡曲が同タイトルで発表されている。
古関版「長崎の鐘」は、ソプラノ歌手藍川由美の「古関裕而歌曲集」にも収録されている(同CDには、永井博士の短歌に古関が曲をつけた「新しき朝の」も収録されている。もともとその短歌は、「長崎の鐘」を聴いて感動した永井が詠み、古関・サトウ・藤山に贈った歌であった。藤山は自分の作曲による「新しき朝」を「長崎の鐘」に続けてステージで歌っており、古関版の「新しき朝」は藍川のCDが初録音となった)。なお、古関版「長崎の鐘」の歌詞には、原爆を直接描写した部分は全くない(当時の米軍の検閲をはばかったものと思われる)。
ヒットの要因
サトウハチローの詞は単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌であり、打ちひしがれた人々のために再起を願った詞である。古関裕而が作曲し、藤山一郎が優秀な音楽技術で格調高く美しく歌い上げた。 レコーディングには逸話が残っている。1949年4月4日のレコーディング当日、藤山は国内のスケジュールの疲労から体調を崩し40度近い高熱を出し苦しみ、吹込みは後日ということになったが、。式場隆三郎博士と山下清画伯らが関係者がすでにコロムビアのスタジオに来ているということで、妻の運転する車でスタジオに向った。再吹込みする条件で録音したが、、藤山一郎の絶唱がスタッフ・関係者一同の感動を呼び再吹き込みすることなく、そのまま発売した。
08 12 (金) リニア中央新幹線の心配
飯田地方ではリニア駅が設置されるというので歓迎ムードに浸っています。 ところが週刊朝日「談」によれば次のような意見が寄せられています。
一読して正論だと思います。 借金賄の日本が取り組む必要はない。
週刊朝日「談」 2011年8月5日号配信
「リニア中央新幹線、無用の浪費計画」 広瀬隆原発破局を阻止せよ!(18)
東京電力が7月19日にまた、国民に気休めの嘘(うそ)を語る「事故収束の工程表」なるものを発表した。驚いたことに、その計画に、メルトダウンした燃料棒を取り出すことまで謳(うた)っている。瓦礫(がれき)となって崩れ落ちたウランの燃料棒は、一体どこにあるか、誰にもわからないのだ。おそらく2号機では、格納容器の底を破ってすでに地面にめり込んでいると見られるのだから、取り出せるはずがない。加えて、地面にめり込んでいれば、冷却ができるわけがないのに、なぜ冷温停止できるかのように、いい加減な計画を公表するのか。3号機では臨界暴走したとも言われるあの大爆発の実写映像から判断して、使用済み核燃料プールが破壊されているか、燃料が粉々になっていることが想像されるのだ。ところが東京電力は、その使用済み核燃料も取り出すと謳っている。
どこまで国民を馬鹿にするのか。あとは1〜4号機を巨大なカバーで覆って、上空から見えないようにしてしまい、「事故を収束した」と言い張るのだろう。東京電力のおそるべき嘘は、事故を起こしてもなお、反省がまったくなく、今後何十年も果てしなく続く。それだけの歳月、放射能漏洩を隠し続ける気なのか。
さて、この原発にからむ大問題として見過ごしてならないのが、リニア中央新幹線プロジェクトである。
東日本大震災からほんの1カ月ばかりあとの4月21日、リニア中央新幹線計画を審議する国土交通省交通政策審議会の中央新幹線小委員会(委員長、家田仁・東京大学大学院教授)が最終答申案をまとめ、「南アルプスルート」「超電導リニア方式」での建設を明記する文書を提出したので、この非常識さに日本中があきれている。
東京−名古屋間を結ぶリニア中央新幹線プロジェクトは、JR東海が2027年開業を目標として、実験を進めてきた。JR東海は、「東海道新幹線の輸送能力が限界に近い。したがってバイパスとしてリニア中央新幹線を敷設する必要がある」と主張してきたが、ちょっと待ちなさい。東海道新幹線の最近の年間平均座席利用率は、08年度61・2%、09年度55・6%と、ほぼ半分近くに落ち込んで、席がガラガラになっているのである。乗客が急減している時代に、さらに人口の減少が止まらない日本で、まったく無用の長物だということは、子供でもわかるのに、なぜこのような計画が進められるのか、その神経がわからない。
この大学教授たちは、東日本大震災によって東北新幹線が破壊されなかったことをもって、安全だと判断しているが、まったく地震の揺れについて、基礎さえ理解していない人間であることに驚く。東北地方太平洋沖地震では、津波の災害は言語を絶するほど大きかったが、地震の揺れは、3年前(08年)の岩手・宮城内陸地震より小さかったのである。リニア中央新幹線は、おそらく南アルプスを貫通すると予想され、なんと80%以上の路線が、地下40メートルより深い大深度トンネル内となる。構造物には、とてつもなく高い耐震性が求められるのだ。
南アルプスを貫通するルートは、日本最大の活断層である中央構造線と、糸魚川−静岡構造線が交錯する土地を横断する。この一帯における過去の地震の傷跡は、路線ルートのありとあらゆる地域に刻まれている。とりわけ日本の記録上、最大の内陸地震は、1891(明治24)年10月28日に発生したマグニチュード8・0の濃尾地震で、今から100年以上前に死者7273人、負傷者1万7175人の大惨事となった。
【2004/04/06 根尾谷にて撮影(下平)・参考のために掲載】
震源域は福井県から岐阜、愛知県にまたがり、根尾谷(ねおだに)では80キロにわたる大断層が出現して、上下方向に最大6メートル、水平方向に最大8メートルのずれが起こっているのだ。このような大地震では、長大な活断層の激動によって巨大な岩盤に亀裂が生じるので、いかなる耐震性をもってしても、トンネルも線路も一撃で吹っ飛び、破壊されてしまう。この大地震帯に、コントロールのきわめて困難な超電導方式で高速鉄道ルートを選ぶこと自体が、常軌を逸している。東海地震の震源域に建設された浜岡原発とまったく同じである。まして東海・東南海・南海の三連動地震が近づいているこの時期に、それに沿ってトンネル工事をしようというのだから、その人間たちの神経が理解できない。
◆巨大な電力消費、原発増設が前提◆
さらにこの大学教授たちは、リニア中央新幹線プロジェクトを、日本が元気になるための計画だと位置づけている。この動機そのものが、見当違いであり、トンデモナイ人間たちではないか。日本で最大の自然を誇る南アルプスの山を破壊するのが、この土建プロジェクトである。駅の設置場所も未定で、環境アセスメントもできていない。用地買収も決まっていない。地元には停車もせず、住民は被害を受けるだけだ。
リニア中央新幹線は東海道新幹線の3倍といわれるエネルギーを必要とする。電力消費を抑制しようと、必死に節電に努めているこの日本で、時速500キロで走行時の超電導リニアの想定消費電力は、1列車で約3・5万キロワットにもなるという。この新幹線が必要とするのは、原発数基分に匹敵するエネルギー量になる。JR東海は自前の発電施設を持たないので、当然のことながらこの電力は、新潟県の柏崎刈羽原発や、静岡県の浜岡原発から送ることを目論んで進められてきたのである。今や廃炉が決定的となった浜岡原発の復活論をバックアップするために、福島第一原発メルトダウン事故の直後にリニアのプロジェクトをぶちあげたのであれば、いっそう許し難いことである。
原発の新設・増設を前提に進められてきたという意味で、リニア中央新幹線は、深夜の原発電力で充電する電気自動車と同じ失敗の証明である。こんな巨大な電力を浪費するプロジェクトを立ち上げるその無神経さにあきれる。
この答申案に対して、国交省鉄道局が「パブリックコメント」、つまり意見を公募した結果が5月12日に報告されたが、リニア賛成16に対して、反対648となり、こんなものはまったく不要であると、97%の圧倒的な国民がその建設に反対している。
リニア関連予算があるというなら、それを今年度より即刻凍結し、その大金を東日本大震災の復興資金にあてるべきだ。福島第一原発の不幸な事故によって、電気自動車とリニア中央新幹線の未来が閉じられたことを、メーカーと関係者は早く認識する必要がある。(構成 本誌・堀井正明)
* ひろせ・たかし 1943年生まれ。作家。早大理工学部応用化学科卒。
『原子炉時限爆弾−−大地震におびえる日本列島』(ダイヤモンド社)など著書多数。
今回の連載に大幅加筆した『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』(朝日新書)が5月に緊急出版された。
最新刊は明石昇二郎氏との共著『原発の闇を暴く』(集英社新書).
08 13 (土) 信州のカッパドキア撮影 ■鏝絵(こてえ)
「撮るしん」で信州のカッパドキアの写真を見て驚きました。 この目で見てみようと腹に決めましたから、昨日仕事が一段落したので 10:30 出発し8時間かけていってきました。
丸子の「中丸子寿町」の交差点には‘別所’‘塩田平’方面の案内もあるからここを左折します。 橋を渡って‘依田川橋’交差点を右折、つづいて‘北原南’交差点を左折、登り道になってから‘塩田平方面’は右折するよう標識が出ています。 左かどにセブンイレブンがあるのですぐわかります。
500m位で登り道が終わり塩田平へ入ります。 ここから5〜600m下って行くと左側に(株)藤博建設の縦看板があるので右側を見ると戻りぎみの右折する小路があります。 ここが鴻の巣へのいり口です。
あとは次の資料をもとにすればよいです。
http://park6.wakwak.com/~y_shimo/momo.298.html
<08 04 (木) 信州のカッパドキア>
辺りは閑散としていて、普段は訪れる人とてないらしい。 トイレがあり水のみ場もあって市の管理が感じられます。
【駐車場から見た鴻巣】
看板には次のような説明がしてありました。
上田市指定文化財 鴻の巣■鏝絵(こてえ)
上田市文化財保護条例第五条の規定により左記のとおり指定します。
記
一、 種別及び名称 名勝 鴻の巣
一、 所 在 地 上田市大字富士山字上原守沢 1959-1番地
一、 所 有 者 上田市
一、 指定 年月日 平成十年十一月十八日
今からおよそ2000万年前から500万年前の新生代第三期中新世という時代、このあたり一帯はフォッサ・マグナと呼ばれる海域で、海底には、溶岩や小石・砂・泥などが積もって厚い地層をつくりました。 鴻の巣の岩石は、そのうちの約1300万年前から950万年前にかけて堆積した礫岩と砂岩で、「青木層」と呼ばれる地層の一部分です。
鴻の巣の地層は、地殻変動によって長い年月をかけて海底から隆起するときに圧し曲げられ、北側に40度から60度ほど傾斜しています。 崖に見られる茶色の横縞模様は、隆起後に地層の境目に浸みこんだ鉄分の色です。 砂岩層には、木の葉の化石も見られます。
礫はおもにチャートという岩石です。 他に黒色の粘板岩や硬砂岩、白っぽい流紋岩、それに緑色凝灰岩などがあります。 純粋なチャートは白色ですが、不純物が混ざった灰色・緑色・褐色など様々な色のものがあります。
チャートや粘板岩は、上田小県地方にはない岩石ですので、佐久山地や赤石山脈方面から運ばれたものと考えられます。 また、緑色凝灰岩は、太郎山や独鈷山地籍の岩石で、それが礫として入っていることから、当時これらの山の一部は陸地になっていたことがわかります。
鴻の巣の崖は、幅が東西およそ190m、高さが最高約60mで、堆積岩の崖としては上田市では最大です。 崖のすぐ下を流れる鴻の巣川の浸食によって、地層が削り取られてできたものです。 礫や砂は水を含みやすくもろいので、絶えず少しずつ崩れ落ちています。
鴻の巣の名称の由来は、昔、雁の一種鴻こう(ヒシクイ)か鶴の仲間の?こう(コウノトリ)が営巣した場所と伝えられていますが、確かなことはわかりません。
保存上の注意
●崖の上や谷間には、みだりに入らないこと。
●土砂の採掘や採取を禁ずる。
●植生環境の保全に努めること。
平成十一年三月 上田市教育委員会
左官が使うコテの文字は「鏝コテ」という漢字で、今まで知らなかった。 テレビに出てきたので始めて出会いました。
@鏝絵とは?漆喰彫刻とも言われ、左官職人が鏝を使って描いた漆喰の絵のことです。 と解説しています。
鏝絵とは漆喰彫刻とも言われ、左官職人が鏝を使って描いた漆喰の絵のことです。
材料となる漆喰は土蔵などに使う塗り壁材料で、
消石灰にふのり、にがりなどを加え、これに糸くずや粘土を配合して練ったものです。
鏝絵に使う場合は石灰にカキ灰(牡蠣がらを焼いて作った灰)と砂やふのり(海藻)を
混ぜ合わせ、つなぎとして麻や藁を臼で搗いた「すさ」を練り込み、よく練り上げて
粘土状にします。この漆喰を鏝で盛り上げたり、彫りこんだりして絵を描きます。
漆喰だけを使った白一色のものもあり、顔料と膠を混ぜて鮮やかに着色した
ものもあります。
普通の左官でも何種類もの鏝を使用しますが、
漆喰彫刻を多く手がけた竹内源造は特注と思われる鏝を30本以上も持っていました。
(その遺品が竹内源造記念館に展示されています。)
粘土状にした材料を何種類もの鏝やへらを駆使して練り上げて描くのが鏝絵です。
鏝絵は民家の壁や戸袋、土蔵の扉や戸前の腰壁、妻飾り、窓枠などに
左官がコテでいろいろな絵柄を描いています。
それは家の主人が望んで描かせたものもありますが、
多くの場合、左官職人が施主に対して仕事をさせてもらったお礼として、
その家の幸せと繁栄を願って描いたものです。
☆ 絵柄
a 龍・・・龍は水中に棲み、雲に乗って空中を飛び回る神秘的な動物と考えられ、
水の神様として火事除けのシンボルとして多く描かれています。
b 獅子・・・獅子(ライオン)は百獣の王とも言われ、強い力で
魔物を倒すと信じられています。日本には中国の唐の時代に伝わって
きたので「唐獅子」と呼ばれることが多いようです。
悪魔払いとして描かれます。
c 鶴と亀・・・長寿の象徴として「鶴は千年、亀は万年」といわれ、
縁起がいいのでよく描かれています。
d 恵比寿・大黒・・・幸福と財産をもたらす神様として信仰されている七福神の
中の神様です。
「恵比寿」は漁業・海上の守護神で、大漁の時は市が
立つので、商売繁盛につながります。
「大黒」は大きな袋を背負い、米俵に腰をおろしています。
この袋と米俵は富と財産を表しています。
e 鯉の滝登り・・・中国では、「龍門の滝」を登ることに成功した魚だけが
龍に変身できるという言い伝えがあります。
それで人間も努力すれば立身出世できると信じ、
この絵柄を描くことが多いのです。
★ 見聞するには次の場所を検索するとよい。
@ http://www.genzou-world.net/kinenkan.htm(竹内源造記念館)
A http://www.genzou-world.net/(竹内源造ワールド)
B http://kankou.city.imizu.toyama.jp/www/view/detail.jsp?id=25(グーグルマップ)
A http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%A6%E7%B5%B5(こて絵)
こて絵(鏝絵・こてえ)とは、日本で発展した漆喰を用いて作られるレリーフのことである。
左官職人がこてで仕上げていくことから名がついた。
特徴
大黒様のこて絵(丸亀市笠島)題材は福を招く物語、花鳥風月が中心であり、着色された漆喰を用いて極彩色で表現される。これは財を成した豪商や網元が母屋や土蔵を改築する際、富の象徴として外壁の装飾に盛んに用いられたからである。
芸術への昇華
江戸時代中期から徐々に盛んになり、静岡県松崎町出身の名工、入江長八がこて絵として芸術の域にまで昇華させたが、戦後、在来工法の衰退と共に腕利きの左官職人が減少。一時は幻の技巧となったが、近年、建築の分野で再評価が進んでいる。長八の故郷の松崎町では、毎年「全国漆喰鏝絵コンクール」が開催されている。
こて絵とは
こて絵は、左官が壁を塗るこてで絵を描いたもので、漆喰装飾の一技法。古くは高松塚古墳、法隆寺の金堂の壁画にあり歴史は古い。また天平年間の立体塑にも見られる。具体的には小さなこてを焼いて、それによって紙または板を焦がして描く。焼き絵、鉄筆ともいう。 木で心柱を作り、その外側に荒土や白土にすさ糊を混ぜた材料で作るのがこて絵の源流。 漆喰は、貝殻と木炭を重ねて焼いた灰で作る。
こて絵の起源
紀元前2世紀、空間を壁などで仕切るようになると、壁を塗ることが「免許制」となり始まった。更に戦国時代の築城ブームで草庵茶室などをこて絵で飾った。 武家社会となり、武士が築城するようになると、免許制が改正され家の中にも壁を作るようになる。漆喰は江戸時代に防火対策として幕府が奨励した。塗り籠め造りの建物が庶民に評価された。 土の中に藁を入れるのは、燕の巣を見て、強度を保つため藁を入れるようになったとも言われているが定かではない。
こて絵の色
顔料として土や岩、焼いた貝殻を粉末にし、黒はまつやロウなどのスス、また墨を砕いたものであったりといろいろ工夫がみられた。当時顔料の色数は次の6色のみだった。
赤→紅 = 弁柄 or 紅殻・ベンガラ(オランダ語:Bengala)酸化鉄系顔料
朱色→朱丹、朱砂や辰砂等の天然で得られる硫化水銀の赤色顔料。
青色→キンベル、外国製の酸化コバルト、キングオブブルー
浅黄色→キンベルに漆喰を増量して混ぜる 緑がかった薄いあい色
黄色→黄土
黒、ねずみ色→木墨、松煙 スス
安心院のこて絵
全国で約3000ヶ所、その内大分県だけで約1000ヶ所、安心院(あじむ:大分県安心院町)では約100ヶ所に点在する。こて絵を見学することができるのは、大分県で約600ヶ所、安心院で約60ヶ所である。後は崩落したり、傷んでしまったりしている。
安心院近辺にこて絵が集中して作られたのは、長野鐵道、山上重太郎、佐藤本太郎などの腕のいい左官職人を輩出したことが第一の要因である。中でも、長野鐵道は14人の弟子をかかえ、安心院町龍王に墓も残っている。その墓に14人の弟子の名も刻まれている。
大分のこて絵の先駆者はなんと言っても、日出町の青柳鯉市氏であろう。伊豆の長八のもとでこて絵を習得し帰郷すると、青柳鯉市氏に大分各地の左官棟梁が師事、その中に長野鐵道氏もいたのではと思われる。
次に、漆喰が手に入りやすいことがあげられる。隣町の宇佐市長洲の海は、遠浅になっていることで貝を多く収穫でき、貝殻を木炭と交互に重ねて焼いた灰から漆喰を製造した。そして、安心院は日田や玖珠と中津、別府を結ぶ交通の要となっていたことから、各町村との経済交流が盛んで、比較的生活が裕福な家庭が多かったことにある。
安心院こて絵の特徴:他県のこて絵が精巧で緻密な仕事をしているのに対し、安心院のこて絵は仕事の緻密さよりもユーモラスな雰囲気を持った大らかさにウエートをおいている。巧みの技と賞賛できるものは数少ないが、独自な発想性に富み、左官職人の心意気を感じさせるものが多い。これは安心院固有の風土性や文化を反映していることに外ならない。
★ 見聞するには次の場所を検索するとよい。
@ 大分県宇佐市大字上田1030番地の1
A 大分県宇佐市安心院町下毛 宇佐市安心院町文化会館
B 宿泊は東横インかビジネスホテル、@3800円/2人